毛屋武久 (けや たけひさ) | げむおた街道をゆく

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毛屋 武久(けや たけひさ、天文23年(1554年) - 寛永5年10月26日(1628年11月21日))は、戦国時代から江戸時代の武将。黒田二十四騎の一人。通称は主水正(もんどのかみ)、武蔵守。幼名は虎千代。初名は田原金十郎。号は文賀。



ー 略歴 -
近江国神崎郡で田原長久の嫡男として生まれたが、織田信長と六角義賢の戦いで父親が戦死したため、幼い「田原虎千代」は六角氏に仕えた書家建部賢文に養育された。元亀2年(1571年)、田原金十郎と名乗り和田惟政に仕えるが、同年のうちに惟政が織田信長に倒されたため、近江国に戻って山崎片家に仕えた。近江の在地勢力である山崎氏は六角氏の配下であったが、情勢を鑑みて織田氏に転属した。
柴田勝家の家臣となった金十郎は、長篠の戦いに参加した際に敗走する味方の蒲生氏郷の軍勢を救出している。また、越前国毛屋畠の一揆を鎮圧した際には、勝家から300石を賜り、その地名に由来する「毛屋」の姓を与えられ、以降「毛屋主水正」と名乗るようになった。その後、賭博疑惑をかけられたため、毛受勝照の力添えを得て勝家の元を退去し、能登の前田利家に3年間80石の扶持をもらって匿ってもらう。天正6年(1578年)の有岡城の戦いには織田方の雑兵として参戦。天正8年(1580年)、摂津国の池田恒興に700石で仕える。天正11年(1583年)、池田家が美濃国大垣城主となった際に致仕し、佐々成政に仕えた。
天正16年(1588年)、肥後の統治に失敗し、国人一揆を引き起こした引責で成政が改易されると、他の佐々旧臣らと共に豊前中津17万石を与えられていた黒田長政に300石で仕官した。天正18年(1590年)、奥州会津42万石の大名となった蒲生氏郷は、若き頃の恩を理由に歴戦の士である毛屋主水を1万石で登用したいと打診したが、主水は「黒田家は唐入り(文禄・慶長の役)が決まっており、その前に退去することはできない。無事に帰ることができたら蒲生家に移籍する」として断っている。唐入りの戦場では経験を基にして数々の戦功を立て、無事に帰還したが、長政の妨害に遭い、蒲生家への転属は行われなかった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦時より黒田家の旗奉行を務めた。また、関ヶ原の合戦により加増を受け、都合700石となり、益田正親の組下に入れられた。大坂の役にも高齢ながら従軍している。
元和6年(1620年)、大坂城の普請に当たる。元和8年(1622年)、菅正利の子・重利に「主水正」の称号を与えるため、長政の命により「武蔵守」を称することとなる。寛永3年(1626年)、子の毛屋武重に家督を譲る。
中風を患った後、剃髪して文賀と号した。寛永5年(1628年)10月26日、病を得て死去。75歳。



ー 逸話 -
関ヶ原の戦いの際には、物見として正確に敵情を探り、過大に宣伝されていた敵兵の数が、実際には少ないことを報告し味方の士気をあげたため、徳川家康よりその機知を褒められ、その場にあった饅頭を褒美として受け取ったという。
また、長く各家を渡り歩いていたために家族を持っていなかったが、40歳を越えたのちに主君長政の命により、所帯を持った。相手は豊前一揆で戦死した鬼木掃部の娘・長であった。


以上、Wikiより。



毛屋武久