後白河天皇
(ごしらかわてんのう)
<登場する章段>
1の12
3の18・19
4の1・4
5の1
6の1・4
7の13
8の1・10
9の1・3
10の2・4・5
11の1・11・13
 <プロフィール>
平安時代末期の第77代天皇。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟の急死により皇位を継ぐ。譲位(じようい)後は34年にわたり院政(いんせい)を行い、法皇と呼ばれる。保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立によって、幽閉(ゆうへい)・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。文治2年(1186年)には大原の建礼門院徳子を訪ねている。
<エピソード>
和歌は不得手だったが、十余歳の頃から今様(当時の流行歌謡)を愛し、その選集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編んでいる。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫(は)れて湯や水を通すのもつらいほどだったと自ら記している。後白河法皇の院宣によって、清盛、義経・頼朝も翻弄(ほんろう)される。頼朝は「日本国第一ノ大天狗(おおてんぐ)」とまでののしっている。(「玉葉」)平家の都落ちの際も、御所から脱出して比叡山(ひえいざん)へ逃げ込んだことが、平家の運命を左右する。
 <名言> (生没年) 1127.9.11〜1192.3.13
是ぞ我まことの孫にてましましける。故院のをさなおひに、すこしもたがはせ給はぬ物かな。
<意味>
これこそ自分のほんとうの孫でいらっしゃるのだ。故高倉院の幼い頃の様子に、少しも違っていらっしゃらない。
法皇は4歳の四の宮の人なつこい様子に涙を流して新帝に選んだ。
このウインドウをとじる