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至誠惻怛(しせいそくだつ)=真心と慈愛の精神

岡山日日新聞が廃刊

2011-11-10 | 日記
 11月10日(木) 

  北風が吹いて寒い一日。そろそろキタケの到来か。
 
  11月10日15時
 今日のアメダス(新見市足見堂の下) 23時現在
  最高気温13.5℃=13時、最低気温6.6℃=3時、積算降水量0.0mm、最大風速2m/s


 夕刊紙の「岡山日日新聞」が今日10日付の新聞を最後に廃刊されることになった。長い間、経営不振がささやかれていた。新見・高梁が取材範囲の女性記者は、このごろ姿を見せていなかった。
 
 夕刊紙「岡山日日新聞」を発行する岡山日日新聞新社(岡山市北区蕃山町、資本金2,300万円、原田克也社長)は10日、岡山地裁に自己破産を申請した。代理人の弁護士によると、負債額は約8千万円の見込み。新聞は10日付まで発行し廃刊。パートを含む従業員14人は15日付で解雇するという。
 民間信用調査会社の東京商工リサーチ岡山支店、帝国データバンク岡山支店の調べでは、同紙は1946年、「夕刊岡山」として創刊、69年に現在の題号に改めた。地元の食品メーカーのグループ会社として岡山日日新聞を発行。部数は公称約2万部。ゴルフ練習場の運営やプロ野球阪神タイガースのオープン戦、公式戦なども主催し、ピーク時は年間10億円以上を売り上げた。
 2003年には地場ソフト開発会社に営業譲渡したが、発行部数や広告収入の低迷、電子編集システムの投資負担などで損失が拡大。08年7月に新会社の岡山日日新聞新社を設立して営業を引き継ぎ、経営再建を目指したものの業績は回復せず、11年3月期は売上高1億4,200万円、純損失3,100万円となり、累積赤字は7,532万円に膨らんでいた。日本新聞協会の加盟社。
  ◇
 戦後65年にわたって親しまれてきた夕刊紙の灯が消える―。「岡山日日新聞」を発行してきた岡山日日新聞新社(岡山市北区)が自己破産を地裁に申し立てた10日、従業員や新聞販売店に動揺が広がり、読者から別れを惜しむ声も上がった。
 同紙は1946年に「夕刊岡山」として創刊され、69年に現在の「岡山日日新聞」に改称。岡山、倉敷両市などで新聞を販売してきた。2003年に岡山日日新聞社(当時)から、ソフト開発会社に営業が譲渡されたが、設備投資もかさんで赤字が膨らんだ。経営再建に向けて08年、新会社の岡山日日新聞新社を設立、新聞発行を続けていた。
 
 
  同新社の入居ビル(産経・朝日・中国新聞の
  支局・支社の向かいにある)

 
 【「破産」貼り紙】
 10日朝、同社入り口には「自己破産することになりました」などと書かれた紙が張り出されたが、扉は閉ざされ、代表電話に出た社員は「何も言えません」と繰り返した。同社によると、原田克也社長はいったん会社に顔を出した後、市内の病院に入院したという。
 最後の紙面となった同日付の1面には「廃刊に当たって」と題する原田社長名の社告=写真=を掲載。「メディア環境が激変し、インターネットも普及する中、夕刊専門紙という構造的な問題を抱え、経営は悪化」「販売部数、広告売り上げの低迷から脱することができず、断腸の思いで廃刊を決断」などと経緯を伝えた。
 
 
 
 【従業員の動揺】
 同社幹部は、従業員を15日付で解雇する方針を示しており、社内に不安が広がっている。中間管理職を務めながら、取材や集金もこなしてきた男性社員は「資金繰りが苦しいのは前々から知っており、『いつかは』とは思っていたが、ニュースを見て動揺している」と早々に仕事を切り上げた。
 関係者によると、08年に新会社に移行した後、ソフト開発会社からの出向社員が増加。出向元の名刺を使って仕事を続けた人もいたが、取材先での体面などを考え、新会社の幹部が、出向した記者ら十数人の身分を変更した。こうした人たちは出向元に戻れず、職を失う可能性があるという。
 【販売店、読者】
 岡山市内の販売店では、配達の準備をしていた午前11時頃、会社から「今日限りで廃刊」と連絡が入った。約40年間、夕刊を配ってきた50歳代の男性は「明日からどうやって生活をしたらいいのか。還暦近い人間を使ってくれる会社はない」と不安を隠さない。60歳代男性は「長年読んでくれている人もいるので、配達できなくなるのは寂しいかぎりです」とため息をついた。
 約15年間購読する岡山市内の男性(57)は「独特の視点で書かれた記事が多く、『市長乱入』など見だしの付け方も面白かったのに」と惜しみ、同市の高谷茂男市長も「長年にわたりマスコミの使命を果たしてこられた。大変残念」とコメントした。 (YOMIURI ONLINE
  ◇
 今日夕刊紙である「岡山日日新聞」(=「オカニチ」)が届けられて驚いた。「いつまでもつか」と聞いたこともあったが、まさかの破産申し立て、そして廃刊だ。
 
