新移民残日録

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-日比新考 私は 1957 年(昭和 32 年)に初めてフィリピンの地を踏んでから足掛け半世紀近い関わりにもなる。 何となく漂泊したセブで再婚し、永住するべく決心してからでも 33 年になる。この間、マニラ、ミン ダナオとセブを歩き回り商売柄、殆どフィリピン全土を漂流徒渉していたといっても過言ではない。 我々戦後にフィリピンへ渡ってきた日本人移民は「新移民」というらしい。旧移民とは 100 年前の明 治 36 年から大正、昭和初期に渡ってきた人たちでバギオの道路難工事に携わった人々が主力だ。彼ら は殆どが道路工事人夫や農民たちで、後には主にダバオで麻の栽培に従事したが、終戦で全てが壊滅し て日本への引き揚げを余儀なくされた。しかし戦後の新移民は何か技術的な背景を持った人々が最初だ った。新移民がフィリピンへ来てからでもやがて半世紀になろうかという。 こういう足跡を辿りながら残日録を書き残したい。将来何年か先に歴史の記録の一部にでもなれば幸い だ。

NPO 法人 SNN 新日系人ネットワーク代表

岡 昭 (おか あきら) 2012 年11月吉日


目次 第 1 章 日本人とフィリピン人「ここが違う」 1. フィリピーナは肉食系 2. 単一民族と混血民族 3. マニラの人とセブの人 4. 笑わない日本人 5. フィリピンの三悪人 6. マカティ族とマラテ族 7. 同じ失敗を繰り返す民族 8. 日本人、なぜ「無宗教」 9. 神はどこから来てどこへ帰るのか 10. 兼好法師流「女・辛口論」 11. 風呂の文化と水浴びの文化 12. フィリピン人の家族力 13. フィリピン人に技術を教える 14. 国際人無用の論

第 2 章 ASEAN でどん尻になった 12 の理由 1. 国のトップが悪すぎる 2. 汚職が国を滅ぼす 3. 治安が悪い 4. 法律を守らない 5. 中小企業が育たない 6. つらいと逃げる 7. 段取り意識がない 8. メンテナンスをしない 9. 時間を守らない 10. 教育が違う 11. 公徳心がない 12. 過剰な家族愛

第 3 章 「日比共生」世界はアジア人の時代へ 1. 東アジア共同体論 2. 初めて知った「歴史人口学」 3. フィリピン「 幽霊老人 症候群」


4. フィリピン人介護士と看護士の日本移住 5. フィリピン病に罹る人 6. 金持ち父さん、貧乏父さん 7. あなたはフィリピンで死ねますか 8. 物で栄えて、心で滅びる 9. 遺骨収集事業と慰霊碑 10. 「新日系人の就学・養育」支援組織

第 4 章 「セブ島暮らし」は楽園か 1. フィリピンにハマる 2. フィリピンは天国か 3. どっちもどっち 4. したたかなフィリピーナ 5. 幸せに生きる 6. しなやかに・したたかに 7. 終の栖(すみか)はフィリピン

第 5 章 フィリピンに棲む「ひと曼荼羅」 1. ああモンテンルパの夜は更けて

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2. ああモンテンルパの夜は更けて

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3. ああモンテンルパの夜は更けて

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4. フィリピンに沈んだ男たち

5. フィリピンに沈んだ男たち

6. 破れ鍋に綴じ蓋とは 7. 追い込まれた困窮邦人 8. ウソのような名前 9. 嫌な日本人

第 6 章 フィリピン社会の「光と陰」


1. フィリピン経済のウラ読み 2. 企業城下町方式 3. フィリピン症候群 4. フィリピンで働ける老人 5. 民が公を支える 6. 隗(かい)より始めよ 7. 教会の犠牲者は誰か 8. 豚より惨い暮らし

第 7 章 在比日本人が見る「日本問題」 1. 東アジア共同体の地政学 2. 移民開国か 3. 日本は悪くない国だ 4. 二重国籍の容認を 5. 行政は「仁慈」の心を 6. 虚妄の格差社会論 7. 日本人のしきたり 8. フィリピン人の骨が千鳥ヶ淵に 9. 忘れてはならぬ「戦争の歴史」 10. 日本の外国人受け入れ 11. 日本の「払わん族」

第 8 章 新日系人二世は高齢化・人口減少時代の担手 1. あどけない「棄民」たち 2. 「パパ助けて」 3. 親権を放棄、行方不明の父 4. 国籍再取得のイライラ 5. ついに東京へ、法務大臣に「直訴」 6. 新日系人二世は 40 万人 7. 論語もいう「待つ」


8. おかげさまで 9. 新日系人「自立に向けて」 10. ジャッピーノ「探索行」

第 9 章 フィリピン人もよく知らないフィリピン 1. フィリピン人はどこから来た 2. 「邪馬台国」はフィリピンだ 3. マジェランとラプラプ王の戦い 4. まにら日本人街と高山右近 5. リサールとおせいさん 6. 米比戦争の真実 7. 日本人移民と日本軍の占領 8. 山下将軍の戦犯裁判と山下財宝 9. 抗日ゲリラとレイテ島決戦 10. マルコス独裁・アキノ革命から「人材派遣国」へ

第 10 章 懐かしくも苦い「回想のフィリピン」 1. 1957 年 岡昭フィリピンに立つ 2. 1958 年 3. 1980 年 4. 1982 年 5. 1983 年 6. 1984 年 7. 1985 年 8. 1990 年 9. 1995 年 10. 2005 年 回想のフィリピン


第 1 章 日本人とフィリピン人「ここが違う」

1 フィリピーナは肉食系? 日本人男性は、自分は草食系だと思う人が 74%に達したという新聞コラムを読んだ。 草食系男子という言葉は、数年前に見始めた新しい言葉だと思うが、2009 年末には 「流行語大賞のトップテン」入りして馴染まれるようになったようだ。草食系の男は 「恋愛やセックスに積極的ではなく、肉欲には淡々とした男」とされる。これに対し 「肉食系」は「常に異性を求めてギラギラし、恋愛やセックスに積極的な男女」をいう。 草食系男子とは言っても、「女に関心はあるし、口説いて性的関係も持ちたい、だが根 気良くデートしたり、一緒に生活するなどの、煩わしいことが嫌い」という無精な勝手 者が 8 割だという。だが比国に長く住んでいろいろな日本人、比人の男女を見回すとホ ントに哀しくも面白い人生模様が見えてくる。そして、観光客トップの韓国人はほとん どが働き盛りの若者なのに、日本人客の多くが「老人」だとはなぜなのか?考えてみた い。

タレ目の肉食系ハポン もう 30 年近い昔だが、タイの観光都市、チェンマイに和歌山県の中年男性が住み着い て、13 歳から 15 歳の少女 13 人と「ハーレム」を作って人生をエンジョイしていると 新聞の社会面をにぎわしたことがある。ところが、こういう「肉食系ハポン(日本人) 男」が比にもいるから「驚き、桃の木、山椒の木」だ。先日 SNN を訪ねてきたフィリ ピーナの話は初めウソだと思った。この日本人は九州の自営業者で、今は仕事も順調な お金持ちだという。比人の正妻と日本に住んでいるが、彼女はもう 40 歳過ぎでオンナ は卒業し子どもと家業に精出している。旦那はマニラに 2 代目の女(30 歳過)がいる。 3 代目の女が私で、地方の島に住んでおり、子どもが 1 人いる。ただ歴代彼のオンナは 30 歳になったらお手が付かなくなる。 私も今年 30 歳になるので多分「お払い箱」でしょう。お払い箱になっても毎月のお手 当てはくれるし、子どもの「認知届」は歴代皆、すぐにしてくれる。ただこんな「愛人 生活」を 10 年やっていた人間が介護士や工場労働者がやれるとは思えないのだが、何 とかして日本へ子どもと行き将来は家を建てたいという。旦那は 70 歳近いが。まだ 「週 2」は大丈夫という。どうも日本人には珍しい「肉食系爺さん」だが、フィリピー ナはどうなのだろう。 別の男は 3 人の女に 11 人の子持ちで野球でもサッカーでもやれると豪語する。ただこ ういう人が妻や愛人とその子供たちに囲まれてニッコリ微笑んであの世へ旅立ったとい う類の話は聴いたことがない。というより末路は孤独氏で哀れだ。


肉食系コツマナンキン フィリピーナはその美しい顔に似合わず「肉食系」が多い。もちろん、私の直感に過ぎ ない。それはそれとして、フィリピーナの結婚や愛人の選び方には驚く。日本人男性の 現住所、旅券のコピー、勤務先も仕事内容も知らないまま、自ら進んでキスからセック スへと進み、数年たった今も出世証明書の父親欄は空白のままの人がたくさんいる。彼 女らが一緒になった理由は「優しい」「日本人は金持ち」「日本人は頭が良い」。だか ら「日本人の子供を持てば一生安泰」だと、どこから聞いたのか分からない話を信じて 簡単にカラダを許すという。もっともこれは「水商売」で働くオンナの話で、まともな 家庭の娘は全くそうではない。逆に非常に厳しい。しかし、一般的には「尻軽女」が多 く軽はずみに恋に落ち、セックスの上、平気で子を生む。 ある説ではフィリピーナは南洋の生まれだからハダカ暮らしが基本で早熟、そこへ基本 的に肉食系コツマナンキンだから珍しい北方の草食系(目ハポン)を見たら、とりあえ ず「食べてみよう」という肉欲が十代で芽生えるのだそうだ。外国人男が声をかけよう ものならホイホイと近づいてくるという。妊娠に対する避妊の配慮はほとんどしない。 「産児制限は悪」だというカトリックの教えが前提だからだ。 さる知人の娘が言うには、仲良し大学同級生 5 人のうち、文字通りの独身シングルは私 だけ、「出来ちゃった婚」が 1 人、残りの 3 人がシングルマザー。というくらい戸籍な どの意識はない。だから父親が日本人で日本名を名乗り、日本人の顔をしていながら、 それを証明できる裏付け資料のない子どもが大変多い。こういう正式婚姻への手続き意 識の欠如に加えて、意識的に日本での戸籍手続きを全くしないケースすら多い。加えて フィリピーナたちはその余りの貧しさから、年齢差が 30∼40 歳という時代意識の格差 は無視してしまう。日本人も 70 歳を過ぎたら結婚自体を見送るべしという私の直言を 意識すべきでは?

最近70歳を過ぎてから「身近に誰も居らず 1 人であの世へ旅立つ

のはいかにも寂しい」と話をされる方が多くて、心情は分からないではないのだがサテ。

2 単一民族と混血民族

日本人は『日本きちがい』 日本人ほど日本人論の好きな人種はいないと言われる。『日本人とユダヤ人』を書いた イザヤ・ペンダサン氏(架空名で、実際は山本七平氏と言われる)は、大変なベストセ ラー作家になった。日本人は常に「日本的」とか「日本独特の文化」とか言いたがる 自尊心が民族の立脚点であることを考えれば、その来る由来を色々と論議するのも一理 はある。

「日本きちがい」とある種の外国人に揶揄されるくらいの我々日本人が、な

ぜか「愛国心」ではアジア最低との調査が香港のマスコミで発表された。その○離に驚 きながら、改めて「日本人とフィリピン人」について考え直してみたいと考える。


フィリピン人はアジアで一番愛国心が強い この香港にある有力新聞[ファーイースト・エコノミックレビュー]の調査結果を見て、 意外な感じを持ったのは私だけではない。ちなみに最低がなんと「日本人」だった。 フィリピンに次いで二番目に愛国心が強いのは韓国人だったがこれは何となく納得でき る。 「フィリピン人は愛国心などないのではないか?」という議論になりやすい要素は 1.簡単に国籍を捨て、米国籍にしたがる。 2.外国人と結婚することに、全く抵抗感がない。 3.「タテマエ」論議が得意で「ホンネ」は隠す。 などなど色々と考えられる。しかし反面、やっぱり愛国心は強いと見られる要素もある。 1.国歌。国旗を歌う。 2.比人としてのプライドが極端に高い。 3.混血民族が「国への忠誠心」でまとまる。 などとも言われる。

日本人は愛国心がなくなったのか? 阿川弘之氏の著書に「国を思うて何が悪い」というのがあった。彼が海軍予備学生あが りの大尉という経歴、一連の海軍将官もの著作「山本五十六」「米内光政」「井上成美」 などから右翼と非難されたことへの反撃著書だった。今の若い日本人は学校で「国を愛 する」とはどういうことか全く教育を受けたこともないらしい。だからこのような質問 を受けたらキョトンとして返事に窮するという結果が香港誌のアンケート結果に表れた のではなかろうか?

ところがこの所説には反論があった。今の日本人はお金を稼ぐこ

とに精一杯で「日本国のことなど知っちゃいない」というのが本音だというのだ。「老 後はどこで、どう過ごすか?」が当面一番の課題だという談もある。

日本人は単一民族か? 数千年以上も前にアジア大陸北方のツングース族などからの鉄器・騎馬民族、中国揚子 江流域の米作・漢民族、更に南方比国・ポリネシアからの海洋・入れ墨民族、数万年前 から住むアイヌなどの原住民族が混血し構成されたのが、今の日本民族だというのが定 説化してきた。だから元々はともかく有史以来の民族はアイヌを別として、単一日本民 族と称して差し支えはなさそうだ。 発揮するのではいだろうか?

だから意外に国に一旦事あれば団結して愛国心を

昔、中国の作家が日本人は

1.

イミテーションの「物作りがうまい」

2.

チャンスを掴んで「うまく転身する」

3.

チャンバラ(戦争)が「やたら強い」


と言っていたが、政治家がうまく愛国心を駆り立ててたら戦争では強いのかも知れない。 良く考えないと又国にうまく利用されないでもない。

フィリピン人は「ハロハロ混血民族」か? これは 400 年前にスペイン人の植民地支配を受け、100 年前には又アメリカ人の植民 地支配を受けていた訳だから、間違いなくハロハロ混血民族ではあろう。(ハロハロと は比語でゴチャマゼの意)ところが、スペイン。アメリカ人よりも中国人との長い有史 前からの民族交流が、特にビサヤ地方であったから中国人との混血が非常に多い。アメ リカに見られるように、雑種混血民族は「国への忠誠心を核として纏まり」非常に強く 優秀になる。

3 マニラの人とセブの人 1957 年、初めてフィリピンの地を踏んで一番驚いたことは、この国は七千余りの島々 と七十余の言語からなる多言語多民族国家だと知った時だった。特に多数の人々が話す 有力言語だけでも「イロカノ」「タガログ」「ビコラノ」「ビサヤ」「イロンゴ」「ワ ライ」「チャバカノ」「モロ」とたくさんありまるから、共通言語として「英語」が必 要不可欠になるわけだ。これらの中でもタガログ語はマニラ首都圏を中心としてカビテ、 バタンガス、リサール、ブラカン、ミンドロ、パラワンの各州だけで使われた言葉だっ たが、戦後、比国語に指定されてからは学校教科書で、またテレビの全国放映用語とな って、全国的に聞く方では理解されるようになってきている。だから、マニラにいただ けでは、タガログ語と英語しかしゃべらない人が大多数。彼らはビサヤ語などの地方言 語は全く知らないし、覚えようともしない。 反面ビサヤ諸島・ミンダナオ島にいる人々はタガログ語は聞いて理解はできるが、自ら 進んでは話さない。私もマニラに来るまではフィリピンは単一言語のマレー系単一民族 が住む国だと思っていた。そして、マニラだけにいた間はそういう解釈に違和感を持っ たことはない。今でもマニラ意外に行かない多くの日本人はそう思っているだろう。そ して、比人が分かれて争っているのは、ミンダナオ南西部に住む回教徒モロ・イスラム 民族解放戦線と、共産党新人民軍だけだ。ところが、全比国人の七割がしゃべるビサヤ 語の人々は、セブを中心とするビサヤ諸島とミンダナオ島に住んでいる。そして彼らビ サヤ語族とタガログ語族の間にはぬぐい難い対立感情根深く存在する。そして、こうい う事実は、見下される側のビサヤ語族の人々は皆が意識し、承知しているが、強者の場 にあるタガログ語族の人々からは感じられない。こういう対立した人間感情をほとんど の外国人は知らず、比人相互間でも正面切っては口にしないまま、分かりやすく言えば 「ビサヤはアホだ」といい、ビサヤから見れば「タガログは偉そうぶって、見下しやが る」ということだ。


こういう感情的な対立は理屈の外のことで、フランスでの「英語は知っているけれど、 しゃべらない」という民族対抗意識のように、長い歴史的な背景があり双方でぬぐい難 い感情があるのだ。EDSA 革命でマルコスが追放された事件の最中でも、セブの人々は 「またタガログ連中がやってくるよ」という、何か外国の事件を聞くようなしゃべり方 だった。

4 笑わない日本人・微笑む日本人

微笑みを忘れた日本人? 特に誰かの紹介もなく、或る日系企業の役員を訪問した比人が「小さな商店の親父が何 しに来たんだろうという?」とばかりの「ニコリともしない対応」をされて憤慨してい た。これは名刺を持たない習慣の比人大手企業の社長の例で、少し遅れて誰かから電話 が入りこの訪問者が大変な大物だと分かり、掌を返したようにニコニコしながら対応し たという。 とにかく最近の日本人は余り笑わなくなった。日本へ帰って大手企業の立派なビルの受 付へ行けば「いらっしゃいませ。どちらへお越しでしょうか?」と親切丁寧な応接で恐 縮する。しかし、この綺麗な受付嬢に笑顔はない。そこには冷たい整形されたであろう 美人顔があるだけ。その点、フィリピンは嬉しい。会社を訪問すれば、こちらが誰であ れまずは「ニッコリ笑顔」で迎えてくれて、ホッとする。 日本人は経済の高度成長につれて笑顔を忘れてしまったのかと思っていたら、意外なと ころで昔懐かしい日本人女性の笑顔があることを見つけてホッとした。明治時代に日本 に来て日本人に気化してしまったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が見たであろう日 本人の「優しい天使のような笑顔」だった。 その笑顔は、一昨冬、名古屋第一赤十字病院に私が入院した間に接した看護婦さん達だ った。20 代の若さで、しかも病院任務は有名な 3K 職場であるのに、勝手な我がままを いう老人患者を相手に決して微笑を絶やさない。茶髪とルーズソックスを云々される年 代層の中に、こういう人達もいたのだと本当に心から嬉しくなった。まだまだ日本人の 将来も明るい。

比人看護師を日本へ? 何十万人ものフィリピン人看護師がアメリカで働きしかも高い評価を受けていることは 国の内外で良く知られた事実だ。そこで老齢社会へと進む日本で、3K 労働の代表とさ れる看護婦にフィリピン人看護婦をという議論がなされてきた。しかし、これは「日本 の看護婦資格」を取得しなければならないという制度と言葉の壁に阻まれて実現してい


ない。それならばフィリピン人看護婦(勿論、国家試験をパスした有資格者)を特別に 日本語教育を特訓して、日本の公共機関病院に限って派遣したらという議論が十年近く 前に行われた記憶がある。しかし、これも肝心の日本人看護婦組合から反対が強くて潰 されたという。フィリピンに住む日本人から見れば、優しい比女性の笑顔は何物にも勝 る看護用件だとバックアップしたいものだ。 しかし、現実に最近日本で体験した入院の結果は比人看護婦では無理だなという冷たい ものだったが、同時に「今の日本人はどうなっちゃたんだろう」という疑問だった。 1.

ボソボソと呟く老人患者の声は日本人同士でも聞き取れない。まして外国人では。

2.

病状の説明、問題点など日本各地から来ている患者の「方言・お国言葉」には短期

間の日本語教育ではとても対応出来ない。 3.

患者が老人ともなれば横着極まる人物がいる。フィリピン人といって見下し、セク

ハラ騒動を起こすだろうことが目に見える。 4.

患者の家族が偏見を持つであろうことが目に見える。日本人であっても担当の看護

婦を替えて欲しいという苦情を平気で言う家族が実際にいた。 5.

分からず屋の老人をなだめかすような日本語や時には「嘘も方言」と割り切るよう

な知恵は外国人に到底無理?

どうして日本人と分かる? 「何を言ってんだ。中国人と日本人は見分けが本当に難しい。しかし、フィリピン人は 顔形も肌の色も違うからすぐ分かるよ。」とこれが日本人の普通の返事だろう。しかし、 フィリピンに住んでいると飛行機のスチュワーデスからタガログ語で話しかけられたり、 タクシーの運転手から同じく現地語で話しかけられるようになる。何故だろうか?

事にも一言あるフィリピン人の友人に聞いてみた。私が日本人ではなくフィリピン人に 見られる理由は 1 着ているポロシャツやズボンが比国製もしくは今フィリピンで売れ筋の輸入ブランド だ。順日本人は我々に馴染みのないシャツやズボンを身につけている。 2 歩き方が違う。純日本人は前屈みでセカセカと両手を後ろに振って歩くか、ズボンに 手を入れて歩く。 3 英語が話せる。純日本人は普通は英語が駄目だし下手で聞くに耐えない。 彼が良く使う「純日本人」とは、日本から着任して間のない人達のことを言うらしい。 アメリカ勤務が長くて英語の達者な日本人の友達が一人いたが、風貌は中国人そっくり だった。それでも必ず日本人としか見られなかった。彼は身のこなし、歩き方、セカセ カした落ち着きの無い話し方、などが典型的な日本人だと言われ「嬉しいのか悲しいの か」と、何となくこぼしていた。私がタクシーに乗ると「中国人か?」と聞かれる。 「そうだ」と言えばそれっきり。

「日本人だ」と言えばサァ大変「ホテルは予約して


いるか?」と姦しい。どうも中国人は金にならないが、日本人は金になるというコトラ シイ。

アア?

5 フィリピンの三悪人 私が永住目的で 24 年前にフィリピンへ来た頃、ミンダナオ島カガヤンデオロ市で開催 されていた全国弁護士協会の会合で、偶然知人の弁護士に会った。

彼が曰く「今日は

クロコダイルの集まりだよ」と卑下しながら言った。私は意味が分からず聞いたら「何 にでもパクリとやるワルの集まりなのさ。フィリピンの弁護士は殆どがワルいワニなの さ」と言われて驚いた。それから何年も経たないうちに「フィリピンの三悪人」とは 「軍人・警官・弁護士」だという話を、比人社会で聞くようになった。そして彼らの悪 事の集積がとうとうフィリピンをアセアン諸国のドン尻に押し下げてしまったようだ。 比国政府のピローラ国家統計整局長が詳しく数字を挙げて「負け組み」の評価を裏付け ている。

弁護士たち 当時私はミンダナオの弁護士から不渡り小切手をだまされて往生したことがあった。ま さか弁護士が平気で不渡りを発行しシャアシャアとしているとは考えられもしなかった。 結局、数ヶ月がかりで回収はしたが私も金がない頃で困ってしまった。信用できる有能 なセブの弁護士に会うまでには、一年以上かかった。彼が曰くには「信頼できる有能な 弁護士に会うまでに皆が苦労している。マア良いのは五十人に一人だろうか?」という。 彼と会ってから二十余年間他の弁護士は全く知らない。アメリカと同じく何でも引き受 けて「ダメモト」で着手金だけを稼ぐヤカラがとにかく多いのだ。こういう弁護士崩れ が移民局や税関には沢山いる。日本と同じ「弁護士様なら敬して敬う」なんて考えたら 大間違いだ。勿論、人格清廉、やり手の弁護士も数は少ないがおられる。

警官たち 大体がワルだと考えて間違いない。底辺の街頭を巡り歩く警官は小金を集めて回ってい る。街頭の露天商から「ショバ代」をとり、ついでに「コーラ」をせしめて「タダ飲み」 する。だから彼らは例外なくデップリとお腹だけは大きい。その上のクラスになると外 国人を脅し上げて大金を召し上げる。大抵は下っ端のチンピラヤクザと組んで美人局 (ツツモタセ)をやる。更に上のクラスになるとワルの政治家を脅し上げて、彼らのポ ークバレルの分け前に預かろうとする。清廉潔白な比人警官などまず見当たらない。上 司が部下を注意しようとしても「それなら貴方がやっていることを全部ブチまけよう か?」と逆に脅す。彼らの汚職構造は彼らの肉体に染み付いてしまっている。どうにも ならない??


軍人たち 最近暴露された「ガルシア参謀次長」の例は氷山の一角だという。それでも彼の不正蓄 財は一億四千万ペソ+米国の不動産だという。米国の不動産は評価がまだ出来ていない というだけだから益々増えてくる。ミリアム・サンチャゴ上院議員の暴露的証言では歴 代の参謀総長以下 12 名の将軍で不正の構造は出来上がっており、毎年国庫から流出し する損害金は 20 億ペソ以上だという。そしてアロヨ政権はこれ以上将軍達を訴追すれ ば軍は機能しなくなるといい、マアマアで済ませれば不正利益に関与していない、若い 兵士達が革命騒ぎを起こすと懸念している。サンチャゴ議員のような命を的に汚職摘発 を進めようという議員が大統領にならないとダメだろうか。

6 マカティ族とマラテ族

マカティ族(駐在員社会) 十数年前のマニラ日本人社会はマカティ族・マラテ族・沖縄族で構成されていると言わ れた。マカティに住む大手企業駐在員は主にマカティ市の豪邸を借りて、3∼5 年の任 期を終えたら日本へ帰るエリート社員の集団で、眼は常に日本本社へ向き、その指示に のみ忠実に動いている。だから、フィリピン人との本当の交友は疎んじられている。勿 論、比人社会への深入りも全くない。しかし中には十数年後に定年退職してから、第二 の人生を求めて再びフィリピンへ戻る人がボツボツ見られるようになった。 さて、今もって『マニラ日本人会』は主にこれらマカティ族で構成され、余り比人社会 への積極的交流はない。

マラテ・マビニ族(移住民社会) フィリピンへの永住を予定し、フィリピン女性と結婚している人々が一匹狼の形で細々 とビジネスを営みながら、マニラの下町マラテ・マビニ地区に住んでいた。これらの 人々を代表するのが『マニラ会』を構成しているグループだ。『マニラ日本人会』社会 とは一歩距離を置き、移住者でだから、比人社会との交流をより積極的に行っている。 それ故、メンバーの考え方にはマカティ族の日本人とは大いに違うものがある。同じ日 本人とは言うものの、この両者の交流はその考え方の相違もあって容易なことではない。 (そのマニラ会は、4 分5分して組織の体をなくしてしまった)

沖縄族 やはり住む地域はマラテ族と同じくマニラの下町が多いのだが、その構成員は年々減っ て来ている。主に戦中・戦後(1942∼50 年)に旅券も持たずに沖縄から移住した漁師


の若者が主だったが今はもう 70 歳以上。皆さんフィリピン女性と結婚し、日常語はタ ガログ語だからもう比人社会と同化し、二世の方々は日本語をほとんどしゃべれない状 況になっている。又、中には戦後沖縄で米軍人として駐留していた比人と結婚して渡比 した女性の方々もいる。何故か共通してコンプレックスを持っているようで別の層との 交流がない。中には、ヤクザ・グループでいいように利用された人もいるようだ。

これら日本人を見る「比人の眼」 『マカティ族』を見るフィリピン人は、しょせん数年経てば日本へ帰る人達だから、基 本的には「敬して遠ざける」「ほどほどのつき合い」になり、相互共に人間的な交流は 少ない。フィリピン人をボロクソに低く見て「交流などとんでもない」という御仁も結 構多いものだ。このような人は早く日本に帰るべき人とでも言うだろうか。 『マラテ族』の人々を見る比人の眼は二つあるようだ。一つは、比人から尊敬されすっ かり地域社会に馴染んだ人達、更に一つは困窮邦人が代表する、詐欺師達とヤクザ・グ ループ(これらの人達は勿論、日本人社会組織には入らない)それ故、フィリピン人か らの眼は「尊敬」と「侮蔑」の二つに分かれる。後者と結婚したフィリピン女性には悲 劇が待ち受けているが、これら悲しい歴史には、日本男性のみならず比人女性の側にも 思い込み違いが多過ぎたために、起こった例も多い。

7 同じ失敗を繰り返す民族 太平洋戦争を振り返って 我々の学生時代は大東亜戦争と言っていたが、そんなことはどうでも良い。しかし私も まだ、この戦争に戦中派として拘り続けている。先日テレビの「NHK スペシャル」で真 珠湾の数年前に、あの満蒙国境でソ連軍戦車隊と戦った。「ノモンハン事件」の真相を 映像で見てヤッパリという感を深くした。そして、ここでもあの陸軍参謀本部・作戦課 参謀「辻正信」元大差(戦後参院議員当選、後にインドシナで行方不明)が一敗地に塗 れていた。私が拘るのは、この太平洋戦争が「解放戦争」だったのか、「侵略戦争」だ ったのか「自衛戦争」だったのか「帝国主義戦争」であったのかと言う議論は別に置く として、日本軍の作戦や戦闘のやり方に『おかしな』ことが余りにも多いからだ。そし て、その拙さの為に大損害を蒙っても大本営参謀部・作戦課の中枢に居続けて「ガダナ ルカナル」「ポートモレスビー山越え」「インパール(世界の作戦史上最大級の愚挙)」 と同じ補給作戦の大失敗を繰り返して、自分だけはノウノウと生き延びた。 アメリカ軍は同じような失敗は二度と繰り返させない。前の失敗を徹底的に分析して万 全の策を講じる。同じやり方で二度と負けるようなことはない。あの「必中必殺」を心 情とした神風特攻隊でもアメリカ軍の防衛対策により命中率は最期の頃には、五%以下


に落ちてしまっている。そして、徹底した信賞必罰で、辻元大佐のようなことは全くあ り得ない。アメリカなら即時退役であろう。こう言う日本軍の構造的欠陥は、陸海軍大 学校(陸海軍の最高学府でここを出ないと参謀以上になれない)を出てしまうと優劣の 競争がなくなり、年功序列で賄われたことに由来する。あの海軍の「ミッドウェー海戦」 でも司令長官が南雲元中将(水雷船隊出身)でなく、次席の山口多門元中将(航空隊出 身)だったならおそらく勝ったであろうと言われたが、南雲元中将が海軍大学で一年上 だったと言う単純な理由で最高指揮官をやっている。 この単純な年功序列、戦後今の日本社会構造の中にも残っている。これからの日本人社 会は優勝劣敗で評価されるようにならないと、世界の中で勝ち抜いて行けないのではな いだろうか? 日本の商売で失敗し比国へ来たとしても、日本軍のように同じ失敗を繰り返さなければ 「必ず陽はまた昇る」と考えて良いだろう。

「出来ない理由」を探すフィリピン人 フィリピン人と仕事をすると、出来なかった理由を非常に上手く釈明する。「Because of

何々」と言う訳だ。

「交通渋滞で遅れた」「急に叔父が亡くなって」など手当たり次第で、釈明の材料には 天才的に事欠かない。そして自分の手に負えない時は無条件降伏して「諦める理由」を 探し始めるものだ。その探す情熱をやりたい事に注げばどんなにか人生は好転して行く かと考えるのだが、多数の比人は「出来ない理由」を極めて熱心に探す。更に最近の若 い人に見られる傾向として、一つの事柄に熱心に取り組んだ事がない為に必要以上に臆 病になっている。出来ない理由など探し始めたらキリがない。そこをグッと押さえてや るための意義を見つけて行く事が人生の醍醐味ではなかろうか?

鉄砲打ちの名人に

「遠い電線の上の鳥と、近い地面の上の鳥とどちらが撃ちやすいか」と聞いたら「撃つ には同じ位の労力と技量が要る。どちらも大差ない」、つまり一見難しそうな目標を持 っても実はそこへの到達はそれ程困難ではなく、逆に簡単そうな道も楽々と行ける訳で はないと言う事だ。 また、物事を簡単に諦めると言う傾向が比人には強いようだ。それは今まで余り真剣に 取り組んだ事がない為に、自分で出来るか出来ないか分からずに必要以上に臆病になっ ているに過ぎない。 「門は叩かなければ開かれない」と説得すると、意外にやれる事が分かって自身を持つ ようになる。この辺りが比人マネージャーを使うコツなのかも知れない。


8 日本人は無宗教か?

日本人は本当に『無宗教』なのだろうか? いまや日本人の大多数は「無宗教」を標榜して怪しむことがない。しかし、ある新聞の 調査では全体の七割が『無宗教だ』と返事しながら、その内 75%の人たちが『宗教心』 は大切だと返事している。つまり日本人の多くが無宗教だと言っているのは「特定の宗 派の信者ではない」ということらしい。 ないのだ。

だからキリスト協会でいう「無神論者」では

しかし外国人から見れば甚だ理解しにくいことになる。

軽く「無宗教です」と言っただけのつもりが相手からは「神」の存在を否定する不逞の 輩だとして付き合いを断られかねない。

普通の我々日本人が考える宗教とは「キリス

ト教」「イスラム教」「仏教」のように、「教祖」があって「教会・寺院」があり「経 典」があるものだ。

だから私はどこの宗派にも属していないから無宗教だというので、

宗教心・道徳心は相変わらず父祖の代から脈々と受け継いでいるという人たちが以上に 多いのものだ。 そうでないと無宗教を標榜する日本人が、なぜ一般的に正直で礼儀も正しく法律を厳し く守る人種なのかという説明がつかないと比人から言われる。いずれにせよ「無宗教で す」と言って通るのは日本列島内部だけのことで、他の伝統文化で生活する外国では全 く通用しないことだと良く理解しておくことが肝要だ。さもないと侮軽の対象にされる。

初詣・お盆の墓参り・七五三は宗教でない? 無宗教だと称する日本人が除夜の鐘を聞き、初詣に出かける。元旦には八千万を超える 人たちが社殿に詣でて、お賽銭をあげる。

暦にはのっていない国民的行事として 8 月

15 日の「お盆」には多数の日本人が故郷へ帰り、先祖のお墓参りをし水をかけお花を 捧げる。七五三には子供たちの無事成長を祝って神社に詣でる。 これらはやはり一種の宗教行事ではなかろうか?

それとも平安時代以降の長い年月に、

習慣化してしまったために宗教との関連が色あせて単なる年中行事となってしまって意 義も忘れらようとしているのだろうか?

日本人は「清濁併せ飲む」という美徳のせい

もあるのだろうが、キリスト教徒のクリスマス降誕祭も、仏教徒や神道の信者も巻き込 んで堂々と祝い、年末の風物詩にしてしまった。 風俗習慣となって同化してしまった古い古い宗教行事n数々は宗教ではないのだろう か?

否。これこそが今日の日本人の行動規範を形作っている『日本自然教』とも言え

るものではなかろうか?私のセブの家には『神棚も仏壇』もないが、神仏を信じる宗教 心は篤いつもりだ。


この上なく篤い比人の宗教心 昔 20 年位前にマニラでタクシー強盗にあった。それ以来注意して車内に十字架をぶら 下げるかキリスト像を置いたタクシーしか乗らないことにしているが、以来全く事件に 遭ったことはない。やはり運転手でも宗教心の篤い人は悪事は働かないものだと思う。 比人の宗教心について考えるには手近なところで妻の日常生活から類推できる。

毎朝

娘を学校へ送った後の帰り道30分教会へ立ち寄ってお祈りする。毎週水曜と木曜は午 後に教会でお祈りの集会がある。毎週日曜日には午前中娘を連れて教会へ行く。娘は娘 で教会の建てたミッションスクールで勉強しているから朝から晩までキリスト教にどっ ぷりである。だから彼らにとっては教会へ行くことが毎日の日課だから他の宗教に眼が 移る余地は全くない。300 年のスペイン統治は「キリスト教を残した」100 年のアメリ カ統治は「教育を残した」と言われる。

キリスト教のバイブルの教えは素晴らしいが、

それなら何人の比人教徒が素晴らしい教えを守っているのだろうか?

私は疑問を持っ

てから久しい。 なぜか無宗教を標榜する日本人の方がはるかに正直だし、はるかに汚職もすくない。比 人には浮気に対する罪悪感も少ないようだ。借金への返済義務感はないに等しい。警官 は犯人を逃がして捕まえないか、後が煩わしいからと銃弾を撃ち続けて殺してしまう。 これらは悪い例だが、他人の悪事にも寛容だから戦争中の日本軍の暴虐に対して「忘れ はしないが赦す」と言ってくれる温かい国民性がある。

葬式の習慣と宗教を考える 人間が自分の有限性に目覚めて、後長くても 10 年かなあと考え始める時にその人の心 の内に宗教が意識されるという。

そうしてから、おもむろに自分の死を意識し、葬式

はどうするか?お墓はどうするかと考えるようになる。

お骨は灰にして海に流してく

れと言っていた人が、60 歳を過ぎたら家族や周囲の立場も考えてやはりお墓を建てよ うとなったり、家が仏教徒だったからお寺やお経やお墓をどうしようとか真剣に考える ようになる。

正直私自身がそうだ。

私は日本で浄土真宗の葬儀も経験しているし、比国での妻の親族のキリスト教式の葬式 の経験もある。ところが、セブでは仏教のお寺は無いし、お坊さんもいない。キリスト 教式の土葬(実際はコンクリート製の箱にお棺を入れて直ぐにセメントで蓋をする)も 馴染めないしゾッとしない。キリスト教徒でもないから恐らく教会が受け入れてはくれ ないだろう。


9 神はどこから来て、どこへ帰るのか?

天国へ行けるのは? キリスト教では、昔から「天国」へ行けるのはキリスト教徒だけだと決められていた。 なかでもカトリック教徒が一番でプロテスタントはビリだといっていた。 仏教徒は、別段天国に行けなくても「極楽浄土」があるから構わない。回教徒には「楽 園」があるから問題はない。ところがキリスト教徒だけが天国を独占するのはどう考え てもおかしい。そこで現法王ヨハネス・パウロ 2 世は「この世の全ての正しい人はみな 同じように神の王国を築くために召される」と言い始めた。八百万の神を信ずる「神道 信者」も阿弥陀如来を信じる「仏教徒」も、妻を 4 人持つ「回教徒」も「無神論者」も 正しい人間 なら誰でも天国に行けるという訳だ。世界一の宗教の教義も時代と共に便 宜的?に変わるものらしい。まあ言えばどんな宗教信者でも無宗教信者でも 正しい人間 ならという前提ながら、「天国」「極楽」へ行けるというわけだ。

神々と森と人のいとなみ 昔、我々のような田舎育ちは「聞こえるのはせせらぎと、梢をゆする風の音」

「森が

奏でる音に感じる野生の力「鎮守の森に感じた不思議な霊気」を未だに忘れない。東京 育ちでも「明治神宮・代々木の森」も 80 年経って自然林の様相を呈して「鎮守の森」 になってきた。

これは全国からの献木と 11 万人もの若者達の手で作られてきた。伝

統的な日本人の自然観や環境問題を考える時「日本人の精神的風土としての森」の偉大 さを感じさせるのが「霊気を感じる鎮守の森」だ。21 世紀はこれまで以上に「心のゆ とりと安らぎと癒しがキーワード」となる。森のないフィリピンでは更に「鎮守の森」 が必要になってくるように考えるが如何がなものだろうか?

