1883年〜1884年にパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)が朝鮮で撮影した写真が残されている。
ローウェルは、朝米修好通商条約の締結後、朝鮮がアメリカに派遣した報聘使使節団に参賛官として同行し、その後1883年12月末から1884年3月中旬までソウルに滞在した。甲申政変が起きる数ヶ月前である。ローウェルはカメラを携行していて、80枚以上の写真を撮影した。そのうちの61枚がアメリカのボストン美術館に所蔵されており、同館のホームページで閲覧できる(時々接続できなくなるようだが…)。
ローウェルはアメリカに帰国後、朝鮮での体験をまとめた『Chosön, the land of the morning calm ; a sketch of Korea(朝鮮 静かなる朝の国)』(Lowell、1886)を出版し、その初版本にはこの写真のうち25枚が掲載されている。
1888年に出版されたこの本の第3版がLibrary of Congressで公開されているが、第3版には写真は5枚しか収録されていない。
ボストン美術館所蔵の写真のうちの45枚を使ってナレーションを入れた動画がYouTubeにアップされている。ここでは、そこで使われている写真とその解説を日本語訳で掲載する。
アメリカの実業家で天文学者でもあったパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)は、1883年、日本に滞在していた時に朝鮮からやって来た報聘使一行に出会った。朝米修好通商条約締結でアメリカに向かう使節たっだ。ローウェルは駐日アメリカ公使の依頼でこの使節一行をアメリカまで引率する役目を引き受けることになった。
前列左からローウェル、洪英植、閔泳翊、除光範
ローウェルの斜め後ろは日英通訳の宮岡恒次郎
ローウェル 除光範
閔泳翊 洪英植
報聘使から報告を受けた高宗は、ローウェルの労をねぎらって朝鮮に招待し、ローウェルは1883年12月20日に朝鮮を訪れて3ヶ月ほど滞在した。この時に撮影した写真が朝鮮王朝末期のソウルの様子をありのままに伝えている。
ローウェルはこの時の滞在経験をもとに『朝鮮 静かなる朝の国』と題した本を著した。
済物浦からソウルに行く途中にある麻浦ナル。西の方を眺めたアングルで、遠く楊花ナルの蚕頭峰が見える(左側)。峰の形が蚕の頭のような姿をしていることから蚕頭峰と名付けられていたが、1866年の丙寅迫害の時、カトリック信者がここで頭を切られて処刑されたことから、切頭山とも呼ばれる。
麻浦の南には汝矣島の砂浜が広がっている。中央の低い山は羊馬山あるいはヒツジウマ山と呼ばれていた。馬や羊を飼育していたのでその名がつけられた。現在はこの山は削られ国会議事堂が建てられている。
麻浦から北の阿峴の方向を眺めたアングル。中央左手に見える孔徳洞の丘の麓に黒く見えるのが興宣大院君の別荘である我笑亭、右側の丘陵の向こう側に都城がある。
※麻浦の淡淡亭(現在の碧山ビラ(벽산빌라))からの撮影と推定される
現在の安国駅の上の交差点から斉洞方向を眺めたアングル。ローウェルは斉洞に滞在した。この一帯は朝鮮王朝時代の両班が暮らしていたところで、今は北村韓屋村として知られている。
憲法裁判所の前から北方向
ローウェルの宿舎で身の回りの世話をしていた少年がシャボン玉を吹いている。この当時、石鹸は珍しいものではあったが、購入することができた。1882年に、初めて商品化された石鹸を清国から輸入したという。
瓦葺きの店の前に仮建物が建てられている。店の外に売り場を出して物を売る今の店と同じようなやり方。鍾路や南大門路のような通りには、このような「仮家」が多かった。王の行幸があると撤去され、終わると再びこのような「仮家」が作られた。
