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かわさきツナガリ
俳優 風間トオルさん

かわさきツナガリ  俳優 風間トオルさん

今回は俳優の風間トオルさん(中原区出身)。川崎市が取り組む、質の高い介護サービスによる利用者の要介護度改善や維持を目指す「かわさき健幸福寿プロジェクト」の初代応援サポーターに就任しました。

1962年、中原区出身。数々の雑誌モデルを経て、1989年にテレビドラマ「ハートに火をつけて」で俳優デビュー。「科捜研の女」シリーズでは宇佐見裕也役。バラエティー番組でも活躍中。

■相撲大会で優勝

 西丸子小学校(中原区)に通っていました。小さい頃は結構活発で、学校から帰ったら外で遊んだり走ったりと、暗くなるまでほとんど家にいなかったですね。武蔵小杉と新丸子辺りの公園でよく遊んでいたなあ。

 小学生の時、武蔵小杉駅近くの団地の中にある大きな公園の相撲大会に出ました。祖母がエントリーしたようです。上半身裸になるので子ども心に恥ずかしいな、と思いながらも仕方がなく出場したら優勝しちゃったんです。きゃしゃでガリガリだったのに。賞品はおしょうゆ2升。祖母はそれが目当てだったようで「よくやった」ってほめられました!

■部活と勉強とアルバイトに明け暮れた高校時代

 中原中(中原区)時代は陸上部。そんなに興味はなかったんですけど、たまたま足が速かったので、強制的に入れられた、というところでしょうか(笑)。毎晩多摩川沿いを走っていましたけどね。大会にも出ましたが、成績はどうだったんだろう? 真ん中より上ぐらいだったのでは?勉強はそんなにしていなかったと思いますね。

 高校は県立川崎北高校(宮前区)。学区外だったのですが、仲のいい友達が15人ほど行くというので自分も行こうかなと。高台にあり、緑が多くていいところです。高校の時は一人暮らしをしていました。バレーボール部の朝練の後に授業を受け、部活が終わったら夜はアルバイト。飲食店や、日雇いでワインを箱に詰めたり、港にパレット(板状の台)を敷いたり。毎日2時間ぐらいしか寝てない生活で、バイト代がいい、となると友達と一緒にいろんなバイトしました。

■雑誌モデルから俳優へ

 専門学校生の時に、「Fine」を発行している雑誌社の方にスカウトされました。雑誌の仕事を始め、何年か経ったときに「メンズノンノ」に出るようになり、阿部寛さんと対談のページを持たせてもらいました。そこに浅野ゆう子さんがゲストでいらっしゃって、俳優のお話を浅野さんからいただきました。役者というものが全然分からなかったので、最初はお断りしたんです。

 話をしているうちに、お互い同じテニスコートでテニスをしていたことを知りました。「だったら一緒にやりましょう」ということになり、テニスに通っているうちに、浅野さんから再度「ドラマだけどやらない?」って言われて。そんなに誘っていただけるなら何かの縁かもしれない、と思い「じゃあやってみます」と言って始めたのがきっかけです。「ハートに火をつけて」に出演しました。

 モデルの仕事もよく知らなかったし、最初は俳優になる気持ちもなかったので、今思えば意外とびっくりな展開ですね。

■祖父をケアした経験を生かして

 7月に「かわさき健幸福寿プロジェクト」を推進するための初代応援サポーターに就任しました。何か川崎市に関わる仕事をしてみたいと思っていたので、選んでいただいてとてもうれしいです。子どもの頃、祖父の介護というわけではないですけど、そういうことをしてきたことがあるので、興味がありました。

 祖父と祖母の三人暮らしだったのですが、小学生の時、祖父が認知症になりました。私のこともあんまり分かっていなかったかもしれません。「田舎に帰る」と言っては外に出ていました。祖母は毎日パチンコ通いをしていたので、私が小学校に行っている間は、祖父は外に行きたい放題です。外出中に自分がどこにいるのか分からなくなって、道に迷ったり家の反対方向に行ったりすることもありました。