何もない森「御嶽(おたき)」 太古の昔、黒潮が流れ着く沖縄から紀伊半島にかけては、神社の社(ヤシロ・建物)が なく「森だけがある霊所」が今でも沢山ある。とくに沖縄・南西諸島方面では「御嶽」 (オタキ・オタケ・ウタキなどと呼ぶ)と称する「鎮守の森」が各所にある。ご神体は、 村の高い場所の「森」、後ろの「山」、「巨岩」、などで神社の建物はない。ここへ毎 年日を決めて神々が降臨するから、一家の幸福を祈りお神酒を捧げ、御○の掃除をし、 ご馳走を食べて歌い踊ってともに過ごすという慣習になっている。紀伊半島や沖縄を始 めとする南方の島々に存在する、社殿も鳥居もない『森の聖域』(御嶽)、それこそが、 無宗教といわれる日本人の原始信仰の原点ではなかろうか?


日本人の先祖返り これら鎮守の森は照葉樹林であり「神の依り代(ヨリシロ)」となる木も「クバ」「タ ブ」「楠」「椎」といった南方系の樹木だ。神事に使われる「サカキ」は、もともと 「タブ」という南海から移植された熱帯性の木だという。また、言語学者村山七郎氏の 研究では日本語のハ(葉)がかつては「ヤシの葉」を、ヒサゴが「バナナ」を、アム (虻)が「吸血性の小昆虫」を意味するとしたあと「私たち日本人の祖先は、ヤシが生 え、バナナがなり、熱帯性のヤム芋が成育し、熱帯性の吸血小昆虫が棲息する地方に住 んでいたのです。いつ頃この南の現郷から日本列島に渡来したのかと言えば、縄文時代 中期よりも前だろう」といっています。だから我々セブに住む日本人は数千年前の故郷 へ帰っているのかも知れません。 私は、どこかセブ市の近郊で 10 へクタール近くの岡か小山を買収して、ここの鬱蒼た る楠か照葉樹林を飢えて「御嶽」とし、毎年一回日本人の先祖の神々に降臨していただ き、日本人が静かに心を癒す神域にしたいという夢を抱いている。年末の爆竹騒音に悩 まされ、カロリンの小さな子供の寄付強要の声に嫌気が差し、日本人の魂の居場所をと 考えた夢がこのようなことだ。

ただ、夢でなく単純に「鎮守の森」を作りたいという

プランは、日本人の子供達にとっての運命的な喜びになりそうな予感がするが、如何な ものでしょう?

10 兼好法師流「女辛口論」 「よろず相談」にみる 秘密が漏れないという定評を頂けるようになったせいかビザ問題意外に私的な女性関係 などの相談を受ける機会が多くなっている。その殆どが、強いフィリピン女性にむしら れて苦しむ、大人しい日本人男性の姿だ。日本人男性に「貴方が間違ってますよ」と云 えるケースは非常に少ないようだ。こんなおとなしいキレイな比人女性が、ここまでや るかという感じだ。昔の知人が比人妻に逃げられたのか、追い出したのかして、メイド に手を出し彼女の一家に開き直られてメイドには居座られ、法的ではない再婚を余儀な くされてしまったとか、帰国留守中に家出されて家も売り払われていたとか、自分が建 てた家から追い出されて放浪しているとか、80歳近くになって一ペソも小遣いをくれ ず泣きの涙の毎日だとか、数え上げたらキリがなくなる。昔の日本女性はどうだったの かと「徒然草」を紐解いて見た。

女に厳しい兼好法師 第百七段にこうある「女の本性はみなねじけている。我が強く、欲深で、物の道理を知 らない。迷いの方にすぐ心が移り、口が達者で、差し支えないことを訪ねても、こちら


が問うときには言わず、それで何か気配りしているのかと思うと、とんでもないことま で、聞かれもしないのに話し出す。本心を隠し、外見を飾ることでは男の知恵より勝っ ているかと思うと。それがじきにばれてしまうことには気づかない。まことに女という のは素直でなく、くだらないものである。」だから、女に気に入られようとするのはつ まらないことだし、なぜ女に気を遣う必要があるだろうかとこきおろすのである。

もし、賢い女がいたら 同じ第百七段に「もし賢い女がいるなら、それも親しみ難く、きっと興ざめするに違い ない」とある。そう、男がもっとも嫌悪するのが「賢い女」なんだという。これは、 「ちょっと賢い女」なんで、「本当に賢い女」は別なのだ。 恐らく現代にこういう発言をしたら「総すかん」をくうだろう。又、第八段では「女の 色気ほど男を惑わせるものはない」といいながら、第百九十段では「妻こそ男が持って はならないものである」と、どこまでも痛烈だ。しかし兼好にとっては女性一般はつま らない存在だが、自分の理想に叶う女は又別なようだ。

どんな男が良いのか? これだけ女の批判と悪口をいう兼好法師も「どんなに素晴らしくても、恋の真味を知ら ないような男は物足りない」と恋愛自体を否定しているわけではない。ただ、第三段で は「かといってひたすらみだらな振る舞いをするのではなく、女に軽々しいと思われな いのが理想だ」としている。一方では女性を批判し、女性に気に入られようとするのは つまらないと言いながら、もう一方では恋の素晴らしさを語り、女に軽々しいと思われ ない男がいいとする。矛盾と取れなくもないが、男の微妙なプライドと本音を見事に言 い当てているといえそうだ。とはいえ、若い頃に兼好はよほど酷い失恋をしたのではな いだろうか?と疑って見たくもなる。実際、兼好は失恋がきっかけで出家したのでは、 という説もあるが、その真偽は明らかでない。

フィリピン女性はどう? 一般的に日本人男性とは「相性がいい」と思う。結婚して平穏無事な家庭を築いている 人も多い。あまり上手く行っていない人達は、「フィリピン女性を見下している」「英 語が出来るから賢い女性だと錯覚している」「賢すぎる女性は妻には向かないと知るべ き」「日本人は偉いと勘違いして思い上がっている」「お金の切れ目は縁の切れ目」 「彼女たちは一義的にはお金が目当てなのだ」さもなきゃ、20 代の女が 60 代の以上の 男に恋を感じないよね。


11 「風呂の文化」と、「水浴び文化」

日本人「風呂の文化」 外国人のホテル経営者がこぼしていた。

日本人の団体客が入るとタンクに湧かしたお

湯が直ぐ空っぽになるというのだ。日本人はなぜ揃いも揃って皆がお風呂に入るのかと いう訳だ。

日本人は一日の疲れをお風呂で癒すのだと言っても外国人には分からない

らしい。特にフランス人のように1年に数えるほどしか風呂に入らない人種には考えら れないことらしい。僅かにアメリカ人がよく風呂に入る。

これはアメリカ大陸を西へ

西へと開拓を続けた時代に、汗と土埃を落とす為についた慣習からだという。ヨーロッ パの温泉は身体に良いからと飲むためのもので、お湯に浸かるためではないという。だ からヨーロッパのホテルはシャワーだけだが、アメリカのホテルは浴槽がついている。 それでもアメリカ人には日本人が何故こんなに熱いお湯に入るのか理解できない。 だが私は熱いお湯が大好きな日本人だから家を建てたときは真っ先に「風呂」を作った。 一日の結びは『風呂に入って』という事になる。当然夕方から夜になる。ところが、こ れが比人妻には理解できないらしい。シャワーは朝浴びないと身体に悪いと講釈を言う。 だが私は寝る前の風呂は身体が温まって寝つきが良くなるからと、寝酒の「タンドアイ ラム酒のお湯割り」と同じく意見を変えない。 これは恐らく何百年にもわたる日本人の文化でこたつ・火鉢の暖房で寒い冬を過ごした 時代の寝る前の暖をとった知恵からきたもので、無意識に身についた習慣かもしれない。

比人の水浴び・シャワー 皆さん、朝の出勤時間帯にエレベーターに乗りあわせた若い女性がみんな「洗い髪」の ままであるのにおきずきでしょうか?

乾かす時間がなくて半乾きのままで駆けつけて

きたのです。 日本では日中に洗い髪のままでいたら、変な勘ぐりを受けて恥ずかしいのですが、フィ リピンでは一向に平気です。理由は皆さんが朝起きてからすぐに洗髪をし、身だしなみ にを整え、お化粧をしてからご出勤というわけです。

遅れるくらいなら夜の内に髪を

洗っておけば良いと思いますが、フィリピン人は男女問わず、身体を洗うのは朝でない とダメなのだと「ロロ・ロラ」(祖父母)の代から教えられているのだという。

疲れ

て帰ってから水を浴びたら血圧が急激に変動して「ハイブラッド」で倒れるのだという 訳らしい。まあ、一理はありそうだ。 私も自宅を建てるまでは、夕方帰宅してから直ぐに水のシャワーを浴びたり、水をかぶ っていたがさすがに12月∼2月の間は寒くてたまらない。されでも朝シャワーには切


り替えなかったが、何故だったのだろう?

比人には水のシャワーで心を癒すという感

覚は全く見られない。500 年前にマジェラン艦隊が初めてセブへ来たときに記録された ピガフェッタ航海士がいっている。「彼らは清潔好きで、毎朝水をカメから汲んで浴び ている」とあるから、長い長い生活習慣なのだ。良い悪いではないのだし、やはり熱帯 生活の知恵で「朝の水浴び」が意外に正しいのかも知れない。朝は未だ体力が充実して いるのだから。 入浴に絡んで比人女性の習俗に奇妙な習慣が見られる。入浴後彼女らは平気で長い大き なタオルを、胸を隠して巻きつけ部屋の中を闘が歩する。来客がいても特に恥ずかそう にする訳でもない。日本人の誰かがタオルが落ちたらどうするんだと言ったが、そんな 例は見たことがないという。そのくせ裸への羞恥心は日本人女性以上だと思われるから 奇妙だ。 日本で温泉へ行ったときのことも妻も娘も人前で裸を見せる事に大変な抵抗感があって 「ジャパニーズはバストス」とやられたことがあった。幕末から明治にかけてはやって きた外国人(毛唐といわれていたが)が『混浴』の習慣を知って『野蛮』だといいなが ら、、100 年後には自分達で「ヌーディスト・キャンプ」をオープンしてうつつを抜か しているのだから日本は先進国だったのかも知れない。 風呂やシャワーは、健康上(朝)が正しいのか(夜)が正しいのか(夜)ガ」正しいの かどなたか健康医学的に研究されませんか?何事にも裏と表がありますから面白いこと になるかもしれません。

12 日比「家族力」 歴史時代小説「あかね空」で直木賞を受賞された作家「山本一刀」氏が「家族力」とい う自伝エッセーの中で3度の結婚、2億円の負債を抱えての貧乏暮しを支えてくれたの は、いつも「家族」だったと回想しておられる。海外在留邦人には特に身につまされる 方々も多いと思う。異常と思えるくらい結びつきの固いフィリピン人家族・親族の中で 暮らす在比邦人たちの姿を見ながら、日比版「家族力」を考えてみたい。

韓国人妻から逃げた男 彼、加藤(仮名)は若いころ、日本のラン栽培業界ではちょっと知られた存在だった。 韓国では大学でラン栽培学講義したり、有名実業家の自家ラン園のコンサルタントをし ていた。そして日本の妻とは正式に離婚して、韓国人女性と再婚し、1ヘクタールのラ ン園を経営していた。という。


ところが、ラン園が軌道に乗ったのを見て、韓国人妻は夫の追い出しにかかり、命の危 険すら感じたらしい(本人が言うだけで真偽は分からない)。着の身着のままで、ソウ ル空港からタイへ逃げ、さらにフィリピン・ダバオへと逃亡して来た。持ちが金がなく なってからは東ミサミス州カガヤンデオロ、セブを転々とし、最後はダバオで生き倒れ に近い形で亡くなられた、75歳だった。最期を看取ったのは家族でもないメード母子 だけだった。ただひとり、日本に居た娘さんから連絡があったが、彼女はアメリカ人と の間に子供をもうけたものの、離婚。「生活保護法」の適用を受けているから、海外渡 航は認められないのでと、断りの電話があっただけ。遺骨は我々日本人有志の手で日本 の娘さんに届けた。韓国人の本妻からは何の連絡もなかった。 この葬儀場には日本人だという遺骨 2 柱が、壁の棚に置かれたままだった。

食堂経営の転落 もうひとりの彼は、一時期、盛大にマニラで食堂を経営していたが、比人妻に訴えられ て入国管理局収容施設に入っていた。この後、比人妻は食堂を売り払って別の男とオー ストラリアへ逃げてしまった。在留邦人たちの手助けで出所し日本へ帰ったが、またま たセブへ舞い戻って食堂を経営、盛大になってきたようだったが、いつの間にか姿が消 えていた。 実は、この食堂は別の比人が本当のオーナーで、彼は単なる顧問に過ぎなかったため、 経営が軌道に乗ったらもう要らないとクビにされたわけだ。そして、ここからの転落は 早く、日本人のワルに騙された挙句、最後は三畳間のセンベイ布団でメードに看取られ て亡くなられた。彼女は、一時内縁関係にあったらしいが、最後まで逃げなかった。日 本にいる息子は葬式にも来ず、娘が比人母と連れ立って葬式に来てくれたのが幾らかの 救いだったらしい。

老父と 3 人の息子 最近、80 歳の老父が息子 3 人を連れて日本へ帰国した。彼のような激しい変転を繰り 返した在比日本人もおるまい。だあ、80 歳超えた今、「電気技術者」「大工」「電気 工事人」と腕に職を持つ 3 人の息子がそろって、帰国の父に同行。来月からは比人妻と 18 歳の娘も加わる予定だ。恐らく落ち着いた老後になるだろう。彼は 12 年間、モンテ ンルパ刑務所降らしの厳しい条件にも耐えてきた。 そして、今でも家の中では「えらいお父ちゃん」として、構え、家族を長男と共に束ね ている。家中がみんなな「父を大黒柱としている」ようだ。こうなると大きな力にまと まる。彼がモンテンルンパ刑務所に収監さされながらも、同敷地内にある(太平洋戦争 の)B,C 級戦犯刑支社 7 名のお墓「慰霊碑」の墓守をして必死で稼いだ金を 12 年間、 妻のも元に送り続けていたという


私が長男を連れて初めて訪問した時、息子は涙にくれて声も出なかった。慰霊碑に墓参 される日本人からの寄付金の半分を所長に巻き上げられながら、経費の残りをこっそり 蓄えてきたという。所長から墓守に指名されたのは、彼がそれなりに勉強した戦犯刑死 者の略歴などを全部暗記し、説明ができたからだ。 換気扇がある便所が一番過ごしやすい上席で、丸裸にならないと熱くて寝られない環境 下、「生き延びたい」という家族への強い思いが支えになった。それだけに 80 歳を過 ぎてから 60 歳の老妻と結婚式を正式に挙げられた喜びは大きかったようだ。帰国後の 第一報は、新しい人生を築くために「本籍を山口県に移し、新しくスタートし、さらに 10 年は頑張ります」とあった。。私からはただ一言、「年なのだから息子達に従いな さい。体がいうことをきかないのだから」。

13 比人に「技術を教える」と 初めてフィリピンへ来たのは 50 年前、1957 年だった。「日比賠償協定」が締結され、 戦後日本から送られたままマニラ港に野積みされていた旧軍工廠(しょう)の工作機械 をどう有効に民間に転用するかを比国政府に助言、答申するプロジェクトで、政府招聘 (へい)だった。飛行機から降りるタラップには赤いじゅうたんが敷かれ、高名な上院 議員が出迎えてくれる VIP 待遇だった。 降り立ったのが弱冠 29 歳の私ただ一人だったから相手は相当驚いたらしい。当時、戦 争に参加した旧軍所属者は入国を認めないという条件だったので、終戦のとき、18 歳 だった私など若い人しか対象にならず、さらに工作機械を実地に使い、通暁した者しか できない種類の仕事だったから、通産省から外務省、賠償調達賞に推薦されたのは私一 人。若かったが、機械の図面の読み取りも製図も使い方も十分にできた。経営にもそれ なりの経験があった。英会話能力の不足を別とすれば自信満々マニラで向かったものだ った。 50 年前といえば敗戦から 12 年しか経っておらず、対日感情はまだまだ悪かった。マニ ラで放映が始まって間がないテレビを見ると、毎晩、「抗日ゲリラ戦」物ばかり。だが 若造の私を比人は高く評価してくれた。敗戦国から来たと見下されたことは米人コンサ ルタントからせも一度もなかった。終戦で大学を中退したものの、戦後十年も工場現場 で叩き上げられた自信に支えられ、恐いものなしで教えたものだ。結構、技術者にあり がちの「高飛車」に決め付けるしゃべり方だったと思うが、敗戦国民だからと萎(い) 縮することは全くなかった。 私は当時、「技術協力「技術援助」とか「技術移転」とかいうような迎合的姿勢は全く 取らず「技術を指導する」という姿勢を崩さなかった。「私は先生だ。キミたちは生徒 だ」で押し通したが、ついてきた。蛇足だが、これは職場でのこと。家庭で同じような 自信過剰を押し通せば大変な問題が起きただろう。


戦後しばらくは「テクニカル・リーダーシップ」(技術指導)といっていたものが、そ れが「テクニカル・アシスタンス」(技術援助)、「テクニカル・コーポレーション」 (技術協力)となり、さらに「テクノロジー・トランスファー」(技能移転)という言 葉で表現されるように、国際間の提携のあり方が変容してきたことにお気づきだろう か?

こういう言葉の遣い方に日本人、特に政府官僚の外国人に対する「ヘツライ根性」

がかいま見えて仕方がない。 最初の仕事は、フィリピン政府関係者が非常に協力的で、楽しくやり遂げた記憶だけが 残っている。だが、今も残る苦い経験が全くなかったわけではない。ミンダナオ島で工 場を建てたころ、下請けの鉄工所が私の描いた図面では加工できないという。業を煮や して工場へ行き、旋盤のバイト(刃物)を鍛え直し、自分で旋盤を動かして作ってしま ったら、「ミスター・オカは工員の叩き上げで、大学出のエンジニアじゃないのでは」 という風評を立てられた。 フィリピンでは、「大学を出たエンジニア」はホワイトカラー、「小学校・高校卒」は ブルーカラーで一生変わらない。「ホワイトカラー族」は決して工場に入ろうとしない から、真の知識も経験もほとんどなく、機械も動かせない。日本では昔から大学出も何 年か現場を経験させられた。

佐藤栄作首相も鉄道省に入ったときは駅の切符切りから

スタートしたものだ。 フィリピン流はアメリカの表面だけを真似し、ホワイトカラーとブルーカラーを分けて 対立させてしまっている。だから、日本人の上司がいなくなれば簡単に工場が崩壊する と覚悟しなければいけない。後任に優秀なフィリピノを選んで教え育てても、退社され れば、教えた知識も彼とともに失われ、「会社の知識・経験としは何も残らない」と知 るべきだ。フィリピノ幹部は部下に、覚えた知識・経験を全く教えないものだ。 よく頑張ってくれると期待して、日本へ出張させて「日本能率協会」などの研修会に参 加させるとする。帰国すると他者に「研修修了証書」を持ち回って就職活動に奔走し始 めることさえ現実にあった。これも熾(し)烈な就職競争社会で育った人間の知恵なの かも知れない。何しろ上は大統領から下は庶民に至るまで、プライドは異常なほど高い。 最近、SNN は新日系人母子への「無料・日本語学校」を始めた。私は若い日本人先生を 信頼して任せきりだが、時には授業を参観する。生徒が信頼するように若くても皆さん 「先生」と呼ばれている。昔からの持論だが、「先生と生徒」「技術を指導する日本人 上司と覚える比人従業員」は確然と区分しておくことだ。ナアナアでは逆に進歩がない。 それにつけても若い世代によって整然と管理運営されている日本企業を見ると、日本の 未来に「日はまた昇る」と感じさせられる。残念ながら、フィリピンで「技術移転」は 期待しても望めないのだろう。諺(ことわざ)に「猿も木から落ちる」「豚もおだてり ゃ木に登る」と言う。日本人は思い上がってはいけない。比人には時に褒めることが必 要であろう。


12 「国際人」無用の論 日本には「国際人」という不思議な言葉がある。外国語に訳すことが難しい言葉だ。だ が、日本人の受け取る意味は「外国語が達者で外国人と対等に話し合えて、尊敬される 存在」だと思われる。そんな人は外国には掃いて捨てるほどいるから、決して尊敬され る存在にはならないと思われるが、考えてみたい。

英語は重宝だが? 外国にいると確かに英語が出来れば重宝だ。確かに比人のパーティーでトーキョーにつ いて語り世界の事情に通じていれば、便利に思われはするが必ずしも尊敬を受けるとは 限らない。逆に何となく「胡散臭い人物」と思われることもある。余りにも上手な日本 語をしゃべる外人を貴方は直ぐに信用しますか?日本人の「国際人」への憧れは長い 300 年の鎖国と、島国という特殊な地理的環境からきた要素が大きい。更には日本人が 外国人との婚姻による「血族混交」を、ほとんど行わなかったという影響も大きい。 このような日本人が戦後の自主独立の繁栄をもたらしたのは日本の「非国際的」な歴史 と密接な歴史と密接な関係があると思われるのだ。

非国際的な日本人こそ 確かに日本人は英語が下手だし覚える要領も悪い。日本へ半年行った「ジャパゆき」さ んは日常生活の日本語には不自由しなくなる。比国へ来て半年の日本人とは比較になら ないくらい覚えが早い。そして、日本人は英語が下手だからダメだと卑下した言い方を するが裏返せば、日本人は外国語をマスターしなくても独立を維持し、機械文明を自力 で開発できたということである。アジアやアフリカの多くにの国では外国語をマスター しなければ機械一つ動かせなかったのである。日本人が「非国際的」であった実績の上 に成り立ってきたのは間違いないと思う。私が戦後初めて、日本外務省賠償調達庁の命 でフィリピンに足を運んだ 1957 年に、当時の比国通産大臣邸宅のパーティーに招かれ たことがあった。私の下手な英語で一生懸命に話をする姿を見ていた通産相は「初めて 謙虚で誠実な日本人を見た」といって、私の話を補足しようとするアメリカ人をさえぎ って話を聞いてくれた。やはり要は「誠意」と『熱心さ』は通じるということだった。

英語と比国語について 最近、偶然か2人の若い日本人女性からビサヤ語を習いたいからアパートなどの探し方 を助言して欲しいという相談を受けた。聞けば英語はまだ片言に近いレベルだという。


私は皆様にも申し上げたい。「まずは英語をもっとレベルアップすることが先で、比国 語(タガログ)でもビサヤ語でも後回しにするか諦めなさい」ということにしている。 昔から「二兎を追うものは一兎をも得ず」というじゃないか。フィリピンの上層流・中 層流や一般的なビジネスマン社会では英語は出来ない場合には往々にして見下される場 合が多い。英語はこの国では公用語なのだ。更にもっとはっきり言えば、下手なタガロ グ語やビサヤ語を操るより日本人を見ると「大学も出てないから英語が出来ないのだ」 などと、あらぬ誤解を受けかねない。片言でも良いし、単語を並べるだけでもいいから 「英語と日本語のチャンポン」で押し通すのも一案だ。「明治の武士流」の厚かましさ が時に必要になる。 私は「非国際的な純日本人」としての良さを売り込むべきだと思う。英語は下手でも意 味が通じれば良いのではないか?


第 2 章 ASEAN でどん尻になった 12 の理由

第 1 話 国のトップが悪すぎる

大統領は人気投票か? フィリピンの大統領選挙はミス・ユニバースの人気投票と変わらない。だからエストラ ーダのように元映画俳優でマッチョな正義感あふれた役割の人物と同じに錯覚して、投 票してしまうミーハー感覚の大衆が多過ぎるのだ。そして投票日には同時に副大統領・ 上院議員・下院議員・知事・市長なだ上から下まで30数名を書き連ねる訳だから投票 所も大騒動だ。会社でも勿論だがトップが駄目なら経営は立ち行かずに潰れる。国だか ら色々なODA援助を求めて借金を次世代に先送りしているだけだ。国民の政治意識が 変わってこないと駄目だ。台湾は「李登輝」という得がたい人材を得て、完全に立て直 した。アロヨはましだが、所詮女性という範疇から抜け出せず、国家経営の理念も経論 もなく、立ち枯れの状態だ。

国際競争力が急落 世界経済フォーラムの調査ではラモス政権下(92年∼98年)で31位に戻した競争 力は、年々評価が下がり今年は61位と情けない。アロヨの初年度は48位だったから、 彼女の執政期間だけでも一気に13位下げた。アセアン諸国でこのように下げたのはフ ィリピンとインドネシアでけだ。ここへ来てベトナムが急追してフィリピンは来年あた り追い越されそうだ。汚職で国を食いつぶしたマルコス後の大統領はアキノ(元家庭の 主婦)、ラモス(元軍人)、エストラーダ(元俳優)、アロヨ(元大学教授)と続いた が、こんな素人ばかりでは、国際競争力がジリ貧なのは当然だ。いくらかマシだったの は「ラモス」だけ。

李登輝氏と「武士道」 台湾のリーダーだった李登輝氏は戦前の京都帝大出身だから当然ながら日本人と同じレ ベルの会話力、読書力がある。彼は「武士道や大和魂は日本人の最高の道徳規範であり、 今も世界に通用する人類最高の指導理念であるといっても過言でない」と言い切ってい る。そして今年には『「武士道」解題』を日本で発行すると言われる。フィリピンでは 自分個人の金儲けに奔走するのではなく、国家経営への高遇な理念を持つ政治家が出て こないと、この国に未来はない。


イスラム教徒との対立 台湾にはないが、フィリピンにはイスラム教徒との内戦がある。歴代の大統領を見ると 就任当初は威勢が良いが、ジリ貧でヤケクソになり放任してしまう。フィリピン人特有 の根気と執着心のなさが、それ以上にカトリックとの宗教対立をどうしようかという基 本的な国家理念や哲学が全く見られない。イスラム地域(ミンダナオ島西南部とスルー 諸島)へ行けば分かるが、モスレムの人々の余りの貧しさに驚倒する。NPA(フィリ ピン共産党新人民軍)との何十年も続く内戦も基本的には貧しすぎる人々の存在と、そ の増加だ。それにはトップが身をもって範を示さないと誰もついてこない。エストラー ダのように違法でクチの上がり口銭を追いかけて毎晩飲んだくれ、一年で40億ペソも 吸い上げていては大統領というよりは、ヤクザの親分に過ぎない。

第 2 話 汚職が国を滅ぼす

前大統領の汚職 さすがに追放されたエストラーダ前大統領は、在任僅か16ヶ月間にエクイタブルPC I銀行だけで32億ペソもの巨額を貯め込んでいた。他の銀行を洗い立てたら優に10 0億ペソを超えると言われる。

公金を動かす都度一億・二億と口銭を取り、違法のフ

エテン賭博からは毎月テラ銭の上がりを上納させていたというから、もはや大統領のや ることではない。 だから毎晩嬉しくて嬉しくて取り巻き連中と明け方まで飲みまくり、昼近くにならない と起きてこないという情けない大統領になってしまった。 上がこうだから、下これを見習いワーキング・ビザを申請すると二万ペソの袖の下を出 せば直に下りるが、正規なら一年以上はかかるようになってしまった。 全く情けない国になったと正義派の弁護士自信が嘆いて言う。 りの警官から、大統領まで金さえあれば何とでもなる。

小は交通違反取り締ま

税務署は所得税の徴税検査能

力がないから初めから話し合いだ。帳簿などは見もしない。恐らく見ても判らないのだ ろう。便利のいい面もあるが、これでは国の財政がどうなるのかと懸念される。正式な 税務署の領収書が出てくるのは1割に過ぎない。

残りの9割は袖の下だから役人の金

儲けはいかにもあざとい。

フィリピン汚職の文化 東南アジアに共通するイメージに汚職が存在する。開発度の低い国ほど汚職が蔓延して いる。7 年前インドネシアの国際空港でチップを要求されて驚いたことがある。この頃


マニラ空港でもさすがに袖の下は要求されなくなっていた。しかし比国でも汚職の蔓延 には頭を悩ましているが、一向になくならない。何故だろうかと考えてみた。人々の生 活基盤は「バランガイ」なのだ。人々は病気をすればそのバランガイ出身の医者にかか る。裁判なら同じバランガイ出身の弁護士に頼む。税関に問題があれば、同じバランガ イ出身の役人を探す。いなければ同じ言葉をしゃべる士族の(例えばビサヤやイロンゴ やビコラノなど)を探す。勿論お金を殆ど払わなくて済むからだ。料金を催促でもしよ うものならあいつは「ワラン・ヒヤ」(恥知らず)とか「ワラン・ウタン・ナ・ロオブ」 (恩知らず)とか言われて、一族がバランガイに居られなくなる。それほどバランガイ (市街では区、田舎では村)における比人社会の結束は強い。だから例えば税関役人や 警官が同じバランガイからの知人から税金を負けてくれと言われたら無得に断れないの だ。袖の下を幾ら払うのかも話し合だ。 マルコス時代にイメルダ夫人が長官を務めた役所で、私は 15%のコミッションを要求 されて断ったらやはり落札しなかった。我々が一番安く入札したのに何だかんだと理屈 をつけられて 30%も高い応礼社に落ちたがこれは日常茶飯事だった。これもイメルダ の顔潰せば「お前は夜道を歩けないよ」と脅されたが、外国人だし正規の政府コンサル タントだったからか、脅しだけで済んだがこういう構造は今に至るもなくなってはいな い。大統領を始めとして、政府の閣僚・局長・所長など自分の管轄する役所のことなら 何でも出来ると思いあがっているから、どうしてようもない。一般国民も「偉い人がす ることだからそれはそれでしょうがない」と諦めている。これで先進国に対抗して勝と うとしても所詮無理なのだ。

恥の文化と恨の文化 「恨の文化」の国の代表が韓国・朝鮮だと言われるのは周知の通りだ。日本への恨みは 豊臣秀吉の朝鮮遠征にまでの遡るといわれる。「恥の文化」を代表する国は日本だが、 カトリックが 80 数パーセントを占めるフィリピンも「恥の文化」の国といえる。とこ ろが何故か法を破ることについては恥の意識がない。「フィリピン人は法を破ることに 喜びを感じる少ない民族」だと自嘲したフィリピン人弁護士がいた。 何とか裏道を探しまわって「ダメもと」でも走るのが、日本人や台湾人には見られない 特性なのだ。台湾人は自ら日本の植民統治 60 年の日本人を高く評価して公表もしてい る。韓国とは全く違う。 フィリピン人の汚職への接し方や反響は「タテマエとしては悪い」が、「ホンネではこ んなに便利なものはない」という。 にもならない。

だから何年経っても汚職はなくならないし先進国


彼ら比人インテリの一人がこっそりと呟いていた。 袖の下の悪習は、戦後主に台湾から渡ってきた中国人が、比人に仕込んだ麻薬のような ものだ」と。

第 3 話 治安が悪い 台湾の治安は良い 台湾にも「陳水○的憂色」はある。そしてこの政治的混乱はどこまで続くのかという議 論がなされる。しかし台湾の著名なジャーナリスト「司馬文武」はいう。「確かに混乱 はある。しかしこの混乱は不正や汚職が原因となったフィリピンやインドネシアとは、 本質的に逆のものだ。台湾のリーダー達に腐敗はなく逆に理想・原則などを堅持し過ぎ て柔軟性を欠いた事から混乱を生じた」と言う。台湾へ行けば直に分かる。夜どこを歩 いても治安で心配することは決してない。台湾では政治・経済で確かに混乱はあるけれ ども、台湾社会という列車は正しい軌道に乗ってビクともしない。

フィリピンは治安が悪い これはもう世界的に有名な事実だ。イスラム原理主義者過激派「アブサヤブ」はマレー シャから欧米人を主とする人質をフィリピンへ連れ去り、莫大な身代金を払って解決し たと思ったら、またパラワン島から20数名の人質を連れて、「パラワン島」の密林へ 逃げ込んで生首四体を見せしめにしている。ところが威勢の良いアロヨ大統領の掛け声 で身代金は払わない。国軍が徹底的に掃討作戦を展開しているという。しかし、いつ解 決するかのメドは全く立たないということだ。この間に刻々と時間は過ぎて、海外の投 資家は来なくなり比国の治安へのイメージは悪くなる一方だ。また、マニラでの中国人 実業家の誘拐事件は今年に入ってからだけで既に63件が発生し、そのほとんどが解決 済みだという。皆、身代金を払って安全を確保し、警察や軍には全く届け出ないのだ。 比国の経済を握る中国人社会は、軍人や警官を全く信用していない。又「フィリピンの 三悪人」は『軍人』『警官』『弁護士』だと公言してならない。

今、政府がやるべきこと 今の国軍にはミンダナオ・スルー諸島のジャングルで凶暴なアブサヤブを相手に戦う勇 気も能力もないという前提に立って考えるべきだ。

まずは一旦引き上げて、アメリカ

のグリーンベレーにジャングル戦を鍛えてもらい。給料も5倍にして海空からの攻撃も 加えて次回こそ徹底した絨毯作戦をあるほかない。国軍は面白くなかろうが「アロヨさ ん」、自分が「あるべき国の姿を国民に示して、革新的な説得をする他ない」と思う。


こんな汚職まみれの軍警や役人を持っていては世界中から相手にされませんよ。幸い に?に、今回は人質の外国人はアメリカ人の牧師夫妻だ。左派のジャーナリズムからは 例によって悪評三昧やられるでしょうが、ここは勇気を持って「アメリカ海兵隊の助力 を仰いで、フィリピン海兵隊との共同作戦と行くべきです。」今後の為にもアメリカ海 兵隊による掃討作戦を即実行することです。そして、やはり我々だけの力の限界を訴え て、国軍を精鋭化する予算を取るべきです。プライドの高い比人であることは充分承知 してますが時には「一歩後退・二歩前進」ということも必要でしょう。

イスラムはタガログ語族を攻撃する 今回はパラワン島のビーチリゾートを攻撃して人質を取った。地図の上では分かりにく いことだが、パラワン島はマニラと同じタガログ語族の地域なのだ。ビサヤ語圏に近い が昔からマニラ・ミンドロ島を経由しての経済圏に属している。だからイスラムから見 ればマニラと同じ敵なのだ。ただ、パラワン島の南部にはモスレムも住んでいる。ここ のモスレム達はサンボアンガ南のスルー諸島とよりもマレーシャのサバ・サラワク州と の交流の方が歴史的に長い。今でも、パスポートもなく往来している。スルー諸島のモ スレムは歴史前から海賊を業としてきた人達だから一筋縄では行かない。こういう背景 を承知して判断すれば、今のマニラ政府だけでは手におえない事情がよく分かる筈だ。

第 4 話 法律を守らない

法律は破る為にある エストラーダ大統領だ良い例だ。違法賭博のテラ銭を巻き上げる、不良株の値段を吊り 上げて売り抜ける、支払ったタバコ税を後で裏口から召し上げる、許認可案件毎に口銭 を取る。やりたい放題だ。出入国管理庁でも袖の下を払えばスグだ。小口では街頭でシ ョバ代を集めて回る警官がいる。強盗殺人事件の裏には殆ど例外なく軍人・警官が噛ん でいる。ところが法律はアメリカをモデルにして完備している。交通法規でもそうだ。 ところが肝心の警官が知らない。厳しくすれば、口実をつけて袖の下が取り易くなるか ら歓迎だとうそぶく。 近くはラクソン上院議員の数億ドルの裏金預金疑惑がある。彼は前警察長官だったのだ から、そんな金額は法律を破らない限り出来っこない。エストラーダ大統領の右腕とし て、同じ穴のムジナとして稼ぎに稼いだわけだ。これでは国が良くなる訳がない。まあ 言えば大泥棒とギャングが国を治めていた訳だから何ともならない。これらを大統領に 選出したのは一般国民なのだから情けない。ところが国を破壊したエストラーダ・ラク ソンらを強く糾弾する声が聞こえてこない。


ロッキード疑惑の田中角栄首相を糾弾したような熱気が全く出てこない。フィリピン人 自体が法律を破る行為に対して不感症になっているのだ。もし誰かに咎められたら袖の 下(アンダーテーブル)を払えばそれでチョンなのだ。交通違反したら比人なら100 ペソ、日本人なら500ペソという相場だそうだが、受け取らない警官がセブでは増え てきたという話も聞く。良い傾向だが全部ではない。ご用心。

国軍とアブサヤフ イスラム原理主義強硬派を追い詰めた国軍は、裏取引をしてわざと取り逃がしたと近く のベルギー人神父が大統領に直訴した。我々は「さもありなん」と思う。本気でアブサ ヤフを追い詰める気はなさそうなのだ。もたもたしながら予算を増額し分捕ろうという 公算が大きいのだからたまらない。

華僑商人がいうように、ここは法律を無視して身

代金を支払い救出してから、空軍の猛爆撃で全滅させる作戦しかないという話も検討案 の一つになりそうだ。それにしても先に開放された華僑2人は身代金を払うに当たって はアブサヤフと話しをまとめる仲介人を使ったといい、仲介人は身代金の半分を得たと いう。金に執着する人間は法律などクソ食らえらしい。こういう国に将来はあるのだろ うか?

