渋沢栄一の「論語と算盤(そろばん)」、松下幸之助の「社会貢献が使命、その報酬が利益」……。多くの名経営者が掲げる「道徳と経済の両立」の理念を、日本で初めて全国に広めた石田梅岩。彼の思想が現代の日本人に残した影響を考察してきた「江戸のSDGs」石田梅岩編の最終回は、全国に普及した石門心学がなぜ衰退していったかを取り上げる。

 梅岩の教えが広まった日本が迎えた明治維新。西洋化の中で失われたものと、日本人の生き方の中に残ったものは何か。梅岩の研究者である大阪学院大学経済学部教授の森田健司氏に聞いた。

石田梅岩の弟子たちが広めた心学講舎は、1700年代半ばから幕末までの100年余で45カ国、173カ所に設置され、その教えは全国に広まりました。しかし明治維新後は急速に衰退します。幕末に起きた様々な新興宗教の台頭や、二宮尊徳の報徳思想の広がりなどが理由といわれていますが、実際のところはどう見ていらっしゃいますか。

森田健司氏(以下、森田氏):衰退の理由は諸説あり、なかなか決定的なものはないように思います。最も信ぴょう性の高い通説は、幕藩体制そのものが石門心学の教説と非常に親和性が高く、明治維新による幕藩体制の崩壊が、そのまま石門心学の説得力を失わせるものだった、というものです。広島などでは維新後も熱心な普及活動が続いていますが、全国的に見た場合に勢いが減じたのはこれが理由だと説明されています。

 ただ、研究を続けている中で感じるのは、やはり「文明開化」という言葉に象徴される西洋化が最大の要因だったのではないかということです。

石田梅岩の弟子たちによって全国173カ所に開設された心学講舎は、明治以降急速に衰退していった(森田健司氏提供)
石田梅岩の弟子たちによって全国173カ所に開設された心学講舎は、明治以降急速に衰退していった(森田健司氏提供)

 1872年(明治5年)に東京で施行されたのを皮切りに、全国で県ごとに違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)という、現代の軽犯罪法のようなものが制定されました。「立ち小便はだめ」や「肥(こえ)を蓋のない容器で運ぶのはだめ」など、それは当たり前だろう、と思う内容も多いのですが、この中で旧来の習慣というものが非常に細かく、1つずつ否定されていったのです。「古きは悪、新しきは善」ですね。日常の習慣を否定されていく中で、それを支えていた価値観も崩れていく現象が明治20年代ぐらいまで続き、その中で旧来の道徳教育と見なされる石門心学の説得力がだんだんなくなっていったということが言えると思います。

 幕藩体制の崩壊イコール石門心学の説得力の低下と考えるよりも、もう少し後ですね。細かな日常の振る舞い、習慣を否定されていく中で衰退していったと考えています。

 学校教育の中でもそうなのですが、儒学的な道徳教育そのものが明治の西洋化の中でいったん、ぱたっと消えてしまう時期があります。その後、これではよくないということで復活していくのですが、儒学を元にした価値観は捨て去るべきものだという感覚が一時、急速に広まりました。石門心学も儒学を土台にしていますので、同じように扱われたと思います。

教えの場である心学講舎は失われ、その後、以前のように復活することはありませんでしたが、日本人の生き方の中には、石門心学の教えと関連するものが数多く残されていると森田先生は指摘されています。

森田氏:例えば、助け合いの精神です。梅岩は「人は独りで生きることはできない」という考えをもとに、人は自覚的、自律的に困った仲間を救うものだと考えていました。

 窮地に陥った取引先から売掛金を回収せず、見舞金まで贈ったことで、自分も経済的に苦しくなってしまった商人がいました。その商人に対して梅岩は、その行いをたたえるとともに、「さらに苦しくなるようなら家財一式を売り払って裸になればいい」と伝え、次のような話をしています。

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