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元サッカー日本代表・岩本輝雄が引退してから15年かかって辿り着いた「求めすぎない生き方」

2021.05.08

岩本輝雄が引退後の15年間で辿り着いた生き方とは?

現役時代と体型がほぼ変わっていないという岩本輝雄(筆者撮影) 

ラモス瑠偉(ビーチサッカー元日本代表監督)、名波浩(現解説者)、中村俊輔(横浜FC)、香川真司(PAOK)…と歴代の看板スターに引き継がれた日本代表の背番号10。エースナンバーには華やかで煌びやかな印象がある反面、常人の想像をはるかに超えた重圧がのしかかる。1994年のファルカンジャパン時代にそれを味わったのが、左足のスペシャリスト・岩本輝雄である。

9410月のアジア大会(広島)直前の鹿島合宿の時、部屋に入ったら10番のユニフォームが置いてあって驚きましたね。『10番はノボリ(澤登正朗=現常葉大学サッカー部監督)じゃないの?』と思ったけど、俺につけてほしいと。頑張らないといけないって感じましたね。でも、あの大会の日本はベスト8で韓国に負けて敗退してしまった。ファルカンも解任されたし、俺も『ガラスの10番』と言われた(苦笑)。確かに今、思うと10番は重すぎたよね。ホントにいろんなプレッシャーを感じて、自分らしいプレーができなかったし……

5月2日に49歳の誕生日を迎えた永遠の少年は、22歳だった当時を神妙な面持ちで振り振り返った。27年も前の話だが、彼の爽やかな風貌からはそんな昔のこととは感じられない。実際、稀代のレフティの左足キックの凄さというのは、名波や中村俊輔も一目置くほどのレベルであり、今もその質を維持している。それは紛れもない事実だろう。


懐かしい日本代表10番時代(本人提供)

1つ飛びぬけた武器を持つことは人生に生きる

 「1つの飛びぬけた武器を持つことは、サッカー選手としても、人として生きていくうえでも本当に大事」と本人も強調するが、それを研ぎ澄ませてきたからこそ、彼はベルマーレ平塚を皮切りに、京都サンガ、川崎フロンターレ、ヴェルディ川崎、ベガルタ仙台、名古屋グランパスとJリーグ6クラブを渡り歩くことができたのだ。

 さらに言うと、岩本輝雄は2006年にニュージーランドへ赴き、オークランド・シティの一員としてFIFAクラブワールドカップ(FCWC=日本)に参戦。34歳で選手キャリアの区切りをつけている。今でこそ、30代半ばまでトップレベルでプレーする選手は少なくないが、当時のJには「30歳定年制」のような暗黙のルールがあり、30歳前で引退する者もかなりいた。しかも彼は人生で9回も手術するほどケガを繰り返した。そういう状況でもボロボロになるまで戦い抜き、完全燃焼したことで納得感を得られたという。

「右足首のケガが治らなくて名古屋を2004年末に退団した後、無所属になったんです。普通ならもうそこで辞めてるんだろうけど、『リハビリしてもう1回ファンの前に戻って花道を飾るんだ』と決意したんです」

 昨年限りでユニフォームを脱いだ中村憲剛(川崎FRO)と同じ美学を抱いていた岩本。憲剛と違ったのは、ラストピッチに立つ前にNHK-BSの『東海道五十三次完全踏破 街道てくてく旅』の出演に踏み切ったことだ。

「当時、芸能事務所の三桂に所属していた関係で話が来たんですけど、この経験が非常に大きかった。徒歩で500km55日かけて歩くなんて滅多にできることじゃない。静岡は22宿あるんですけど、1つ1つ立ち寄ってわらび餅を作らせてもらったり、野菜を収穫して食べたりとホントに世界が広がった。映像制作のコツも分かって、その後のサッカー動画制作にも生きてます。そして最大の収穫は足の痛みがなくなり、回復したこと。FCWCのラストマッチを東京・国立競技場でできたのも、そのおかげだと思います」


徒歩で500km歩いたことは貴重な人生経験になっている(本人提供)

引退後は自力での巡回サッカースクール運営からスタート

こうして選手生活を終え、翌2007年からは2002年に設立した自身の会社を軸に動き始めた岩本。最初に目を付けたのはサッカースクールだった。Jリーグ時代に活躍し、良好な関係を築いていた仙台での活動をまずは模索したという。

「現役をやめて、最初にサッカースクールに協賛してくれたのが、仙台に本社があるMJQというウエディング事業の会社でした。その後、朝日新聞社やパルコなどなど複数の企業が協賛してくれて、少年少女向けのスクールを全国各地で毎週末のように開くようになりました。2011年3月11日の東日本大震災発生時には新日本製薬の協力の下、いち早く仙台に入って支援物資を届け、直後から被災地60カ所を回って支援活動とサッカー教室を行いましたし、20112018年にはカンボジアのシェムリアップに学校を作るプロジェクトに参加。毎年のように指導を行っていました。