大統領で良くも悪くもなる マレーシャのマハティール首相は、マレーシャを大発展させた自他とも認める功労者だ が、珍しく嘆いてみせた。「30年の任期の間にマレー人の怠け者の本質を変えられな かったのは自分の失敗だった。マレー人は同じ国内に中国人社会があったのに、何も学 ばなかった。彼らは勤勉の価値を少しも身につけなかった。マレー人は一生懸命に働く ことはいいことだ、と分かっている。しかし実行しようとしなかった。出来なかったの ではない。しようとしなかったのだ。」 マレー人をフィリピン人と置き換えて見るとそっくりだ。フィリピン人の祖先はマレー 人と同じだからしょうがないか。だけど大統領の出来・不出来でマレーシャとフィリピ ンのような格差は今のところ追いつける可能性は限りなくゼロに近い。やはり取りあえ ずはフィリピンのマハティールを期待したいのだが、大統領は社会を良くするための変 革をもたらすものでなければならない。アロヨ大統領に期待できるかはまだまだ疑問だ が、国を破壊した「マルコス」「エストラーダ」の二の舞だけはご免こうむりたい。


第 5 話 中小企業が育たない

個人の技術に止まる 昔、こういう経験があった。マニラで鋳物から一貫したミシン工場をアメリカ人が経営 しており、若い私が技術指導で滞比していた。米人経営者は、一番有能な比人工場長を 日本へ研修に出すことに反対していた。そこを私は反対を押し切って比人工場長(ビッ ク)を生産性本部の計画準備した研修プロジェクトに参加させた。 ビックはUPを卒業し、私が日本流に現場から叩き上げた男だったが、彼が覚えた技術 経験は自分個人のものとして部下に教えようとしなかった。日本の研修から帰った彼が したことは生産性本部発行の日本文「研修終了証書」を持って、同業他社へ就職活動を し間もなくいなくなってしまった。アメリカ人社長は長く比国にいるだけに見通してい た。1年経たずに彼は戻ってくるよと。案の定、ビックは頭を下げて戻ってきた。一応 組織があった中企業では何とか通用した彼の技術も、何でもコナす零細な小企業では通 用しなかったのだ。彼は苦い経験を経て二度と他社へは行かず定年までここで工場長を 務めていた。有能な男だったが、それは一定規模の組織の中でこそ機能するものの、一 匹狼として独立しようとした場合に役に立たないレベルだったのだ。 別にミンダナオ島で土木工場を経営したときのこと、工場操業の国家規則で大学出の 「エンジニア資格保持者」を一名置かなければならなかった。ところが彼の知識経験は、 小学校も出ていない人口乾燥炉のボイラー運転者にも劣るものだった。このエンジニア は私が直接ボイラーマンに指示して自分を無視していると文句を言ってきた。「何にも 知らないお前に言うと二重手間だ」と撥ね付けたがボイラーマンがチクチク苛められる ので気の毒になった。ホワイトカラーのエンジニアは、ブルーカラーの作業員のやるこ とを覚えようともしない。フィリピンでは一般的だが技術移転は非常に困難だ。そして、 独り立ちする技術者も非常に少ない。また、数少ない技術者が辞めると彼に教えた技術 を他の人間に一から教え直さないといけない。技術者は自分が教えた技術経験・知識を 他の人間に教えようとは決してしない。

台湾の「老板」(ラオパン)がいない 日本でも台湾でも早く覚えて独り立ちしたいというのが技術者や職人の夢だった。だか ら教えてくれなくても先輩の技能を盗もうと懸命だったものだ。ミンダナオ島にいた頃、 下請け工場の現場へ行って私が自分で旋盤を動かして、出来ないという部品を作って見 せたら、オヤジがビックリ仰天して大学は当然出ていると聞いていたのに、どうして現 場の作業が出来るのだと聞いてきたから、逆に私がびっくりした。


独立して事業をやる人を台湾では「老板」(ラオパン)というが中小企業のオヤジさん のことだ。比国でもボツボツ見受けはするが、何といっても少ない。台湾経済が97年 のタイ・バーツ暴落からスタートした「アジア経済危機」にビクともしなかったのは、 中小企業が経済の底辺を支える「ピラミッド構造」だったからだ。しかも外国や銀行か らの借金がなかったからだ。これに反して韓国経済は一握りの財閥が下で支える「逆ピ ラミッド構造」だったから、不安定で続々と財閥が崩壊して苦労している。フィリピン 経済を強くするには、独り立ちして立ちあがる「老板」が続々と続く事だ。

独り立ちする気概 南国育ちの食うには困らないせいか、こういう気概の人物が少ない。北方民族に優位性 はあるけれども、やはり台湾経済に追いつけ追い越せは当面の比国経済の目標だが、そ れには政治家が自ら範を示さないと良くはならない。日本のODAも金額を減らして、 独立自存の意識で、じっくり考え直すべき時ではないだろうか。

第 6 話 つらいと逃げる 唯一「おしん」がヒットしなかった アジア諸国でフィリピンだけ「おしん」がヒットしなかった。テレビ上映は僅か2週間 で中止になった。不評だったのだ。貧しい境遇から辛抱を重ねて這い上がる努力の人生 は、フィリピン人には馴染まないのだ。その後上映されたメキシコ映画「マリマー」は 空前のヒットとなった。ストーリーは単純で恋人同士が会ったり離れたりして彼氏が 「白馬の騎士」、彼女が「夢の王女様」になるという話で、耐え忍んで立場を上昇させ るという話ではない。フィリピン人の一般的な国民性として、「耐え忍ぶ」ということ はありえない。耐えて苦労するのなら、協会へ行って幸運を祈るほうが好ましいと考え る。だから昔、ミンダナオの工場で多少辛いかなという仕事を与えると後先の収入や再 就職を考えずに、会社を止めてしまう人が続いて困ったことがある。結局中国系比人が その職場を担当して落ち着いた。 我々から見れば何も仕事を止めるほど辛い職場とも思えなかったものだ。ただ、清掃作 業に近かったから恰好が悪かっただけなのだ。兎も角、気に入らなかったら、直に辞め てしまう。明日からどうして食うかは深く考えない。これは何も現場の作業員だけでな くマネージメント職でも変わらない。台湾人のように営々と辛抱を重ねて這い上がると いう感覚は持ち合わせていない人が大多数だ。


熱しやすくて冷めやすい フィリピン人が自嘲しながらいうニンガス・クゴンという言葉がある。「燃えやすいカ ヤ○」のことだが熱しやすく冷めやすい比人の国民性を自嘲していうので、自尊心の強 い彼らの面前でいうのは慎んだ方が良い。彼らに一つのプロジェクトを与えて提出させ ると中々素晴らしい案を出してくる。そしてそれを実行させると最初の日は熱中して意 気揚々だが、直に飽きてくる。そうすると彼らは「イヤなことから逃げる」のだ。これ は私の職分でないから別の人に担当させてくれとなる。とことん責任を持って完遂する ことがない。持続力が明らかに劣るのだ。これでは事業は出来ない。フィリピンでの大 きな事業家が殆ど中国人系で占められるのも故なしとしない。

国民総一発屋 比人は誰もが大変素晴らしい「イベント屋」だ。クリスマス・パーティーでも企画させ たら意外な人が素晴らしい司会者になり、歌手になる。準備も一生懸命だ。そしてスタ ートに皆で参加し熱狂するが、それっきりだ。後には何も残らない。 台湾人や華僑は薄利多売で少しずつ店を大きくして商売するが、比人は恰好つけてデカ デカと看板を掲げ、車を買い、一挙に儲けようとして高値で売り、顧客を失ってしまう。 コツコツと積み上げるというのが苦手であり嫌いなのだ。 昔、フィリピン政府機関TRCでコンサルタントとして、国際経済協力基金OECFの ために働いていたことがある。TRCの職員は皆フィリピン大学(UP)出身で仕事も 出来る。ただ実務の経験が著しく不足はしていた。彼らは素晴らしい英語で、立派なレ ポートを作成してくれる。ところが実務経験がないから的外れも結構多い。それを指摘 して修正を求めると顔面にイヤな顔をする。だが、融資先企業へ行って演説させると素 晴らしい。自分が修正された所は上手く説明して拍手される。問題はそこまでなのだ。 翌日には別の案件を求めて作業したがる。前の案件に対する情熱は昨日の公園で急速に 冷め、次の感動を求めているのだ。見直しとか反省とかは彼らの頭にはない。熱しやす く冷めやすいのだ。 また彼らは一日単位の生活者だから継続的な努力はしない。マア分かりやすく言えば 「漁師」なのだ。ちょうど「猿蟹合戦」の猿のように○年先の柿の実よりも現在の握り 飯の方に興味がいってしまうタイプだからチャランポランに見える。誰もが技術者や台 湾の老板(ラオパン)よりも、政治家や弁護士の方を望んでいる。手近かに一攫千金が 可能なチャンスがあるからだ。


第 7 話 段取りが意識がない

壁にブチ当たってから考える 「段取り」を和英辞書で引くとプラン、プログラム、アレンジメントなどとなっている。 どうも我々が承知している段取りと意味が違うようだ。そこで知人を通して著名な英文 学者に聞いてみたら、日本人が言う「段取り」を意味する[適切な英語はない]のだと いう。だからトヨタ・アメリカ工場では日本語で「ダンドリ」といって従業員教育をし ており[カンバン]方式も日本語のままだという。なぜこんな話をするかというと比人 は「仕事の段取りが悪いことおびただしい」からだ。3日先にこの部品が要ることがわ かっていても、その日がきて「サア、これが要るぞ」となるまで調達に走らない。日系 企業はそういう教育をしているから、こういう酷いことにはならない。ともあれガツン と問題・壁に突き当たってから考えたら良いという比人が多いのだ。

日本職人と中国商人 昔からよくそういわれる。日本人は物作りに優れ、中国人は物を動かして儲けることに 優れているという意味だ。ところが台湾人は中国人の一部だが、戦前の日本教育が幸い して(台湾人がそういう)戦後は日本人の援助で物作りに乗り出してパソコン電脳王国 を築きあげてしまった。彼らは今でも物作りには「段取り」一番大事だと日本語で覚え ている。そして今では中国本土ででも「段取り」「段取り」といっているそうだ。かく て中国人も「家電王国」を築き上げてしまった。民族性でなく教育次第ということだ。 亜熱帯のフィリピンでは毎日似たような気温で、違いといえば雨が降るか降らないかと いう気候だから仕事で特別な予測を必要とすることもなかったから、こういう予測をし て段取りを考えて仕事することに全く慣れていなかったのだ。

比人日常生活での段取り これについての計画性や買い物の段取りは殆ど期待できない。ともあれ、極論すれば 「行き当たりばっかり」だ。ショッピング・センターで棚を片っ端から見ながら、ああ これもなくなっていたと言いながら買い物するのだから時間の無を駄もおびただしい。 彼らは全てにバランガイ生活での時間にとらわれない生活感覚を引きずって都市空間で も生きているのだから、根気の良い近代社会教育ができるかどうかだ。台湾人60年の 日本式教育を、今更フィリピンで出来るわけもないのだ。とこらが、結構な比人有識者 が、日本占領下にあった台湾も韓国も近代化に成功しているのだから、比国も日本式の 教育を受けるべきだというのにビックリした記憶がある。私の娘でも18才で三回目の 日本旅行を経験してから、父親がなぜ厳しく躾(シツケ)教育をしたのか分かったらし


い。日本でのスケジュールに従ってのテキパキした行動と先を見越しての事前連絡など ともかく時間のロスがないのに驚いたという。

生活の中の「ゴチャマゼ」と段取り 人間的というよりは不真面目・怠惰ととられるフィリピン人の態度には仕事と遊びの交 じり合いがある。このケジメがつかないのだ。仕事場の中へこれを持ちこまれたら収拾 がつかなくなる。日系企業だけがこれを厳然と区分しているから、やれば出来るのだ。 ただ、生活の中までゴチャマゼ感覚を持ちこまれたら大変だが、これが教会・ショッピ ング・遊びとごちゃ混ぜだからといってやたらに厳しくしたらこの暑い熱帯の国で病気 になるのがオチだ。ただ時間の観念と、行動への段取りをつけておれば、円満にエンジ ョイできると思うのだが、どうも個人生活はゆきあたりばっかりというのが、暑い国で の生活の知恵かもしれないと考えるこの頃だ。

けじめの論 段取り意識の欠如が比国と台湾の隔たりだが、仕事では厳しく段取り意識教育を行うべ きだが、私生活の面では余り厳しく言わないで半分はあきらめてノンビリしないと、病 気になるのではないかと思うこの頃だ。日本人は余りにも完璧を求め過ぎるかも。

第 8 話 メンテナンスをしない

壊れても直さない これは皆さんお気づきでしょうが比人たちは一般的に機械などが壊れても直そうとしま せん。或は何とか動くうちは直しません。とことん、どうにもならなくなって初めてど うしたもんだろと対策を考えるようになるのです。これは国民性なのでしょうか?壁に ぶち当たってから考えるので、それまではクヨクヨしないということのようです。これ は家電商品や事務機器や自動車についてだけでなく、公共的な道路の保全、建物の修理 などについても言えましょう。随分、非効率的な無駄が見られます。

第二マクタン大橋の修理 日本の資金と工事で完成してからは、大きなメリットをセブ経済界や地元民に与えてき ました。ところが何年か先には定期的なメインテナンス(保全修理)がかかせないので すが、州知事も公共道路省も知らん顔です。この第二大橋が完成したら、古い第一大橋 を修理するということでしたが、何の動きもありません。この第一大橋は90年の超大 型台風ルピンで大型貨物船が衝突してひどく痛み、修理が喫緊の急務といわれたmので


した。恐らく橋の落下事故でも起きないと動かないでしょう。今日もレイテ∼サマール 島間を結ぶフィリピン最長のサン・ファニーコ大橋(通称マルコス大橋)が部分崩落し て急遽修理に入ったという。1967年に円借○で着工されてから35年間目立った補 修工事は何もなかったという。セブ∼マクタン第二大橋は元々設計段階と工事予選でが 有料道路にして、通用料金を将来のメインテナンス工事に備えるということで決まって いたのですが、当時のセブ州知事の「ゴリ押し」で強引な無料通行になったものでした。 知事の言い分は将来のメインテナンス工事費用はなどは、国の公共道路省が当然負担す べきで、それに基づいた予算を確保すべきだ。州民から取るなど全く論外だというので す。選挙前の知事は州民に良い顔がしたかったから、決まっていた有料通行を無料にし てしまったのです。この時、正論を吐いた日系コンサルタントは随分痛めつけられたも のでした。

灌漑用水路のメンテナンス 日本からも、途切れ途切れだがODA予算で供与されてきた。ところが今回、中国から 援助されるODAに大々的な「灌漑用水路工事」が計画されている。私は終戦直後日本 で2年間農業に従事していたし、台湾でも田園風景を見渡し、更にはフィリピンでも妻 の里で灌漑用水路を見てきたから、よく承知している。フィリピンでの灌漑用幹線用水 路や溜め池のことは詳しくないが、三毛作も可能な国で一毛作しかやらず、コメを輸入 に頼っているのは専ら灌漑用水路のメンテナンスが出来ておらず、壊れたまま放置され ているからだと思う。 私の郷里は貧しい山村だったから、戦後の一時期は協働作業で灌漑用水路の保全に朝の 3時から働いていた。田に水を張る5月には水路は雑草で無茶苦茶に荒れていた。これ を取り、水路から田へ水が流れるように溜め池から順を追って畦道を歩いて直してゆく のだ。これを「道直し」といっていた。妻の郷里イロイロで灌漑用水路を歩いたが、荒 れたまま放置されていた。フィリピンの国民性である。「メンテナンス大嫌い」がここ でも大きな禍をなしているとしか言いようがない。 日本でも『道直し』といえば、村中総出で早朝から動き回っていたものだが。それにし ても「出来たものは経年変化で必ず直すときが来る」と承知していないと駄目なのだ。 「壊れたら何でも捨てるという感覚」では、国でも市でも家庭でも駄目だ。

新しいもの、大好き人間 彼らは何でも新しい物の知識は豊富でこれらを必死で欲しがる。昔、比国政府の技術開 発庁(TRC)で働いたことがある。何でも直ぐに最新型の機械でプロジェクトを組み たがる。昭和の初期に等しい比国に、突然最新鋭の(NC数値制御機)をもって来ても 使いこなせいから駄目だといっても理解しないし、それなら君らメインテナンスが出来 るのかといって何とか押さえ込んでことがある。最新鋭の技術を使って大型貯水ダムを


作るのは限られた地域で、殆どの地域では日本式の「溜め池」が」一番有効なのだと思 う。恰好ばかりつけるなといいたい。

第 9 話 時間を守らない

時計は飾り? 外国人がフィリピンで当惑するものに時間感覚がある。テレビの時間でもそうだ。各局 で2∼3分の違いはザラだ。7時のニュースを見ようとチャンネルを回せば放送を開始 している局もあれば、前の番組を放送中もある。だから時計の時間を合わせるのはNH Kに頼るしかない。約束事でも7時といえば、7時から7時59分までを意味すると理 解すべきだ。 これが個人的なパーティーともなれば、案内の時間が7時ならこの時間に来るのはフィ リピンに未だなれていない新参の日本人だけだ。主催者さえ来ていないことが多い。パ ーティーが7時からとあれば、まずは早くて7時半、だいたいは8時だろう。なかには 平気で8時半にきて食べるだけ食べて帰る人もいる。 ビジネスの約束でも午後3時といえば3時半にくれば良い方。遅れて済みませんとも言 わない。さすがに4時を超せば「車が渋滞で云々」と一応釈明が入る。台湾の老人に聞 いたら、日本の植民統治前はそうだったから、いつも「南洋ボケ」と言われたものだっ た。然し日本人が来てからは時間を正確に守るようになった。今では国民性にもなって いるから若い人は「昔から時間は守るべきものだ」と理解しているし、これが近代化の 第一前提条件だと承知している。フィリピン人は近代化とは未だ縁遠い状態なのだろう か?

納期遅れは当たり前 時間の厳守感覚がないのだから、ビジネスでも然り。納期は遅れて当たり前というメー カーが多い。一生懸命にベストを尽くして、なお出来なかったんだから神様も理解して くれる筈だ。何でそうガアガア責め立てるんだという訳だ。更には納期が遅れた理由を、 甚だもっともらしく釈明するからもういいよ、それで何日なら約束できるんだとなって しまう。この納期にだらしないという問題では、私自身貿易業で20年以上経った今も 悩みの種だ。 これは時間の感覚が違う国民性からきた致し方のない問題だと認識して、バイヤーに3 月積みだと約束してサプライヤーには2月積みで引き受けさせるなどの便法を取るのだ が、こういう不景気ではそんな余裕のある引き合いもない。私の昨年の胃潰瘍もこの辺 のストレスから来たものではなかろうか?こういう問題は自社で生産される日系企業の


工場ではない。工程管理をしっかりしつけて管理されるからだ。だから出来ない事では ないのだ。 マレーシアのマハティール首相が、いみじくも嘆いたように「知らないのではない。や らないのだ。」といったように国民性だから容易には直らない。まさか、フィリピンを 植民地にして台湾のように長い時間をかけて教育し直す訳にはいかない。輸出加工区に 勤務する従業員を通じて叩き込むしか仕方がないのか?マハティール首相じゃないが、 これは近代化の進行と共に何世紀もかけて達成するしかないのだろうか?

バハラ・ナとフィリピノタイム バハラ・ナという比語がある。むしろ比人の悪口をいう言葉として知られている。「一 か八か、人事は尽くした。後は運しだい」というような意味で使われる。だから「分か っていても、やめられない」ともなる。フィリピノ・タイムは悪習だ。と分かっていな がら、やめられないのだ。なぜならなりゆきでことを決めるのが天性となっているから である。農耕社会で大規模な軍隊が形成されるまでは時計は必要とされなかった。人間 は時間に支配されることはなく、時間は人間のものだった。しかし近代化された社会を 築き、貧しさから脱却しようとすれば否応なく時間に束縛されざるを得なくなる。だが、 農耕漁労社会である南国の、しかも海洋の型の気候のもとでは、感覚的な喜びの方が立 ち勝っているのでフィリピノ・タイムはなかなか廃れないのだ。

台湾人の時間感覚 昔、台湾と取引したことがある。一旦引き受けた注文に対する納期感覚は日本人と同じ く徹夜してでも間に合わせていた。約束の時間にも決して遅れたことはなかった。曰く 「約束にうるさいのは一に日本人、二にアメリカ人だ」と。だから成功したのだが、平 気で「日本人のお陰」といった。

第 10 話 教育がちがう マレーでその頃の日本人 かつて日本人は/清らかで美しかった/かつて日本人は/親切でこころ豊かだった/何 千何万人の人の中には/少しは変な人もいたし/おこりんぼやわがままな人もいた/自 分の考えを押し付けて/いばってばかりいる人だって/いなかったわけじゃない/でも そのころの日本人は/そんな少しのいやなことや/不愉快さを越えて/おおらかでまじ めで/希望に満ちて明るかった(中略)これが本当の日本人なのだろうか/自分たちだ けで集まっては/自分たちだけの楽しみや/ぜいたくにふけりながら/自分がお世話に


なって住んでいる/自分の会社が仕事をしている/その国と国民のことを/さげすんだ 眼でみたり/バカにしたりする/どうして/どうして日本人はこんなになってしまった んだろう。 土生良樹著から

台湾人の道徳教育 台湾人は日本の統治50年間ですっかり日本の教育を身に付けてしまった。根底をなし た道徳教育は「教育勅語」だった。そして、こういう教育を受けた台湾人の先生達が今 にいたるまで引き継いでいる。そして台湾の今があるのは戦前からの日本の教育だった と自らが言う。台湾人のアイデンティティじゃ中国本土ではないという。台湾人は南か ら北上した民族だと言う。古代スンダランドにいたモンゴリアンなら沖縄人と同じルー ツだ。だから台湾には台湾人。高地民(高砂族)・本省人(本土から逃げ込んだ人たち) が混在していてる。だが圧倒的多数の台湾人が教育を初めとしてコントロールしている。

親日国家同士だが 比国と台湾は今ではアジアで一番の親日国家だが、その度合いは大きく異なる。比国は 何か物欲しそうな底意が見え見えだ。ところが台湾は李登輝元総統の京都大学卒業を始 めとして筋金入りだ。ビザの問題で随分失礼な対応をとっているのに堪えてくれている。 フィリピン政府はオプレ外相のように時々強面を持ち出してくる。それでも小学校・高 校の歴史教科書では公平・公正な編集をして偏った歴史を叩き込むということは無い。 更にはテレビのアニメ番組、中でも「サムライX」で日本人のメンタリティがじわじわ と入り込むようにも思われる。 ところが台湾での「教育勅語」に当たるものがない。学校教育に浸透しているカトリッ ク教が道徳教育の役目を果たしているかとういうと、私が自ら体験しているが一向に役 立たずだ。

アメリカの比人教育 スペインは宗教を残し、アメリカは教育を残し、日本は憎悪を残したと言われたものだ。 しかし戦後50余年日本の政治家・官僚・財界一体となっての賠償やODA援助や企業 進出もあって対日憎悪は取り払われたようだ。スペイン時代の宗教教育は比人の理屈は 別としての教会信仰となって残っているが、アメリカの教育は英語会話の普及という面 では大きいが、あくまでそれだけだ。そしてフィリピン人の夢はアメリカ人となって米 国に渡りリッチな生活を楽しみたいというだけだ。だから彼らは簡単に国籍を捨ててア メリカ人になりたがる。日本が台湾に残したような教育の痕跡は、アメリカがフィリピ


ンに残したといえるのだろうか?私は特に何も無いと思う。ただ一つあった「ミス・フ ィリピン」大好き人間達だ。大統領を選ぶのもこの感覚だから格好だけがよいエストラ ーダのような何の取り柄もな大統領を選ぶことになってしまうのだ。

どうする比国の教育 まずは、先生のサラリーを間違いなく月末に払うことだ。ひどいときは未払い賃金が3 ヶ月もたまるという。これえは優秀な先生の人材が集まらない。次には先生に「公共心」 「道徳心」をいかに教育するかを教えることだ。大人がこういう教育を受けてこなかっ たから仕方が無いのだ。次には教会で道徳心を教え込むことだ。比人は少なくても毎週 1・2回は教会へ通う。道徳教育を教会が非難する理由は何も無いはずだ。産児制限の 話をしてくれといっているわけではない。社会の環境が変わって自動車社会になったり しているのだから、新しい道徳教育が必要なのだ。接触事故を起こしても先に大声を張 り上げた方が勝つのだから堪らない。証拠があっても、証人になる人がいなければ裁判 は成立しないのがこの国だ。

第 11 話 道徳心がない ツバ吐き魔のゴミ捨て ある調査で、公衆の面前で「ツバを吐く」「爪を切る」というマナーがない行為を、自 認した比人が51%とアジア諸国で最高を示した。ともあれ公徳心に乏しいことは日常 接するフィリピン人から何につけ感じさせられる。ところが、家の中は清潔で小奇麗だ から、どうも公徳心が欠けているとしか言いようがない。台湾で戦後に中国本土から逃 げてきた「外省人」の兵隊が、路上の立小便からタン吐きなど公徳心や礼儀のないのを 見て、日本人としての教育を受けてきた台湾人はイッペンに中国人を馬鹿ににしてしま い、それが中国本土への今に至る「大嫌い」につながっているという。 ゴミ捨てでマカティが「分別収集」を計画したが3ヶ月で降参して止めたという。守る 人がいなかったのだ。これではゴミ焼却も出来ないし、公共的な措置対策も出来ない。 そして、公共心のなさがゴミ捨て対策を放棄し、下水道を詰まらせて洪水の原因を作っ ている。そして洪水は三十年前も今も一緒だ。台湾人は「近代化の礎を築いたのは日本 統治時代だ」と言い、今も公式に私的にも日本に感謝しているという。公共施設を維持 し発展させるには「公徳心」がなければ長くは続かないと知るべきなのだ。


汚職をなくさないと 役人が汚職の構造にどっぷりと浸かったままで、公徳心の向上を訴えても誰もついてい かない。まずは大統領以下が襟を正すべきなのだ。エストラーダ前大統領など論外だ。 一体、誰が何故選んだといいたい。昔、映画で恰好よかったからか?大統領になればた った一年間で50億ペソも隠し財産を作るようでは、何とも情けない。 日本統治時代に台湾人の高潔な社会道徳も、大陸からきた乞食のような中国人(蒋介石 軍)の支配が始まったら坂を転げ落ちるように腐敗してゆき、ついに台湾人の魂を汚染 してしまったことがあったという。彼ら外省人の警察は「制服を着たヤクザ」だといわ れた。台湾は日本統治で近代国家だったのに、中国軍は「前近代国家」なのだった。当 時、台湾人は「犬(日本人)が去って、豚(中国人)来たり」といったそうだ。こうい う中国人の搾取と支配に対して不平不満が爆発したのが「2・28事件」という悲劇だ った。やはり戦前に台湾を統治した「後藤新平」や「児玉源太郎」のような偉大な政治 家が出て徹底的な改革をやらないと駄目ではなかろうか。 ときに比人事業家から「一時的に日本に占領されて、徹底的な公徳心の育成と汚職の根 絶を図ったら」という話がでることさえある。彼らも何かの「外圧」でもないと体制は 動かず近代国家の体をなさないのではと懸念しているのだ。そうでもしないと「公共道 路事業者」の自動車修理費が自動車の評価価額の半分にもなっていたなんてことは起こ り得ない筈だ。

カトリックの公徳心教育? これだけ温かいフィリピン人の心を支えている背景にカトリックの教えがあると思うの だが、何故か公徳心・道徳の教えがフィリピン人にどういう関わりを持っているのか不 思議な気がする。それほどに公衆道徳への配慮が見られないのだ。 ある人が冗談半分に「悪いこと、モラルに反することをしても、教会で懺悔すればチョ ンなんだよ」といったことがあったが、半分は本音だったのかも知れない。 台湾では今も「教育勅語」と「尋常小学修身教科書」を肌身話せず持ち歩き、これを英 語・中国語・イタリア語などに翻訳して外国の来賓に送呈している学校もあるという。 あれだけ教会に通い、熱心に説経を聞く人たちが何故公共設備を大事にしないのか?他 人のものを粗末にするのか理解し難い。以外に日本人や台湾人は父母から聞かされてい た「どこにいても、悪いことをすれば神様が見ておられるよ」という道徳の躾を大事に しているのではなかろうか?


最近考えるのだが「ODA」で、地方の小学校へ日本人の教師を派遣して洗脳すること が有効ではなかろうかと本気で考えたことがある。マニラ日本人学校の先生方を見れば 本当に素晴らしい方々がおられる。カトリックでは駄目だ。

第 12 話 過剰な家族愛

台湾人の家族愛 台湾人は中国人だが、本土中国人よは多少違う。戦前の日本人により近い。彼等の家族 間の支え合いは、今の日本人には考えられないくらい強い。然し我々の理解し得る範囲 内だ。戦前の日本では、どこの家庭でも一人や二人やの親戚の子供を預かって学校へ通 わせていたものだ。台湾の家族支えあいは、この程度だ。これは戦前の日本人が持って いた美しい風習だと思う。ところが比国では度合いが違う。泥棒一族なら皆が泥棒をし ないと仲間外れにされかねないレベルの問題になるらしいのだ。

比人の助け合い(バヤニハン) バヤニハンとは元々田植えや家の新築などに際しての共同作業のことをいう言葉だ。無 料奉仕も意味する。そうしたバランガイも(分かりやく言えばムラ)社会で育つと「医 者や弁護士でも貧乏なバリオ(村)の隣人や親戚からは金を取らない」「税関吏であれ ば同じバリオの住人の住人から言われればや親戚からは金を取らない」「選挙でバラン ガイ・キャプテンから言われたら、彼が薦める候補に投票するしかない」などなど前近 代的口コミ社会が厳然と存在している。こういう家族主義社会では親父は畏怖される存 在でもなく、ただ甘えてしまうから、ホンネで国家の為に力をつくすという倫理も生ま れないし、ただ助け合い、協調し合うという社会規範だけがいき続けることになってい る。

比人「愛想の良さ」(パキキサマ) 比人は「フィリピノ・ホスピタリティ」を自慢する。確かに愛想が良いし、金がなくて も何とかもてなそうとする。結婚式でも誰か知らない人たちがワンサカとやって来るか ら、お客の数もわからなくなる。普通のフィリピン人は大勢の家族・親戚・近所の人達 の中で育つからか、なかなか「ノー」といわない。この点は日本人にも見られる国民性 だ。これがビジネス社会では問題になる。なんでも「イエス・サー」だ。そして納期が くれば平気で、何々の理由で遅れるといってくる。時には不気味に微笑して断ってくる こともある。「始めから断ったら悪い」と考えているのだ。台湾人は出来るか出来ない かはっきり言う。日本人は少し比人に似ている。簡単にイエス・イエスと言い過ぎる点 だ。


ただ、比人が、違うのはウソをイエスということだ。

オカマの家族愛 家族・身内にバクラ(オカマのこと)がいても、恥ずかしいという感じはない。男はマ ッチョ(男っぽい男)が望ましいのだが、最近では女の観賞用男性という趣になってし まったようだ。オカマをからかったりしたら大変だ。彼らの家族からナイフで刺し殺さ れたという話もある。彼らの家族もそれなりに自尊心を持っているから大変なのだ。し かし、こうした美学は日本人にも欧米人にも容易には理解されない。そしてこの過剰な 家族愛が禍をもたらすことにもなる。

万事がお祭り どこの町にも守護聖人がいて、その祭りが年中行われている。日本の地縁社会「氏神様 のお祭り」といった感じの祭りだ。「豚の丸焼き・レチョン」が最大のご馳走であり、 楽隊もやってくる。ところが一夜明けると借金しか残っていないということにもなる。 彼らが招待できる能力を超えた消費をするし、過度の飲酒にふける。酒は北半球の日本 人・韓国人・中国人のようは強くない。だから、悪酔いすると平気で刃物三昧にもなる。 フィリピンのフィエスタ(祭り)には酒と喧嘩が付き物だ。この風習は改まりそうもな い。彼らは蓄積(貯金)するよりも、消費することに喜びを見出す国民性なのだ。

どんな時にもイエスというか?(比人評論家の話) 1. なにも知らないとき。 2. どうしていいか分からないとき。 3. 会話を打ちきりたいとき。 4. 言われたことが半分分かったとき。 5. 自信がないとき。

一か八か(バハラ・ナ) 国民性がバクチが大好きだ。それは良いとしても(中国人も好きだ)どうなったって知 るかという感覚は理解し難い。それが「時計は飾り」となって時間感覚がゼロとなって 仕事をダメにする。こと一連の計画・手順にしたがって仕事をすすめる製造や商取引の 世界では致命的となる。加えて愛する家族の問題だからと平気で休んでしまう。彼等は こういうことでも全て成行きなのだ。だから人生のんびり過ごせるのだとも言える。


第 3 章 「日比共生」世界はアジア人の時代へ

第 1 話 日比共生、世界は「アジア人」の時代へ 中国の「東アジア共同体・策謀」 に乗ってはいけない。これは考えて見れば戦争中の 「大東亜共栄圏」の焼き直しい近い。そして日本はこの綺麗な言葉に自己陶酔した揚げ 句、敗戦に至ったという教訓を思い返すべきだ。今の東アジア共同体論は「アセアン (東南アジア諸国連合)」にプラス3(日中韓)を加えて構想されたものだが、日本の 提案で「オーストラリア」「ニュージランド」「インド」を加えたら、中国の主張で 「ロシア」も加えるべきだとなっている。アホな話だ。 私の考えは「太平洋経済共同 体」tpして、日本・韓国・台湾・アセアン諸国・オーストラリア・ニュージーランド に「インド」を加えるべきだという論が正しいと思う。

中国を外すべき理由… 中国は一党独裁の共産主義国家だから、他の民主主義国家と共同で何かを合意すること が基本的に難しい。更には革命と内戦を繰り返してきた有史以来の歴史を持ち、第二次 世界大戦後でさえ「北朝鮮に加担して韓国を侵攻」「中印国境紛争」「中ソ国境紛争」 「中越紛争」「チベットを軍事力で制圧」「西域でウイグル族を抑圧」等など、第二次 大戦後軍事力で領土を拡張した唯一の国だ。自らも共産党主席「毛沢東」の国境内戦・ 大躍進政策と文化大革命で約六千五百万の人民を飢えと投獄で殺してきた。 そしてこれら「歴史の真実」を隠して、「東アジア首脳会議」の席で、温家宝首相は 「中国は決して東アジアを支配したいと思わないし、中国は他国の犠牲のもとで発展は しないし、中国の発展で他国を脅かすことはない」と述べていた。こんな盗ッ人猛々し い大ウソでは、誰も中国を信用しない。更に台湾に対してミサイルと潜水艦で脅したり、 「反国家分裂法」で度重なる威嚇をし、中国軍司令官は「米国への核攻撃も辞さない」 発言やらで、ギャラップ・読売の共同世論調査で「中国を信頼していない」人が、日本 では72%、アメリカで53%だったという。こんな国と東アジア共同体を構想する日 本の親中派政治家や外務省官僚は全くどうかしている。「互いに信頼感がなく、民主主 義でもなく、情報の自由もない共産主義国家」との間で、共同体論議など全く話の対象 にもならない。 共産主義国家では「宗教も祭祀も禁じられている」から日本人の祭祀が何かを知りもし ないで、他国の祭祀(靖国参拝は)止めろという。止めなければ小泉首相いは会わない と宣言している。経済共同体の絶対条件は「共通の通商ルールを守る」ということだが、 他国の内政に平気で、特許も意匠権も商標権もないがしろにする国とは、とても話し合 いが出来っこない。民主党の前原前代表が「A級戦犯が祭られている間は、靖国神社に 参拝はしない」と言っていたが、「中国には脅威を感じる」という発言をした途端に、


胡錦涛主席が会わないと言い出した。中国は昔から、よく言う事を聞く「冊封国家」 「朝貢国家」しか相手にしなかった。「大中華主義の国」だったのを忘れてはいけない。

太平洋経済共同体論 今戦争中によく言われた「大東亜共栄圏」は中国も含めて考えられたものだが、これは 戦争で物の見事に失敗した。「海洋国家・日本」が「大陸国家・支那」と争ったから勝 てなかったのだとマッキンダーの「海洋地政学理論」でも言われている。中国とロシア は地政学上から言えば「大陸国家」なのだ。そして「大陸国家・ドイツ」がカイゼル大 帝の頃「海洋国家」としても成功しようとしたが大失敗だった。こういう先人の例を学 ぶまでもなく、地政学的にも「海洋国家・日本」は太平洋を中心としたアセアン諸国・ 台湾・韓国・インド・オーストラリア・ニュージーランドに「アメリカを加えて」構想 すべきなのだ。 アメリカは太平洋と大西洋に面した海洋国家なのだから当然だが、インドについては海 洋国家に準ずる「半島国家」で大変な親日国家であることを忘れてはならない。敗戦後 の「東京裁判」で、唯一人全被告の無罪を主張したのは「インドのパール判事」だけだ った。中国は、その尊大な中華思想からいずれ「アメリカ」と衝突する日が来る。また、 そうした場合には「アメリカの核の傘」の下にいないとイザとなった時「太平洋経済共 同体」でけでは「中国の核」に対抗するスベがない。また、中国もとにかく十三億人の 人口を抱えているのだから、それだけで十分以上に一つの経済共同共同体を形成してい るのだから更なる欲を持たないことだ。また、「満州(女真族)」「内蒙古(モンゴル 族)」「西域(ウイグル族)」「チベット族(西蔵族)」「北朝鮮(高麗朝鮮族)」な ど、異民族からなる「共和国連邦」が実質なのだからこの内部をジックリと熟成させる のが肝要なのだ。

第 2 話 初めて知った「歴史人口学」 海外では日本にいた時よりも、不思議と故国日本の将来が気になるものだ。日本のNH Kワールドテレビが、日本と同時放送で見られるから、今では情報の断絶は全くない。 加えてインターネットでは全民放テレビも見られるそうだ。だが八十二歳の老人では難 しいインターネット操作をさらに覚えるという根気もなし、もう新しい勉強は願い下げ にしたい。仕事上のパートナーがまだ若いからほとん。どこなしてくれる。私は「省事」 (事を省はぶく)への一途だ。最近NHKの人気番組「クローズアップ現代」で、」上 智大学鬼頭教授の「歴史人口学」を初めて知った。これは「一万年に及ぶ世界人口変動 の歴史」を明らかにする学問と言うから面白い。


縄文期日本人口「八万人」 九州から北海道に至る全日本に住んでいた縄文人(原日本人)=約一万年前=の総数は、 何と「八万人」に過ぎなかったそうだ。ところが稲作技術を持ち込んだ弥生人=五千年 前ころ=は驚くべきことに、七倍近い「六十万人」へと急増した。 その要因は自然増ではなく、大陸や南の島から日本列島へと、多くの移民があったとし か考えられない。さらに続いて西暦年号が始まる時代になり、呉・漢・唐・隋や韓から の渡来が始まり、奈良時代には日本列島の総人口は「二百万人」に達し、原住日本人 (琉球・蝦夷・アイヌ)を追い越して、十数倍にも達したというから驚きだ。 日本人は異人種の混血によりダーウインの「進化論」でいう「雑種第一代は劣性が排除 され、優性だけが遺伝する」という学説を実証してきたともいえる。また、移民が普遍 化した奈良時代には仏教をはじめとする先進中国との国家間外交も「聖徳太子」によっ て始められ、人口も倍々ゲームで増えたりまた凶作・飢饉(ききん)で大幅に減ったり もしてきたらしい。 稲作範囲も東北地方へと拡大し、政治的安定もあって江戸時代からの四百年間で日本の 総人口は初めて三千万人に達し(一瀉千里)で、現代の「一億二千五百万人」へと達し てしまった。今のフィリピンの急速な人口増加を笑えない時期が日本でもあり、労働人 口のはけ口を「満州」に求めて、太平洋戦争を始めざるを得なかった苦い過去にもつな がった。

待ったなし人口減少時代 国連の発表によれば、世界の総人口(二〇〇八年)は一億人増えて六十七億人にたっし たという。一番多いのは中国十三億人、二位はインドの十二億人、三位は米国の三億人 と続くが、日本は十位で一億三千万人だ。そしてフィリピンは八千五百万人へと急増し ている。ところが日本では始めて05年度に「人口の自然減」を迎えてしまった。 そして、この人口動態を「統計学を駆使して計算」すれば、今世紀末には三分の一の四 千五百万人に落ち込むという恐怖の計算が成り立つという。サテどうする。日本は簡単 な算術だ。向こう二十五年間でさえ一億三千万人が九千万人に減り、肝心な労働力人口 が一千万人減ると慎重な日本政府でさえ公表した。 だからここは論議の余地なく大胆な「移民政策」「移民開国」に踏み切るべき時期にあ る。今でも日本の厚生労働省が発表した。「外国人雇用状況速報」が昨年六月の数字で 「三十四万人」なのだ。こういう外国人の査証は、タテマエ「研修生」、ホンネ「単純 労働者」ということで、表面的には糊塗(こと)されてきたものだ。


多民族共生社会へ そのくせ共同通信の調査では「特別養護老人ホーム・入居者」約四十万人に対して「特 養待機者」は三十四万人もいる。今、老人ホームいは入れない人が、申込人の半分近く も達する。一番の理由は「介護福祉士」「ホームヘルパー」の絶対数が不足しているか らだ。もちろん「仕事がキツイ」「時間が不規則」「その割りに給料が安い」というか ら、日本人の働き手が減る一方で認可取り消しの不安があり、また企業としてのメリッ トもあまり期待できない。などなど問題は山積みしている。 ここは「老人に優しいフィリピン人母と、新日系人数万人の掘り起こしと、手を結ぶ」 ことが、有無あい通じて道を開ける唯一無二の政策だと信じている。今や日本も奈良時 代歴史の黎明(れいめい)期に立ち返り「多民族共生社会」の構築へと、大きくかじを 切るべき時なのだ。

第 3 話 幽霊老人 症候群 日本では「幽霊老人症候群」という新しいヤマイが広がろうとしている。東京都内で所 在不明老人の白骨死体が相次いで見つかったのを機会に、全国で百歳以上の所在不明老 人が明らかになりつつある。この百歳以上の老人のうち、ナント約4分の3が男性とい う。だが、一方、厚生労働省の人口動態調査では、80歳の以上の老人では、圧倒的に 女性が多いのだ。だが、行方不明の老人に限ってはなぜ圧倒的に男性が多いのだろう。 オカシイ。

“幽霊老人”はオトコ なぜだろう?勝手に家出する放浪癖の男、家からはじき出された勝手者、認知症の患者、 雑居家族の中で居場所がなくなった男、特養介護老人ホームに入った老人など、近未来 社会の様相が確かに色濃い。だが80歳を過ぎたら、突如、男が元気になり、女が多く 死ぬようになるとは考えられない。実態は逆に女性の方が元気で長生きだ。 どうもウラがあるとしか考えられない。戦前の有名な「阿部 定(さだ)」チン切り事 件のヌシは、ジャーナリストの関心を今も引くのか所在追求を続ける人がいて、月刊 「新潮45」では今もこの江戸時代に生まれた「昭和好色一代女・お定色ざんげ」が話 題になる。そして「お墓」は見つからず、最近149歳で住民票からは「職権抹消」さ れたという。ただ、今後の大きな問題は父か母かその何れかの年金を当てにして、親の 死後も「死亡届」を出さずに「老齢年金」をタダ取りする子供がいるというケースだ。 「現況届」など「何でもありのフィリピン」では何とでもなる。食えなくなった人たち は必死で知恵を絞るし、そういう人たちは「公文書偽造」など何とも意識しないらしい。


老齢年金の「タダ取り」 日本の市役所で90歳を越した市民の所在確認など決して大きな手間や金がかかること とは思えない。「後期高齢者」という呼び方で大騒ぎするなどナンセンスだ。私など別 に「末期高齢者」と言われても平気だ。私がこういう論議を提唱するのは、現行年金制 度には正直者が損している誤った規則が多々あるからだ。老齢年金の「不正タダ取り」 を見逃してはあまりに「不公平」だからだ。先年老齢年金給付の「時効は撤廃された」。 だが付属する「加給年金」は、なぜか時効が認められず5年で打ち切りになる。海外在 住者にとっては救いがないのだ。だから老齢年金受給者の死亡を隠してタダ取りしてい る不正を正せば、改正案に必要な原資など簡単に生み出せるはずだ。こういうことこそ 政治家を動かすべきではなかろうか?

