『大清帝国と中華の混迷』を読む一方で、TVではNHKの大河ドラマ「青天を衝け」を見ています。清と、江戸時代の日本の両方を同時に見ていると面白いです。

 

中国の清朝(1616-1912年)は漢民族ではなく、満州の女真族による王朝でした。それまで漢民族は儒学を学び、漢字を書き、周辺民族を野蛮な民族とする「華夷思想」があった。「夷」というのは、「未開の異民族」という意味です。その未開の異民族が天下を取ったのが清です。

(「華」が漢民族であり、最も高尚と考えていた)

プライド高き漢民族の心中は複雑でしたが、清は、漢民族の儒学だけでなく、周辺民族のチベット仏教、ウイグルの回教にも敬意を払いました。しかし、敵と味方をはっきりとわかるように辮髪令を出したのです。

 

 

漢人は辮髪導入に抵抗しましたが、清朝は辮髪を拒否する者には死刑を以って臨み「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」と言われたそうです。

 

清朝は長かったですから、初期、中期、後期で辮髪の髪型?も少しずつ変化しました。

 

 

 

さて、日本には丁髷がありました。この髪型は室町時代末期くらいから出始めたそうです。主に侍の髪型でした。

 

日本では、なぜ、チョンマゲという髪型が発生したかわかりますか?

結構、手間がかかると思うのですけどね。

 


 

戦いのときに鎧と兜を被って戦ったのですが、兜で頭が蒸れたそうです。その蒸れを防ぐために、この髪型が生み出されたという説があります。

 

そして、町民にもこの髪型は広がりましたが、少し丁髷が違います。

町民は兜など被らなかったのですけどね。

 

 

江戸末期には、日本列島には欧米各国が開国を迫ってきました。国内では「尊王攘夷」(王を尊び、夷を攘う(はらう)という思想が盛り上がりました。君主を尊び、外敵を退けようという考えです。この四文字熟語は春秋時代の中国から来たようです。ですから、同じ「夷」という字を使っています。日本にとっては、欧米諸国が「夷」でした。しかし、中国では、古来から漢民族以外が夷だった。しかし、清朝は、自分たちが夷だった。

 

女真族は漢民族を含む他民族に対して融和政策を行って行きましたが、そこへ欧米列強が侵略にやってきました。英国はアヘン漬けにしようとした。不平等条約を締結させられ、香港などを割譲した。日本まで侵略にやってきた。

 

 

さて、チョンマゲの話ですが・・・

前の会社に私よりも5歳くらい年上の東大卒のインテリの技術者Fさんがいました。彼はやがて研究所長にまでなるのですが、若いときの面白いエピソードがたくさんあります。その一つが、社員旅行に行ったとき、お風呂に入って、誰かが椅子に座って体を洗っていたら、後ろからFさんが近づいて、座っていた人の頭の上におちんちんを乗せて、「ちょんまげ~!」と叫んで笑っていたという話。うちにいる東大卒はかなり変なのが多いのです。

 

 

今日は曇天、在宅勤務です。

明後日、千葉県でゴルフなのですけど、天気はどうなるのか。

それが一番の関心事です。