 
 
 私にとっての「オカニチ」は、エース記者N部長の存在だ。私が現役時代には市政記者室に在籍されておられ、いつも市役所内を回って、ネタを探し出されていた。その取材方法は秀逸だった。私の席の横に座って「雑談」をされる。取材を意識させず、いわゆる日常会話をされるので、ついついしゃべってしまうこともあった。
 そうして集められた情報を集約し、それにN部長の問題意識を加えると、特ダネとなる。N記者の書かれる記事は、いつも読者を引きつける豊かな記事だった。とてもお世話になった、私の尊敬する記者の一人だ。
 今日の「廃刊」の報道を受けて、N記部長電話させてもらった。身分的には解雇となるようだ。寂しい限りである。優秀なN記者のことだから次なる職場・活躍の場はあると思うが、私的にはこれからもペンを片手に仕事をして欲しいと願う。心からの感謝を伝えた。
 ともあれ、私の誕生日から約40日後に誕生した「岡山日日新聞」(1946年5月1日創刊、出発は「夕刊岡山」)。その廃刊はとても寂しいし、残念に思う。 (地底人の独り言
  ◇
 《岡山日日新聞新社の歩み》
 岡山日日新聞は、昭和21年5月1日「夕刊岡山」の題号のもとに創刊され、伸展する郷土岡山県の歴史を日々の紙面に刻んできた。発刊当時は用紙事情が悪く、2ページ建てというささやかな紙面であったが、敗戦の虚脱感に沈む県民に「希望と憩い」を与える唯一の夕刊専門紙として、県下の隅々まで浸透した。
 昭和33年1月から経営の刷新が行われ、34年6月には、「夕刊新広島」を発刊して広島県へ進出。さらに35年12月には岡山市内山下に地上3階、地下1階の新社屋を建設した。また、新鋭高速度輪転機を導入するとともに「夕刊新広島」を統合して、題号を「夕刊新聞」と改め、3版制とし瀬戸内海沿岸各県へ進出した。36年4月1日から6ページ建て、週1回8ページ、43年4月から8ページ建て、その後週1回12ページ建てに踏み切った。44年4月、周辺町村を合併した大岡山市の実現を機会に、社名を岡山日日新聞社と改め、題号も「岡山日日新聞」とした。
 一方、関連事業として37年8月、岡山県下のトップマネジメントで組織された社団法人岡山県政経懇話会、さらに39年1月、産業界のコンサルタントとして設けられた社団法人瀬戸内海経済研究センター、続いて広告代理を業とする株式会社岡山新企画を43年2月に設立した。尚、瀬戸内海経済研究センターが発行していた「瀬戸内海経済レポート」は株式会社組織で発行されている。また、44年4月1日から新しく県民の電波として本格放送を開始した「岡山放送」にローカルニュースを提供、電波を通して県民との接触も一段と深まった。
 さらに54年11月には岡山駅前に新社屋を建設して全部門を統合するとともに、コンピューターを導入して鉛を使わないCTS(コールド・タイプ・システム)化へ踏み切り、最新鋭の新聞制作設備へ全面更新したほか、印刷設備の近代化を図るため、岡山駅前に新工場を建設、新鋭オフセット輪転機を導入。平成5年10月8日から、紙齢16,000号を迎えたのを機に、題号を岡山県の花である桃の花をあしらいリフレッシュ化した。平成8年5月に創刊50周年を迎えた。9年4月には高齢化社会を見据え全国で2番目に1行11文字を採用、基本文字を11%拡大した。さらに10年7月から全国紙と地方紙の新たな関係を目指し全国紙からニュース提供を受け、紙面のワイド化に踏み切り、順次制作システムの一新に着手。また11年開局のFM岡山にもローカルニュースの配信を開始、夕方の県内ニュース番組として県民に定着した。
 16年4月には本社屋を岡山市蕃山町に移転。新電子編集システムを稼動させ、紙面を常時カラー化するとともに電子新聞とデータベースを融合させたユニークなシステムを開発、インターネットを通じてエリアに関係なく岡山日日新聞購読を可能とした。紙面の内容充実を図りつつ10月からは16ページ建てでの発行を開始した。ニュース報道の傍ら、プロ野球阪神タイガースのオープン戦、公式戦をはじめ、岡山県少年野球大会、岡山市中学校駅伝大会などを毎年主催している。平成18年5月に創刊60周年、19年3月に紙齢20,000号を迎えた。 (岡山日日新聞

 
 ……「岡山日日新聞芸術文化功労賞」を備北文学会がもらっている。当時事務局長だった私は、岡山駅前の本社で行われた授賞式に出席した。そのようすは、テレビ各社のローカルニュースで取り上げられた。備前焼の立派な楯は、今も離れの和室に置いている。私の同級生で市役所の部長だったY君の父親は、オカニチの創刊以来の記者だった。備北文学会が受賞したのも、かれの推薦があってのことだろうと思っている。

 夜、女房と離れダイニングの照明を選ぶ。


 ※明日の予定…岡山へ(泊)。

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