犯罪人は「なぜ比へ逃げる」 邦人のフィリピンへの逃亡率はダントツに高い。 その理由は、 1. 比人には過去は過去、と受け入れる優しい性格がある 2. 犯罪者でも赦す(カトリック教の教えという) 3. 日本人は金があると誤解している 4. 金があれば、犯罪者でも平気でかくまう 5. ヤクザでも初めは女に優しいから、錯覚する 6. 別の島へ逃げたら、もう捕まらないと大安心 7. 何でもお金で解決できる 8. 数万ペソで「殺し屋」を雇える 9. 理非曲直を問わず女の一族はかくまってくれる 10. 女はまた日本行きの夢を見れる。 そして一番の問題は、密告でもない限り犯罪人を捕まえる能力が警察にないことだ、警 察へ行けば、まずは「電話代を払え」「車のガソリン代を払え」というやり取りから話 は始まるのだ。だが最近は少しずつ変わってきているようだから、用心しながら話を進 める必要があるという。袖の下が効かない警察官もいるということだ。何より「日本人 は金持ちでお人良し」というハカナイ幻影からフィリピン人を脱却させることだ。

邦人援護件数”世界一 2 2010年には在タイ大使館・在上海総領事館(中国)を抜いて、在フィリピン日本大 使館が不名誉な「世界一」の座を占めたという。邦人援護件数は前年比46%増の13 54件(年間)というから、1労働日当たりでは「5件」となる。これを担当官2人で


処理するのだから大使館も大変だ。一番大きな理由は、「ジャパゆき」さんと結婚して フィリピンへ追っかけてきたものの「英語も比語も出来ない」「仕事がないから収入が ない」「金の切れ目が縁の切れ目」という昔から言われることわざの通りになる。 これに加えて水商売(エンターテイナー)上がりの意外に強(したた)かな若いフィリ ピーナにもむしられて追い出される日本人も多い。こういうフィリピン人特有の土壌が あるタイ・中国とは違う「邦人保護対策」を真剣に検討しないと世界一の座が続きそう だ。「民間人の知恵」を活用すべきではなかろうか?

第 4 話 比看護師と介護士 日本の看護師国家試験に合格した比人候補生は、また1人だった。前回の1人と合わせ てたった2人だけだ。そして比日経済連携協定(EPA)交渉に参加した比労働雇用省 のクルス次官が、現状に強い不満を表明した。どこが間違っているのか直言したい。

比人看護師は足りない 有能で優しい比人看護師は、世界中で「引く手あまた」だ。何も難しい日本語を学ばな くても世界中の英語圏で引っ張りだこ。試験は比で受けて、合格すればすぐ査証が出る。 カナダでは2年間勤務すれば「永住査証」になる。給料も日本より高い。日本政府は比 人看護師の世界で需要を前提に考えるべきなのだ。1大学の看護学部卒業2実務経験2 年以上3英語による学科試験合格4日本語研修(日常会話レベル)の義務付け∼∼これ で十分。終了したら査証を与える。働きながら日本語のレベルは自然に上昇する。 日本の病院側では待遇面などでの努力が肝要だ。まずは、看護師と介護士を一緒にして、 処遇を考えてはいけない。人材の能力も給与もすべてが違う。EPAでも「看護師・介 護士」と、一括りにしてはいけない。看護士と介護士では、学校も収入も社会的評価も 違う。

介護士の採用基準 日本では「介護福祉士」と「ホームヘルパー2級」に資格が分かれる。手っ取り早くい えば「介護福祉士」は、患者の体に触って介護出来るが、ホームヘルパーは体に触って 介護できるが、ホームヘルパーは体に触っていけないから「ご飯をアーンと口に入れる」 「雑談の相手をする」「買い物をする」などだ。ホームヘルパー2級の試験は、半年も 勉強すれば合格できる(SNNでの実例)。介護福祉士の試験も何とか対応できる。 日本でホームヘルパーの助手として働く人もいる。昔(ホステス時代)取った○柄で、 演歌を歌い老人ホームを湧かす人もいる。性格が明るいフィリピーナは好評だ。日本語 教室で語学力に磨きをかけ、業務日報も「ひらがな・カタカナ・漢字混じり」で対応で


きる。これなどは、終了証書を取得しないと日本へ行かせないという厳しい条件を課さ れているから、SNNで必死に勉強した結果だ。 介護士については、EPA協定による、比政府側「POEA」や、日本政府側の厚労省 の外郭団体「国際厚生事業団」にかかる経費よりも、我々のような民間なら半額で対応 できるだろう。だから協定に基づく査証を発行する以外の業務「日本側企業・病院の選 択、比側の人材募集・選定など」は民間に任せることだ。海外の人材派遣業大手も乗り 出している。日本でも中曽根総理が「民活」を提唱され大きく羽ばたいた事業があった。 看護師は患者の生命に関わる業務だから、比でも難しい国家試験がある。比で比較を取 得していながら、日本での就労を目指すのは、「英語圏の看護師試験に落ちた」、「比 の恋人に欧米行きを反対された」などが理由だ。ともあれ今のように厚生労働省が「言 語の壁」を言い訳にして国際労働力移動の実態に目を閉じたままでは、日本離れに拍車 がかかることは間違いない。ここは思い切って「英語での学科試験」に切り替えて、日 本語の能力は本人の努力に任せるとした方がよい。 いくら日本語が上達しても、安定した雇用がないと、彼らはすぐ「英語圏」へ転職する という事実を忘れてはいけない。「比人看護師にとって日本は魅力がない」ことに気付 かないと道を誤る。看護師は世界で不足しているのだ。比でも「地域医療推進プログラ ム」でミンダナオ島、南・北サンボアンガ両州を中心に511人の看護師1年間緊急派 遣している。そのほかの各地でも看護師不足は表面化している。

「言語の壁」のウソ 「ジャパゆきさん」の例に漏れず、フィリピーナの外国語習得能力は非常に高い。ただ、 彼女らは覚えないとお店で仕事が出来ない(指名客が付かない)から、必死で覚えたの だ。SNNでは日本語研修200時間の修了証書取得を義務付けているから、彼らは必 死で勉強する。EPAの介護士は研修に通えばよいだけだから、必ずしも必死ではない。 海外で日本人が直面する「英語の壁」よりも、比人女性らは「日本語の壁」を容易に乗 り越える能力がある。それより私が怖いのは、日本で落ち着いた彼女らに「容易に手を 出すオッチャン」の存在だ。

第 5 話 フィリピン病にかかる人 在比日本大使館の邦人保護・年間件数が、不名誉な「世界一」となった。朝日新聞がい ち早く全1頁近い記事として報道したこともあって、「困窮邦人」という言葉が日本で も知られ始めた。私が1999年7月号の「セブ島通信」でタイトルに「困窮邦人と詐 欺師」として使ってからは、すでに十二年経った。私も知るノンフィクション・ライタ


ーいう「フィリピン病にかかる人」と、「困窮邦人」は直結する。また、極貧社会に沈 む新日系人二世の日本人父は、ほとんどがフィリピン病にかかっている。そして、末路 は次のようになる。

予備軍 フィリピンパブやフィリピーナが働くカラオケスナックに通い始めたら「フィリピン病」 予備軍だ。ピチピチギャルから「アコ、イカウ、スキ(私、あなたが好き)」とお世辞 を言われて舞い上がり、金融業者に借金してまでお店に通いつめる。使えるお金は20 0万円ぐらいまでがサラリーマンの限度か。ここで目が覚めれば感染せずに済む。

感染 査証が切れて彼女が比へ帰ると、男は「追っかけ」に変身する。彼女の故郷を訪ね、実 家で大歓迎を受ける。両親は「ネギを背負った鴨」が来たと大喜び。そして多くが数ヶ 月間彼女の実家に沈没してしまう。日本での仕事は無断欠勤でクビだ。しかし、この時 点でも、貧しいバラック小屋での生活や、周辺の貧民窟に閉口して逃げ帰った人は発病 しなくて済む。

発病 日本に帰っても、すぐフィリピンに行きたくなる。彼女にも会いたいのだが、猥雑(わ いざつ)なアジアの下町的雰囲気が忘れられず、つい航空券を買ってしまう。こうなる と、いよいよ発病だ。 こういう人は日常会話で、「アコ(私)」・「イカウ(あなた)」を連発してフィリピ ン通になったと錯覚する。彼らはヒマに任せて「子づくり」にだけは励み、どしどし新 日系人をつくる。日本の煩わしい戸籍問題などクソ食らえ。かくして、居ついた日本人 が少なくても一万人はいるだろうという説がある。

悪化 患者の殆どは、比での婚姻手続きだけはしている。しかし、大多数は「お金」「家族」 「男」の問題で破局を迎える。別れた男は不思議に日本へ帰らず、フィリピンに居座る。 いったん飛び出した日本の家族や親族は相手にしない。五十歳を過ぎたら仕事もない。 頼りの年金はまだもらえない。結局、似たようなタイプの女と同棲し、同じトラブルを 繰り返す。何しろ病気なのだから仕方がない。


末期 ヤキモチ焼きのフィリピーナの相手は疲れる。金さえあれば何とかなっても、その金も 尽きてくる。一文無しの日本人など誰も相手にしなくなり、路頭に迷う。そして死ぬ直 前には、貧しいフィリピンの隣人が食べ物を分けてくれ、薬を買ってくれ、寝場所をな んとかしてくれる。末期患者は、例外なく貧しいフィリピン人が助けている。ご近所に 日本人がいても、誰も助けない。 「『まともに働いて生き抜いた人間』がなぜ、『まともでない怠け者アホ人間』の面倒 をみなければならないのか」と息巻く人もいる。だが、「袖で触れ合うも他生の縁」。 お互い「流れ寄った南の島」だと思うのだが。

孤独死 隣人の世話も受けられずたった一人で亡くなる人も居る。日本の家族に連絡すると、 「長年、散々迷惑をかけられた。遺骨は要らない」という。だから行く末は市町村の 「無縁墓地」となる。マニラ、セブ、ダバオでは、もう少し整った「日本人墓地」整備 してもよいと思うのだが。 だが孤独死する人たちは、なぜこの単純な人生計算が出来ないのだろうか?この理屈が 分からない人が「困窮邦人」になっているのだ。「金の切れ目が縁の切れ目」。仕事も 収入もなくては生きられない。二十∼三十歳の女が、六十∼七十歳の男と喜んで結婚す る訳がない。かくて大使館前に棄てられる困窮邦人もいる。

第 6 話 金持ち父さん、祖父さん 金持ち父さん 日系アメリカ人「ロバート・キヨサキ」の世界的な大ベストセラーに「金持ち父さん、 貧乏父さん」という本がある。日本では「勝ち組」を目指してお金を稼ごうとするから、 毎日上司の顔色を伺い、寝る間も惜しんで働くことになる。ところが、アメリカでは働 かないで政府の福祉援助で食べている階層がある。そして彼らはそれなりに幸せそうだ ったという。要は選択の問題だったのだ。こういう一見貧乏人が日本の不動産価値が1 0年で70%も下がれば、凄いチャンスとして買いに入る。そうすると青い目の禿げ鷹 がやってきたという。日本人の経済感覚はどこかおかしい。儲かるチャンスに何のいろ うか?日本長期信用銀行を買収して「新生銀行」に衣替えさせて、再び株を上場させて 早くも2000億円を稼ぎ出したアメリカの投資銀行にやっかみの声が多いが、当時日 本の銀行団では誰も引き受けなかったのだ。不明を恥じるべきなのだ。


日本人は「貧乏父さん」か? 著者が言う「金持ち父さん」のモデルは中国人であり、「貧乏父さん」は日本人なのだ そうだ。日本人は江戸時代以来お金を持つことは恥ずかしいことだという気風があった。 江戸っ子は、宵越しの金は持たないとか、着物の見えない裏地に凝るのが粋だとか。ハ ワイでも日本人は日本人としか結婚しないが、中国人はハワイの人間とドンドン結婚し て土地を自分のものにする。あと何十年かすれば金持ちは白人と中国人だけになりそう だ。中国人は天性の企業家だから、お金を悪だなんて考えない。どうも次の時代は中国 人が支配するだろうという説が濃い。

日本人の教育が問題 日本の学校では卒業したら最後、二度と使わないことを山ほど教えても、お金について は何も教えない。金持ちだろうが、貧乏人だろうがみんなお金を使うんです。最近では 「ゆとり教育」といって、わざと子供をバカにする教育を政府がやっている。だけど、 日本が世界に誇る最大の資産は「日本人の頭脳が明晰である」ことです。だけど、なぜ 官僚になりたがるのか分かりません。「武士は食わねど高楊枝」で貧乏していても幸せ ではないでしょう。夫婦喧嘩の原因のトップはお金なんです。もっとお金儲けが恥ずか しいことではないという習慣を学校教育を通じて教えるべきだと思います。さて、そこ でフィリピン女性の最近の人生観などを考えてみたいと思います。

フィリピン女性の憧れ 彼女らは同じフィリピン国の男性に、全く将来の豊かさを期待できないのです。数字や 理屈よりも肌でそう感じ取っていますし、それは正解でしょう。今の人口増加率で行け ば、2015年には間違いなく人口1億人の壁を突破します。稼いでも稼いでも追いつ かないのがこの国の現実なのです。そして大統領の誰もが「カトリック教」の「産児制 限は悪」という現実の壁を破ろうとしません。こういう中で、若いフィリピン女性が健 気にも「ジャパゆき」として、日本の夜の町でホステスとして働き、あわよくば日本人 の独身男性との結婚を夢見ているのが現実です。しかし、こうして結婚しても最近の統 計では、約半数が離婚の憂き目を見ているのです。 その理由は「女性側の余りの貧しさ」「男の財政支援への期待があまりに大きすぎた」 「言葉の意思疎通が難しい(男の英語が出来なさ過ぎる)」「お互いに辛抱が足りない」 「日本人だのにお金を持っていない」「しょせん男は浮気者」「女性側の親族・身内の 同居」などなど、数えたらキリが無い。そこで最近出てきた新しい動きは日本人は老齢 年金保険が毎月4万ペソから7万ペソは出るから、思い切って死にそうな祖父の年代の 老人を探そうとする。しばらく何年か辛抱すれば、旦那の死後、日本政府の年金が自分 の死ぬまで支給されるという訳だ。


私が「よろづ相談」で現実に聞いた話だ。そして日本人男性は「死に水をとってくれる」 のなら、それでよいという。日本での人生はどんなだったのだろうと不思議だ。

第 7 話 あなたは比で死ねますか? 永住者と長期滞在者 日本の外務省二○○三年度統計で、海外に住む日本人は九十一万人を超えた。その内、ア ジア地域二十二カ国では総数二十万人強を数える。永住・長期を合わせて一番多いのは 中国、計七万七千人強だが、どの国も把握出来る在留届の数字を基礎にするので、実数 はかなり多いと思われる。こんな中、各国別の永住者と長期滞在者の数字を見ていて面 白いことに気がついた。 フィリピンは計一万人強の中、永住者数がアジアでは一番多い千六百六十九人で、永住 者の占める割合は十六%にもなる。アジア全体の永住者比率が四%弱であり、以上に高 い数値といって良い。フィリピンに似て永住者が多いと思われるタイでさえ二%で、い かに突出している数字か分かる。 この統計で、パキスタンの永住者割合は四十二%にもなるが、これは現地のビザ事情に よる便宜的な選択のような気がするし、意外にも昔から関係の深い韓国・中国などの永 住者は微々たる割合で、ビザの制度によるものなのかよく分からず、一概に比較出来な い数字なのかも知れない。セブの場合となると、永住者の比率は更に大きい数字になる。

たいした事がない これから以下は根拠の薄い私見を交えて綴るが、この永住者・長期滞在者の区別の『法 的根拠』は曖昧で、日本に住民票を残そうが海外に転出しようが、本人が『永住』と言 えば永住者であるし『長期滞在』と言えば長期滞在者になる。今持っているフィリピン のビザとはあまり関係なく、例え観光ビザで半ば不法状態で長年住んでいる人でも、こ の国の永住ビザと一般に称すビザを取得している人でも、どちらも当人の気持ち、状況 =申告で永住・長期の区別がなされる。 『そんな馬鹿な』と思われる方は外務省に聞かれると良い。『例え、永住ビザを取得し ていても、当省は現地で生活するために便宜的にビザを取得している場合もあると考え 長期滞在者と本人が申告されることに問題はありません』といった返答が帰って来る。


負の歴史は繰り返す 成人の永住者・長期滞在者の分け方などつまり、その程度のことである。これに子女の 教育が絡んで来ると、日本の文科省・外務省の在外教育関係予算は、財務省への予算請 求の基礎数字中永住子女は除外されるため、その程度などとは言っていられなくなる。 ビサヤ地域には日本の義務教育相当子弟は三百人近くいて、ここ数年で倍増しているが、 この他に、生まれたばかりの赤ん坊から小学校入学前の六歳未満を加えると、邦人子弟 数は相当な数字に上がってしまい、対策が急がれる。 この子どもの数字を敷○すると、マニラはざっとセブの十倍と言われるから三千人は優 に至り、更にこの目をフィリピン全土に広げると、日本の国籍を持つ子ども数は爆発的 であり、認知出来ない諸々の事情のある日本人の子どもを加えると更に膨らむ。この他、 フィリピンの日系人を含めると膨大な数字を含めると莫大な数字が出て来るのは言うま でもない。 日比間の結婚数が年間七千組をはるかに超えて、各種の揉め事が累々と噴出しているが、 ここまで数字が大きくなると日本も『日比個人間の問題であって、民事に介入出来ない』 などと言っていられない時代が来てしまっている。とは書くが、ミンダナオ島ダバオの 戦前と戦後、現在を省みれば、別に新規の問題ではない。日本の政策は一貫して見て見 ぬ振りを決め込んでいるだけである。

名実共の永住者とは 最近、ある邦人の墓石作りの手伝いをした。このように『自分はこのセブに骨を埋める』 と、明確に自己の死生観と折り合いがついた場合に初めて『永住者』と称し、かつ称せ られるものなのではないか。フィリピンに妻子があるとかなどどいった巷の“しがらみ” とは別の次元のような気がする。 在住は長いが、未だ経てにも横にも『長期滞在』と思っていない。この国での死生観を 形成するには至っていない。誰しも『何れやって来るもの』だが、考えているようで考 えていないものである。こういった覚悟がいるのも海外生活者の宿命かも知れない。

第 8 話 物で栄えて、心で滅びる 高度経済成長の美酒に酔っていた日本人に「物で栄え、心で滅びる」と鋭く警告された のは故高田好胤師であった。また、中国文明四千年の歴史には偉大な先哲がきら星のご とく輝いており、「空海」や「最澄」などは中国の仏教に学び、多くの遣唐使たちは儒 教の古典や諸子百家の説を実に丹念に学習して、多くの書籍を我が国に伝えたものだ。 私の最近の文章が中国を冷徹に厳しく批判しすぎるとか、右翼がかっているという説が あるようだから、この辺で取りまとめて所懐を申し述べておきたい。私は中国人を大変


に高く評価しているが、今の「共産党一党独裁体制」から来る愚かな政策を批判してい るだけなのだ。

「批林批孔」は今? ホンの十数年前「 批林批孔 」(林○を批判し孔子を批判せよ)というスローガンが叫ば れていた中国で、最近は堂々と「孔子」を誇り讃えているという。孔子は中華文明の中 核だと言って讃えるのだ。かれら中国共産党政府はまずは経済を改革開放し、言論や宗 教の自由化を後回しにしてきたが、最近では庶民の寺院や祠廟への参詣は引きも切らな い。中国の宗教道徳では「儒教」「道教」「仏教」「キリスト教」「回教」など多岐に わたるが、庶民の願望押さえ難く、その自由に介入を控えてきたが、再び政府の都合か ら「マルクス主義の堅持」を官僚腐敗の引き締め策として使い始めた。政府のご都合次 第で宗教政策は右へいったり左へいったりしているようだ。

墓を造らぬ宗教 中国当局は毛沢東・周恩来・鄧小平といった建国功労者の墓を造らない。然し、南京に は「孫文」の立派な中山稜がある。彼らが信奉するマルクス主義は「宗教はアヘンだ」 といい「私有財産制を否定」し、「唯物史観」を主張した。しかし、現実の中国ではそ んなマルクス主義は時代遅れとしてとっくに克服している。だから今の中国でマルクス 主義の堅持をいうのは時代錯誤なのだ。今後も「世界の工場」として経済では発展を続 けると思うが、これからはそれにふさわしい物の考え方や精神生活が必須になってくる。 モスクワの墓地ではフルシチョフ以降の指導者の墓はある。ただ、世界には「墓を造ら ない」ヒンズー教・インド仏教・回教や、「墓を造る」キリスト教・日中の仏教・神道 などがある。東アジアの宗教伝統は「墓を大事にする」。だから中国でも共産党の呪縛 から逃れて遅かれ早かれ「墓を造り大事にする」ようにはなるだろう。中華文明の流れ をつなぐ中国文化人は、その理想を示しながら「近隣への反発や、遠交近政の下策には よらず中華文明の名に恥じぬ政策で対応して欲しい」ものだ。今のような共産党独裁の 政治体制では、経済で栄えても、心で滅びかねない。

日本人の死生観 世の中にはサプリメントとかがあふれ、廊下を遅らせるよう血の道を上げている。我々 の年代は「国のために潔く死ぬのが美徳」と教育されて育った反動か、高齢化社会の中 でいかに生きるかが追及されているようだ。宗教学者の「山折哲雄」氏によれば日本人 は「万物生命教」というべき「自然に帰る」という感性を大事にして生きてきた民族だ と言う。自然の木々や花々、山、滝、川などの一つ一つに生命が宿っていると教えられ、 死ぬと自然に帰るという感覚が外国に住んでいてもあるものなのだ。もう八十歳を前に


していつまで健康でいられるか、いつ地震や事故で死ぬかという不安を現実に意識しな がら生きている。

第 9 話 遺骨収集問題を考える 太平洋戦争に敗れた日本の、海外に残存した遺骨は何と海外戦没者数約240万人のう ち116万柱(43%)が今尚残存遺骨として海外に放置されたままだという。この残 存遺骨116万柱のうち海没遺骨約30万柱と相手国事情で送還され得ないものが約2 6万柱あるから、これを除いた収集対象になる遺骨が約60万柱あることになる。(日 本政府厚生労働省資料)ところが何と驚く事にこの収集対象になる未帰還遺骨約60万 柱の過半数約30万6千柱(51%)がフィリピンだというのだ。そして日本の厚生労 働省・社会援護局では向こう二年間に最期の収集作業を行う計画だそうだ。この問題を 今突っ込んでおかないと時期を失ってしまう。

今が最期のチャンス… 太平洋戦争に軍人として参加した世代は、若くても80才を越えた。セブ海軍部隊司令 官だった「岡田貞寛」少佐は「セブ観音」の創建者だが、2005年の8月に86歳で 無くなられた。アメリカ・フィリピン連合側のセブ・ゲリラ隊長だった「セグーラ少佐」 (戦時中)は86歳で、未だセブで元気だが足が不自由で外出は難しいと言われる。私 も戦中派だったが工科系の徴兵延期中だった大学生で軍籍はなかった。セブ観音に来ら れる奉賛会の戦友も年々数が減って戦友は僅か3∼4人に過ぎず後はご遺族だけだ。 我々戦中派は戦後処理問題には夢中になって協力してきたが、今や歩行が難しいという 悩みを抱えている。激戦があった戦場後の山野には足が運べなくなってしまった。それ でも遺骨収集となれば老体に鞭打つ気力はあるが身体が言うことを聞かない。この遺骨 収集計画は物理的にもこれが最期になるだろう。

お役人仕事だけでは難しい 今回お会いした本省の方々には随分率直な話しをしたのだが、今や遺骨があるという話 があって出かけても多くて2∼3柱で30万柱もどこにあるのか検討もつかないと言わ れる。戦後60年も経って当然だが、どうすべきかを検証してみたい。 1. 在留日本人の組織(日本人会)を生かして協力を得る。 2. 比国側から激戦地の日系人会、比軍在郷軍人会の協力を求める。(セブのゲリラ隊長セ グーラ大佐は出来る限りの協力をするという好意的な話だった) 3. 広い地域から情報を求めて待つだけでなく、現地へ出かけないとダメだ。対象地域もル ソン島ではバギオ南東の山岳地帯、ミンダナオ島のダバオ・アポ山麓地帯、レイテ島は 全域、セブ島ではブサイ山麓ぐらいがまとまった可能性がある地域だ。


4. お金を使わないと情報すら出てこない。厚生省は予算措置が必須なのだ。フィリピン人も 在比日本人組織もお金はない。日本大使館・領事館には動かせる人の余裕がない。特 にフィリピン人の協力を得るには正直言って金しかない。今やただでは誰も動いてくれな いのだ。ましてや殆どが山岳地帯だからNPA新人民軍やモロ民族解放戦線の根拠地に 近いから、正直誰も好んでは行かない地域だ。 5. 元ゲリラ隊長セグーラ大佐は言う。地表面には遺骨は見られない。キリスト教徒がその まま放置しない。皆、戦後埋めてしまったし誰も場所の詳しい記憶はないだろう。地下ト ンネルに隠れた日本兵を米軍が火炎放射器で焼いて埋めたケースがあるから地下トン ネルえを探すのが早道だという。私もダバオで地下へ入った経験があるが何となく怖い ものだ。 6. 昔、私も経験した事だが遺骨が日本人のものかフィリピン人か分からないから収集対象 にならないと日本政府の役人が言っていたことがある。せめて近くに鉄兜か飯ごうか出 てないか?というのだが、そんなこと誰にも分からない。疑わしきは罰せず、遺骨は東京 で「千鳥が淵霊園・無名戦士の墓」に葬られるのだから、日比の区別がつかないなら受 け入れ。後のチャンスはもうないのだから。

第 10 話 「新日系人」を支援する 「新日系人」とは、太平洋戦争後にフィリピンへ渡った日本人(主に男性)や、日本へ 渡ったフィリピン人(主に女性)の間に生まれた日比混血児(一部ではジャピーノと言 われた)のことです。 彼らは1992年∼2004年の13年間に60,307人が生まれて日本国籍を持っ ていますこの間の日比間結婚件数は90,093人で、この同じ期間中における日比間 離婚件数は30,093人もあります。 離婚率は33%にも達するわけで異常な高さ だといえましょう。ところがこの数字は日本の厚生労働省による人口動態統計によるも ので、日本の市役所・町村役場に届出されてない数字は含まれておらず、フィリピン側 にはこの種の統計数字はありません。消息筋の話しでは恐らくこの倍数はあるだろうと 言われています。フィリピンでは正式な結婚をしながら、日本での届出はしていないケ ースがたくさんあるのです。だからフィリピンにいる日本国籍を持つ新日系人の子供と その比人母は推定で約三万組、フィリピン国籍の母子が約7万人、合計約十万人の新日 系人と、その比人母にはなろうと推計されています。

新日系人の分類 「日本国籍を持ち日本で両親と同居している子」「日本国籍と旅券を持ち、比人母とフ ィリピンに不法滞在している子」「両親が比国では正式に法的結婚をし、出生証明書に は父親の名前が記載されていない子」「比国でも法的な結婚はしないまま、父親の名前 は不明となっている子」などなど非常に多岐に渡っており複雑です。この分類で事の難 易も違い、探す費用も大きく異なります。


日本人父を探して … 第一義的には子供の養育を放棄した父親としての責任上少なくとも成人までの養育費は 負担してもらう。財政的に難しければ相談する。これらの活動には日本側の「支援する 会」弁護士の法的なサポートも大事だ。さらには、認知から国籍取得へと進めて、新日 系人の自立を援助してもらう。この為には日本での就職斡旋が不可欠になってくる。

日本の人口減少時代 … 2007年からは間違いなく人口が減少する時代に入るといわれていたものが、既に昨 2005年に早くも減少時代へ入ってしまった。こういう人口減少傾向が続けば国連の 発表でも毎年67万人の労働力が確実に不足していると言われている。だから否応なく 移民受け入れは避けられないのだ。もし移民がいなければ今世紀末の日本人口は六千五 百万人に半減するといい、国力は確実に衰えるというから怖い。こういう中でフィリピ ンにいる「新日系人」の存在は極めて貴重な存在になってくる。 今日本にいるブラジル系日系人は約三十万人と言われるがこちらは減る一方だ。ところ が日比間では毎年八千組以上が結婚して、少なくても毎年一万人以上の新日系人が生ま れているのだからあり難い話だ。事件が多い中国人や韓国人よりも日本人の血が混じっ たフィリピン新日系人の方が遥かに良いし、職がないフィリピンよりも職場としての日 本は遥かに良い。何より日本人とフィリピン人は「肌が合う」といえば分かり易い。

日本の職場「介護福祉士」 看護師がまず話に出てくるが、これは世界中からフィリピン人看護婦が引く手あまたで アメリカを優先されているのが現状だ。英語圏の「アメリカ」「カナダ」「イギリス」 などが比人看護婦を待っている。フィリピンの医師が看護師の資格をとってアメリカを 目指している時代なのだ。無理して日本語を習得する事もない。この辺の需給関係を日 本政府の役人は誤解しているか無知なようだ。また、日本人看護婦とは容易に太刀打ち が出来ない。日本での入院経験が豊富な私は現場を熟知している。まずは日本人患者は 本当に我が侭だ。それに地方の方言に馴染みむことは容易でない。名古屋での話しだが 「おみゃーなんですぐこんだ」「いたゃーがや、やめてちょういっとるがや」「おみゃ ーなにさまだとおもうとる」など九州出身が多い看護婦さんがボヤイていた。この点は 分からなければ「ニッコリ笑顔」でしのげる介護福祉士はフィリピン人にはもってこい の職場だろう。日本国籍のある新日系人なら「家政婦」としての対応も容易だろう。


支援の方法 … 私はお金を渡しての支援は長続きしないだろうと思う。それよりは「職を与えること」 だ。それも日本で。そうでないと浮かび上がるだけの収入は期待できないから。新日系 人たちは分かっていても具体的にどうして良いかが分からないし、介護学校へ行く金も ない。


第 4 章 「セブ島暮らし」は楽園か

フィリピンに「ハマル」 今まで散々言われてきた話で恐縮だが、「フィリピンにハマル人々」が今もたくさんお られる。どうしてだろうと年の初めに考えていたところへ、「日本にハマッた?外国人 若者」を、NHKテレビ番組「クール・ジャパン」に集めて、日本のどこが気に入った のかと解説していた。どういう点が「クール・ジャパン」(素晴らしき日本)なんかと 過去1年の論点が列挙されていた。

クール・ジャパン 確か20位からスタートしていたが、8位以下はメモがなく思い出せない。7位が「新 幹線」運転席の表示が「一秒早着」に驚かされる。そして運転士が使う時刻表は15秒 単位になっている。6位はナント「おにぎり」。空気を適度に入れて軟らかく握るコツ が大事だという。5位は「食品サンプル」で、食堂店頭ソックリ度が余りにも見事。今 や世界中に輸出される。4位は「花火」だそうだ。間髪を置かぬ連発打ち上げが他国に はない。 3位は「百円ショップ」、9万点の商品が素晴らしく楽しい。コンビニの百円ショップ もある。 2位は「お花見」だ。「夜桜」の下で花を愛でる日本人の感性が素晴らしい。 1位の対象は科学技術大国日本らしい「洗浄装置付き便座」。 水の温度は38度、目指す射出角は43度、便座はいつも温かいという。「優れもの」 で、1秒間に70回もの自動分割噴出設計から、使用水量は半分になったそうだ。「オ ォ・クール」。

フィリピーナにハマル 前述のように快適な暮らしを目指して構築してきたクール・ジャパンに暮らす日本人が、 なぜアジアでも有数「貧乏大国」のフィリピーナと結婚し、老後をフィリピンで暮らそ うと移住されるのか。その人たちのホンネをあらためて考えてみた。 在留邦人の多くは60、70歳歳代でも、20、30歳代のフィリピーナと結婚する人 が多い。こういう一般女性は、一義的には「暮らしを安定させるお金と結婚する」のが ホンネだろう。また、男性の方は日本で暮らせない「金銭事情」(破産・借金)から逃 げてきたという真相が隠されているケースも多い。


さらに永住・長期滞在者の日本老人は、熟年離婚したものの、70歳を過ぎたらヤッパ リ「ハダ淋しい」。誰か「末期(マツゴ)をみとってほしい」という「甘え」が出てく るようだ。そして双方の事情が一致するケースも意外に多く、金持ちと誤解された日本 老人が、先ず若い相手が逃げないように子供を作ってしまい、平気で無責任な父親にな る。

クール・フィリピン 昨年2月2日付けで「クール・フィリピン」というコラムを書いた。「明るいフィリピ ーナ」、「ヒーラー・マッサージ」、「田舎のバス旅行」、「ミンダナオの旅」、「ジ プニーの老人席」ーについて書いた記憶がある。 だが、ホンネで「クール・フィリピン」と言えるのは「明るいフィリピーナ」、「SP A、サウナ・マッサージ」、「青空と珊瑚礁の海(アイランド・ホッピング)」、「安 い生活費」、気分転換の「フィエスタ(祭り)」、安上がりの「英語留学」ーなどなど。

比で「沈んだ男たち」 フィリピン永住を始めてから三十数年、いろいろな方々の栄枯盛衰を見てきたが、次に 申し上げる方々は早く日本へお帰りになった方が良いようだ。 1. 日本の年金受給がない 2. 賭け事に溺れる 3. 仕事・現金収入がない 4. 子の養育費が払えない 5. 夫婦げんかが絶えない 言葉も出来ないフィリピンで稼ぐことは日本でよりも難しい。日本へ帰れば「生活保護」 「社会保険」

などがあるが、外国では「現金」だけが頼りだ。大使館では、邦人保護

予算(国援法)も極めて少額らしく、ほとんど何もできないといった方が近いようだ。 日本人会は「日本人社会の相互親睦」

「比人社会との友好・親善」が目的で「相互支

援や葬祭」が目的ではない。ただ、「困窮邦人の保護」については、官民双方での「支 援・保護対策」を、早急に検討すべき時期にあると思う。 まだ、日本も貧しかった戦前、昭和9年度上半期分として「公邦人」セブ日本人会が、 外務大臣の命により日本大使館から補助金「六百八十五円」(現在の約80万円)を受 け取ったという記録がある。役人の天下り先団体に、今も数百億円の補助金が出されて いるが、厳しく仕分け、再検討がされるべきでだろう。


ダバオで運悪く事業に失敗して行き倒れに近い亡くなり方をされた邦人の遺骨送還費用 を領事館で負担する話が、直前に拒否されて私個人で送還した経緯があった。現在はま だ世界第2位の経済大国が、何と情けないと泣きたくなった記憶が今も残っている。

フィリピンは天国か? 「セブ島通信」が発刊されてから、早くも念願の百号に達したと聞き感無量だ。創刊し た1990年当時は私が一人で切り貼りしながら編集したものだ。日本人会で年二∼三 回の会合だけが懇親と情報収集の手段だけではいけないと、当時セブ日本人会会長に就 任した私が創刊したのだが、素人が見よう見真似で創めたから紆余曲折はあったが「直 言するコラム」が評価されて今日に至りました。長い間の皆様のご支援を感謝いたして おります。さて本題へ。

ジャパゆき結婚のウラ 今までに何回も、日本のテレビ局から「《元ジャパゆきさん》で、日本人と結婚し、今 もフィリピンで円満な家庭を築いている家族を紹介して欲しい」という問い合わせが来 る。ところがそんな「ジャパゆき結婚の幸せ家族」など、残念ながら私は一人も知らな い。普通の比人と知り合って、普通に結婚し、平和な国際結婚家庭を築いている羨まし い例は、沢山知っている。だが比人妻が「元ジャパゆきホステス」という水商売上がり で、十年以上も平和な家庭を持っている人は、少なくとも私の周辺にはいない。居られ たら是非とも教えて欲しいくらいだ。三食食べられないというレベルの「極貧スクウォ ッター」の中で育ち、根性が曲がった女性が、同じ育ちの水商売にいる女性から感化を 受けて更に性格が捻じ曲がったかに見受けらる人が結構多い。こういう女性と結婚して も上手く行くはずがない。タテマエでは「職業に貴賎なし」というが、ホンネでは「芸 者・娼婦・女給とは、結婚するな」というのが、明治・大正・昭和の昔から親から子へ、 綿々と伝えられている庶民の知恵なのだから忘れてはいけない。

日比結婚のウラ・オモテ しかし、日本の市町村に届出される人口動態調査統計だけで「毎年一万組を超える日比 間国際結婚」があるし、結果生まれた日比混血児二世(ジャピーノ)は、2005年に 十万人を超えた。この他に比国の市町村だけに届出し「日本では隠して未届の婚姻」が、 ほぼ同数はあると経験的に私は推定している。ところがこの日比結婚の内、日本の統計 数字上で33%が離婚し、推定を含めれば少なくとも半数が離婚しているといわれる。 私がSNNの相談で感じる《元ジャパゆき妻》の実感する推定離婚率は七割と、更に高 い数字になろうか?恐ろしいくらいだ。


フィリピーナ妻は離婚した後、殆どが母国フィリピンへ子供を連れて帰る。父親の多く は「多重債務者」として、サラ金やヤクザに追われて行方不明となる。これがごく一般 的な「日比ジャパゆき結婚のなれの果て」なのだ。そして結果的に「日本人父は自分の 子をフィリピンに棄てた」のと同じ結果になる。確かに彼らの一部日本人夫は、子供の ためにフィリピンに家を買い、仕送りもしてきた。だが故国に帰った比人妻が、別の男 を作ったからと怒って仕送りを止めるケースも多い。そこで幼い子供が巻き添えになっ て貧窮のどん底に沈み、一日二食の飢えに苦しむというのが典型的な構図だ。 こういう離婚・離別のケースを要約すれば、率直に言って「どっちも、どっち」という ケースが多い。

どっちもどっち SNNという新日系人二世の母子を支援するプロジェクトを展開していると、酷(ひど) い夫婦葛藤の修羅場に出くわす。日本人夫の無知と非常識、そして日本人夫から金をむ しり取る比人妻等々。いろいろある。率直に言って「狐と狸の化かし合い」、どっちも どっちというケースが多い。しかし、今回は「日本人夫をむしり取った酷いフィリピー ナ妻」の話。「他山の石」として参考にされればと、あえて紹介しておこう。 まずは、「山田ロエナ」(三十代・仮名)のケース。日本人夫との間に二人の子がいる。 夫は生活安定のため、子どもの入学を記念して家を建て、さらに定期に預金にせよと現 金三百万円を渡していた。ところがロエナがその現金は泥棒に遭い、なくなったという。 怒った旦那は毎月の生活費送金八万ペソをストップして問責したらしい。 困ったロエナは家を売り払って二百五十万ペソを入手したものの、それも一年足らずで 無くなってSNNへ泣きついてきた。聞けば毎月の生活費が八万ペソという。

「こり

ゃダメだ」と思ったが、子供もたちまち食えなくなると言うので、一応調査した。 ロエナの姪(めい)、秘書、バランガイ(最小行政地区)役員などから事情を聴取した ら、「現金盗難は完全なウソ」。そして実生活は、「毎晩のようにオカマバー狂い」 「麻薬中毒」「金銭感覚ゼロ」だ。「子供の学費も未払いで退学同様」という悲惨な状 況になっても全く反省が無く、どうしようもないと家族や親戚・近所までがさじを投げ ていた。 ロエナは日本の永住ビザを持ち(ただし再入国期限切れ)、子には日本国籍がある。し かし、こういう母の精神状態とクスリ乱用では日本渡航は止めた方が良いと判断、子供 の生活と通学だけがどうしたら続けさせられるかと支援計画を準備している。 こういうケースは本来、外務省や大使館領事部の「邦人保護業務」の一環ではないのだ ろうか?

