木戸孝允(桂小五郎) | 囲碁史人名録

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木戸孝允(桂小五郎)

 

 西郷隆盛、大久保利通と共に「維新三傑」と並び称される桂小五郎こと木戸孝允にも囲碁に関する逸話が多く残されている。


【木戸の生涯】
 木戸は天保4年(1833)現在の山口県萩市に藩医・和田昌景の長男として生まれるが、病弱であった事から和田家では姉に婿養子を迎えている。
 小五郎は七歳の時に自宅の道向かいに住んでいた長州藩の大組士・桂家の末期養子となり武士の身分となるが、翌年に桂家の養母も亡くなったため生家の和田家で成長していく。
 早くから秀才として注目された小五郎は、藩校明倫館で吉田松陰の教えを受け、その後江戸へ留学。
 江戸では三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、免許皆伝を得て塾頭になるなど剣の達人としても知られていく。
 なお、小五郎は松陰門下であるため松下村塾出身と思われがちだが、明倫館時代の教え子であって松下村塾の塾生ではない。
 江戸で多くの志士たちと交流を結び尊王攘夷運動に傾倒していった桂小五郎は、尊王攘夷派の中心人物として長州藩を率いていく。
 当時、朝廷では長州藩に近い尊攘派の公家が権力を握っていたが、文久3年(1863)「八月十八日の政変」と呼ばれる公武合体派のクーデターにより三条実美ら急進的な尊攘派公家や長州藩士が京都から追放される。
 この時、小五郎は偽名を使い京都に潜伏し、後に正式に京都留守居役に命じられ外交活動を行っている。
 元治元年(1864)6月に起こった「池田屋事件」で多くの尊王攘夷派の志士が新選組に殺害されるが、小五郎は池田屋に早く着きすぎたため、皆が集まるまで近くの対馬藩邸へ行っていて難を逃れている。
 池田屋事件は、過激な尊王攘夷派が京に火を放ち天皇を長州へ連れ去る計画を立てているという情報をもとに新選組が会場に踏み込んだ事件であった。
 穏健派の桂は、過激な行動を慎むよう説得するつもりだったと言われているが、多くの同志を失った攘夷派が、この後「禁門の変」を起こしていく流れを止めることは出来なかった。
 挙兵した長州藩が御所を守る薩摩藩らに撃退されると、小五郎は但馬の出石(兵庫県豊岡市出石町)まで逃げ延び潜伏生活を送っている。
 池田屋事件以降、幕府の厳しい探索を巧みな変装でかいくぐり逃走に成功した小五郎は、人々から「逃げの小五郎」のあだ名で呼ばれることとなる。
 朝敵となった長州藩に対し第一次長州征討が行われ、幕府恭順派により攘夷派の粛正が行われ戦いは終結するが、その後松陰門下の高杉晋作らがクーデターによって幕府恭順派を退け、小五郎が藩の統率者として迎えられている。
 なお、この時期に桂小五郎は藩主より木戸姓を賜っている。
 慶応2年(1866)幕府と薩摩藩の関係悪化にともない、木戸は坂本龍馬らの仲介により宿敵薩摩藩と極秘で薩長同盟を結び、薩摩名義でイギリスから購入した武器・軍艦を使い第二次長州征討を勝利に導いている。
 大政奉還により薩長主導による明治新政府が樹立されると木戸は新政府でも版籍奉還・廃藩置県などで中心的役割を果たしていくが、征韓論争により西郷らが下野した政府において、政策を巡り大久保と対立し、明治7年(1874)に台湾出兵決定に抗議して参議を辞職し帰郷する。
 木戸の不在は政府にとって痛手で、伊藤博文・井上馨らは大阪の五代友厚と協力して明治8年(1875)に大久保、木戸が会する大阪会議によって木戸は政界復帰を果たしている。
 その後、病気がちとなった木戸は、明治10年(1877)に西南戦争が勃発すると、西郷軍征討の対応のため明治天皇と共に京都へ赴くが、容態が悪化し京都の別邸にて病死。駆け付けた大久保の手を握り締め「西郷もいいかげんにしないか」と語ったのが最後の言葉と言われている。
 木戸は多くの志士の墓碑が建立されている京都の霊山墓地(霊山護国神社隣り)へ葬られている。霊山墓地の墓はほとんどが招魂碑であるが、木戸孝允夫妻の墓は、坂本龍馬や中岡慎太郎と並び数少ない遺骨が埋葬されているお墓である。
 

木戸孝允の墓(京都市東山区 霊山護国神社)

 

【囲碁の逸話】
 木戸孝允の囲碁の逸話をいくつか紹介する。
 禁門の変の後、木戸は但馬の出石出身の知り合いの手助けで、出石にて潜伏生活を送っている。
 出石では、潜伏先が発覚しないよう、知人の縁故関係の家を転々と移り住んでいくが、その中の一つ、昌念寺では出石藩士堀田反爾と知り合い碁を打って日々を過ごしたと伝えられている。
 堀田は町人の振りをしている木戸がただ物ではない事を薄々感じ取っていたが、特に詮索することはなかったという。二人は明治に入り東京で再開している。

 明治8年(1875)に政府を去った木戸を復帰させるため大阪会議が開催されるが、木戸は事前打合せのため大久保利通の滞在先である五代友厚邸を訪ねている。
 五代は大久保の囲碁仲間で、二人は滞在中に囲碁をしながら過ごしていたが、木戸も大久保と碁を囲みながらはなしを詰めていったと言われている。
 しかし、同じく下野していた板垣退助も参加し行われた本会議では話合いは難航し、さらに懇親会で酒癖の悪い黒田清隆(第二代内閣総理大臣)が泥酔して暴れ出したため会議は決裂寸前となってしまう。
 会談成功の重要性を認識し、このまま決裂させてはいけないと考えていた木戸は、囲碁会を開催してようやく関係を修復、再開された会談により木戸らの政界復帰が決まっている。

 このように囲碁に関する話が多く残る木戸だが、意外にも松陰門下の後輩である伊藤博文は次のように語っている。
 「公は和漢の学問に通じ、詩も作り、文章も作り、書などはなかなかうまかった。文学趣味には十分富んでおられた。碁はあまり好きな方ではなかった。」(伊藤公直話/昭和11年)
 伊藤博文も囲碁好きで知られているので、自分と比べればという事なのか、囲碁は付き合い程度で自分からは積極的に打たなかったのかは不明である。