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男優列伝・補遺 下條正巳  リスクと効用

2017-04-22 15:59:51 | 日記
A.男優列伝補遺 下條正巳
 俳優といっても、主役を演じるスター俳優だけが活躍しているわけではない。いうまでもなく舞台でも映画でも、経験豊富な脇役が支えてこそ作品が輝きを増す。この「男優列伝」では、人々の記憶に永遠に残るようなビッグ・ネーム男優をとりあげてきたが、補遺として最後に渥美清さんの「男はつらいよ」を振り返ってみると、重要な脇役がある。妹さくらの倍賞千恵子、その夫の印刷工員博の前田吟、そしてその息子(寅さんには甥)の満男の吉岡秀隆と並んで、帝釈天の門前町、葛飾柴又「とらや」でおかみさんの三崎千恵子といつも変わることのない平凡な日々を暮らしている寅次郎の叔父、車竜造「おいちゃん」は日本という社会の「おやじ」的なものを体現している。この役割は、この「寅さん映画」の要にある。しかし、この年配者の役はそれを演じる俳優が、3人交代した。初代は浅草出身のコメディアン森川信、その森川さんが亡くなって、二代目が新劇畑の松村達雄、そして三代目おいちゃんは、劇団民芸のヴェテラン俳優下條正巳さんが演じた。一番長くおいちゃんを演じた下條さんだが、その印象は前の二人に比べて一見地味で、語られることが少ない。
 脇役は主役を食うほど目立ってはいけない。あくまで主役を引き立てて、ドラマの進行にある部分だけ印象深く貢献することに喜ばなくてはいけない。戦後日本映画という世界に限ってみても、数々の作品で味わい深い演技を残したバイプレイヤーは、枚挙に暇はない。殿山泰司、信欣三、花沢徳衛さんといった国民文化財的存在から、現代のユースケ・サンタマリアや田口浩正まで、優れた脇役俳優への評価はまだまだ足りないと思う。でも、あの大戦争の前、大日本帝国の植民地朝鮮半島の南端、釜山に生まれ東京にやってきた下條さんの人生は、まだ始まったばかりだった。

「うちは鉄工所を営ってましてね、朝鮮の職工さんが十人ほど働いていました。親父の人柄だったのか、みんな長く勤めてくれて、一番長い人は、十歳でうちに来て結婚して子供が大きくなっても通ってました。僕はここに商業学校を出て二十歳までいたんです。
 家は工場の隣にあって、かなり広い地所でしたね。子供が増えるたびに建て替えてましたから、その都度のことは覚えてませんが、最終的には二階建てで、上に二部屋、下に三、四部屋、広い板の間の台所、風呂、トイレです。いや、生活も何も全部日本と同じですよ。今の方にはわからないと思うけど、外国じゃなくまったく日本なわけです。言葉にしても、朝鮮の人は生活するために日本語を覚えざるを得ないけど、僕らは日本語しか使わないから、朝鮮語を覚える必要がなかった(のち昭和十三年日本は朝鮮語使用を禁止)。それほど、日本は朝鮮を日本化していたということです。
 僕は朝鮮語を習得しなかった代わりに、人種的な差別も全く持ってないんです。後年飯沢匡さんの「もう一人のヒト」という芝居で僕が朝鮮人を演じた時、新聞評も褒めてくれましたけど、何より朝鮮の人が絶賛してくれたことが僕は嬉しかったですね。」斎藤明美『家の履歴書―女優・男優篇』キネマ旬報社、2011. p.98.

 下條正巳さんは1915(大正4)年、釜山生まれ。朝鮮半島南端の都市、釜山は日本帝国植民地時代、関釜連絡船の往来で栄えた。壱岐から釜山に渡った下條さんの父は、その地で工場を営み亡くなった。成人した下條さんは、二十歳で映画監督を夢見て東京にやってきて、ふとしたことから新協劇団の研究生になり、俳優の道を歩む。戦争の敗北で、その故郷も帰れぬ場所になる。

「そして一度新劇を観てごらんというので、観たのが新協劇団の「マンハイム教授」と島崎藤村の「夜明け前」。ああ、世の中にこんなものがあるのかって感動して、映画監督はどっかへ忘れちゃったんです。そして四月に新協の研究生になりました。同期に岩下志麻さんの親父さんの野々村潔さん、一つ下に下元勉君。試験官は滝沢修、三島雅夫、小沢栄(のち栄太郎)の三方でした。「夜明け前」を朗読させられたんですけど、「おー、君はすごい訛りだな」と言われて、僕は「訛りって何ですか?」と。それほど僕は何も知らなかったんです。その後も僕は「釜山生まれなのに結構日本語が喋れるじゃないか」と言われましたよ。つまり、進歩的といわれる新劇の先輩でも、当時の先輩でも、当時の朝鮮の実情を知らなかったわけです。どれほど植民地化されていたかということを。だからいまだに僕はアクセントにこだわります。」斎藤明美『家の履歴書―女優・男優篇』キネマ旬報社、2011. pp.99-100.