生活能力を無くした母と一緒に住む日本国籍の子を何とかして学校へ行かせ


なければならないのだ。唯一の救いは日本の父が子供だけを引き取ろうと連絡が取れる 状態にあることだ。だが、これに近いフィリピーナ妻は結構いるのだから、日本人夫も たまらないし、よくよく考えないと国際結婚も大変だ。 二番目は恐らく「酷さ最悪のフィリピーナ妻」のケースと思う。 「伊藤マリアンヌ」(四十代・仮名)で、ビサヤ地方の島に住む。日本人夫は東北の田 舎に住み、比人妻と一人息子を可愛がって、毎月の送金だけは欠かさず十六年間、続け た律儀な人らしい。この間、フィリピンへ来なかった理由は「肝臓病の悪化」らしいが 詳しくは分からない。 事業に失敗して「自己破産」した後も、律儀な彼は「生活保護」を受けながら、田舎の 父の支援も受けてフィリピンの子供と母に送金していたから「ホトケサマ」のようだ。 ところがフィリピン妻の住む島の田舎を、夫の弟が兄(夫)の死後に訪れて調べたら、 悪魔のような妻の実体が明らかになった。日本人夫との間の長男とはウソで、当時の比 人ボーイフレンドとの間にできた子供だった。日本人の夫がフィリピンに来ていない時 は、夫が建てた自宅で同棲していたという。女の親戚や近所では周知の事実だったとい うからあきれる。子供には日本人らしい面影もないそうだ。 伊藤さんが病気でフィリピンへ来られなくなってからは家の主人然として居座り、夫に は秘密で、下に三人も子供を作っていたというから、さらに呆れる。日本人夫だけが知 らないまま、生活保護を受けながらも送金マシンになっていたわけだ。 伊藤さんは昨年病死、その弟さんが何がしかの遺産相続金を持って島に訪れ、子供が兄 の実子ではないという事実を調べ上げて帰国された。そうしたら、まだ健在の伊藤さん 兄弟の実父が「息子があれだけ、かわいがっていたフィリピンの孫が偽者であるはずは ない。私の一億円に近い遺産の一部をこのフィリピンにいる孫にもやると、かねがね決 めていた。そうでないと、あの世で息子に合わす顔がない」と、頑固一徹に言い切った。 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、何千万円かの現金を持参して渡すという父の意向に逆ら えないでいるという。 揚げ句に弟さんが現地で提案した「DNA」検査は比人妻が最初から拒否していたとい うから、なにをかいわんや。妻はDNA検査で伊藤さんの子でないと、バレルのを恐れ たからだ。 世の中には、カネのためなら何でもするという「悪女」が必ずいる。某氏曰く「そんな にニセ・ジャピーノにやりたい金があるなら、ホンモノ・ジャピーノを支援する貧乏な NPO『SNN』に寄付してやったら」と。だが「武士は喰わねど高楊枝」というから なあ。


したたかフィリピーナ 最近、マニラ新聞の一面が四件の邦人殺人事件で埋まった日があった。いずれも裏に日 本人が介在している説があったり、悪い女がマスターマインド(首謀者)として背景に いたりするような事件ばかりだ。ある種のニッポン人がさしたる故もなく、フィリピン 人を見下して手下や手先に使うのも特徴である。 最近、日本の群馬で起きた殺人事件で、夫(55)が「捨ててやる」とつぶやいた一言 に妻(51)が激怒して「まき割り」で首に切りつけたというのがあった。フィリピー ナの妻を持つニッポン人の夫がこれに近い言動を日常茶飯事にしていることがある。辛 抱に辛抱を重ねるフィリピーナでさえ、遂にはキレて夫を襲うことになる。自分が手を 下さなくても二、三万ペソで殺しを請け負う連中もいるから恐ろしい。 こういう連中を巻き込んだ事件はフィリピンだけの特異現象ではなく、世界中どこにも 「ワル」はいるのだが、なぜか日本の新聞ではフィリピンの事件が真っ先に掲載される らしい。また、日本で事件を起こした犯罪者の逃亡先にマニラが多いかららしい。あま り表面に出ないので、陰にいるフィリピーナの姿を浮き彫りにしてみたい。 彼女らのほとんどが極貧の地方の島々やスクォッター(大都市部の不法占拠)地区で育 ち、十五歳や十六歳で子供をつくって食べられなくなったりして、マニラへ流れ着いた 女が多い。若くても遊び場所にいるフィリピーナは一人、二人の子を持つ「子連れ狼」 を考えて結婚することだ。子供を抱えた母親だから、根性はしたたかなものである。母 子が生き抜くためなら怖いものはない。比較的、人がよいニッポン人を手玉に取ること など平気だ。ただし、「エンターテイナー」「カラオケ・ガール」など水商売の女性た ちのことで、まともな家庭の子女は本当にマトモだから間違えないように願いたい。 この種の女性はお金の計算が信じられないくらいできないから、手元のカネはさっさと 使って親族や友人に「ええカッコし」をしようとする。だから現金は直ぐになくなる。 度重なるこういう言動にニッポン人の夫や相手はキレてしまい、「捨ててやる」といっ て逃げ出す。電話番号を変えて通じなくすれば、一巻の終わりとなる。フィリピーナは あきらめも早く、日比結婚の半数という信じがたい離婚率(政府統計でも三三%)とな るのだ。「旦那」の日本の住所などほとんど持っていないし、覚えてもいない。それで よく子供を作るものだと不思議だ。ところがニッポン人夫も、どこが良いのか飽きもせ ず同じ類の異性を追っかける「懲りない面々」なのだ。 相手にしてはいけないフィリピーナには共通項がある。私に言わせれば「ショートTシ ャツ」「マオン短パン」「イメルダ・シューズ」の三点セットである。本人は得々とし ているが、短いTシャツがせり上がり、短パンに締め付けられたデブ腹・尻肉が酷くは


み出し、それにマッチしない高級ブランド靴という格好である。年齢と面相・体形に似 合わない三点セットでお出ましになる。 フィリピン妻・愛人が二十∼三十代、ニッポン人夫が五十∼六十代というカップルが典 型的といえるのだが、そうしたカップルが十年も経って妻が三十五歳前後、夫が六十五 歳を超して来ると問題が発生する。夫の方の腕力・体力・経済力が衰えたり、なくなる と、力関係が逆転し、妻から追い出されかねない。まして夫が英語も比語もできなけれ ば、まともな意思疎通もできないから悲劇が生じる。

一方、妻は貧乏の中で鍛えられ

た「したたかなフィリピーナ」としての性格が表面化してくる。 こういう将来をも十分に見越して結婚し、生まれてきたジャピーノ子女の将来に責任を 持たないでいると、「フィリピン病に罹(かか)った困窮邦人」の境涯に落ち込んでし まう。 私は何となく、こういう形でフィリピン人家族から疎外され、迫害され、追い出される ニッポン人亭主が激増するのではないかと懸念している。こういう末期的な状態になる と、夫に体力・経済力があった当時はセッセと作ってくれた「アッサリ日本食」も作っ てくれなくなる。フィリピン人は本来「豚」「鶏」が好きで、脂っこい食事が「おふく ろの味」なんだからしようがない。こう書いていると、何となくわびしい思いもするが、 我が家は娘が日本食大好き人間だから、なるべく日本人と結婚してくれたらと勝手に思 っている。 フィリピーナと結婚し、離婚するかも知れないニッポン人に申し上げたい。フィリピー ナ妻は偉い。

何といっても新日系人(ジャピーノ二世)を育て続けているのは九九・

九%まで比人母なのだから。ニッポン人父で南の島に「子供を捨てた」ようなヤツは論 外でも比較に値しない。 ある日、歩行訓練で階段を下りていたら、五歳くらいの新日系二世の女の子に「オジち ゃん、ママに早くビザちょうだい。日本へ帰りたいの」と言われた。絶句してしまった

幸せに生きる このコラムを書き出したのは、2003年6月30日付「昏ルルに未だ遠し」からだ。 もう7年以上も前になるが、「残日録」という言葉は藤沢周平著『三屋清左衛門残日録』 から借用した漢古語で、「人生が暮れてしまうには未だ早い」という意味だったから、 年寄りくさい言葉だが使ってきた。そして今では結構気に入っている。ただ「人生論」 なるものは余り好きではないが、やはり老人特有の頑固さから「こだわり」がある。さ らには最近は判断のキレが悪くなったと自省することも多い。ただ、年を取れば物事を 多面的に捉まえる「複眼的な思考」も備わってくるぁら、固定的な観念に捉われない 「柔軟さ」が逆に出てくるようでもある。


貧乏だが幸せ 1330年に出家僧・吉田兼好によって書かれた随筆『徒然草』の第123段に「この 四つさえあれば幸せに生きられる」として「衣・食・住・医」をあげている。この内の 「医」が「医療」を意味する。我々外国人から見れば三食もままならない貧民がいる。 だが彼らはそんなに貧しいとこぼす訳でもない。年中が夏で衣服は要らない。コメとバ ナナで何とか飢えない。田舎の実家へ帰れば住問題も何とかなる。重病いなれば薬も買 えないから、死ぬのを待つだけ。だが自分には温かい家族があるから「幸せ」という答 えが返ってくる。暮らしを良くする夢がない訳ではない。ただ「働けど働けど猶わが暮 らし楽にならざりけり」(啄木)と「カラ財布」を眺めて思い暮らす。 カトリック教の教えで「死にたい」と思わせないのがフィリピン人だ。ある香港の民間 調査機関によれば「私は幸せ」という人が一番多いのは「出稼ぎ大国・フィリピン」。 一番少ないのは「経済大国・日本」だと発表していた、兼好法師は「衣食住と医療」が 確保されれば、それはもう貧乏ではないという。色々な欲望をいかに捨て去るで幸せは 生まれるかもしれない。

「終の棲家」はフィリピン これは2005年12月19日の残日録(98)のタイトルだが、スペースも4割方広 がっていた。私が満80歳になる直前で、「脳腫瘍」開頭手術を機に全ての公私に渡る 職を辞して、お墓も建て「終の棲家」はフィリピンだと正式に決めた覚悟の程を、自ら の戒めとして記録したものだった。昔から愛読した『徒然草』第58段に「大事を成し 遂げるには住む家の環境を整えるべし」とある。篤い信仰心があればどんなに喧しい街 はなかでも仏道の修行が出来るというが、それはウソだ。夫婦喧嘩の止まない人は、そ ういう騒がしい環境に住んでいる。静かな環境と家庭があればこそ、大きな仕事も出来 るものだといわれる。こういう点でも私は何とか落ち着いた環境に住んでいるから、老 害ではた迷惑にならないよう、老兵は静かに立ち去るべきだろうかと考えるこの頃だ。

ある困窮日本人 今日は日本へ出張して8日間に12都市を回り、毎日が宿代わりの強行日程で帰ったば かりだ。だがこれも貧乏性がなせる業だろうし、一つの運命だろう。この旅行の途中、 ある特別養護老人ホームを訪れていたのだが、そこの相談事項だった。働いている新日 系人母子のところへ、行方不明だった日本人父が60歳を過ぎて仕事がなく「食えなく なったから」と、転がり込んで来た。施設も母も困り果てたが、子供は父と会えたと大 喜びで、「パパ、パパ」と離れない。この父親は若い頃の放蕩三昧で身体を壊して動け ない。そして妻の前では泣くらしい。だがパロパロ浮気男に棄てられた苦い経験を持つ 母は、もう二度と騙されないと追い出しにかかるらしいが、子供のパパであるしと、施


設の経営者にしばらく置いて欲しいと泣き込んでいる。フィリピーナはどうもホンネが 優しいのか、逃げた夫に恨めしい感覚を残しながらも「しようがないか、これも運命」 と嘆きながら「パパ・オカ、お願いします」と言われる。 論語にもある。「この世には人力で防げない運命がある」「運命のうち何割かは理に合 わないことが起こる」というものだ。結局、この理不尽で手前勝手な日本人困窮老人の 手助けをして特養老人ホームに父親の同居をお願いする羽目になった。正直なところ今、 日本で日本国籍の子供と一緒に働く母親も、子を棄てて逃げた父親も、理屈を言えば 「ドッチもドッチ」。双方に問題がある。だが「子供には罪はない」。それが持って生 まれた運命なのだと割り切るほかない。「理に合わない不幸はいくらでもある」。ヘリ コプターが落ちてきて死んでしまった姉弟の母がいた。彼らの日本人父は10年前にガ ンで亡くなっていた。だから突如として天涯孤独になったが、母の親戚に助けられて生 き延びている。父方は「何も関係ないから知らない」の一言で一銭の支援もないし、認 知もできない。人の運命はイロイロだが、淋しい話だ。

しなやかに・したたかに 年を取ったせいか、年の節目には「論語(孔子)」「老・荘子」などの「漢文」を読む ことが増えている。戦後、学校教育から「修身」と「漢文」という科目が廃止された影 響の大きさを今にしえ痛感する・「修身」は「道徳」となっていくらかが復活してはい る。だが「漢文」は江戸時代300年の間に育まれた「儒教」の影響が残って「ことわ ざ」などを通じて今でも人口に膾炙(かいしゃ)しているのに、殆どが忘れられてしま った。特に「老子」は僅か7千字余、81の短い章句からなっており、誰が書いたのか も分からない書籍だ。今から二千数百年前の中国で、100年ほどの間に思想を同じく する仲間の手が加わって出来たものだと言われながら、今につながっている。今の中国 共産党政権の強権的手法から76%の日本人が「中国嫌い」になっているが、だからと いって二千数百年の大昔から今も脈々と受け継がれる「孔子・孟子」や「老子・荘子」 の教義は、今でも十分に通用する「人間学」そのものだ。特に中国人政治家や、大躍進 して鼻息の荒い中国人経済人諸公にこそ熟読玩味して欲しい。

「しなやか」に生きる 「上善如水」(第8章)ー(上善は水の如し)という言葉は、水は万物に恩恵を与えな がら相手に逆らわず、人の嫌がる低いところへと流れてうく。水の第1は「柔軟性」で ある。丸い器では、円く、四角い器では相手に逆らわず四角形になる。今のように変化 の激しい時代には特に必要な資質だ。組織でも「柔構造」でないと生き残れない。第2 は「謙虚さ」である。水はあえて人の嫌がる低いところへ身を置こうとする謙虚さを持 っている。謙虚の反対が「傲慢さ」である。40歳頃までは自他共に認められる「遣り


手」だった人が、多くは挫折して大成しないのは「傲慢になり謙虚さを失う」からだ。 傲慢さは必ず周囲の反発を買い、結果的には足を引っ張られる。

怒らず、争わず 「不浄の徳」(第68章)ー(武ならず、怒らず、争わず、下《シタ》となる)。国と 国との関係も、人と人の関係も「あえて自分から事を構えない」ということだ。中国の 昔「明」の屈指の名君として有名な「太宗」(李世民)は、常に「不浄の徳」を心がけ、 軍事的行動は好まずあえて事を構えなかった。後漢の光武帝も「雄才大略」というスケ ールの大きい皇帝だったが、大規模な軍事行動が多すぎて国家財政が破綻し武徳を汚し た。今の共産中国も似たような道を歩いているように思えてならない。アメリカもベト ナムに続いて「イラク」「アフガン」と要らぬ喧嘩や手出しが過ぎたようだ。更に、有 能なスタッフを育てるには「怒らず」「争わず」「下手にでる」と心得る。

したたかに生きる知恵 1. 「怨みに報いるに徳を以ってす」(第63章)。これは「蒋介石」(中国国民 党・総統)が終戦に際し旧日本兵すべてを故国へ送還するときに発した有名な言 葉だが、実は「老子」の言葉だ。今の生き難い社会の現実を前にして「したたか に生き抜いてゆく」には何が必要か?沢山の○言がこの第63章にはある。 2. 「難きはその易きに図り、大事はその細に為す」(いかなる困難も容易なことか ら生じ、いかなる大事も些細なことから始まる) 3. 「軽諾は必ず信、寡なし」(安請け合いした結果約束を間違えることになり、信 頼を失ってしまう) 4. 「易きこと多ければ、必ず難きこと多し」(小さな仕事でも手抜きをするな。一 歩一歩慎重に進めるのが大きな仕事を成功させるコツ)。「老子」には特に現代 のビジネスマンが学ぶべき格言が非常に多い。

理想のトップとは 「老子」は理想のトップを1部下からその存在すら意識されない2部下から敬愛される 3部下から恐れられる4部下からバカにされるーという四つに分けている。最高のレベ ルとは「太上、下知之有」(最高レベルは下《シタ》これあるを知る)だという。普段 はその存在を意識することがない。普段はその存在を意識することがない。日露戦争に 勝った陸軍の「大山厳」最高司令官、海軍の「東郷平八郎」○合艦隊司令長官がそうだ った。戦いの作戦・実戦は有能で若く必死の「秋山好古」陸軍騎兵隊長、「秋山真之」 海軍参謀長の兄弟に、奇しくも一任して、百戦一勝の機会を生かした。勝因を今風に分 析すれば「若手の登用」である。トップがどんなに有能でも独りで何でもできるわけが ない。人物・識見ともに優れた若い人材を登用して要所に配し、信頼して仕事を任せな


がら育てる必要がある。次に要の部分はしっかりと握っていることだ。会社組織なら、 人事権と財政事情は十分に把握することだ。そして「そんなもの知らんよ」という顔を している方が良い。こういう条件が満たされて「下これあるを知る」レベルに近づける (参照・守屋洋著「老子の人間学」)

「終の栖」はフィリピン あと一年ちょっとで八十歳になる。そしてフィリピンで人生の最期を迎えようと、一茶 の「これがまあ

終の栖

雪五尺」とばかりにいささか侘(わび)しい思いをしながら、

自前の家とm日本式の御影石の墓も建ててしまった。母が生きた九十三歳までは大丈夫 だろうと考えていたが、今年の大病(脳腫瘍)を考えると、明日は分からない。逆に、 ひょっとすると百歳を超すかも知れないとも思う。ただ「死ぬ日までは体を丈夫に保た せたい」と気をつけなければ。アルツハイマー病とか認知証でボケるのだけはゴメンこ うむりたい。 私は今も自立心、自分のことは自分でする」という強固な目的意識を持っているつもり だ。経営する小さな「家具と雑貨の専門商社」と会長を務める「セブ日本人会」と、 「マニラ新聞セブ支局」には、毎日のように現役で出社しているし、パソコンでの新聞 コラム原稿打ちも全部自分でこなす。これは手先と頭の運動でボケ防止にもなる。 よく「退職者が住むには、セブは最高ですよ。寒さはないし、日本へ四時間と近い、片 言の英語でも何とか通じるし、つき十万あれば、メイドを雇って優雅に暮らせる」と言 っている。また、「へたに仕事はしない方が間違いないですよ。損する人が多いから」 とも話し、重ねて、「メイドを使って、無精で何もしないと命を縮めますよ」と言うよ うにしている。 それにしても「自立心」のない家庭的無能力者のお年寄り男性が余りにも多いのは驚か される。死ぬ日までは自分に甘くせずに、結構厳しい生活にも身を置いて、思考と運動 機能を細々とでも保ち続けることが「老人の仕事」だろうと心得る。近頃は私は「静か な環境の住まい」を完全なものにしたいと考えている。十年近く前、約二百坪の敷地に 百坪の大きすぎて風の良く入る家を建てたが、庭の一部を「竜安寺石庭」風に作り直し、 庭木の手入れもしている。 兼好法師の「徒然草」にいう「洗練された貧乏」へのあこがれが私にある。早く言えば 「昭和初期のレトロ暮らし」だ。最近、日本では映画「ALWAYS三丁目の夕日」が 大ヒットしているそうだ。若者にも世代を越えて感動を呼んでいるという。団塊の世代 以上にはノスタルジイにあふれ、若者にはほのぼのとした新鮮さが評価されているよう だ。


映画の宣伝文に「よみがえる昭和三十三年、元気だった日本」とある。私の「昭和レト ロ」はさらに一昔前の支那事変が起きた昭和十二年より前の時代だ。 まだ明治・大正の匂いと面影が社会に色濃く残っていた。田舎へ行けば、筒袖の着物を 着た小学生もたくさんいた。私は父が建てた木造二階建てで瓦屋根の町家に住んでいた。 窓に「連子(れんじ)格子」がはまっていた。夏には唐紙や障子を外して簾(すだれ) 障子に入れ替えて暑さをしのいだ。縁側には蚊取り線香の煙が絶えなかった。居間には 「奮励努力」の書額が掛かる。何となく「居心地が良い」想いが今でも懐かしく残って いる。 水道はなくて各戸に「井戸」があった。小学生の私は風呂場へ水を汲み上げる手押しポ ンプの当番を毎日させられた。嫌な思いはせず、体を動かすのが楽しかった。今、思い 出して「洗練された貧乏暮らし」といえるレベルだったろうか。また、世間に気忙しい 空気などなかった。 今もフィリピンの田舎社会には、こういう古き良き昭和と似た空気が色濃く残っている。 イロイロの田舎から来た私の妻は、明治生まれの私の母とよく似た素直で純朴な性格を 持っている。 戦後になってテレビで見たアメリカ人の生活は、別世界のようで夢にも見なかったもの だった。フィリピンでは今もアメリカ人の生活を夢見て、欧米諸国への移住を希望する 者が三十三%に達するという。それでいて、香港の世論調査では、フィリピン人はアジ ア諸国中{愛国心の強さ」ではトップクラスで、日本人は最低クラスに位置しているら しい。何かと格好をつけたがる比人と、戦後、自虐的になった日本人の姿が垣間見える。 良いか悪いかは別として「かなわぬ夢は見ない」方が幸せだ。「徒然草」の五十八段に 「大事を成し遂げるには、まず家の環境を整えることから始めるべし。静かな環境なく しては仏道の修行などできはしない。篤い信仰心があればどんな場所でも修行できると いうのはウソだ。」とある。 夫婦げんかが絶えないような人は「静かな住まいの環境」にいないから、仕事に専心で きず、仕事もうまくゆかない。今のフィリピン人の多くは「大きな夢だけ」を見ており、 そして「夢実現への段取り」を示せない大統領や政治家が多い。「フィリピンの将来に ついては、否定的な見方しかできない」のが偽らざる私の気持ちだ。先日、ロータリー クラブで講演して、率直に、そう話したらシーンと静まり返ってしまった。ネガティブ な事は言わず、ほどよく持ち上げるのがこの国の紳士の常識らしい。だが、帰り道で、 若いフィリピン人実業家が「あなたの話は本当だ。だから多くのフィリピン人がこの国 を見捨て、外国へ移住しようと懸命なのだ」と言った。 そういう国を「終の栖(すみか)」とした私は一体何なんだろう?


第 5 章 フィリピンに棲む「ひと曼荼羅」

ああモンテンルパの夜は更けて(1) 「モンテンルパの夜は更けてつのる重いにやるせない

遠い故郷しのびつつ

涙に曇る

月影に優しい母の夢を見る」ーこの歌が大ヒットしたのは戦後の昭和二十七年から三十 年代にかけてのころだったろうか。当時有名な「渡辺はま子」と「宇都美清」の共唱。 日本は太平洋戦争に敗れて、米軍が開設したマニラの「軍事裁判」が米軍単独で行われ、 敗戦時の第十四方面軍司令官「山下奉文」大将(絞首刑)、同初代司令官「本間雅晴」 中将

(銃殺刑)マキリン山麓の谷間で極秘裏に処刑された。別に十七人が捕虜虐待の

罪で死刑判決を受けて、マニラ郊外「ニュービリピット刑務所」(通称・モンテンルン パ重犯罪刑務所)内で絞首刑となった。 ところが、敗戦の日本軍兵士たちはレイテ島「パロ」はじめ比全土から、マニラ郊外ラ グナ州マキリン山麓にある「カンルーバン捕虜収容所」に集められ、一時は十万人から 十二万人に達して、次々と日本へ送還されて行った。 別途、多くのB,C級戦犯はパロ収容所やカンルーバン収容所から集められ、「米国・ 軍事裁判」を受け、 モンテンルパ刑務所には「死刑囚」だけで。一時は七十数人に達し、 「処刑」を待っていた。 彼ら戦時招集された兵隊たちの中にはただ命令に従い、不運にも「捕虜虐待の罪」に問 われた者も少なくなかった。その淋しくも悲しい心境を、切々と歌ったのが「ああモン テンルパの夜は更けて」という、再び帰ることのない「故郷の家族を恋いしのぶ旋律」 だった。 この「渡辺はま子」の歌は津々浦々に広がり、 モンテンルパでまだ拘束中の死刑囚で、 処刑の順番を待つ彼らの心を打ち、さらには、日本軍に家族を殺されたキリノ大統領 (当時)の心も動かし、処刑は十七人のみで打ち切られた。残りの死刑囚五十数人は恩 赦で釈放され、日本へ帰ることができた。 それから六十年経ったころ、 モンテンルパで絞首刑として処断された戦犯十七人の「墓 守」をする一人の日本人「矢崎」(仮名)がいた。彼は戦後にフィリピンへ渡った新移 民の一人。「日本人同士の不動産詐欺という民事事件」で、この重罪犯収容所に収監さ れていた。以下は彼からの「聞き書き」である。 フィリピンにおける刑務所暮らしが、いかに過酷で理不尽なものであるかを知ってほし い。この刑務所は1、重罪犯収容所=マキシマム、二〇年以上の禁固、終身刑、死刑囚


(当時)2、中級犯収容所=ミディアム十九年以下、三年以上の禁固刑3、軽罪犯収容 所=ミニマム、禁固刑二年以上=に区分され、私は時期を分けて2と3に収容されてい た。 2では三十平方メートルの「牢屋」に、九十人近くが三段か四段ベッドで収容されるか ら、蒸し暑く息苦しく寝られない。窓際の隙間に鼻を近づけ、真っ裸になる。熱帯地方 の「牢屋」で、真夏になればパンツを脱ぐと、いくらかでも涼しいのだ。 また、片隅の「便所は上席」大なり小なり換気窓があるからで、夜はこの便所に三、四 人が入って寝る。だがこの便所で寝る権利は、金のある者だけが「牢名主」に金を払っ て、買うのだ。臭いは間もなく気にならなくなるから、不思議。 そしてまた、フィリピンの刑務所では食費はその都度、自分で支払うシステムで、「タ ダで食わせてはくれない」。だから、何としても金を稼がないと、ここでは生きていけ ない。私は「鶏卵や野菜」を売ったりもした。 だが何よりも「定職」となって助かったのは、同じ敷地内にある「平和観音」(日本人 戦没者慰霊碑)を訪れる日本人から頂く「お礼」だった。戦後六十年以上も経つ一昨年 でも、毎月二、三組が慰霊碑を訪れた。だから毎日、この慰霊碑の清掃は欠かさなかっ た。 さらに私は、それなりに戦犯刑死者十七人の名前や裁判記録を教戒師を通じて入手し、 慰霊碑訪問者の質問に答えられるよう勉強と準備をしていた。この努力のかいもあり、 日本から訪問者があれば、必ず私が呼び出されるようになった。 ただし、ここがフィリピン流っで「袖(そで)の下」汚職は必ずついて回り、頂いた 「香典(チップ?)の半分は必ず上納されてしまった。「爪に比を灯す」ような困窮受 刑者から、当たり前のように半分を召し上げる比役人の感覚は、何とも理解できず、と いってこれを表沙汰にすれば「慰霊碑墓守職」を召し上げられるから、泣く泣く上納す れば、当たり前のように現金を机の引き出しに入れる。その厚顔無恥さが恐い。

ああモンテンルパの夜は更けて(2) 私(矢崎・仮名)も刑務所に拘束中の身であっただけに、戦争に敗れたとはいえ、戦犯 の身であっただけに、戦争に敗れたとはいえ、戦犯の汚名を着せられたまま死刑が執行 されるとおびえる彼らに比較すれば、私の苦しみなど何ほどのものかと考えると、どん なに苦しい暮らしにも耐えられた。


その苦しい最中「ああモンテンルパの夜は更けて」という歌と映画の企画書、キリノ比 大統領への嘆願書写しが、「加賀尾秀忍」(真言宗宝蔵員住職)教戒師のご尽力とご苦 労をしのべる文章が、加賀尾師のご遺族から私が頂いた資料で知ることができた。 極東国際軍事裁判が昭和二十三年十二月二十三日に東条英機被告ら七名の死刑執行で終 わりを告げたかのような空気になったころ、フィリピンではまだ百五十人ほどの旧日本 軍人たちがモンテンルパ(刑務所)に残されていた。そして彼らのほとんどが冤罪(え んざい)だった。 「上官の命令は天皇の命令」と教えられてきた下士官たちは、部下の兵隊にはもちろん、 米比軍捕虜に対しても有無も言わせずビンタを食らわせた。だが、立場変わって敗戦後 の日本軍捕虜は、一列に並らばされて首実検が行われ、「こいつだ」

「この男だ」と

ピックアップされ「戦争犯罪者」に仕立て上げれていったのだ。 こうして残された戦犯家族は日本でも言葉に尽くせぬ苦労をした。戦犯の運命を左右す るフィリピン「キリノ大統領」も「妻と娘」を日本軍に殺されていたというから、「赦 (ゆる)せ」というキリストの教えを信じながらも、容易には戦犯釈放には進まない。 だから「加賀尾教戒師」は、戦犯者と寝食を共にしながら、ローマ法王やマッカサー将 軍に嘆願書を送り続けた。 そうした中、突如、昭和二十六年一月十九日夜、中村秀一陸軍大尉(山口県出身、五十 一歳)、三原菊市陸軍曹長(香川県出身、四十六歳)ら十四人が、十三階段を昇り絞首 刑で処刑された。見送ったのは「加賀尾教戒師」ただ一人だけだった。(この処刑の前 には三人が処刑されていたが、加賀尾教戒師が着任前で、詳しい記録がない)。 このころ、加賀尾師から依頼され、素人ながら作詞「代田銀太郎」、作曲「伊藤正康」 が作ったのが「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。 二人とも処刑を待つ戦犯だったから、彼らの悲しい運命を切々と訴える旋律が、 モンテ ンルパから日本へと広がった。この陰には親日家の「ヂュラン」元駐日比大使の力添え もあった。 同二十八年五月十六日、加賀尾教戒師は在比日本人大使館の金山参事官と共にキリノ大 統領に面会、黙って「ああモンテンルパの夜は更けて」の旋律が入ったオルゴール付き のアルバムを手渡し、涙も見せずに「戦犯も、日本には家族が待っています」と言い残 し、朝食会の席辞した。 そして、このオルゴールから聞こえた旋律がキリノ大統領の心を溶かし、間もなく「死 刑囚は無期に減刑して『巣鴨プリズン』へ移送」、「無期刑者は全員釈放」となって、 モンテンルパの夜は幕を閉じた。こういう日比両国間の忘れらようとする歴史を記録に 留めるのが、戦中派老人の義務であると私は触れた。矢崎の話に戻る。


在比日本大使館からの依頼により、二〇〇六年末に近いある日、SNNの「岡」

「川

平」両氏が初めて モンテンルパ刑務所を訪問された。 私は長い拘置生活で誰をも信用することができなくなっており、涙も枯れたのかあるい は照れたのか、口を突いて出る言葉も少なかった。 十二年ぶりに会った長男はもう大人になっており、彼は涙、涙で言葉も出ない様子だっ た。私の思い出にある長男は、今では十七歳になった一番下の娘が生まれた夜、長男は 未だ小学校に入る前だったが、ビサヤ語のできない私を心配して田舎の山道を案内し、 一緒に山を越えて産婆(ヒロット)を迎えに行った。幼少期からシッカリとした子供と いう記録があった。 私はこういう寝苦しい刑務所の中で、六十歳代から正味十二年間も暮らして、刑期を満 了し出所したのは○七年六月で七十九歳だった。普通ならそのまま日本へ「強制送還」 される。この手続きを入国管理局でするために、マニラ郊外タギッグ市の入管局拘置所 に一時収容された。 そして、手続き中「二十年前の別件訴訟が放置されている」ことが分かり、直ぐには 「強制送還」はできないと、そのまま入管で拘置が継続されることになってしまった。 そうなると弁護士もいるし、その費用もかかるから全く動きが取れない。

ああモンテンルパの夜は更けて(3) ここから筆者(岡)の話になる。矢崎夫婦と子ども四人を、何とかして日本へ帰してあ げたいと決断したのは、矢崎がまだ モンテンルパに収監されていたころだった。矢崎は 「不動産詐欺事件」がこじれにこじれた上、支援する弁護士も、裁判費用もなく十二∼ 二十年の不定期刑で モンテンルパに収監されていたが、所内では模範囚だった。 モンテンルパを満期で出所した後に見つかった「二十年前に忘れられた裁判」というの が、ひどい話だ。原告は日本人の内妻だった比人「X」だったが、本人も、告訴を担当 した検事も、原告の弁護士も、さらには裁判所でさえも、この告訴事件を忘れてしまっ た。 だが、だれも彼に一言の謝罪をする者もいない。そして見つかった以上は、この裁判が 「取下げられる」か「裁判を再開して被告が勝訴する」かしないと、無期限に今のイミ グレ収監が継続される、というのだ。 われわれは理屈抜きで「原告を探し出して、示談で取下げを頼もう」となった。原告 「X」はアメリカへ渡ったがうまく行かず、セブの田舎に帰っているのをようやく捜し


出した。だが、「X」はシタタカだった。二十年間も忘れていた告訴事件がまた「金に なる」と思ったのか、強気で示談(告訴取り下げ)に応じようとしない。 これからの駆け引きと話し合いは思い出すのも不愉快を極めたが、一年がかりの根気比 べをして「告訴取下げ」の示談を成立させた。その結果「支談金二万ペソは即金払い。 事件の債務十五万ペソは、矢崎の子どもたちが日本で働いて一年で分割返済する」こと になった。 フィリピーナも金のこととなれば、こうも情け容赦もなくなるのだ。十二年の刑期を満 了して罪を償ったのだから、釈放されてすぐにも日本へ帰国させても良さそうだが、意 地でもそうはさせない。この二十年前の忘れられた裁判に決着を付けるため、矢崎はセ ブの移民局拘置所に移送されてきた。ここに瀟洒(しょうしゃ)な新しいビルの移民局 三階にあるが、その拘置所は、事務室の隣にある物置兼用の一室で、小さな窓があるだ け。 そして事務室のエヤコンの排気口から、汚れた空気が吹き込む構造なのだからたまらな い。熱帯フィリピンで石油ストーブをたく蒸し風呂のようなものだ。それでも矢崎は 「マニラよマシですから」と気にしない。 しかし、私の懸念が当たって、間もなくエヤコンの汚れた排気のせいで気管支炎から肺 炎になり、ラプラプ市民病院から、少しはマシな州立ビセンテソト記念病院へと転院さ せた。 だが矢崎はさらに椎間板ヘルニアも併発して、寝たままで身動きもできないところまで、 落ち込んでしまった。モンテンルパ暮らし十二年の猛者も、さすがに苦しそうだった。 SNNも弁護士・裁判費用、暮らしの支援、病院の入院費用の負担などが、苦しい財政 を圧迫していた。日本で、この一家を引き受けていただける支援企業では、三年近くも 辛抱強くお持ち願っている。そして今年、矢崎は八十歳になった。その旺盛な生命力で 病気を克服し、元気を回復してきた。悪名高いいミグレーションにも血の通った人間も いた。退院後の矢崎は、病院から移民局拘置室には戻されず、息子の家に名目だけ「仮 留置」された。 そして、二十年前に忘れられた裁判も「告訴取り下げ」となり、今や晴れて自由の身と なった。矢崎にはその人柄が幸いして、幼い子ども四人を必死で育て、夫からも逃げは せず、夫を信じて待ち続けてくれた比人妻がいた。矢崎には幸せが待っていた。矢崎一 家は今、帰国の手続き中だ。桜が咲き春らんまんのころ、矢崎は再び日本の土を踏むこ とができそうだ。 われわれ日本人なら誰でも支援するという訳ではなく、運営資金上の制約から「新日系 人」(ジャピーノ二世)母子だけに絞らさざるを得ない。フィリピンでの警察留置所・