品物が陳列された店の前の狭くなった路地にカッ(朝鮮式の帽子)のかぶった青年が立っている。ローウェルのために雇用された日本人コックだという。
※朝鮮側でローウェルのために日本人シェフを長崎で雇った。ローウェルが朝鮮を離れる際、この青年は西洋式食堂を開店するとして朝鮮に残った。甲申政変で無事だったかはわからない。(Lowell、1888、p.83)
木の実が並べられているのが印象的。ローウェルによると、柑橘類や干し柿のような果物より栗やクルミのような木の実の方が品質が良かったという。
帽子屋が、店の前だけでなく屋根の上にまで軍帽を並べており、軍人が列をなしている。斜めになった屋根は商品陳列棚としても役立っている。
ソウルの薬屋や医院はクリゲ(銅峴)にたくさん集まっていた。クリゲは、現在の乙支路入口と明洞一帯にあった峠。
水標橋は広通橋とともに清渓川で最も通行の多かった橋。 この頃はまだ橋の欄干がなかったが、1887年に水標橋に欄干が設置された。
通りに人が 溢れている。国王の行幸を見物しようと集まったもので、行幸の時にはソウルの街は見物人で足の踏み場もなくなるほどだった。
この人たちも王の行幸を見物に来たのだろう。そこで、妙な機械を持ち歩いている西洋人を見ることになった。
永禧殿入口の紅箭門は、特に高くて大きい。永禧殿は、太祖をはじめとする歴代の王の御真影を祀った場所で、現在の中区苧洞2街の中部警察署と永楽教会のあたりにあった。
永禧殿は光海君の時に、太祖と世祖の御真影を祀ることから始まり、哲宗まで計6人を祀っていた。
道端で穀物を干している家の前。 暗くてはっきりは見えなが、石臼(ヨンジャパンア)があるようだ。 水の天秤棒を担いだ水売りも見える。
ヨンジャパンア
道端の井戸で白髪の老人が水を汲んでいる。当時みんなが結っていたサントゥ(マゲ)を結っていない姿がもの珍しい。
鐘路の円覚寺址(タプコル公園)のそばにある民家の様子。
南山の斜面に幼い少年が集まっている。瓦屋根の家が下に見えていて、背後には白岳山が写っている。クワを持った子供や飴売りの板を首にかけた子供もいる。
朝鮮の仏教寺院を見たがっていたローウェルは、華渓寺に行くことができた。 華渓寺は宗教施設としてだけでなくハイキングの場所としても人気があった。通訳を務めた尹致昊をはじめ多くの人が同行した華渓寺への日帰り小旅行には妓生も同行した。
親しくなったこの妓生の名前をローウェルは香り高いアヤメと記録している。しかし妓生の名前はアヤメではなく蘭だった。蘭をAillisと通訳したのだろう。これまで伝わっている写真の中で、この香蘭が最初にカメラの前に立った朝鮮女性だと思われる。
華渓寺の境内で公演をする姿。 周りに人がいるが、一人ですべての役割と動作をする一人劇である。 ローウェルがわざわざ記録に残した木魚が後ろに見えている。
목어(木魚)
坂の上に恵化門が立っている。ローウェルは華渓寺に行く途中で恵化門を通ったが、その位置が印象に残ったようだ。両側が急に切れて、足元に屋根が見え、深い渓谷からせり上がった丘に囲まれていると記録している。
※정영진氏の論文によれば、手前に写っているのは弓術の練習に来た人物とその従者だという。
坂の下に都城外側の風景が広がっている。今でも恵化門前の東小門路を通ると高台になっていることが分かる。日本による植民地統治時代に敦岩洞まで電車の路線を延長した時、恵化門を撤去して道路を削っており、元々は今よりもっと高かった。
※恵化町ー敦岩町間の電車が開通したのは1941年7月12日
西大門の近く、現在江北サムソン病院があるところで撮った漢陽土城。仁旺山に沿って城壁がうっすらと見える。
西大門外にあった慕華館の近くの西池。太宗の時に池を作り、開城の崇教寺の蓮の花をここに移植した。漢陽土城の内外に蓮池が3ヶ所あったが、この西池が最も大きくて蓮の花も多く、見物に訪れる人が多かった。