 先輩「おいちゃん」の松村達雄さんも、そういえば新協劇団研究生から俳優人生を始めている。下條さんは、その後、滝沢修、宇野重吉が拠点とした劇団民芸に所属する。

「昭和二十六年、民芸入団、四十七年退団。そして二年後、実にその後三十五作に出演することになる「寅さん」の“おいちゃん”役とめぐり逢う。
 山田(洋次)監督からお声がかかった時はゲストで一回出るだけだと思ったんです。でも脚本にはそれらしき役がない。聞けば“おいちゃん”をということじゃないですか。びっくりして……。悩みましたよ。でも特にお断りする理由もないし、山田さんは素晴らしい演出家だと前から思ってましたしね。
 でも、正直言うと、つい数年前まで僕とおいちゃんという役の間には距離感というか、ハッキリ言って抵抗感があったんです。つまり、何て言うのかなぁ、たとえて言うなら、「支持する政党は?」と聞かれた時においちゃんは決して“野党”支持ではないと思うんですよ(笑)。でも僕は、当時の与党が自民党だとしたら、「自民党に一票入れます」とは言えない。どっか、そういう、世の中に対する見方が、おいちゃんと僕とでは違うんです。
 それなのに、渥美ちゃんが亡くなって改めてビデオで全部観直してみたら、すごいと思ったんです。あれほど観客を動員した理由がわかったような気がした。役者としての渥美ちゃんのすごさ。山田さんのコツコツ仕上げていく演出力のすごさ。もしかすると、渥美ちゃんが今はいないという僕のセンチメンタリズムかもしれないけど、確かに演ってる時にはわからなかった魅力を僕は今やっと客観的にわかったと思いました。
 -静かだが“己を貫く”真っ直ぐな力が下條さんには感じられる。六年前、勲四等瑞宝章を辞退したこともその姿勢と無関係ではないと思うのだが……。
 ご存知でしたか、そのこと。いや、別に七十代になればだいたいああいう話は持ち上がるんですよ。もらうかもらわないかはその人の自由だから……。僕は演技賞だったら喜んで頂きますよ。でも勲章は僕には似合わない(笑)。もらうような人間じゃないし、もらう理由もないから。
 ただ、僕の生き方、どういう姿勢で生きてますかと聞かれれば、勲章をお断りしたこと、それが一つの表れとして一番ハッキリすると思う。それだけのことです。」斎藤明美『家の履歴書―女優・男優篇』キネマ旬報社、2011. pp.102-104.

 個人的なことだが、中学のときの友人に新劇俳優の息子がいた。お姉さんも女優で舞台に上がっていたようだが、家は小さく貧しそうだった。そのとき、子どものぼくは何となく、俳優にも二種類あって、歌舞伎役者や映画スターのような華やかでお金持ちの人もいるが、舞台俳優の多くは経済的には貧しく、お金とは別の芸術的価値に身を捧げているんだな、と思った。そして新劇俳優は、弾圧されて獄中にあった人も多く、昔から「サヨク」か「シンパ」の色濃い世界なんだな、と思ってちょっと尊敬した。下條正巳、俳優の下條アトムは長男。2004年逝去。



B.危機管理、リスク社会という世界認識のお粗末な時局性について
 このところの日本のNHKを含む一部大手マス・メディアの、常軌を多分に逸脱したイデオロギー的偏向には口をあいて呆れる。凶暴な北朝鮮が今にも日本に武力攻撃を開始し、宗主国トランプのアメリカがこれを叩く、日本国民はもろ手を挙げて安倍晋三に「安全と安心」を託す。国会審議に付される「テロ防止法」という名の、日本国民の自由と権利を国家官憲の思う次第で弾圧できる法律が、平然と成立してしまうようなこの国の政治状況に90%の日本国民が、疑問を感じていないという事実には、心底愕然とする。
 ぼくは簡単に怒らない温和な人間だと思っているが、21世紀の世界に日本という歴史と伝統を誇る麗しい国家の、過去の一切を自ら壊滅させる泥沼を予感せざるを得ない。どうしてわれれの先祖が営々と築き上げた長い伝統と奥深い文化をもつ日本が、こんな愚劣な極短期的な偏頗な構想にじたばた惑わされてしまうのか?それは、今この国を統御する安倍晋三政権の思想的根拠である、昭和の天皇制国家を参照すべきモデルとするアナクロニズムそのものを根源から問わなければならない。