イミグレ拘置所・各地刑務所の暮らしは、どこも大同小異の厳しさだ。フィリピンで警 察ざたになるような犯罪に巻き込まれたら、一生の終わりになる。

フィリピンに沈んだ男たち(1) 彼らの人生を振り返ってみると、例外なく「酒か女にハマッた」一時期がみられる。だ が誰しも、彼女との新しい幸せな新生活を築き、フィリピンでの成功を夢見て渡航され たはずだ。どこで歯車が狂ったものかと考えてみたい。 ある親しいフィリピン人が言うには「在比日本人には二種類の人間がいる」。かたや 「大手企業社員」、かたや「一匹おおかみ企業人」であり、前者の奥方はほとんど「日 本人」だし、後者の奥方はほとんど「フィリピーナ」だという。 彼がみる日本人は「ホワイトカラー・インテリジェント」と「ブルーカラー・レイバラ ー」という区分だ。そしてフィリピーナと結婚する日本人はほとんどが後者だという。 もちろんこういう単純な区分には例外が多いことも常識であり、こういう見方があると いう話だ。 トラブルを起こした相手への恨みや憎しみの感情を「自分で毒を飲んで、相手が傷つく のを期待するようなものだ」と例えた学者がいたが、素晴らしい人間関係を保つための 最大の武器は「ありがとう」という一言であり「困難は自分に必要だから怒ったのであ り、最終的には自分のためになる」と考えればいいともいう。 だが人間だから、けんかをすれば気持ちが落ち込むときもある。最近、社内で「けんか 口論・暴力さたを起こした女性社員を解雇する」という不愉快な事件があったが、そう いう時には「三日続けて午後十時には眠る」という戦中派老人の経験と知恵でしのいだ。 苦労の続く人生を生き抜くにはこういうチョッとした「息抜きと休む知恵」が長生きに は必要だ。年末も押し詰まった日曜日の早朝七時に、携帯のベルがけたたましく鳴った。 ある老日本人はメンメンと訴える話は、腎臓が悪くて「人工透析」のほかに生きる道は ないというもの。週二回の人工透析をすると、毎月三万二千ペソもかかるが金はない。 だから「死ぬほかない」という話だった。 妻の運転で彼の自宅へ初めて駆けつけたが四畳半で布団に寝たきりだった。若いころか らの「不摂生」「暴飲」で腎臓・肝臓・膵臓などの「多臓器不全」で、余命いくばくも ないと覚悟しているという。 比人妻は何年も前に『お店』を売り払って行方不明だ。メードが何とか身の回りと食事 の面倒をみてくれているが、給料はもう払えない。「口だけ?は達者」。だから「い


つ・どこで・なぜ?こういう全く動きのとれない『どん底に沈んだのか』」と聞いた。 「お恥ずかしながら」と苦い過去を話してくれた。 「昔、日本でカラオケのはしりのころ、音楽機器のレンタルで三億円近いおおもうけを し世間を甘く見るようになった。その金もうけの知恵。経験と資金を持ってフィリピン へ来たのだから、食堂経営など簡単・カンタンと、遊び半分に乗り出した。仕事は比人 妻に任せて、味だけをうるさく口に出しながら、酒におぼれ、遊びに遊んで身体をガタ ガタにした。『日本人会なんてサラリーマンと貧乏人の集まり』で、何の役に立たない と入会もせず、金目当てにチヤホヤしておだてる仲間とだけ付き合っていたが、こうな ると誰も寄り付きません。本当にお恥ずかしいかぎりです。何とか助けて日本へ帰れる ようにお願いします」 「困窮邦人」になった場合、外国に住んでいると大使館で出来る援助は極めて限られる が、日本へ帰り着けば「生活保護法」など手厚い援護の手が市役所などから差し伸べら れるから、日本政府も良くやっている。だが、運悪く外国に住んでいる場合には、生活 保護法の支援は期待できない。 こういう「困窮邦人救済問題」が顕在化してきつつあるが、この場合、片道航空券代数 万円などをうんぬんせず「国援法で、航空券を買い日本へ送り返してほしい。だが二度 と旅券は発行しない」とする。 彼らとて日本で精勤を支払っていた時期もあったのだから。「勝手に選んだ自分の道な のだから、勝手に自分で一人死ね」と言い切れるものだろうか?「海外野垂れ死・困窮 邦人」の最後をみとってくれるのは、ほぼ例外なく「隣近所の貧しいフィリピン人」の 善意あふれる個人支援であり、われわれ世界第二位の経済力を誇るという日本人として 恥ずかしい限りなのだから。

フィリピンに沈んだ男たち(2) 彼らがなぜフィリピンで新しい人生を築き上げることに失敗し、沈んであいまったのか、 と考えることは自分がそうならないための参考にもなろうかと、ご紹介することにした。 コラムで書いた方々はいずれも「仮名」か「不詳」にしたし、正しい「地名」もあえて 書かなかった。しかし、話の内容にウソはない。 今回の伊藤(仮名)君は、ミンダナオ島で今年の初め、元メード?の自宅で亡くなられ た。享年七十四歳という。昔、近隣に住んでいた日本人の知人が電話で知らせてくれた。 伊藤君とは二十年近い友人だったが、なぜか商売上の関係は一度もなかった。彼は私を 他人に紹介するとき「兄貴のように信頼しています」と言ってくれていたが。なぜか私 は「一歩下がって、冷たく見ていた」しかし、さまざな社会経験をしてきた彼の世間話


は、面白く楽しい時間を持てたから、ミンダナオへ行けば必ず会って食事を共にしてい た。だが、食後のカラオケ・ナイトクラブへご一緒した記憶がない。 どうも無意識に一歩下がって深い交友関係は避けたようだ。それでも初めのころは「も うけ話」も持ちかけられたが、全く乗ってこない私に、仕事の話はしなくなっていった。 親しい彼のもうけ話は、いつも「初年度から大きくもうかる話ばかりだった」から、私 は信用しなかったのだ。 どういう事業でも「初めの一年は、創業経費の過大から、損して大赤字」「二年目はや っと収支トントン」「三年目はやっと少し黒字を計上」「四年目でようやく過去の赤字 が消える」「五年目から本当のもうけになる」というのが、一般的な事業経営の常識的 構図なのだ。 だから「初めめからもうかる話」というのは「うそっ八」という知恵がない人は、必ず だまされる。伊藤君の調子のよい話に乗せられて、結果的に私の代わりに、三つの事業 で一億円以上の損をした日本人がいたようだ。 加えて彼には「悪いオンナ癖」があって、温かい家庭が作れず「日本人の初めての妻」 とは、マニラにいた時のフィリピーナが原因で離婚、続いてフィリピーナ秘書と再婚し た。しかし、この二番目の女性は、間もなく言葉もなくミンダナオからマニラへ逃げ戻 りそのまま行方不明。以来相手が行方不明のまま。離婚もできないでいた。 三番目とは本格的な結婚生活を営み、三人の子供が生まれたが「正式な内妻?」だった。 正式な結婚手続きをする努力もせず、仕事も失敗続きで金もなくなり、内妻も逃げ出し、 次々とオンナを連れ込む父を見限った三人の子どもたちも、成人になると相次いで逃げ 出してしまった。木材の仕事がなくなりミンダナオ出張の機会がなくなった私は、音信 もないまま、詳しい事情は知らなくなっていた。 だから、五番目から六番目の内妻が彼の死をみとったらしい。そして二人の幼子がいる というから救われない。手っ取り早く言えば「はちゃめちゃ」な家庭だったらしい。そ れでも自信過剰の彼は七十歳を過ぎてからも「もうけ話の夢」を追いかけていたようだ。 もう人生の失敗をあきらめ「年金生活」に入る覚悟を決めるべきなのだった。 ところが不可解、なぜか「年金受給の申請」を死ぬ直前の昨年まで、何もしていなかっ た。昨年申請したときは「社会保険庁」の五千万件の不明事件で、てんやわんやの大騒 ぎ。首を長くして待ちくたびれたまま、あの世へ旅立ったというから、寂しい限りだ。 留守宅には数百円の現金と内妻と幼子だけで、日本人会メンバーが寄付金を募り、限ら れた親族のわずかな送金だけでなんとか葬式が営まれたらしい。 日本で一流の外国語大学を卒業し、有名映画会社でハンサムなニューフェース俳優とな り、一部上場企業の社長令嬢と結婚したという、人もうらやむ人生が前半だった。これ


に反して、高級ビレッジに家を購入しながら数年で手放さざるをえず、田舎の元メード 宅の一室で電話もないままニッパヤシの小屋に住んだまま。「フィリピンに沈んだ男」 の感懐はいかばかりだっただろう。つらいが、第三者の冷たい目で冷静に考えてみる。 •

自分には事業家としての才能がないと遅くても五十歳代には気付くべき。

オンナはあきらめ、子供の養育に力を注ぐ。

七十歳過ぎて赤ん坊をつくらない。育てる責任は持てないのだから。

六十五歳になったら老齢年金受給資格を調べ、年金額を調査確定して老齢年金受給手 続きをする

円満な家庭を持たないと老後はダメになる。

日本の家族・親族とは円満な関係を維持する。

銀行預金を比人妻とのジョイント名義《夫か、妻いずれかの単独サインで可》にして おく。さもないと葬式代の引き出しや死後の生計費引き出しで難儀する。

この仕事はダメだと思ったら「やめる」という判断を早くすることだ。自己過信が全 ての過ちの根源だと承知すべき。

伊藤君は「大もうけ」を追いかけて、自滅したというほかなさそうだ。

破れ鍋に綴じ蓋 昔のカルタに「破れ鍋(ワレナベ)に綴じ蓋(トジブタ)」という一枚があった。国語 辞典によると、「どのような人にも、それにふさわしい連れ合いがいつものだ」という 意味。 戦前、昭和十二年「支那事変(日中戦争)」が始まったころまでは、まだまだ明治・大 正時代の建築、文化慣習や雰囲気が、社会のアチコチにたくさん残っていた。破れた鍋 や、もう使えないはずの器物をハンダやイカケで手直しする「鋳掛け屋」という商売が あった。 私の郷里・伊勢の桑名では毎日、夜明けとともに振り売りのオッチャンや子供が「しじ み売り」をして「しじみや、しじみ、しじみいらんかね」と声を張り上げていたものだ。 小遣いが足りなくなると小学生の私も剣道の朝稽古をサボって、長良川岸の市場で水揚 げされたばかりのしじみを仕入れて自転車で売り歩き、母からミットモナイと怒られた ものだった。 小遣いは親に貰うものではなく、当然自分で稼ぐものだと思っていたから、稼いだ小銭 はすぐに道端の軒先店頭で、ホヤホヤの「はまぐりフライ」「ソース焼きそば」「たい 焼き」に姿を変えた。


母は「子供が腹を空かせている」とか「街頭の不衛生な食べ物に走る」とかいうのが耐 えられなかったのか、珍しく小言を言われた。当時、伊勢の田舎町にはクルマで送り迎 えされる子供など一人もいなかったし、まだまだ「暮らしの貧しい日本」だったとしか 思い出せない。 ところが、今や私が育った昔の日本と同じか、より以上に貧しいフィリピーナたちが日 本でエンターテイナーとして働く時代がやってきた。その結果として生まれた子供たち (ジャピーノ)が、どういう環境で育ち苦しんでいるのかを日本人同胞としては知らぬ 顔はできない。そこで私は「こういう男はフィリピーナと結婚してはいけない」という 例を挙げて話を続けたい。

第一例「ケチな男」 フィリピーナたちは「日本人は皆が金持ち」と誤解している。フィリピンパブやカラオ ケで金払いのよい日本人を見て結婚したのだが、いざ結婚したらグチグチと細かいこと ばかり言う「ケチさ加減」に愛想を尽かして逃げ出した比人妻が多い。 ケチな人をフィリピノ語で「クリポット」と言うが、この言葉を面と向かって投げつけ られたら、別れるほかなくなる。また「倹(ツマ)しい」と「ケチ」は違うという意味 が分らない女ならこちらから逃げ出した方がよい。 だが、フィリピーナ妻には「ザル女房」という人種が圧倒的に多いという事実もあるか ら注意が肝要だ。原則的に財布を妻に渡してはいけない。多くは数字にはなはだ弱い比 人と認識すべきなのだ。

第二例「イラチな男」 いつもイライラして短気な男で、多くは「ヤキモチやき」だ。こういう男は間違いなく 「世界一のヤキモチやき・フィリピーナ」と正面衝突し、彼女らが一番嫌う家庭内暴力 (DV)へとつながる。 先日SNN(新日系人ネットワーク)日本語学校に通学する比人妻が、若い日本人先生 とオカシイとしっとして、妻を連れて教室へ乗り込み、先生をにらみ据えていたアホな 老人旦那がいた。あきらた妻は結婚も日本行きも止めて逃げ出したという。それが正解。

第三例「うそつく男」 フィリピンには意外にたくさんの「詐欺師」(スインドラー)が住んでいるから注意が 肝要。フィリピンにはそういう土壌があるのか、比人にも日本人にも詐欺師が多いし、 まら、簡単に引っかかる人も多い。こういう土壌は「約束は守らなくてもよい」「時間


を守る必要はない」「間違いは神に許しを乞いなさい」という、近代工業国家では通用 しない常識と慣習が、カトリック教に支えられているから問題なのだ。 だからフィリピンで結婚相手を探すのなら「農漁村の娘(素朴な温かい家庭の育ち)」 「小学校の先生(年齢は多少高くても心の温かい)」ではなかろうか。少なくとも、酔 いに任せて口説いた女性たちとは、間違っても子供を作ってはいけない。国際結婚では 「割れ蓋に綴じ蓋」など成り立ちはしないのだから。

追い込まれた「在留老人」 日本の厚生労働省が2009年度に行った調査で、「高齢者虐待が過去最高」と発表さ れた。加害者で一番多かったのは「息子」の41%。「夫」17・7%、「娘」15・ 2%を大きく上回っている。 ある日、「○○○刑務所内から電話です」と秘書がいう。何事ならんと電話を取れば 「お忘れかも知れませんが20数年前に、二、三度お会いしたXXXです」と言われる。 名前に記憶はあるが、顔は思い浮かばない。こういう電話から始まる困窮老人の裏話が 色々とある。

刑務所に7年 一昨年、モンテンルパ刑務所から12年の刑期を終えて出所したY氏は、日本へ送還さ れ、今では息子3人と共に老後を送っているという話を、領事館員から聞いたのだとい う。 結論は、南の島の刑務所から、何とか助け出してくれというのだ。刑事告訴は解決した が、民事が残っているから、このままでは出所できないという。比人弁護士は頼りない。 領事館も話を聞くだけで何も進まない。だから日本人弁護士を紹介して欲しいのだとい うのだが、金は一銭もない。だから助けて欲しいという。 家庭の事情を聞けば「比人妻と子供が住み、そこには日本の実父(85)を引き取って いる」。収入は実父の年金だけ。「60台後半の出来の悪い息子が、80歳過ぎた老父 のすねををかじっている」のだ。 妻を10年前に亡くした父親が頼った比国に住む息子は、刑務所に拘留されてしまい、 困ったのは父親というのが実相らしい。民事事件の解決には「お金の調達」が先決で、 何がしかでも払って「示談・告訴取り下げ」が必須なのだ。ご本人は問題のポイントが 分かっていない。日本人弁護士なら解決できる問題ではない。勿論大使館だけで出来る


話でもない。自業自得だというには、言葉も食事も違う熱帯に住むほかない老父が余り にも可哀相だ。一種の「息子の高齢者虐待」とも言える。

老父が骨と皮に 「老父母」が2人の「孫」と一緒に、近郊のお粗末バラックに住んでいる。別に「息子 夫妻と子供」は街中のスクウォッター(貧民窟)に住んでいる。子供は前妻と現妻の間 に10人以上もいて、サッカーチームが出来ると友人からは冷やかされる。ただ、感心 なことに子供は全員自分の戸籍に入れている。暮らしを支えているのは「老父母2人の 年金」を、比に住む息子と、日本に住む娘が受け取り、僅かな食い扶持だけを父母に渡 しているだけらしい。やせ細ってい見る影もない。ご両親が自分の年金を受け取り、5 0歳を越えた息子と娘に自省と自立を求めるべきことだ。 近所の比人たちの話から、ご両親の日本帰国をアレンジしたが、「息子と娘に任せてい ますから、ご支援は無用に願いたい」といわれる。「親の過剰な愛が、子を誤らせた」 という。子は「こつまなんきんタイプの女」に代わる代わる溺れて子作りに励み、仕事 の才能は在りながら「才子、才に溺れた」としか言いようがない。父母は「不法滞在」 だから、罰金を払わないと出国出来ない。

若い妻に先立たれ まさか70数歳の自分が健在で、60歳そこそこの比人妻が先に死のうとは、夢にも思 わなかったという。子供はなく、妻には先夫との間に女の子がいるが、既に結婚してい たから、似た者同士が縁あって結婚し、田舎町に家を建てて何不自由ない円満な毎日を 過ごし、毎月1回賑やかなセブの町へ出てくるのが唯一の楽しみだった。 だが突然、暮らしが壊れた。妻が「心臓麻痺」で急死したのだ。そうしたら、この家の 名義はお母さん、「直ぐに出て行け」と義理の娘夫婦から言われた。勿論、関係者全員 が資金全額を日本人の私が出したことを知った上のことだ。銀行の通帳は夫婦二人の何 れでも引き出し出来るようにしていたから、妻のサインを偽造して全額を引き出され、 私は無一文になっていた。もう家も何も要らない。だが日本で暮らすには年金額では足 りない、はてさてどうしたらよいものか嘆く。

大使館は「ジジ捨て山」? これは又聞きの話だし、又大変ショックな話だけに書くことに躊躇した。だがどうしよ うもない困窮邦人の激増を聞かされる日頃から、多分に事実だろうと感じている。大使 館の門前に「タクシーで乗りつけた比女性が、日本人の老父を、捨てにくる」という。 降ろされた老人は言葉も分からずウロウロするだけだから、警備員と館員が駆け付ける


という寸法だ。「日本昔話」の「姥(ウバ)捨て山」を思い起こす。年を取り、若い妻 から逃げられた挙句に「アルツハイマー・認知症」になって比人ご近所に迷惑をかけ始 める。そして困った愛人や隣人が「仕事もなく、金もなく、年金も入らない老人」を、 致し方なく「経済大国日本」の大使館前に捨てに来るのだ。

ウソのような名前 次期臨時国会で「婚外子に日本国籍を認める」という最高裁「名判決」(六月四日)に 伴う「国籍法」改正案が提出されることになっている。これに絡んで外国人が結婚した 後の日本名をどうすべきかについて、これが国籍法に関連するものなのか、別の法律改 正で処理すべきものなのか、詳しくは知らないが、以下は最近、実際にあった話で「面 白おかしい作り話」ではない。 SNNを最近訪れた新日系人二世の名前を見てビックリ仰天し、同時に爆笑も抑えきれ なかった。話し合っている最中も、思い出し笑いが抑えきれない。彼の名は「ウコン タカヤマ

イノチョウシ」君という。フィリピン国家統計局(NSO)の「出生証明書」

には間違いなくそう書いてある。「ウコン(右近)高山」は仮名だが、母親も彼も姓を 「イノチョウシ」だと言い張るし、在学証明書にも確かにそう書いてある。 さてこの「イノチョウシ(INOCHOSI)」という姓は、日本人が見たら十人が十 人が「それはない」と笑うだろう。それでは漢字でどう書けるのかと考えてみた。 「伊能銚子」「伊能丁子」「胃野調子」などだが、人の姓名としては甚だ適切ではない。 あるいはこの日本人の父親は「胃の調子が悪い」「胃の調子が」などが口癖で、妻が姓 名を聞いても上の空、「胃の調子」が「胃の調子がなあ」と繰り返すから、それが彼の 姓かミドルネームだと比人妻は一人合点か勘違いして、市役所の出生届に書いたものだ ろうという説もあった。 だが、どう考えても可笑しい。聞いた日本人は誰もが爆笑して笑いが止まらないから、 母子は苦笑いしながら「何が可笑しいのか」と聞き返してくる。今から日本人の夫に聞 きたくても「行方不明」で分からないというから、どうしようもない。 貧しい田舎から出て来た母親の中には小学校も二年で中退した「文盲」の人もいて、口 伝えに窓口で書いてもらう人もあるのだから、誤字・当て字はザラ。もっとも日本人で 「ミドルネームって何」という人もいるからどっちもどっち。 こういう話の中から、日本人男性は「子供はいらない」と言ったが、カトリック教の比 人妻が応じないので、そのまま出産日を迎えてしまう。そこで旦那は、しょうがないか と名前は「ウラメシヤ」が良いだろうと、腹立ち紛れの返事をしたまま遁走(とんそう)


するケースだって考えられそうだ。そうしたらマニラには居酒屋で「うらめしや」とい う店が既にあると聞いて驚いた。 居酒屋の名前ならそれも面白い。だが、自分の子供にそういうふざけた名前をつけて平 気なレベルの父親が、世間には結構いるらしいから戦中派老日本人の私は驚いてしまう。 新日系人二世本人が、将来日本や日本人社会に入ったらどうなるか、そう思うか、とは 考えられないのだろうか。だからこういうアホ父への対策としては、成人したら自らの 意思で「名前変更の申し立て」を、もっとやさしくするしか方法はあるまい。 更には次のようなケースもあった。日本人父が三人の子供を認知しようとしたら、その 三人の子供の比国出生証明書に記載された「両親の婚姻日とその場所」が全員違ってい たのだ。この訂正には一人づつ個別の裁判を起こして判決を得ないと、NSOでの出生 証明書訂正ができない。更にこの両親のスペル(綴り)が各々一字づつ違うというから、 この修正にも二件の裁判を起こす必要があり、合計五件の比国内裁判を非営利支援団体 SNNの費用で行っている。 だが、七十九歳の父親は「モンテンルパ重罪犯刑務所」で十五年の刑期を終えて出てき たら、またまた正式国外追放手続きが終わるまで入管局留置所に収監され、金は一文も ない。母親は半ば認知症を起こしている。子供は定職もなく、その日暮らしだから、裁 判費用など出るわけもない。また、こういう裁判費用は日本政府からも出ない。やむな くSNNが当面は立て替えて対処するしかない。 一方で、開発途上国フィリピンの公文書(結婚証明書・出生証明書など)では、スペル の単純間違い、転記ミス、古い手書き文書の判読不能、コピーが悪く判読しにくい。こ れらが日常茶飯事的にあるのだから日本の役所のように「一字一句間違いなく」などと いうことは、もともと考えられない。だから、せめて現地の日本大使館・領事館で受理 された書類ならば、日本本国側で一字一句をあげつらわず、パスさせる程度の拡大解 釈・容認をすべきではなかろうか。 さて、はじめの「高山胃野調子、右近」君の日本名はどうすべきなのだろうか。ともあ れフィリピン市役所や、NSOで「TAKAYAMA」がミドルネームか、「UKON」 が名なのか、「INOCHOSI」が姓なのか誰によく分からない。現状では私もよく 分からないままに大笑いしている。法律専門家の皆さん、一番簡明直裁なのは、日本名 には普通の日本人と同じように「ミドルネームは使わない」と認めることだ。そうすれ ば今のように「結婚した妻の日本名に『ミドルネーム+夫の姓』を合成して新しい姓を 作り、次に妻の名を続けて新しい姓名として戸籍謄本に記載する」などという、「どこ でも使われない妻の新姓」などなくなるし、また今後その必要性もないだろう。


嫌なニッポン人 いろいろフィリピーナの相談に乗っていると、異星から来たのではないかと思うような ニッポン人(フィリピンに住む、あるいはフィリピンに来ている)の姿に出くわす。 先日もフィリピンのあちこちに八人の愛人を抱えて子供を作り、毎年一回クリスマスの シーズンに、ある島のビーチで八人の全家族と《○○愛人友好パーティ》を開いて乱痴 気騒ぎを楽しむという豪傑の話を耳にした。愛人の一人がとうとつキレてしまって諫め たら、毎月の手当て五万円の送金を打ち切られて困った揚げ句に、「SNN」へ相談に 来た。 昔、和歌山県の男性がタイの古都チェンマイに、十三人のティーンエイジャーを愛人と して同居させ、悦に入っていたが、今はどうなったことやら。こういう「大和おのこ」 は相手の女を人間として見ない。玩具かメード。下女のように見下しているのだ。「馬 鹿なオトコと愚かなオンナ」と言っていれば済むのだが、それは子供を作らない場合の 話だけだ。生まれてきた子供たちの未来はどうなるのか。彼らカップルの多くは恐らく 何も考えていないだろうから救われない。「嫌なニッポン人」の典型である。 「嫌なニッポン人」の第一は、「フィリピン人妻に内緒で《離婚届》を日本の自治体役 場に出し、トンズラする男」だ。手口というと、妻に一時帰国を許して成田空港で見送 る。そこで旅券と片道航空券、数万円の旅費を渡す。「日本へ戻る航空券代は後から直 ぐに送金する」と言いきかせる。男はその足で市役所へ行き、妻の署名欄に勝手にそれ らしくサインし、立会人欄には友人二人の名前を書いて三文判を捺す。それでおしまい。 「離婚届」とは知らない妻に署名させてしまうケースもある。 比人女性との結婚届は厳しい条件が付くくせに、「離婚届」は任意の話し合いと合意に よるということで簡単だ。手軽に即日、自分一人で偽造し、提出できるから不思議な話 だ。 妻が後日、帰りの航空券代の送金を催促すべく電話すると、「この電話番号は使われて おりません」という自動アンサーだけ。以降、どこへ行ったのか行方不明になってしま う。「日本人の亭主がだまして、妻子をフィリピンに棄てた」ということだ。 「詐欺的離婚」では、妻がSNNなどに相談に来て戸籍謄本を日本の弁護士を通じて取 り寄せてもらって初めて知り、泣き崩れるというケースが多い。酷い奴は離婚後にまた もや別のフィリピン人やタイ人、日本人と結婚・離婚を繰り返す。こういう常習例は稀 どころか以外に多い。日本人同胞として全くはずかしく情けない。 「嫌なニッポン人」の二番目は、「直ぐにキレて、怒鳴る男」だ。先日のマニラ新聞一 面に「イミグレーションの出国窓口で、担当官に注意され、カッとなった日本人男が旅


券で女性担当官を殴った」という事件が載っていた。こういう「アホな男類」は多くは ないが家庭でもすぐキレるのだ。フィリピン人はドメスチック・バイオレンス(家庭内 暴力)を特に嫌う。 日本人は団塊の世代(今は五十から六十歳台)以上の年寄りほど亭主関白が多く、「怒 鳴り声をあげる、殴る」など日常茶飯事の人が結構、多い。争う原因の一つは、「フィ リピーナの世界一といわれるヤキモチ」なのだが、理由のいかんを問わず、比人と結婚 した以上、「相手に手を上げたら必ず裁判では負け」と覚悟することだ。 昔、マニラで一人の日本人が私の面前で比人妻を面罵し、そのトバッチリで近くにいた 従業員も足蹴りにした。私は商談を早々に切り上げて帰った。その人物はそれから数年 の後、「妻がマスターマインド(首謀者)で殺された」と噂(うわさ)されたが、事件 は迷宮入りだ。 「嫌なニッポン人」の三番目は、「フィリピン人を見下す男」だ。「イミグレで女性の 担当官を殴った男」も「人前で妻を面罵し、社員を足蹴りにした男」もそうだが、こう いう人は欧米諸国でも同じ振る舞いをするかといえば、多分「借りてきた猫」のように おとなしく、逆にオドオドするのではなかろうか?

日本のフィリピンパブで商売上、

媚を振りまくりフィリピーナを表面的に理解して見下すようになっているだけだ。 こういう書類の日本人の共通事項は、「五十歳以上の男」、「非・会社人間」(組織の 中サラリーベースで働けない)、「日本女性が全く相手にしない男」だ。こういう人が フィリピンに来ると、「短パン・スリッパ・野球帽」という三点セット・スタイルにな る。年甲斐もなく得々と若い女とお手々つないで、アヤラやSMのショッピングモール を歩き回る。 貧しいフィリピン女性の弱みに付けこんで、彼女らを見下しながら情人として連れ回す。 パロパロ(浮気者)として、ウラでは嫌われているのも知らない。こういうアホな人物 は少数派だが、いつまで経ってもいなくならない。真面目に働く日本人にとっては、こ の上なく迷惑である。日本人はいつまで、異国の「旅の恥はかき捨て」と思っているの だろうか。


第 6 章 フィリピン社会の「光と陰」

第 1 話 フィリピン経済ウラヨミ 今、世界経済は百年来の世界的大不況に陥っているという。日本でも「自動車産業」 「電子部品産業」などが大幅な生産量減に直面し「人員整理・派遣切り」と大騒ぎだ。 フィリピンでも最近よく聞かされる話は「韓国のウォン安で比への英語留学が激減「ゴ ルフ場に韓国人観光客が見られなくなった」「日本人観光客が急減して第三位の四十万 人割れ」などと不景気なことばかり。 しかし、こういう世界的な経済混乱渦中にありながら、なぜか、首都圏やセブでは大型 ショッピングモールの新築・増改築が相次ぎ、二十階以上のホテル・賃貸ビル・マンシ ョンが、相次いで建設されている。 誰が建て、誰が借りるのだろうと不思議に思いだ。

一体フィリピン経済の真相は、大

不況?不動産バブル?と疑問を持つ日本人も多い。フィリピンに半世紀もかかわって住 む私だが、専門家でもないのにウラヨミを試みる。「当たるも八卦(はっけ)、当たら ぬも八卦」だ。

諸悪の根源 新聞紙上を見ると、世界経済悪化に対しても相変わらずアロヨ大統領の政策や、政治家 諸公の発言には全く危機感がない。それもそのはずと思うことがある。 下院議員は毎月三万五千ペソの給料に委員会手当て、交際費数万ペソを加え、別に事務 所運営費毎月四十万ペソを受け取り、加えて諸悪の温床「ポークバレル」(優先開発補 助金という美名でカムフラージュ)を、毎年議員一人が六千五百万ペソも受け取ってい るから、仕事はどうでもいい。この国の将来や貧しい国民のことなどは全く考えないら しい。 上院議員のポークバレルは下院議員の二倍だから、一億三千万ペソになる。このポーク バレルは、各議員個人の意思で適当に配分し、使い道は自由、領収書不要だというから 一度議員をやったら辞められないのも分かる。 こういう話は一般新聞紙上にも載っているが批判の声もあまり聞かない。諸悪の根源 「ポークバレル」は国会議員だけでなく、大統領にも知事・市長にも予算化して支給さ


れているから驚きだ。

三つのキーワード 比経済の実体を分析する上で「三つのキーワード」がある。一番目は「外貨」、二番目 は「汚職」、三番目が「歳入」だ。 まず一番目。昨年一年間の外貨送金額は約百六十億ドルであまりにも巨額。国内総生産 (GNP)に占める一番大きなファクター「消費」に大きなプラスを影響を与える。外 貨は主に比人海外就労者(OFW)の約八百五十万人から送られてくるのだが、正式な 銀行から銀行へ送金される金額は統計数字に出る。だが手持ちの現金や、現金振替送金 ルート(ウエスタン・ユニオンなど)によるものは、到着後直ぐに引き出されて記録に は載らない。そしてこの裏送金額が百億ドルから百五十億ドルと見積もられている。こ れはいわゆる「真水(マミズ)」だから、ほとんどが「消費」へまわり、実質一番メリ ットは多大だ。 二番目は「汚職」。これはもちろん裏金が現金で一緒に動く。極論すれば「街頭の警 官・交通整理員」から「警察・刑務所・裁判所・国軍・税関」に、さらには「国会議 員・大臣・大統領」に至る、すべての階層がかかわる。さらにその巨大な裏金の動きは、 全く所得税の対象にはならないで多くが消費にまわる。 三番目は「歳入」。税務署の法人・個人所得税の徴税能力は全くないに等しい。「話し 合い」か「吹っかけ恐喝」が主力で、まず必要な書類検査は、調査・検査の能力がない からまずはやらない。五年に一回吹っかけてくる査察・話し合いで、妥結する目安は 「言い値の一割」が相場だ。 脳腫瘍(しゅよう)の手術から生還した私を待っていたのは国税局(BIR)との税金 交渉だった。BIRは、ともかく初めは根拠もなく理不尽・非常識な駆け引きを平気で 口にする。だから見越したローカル企業は、平気で本社をミンダナオ島の奥地とか。ネ グロス島の山奥とかというメイドの田舎にしておき、所得税は払わないが、袖の下は確 実に払う。だから国税歳入の主力は「直接税」(法人・個人所有)ではなく、「間接税」 (酒・たばこ税、消費税)になっている。 問題は所得が限られた数%の富裕層だけが享受しており、八割の貧民層に行き渡らない フィリピン社会構造と政治家にある。富裕層は所得税をほとんど払わないが、汚職の袖 の下は必ず支払うという地下組織を事業家と官僚が組んで既に作り上げているから、都 合の悪いことはすべてが棚上げされて、いつか雲散霧消する。


第 2 話 「企業城下町」方式 セブ島は、南北に細長くサンゴ礁が隆起してできた石灰岩の島だから、大木の生い茂る 原生林はほとんど見られない。ただ、中央部の山岳地帯はセブ島で一番高い「マヌンガ ル山」をはじめ、高低の落差が激しい山々が連なっている。東側のセブ市からネグロス 島に面した西部海岸へ行くには、この中央山岳地帯を横断する完全舗装道路を利用する と約一時間半でバランバンの町に到着する。 ここには日本でも有数の造船企業、常石造船カンパニー(本社、広島県)のセブ子会社 と工場がある。私は最近、同社を訪ねる機会があった。 小さな海辺の町、バランバンは昔は何の取り柄もない平凡な漁村だったらしいが、ネグ ロス島側からセブ市へ行く道筋として大事な要衝なのか、太平洋戦争中はセブ島唯一の 実戦部隊、「大西部隊第四中隊(川原隊)」が駐屯していた。支那派遣軍から転戦した 精鋭部隊であった。 セブ市内の西北にあるマルコポーロ・ホテル(旧セブ・プラザ)の横から曲がりくねっ た山道を登って行くと、頂上近くでブサイ村に達する。ここを過ぎると標高七百四十二 メートルのババック山(日本軍名

「天山」)に差しかかる。そこからバランバンまで

長い長い下りになり、道中、米比連合ゲリラ軍の司令部があった「タブナン」部落を通 過する。霧が立ち込める山の尾根から谷底へかけて余り人も住まない寒村だ。「なぜ日 本軍はこんなところまで来て、飢えに苦しみ死を覚悟して戦争をしたのか」と、感懐ひ としおだ。 途中にそびえる、ひときわ高い山が「マヌンガル」(標高九〇〇メートル)だ。戦後の 大統領で唯一人、国民の誰からも愛され信頼された「マグサイサイ」が、一九五七年、 不慮の航空機事故で死んだ山として知られる。 山々の連なりを抜けると、眼下に突如として巨大なクレーン数其がそそり立つ近代的な ドックや工場群が目に入ってくる。江戸時代から「IT時代」にタイムスリップしたよ うな感じで眼をこすりたくなる。 町並みは私が始めて車で通った三十年近い昔とほとんど変わらないが、街道筋から折れ て工場の正門を入ると、「国も時代も代わった」とあらためて感じる。「ツネイシ・ヘ ビーインダストリーズ(セブ)社」は有名な比内航海運最大大手のアボイティス社との 合弁企業だというが、実際は常石がコントロールしている。 私は若いころ、当時のイメルダ。マルコス大統領夫人が大臣をしていたDSWD(社会 福祉開発省)所轄のTRC(科学技術庁)という役所で合弁企業のコンサルタントをし


ていた。私は元気い一杯で、「日本の大手企業は比の田舎町に『企業城下町』を作れ」 「日本の中小企業は都市郊外の『輸出加工区』に入れ」と助言していた。 今では「川崎製鉄」がミンダナオ島タグロアン町に、「花王」が同島ハサアン町に、 「ミツミ電機」がセブ島ダナオ町に「常石造船」がセブ島バランバン町に立地し、日本 の企業城下町のような経営スタイルを取り入れている。地元の地方自治体社会を尊重し、 一心同体の経営理念を体現している。 今回のツネイシ訪問では河野健二会長、綿谷信二社長にお会いしたが、地元に小学校を 建てて寄付し、高校・大学まで誘致するプランを着々とお進めだった。近く病院の建設 も予定されているそうで、建物や設備を寄付し、経営は地方自治体に委託する方式らし い。こういう運命共同体のような企業と地元の人々が将来、対立するはずはない。 「ツネイシ」の総従業員数は五千人を超えたが、その八割が下請け企業従業員という形 態だそうだ。そして一隻数万トンの巨大タンカーやコンテナー輸送船を年間、十四隻も 建造しているというから、毎月一隻強が進水している。ミンダナオ島の「川鉄」「花 王」、セブ島の「ミツミ」「常石」も、地元市町村と一体になって事業計画を進めてき たというが、労使の調和がとれた事業を外国でやれるのは、何といっても日本人だろう。 日本人の先進的な技術者たちが努力している結果だと思うが、こうした人々も不自由な 田舎住まいに「島流し」的な感じを夜中にフト感じることもあろう。しかし、河野会長 は「どんな田舎でも、『住めば都』ですよ。むしろ工場立地がセブ都市圏でなかったか らこそ成功したのです」と漏らされた。こういう自身に満ちた工場幹部の存在が成功の 原点だと思う。 もう十数年も前だが、常石造船カンパニー本社の五代目社長は常に四方に目配りされて おられた。「セブ近海で鯨の潮吹きが見られる」そうだから、「観光資源にならないか 研究しろ」と言われた若い社員が、冷やかし気味に「雑学の大家」と言われていた私の ところへ情報を聞きに来た。セブ島に長く住む我々でもくわしくない「鯨の潮吹き」を 地獄耳で捉え、商売の種にせよとスピード指示されたことにビックリした。 同社長は造船所建設を比国の前に二カ国で手がけたが、うまく行かなかった苦い経験を 持っていたらしい。企業の外国進出の成功の鍵は他方での「企業城下町」方式で、住民 全部にメリットを与えていくということではなかろうか?

第 3 話 フィリピン症候群 なぜか、フィリピン永住者や長期滞在者、毎年、数回はブラリとやって来る旅行者には 「フィリピン症候群」にかかっている人が多いようだ。毎月のように違った症例を観察 する。


一ヶ月ほど前だろうか?