英祖の時、西池の横に天然亭を建てた。毋岳チェを行き来する官員がよくこの天然亭で宴会を開いていた。開港後、天然亭の近くに京畿監営が置かれ、天然亭が日本公使館として提供されて「清水館」と呼ばれた。ローウェルがここを訪れた時には、壬午軍乱(1882年)で清水館が焼かれて、日本公使館の跡だけが残っていた。
南別宮は、太宗の次女慶貞公主が住んでいたところで、小さな姫の住居があったということから小公洞という地名がついた。壬辰倭乱の時、明の将軍李如松がここに滞在し、宣祖が明の将軍に会うために頻繁に訪れたことから南別宮と呼ばれたという。
南別宮は清国の使臣と接見する場所として使われたが、1883年に清国公使(正確には淸国総辦朝鮮商務)として赴任した陳壽棠も南別宮に滞在した。赴任する直前に清国の公使館が完成していたにもかかわらず南別宮を居所とした。清国は1884年7月に南別宮を朝鮮に返還し、のちに高宗はそこに圜丘壇を建てることになった。
景福宮の東門である建春門と遠くに東十字閣が見える。王宮の塀沿いに三清洞川が流れている。少年が立っている向かい側が、今の国立現代美術館ソウル館の場所。三清洞川は1957年に覆蓋され暗渠となった。
慶会楼では、外国の使臣を迎えたり、国の慶事の時に宴が開かれた。
慶会楼の橋の横の門を過ぎると狭い道を挟んでもう一つの塀があり、その向こうに康寧殿がある。慶会楼の塀は日本の植民地時代に取り壊されたが、今は復元されている。
慶会楼の2階から泰元殿方向を望む。泰元殿は景福宮を再建した際、太祖の肖像画を祀るために建てられた。植民地統治下で取り壊され、2005年に復元された。
景福宮の裏門である神武門を出ると青瓦台の前に出る。警護の問題で長い間閉ざされていたが、2006年に開放された。
昌徳宮の後苑の芙蓉池越しに宙合楼と正門の魚水門が見える。宙合楼は正祖の時に建てられた2階建ての楼閣で、1階は奎章閣、2階は宙合楼と呼ばれている。
昌徳宮の後苑、演慶堂の中の濃繡亭で撮影された高宗。高宗が初めて写真を撮られたのは1884年3月10日。立った姿勢、座った姿勢、遠景から撮ったものの3枚の写真が撮られた。
現在残っている高宗の写真はかなりの数にのぼるが、初めて高宗をカメラに収めたのはローウェルだった。
ローウェルは王世子だった李坧(純宗)の写真も撮った。この日、李坧は10歳の誕生日から5日目だった。
領議政洪淳穆は、報聘使の一員だった洪英植の父親。 洪英植が甲申政変に参加して失敗すると、孫と共に自決した。
閔泳穆は当初は開化政策に賛同していたが、閔氏戚族勢力の頭目として浮上し、権力の核心人物となると急進開化派と対立し、甲申政変の時に殺害された。
ローウェルがソウルに滞在した際、彼の世話をした官吏。 外衙門官吏の李時濂(左)は朝鮮を訪問する外国人のサポートを担当し、報聘使で従事官を務めた崔景錫(右)はローウェルの宿舎の使用人を管理した。
輿に乗っているのは初代アメリカ公使ルシアス·フート(Lucius Harwood Foote)の夫人ローズ。朝鮮とアメリカは1882年5月に朝米修好通商条約を締結し、翌年アメリカから政権公使フートが赴任した。
メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff)はドイツ出身の外交官で、朝鮮で外交顧問として活動した。高宗は壬午軍乱の時に殺害された閔謙鎬の邸宅をメレンドルフに下賜した。現在の曹溪寺と寿松公園一帯を占める大邸宅だった。
開港後、外国との交渉が活発になると、英語通訳官を養成するための外国語学校として同文学を置いた。1883年、メレンドルフが統理交渉通商事務衙門の付属機関として設立したが、3年後に育英公院が設立されると、同文学は閉鎖された。