 とにかく家に連れて帰るのが大変で。家の反対方向に行く、と言って聞かないときは、逆方向に引っ張っていけば「そっちじゃない」と反対側に行くから家に戻れるかも、という作戦もしました。全裸で歩くこともありました。途中で粗相をしてしまった後に壁に伝わりながら歩き、近所に謝りにいったことも。近所の人もある程度知っていたので「大丈夫よ」と言ってくれましたが。

 最近はヤングケアラーという言葉がありますが、子どもの頃は、祖父をケアしている、介護しているという意識は全然なかったです。当たり前のことであって、「俺がやらなきゃ誰がやるんだ」っていうふうに思っていて。今になって「大変でしたね」って言われるんですけど、子どもの時は思っていなかったですね。ただ、小学生でしたから、友達と一緒に帰る途中に祖父が全裸で歩いているところを見て、友達が「わー、すごい人がいる。やべーよ、近寄っちゃいけないよ」って言った時に、自分のおじいちゃん、とは言えなかったですね。そこはスルーして見なかったことにして、一回家に帰ってみんなと別れた後に捜しに行きました。そういう恥ずかしさはすごくあったんですけど、それ以外は、もう自分がやるしかないし、やらなかったらどうなるんだろう、と思っていました。それが自分の置かれた環境だから。

 でも、そういうのって学校にも言いづらいですよね。だったら知らない人のほうが言いやすいかもしれないです。知っている人には言いづらい。私も学校の先生には、そういう話は一切言わなかったです。

 周りの大人も、子どもから言われなかったら分からないですよね。だから子どもがSOSを出すしかないんですけど、それもなかなか出しづらいでしょうからね。結局どこかで子どもと交流しないことにはそういう話にならないので、地域で声を掛ける、ということだと思うんですけど、昔と違って今なかなか子どもに声を掛けられない。名前を聞いちゃいけない、とか。だけどまずは、あいさつですよね。その後も、最初から「大丈夫?」って聞いても「大丈夫」と言われちゃうと思います。聞き出すまでには時間が掛かると思うんです。もう少し市とか町で、なんとかそういう子どもたちに声を掛けられるシステムがあるといいのかな、とは思いますけどね。そういった自分の体験も話ができたら、ヤングケアラーの力になれたら、と思っています。

■介護施設に訪問

 就任後、デイサービスと特別養護老人ホームの2カ所に行きました。最初もっと自由が利かなくて、利用者が「あーしなさい、こうしなさい」と言われるところなのかなと思っていましたが、意外と自由で一人一人のやりたいことを尊重し、それに沿って動けるように職員がサポートしているのですね。みんながすごく楽しそうで、レクリエーションに来ているようでした。

 デイサービスではゲーム形式で、食べ物の栄養素や体にいい物を教えていました。それがまた楽しそうにやっていて。一人で住んでいる人には、帰っても困らないよう、栄養素だけではなく作り方もレクチャーしていました。すごくためになるし、私もためになりました。行く前までは、施設がそんなに楽しい雰囲気だとは思っていなかったので、意外でした。もちろん、ご苦労もいっぱいあると思いますが。そういったことを、介護施設がどんなところかをまだ知らない人に、活動を通して伝えていきたいと思っています。

■思い出の場所、多摩川

 私にとっての川崎は〝原点〟です。最近は、お墓参りで家のあった近くに行くことがあります。

 思い出の場所は多摩川。小学生の時には、自由研究で水質調査をするため下流から上流に向かって何度も歩きました。ほんとによく通っていました。「どうやったらこの川の水が飲めるようになるんだろう?」と、自分のTシャツで漉(こ)して飲んだことも。多摩川を見ると「戻ってきたぞ」という気持ちになります。

 子どもの頃に培ったものは今でも残っていると思いますが、それを作ってくれたのが川崎であり、多摩川の自然なのかもしれないですね。