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国際ジャーナリスト

木村 太郎

メッセージ

私が物心ついて初めて海外へ出たのはフィリピンでした。大学へ入っても満たされない気持ちの時に、姉に誘われてバギオで開催された国際会議の手伝いという形で参加しました。
日本はまだ敗戦の傷痕が残っていて、出発した羽田空港は米軍の管轄下にありました。そこからプロペラ機で約10時間後に到着したマニラは光り輝いて見えました。

フィリピンでは日本人であることを隠すように忠告されました。戦争中に日本が占領していたことに反感が強いので何をされるか分からないと言うのです。
幸いフィリピンは7000もの島から成っていて、当時標準語のタガログ語を喋る人は30%とも言われたので英語でごまかすことができ、お陰で英語にも慣れるきっかけになりました。

国際会議はMRA(道徳再武装)という世界的な団体が開催したもので、各国から集まった代表団の中には通訳や舞台裏の仕事をする若い人も数多く参加していました。
驚いたのは、彼ら彼女らが「戦後のアジアのあり方」や「欧州の融合」などということをことも無げに口にしていたことでした。

「この連中に負けてはいられない」

そうした思いが強まり、帰国するのを止めアジア諸国に派遣されたMRAの使節団について行くことにしました。その使節団には芝居もあり私は舞台裏の仕事をしながら、フィリピンから台湾、香港、ベトナム、ビルマ(現ミヤンマー)インドと周り、各国の若い人たちとも交歓しながら最後は欧州まで行ってしまいました。

その1年間、見聞を広めただけでなく世界の同年代の若者と交友を深め、言ってみれば世界にライバル達を作ることによってその後の私の人生の「はげみ」にもなりました。必要に迫られて英語が使えるようになったことも収穫でした。
私が今ジャーナリストとして恥ずかしくない仕事ができているとしたら、この若い時の体験のおかげにほかなりません。

若い時の決断は、人生に大きな影響を残すものなのです。

PROFILE

国際ジャーナリスト 木村 太郎

1938年米国カリフォルニア州生まれ。1964年慶應義塾大学法学部卒業後、NHKに入局。ジュネーブ支局、ワシントン支局特派員などをつとめた後、「ニュースセンター9時」のメインキャスターに。1988年にフリーとなりフジテレビ系「FNNスーパーニュース」など人気番組に多数出演。現在も「Mr.サンデー」のコメンテイターをつとめている。