「どうか平和の道を選んでください。短い間には、戦争の勝者と敗者がいるかもしれません。でも、決して、苦しみ、痛みは消えず、武器が引き起こす生活の損失を正当化できるものではありません」。(1991年1月、マザー・テレサがブッシュ大統領とフセイン大統領に宛てた手紙)
マザー・テレサの声は聞き入れられることはありませんでした。アメリカは62年前にも同じ決断を取り、それは私たちの国に「無差別攻撃」という手段で大きな被害をもたらしました。
第33代アメリカ合衆国大統領
、ハリー・S・トルーマン
の原子爆弾投下へ決定を受け、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。B-29エノラ・ゲイから原子爆弾「リトルボーイ
」が、続く8月9日
、午前11時2分、B-29
(ボックスカー
)から「ファットマン
」が投下されました。
広島に落とされたウラン
235の原爆「リトルボーイ
」はTNT火薬
換算で15,000トン、長崎原爆はプルトニウム
239の「ファットマン
」は22,000トン相当の規模でした。
この二つの原爆は次のようなメカニズムでした。ウィキペディアから引用します。
ガンバレル方式;ガンバレル(gun barrel)方式はウラン
を臨界量に達しない2つの半球に分けて筒の両端に入れておき、投下時に起爆装置を使って片方を移動させてもう一つと合体させ、球形にすることで超臨界に達するものである。広島に投下されたリトルボーイ
がこの方式を採用した。しかしリトルボーイでは、60キログラムとされるウランのうち実際に核分裂反応を起こしたのは約1キログラムと推定されている。その他のウランは核分裂を起こさずに四散した。
インプロージョン方式;インプロージョン (implosion) とはexplosion「爆発」という語のex-(外へ)という接頭辞をin-(内へ)に置き換えた造語であり、和訳は「爆縮」。インプロージョン方式とはその名の通り、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬
を同時に爆発させて位相の揃った衝撃波
を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し、高密度にすることで超臨界を達成させる方法である。長崎市
に投下されたファットマン
で採用された。プルトニウムは自発核分裂の確率が高いため、自発核分裂によって爆発が不完全に終わるのを防ぐためにこの方式が考案された。
この原子爆弾の開発や、その後の核政策への関与に主導的な役割を担ったのがフォン・ノイマンでした。我々日本人は彼の様々な業績を冷静に判断することはできませんが、同じくウィキペディアから彼の仕事を引用します。
ジョン・フォン・ノイマン(1903年 12月28日 - 1957年 2月8日 )は「ハンガリー 系ユダヤ人 の数学者 。20世紀科学史における最重要人物の一人。数学 ・物理学 ・工学 ・経済学 ・計算機科学 ・気象学 ・心理学 ・政治学 に影響を与えた。第二次世界大戦 中の原子爆弾 開発や、その後の核政策への関与でも知られる」。
数学;純粋数学では、数学基礎論
、集合論
や測度論
、作用素環論
、エルゴード理論
、またゲーム理論
の成立に貢献している。数学基礎論
ではゲーデルとは独立に第二不完全性定理
を発見している。
物理学;物理では量子力学の数学的基礎
付けを行っている。
気象学;ジュール・グレゴリー・チャーニー
、フョルトフト
とともに気象力学の草分けの一人。気象学
において数理モデルとコンピュータを使う斬新な手法を持ち込んだ。
経済学;フォン・ノイマン多部門成長モデルによる経済成長理論
への貢献、生産集合
・再生産
の生産システム概念の導入、ブラウワー
の不動点定理
を使い均衡の存在を証明。経済学での、もっとも大きな貢献としてオスカー・モルゲンシュテルン
と共に経済学にゲーム理論を持ち込んだ。この応用をもってゲーム理論の本格的な幕開けとされ、現在経済学ではミクロ、マクロと並ぶ重要な分野として確立している。
計算機科学;EDVAC
開発に参加した際、ストアードプログラム方式
に関する論文を自分名義で発表したためストアードプログラム方式の考案者であると言われていた。彼のストアードプログラム方式は「ノイマン型コンピュータ
」とも言われ現在のほとんどのコンピュータ
の動作原理である。アラン・チューリング
、クロード・シャノン
らとともに、現在のコンピュータの基礎を築いた功績者とされているが、実際にはEDVAC
開発チームのジョン・エッカート
とジョン・モークリー
が発想した方式をまとめ数学的基礎を与えたと言われている。ノイマンはまた、コンピュータ・アーキテクチャの仕事に加えて、アルゴリズム
の研究にも貢献している。
1950年代には様々な仕事を引き受け、特にアメリカ合衆国空軍
へのコンサルティングが増え、1953年に発足した通称「フォン・ノイマン委員会」の答申によって合計6種の戦略ミサイルが開発された。太平洋での核爆弾実験を観測した時や、ロスアラモス国立研究所
で核兵器開発の仕事をしていた時に放射線を浴びたことが恐らく原因となって、ノイマンは1957年に「骨肉腫
」(あるいは「すい臓がん」)を発症した (同僚のエンリコ・フェルミ
も1954年に骨がんで死亡している)。ノイマンの癌は、全身に転移した。
結局、癌発症から数ヵ月後に、猛烈な痛みに苦しめられながら最期を迎えることになるノイマンだが、告知に接してから非常に取り乱していた。例えば3+4を解こうとしてもできなかったり、以前は不可知論 者だったのに結婚時に改宗したローマ・カトリック の司祭と話すことを望んで周囲を驚かし、さらには、それまでに軍に多大な貢献をしたノイマンだが、国家機密を漏らす恐れがあると判断した陸軍により、その軍から厳重な監視病棟に収容されて最期の時を迎えた。なお、ノイマンが国家機密を漏らしたら射殺するよう軍から命令が出ていたという。