首都圏の郊外に住む三十代日本人女性が殺された事件があっ

た。見るからに豪壮な邸宅に一人住まいだったというから、できたら「夜、怖くなかっ たの?」と聞いてみたくなる。フィリピン人の夫がいて、日本へ「配偶者ビザ」で出稼 ぎ中だったそうだが、家にはメイドも誰もいなかったらしい。 この国でそんな生活をしていたら、強盗に狙われるし、悪くすれば殺されると言っても おかしくはあるまい。あるフィリピン人は「そりゃ、彼女が人生に絶望し、殺してほし かったんじゃない」と、無責任な感想を口にした。そんなコメントが出るのは、外国で 念には念を入れて戸締りし、できれば一人住まいを避けるというのが国籍を問わず常識 だからだろう。 在比日本人の奥さんたちの井戸端ならぬ喫茶店会議での一番の話題は「メイドの悪口」 だそうだ。結論は「メイドを使わずに家事は自分でやる」というのが多いそうだ。「郷 に入れば郷に従え」というが、慣れとは恐いものだ。「もう大丈夫よ」ち、一軒家に 「夫婦だけの核家族で住もう」などと考える日本人奥方がいたとしたら、「フィリピン 症候群」のかかり始めだ。 「セブ州知事令嬢」弁護士の尻を叩いた日本人が告訴された事件もそうだ。この日本人 ビジネスマン氏の言い分は分からないでもないが、裁判になったら「全く勝ち目がな い」。ご本人が分かっていないなら、さおさら悲劇だ。 セブからマニラ空港に到着して、ベルトコンベアの前で荷物を待っていたら、令嬢弁護 士(26)が運搬用カートをベルトに横付けして場所を占有してしまった。六十二歳の ビジネスマン氏は「カートはそこに置くものではない。邪魔になるよ」と注意したらし い。そこまではいい。 問題は、「家で怒られたことがない、セブで一、二を争う富豪知事の令嬢、しかも弁護 士である私を公衆の面前で恥をかかせた」という怒りを招いたことであろう。彼女は警 官を呼び、ビジネスマン氏は逮捕されてしまった。 ビジネスマン氏は「フィリピン女性は皆、ジャパゆき・エンタテーナーだ」と誤解して いたのだろうか。弁護士側は女性軽視とみて、「一罰百戒」してやろうとしたようだ。 フィリピン人は人前でプライドを傷つけ、恥をかかせたら貧富・階層に関係なく激怒す る。そういうことを深く認識して行動すべきだったのだ。 事件の直後、有名なセブのローカル新聞記者が電話してきて初めて事件を知ったが、記 者の質問はこうだった。「加害者は、セブの日本人で俺の名前を知らない奴はいない、 二十年も前から毎年、数回はセブへ来ていると言うが、その名前をご存知ですか」。


私は「そんな名前の日本人は全く聞いたことも記憶にもない」と返事した。「日本人会 や商工会議所のメンバーではないか」とまた聞くので、「知らない。記憶にない」と答 えたら、それきり切れた。新聞沙汰や事件の加害者・被害者に、こうしたセブの公的組 織メンバーの名前が出たことは今まで記憶がない。 このビジネスマン氏は、「セブでそれなりに力がある」「今回は謝って外に出るが、後 で名誉毀損で女を訴える」「マナー違反を注意しただけ」「女の尻を叩くのは日本男性 の習慣だ」というような軽はずみにマスコミにしたようだ。だから、女性弁護士側も態 度を硬化させ、「強制送還」処分などでは収まらないと「告訴する」事になってしまっ た。フィリピンではこの先、裁判に何年かかるか分からないから、何年もブタバコに拘 置されることになるだろう。 昔、比人の奥さんとけんかした揚げ句、滞在ビザの期限切れをイミグレに通報されてし まった日本人がいた。拘置されても理屈と意地を張り通したが、結局は身体を壊して謝 罪して出所した。このビジネスマン氏も「一切、口を慎んで謝罪する」と割り切ること だ。相手が弁護士ではなおさら勝ち目などない。 何といっても「公衆の面前で、金満政治家の令嬢弁護士を侮辱した」という事実は否定 のしようがない。外国人がらみの事件なら、警察も検察も裁判所も自国民の肩を持つの が世界の常識なのだ。いくら声を大にして自らの正義を叫んでも味方する弁護士は出て こないだろう。 ビジネスマン氏には「あなたはフィリピン症候群にかかっていたのだとあきらめなさい」 と言いたい。「損して得取れ」というじゃないですか? そこで思い出した。最近「佛頂面した不機嫌そうな老人」が多くなったような気がする のだ。芋虫を嚙みつぶしたような表情で、ほとんど笑わない。「キレる老人」と言うの だそうだが、養老孟司著の「暴走老人!」(文芸春秋)をお読みになると良い。 ビジネスマン氏は「フィリピン症候群の自分を変えるべきなのに相手に怒っている」よ うだ。しかし、フィリピン女を見下してはいけません。普通の家庭の女性は六十代の老 人など相手にしないのに、女性を叩いたりしては論外だ。 押したのか?

触ったのか?

叩いたのか?

誰も証人に立てないのです。

第 4 話 フィリピンで働ける「老人」 日本の不景気や物価高に押されてタイやフィリピンで「ロングステイ」または永住する 人が増えてきている。こういう動きをサポートするように、タイや比政府の「永住ビザ」 取得条件が「2万ドルの定期預金」だけど、大幅に緩和された。そもそも老人移住計画


のスタートは、1986年に日本政府が発案した「シルバー・コロンビア計画」だが、 これも「老後を海外で住もう」という「ロングステイ財団」の計画がベースで、当時の 海外候補地は「オーストラリア」と「スペイン」だった。 だが、その国の若者たちが、現在納めている我々の税金で実行している社会福祉政策 (バス無料や諸割引等)が「自国の老人でなく、外国の老人を支援する」とは怪しから んという反対と、何分にも日本から遠すぎて緊急時の往来もままならないという理由で、 双方から総スカンを食って画餅に帰した。 老人が外国で暮らすということは、改めて荒海に乗り出す覚悟をすべき第二の人生のス タートで、決して夢多き幸せだけが待っているわけではない。

いくらで暮らせる? フィリピンで自ら稼いで暮らすことは容易ではない。まず言葉が通じない、仕事がない、 給料が安い、という「三大苦」に直面する。英語も比語もコネも全くない方は、比では 住めないし、仕事も見つからない。無理して仕事をしても給料は逆に比人より安くなる。 「言葉もできない半人前」という理屈だ。まずは、毎月「10万円」(5万ペソ)以上 の収入がないと比では住めない。比国の暮らしはいつ船が沈むか分からない「荒海」の 暮らしと同じで、「キレイで波静かな青い海」では決してない。 一番アテになる「年金」は、一般的日本人の国民年金給付額で7万円にも満たない。だ からタイでも比でも長期滞在の優遇対象になるのは、月額15万円以上の年金生活者と なる。「南の国でノンビリ暮らす」には「政府機関」「学校」「大手か中堅企業」で2 5年以上働いた実績がないと受領年金額が足りない。そうでなければ、日本での別口収 入の道がないと海外での暮らしは長続きしない。

自宅があるのか? いくら安いと言っても日本人が住むレベルの家を借りたら、月額2万ペソ(4万円)か ら4万(8万円)はする。この半分1万ペソ以下で住もうとしたら、治安が不安な不法 占拠地域(スクォッター)の近くになる。だから年金をもらう60∼65歳までには、 何とか自前の家を持つ仕事の基盤を築き、頑張ることだ。年金を受け取り始めたら、そ の家を改造して拡げ老後に備える。比でそれなりに安定した仕事を築いてる人は、皆さ ん65歳までに自前の家を持っているものだ。50歳で一念発起したら必ずできる。 比の友人達は「家持ち」を高く評価し、この日本人はこの国に腰を据えていると見る。 ところが日本人は高い家賃のマンション代を会社費用で漫然と支払っても、自分個人の 家を買おうとする人は少ない。だから日本個人の金持ちは今もほとんどいない。中国人


は全く違う。「金」を買い、家・土地や不動産を持つ。

素顔のフィリピン人 海外で働くフィリピン人(OFW)は850万人、海外に住む日本人は約69万人と一 割以下だ。比は貧しい国だから仕方なしに海外で働くが、家族への仕送りは欠かさない。 こういう海外送金が今年は170億ドル超と、比国経済を大きく下支えしている。例え ば、輸出が500億ドルあっても、これら商品を作るためには、400億ドルを海外か ら材料・部品として輸入し外貨で支払う必要がある。そして100億ドルが人件費とし てその国に残るだけだ。ところが比国の場合、海外労働者からの外貨ドル送金は「真水」 と言われるように、マルマル比国経済に寄付する。送られた金はほとんどは比国内で生 活費などに消費され、GDP(国内総生産)の大分を占める「消費」を押し上げること になる。これが比経済のウラヨミで、統計数字には反映されない強さだ。 同じことが「観光客」が落とすドル貨についても言える。ところが最近の一傾向として 日本の閉鎖社会での生活対応を誤り、弾き出されて比へ逃げ出し、安易な暮らしを夢見 て永住しようとする日本人も見受けられる。だから生活も安定せず、年金収入もないま まで「何とかなるさ」と、年甲斐もなく若いフィリピーナと結婚し、無責任に子供を作 り、そのあげく典型的「困窮邦人」となって「金の切れ目が縁の切れ目」とばっかり、 妻も成人になった子も逃げ出し、日本人夫だけが「南洋の荒海」に捨てられたというケ ースが見受けられる。それでもまだ比に住み、働く人がいる。だが「素顔のフィリピン」 のどこに価値を認め、「比人が好きになれるかどうか」にかかっているようだ。

第 5 話 「民」が「公」を支える 明治維新期における民間の立役者の一人が「慶応義塾」創設者であり、今や一万円札の 顔として有名な福沢諭吉だ。彼の言葉に《立国は「私」なり》というのがある。国家を 成り立たせているのは政治家や官僚ではなく、「国民すなわち『私』であり、『民』で ある」と言っているのだ。

ところが最近の日本人にはこの意識が欠如している。「こ

の人民にしてこの政府あり」(この程度の国民だから国もこの程度なのだ)という諭吉 の言葉がそのまま当てはまるような凋(ちょう)落ぶりだ。 安部晋三首相は体調が悪いからと、簡単に国民の七割の支持でスタートした内閣を投げ 出してしまった。戦前の金解禁政策と超緊縮政策で悪評嘖々(さくさく)たるものがあ った浜口雄幸首相は、東京駅頭で右翼の暴漢に狙撃されて十ヵ月後に亡くなったが、こ の間に銃弾を入れたまま国会に登壇した。「命にかかわるなら約束を破ってもいいの か?

自分は議政壇上で死んでもよいから自分の金解禁政策の責任を全うしたい」と獅

子吼(ししく)した。ところが今の野党・民主党の小沢一郎党首は対策も満足に出せず、


「何でも反対」と叫ぶだけだ。 明治の福沢諭吉は一介の民間人でありながら国を支えようとした。明治維新が成ったと き、政府内閣の大臣になるよう何度も誘われたが、頑として 断り続けた。彼は民の中に あって公(国)を支える人物が必要と考えていたからである。 「福沢諭吉

《国を支えて国を頼らず》」という本を読んで大きな感銘を受けた。

彼の人生訓というべき第一は、「愚痴を言わずひたすら努力する」。オランダ語が実務 上の約に立たないと知るや、愚痴をこぼさず、直ちに英語を学び始めた。 第二には、「自分の頭で考えて自分の進路を決める」。誰も経験が無い太平洋横断を目 指して小さな「海臨丸」に乗り組み、自分の進路を決めた。 第三には、「物事の本質をつかむ力をつけよ」。書物で呼んだ欧米の知識経験の中から 何が当時の日本に必要かを選んで、自著「学問のすすめ」にまとめ上げた。さらに慶應 義塾を大学に育て上げている。 第四は、「実社会に根を下ろした現実主義者たれ」。身分が一番下に見られていた「商 業」の興隆が必要と考えた彼は、まず大福帳(売上帳・備忘録)を止めて、「複式簿記」 採用の重要性を指摘し、バランスシートを含めた経営全般の数字把握を力説した。 彼が明治時代に膨大な著作を通じて提唱した「子供の適正を伸ばす自由教育」 性の自立」

「女

「地方の活性化」などは今も全く色褪(あ)せていない。というより、こ

の百五十年間、諭吉の提示した問題を先送りしてきたともいえる。 私の言いたいことは、福沢諭吉がいう「公が民を導くのではない。民が公を支えるのだ」 という基本理念に関するこである。簡明直截にいえば、「新日系人二世の救済事業は基 本的に、民が公を支えてやるべきプロジェクト」だというべき点だ。中国残留孤児問題 とフィリピン置き去り二世問題は本来、戦争という国家の行為が残した汚点だったから、 その救済支援は国が金を出してでも行うべきだ。そして日本国はそれなりの支援を国家 予算でまかなって実行してきている。 しかし、私がSNNという非営利民間団体(NPO)で行っている新日系人二世(ジャ ピーノ)母子への支援は本質的に全く異なる。戦後、日本からフィリピンへ仕事や観光 で渡った日本人の男や、フィリピンから日本に主にホステス稼業で渡ったフィリピーナ (女)たちの間で、自由意志に基づく結婚や同棲の結果、生まれた子供たちを救済の対 象にしている。「自分勝手に産んどいて」

「今さら何が助けてくれだ」

「自分がま

いたタネは自分で刈れ」という意見も多いし、一面の事実である。しかし、「生まれて きた子供に罪はない」

「子供は親を選べない」という事実にも注目してほしい。若か

りしころは、誰しも成人君子ばかりではなかったはずだ。


基本的に「新日系人問題」は、戦前からの旧日系人問題とは異なる。だが、そうとばか りは言い切れない問題も浮上してきている。新日系人二世人口が二〇〇五年に十万人を 超したと分ってからだ。(厚生労働省人口動態調査統計) 「興行ビザ」規制が始まった同年以前までは、最高時で八万人のフィリピーナたちが毎 年、日本のスナックやフィリピンパブへ出稼ぎに行っていた。誰が考えても毎年五万人 から八万人もの「ジャパゆき」ホステスが必要だったとは考えられないから、興行ビザ の過剰発行とフィリピーナの過剰渡航は、相性の良い日比男女の国際結婚につながり、 新日系人二世の異常な増加をもたらしたという事実を否定できない。 せめて、新日系人二世が日本と比国にどのように分かれて住んでいるのか、そういう調 査ぐらいは、国の費用でやれないものか、と思う。このジャピーノ二世問題が将来、重 大な政治課題になるかも?

という懸念が、訪比した一九九四年当時の村山首相とラモ

ス大統領の間で交わされた事実がある。 考えようでは彼らは日本人の血を五十%持つ貴重な隠れた労働力ともいえる。「国際労 働力の南から北への自由移動」という国際的命題と「労働力の確保」という国家的要請 に答えられるのは今のところ、フィリピン新日系人だけだともいえる。 私はこの面で、微力な「私」ではあるが、「公」(国)を支えて、力になりたい。

第 6 話 「隗(かい)より始めよ」

中国の戦国時代に、燕の国「昭王」が、その臣「郭隗」(かくかい)に「賢臣がほしい」 と言ったのに対して「まず、私自身を用いなさい」と答えた故事から「提案した本人か ら、まず実行に取りかかるべきだ」という有名な諺(ことわざ)になった。当選したア ロヨ大統領が「国の財政は危機的状況にある」従って「予算は徹底的な緊縮財政とする」 「政府の大臣・官僚の海外出張は基本的に禁止する」と発表した。だから、翌月、マレ ーシアでの展示会には誰も行かず、ブースは電気もつかず○古鳥が鳴いていたという。 ところが、この国家財政危機発言から一ヶ月もたたない内にアロヨ大統領は中国への親 善旅行へ旅立った。しかも自分の娘や孫や一族郎党を引き連れて半分遊びの大尽旅行を した。大統領たるものは「海外出張禁止」の発言をしておいて、間もなく自分でそれを 破ってしまったのだ。 「上が悪ければ、下これに従う」という。国家財政が危機的な状況にあることは、詳し い数字を見なくても誰もが知っていることだ。ある人は「デフォルト」(国の支払不能 宣言)直前の危機的状態だと言う。初めの大統領発言は正しかったのだ。そして「政府 の役人は海外出張すべからず」も正しかった。ところが「まず隗(大統領)より始める べき」ものを、自ら破ってしまったのだ。大統領の自費という外遊をとやかくいうので


はない。こういう発言をした際だからせめて遠慮して一人旅をすべきなのだ。孫まで連 れての外遊では一言の反論もできまい。それから三ヶ月もたたないうちに「国家財政の 危機は去った」という発言だから、皆があきれ返ってしまった。どこの国の財政危機が わずか三ヶ月で立ち直れるのか?子供だましの発言もいい加減にしてほしい。 世界第二の経済大国日本でもバブル経済破綻後の立ち直りには十年以上もかかっている のだ。「隗」は上院・下院議員もしかりだ。汚職の原点「ポークバレル」(優先開発補 助)は全面的に廃止すべきだと発言していたのにもう独りの大ボスだ(隗)アロヨが財 政危機発言を撤回して「国の経済は立ち直った」という非常識な発言を聞いた直後から、 国会議員の間から「ポークバレルは全額そのまま維持されるべき」という発言も相次い でいる。国家への見識も理想も何もない。また、「元の木阿弥」になりそうだ。大ボス 「ドリロン上院議長」

「デベネシア下院議長」も同様、言い出したことは必ず守って

「汚職の原点、ポークバレルは全廃してください」。「汚職が庶民の貧しさの原点」な のだから。 もう一つ「別の隗」がある。フィリピン共産党の「シソン議長」・彼には共産党の大ボ スであるのにオランダに亡命して自分は安全地帯に居て「犬の遠吠え」をしている。第 一線のNPA兵士たちは、国軍との戦闘で毎日何人も死んでいる。自分に信念があれば 帰国して自ら戦ったら良いのだ。ところが、シソンはじめ共産党の諸氏は知っています か?「共産主義は二十世紀最大の災厄」だった。共産主義によって殺された人々の概数 は「中国」六千五百万人、「ソ連」二千万人、「北朝鮮」二百万人、「カンボジア」二 百万人、「ベトナム」百万人、その他を合計すれば、共産主義による殺人は約一億人に も達する。(フランスの「共産主義黒書」による)これらの殺人は「他党派の逮捕処刑」 「強制収容所による餓死」「収容所群島」「党内粛清」「中国の大躍進と文化大革命」 「カンボジアのキリング・フィールド」によるものだが、アジア二つ残る共産主義国 「北朝鮮」「中国」を見れば、何がうれしくて安全地帯のオランダにに腰をすえて、何 もよく知らない「若いNPAの山の兵隊」を平気で死に追いやっているのだろう? 中国はもはや共産主義国とはいえなくても、実質は資本主義国と変わりがない。ただ、 言論の自由がないから民主主義国家とはいえない。北朝鮮は間もなく消えるだろう。言 論が自由でない独裁国は消え去ります。言論の自由だけは、フィリピンの唯一の取り柄 でしょうか?国だけでなく、会社でも何事によらず「隗より始めよ」だ。経営の良し悪 しはトップ次第なのだと改めて考える今日このごろです

第 7 話 無策の犠牲者は誰か? 一年前の十月三十一日、首都圏の英語紙「マニラ・タイムス」に「無策の犠牲者は誰 か?」という見出しが出た。フィリピンの人口は二〇一〇年から十二年には人口一億人 を突破し、人口の多さでは世界十三位になるというのだ。早くもその年末には八千五百 二十三万七千人に達したと伝えられた。


人口急増の最大要因は、カトリック教会に牛耳られている政府の姿勢である。カトリッ クの教義では家族計画・人口避妊は認めない。教会でいつも「避妊すれば『天罰』が下 る」と説教するから、無知な大衆の一部が神父に無批判に従うことになる。ただし、民 間調査機関「パルスアジア」の世論調査によれば、「家族計画は重要」という答えが九 割だったそうだから、実行が伴わない「バハラナ(仕方がない)社会」なのでもあろう。 歴代の大統領でカトリック教会と一線を画し、「人口避妊を奨励」したのは、同じキリ スト教でもプロテスタントのラモス元大統領一人だけだ。アキノ元、アロヨ現大統領は 女性のカトリック信者だから何も言わず、選挙で票に影響するカトリック教会に迎合す るだけ。エストラダ前大統領は自身がプレイボーイだから、何も言えないし言わなかっ た。 大学を出て教養のある人々だけが子供に十分な教育を与えるために黙って産児制限し、 子供三人以内にとどめているのが実態だろう。それなのに、一部の学者は教会に迎合し、 人口十三億人の中国、十億人のインドを例に出して比国でも一億人を十分に養えると言 う。生活の質も落ちない、環境汚染もないと、何の責任もないから、言いたい放題だ。 これに対して反対論者は「今でさえ水や食料の供給がひっ迫している。今の物価水準と 賃金レベルでは、国民の三分の一以上が貧困ライン以下の生活が強いられている。労働 人口の三分の一以上が将来出稼ぎを望んでいる」という。「世界の何々」がつく中国や インドなどは経済発展し、今や比較すべくもないほど離されてしまった冷厳な現実を、 大統領も閣僚ら政治かも眼を大きく見開いて直視すべきなのだ。 最近、アメリカの人気テレビドラマ、「デスペラード・ハウスワイブス」の中に比人医 師を軽視するセリフがあり、ドゥケ厚生長官が抗議文を発表した。「フィリピン人医師 は世界の中でも最高だ。世界中で比人医師・看護婦・弁護士が求められている」と。ど こか論理に合わないが、あえて論じることもない。政治家や実業家などのお金持ちが重 い病気になったら、なぜアメリカに行くのか。そう聞いて見れば、すぐ分ることだ。日 本人にもありがちだが、「自分の国が世界で最高だ」と思い上がってはダメ。そこで進 歩は止まり、国は衰亡へと向かう。 ドゥケ厚生長官には、「そんなに自身があるなら、なぜフィリピン政府は外国人医師に 就労・開業の許可を与えないのですか?比人医師と外国人医師が一緒に働いても何の心 配もないはずだ」と言いたい。 日本政府にも直言したいことがある。フィリピンとは逆の「人口減少問題」に関係する ことだ。厚生労働省社会保険審議会の発表では、最も実現性が高い「注意推計」で人口 は加速度的に減り続け、三十年後には毎年の人口減少が百万人を超す。それ以降も毎年 香川県や和歌山県が毎年一つずつ減る規模の深刻な「人口減少」になる。労働力年令人


口も減り続け、前回推計からさらに二百万人以上ダウンすると、労働厚生省雇用政策課 でも言っている。 さまざまな交渉を通じて日本の外務省が海外事情に通じ人口問題を良く知っていること はわかっている。分らず屋は法律の字面だけを見て内向的な法務省官僚だけである。民 間企業も高齢者や女性労働力の活用に走っているが、何といっても即戦力になるのは 「外国人労働者」であって、受け入れが肝要だという点も十分に認識している。だから こそ我々、「新日系人二世」という労働力を抱えるNPOには、日本から毎週一、二社 以上の企業から引き合いがあるのだ。 フィリピン国家統計調整局(NSCB)の統計では、エンタテイナーの入国制限もあっ てか、昨年から婚姻件数が増加している。「日本への移民が四割も増えている」との発 表だ。移民先は一位が米国(四万九千五百二十二人)、二位がカナダ(一万三千二百三 十人)、三位が日本(九千七百四十二人)だ。 労働力の問題では国と国との間での補完関係が成立する。日本人とフィリピン人はいわ ゆる「相性」が良いらしいし、私個人の結婚経験でも大変良かったと思っている。半面、 新日系人二世の両親を見ていると、日本人夫の場合、あまりにも口うるさく、相手を見 下げている。もし日本人妻ならとっくにもっと離婚しただろうなと思うほどだ。 比人妻の場合には、父母など実家の家族に目が行き過ぎて「おカネ、おカネ」となる。 金持ちと思い込んでいた日本人の夫が貧乏サラリーマンだと、つましい暮らしをケチと 誤解する。毎日の口げんかにくたびれて果て、逃げ出したというケースが多い。互いに 「譲り合う知恵と辛抱が足りない」。その犠牲者は何の罪もない子供たちである。「新 日系二世」(ジャピーノ)は悲しい。 2007年11月5日

第 8 話 「豚よりむごい暮らし」 三回にわたって連載した「コラム」で紹介した「矢崎(仮名)」のケースで、あえて書 かなかったのが「十二年の刑に服した、モンテンルパ重罪犯刑務所の裁判記録」だった。 触れなかった理由は「冤罪(えんざい)の『不動産詐欺』も服役が済んで、終わった事 件」だったからだ。 だが、彼が判決を目前に控えて、日本の実弟や親族に弁護士を頼むための資金送金を、 切々と訴える手紙には涙をそそられる。今回は、フィリピンで警察に逮捕された場合、 イミグレ(移民局)に逮捕された場合、裁判になった場合などに起きる「フィリピン警 察・司法の怖さ」を示して、日本人諸氏に警告しておきたい。


私は「人間平等」

「悪徳排除」

「弱者保護」をモットーとして、ボランティア活動

「SNN」を展開しているが、フィリピン警察の留置場や、刑務所が「豚よりむごい暮 らし」という実態を知るべきだ。

今も残る精神棒の拷問 これは背中・背腰・太ももを精神棒(旧海軍用語・堅い丸木棒)で、力任せにたたく。 まず五回の大たたきで普通なら失神する。それを最近、新日系人ジャピーノ二世が、逮 捕状もなく不法逮捕され、警察官に三十回も木棒で殴られたと、日本人の父親が涙を流 して訴えてきた。 容疑は息子の「置引」と「家屋侵入窃盗罪」だったが、前者の置引は「携帯電話」で、 警察が別の男から入手し被害者に変換したから、事件は取り下げられた。後者はこの取 り下げ前、はこの取下げ前、近所で起きていた二・三件の「コソ泥」も、同じ犯人の仕 業に仕立てようとして、デッチアゲた事件だった。 犯人とされたジャピーノ二世は、最初から一貫して冤罪だと否認し続けたから、警官が 精神棒で殴り続け、死んだかも知れないという乱暴な話だ。 だが、SNNが依頼した人権派弁護士が来たら警察は「保釈金を払って、早く引き取り 示談にしよう」という話だ。もし弁護士が保釈手続きをしなければ、否認のまま留置が 継続され、裁判では必ず有罪に仕立て上げられただろう。警察に頼まれたら「こいつが 犯人だ」と平気で証言して「警察に貸しをつくっておく」という悪いやつもゴロゴロい るのだから。

二万五千ペソで懲役二年 ホテルの宿泊飲食代をためて「二万五千ペソの無銭飲食」をした男がいた。訴えられた 男は刑務所送りになり、そのまま何の調べもなく、二年がたってしまった。そして「い つ監獄を出られるのか分らない」とマニラの日本大使館に直訴状を送った。 英語も比語も全く理解できず、だが「ホテルに泊まって無銭飲食」し、刑務所に収監さ れたのだから、自分が悪かったとは十分理解していた。だが、、「いくらなんでも二万 五千ペソ(五万円)の加害で、二年のブタバコ牢(ろう)屋はむごいじゃないか?」と いう言い分で、大使館に「助けて!」と手紙を郵送してきたのだ。 領事館で調べたら話は本当だった。ここからがフィリピンらしい。原告のホテル・オー ナー女性は「彼はとっくに釈放されて日本に帰った」ものと思っていたという。そして


「かわいそう。もう金は要らない、払わなくてよい」と、話は早かった。 被告本人は弁護士もなく、全くも誰とも会話できず「牢屋に鎮座した償いの二年」だっ た。具体的に話を進めまとめてくれたのは、領事が依頼した比人女性の新人弁護士だっ た。 彼女は日本人と結婚して「日本語検定一級」の実力を持ち、会話、読み書きともに自由 だ。ただ、今回の日本人被告は弁護士料が払えないだろうから、それをどうするか?気 にかかる。「日本語で読み書きし、英語で裁判文書を読み書きし、人間的に信頼できる 比人弁護士」が初めてフィリピンにも誕生した。日本人社会も。長い間「日本語を完全 に話し、読み書きできる弁護士と医者」を求めてきたものだ。

豚よりひどい暮らし モンテンルパのボーチョウ?(牢名主)は、長い収監者で力の強い者がなる。そして、 なぜかビサヤ人が多い。牢名主とは別に、比ヤクザの親分が「金貸し」として実力を張 る。借金を返さないと、子分が精神棒で力任せに二回殴るとひっくり返る。三回殴ると けいれんして意識を失う。五回殴られると「もう借金は返さなくてよい」となるが、時 にはそのまま死ぬというから怖い。 もちろん。犯人が誰かは誰も言わない。小川でくんだ水をバケツ一杯で十ペソで買い、 水浴びをする。そうしないとなぜか「大便が出なくなって苦しい」のだそうだ。 比の刑務所は「金がすべての社会」だ。金さえあれば、妻でも愛人でも専用の部屋に連 れ込んで同居できるし、金が足りない人は、土・日曜に限って牢屋内に妻を連れ込むこ ともできる。 無論、その部屋の住人は寂しく部屋から外へ出る。ブタバコの収監者は「金の要らない 『豚』よりも、人間の方がモットむごい暮らしだ」と承知しているべきだと経験者が語 る。


第 7 章 在比日本人が見る「日本問題」

第 1 話 「東アジア共同体」地政学 最近、取り沙汰される「東アジア共同体」について、私は大きな異論がある。日本は明 治時代に朝鮮半島と台湾を合邦したが、これはマッキンダーの「海洋地政学」の理論か ら見れば、まことに理にかなった行動だったと評価されてきた。明治時代、日本のよう な海洋国家に飲み込まれないためには、半島部分と島嶼(しょ)部分を押さえることが 必要だったとマッキンダーは言っている。彼は世界史を通観してこれを証明して見せた。 戦後の日本人がこの真理を忘れたような顔をして生きてこられたのは、日本に代わって アメリカが韓国と台湾の安全保障に責任を取ってきたからだ。ここで考えておかねばな らぬことは、北朝鮮も韓国も歴史問題をめぐって「反日」という共通点があることだ。 島嶼国家「台湾」は事実上独立した平和的な民主国家であって、その事実を明言するか どうかだけが当面の問題なのだ。 中国は靖国問題で日本たたきに躍起になればなるほど、日本人が目覚めて小泉首相を支 えるという皮肉な効果が上がっている。靖国神社に合祀(ごうし)されている殉難者へ の深い同情が、国民の間に静かに横たわっているという事実を中国・韓国も深く考える べきなのだ。小泉首相の靖国神社参拝を大事件が起こったように日本のマスコミが仰々 しく報道する姿勢にも問題がある。こんなことは三面のベタ記事で良いのだ。マッキン ダーは「いかなる国も強力な大陸国家であって、同時に強力な海洋国家でありうること はできない」といっている。第一次大戦以前にドイツの「カイザー皇帝」がそれを狙っ て失敗したのは良く知られた事実だが、現在の「大中華覇権主義」の中国は、それを東 アジアで繰り返そうとしているかに見える。これはアジアだけでなく世界の不幸だ。こ れを阻止できるのは同じ海洋国家のアメリカとがっちり手を組んだ日本しかない。そし てアジア諸国もそれを望んでいるのだ。 こうして考えると「東アジア共同体論」など、別世界の話に思えてならない。地政学的 に考え、明治の先人たちの教えを考え合わせると、「太平洋共同体」という海洋国家連 合こそが、日本の目指すべき共同体論で、大陸国家「共産中国」「共産北朝鮮」は外し て考えるべきだ。何しろ人口十三億人の国は世界的規模からみても、それだけで単一経 済圏としてやっていけるしまたやっていくべきなのだ。本来「チベット(西蔵)」「ウ イグル(西域)」「満州(東北)」などは異民族が住み、これらを無理にまとめている 実質大連邦なのだから。

国家の基本が共産主義であり、歴史認識が異なり、十三億人

の人口があり、典型的大陸国家であり、こういう国と、海洋国家・島嶼国家・半島国家 からなる、日本・韓国・台湾・シンガポール・マレーシア・タイ・ベトナム・カンボジ アなどが共同体として一緒に運営され得るとは誰にも思えないだろう。ただ韓国は先進


工業国クラブ(OECD)に加入して十年近くになるし、世界十二位の経済強国で半島 国家として評価できるし、生活実感でいえば日韓は提携できる。 シンガポール・マレーシア・タイ及び旧仏印諸国もアジア大陸から見れば大きな半島に 過ぎない。インドネシア・フィリピンは太平洋島嶼国家だし、オーストラリア・ニュー ジランドも太平洋島嶼国家の一員であるべきだ。共産中国や共産北朝鮮は別にした「太 平洋経済共同体」なら、もっと早くFTA交渉も進むであろう。 ともあれ、十三億の国民を持つ大中国と、他の十数カ国が強調することはまず至難だ。 中国経済圏と太平洋経済共同体はお互いに協調的な競争関係に立てばよいと割り切るこ とだ。共同体メンバーは「本質的な信頼心」

「まごころからの付き合い」などの「熱

い心」なくしては、成り立たない。特に反日を標榜する共産国(中国・北朝鮮)とは、 経済関係だけと割り切って付き合うべきだ。

第 2 話 「移民開国か、攘夷か」 我々戦中・戦後派世代にとって「集団就職」とはノスタルジアを覚える言葉だ。昭和三 十年代初めまでは、まだまだ戦後の新制中学を卒業しても、貧しくて新制高校へ進学で きず就職する子供がたくさんいた。彼らの就職先は地元の「北海道、東北、九州、山陰」 地方にはなくて、子供たちが先生に引率され「東京、名古屋、大阪」などの大都市へ夜 行列車で移動した時代だった。どこでどういう仕事に就けるのかもよく分からないまま、 親を助けて「集団就職」したのだ。有名歌手の「森進一」も当時、鹿児島の田舎で中学 を卒業し、大阪に出た集団就職組の一人だった。 昭和二十五年の朝鮮戦争がぼっ発したが、そのころはまだ終戦後の何もない物質欠乏の 時代が続いていた。だが、朝鮮戦争による「米軍軍需」と、引き続く「復興特需」が、 日本経済再建への足がかりとなって「神武景気」をもたらし、未曾有の「大都会での人 手不足」となり、中学を卒業したばかりの就職組は「金の卵」と持てはやされた。彼ら 中卒者の多くは「中小企業での熟練職人」として育ち、日本経済復活を底辺で支える大 きな役割を果たした。 今回、SNN(新日系人ネットワーク)のメンバー母子「二十七人」(子が十三人、母 が十四人)が一度に日本へ行けることになった。これで思い出したのが、旗を立てた先 生に引率され、夜行列車から降り立つ、何か不安そうな子供たちの表情だった。 新日系人二世は母親が同行しているとはいえ、年齢が六歳から十五歳で、小学校・中学 校へ入学する者が多いから何となく気がかりだ。「子供を通学させて」養育するため、 比人母に人道的に査証が認められたので、「母親の就労が目的ではない」というタテマ エ論が勿論十分に理解しているが、物事にはホンネの部分が根っこにあるものだ。「日 本人の子を日本の学校に通わせ、比人母が自分で稼いで養う」というのが彼ら母子のホ


ンネなのだ。だがどうであれ、ようやく彼らの願いがかなえられて、一括して旅券や査 証が交付された。 次にSNNでは「日本人父の認知を得た子供と、その比人母、何百人」かの渡航支援を 行う。六月の最高裁判決による国籍法改正の国会通過の後に出すべく準備中だ。多くの NPO団体では国籍取得までで一応支援は終わる。だが、SNNでは、一番難しい日本 での就職先・寄宿舎・学校入学手続きまで手がけるから大変だ。 それでも、彼らが「日本人の名前を持ち」

「日本人の顔をして」いる限り、彼らに就

学の機会を与え、就労させて全員が自立できるような手立てをしてやりたい。それは彼 らの今現在の暮らしが、三色もままならず極貧のどん底に沈み、比国では将来へのチャ ンスが何もないからだ。 また、日本政府も今や「中学出の外国人単純労働者でも集団就職規模で受け入れる」と いう思い切った「移民開国政策」を取らないと、養護老人ホームには働く人がいないと いう「老人ホーム倒産地獄」が目前に迫っているのを承知してほしい。 私どもNPO活動を続ける民間組織へは、日本から毎週少なくても一組から二組の「社 会福祉法人・特養老人ホーム」からの訪問客があるが、今までのクライアントで手いっ ぱいで、今後の対応可否を返事できないのが実情だ。 看護師は米国、カナダ、英国より給料が安く、労働条件も悪い日本へは、おそらく一人 も行かないだろう。このへんの事情は政府官僚の誰もがよく分かっていない。介護福祉 士・ホームヘルパーも今のような査証条件と二ケタも少ない、おざなりの募集人員では、 支援団体が赤字経営で、永続が難しいだろう。 日本政府の対応策は「移民開国」

「外国人庁の創設」

「単純労働容認」以外にない

と考えられる。吉田茂元首相の孫「麻生サン(首相)」が人肌脱いで、今一番評判の良 い「フィリピン日系人五十万人」を、まず移民受け入れしてみたらよい。長い期間と、 多額の費用をかけて、在比日系人の人口調査などしなくても、メリットがあれば「口コ ミ」で、彼らから名乗り出てくる。私に任せてみたらよい。 この問題は明治維新当時の「開国か、攘夷(じょうい)か」に匹敵する「時代の流れ」 なのだから。そして、国の将来を左右する革新的「維新」なのだ。今回の「査証一括発 給」は、法務省の許諾判断と外務省の決断を得て「長期滞在査証(定住・日本人の配偶 者等)の、初の海外公館発給」につながった。新日系人二世母子に代わり、その労を多 として感謝したい。


第 3 話 日本は「悪くない国」だ 日本の進歩的文化人といわれた大学教授らや共産党、社会党にとって、「ソ連を外した 単独講和」や「米国の原爆投下」 を含む全面講和」

「東京国際裁判の戦争犯罪人」が悪であり、「ソ連

「ソ連の原爆実験」

「天皇制廃止」は善であった。今もそう言い

続けている者たちがいる。 ところで、最近の新華社通信によると、中国のある雑誌は、日本が「米国の妾から愛人 に昇格した」などと下司(げす)な罵(ののし)り方をした。米国のブッシュ大統領が 訪日して日米同盟の堅固さを見せつけられたので、頭に来たからだろう。こういう中国 の論じ方には、内容がないから言葉ばかりが激しくなる。昔、あの「進歩的文化人」と 称されたグループと同じ類だ。 中国は戦後、満州の女真族を漢族社会に埋没させてしまい、朝鮮戦争では北朝鮮に加担 して韓国を侵し、チベットを軍事力で制圧し、毛沢東・中国共産党主席の理不尽により、 飢えと投獄で四千万人以上の人民を死なせ、中越戦争でベトナムを苛(いじ)め、西域 に住むウイグル族を抑圧した歴史を持つ。しかし、自国民にはこの「歴史の真実」を隠 し続けてウソを言っている。その国が恥ずかしげもなく「歴史の検証」というのか。 太平洋戦争後の日本は、吉田茂が路線を敷いた日米同盟を微動だにさせず、どこの国と も全く戦争をしない六十年の歴史を築いてきた。そして、戦後政治を長く背負ってきた 「自由民主党」の小泉純一郎が今年の衆院議員選挙で議席三分の二を超える圧勝を果た して、国民の支持をさらに強固にしている。 日本共産党の志位委員長らだけが、小泉政権は「国民イジメ」と「年金改悪」をする 「人間使い捨て内閣だ」と、歯切れのよいような論を立てている。ところが、日本人の 誰もそんな話には乗ってこない。だからこそ、共産党はジリ貧だし、社民党に至っては いつ消滅するのかと噂(うわさ)されている。 彼らは選挙の時になると「貧しい労働者の見方」だと叫ぶ。これは、追放されたフィリ ピンの前大統領エストラーダの「パラ・サ・マヒラップ」(貧者のために)という選挙 キャンペーンと同じようなものだ。 こうした日本の政治家たちは余りにも不勉強だ。もっと外国を見てみるとよい。世論調 査機関、ギャラップ社の調査によると、フィリピンでは「過去一年間に自分や家族が食 べ物に事欠いたことがある」と回答した人が全体の四六%に上り、飢餓感の強さでは世 界第三位に挙げられた。一位はナイジェリア(五六%)、二位、カメルーン(五二%) で、他にもアフリカ諸国が多い。