「豊洲市場移転 人々の安心 信頼回復から:神里達博
 「安全だが、安心できない」
私たちの社会では近年、このフレーズが繰り返し使われてきた。東京都の豊洲市場への移転問題も、例外ではない。「安心」を扱う本コラムでは、昨年の秋に若干この問題に触れたが、「安全と安心」については、いまだにいくつかの誤解があるように思う。そこで今月は改めて、少し根本的なところから考えてみたい。
 まずよく言われるのが、「安全は科学的な基準に基づくが、安心は人々の主観である」という仕分けである。確かに、問題となっているベンゼンの環境基準は、客観的な数値によって定められている。化学物質に限らず、さまざまな安全性の問題は、科学的に扱うことができ、また扱うべき問題に見えるかもしれない。だが本当にそうなのだろうか。
    ◎       ◎       ◎ 
 例えば、本連載では「自動車」の安全性について何度か議論してきた。自動車はさまざまな法規制がかかっており、運転免許や車検の制度などにより、重層的に管理されている。だが、以前と比べて相当に減ったとはいえ、現在も交通事故で年間約4千人の犠牲者を出している。見方によっては非常に危険な技術だが、それを上回る便益が認められているがゆえに、自動車は「社会的に」許容されていると、考えられる。
 一方、ごくまれなことだが、「エレベーター」が事故を起こし、突然人命が奪われることがある。大きなニュースになり、社会的な動揺も大きい。メーカーなどへの批判も非常に厳しいものになることが多い。しかし、自動車によって命を奪われるケースに比べると、その数は何桁も小さいといえる。少なくともこの社会では、エレベーターに対する安全性については、自動車よりもはるかに高い水準が期待されている。
 自動車とエレベーターの安全性を比較すること、それ自体にはあまり意味はないだろう。両者の共通点といえば「人や物を運ぶ機械」くらいのもので、技術もかなり異なり、何よりもエレベーターは「プロ」が特定の場所で運営し、自動車は一般の人々が広く利用するものだからだ。とはいえ、この例を見るだけでも、安全性の基準が単に科学的あるいは技術的に決まっているわけではない、ということが分かるだろう。
 つまり、「どこまで安全ならば、十分に安全だと認めるべきか」という議論は、単に科学的・技術的な問題ではない、ということなのだ。それは、その技術が使われるさまざまな条件や関わる人々のタイプ、経済的条件、さらには政治的・歴史的な文脈などの影響を受けつつ、決まる。安全性は本質的に、このような社会的要因を無視しては、考えられないのである。
 一見すると、純粋に科学的な議論に見える、ベンゼンの環境基準の決定プロセスにも、社会的な成分が入っている。この物質の毒性は、前世紀の半ばごろ、労災として発見された。ゴム製品を作る工場で溶媒として使われていたベンゼンに、高濃度で暴露された行員が、白血病などに罹るケースが頻発したのだ。
 この時の不幸なデータを元に、濃度と発がんの危険性が比例すると仮定して、どこまでの濃度ならば安全と考えるかが検討された。日本ではこの際に、「生涯にがんになる確率が、ベンゼンのせいで10万人に1人分だけ増える濃度」という数値を上限とすることになった。この「10万人に1人」という数値は、科学的に決まるものではなく、外部から導入しなければ決まらないものだ。
 常識的に考えて、この「上限」をいくらにするかは、優れて政治的な問いである。私たちの社会で、ベンゼンという物質のせいで誰かが命を奪われるかもしれないという可能性について、便益やコストなどさまざまな条件を考慮して、どの程度に抑えると決断するか。それが「ベンゼンの環境基準」の意味するところである。先日、報道された「基準値の100倍」という数値も、本当はそのような文脈で理解すべきものだ。ただしこれも、実際にベンゼンと接触する場合の危険性である。誰がどういう状況で、その濃度でのベンゼンに曝される可能性があるのか、ということも含めて考えなければ、現在の安全性は議論できない。
     ◎        ◎        ◎ 
 一方、「一般の人はリスクがゼロでないと安心しない、まるで『ゼロリスク症候群』だ」といった批判が専門家から出ることもある。だがこれも、実は論点がずれている。すでに述べた通り、そもそも安全性とは社会的な概念である。本当に人々がそんな考えならば、誰も自動車には乗らないだろう。さまざまな要素を勘案しながら、安全性について判断して人々は暮らしているのだ。
 専門家に対して「安心できない」と訴える時の人々の本音は、むしろ「あなた方が信頼できない」という、不満の表明と考えた方が良い。豊洲のケースは、当初約束された対策が履行されていなかったことが判明したことで起きた「信頼問題」なのだ。そのやりとりの中で、安全性に注目が集まったに過ぎない。
 では信頼を回復するにはどうすべきか。例えばあなたが電車の中で足を踏まれたとしよう。踏んだ相手が「あなたの足の外傷は軽微なもので、2時間以内に痛みは消え、後遺症も残りませんから安心してください」と言ったら、あなたはどう思うだろうか。だが、「安全だから安心してくれ」と言うのは、これと構造的には同じだ。信頼を取り戻すための最初の一歩は、足を踏んだ人が、謝ることだ。さて、豊洲のケース、足を踏んだのは誰なのだろうか。」朝日新聞2017年4月21日朝刊、17面オピニオン欄「月刊安心新聞」

 偶然の交通事故に遭って、障害者になった人がいたとして、その人にはいつでも自動車が恐ろしい凶器になるという事実は忘れることはできないだろう。でも、だからといってこの世から自動車がなくなることはないし、車好きの運転マニアもなくならない。神里氏の指摘するように、リスクと利便性は自動車という道具の正負両面だから。エレベーターの安全性はもっと限定的だ。だとすれば、豊洲のベンゼンについても、科学的測定が保証する安全性基準は、そのときどきの社会、もっといえば政治の恣意的判断によって決まる。民主主義が機能しているならば、結局その判断を左右するのは、ぼくたち国民の理性なのだ。
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