一方で、平日は取材を受けたり、テレビショッピングに出演したりと来るものは拒まず、全てやりました(笑)。『東海道五十三次』の時もそうだったけど、いろんなことに取り組むことで視野が広がるし、新たな人との出会いも生まれる。僕はもともと社交的なタイプなんで、喜んで取り組みましたよ」

何事にもオープンマインドで向き合えるのは、天真爛漫な性格によるところも大きいが、サラリーマン経験もプラスになっているようだ。Jリーグ発足前を経験している彼ら世代は多かれ少なかれ企業勤務を体験している。岩本も横浜商科大学高校を卒業した91年に大手ゼネコンのフジタに入社。1年間は総務部経理課で午前中だけ働いた。

「正直、やったのは段ボールを運んだり、書類をシュレッダーにかけるくらい(苦笑)。それでも毎日、調布の寮から代々木の会社に電車通勤しましたよ。翌91年にプロ契約になった後はサッカーに専念しましたけど、今のように代理人とかサポートスタッフがいなかったんで、給料の交渉は自分1人でやりました。20歳そこそこの若者が社長やGM、強化担当相手に『いくらほしい』と要求するのは勇気のいることだけど、実際に主張してましたからね(笑)。その経験があったから、引退後のサッカースクール運営の時にも思い切って交渉ができたのかなと思います」

好きなことはとことん突き詰める!

好きなサッカーに関わる仕事を続けながらも、自由人の岩本は「AKB48」の追っかけをしたり、新日本プロレスに通ったり、心酔するFCバルセロナを生観戦するため年に何度もスペインに赴くなどアグレッシブに動き続けた。「好きなことは納得いくまで突き詰めたい」というのが、彼のモットーなのだ。

「バルサは2005年にロナウジーニョやデコ、メッシを初めて目の前で見た時から魅了され、足繁く通うようになりました。チケットも特別なルートから入手するんじゃなくて、自らヤフオクで探したり、現地で知り合ったスペイン人にソシオのチケットを買ってもらったりと、自分なりに努力と工夫を重ねて手に入れてましたよ(笑)。

 一度、ネットのサイトで25万円のチケットを買ってバイエルン・ミュンヘン対バルサの試合を見たこともありますけど、僕はサッカーにお金を投じることを厭わない。今も川崎フロンターレとか横浜F・マリノスとかJの試合を普通にチケット買って見に行ってます。元Jリーガーとか元日本代表とかそういうのは一切、関係ないですね」

 こう語る岩本に「過去の栄光にしがみつこう」などという気持ちは一切ない。コロナ禍の2020年以降は「自然体が一番」という思いがより鮮明になったという。大好きなバルセロナに足を運べなくなり、本業のサッカースクールも実施回数が減るなどダメージは受けているが、「欲を出して多くを求めるより、自分が楽しくいい状態でいられる方がいい」というマインドで日々を過ごしている。

コロナ禍の今は次へのエネルギーを蓄える時

「この1年は朝8時から6~8kmのランニングをして、午前中はプロを目指している地元の20歳前後の若手と一緒にサッカーの練習をしてます。子供に教えるにしても体が動かなきゃダメだし、技術を見せられないと説得力がない。ケガを繰り返してボールを蹴れなかった時期が長かったから、できるうちはやっておきたいという気持ちが強いんです。

午後からは人と会ったり、欧州サッカーの試合を見たりと次の動きを模索してます。来年にはコロナも収束するでしょうし、僕も50歳になるんで、全国47都道府県を回ってサッカースクールを開くことを計画中です。

 特に行きたいのがJクラブがない空白地帯。そこで年齢関係なく人々と触れ合い、体を動かすことの楽しさを伝えていけたらいいですね」


見る者を魅了した左足のキックは今も健在だ(本人提供)

 目を輝かせる彼は今、セカンドキャリア支援も視野に入れている。JFA公認S級ライセンス保持者の全国派遣などはその一案だ。チームを持たない指導者に全国各地で研修会などを開いてもらえれば、日本サッカー界の活性化につながる…と岩本は考えるのだ。会費制にするか、スポンサーを集めるかといったビジネスモデルは仕事を手伝ってくれているブレインとともに構築する意向だが、具現化へ動き始めようとしているところだ。

「コロナ禍前は自分がJの監督をやりたいという気持ちもあったけど、京都や仙台や一緒にプレーした先輩の森保さん(一日本代表監督)なんかを見ていて、物凄いストレスを感じているなと再認識したんです。自分は多くを求めず、みんなをサポートする方が向いている。カネやモノもいらないし、みんなのため働ければ一番いいんです。お世話になった人たちや未来を担う若者たちの役に立てるように地道にコツコツとやっていきます」

元代表10番の背伸びしすぎない生き方は、コロナ禍で迷う人々の琴線に触れる部分があるのではないか。いつも笑顔で周囲を明るくしてくれる岩本の今後が楽しみだ。(本文中=敬称略)

取材・文/元川悦子

長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。

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