鍵田ファミリー勝手応援団−!県都再生!

9月5日決戦!最後のお願いFinal Campaign-赤銅色に日焼けした鍵田忠兵衛候補と”道場の母”、サムライ議員たちの地元での演説会風景未来を創る応援メッセージ掲示板子供の守り仏お地蔵さんの祈り 2004奈良市政再生プログラム-“子どもたちの笑顔が輝(ひか)るまちづくり”を!
奈良市政復興のカギだっ!ちゅーの。

名物市長・鍵田忠三郎氏(市長在任1967-1980)。

近鉄奈良駅前の行基菩薩と噴水。
待ち合わせの合言葉となっているこの風景は
奈良の昔話で詳しく描かれているが、
鍵田忠兵衛氏の父、鍵田忠三郎氏が奈良市長となって3年後の年昭和45年3月、
行基と関係の深い土師氏の伝統を汲む赤膚焼き窯元大塩正人氏により制作された。
 噴水の傍に忠三郎氏が奈良市名誉市民第一号の称号を贈った
文化勲章受章者で奈良女子大学教授の岡潔奈良女子大学教授(1901-1978)の奈良市憲章が並ぶ。
高度経済成長の道をひた走っていた時代、奈良を舞台に「日本の心」を
さまざまな形で汲み上げ、対話するカリスマ・天才たちの面影が浮かぶ。

古都の夏を彩る大文字の慰霊送り火は
まだ戦後の傷が物心両面で癒えなかった1960年に忠三郎氏により創始され、
これは春日万灯会とともに奈良の風物詩となり昭和60年、東大寺の万灯供養の復興が加わり、
そして奈良燈花会へと炎の祭典が展開する嚆矢の役割を果たしたといって過言ではない。

仏都奈良において行基の子孫を自認する公共土木事業や社会福祉事業の取り組み
決死の覚悟で取り組んだ四国遍路武道の称揚、高度成長期において奈良の潜在力を
汲み上げた傑物、カリスマ市長を奈良が得たことは稀有な僥倖といえよう。

剣道をはじめとする武道の復興、特に興福寺ゆかりの宝蔵院流槍術の復興継承、以後の発展は
精神や技の鍛錬と相まって奈良観光にも貢献している。

日中国交回復直後の西安との友好都市締結は横浜に次いで全国二番目という
迅速さであり、かつ、仏心という精神的絆を明確に示したものであり
以後の国内外の友好姉妹都市事業の基礎を作った。
他、お水送りの小浜市、文化伝播の慶州、さらにはスペインメロンの導入が契機となったトレドは
カトリックの司教座があり、また、イスラムとキリスト教を結ぶ
翻訳作業が行われルネサンスを導いた拠点でもある。

みそづくり公民館事業は昨今でこそ健康ブームで
注目されているが、大量生産大量消費に沸いた時代にあって
まさに30年先を見た共同体作りといえた。
 
「老春」という言葉、「万葉」、「シルクロードの終着駅」他いくつも
現在の行政に本質は欠けつつも形式的に継承されキャッチフレーズとなっている
言葉も多い。

その先見性は地震雲の予知を通してインターネットの大海原でも継承されていることに
驚きを新たにしている。

もちろん、その先見性に当時の技術が追いつかなかった課題もある。
その一つとして「緑の奈良」というフレーズが小学校の校舎を緑に塗ることに
とどまったという例が象徴的といえるかもしれない。
しかし、吉野からの帰途高速道路を走りながら全く地域不明にコンクリートの壁面に
ふと奈良の社寺の景観でも描かれていたらと
つかのま考えたことに共通しているかもと思った。

そして、成熟社会となった今、忠三郎氏が提唱したさまざまなアイディアが
その祖父忠次郎氏も含めて奈良本来の潜在力を大きく蘇らせ新旧の出会いを作り
遷都1300年を6年後に控えた2004年、県都再生の叡智となることを願ってこの
応援団HPを立ち上げる。(8月、聖徳太子の月命日の22日、
般若心経200万巻書写達成を目前に病に倒れ、平成6年10月26日に物故された
忠三郎氏の関連著書をご子息忠兵衛氏から拝借したことによる。)

2004年8月24日
  鍵田ファミリー勝手応援団有志


Kagita Family勝手応援団
参考HP(順次承認中)

地震雲ー宝蔵流HPリンクから