フィリピンにおいても、マニラ、セブ、ダバオなどの大都市に住んでは分からないこと が多いが、飢餓は田舎へ行けば、すぐに実感される。こういう国と比較すれば、日本は いかに豊かかがわかるはずだ。 日本では「お金がなくても医療は受けられる」「飢え死にしない程度の年金ももらえる」 「ホームレスが一円なくても、厳寒の路頭に倒れれば救急車は来る」「ワイロは要らな い」「大震災があっても立ち上がる底力がある」「飢えで勉強が手につかない子供はい ない」こんな素晴らしい国なのに、その政府が「国民イジメ」をしていると言えるのだ ろうか? 左翼的な一部の言動を良しとするジャーナリズムが戦後の日本にはびこった。日本を悪 くした最たるものは「共産党」「日教組」「朝日新聞」だという言い方もあるが、大方 の日本人はそう見ていると思う。 貧しいフィリピンでは、交通事故に遭って救急病院に担ぎ込まれたとしても、手持ちの 現金がなかったら点滴以外の治療は一切してくれない。ところが、「貧しい者の味方」 のはずのフィリピン共産党の最高指導者、シソンはオランダに亡命したきりで、のうの うと暮らしている。共産党の活動の一部が合法化された今日ですら帰国しようとせず、 山の兵隊、「新人民軍」(NPA)が革命税を徴収して企業や経営者を苛(いじ)め、 一般市民を攻撃し、殺している。 こういう比共産党こそ「国民イジメ」と呼ぶのにふさわしいというものだ。

第 4 話 二重国籍の容認を 私は30年以上フィリピンに住み、初めてこの国に足跡を印してからなら54年になる。 だから比人の友人は誰も私が比国籍を持っていると思っているらしい。だが、私は一度 も比国籍にしたいと考えたことはない。戦後半世紀を経て「日本国籍を捨てて比国籍に 代えた人」は、私が見る限り二人だけ。1人はネグロス島で本格的大農園を営み、自分 名義で農地を買うために比国籍が必須だった。もう1人はマニラで歯科医師として正式 に医院を経営するには比国籍が必須という事情がおありだった由。

なぜ重国籍が必要か? 海外在留邦人1世で日本国籍を捨てようと考えた人は、恐らくいない。 理由は「日本人」という誇りだ。だが、二つの国の血を受け継いだ2世が「本当の自分 でいるため」

「正直に生きるため」に、日本政府は「重国籍」を正式に容認すべきだ。

先進国で頑な人に「国籍の血族主義」に固執しているのは、日本とドイツだけだという。 分かり易く言えば、日本と比の二重国籍を認めるのは満22歳まで、それまでに日本国


籍と比国籍のどちらを取得するかを決めて届け出なさい。22歳からは、二重国籍は認 めないということだ。ところが、そこは日本流「ホンネとタテマエ」がある。国籍取得 届承認通知に添付された「国籍選択は『重国籍者』の大切な義務です」というパンフレ ットの欄外末尾には「なお、期限までに国籍の選択をしないときは、その期限が到来し た時に日本の国籍の選択の宣言をしたものとみなされます」と書いてある。何のことは ない、日本では「日本国籍」だと言い、比では「比国籍」で通しても関知しないという ことだろう。 新日系人(ジャピーノ)の殆どが日本語を喋れない。そして多くは貧乏で高校へも行け ず英語も十分に学んでいない。特に女の子が別の外国人と結婚すれば、アイデンティテ ィーは益々複雑で混乱する。世界は今後益々「多文化共生時代」が避けられない。法務 省パンフが正直に告白しているように日本政府だってタテマエではノーといい、ホンネ では「重国籍を容認」しているようなものだ。恐らく22歳になって「日本国籍選択届」 を提出した人は何人もいまい。有名無実化していることは、ホンネに統一して混乱をな くしたら如何か。

バイリンガルの子 私の長男の子供たちは日本語にも英語にも不自由しないが、自然にそうなった訳ではな い。長男が総合商社員としてサンフランシスコに赴任した頃、私は比でアテもない漂白 を始めようとしていた。だが、米国へ赴任する息子夫婦に話したことを今も覚えている。 「家の中では、日本語以外は喋るな。テレビも新聞も日本語だけだ。そうしないと子供 は英語だけになる。日本人ではなくなる」と。 これは、赴任国から帰国した知人商社マンが、日本語ができない息子を「帰国子女コー ス」に入れたが、登校拒否児となって、精神障害を起こしたという身近な経験からだ。 そして孫たち3人は10年近く建って日本へ戻ったとき、「帰国子女校」ではなく普通 の中学・高校へ入学し、一番上の孫は東京の「大学・英語会話コンテスト」で、3回連 続優勝したと、今はガンで亡くなった息子の嫁から聞かされて嬉しかったものだ。 子供の教育は何といっても母親が積極的、意識的に取り組まないと成功しない。息子の 家族は家庭で「日本語だけを押し通す」ことには、初めは抵抗があったらしい。だが息 子の嫁は私の話を思い出しながら押し切ったという。 また昔、セブで「オバチャン」と呼ばれる沖縄出身の方がおられた。10人の子供全員 日本語が流暢だったので、「どうやって教えたの」と聞いたら「私はビサヤ語も英語も 半人前以下、しょうがないから日本語だけで赤ん坊たちを、アヤシタリ遊んだりして暮 らした」と言われた。子供がバイリンガルになるには、母親の強い意志がないと成功し ない。現に、SNNのジャピーノ2世では、日本人母が育てた子は、100%近くが日 本語を話し、日本人父が無関心だった子は100%近くが日本語を話せないまま、比語 を「母語」として育つ。


第 5 話 行政は「仁慈」の心を 「フィリピン本」で売れるのは、中高年プレイボーイ向けの「軟らかいノンフィクショ ン」が多かったが、今もそうだろう。そこに書かれたような行動が若いフィリピーナを 結果的にだますことになり、子供を南の島々に棄ててしまう。そんな軽はずみな結婚を、 他人の私が今さら批判・非難しても始まらない。 しかし、子供(日比混血二世)は親を選べないのだから罪はない。何とかして将来、ま ともな人生を築くチャンスを与えてやりたいのだと思っている。 私は非営利法人(NPO)の「SNN」や奨学金のための財団法人「JSA」を立ち上 げ、老躯を押して活動している。それはまた楽しみでもある。私はかつての「工作機械 設計技術者」に過ぎない。パートナーも以前、都市銀行の支店長を務めた人物だ。素人 が日比の戸籍関係の法律や移民法などを勉強しながら、事業をスタートさせた。だから、 弁護士的な知識をひけらかしたり、政治家や外務省を動かしたりというような無理なこ とは慎んでいる。そして、「正義と仁義」の理念に基づき、論旨を整理しながら、お役 所には対応してきた。時間はかかったものの、比の出入国管理局からも「日本大使館」 からも力添えを頂けたのはそのためだと思う。 フィリピンでは、新日系二世の少なくない部分が日本生まれで、比での「出生証明書」 がないため、公立小学校も二年生までしか就学が認められない。日本へ帰ろうとしても、 比の「不法滞在者」だから、大変な金額の罰金を払わないと空港から出て行けなかった。 そうした罰金がやっと免除されて、日本に出発したジャピーノたちをつい先日、空港へ 見送った。彼らの笑顔は限りなく明るかったし、母親たちも心から喜んでくれた。今は、 いまだ幼いジャピーノの保護者・養育者として同行するフィリピン人の母親に対する査 証の問題に取り組んでいるが、近く必ず解決できると信じているのだ。 欧米諸国は「移民」問題に対して、早くからホンネとタテマエを駆使して取り組んでき た。「ドイツはトルコ人を」「イギリスはポーランド人を」「フランスはアルジェリア 人を」「アメリカ人はメキシコ人」を百万人以上の単位で移民・定住させ、自国の経済 発展を支えてきた。彼らという労働力なくしては自分の国が成り立たなくなっていたの である。 特にアメリカ政府は移民を過去五年間で七百九十万人も受け入れた。その内訳をみると、 メキシコから二百八十五万人、東アジアからは百十六万人という(NGO移民研究セン ター調べ)。しかも、驚くことに、その半数近い三百七十万人が不法移民だという。 最近、NHKテレビの特別番組、「ポーランド発∼イギリス行き」を見た。夫婦が給料 が四倍になるという話を聞いて、子供二人を祖母に預けて就労先のメドもないまま、バ スに乗る。ドーバー海峡トンネルを抜けて、イギリスのエジンバラ州へ行くのだ。収入 が40%アップでも心が動くのに、四倍となれば海外就労を辞さない心理は、フィリピ


ン人と同じく当然だ。まして、EU(ヨーロッパ連合)内では、ビザなしで自由に移動 できる。 日本でも看護師、介護福祉士、ホームヘルパー、在宅看護要因を始めとして、「早朝・ 深夜勤務の職種」「三交替制工場」「家事手伝い」などでは外国人労働力(ブラジル・ 比などの日系人、中国人など)に頼らなければ機能しなくなっている。この実態を政治 家も外務省、法務省も眼を見開いて、政治的対応と判断を即時、なすべき時機であろう。 即ち「移民の秩序ある自由化」である。 必要なのは、孟子の「性善説」に与してみることだ。米国では官民ともに、いくら厳し く密入国をとがめても、死を賭してくるメキシコ人を長大な国境線で侵入を防ぐことは 不可能だと承知している。そこで、いったん入国してしまった以上は仕方ないと、何年 か毎に特別査証や労働許可書(グリーンカード)を与え、合法的滞在者に組み入れてき た。 海に囲まれた日本は米国と事情が違うだろうが、「政治は仁慈をもって良しとする」で ある。殺人などの限られた刑法犯は別として、「在日中の比人全員に長期定住を認め」 てはどうだろう。そうすれば不法滞在中といわれる推定約十七万人のフィリピン人の生 活は安定する。安定すれば悪いこともしなくなる。何年か後には「環太平洋共同体」と いう時代が必ず来る。そういう長期的・必然的な事情を思えば、出入国関連法・民法な どの運用・適用には「温かい仁慈の心」が肝要ではないか。 海外の出先は「下々の事情」をよく理解している。ところが、現場から離れるにつれて 相互理解が難しくなるようだ。この点では日比両国政府ともに同じだ。ともあれ我々の 目下の課題は、日本生まれ・フィリピン育ちの新日系二世に対する比国での「出生証明 書取得の簡便化」、そして「公立小学校への入学承認」である。その先には、日本人の 血を受け継ぎながら、日比の国籍を喪失した「ジャピーノ」たちの救済と支援がある。 この人たちにはフィリピンでまともな職業に就けないという深刻な問題まで横たわって いる。

第 6 話 虚妄の「格差社会」論 私は日常の生活感覚から、在比邦人は千ペソ(約二千三百円)単位の生活を送り、貧し いフィリピン人は百ペソ単位の生活を送っていると考えていた。だから、フィリピン人 でもそれぐらいの現金はいつでもポケットに持ち歩いていると考えていたものだ。 ところが、毎日のように訪れる新日系人母子に面接していて、それが大きな間違いだと 気がついた。彼らの生活は十ペソ(約二十三円)を単位にして回っているとしか思えな いのだ。昼食にかける金は三十ペソが限度で、ジプニー代が要ると、昼食を抜くことす らある。ポケットに一センタボもないときさえもある。


そのフィリピンで、日本人の誰もが持っていないレベルの超豪邸に住み、召使の十人も 抱えて栄躍栄華の生活を享受する数少ない富裕層の人もいる。こういう社会こそ「格差 社会」というべきである。 イギリスの上流社会で、召使長として働く妻の妹は二十万ペソと同額の月給をもらう。 主人は自家用機で欧米を飛び回る仕事人間だそうだ。こういうイギリス社会も「格差社 会」と言えるだろう。 日本では何を勘違いしたのか、小泉首相の改革政治が「格差社会」を招き、貧乏人がさ らに貧乏に、金持ちがさらに金持ちになるように変えたという主張がある。こう説いて、 小泉改革を蔑視するのが野党の全般的風潮になっているようだ。しかし、アフリカとア メリカが同居するレベルの社会生活こそ「格差社会」というべきであって、日本にはあ てはまらない。 日本の野党政治家諸公は一度、「近くて遠い国」フィリピンへ来てみるとよい。十ペソ 単位で生活する社会がどんなものか見るだけで、今の日本が「暖衣飽食社会」以外の何 者でもないことに気付くだろう。そして日本が格差社会ではないことも分かるだろう。 日本は世界的に高く評価される「均等社会」を築き上げている。その事実を忘れ、格差 社会を政争のタネにする愚かさを、民主党、社民党、共産党は強く反省するべきだ。 世界的に信用されているギャラップの世論調査で、「過去一年間に自宅に十分な食料が なかったことがある」という回答がフィリピンは四六%で、世界で三番目だった。一位、 二位は五〇%超のアフリカのナイジェリアとカメルーンだ。日本ではわずか一%に過ぎ ない。 ここで私が言いたいのは、日本政府がフィリピンに一千億円近いODAを出すより、移 住・移民規制を緩め、日本で「職を与えるべき」だということだ。知恵の足りない野党 陣営は、外国人労働者の安い賃金が足を引っ張って日本人の賃上げを難しくするという 反省を試みるだろう。

ところが、日本では、3K職場で働く人がいなくなり、該当業

種の企業経営者は困りきっている。中小企業の味方を自称する共産党や社民党は、主張 とはまるきり逆の政策を唱導しているわけだ。 「困窮邦人」の最後をみとるのは例外なく「近所の貧しいフィリピン人」だ。こうした 邦人の親族に領事館が連絡すると、ほとんどの返事が「あいつには親族全員が散々迷惑 を受けた。遺骨にして海へでも流してくれ。遺骨の送還は断る」というものだ。世話し たフィリピン人に恥ずかしくなる。 心の豊かさは間違いなくフィリピン人の方が上だ。だから貧しいフィリピン人に自殺者 が非常に少なく、豊かといわれる日本が「自殺者大国」なのは、分かる気がする。「フ ィリピンのカトリック」 ろう。

「日本の仏教」の日常生活への食い込み方の差もあるだ


日本人社会は決して「格差社会」ではない。もっと正直に「小泉改革」を高く評価した い。公共投資予算のバラマキで不況から脱出しようとした従来の手法かを断ち切っただ けでも大したものだ。ただし、日本政府もフィリピンから「IT技術者」

「医師・看

護師」と良いとこ取りするだけでなく、介護士、ホームヘルパー、工場勤務者などを招 き入れてほしい。思い切って、百万人移民の長期対策を講じるべきだ。

第 7 話 日本人の「しきたり」 日本人ビジネスマンが手元で活用する「ダイアリー」のほとんどに、「大安」

「仏滅」

など「六耀」が記載され、それを見て結婚日、棟上式、開業日などを決めている。明治 維新後に「旧暦(太陰暦)」から、今の「新暦(太陽暦)」になるとともに「六耀」に よる吉凶が載った「暦中」が一切禁止されたが、100年建った今も「大安」

「仏滅」

などが消えることなく、実用されている。こういう「日本人のしきたり」について、 我々老人は若い世代に伝えてゆきたい。

「ハレ」と「ケ」 昔から日本人は、普通の日を「ケ(○)の日」と呼んでいた。これに対し、神社のお祭 りや寺の法会、節句、お盆、正月などの年中行事や冠婚葬祭を行う日を「ハレ(晴れ) の日」をして、単調な生活に変化とケジメをつけてきた。「ハレ」の時は日常から抜け 出して「晴れ着を着たり、赤飯や餅を食べ、酒を飲んで」祝った。 一方、「ケ」の日は「けがれ」を忌み嫌い、神に近い身体になるために禊ぎ(ミソギ) をする習俗が、今の「風呂好き」につながっている。「ハレ」や「ケ」という考え方も、 今ではもう一般的でなくなったが「晴れ着」

「晴れ姿」

「晴れ舞台」などの言葉に

残る。

大安吉日・先勝・仏滅 古代中国の《六耀》という考え方に「大安」

「仏滅」などがあり、三国志で有名な

「諸葛孔明」が、戦いで吉凶を占うのに利用したのが始まりといわれる。「先勝」は、 午前が良く午後が悪い。「友引」は、正午のみが凶。「先負」は、午前が悪くて午後が 良い。「仏滅」は、一日じゅう最凶の日。「大安」は一日中、良い日で大安吉日という。 「赤口」は、昼だけが吉。朝・夕は凶で災いに出会いやすい。日本人は今も特に大安の 日を吉日とし、仏滅の日の行動は避けるのが常識だ。 「女は33歳」、「男は42歳」が「大厄」と言われる。厄年は災難や不幸に出会うこ とが多い年齢を言う。一般的な厄年は、男が25、42、61歳。女は19、33、3 7歳だ。このうち男の42歳は「シニ(死に)」、女の33歳は「サンザン(散々)」


に通じるとして一生の中でも「大厄」とされ、前厄と後厄を合わせ、3年は続くとされ る。もともと平安時代の「陰陽道」の考えによるものだが、男女とも「更年期」になる と体調に大きな変動が生じ易く、社会的にも精神的負担が生じてき始め、これに類する 「陰陽道信仰」が未だに影響を与え続けている。これが今も神社・仏閣における「厄除 け祈願」や「おみくじ」にもつながる。

招き猫は? 猫が商売繁盛に結びつくのはなぜなのだろう?小料理屋や飲食店などに招き猫が飾られ るのはなぜ?浅草の駄菓子屋女主人が、夢に現れた「老猫」を飾り千客万来になったと いう伝説や、中国渡来の老飾り猫伝説に加えて、彦根藩主「井伊直孝」の「落雷災難逃 れ」の伝説などいろいろあるが、「右手で招く猫」は「金運」を招来し、「左手で招く 猫」は、「お客を呼び込む運」を招来すると言われる。NHKワールドテレビの「クー ルジャパン」で、外国人の若者の間に「招き猫」が日本の文化習俗として人気が高い。

鬼門とは? 日常的に「鬼門」(北東の方角)は「苦手」

「敬遠する」との意味で使われる。これ

はもともと、中国で都の北東にあった「度朔」(ドサク)という山にあった大きな桃の 木に、全ての死者の亡霊「万鬼」が集まることから、「鬼門」と呼ぶようになったので、 これが日本のように「方角禁忌」を含むものではなかった。 ところが、平安時代以降の日本では、北東の隅は鬼が行き来する方角だから「不吉なこ とが起きる」として忌避するようになった。そして北東の方角を「表鬼門」、南西の方 角を「裏鬼門」といい、日本人は今もこういう表・裏鬼門の方角には「玄関」「便所」 「風呂場」を造ることを忌み嫌う。そして、どうしても変えられない場合は、「鬼門除 け」として「鬼瓦」を屋根に乗せたり、敷地の北東に「鬼門堂」を建てたり、大規模な 場合には、「京のミヤコ」の北東に当たる比叡山に「延暦寺」を建てたり、「江戸城」 の北東に当たる東叡山に「寛永寺」を建てたりしてきた。

氏神と鎮守 今も昔も諺に「苦しい時の神頼み」という。地縁や血族が大事にされた時代には、一番 身近な「氏神様」に願いを託したものだ。フィリピンでは各「バランガイ(最小行政 区)」びある小さなカトリック教会がそれだろうか。氏神はその地の豪族一族の祖先を 祀った守護身だが、今ではこの守護神を祭る鎮守の宮(神社)にお参りすることが今も 習俗として日本の田舎に残る。


江戸時代の「神仏習合」や「本地垂○説」も、明治時代の「神仏混合思想禁止」にも影 響されず、「神道」と「仏教」が、日本では共に根強い宗教、文化、習俗として生き続 けている。そしてこれが「日本人のしきたり」として、定着してきた。(参考:飯倉晴 武編著

「日本人のしきたり」)

第 8 話 比人の骨が「千鳥ヶ淵」に? こういう大見出しの4ページ記事が、「週刊文春」(3月18日号)にスクープとして 掲載された。この中で私の名前が「元セブ日本会長」として出ているので、そのインタ ビューを受けた理由・目的を、このコラムを借りて補足しておきたい。これは定年退職 後にフィリピン大学セブ校で日本語教師としてボランティア活動をされた今は亡き知 友・セブ島駐留の元日本兵「阿久津稔」氏の遺言でもある。

「空援隊」というNPO 既に「週刊文春」誌上で公表されているから、本名のまま書き進める。今までに4回、 NPO法人「空援隊」の実質トップでありながら事務局長を名乗る「倉田宇山」氏と面 識はあるが、初対面では「ウサンくさい」という印象の記憶はない。だが、2005年 始めごろ、ミンダナオ島ゼネラルサントスに近い山中え「老日本兵」が見つかり、ゲリ ラに大金を払えば救出できるというウソ話を仕組んで、日本大使館やマスコミをだまし た悪名高い「浅川」(仮名)が、1年経ってホトボリが冷めたころ、セブ島に姿を現し た。そして倉田氏は浅川と行動を共にして「日本兵遺骨収集事業」にのめりこんだよう だ。 だからセブ島北部「イリハン村」で、トウモロコシに散乱した白骨の日本兵遺骨を既に 3トンも収集したと、自ら撮影したビデオ画像を見せながら、その信ぴょう性を当時の セブ駐在官領事に訴えていた。しかし、同席の私はイリハン村は何年も前から買い付け ている家具用「大理石・化石」の産地で、見せられた画面は、その化石の掘り出し現場 で、骨に見えるのは単なる「小円柱形、珊瑚礁のかけら」に過ぎず、「遺骨の発掘現場」 では決してないと話した。 加えて、イリハン村での「日比ゲリラ戦闘」など、どんな戦史記録文献にも載っておら ず、現地でも聞いたことがない。セブ島北部はダナオ市駐留の大西部隊第2中隊(稲本 中尉)の定期巡回地域に過ぎず、大規模戦闘など全くなかったと、日本軍を相手に闘っ た米比ゲリラ隊長クーシン米軍大佐の副官「セグーラ比軍少佐」(当時86歳)から私 自身が聞いた。 さらにセブ在住の元日本兵阿久津稔上等兵(見習士官)は、領事館での次回会合に同席 され同じような話を倉田氏にされている。倉田氏と会った時は、少々知名度の高い民社


党「A代議士」が一緒だった。そして私と阿久津氏の説明を静かに聞かれたA先生は 「初めてよく事情が分かりました」と、お帰りになった。以来「厚生労働省の未送還遺 骨情報収集事業」に関して、A先生の名前が出ることは全くなくなった。 詳しく事情を聞けば誰もが「オカシイ」と分かる話なのだ。3トンの遺骨とは、少なく ても3千人以上の戦死者分にもなる。翌日には西岸ドマンホグ港近くを掘れば折れ重な った遺骨の山がある。昨日はセブ空港前のウォーターフロントホテル庭先で遺骨をいっ たい見つけたなどと、支離滅裂な話ばかりだ。倉田氏は現地永住の日本人情報は信用せ ず、山奥のゲリラや古老から情報を得て行動し、宣誓供述書で確認させているからと仰 るが、全く逆だろう。

戦後64年、遺骨は土に 確かに、太平洋戦争中、激戦のフィリピンでは戦没者51万8千人のうち、昨年3月末 までに送還された遺骨は13万4500柱に過ぎず、戦後35年を経た80年代以降は、 年に数柱から100柱しか収集されていない。それが本当の姿なのだ。数字上ではいま だフィリピンに残された遺骨が、ダントツの「38万3500柱」にも上る。だから、 この膨大な戦没者に見合う遺骨が、フィリピン海上・陸上のどこかにあるはずだから、 日本政府の金を使って早急に探索し「千鳥ヶ淵・無名戦士の墓」に収骨するのが日本人 の義務だという空援隊の主張は、数字的には辻つまが合うように見える。 だが、戦後既に64年を経過して「遺骨は既に土に化した」という、物理学的冷厳な事 実が忘れられている。フィリピンはカトリック教を信じる「土葬習俗の国民」だ。だか ら死者の9割以上は土葬される。そして年中が夏の亜熱帯国家では、20年以内に遺骨 は自然に土と同化する。戦後のフィリピン墓地は、20年経てば多くは墓地賃貸契約を 更新して新しい地代を払わない限り、墓を掘り返して更地に戻し、次の新しい契約者に 渡る。 最近の墓地契約期間は10∼15年へと短縮され、一部はアパート型棺桶積層式墓地に なっているから、期限切れ旧墓地の何割かの遺骨は外に弾き出され、墓地の一角にある 「物置」に保管される。これが貧しい地方の墓地で「人間の骨など簡単に入手できる」 という悲しい事実の背景だ。 戦後十年か経ってから、火葬習俗の日本では「戦没者の遺骨収集は打ち切られた」と記 憶している。長年この「土葬」という慣習の熱帯に住む私の経験からしても、戦後半世 紀以上経過して「骨が土に同化してしまった」という冷厳な事実を認識すべきだと考え る。


役所はどうすべきか 1. 人骨か獣骨の区分はできるが、比人の骨か日本人の骨かという人種区分はDNA 鑑識でも出来ません。まして目視で見分ける方法などあるわけがない。 2. 役人は宣誓供述書を免罪符のように解釈利用しているが、貧しいフィリピン人は、 金を払えば直ぐにサインする人がほとんどだ。字が読めない人も田舎や山奥には 多い。 3. 厚生労働省の援護企画課長さん、倉田宇山氏から「役人が頼むから仕方なくやっ ている」とまで言われて、なぜやるのですか?

第 9 話 忘れてならぬ「戦争の歴史」 先日、マニラ空港で通りがかりに聞こえた若い日本女性の声に驚がくした。「ヘエ、日 本とアメリカが戦争したの?そして日本が負けたのね。初めて聞いた」という声だった。 そして今さらながら戦後日本の学校教育の恐ろしさを痛感した。この女性は太平洋戦争 でフィリピンに与えた日本軍の暴虐行為も知らぬままに、この国へバケーションで遊び に来たのだろうか。 太平洋戦争では、日本人にも忘れてはならぬ歴史上の事実と恨みがある。その第一は 「広島・長崎への原爆投下」だ。アメリカ側は戦争を早期に終結し、犠牲者を最小限に 食い止めるためだったなどの牽強付会(けんきょうふかい)も、一瞬のうちに総計約三 十万人が炎熱地獄の中で殺りくされた。しかもこれが赤ん坊から婦女子までの非戦闘員 に対する無差別攻撃だったから、ドイツの歴史教科書には「人類に残る最大の恥辱だ」 と書いている。 原爆投下のもつ犯罪性が忘れられて良いはずがない。この事実は今や友好国となってい るアメリカ人にも日本人にも痛烈な反省とともに伝えられるべきことなのだ。 第二は千九四五年八月八日、ソビエト・ロシアが「旧ソ中立条約」を一方的に破棄して、 中国・旧満州地方にいた日本の軍民に攻撃を仕掛けて、多数の婦女子に暴行陵辱の限り を尽くした。このため赤ん坊や子供が取り残されて悲惨この上ない「中国残留孤児」問 題を引き起こした。さらにソビエト・ロシアは独裁者スターリンの命令で日本の軍人、 民間人約六十万人を抑留し、まともな食料も与えず酷寒のシベリアで強制労働に従事さ せて、六万人が飢えと寒さで殺された。 第三には、「極東国際軍事裁判」という違法性、不当性の高い裁判で、わが日本人戦犯 を「勝者が敗者を勝手に裁いた」という事実は、既に世界中で認められているのに、中 国だけが「戦犯者が靖国神社に祭られて、そこへ小泉首相が毎年お参りに行く」と、い ちゃもんをつけている。「仮に罪人でも、死ねば仏様」という日本人の死生観と「罪人 が池に落ちたら、死ぬまでたたいて殺せ」という中国人の死生観の違いだから、これは


なんとしても「小泉純一郎首相」に、中国の理不尽を撥ねつけて欲しい。さらには東南 アジア、中国などでは、数々のでっち上げ裁判(B・C級戦犯裁判)が行われて、被害 者たちは正当な法的手続きもなく犯罪者に仕立て上げられ、衆人環視のなかで処刑され た。これら異郷の地に、悲涙をのんで殺害された幾千の同胞の無念も忘れてはならない。 こういうB・C級戦犯裁判では、同姓だったために誤認されて、比国で絞首刑となった 兵隊もいた。 わが国の検定教科書を見ると、まるで対戦中、連合国側の敵性分子が作った教科書のよ うであり、扶桑社の「新らしい歴史教科書」ですらまだまだ言い足りない感じがする。 すべて、共産党と日教組と朝日新聞が作った「歴史をねじ曲げた教科書」のせいだ。わ れわれ七十歳代の人間は太平洋戦争の真実を、肌で感じて知ってきた人間たちだ。以上 に述べた歴史の真実を生きている間に、何としても後世に伝えたくて筆をとっている。 ところが、今の若い人から意外な事実を聞いた。歴史の時間が簡単に他の授業に振り替 えられたり、とうとう明治時代あたりで時間切れとなり、現代史の大正・昭和時代は時 間が足りなくて「打ち切り」というのだ。心ある先生の意思が日教組の方針に反発して、 授業を遅らせてきたのか、は分からないが、教科書採否の権限をもつ地方教育委員会の 究明と奮起を望みたい。さもないと太平洋戦争が起きたかも知らない若者を作ることに なる。これからの「新しい歴史教科書」は時代の順序を逆さにして「現代から初めて、 近代、江戸時代、戦国時代、鎌倉時代、平安時代、を経て縄文期へ」と遡(さかおぼ) ったらどうだろう。仮に縄文期・弥生期から神話時代の知識の習得がなくても、何とか なるのではなかろうか。肝心な江戸時代、明治・大正時代、昭和時代を逃してはいけな い。

第 10 話 日本の「外国人受け入れ」 看護師・介護士の外国人受け入れについては、「経済連携協定(EPA)」により、2 008年度インドネシアから、09年度フィリピンから各一千人枠での受け入れが始ま っている。だが、10年度日本側受け入れ医療法人からの求人はインドネシア人で15 5人、又フィリピン人側求職者は357人と、何れも計画を大幅に下回っている。だが 実態は日本の求人側も外国人の求職側も、もっともっと多くて一千人どころではない。 なぜ日本側と外国人側がマッチしないのか。 日本経済新聞(3月7日付)で「外国人受け入れ後押し」と、1面大見出しで「日本政 府の新しい方針」を報道している。だが、まだ厚労省では「日本語試験をやさしくする 方法」に反対する意見も根強いという。日常、新日系人母子の就学・就労支援に取り組 む立場もあり、直言・提言を申し上げたい。


なぜ求人が少ないか インドネシア人の場合、08年に受け入れてはみたものの「日本語の壁」が余りにも厚 く、会話が通じないのにこりた病院・養護老人ホームが多かった。人手不足を補うため に外国人介護ヘルパーを採用したはずが、彼女らを教えるための言葉の壁と時間から、 クタクタになってしまった先輩日本人に新戦力であるはずの外国人の存在が重くのしか かったようだ。そこへ「イスラム教徒の慣習」が馴染まない。そして今年の求人が7割 も減ってしまった。ホンネは「もう要らない」という。 フィリピン人の場合は、生来の明るい性格からか昨年に比較して、求人は5割減に留ま っている。そして、一番の問題はやはり「日本語の壁」。アジアで唯一の英語圏フィリ ピンの大学で学んだ彼らの第一希望は「英語圏」なのだ。更に看護師・介護士は世界中 から引く手あまたという需給関係を認識すべきだ。 こういう外的な人材派遣需給の関係をよく承知して対応策を考えないと「あぶはち取ら ず」になってしまう。米国、カナダ、英国などの英語圏諸国は英語での試験を、自分の 国の組織団体が自らマニラで採用試験を行っている。そして合格すれば即ビザが与えら れて出国し勿論就職先も決まっている。日本の場合は3∼4年経って日本語による「看 護師試験」や「介護福祉士試験」を受験して、不合格ならそのまま「どうぞ比国にお帰 り」となる。日本行きは「長期滞在者・移民としての職が保障されないままに、渡航を 余儀なくされる」のだから、考えるまでもなく「日本ではなくカナダへ行く」。カナダ なら2年働いた実績さえあれば「永住ビザ」がもらえるのだから。日本の養護老人ホー ムや医療病院でも、当然投資資金の回収を図るから、3年や4年でまず間違いなく帰国 する人を相手にするよりは、永住を希望する相手を探す。

なぜ求職が少ないか 外国人の日本語能力が足りなさ過ぎる日本に着いてから6ヶ月間の缶詰授業だけでは、 老人相手の日常会話でも覚味ない。教える立場の先輩としては、介護士ヘルパーとして 役に立つどころか、足手まといの場合が多い。日本へ着いてから6ヶ月間だけの日本語 会話教育では甚だしく見劣りする。SNNでは求人を円滑化させるために「日本語能力 検定」3級をメドに引き上げるべく、卒業終了時間を延長する準備に入った。 だが、その就学勉強を日本で行うことは、受け入れ機関(病院など)としてコスト的に 不可能だ。特養老人ホームの場合、現行一人当たり60万円にも達する派遣諸掛費用と 日本語研修費用予算は高くて余裕がない。


どうすればよい 既に検討課題に入っているらしいが、1来日前の日本語研修の充実似2介護試験は年2 回に増やす3電子辞書の持ち込みを認める4難しい漢字(○創など)にはフリガナを付 けるーなどは今まで、そうでなかったことがおかしい。即時実行すべきものだ。 だが、こういう問題は基本的に自由化して官の束縛を切り離せば早い。「民族間労働力 移動」の人員数に、一定の枠を決めた上で「単純就労」を認めて行けばよい。米国での メキシコ人、ドイツでのトルコ人、英国でのポーランド人など。数百万人単位の労働者 移民がなかったら、先進工業国家として成り立っていない。

第 11 話 日本の「払わん族」 海外にいる「ニッポン人」は日本にいた当時よりも「日本国」「日本人」を強く意識す るようになる。ところが最近、日本の新聞やテレビ・ラジオから聞こえてくる話では、 日本では「学校給食費払わん」「NHK受信料払わん」「救急車代払わん」という人が 増えているそうだ。別に「金がなくて払わん」という訳ではないらしいから、われわれ には理解できない。 彼ら「払わん族」の言い分は「義務教育で小学校へ行っているのだから国が払え」「N HKは気に食わないから見ない。だから払う必要はない」「救急車が空いていたから、 タクシー代わりに利用しただけ救急車は元々タダだ」 われわれ海外在住者ニッポン人や外国人から見れば全く「理解できない論理」だ。「ア ホなオヤジもいるものだ」で済ませたいところだが、そうも行かない。「オンナは子供 を生む機械」といったレベルの大臣がいるのだからこその論理だとも見えてくる。こう いう理屈をこねる人は柳沢大臣のように思い上がった人物が多い。 理屈は単純明快でないと他人の理解は得られないものだ。親が「給食費を払わない」と いうなら、「子供に義務教育を受けさせない」「自分で自分が教育する」とか、「給食 費を払わないから弁当を持ってゆけ」「金がないから昼食を抜いてくれ」のいずれかに すれば良い。フィリピンの新日系人(ジャピーノ)の場合、親が「お金がないから昼食 を抜け」と言い、子供は校庭の隅か校舎の階段にひざをかかえて座り込んだ例がある。 オヤジが「NHKの受信料は払わん」と言う一方、家族がこっそり見ているズルイ家庭 では、子供にウソを教えていることになる。これでは親の資格はなく、子供が成長すれ ば「悪徳商人」「詐欺師」になるほかないだろう。日本政府もNHK受信料を税金にし て徴収するか、独立の国営財団法人にして強制徴収すれば良い。われわれ海外に住むニ ッポン人はケーブルテレビを通じてNHKを有料で見るほかないのだ。 さて、最後に残った「救急車代払わん」というのは「救急車をタクシー代わりに使う」 というアホがいるという話だ。行く先は病院なのだが、救急センターではなく普通の窓


口へクスリを受け取りに行ったりするだけなのだ。ごく一部の日本人のことだろうが、 ここまでアホになったかと嘆かわしいかぎり。言い分は「税金を払っているから公共機 関はタダで利用して何が悪い」らしい。開発途上国フィリピンでは救急車を呼べば支払 いが伴うことは常識だ。「救命救急センター」に急いで運ぶ時以外に、救急車は頼まな いという「世界の常識」を、日本でもちょっと広報しておけば済むことではないか。 最近の日本の新聞で感じることだが、「民衆の声」と称する声の大きな人が、「世論」 と称して大声で勝手なことを叫ぶ傾向が強いような気がする。ともあれ、フィリピンの みならず外国の常識では考えられないレベルの非常識が、「愛する祖国・日本」で多発 することに驚かされる日が多くなった。 話は代わるが、韓国の○武○大統領と比のアロヨ大統領とは、マスコミと対立する姿が 重なって見えるようになってきた。韓国の○武○大統領最大の失敗は「新聞との対立」 といわれる。朝鮮日報、中央日報、東亜日報、という大手三紙を「守旧権力」として、 眼の敵にして非難し続けてきたという。韓国のマスコミの「扇動的体質」にはわれわれ 日本人もずいぶん迷惑してきたが、大統領自ら「大統領府広報ページ」で編集長を務め てみても、マスコミとの対決などは無理と言うものだ。恐らく孤立したまま残る任期一 年を終えるだけだろう。 片や、フィリピンでは五月の国会選挙を控えてアロヨ大統領がマスコミの突っ込みを嫌 い、閉じこもる傾向にあるといわれる。特に「髪結いの亭主」的な存在の夫、ホセミゲ ル・アロヨ氏の不正行為を云々(うんぬん)されることが何とも気分が重いらしい。だ からそのような話題になると「殿ご乱心」で、激怒して記者会見を一方的に中断したり することが多い。こうしたことの揚げ句、「日比経済連携協定(EPA)」の批准は 「死に体」となったまま七月以降の次期国会に持ち越されてしまった。 戦後に「日比通商航海条約」が上院で十二年も棚上げされ、ようやくマルコス大統領の 「戒厳令」という強行突破政策で批准されたという苦い経験があった。その後も一向に 反省した気配はない。フィリピンの経済発展を大きく遅らせ、「アジアの病人」

「ア

セアンのどん尻」といわれるまでに成り下がった大失敗をマタマタ繰り返すようだ。 中国の古書にも言う。「牝鶏ときを告げる」のは天下災いのもととか。


第 8 章 「新日系人(ジャッピーノ)二世」高齢化・ 人口減少時代の救い手

あどけない棄民たち 新聞や本で日比結婚が取りざたされることが多くなったこのごろだが、真相を突いたも のが少なく、読者の興味だけを意識した読み物が多すぎるようだ。 二〇〇四年の日本政府(厚生労働省)人口動態調査では、過去十三年間の日比結婚が九 万九十三組あり、夫婦の間に生まれた日比混血児は六万三百人だ。しかし、この数字は 日本国籍を持つ子供だけ。別に比国籍の日比混血児が推定六ー七万人というから、合計 すれば日比混血児は十二万人以上になるだろう。また、同じ期間中の離婚は三万百二十 九組あり、離婚率は三三%に達する。フィリピンでは正式な結婚手続きをしながら、日 本の市役所や町役場に結婚届を出さない人が結構いて、これは日本の統計に表れない。 これを含めれば、「内縁解消を入れた実質破婚者」は恐らく五〇%超すと推定される。 人生は「イロイロ」、考え方は十人十色だから結婚の破綻についてとやかく言っても仕 方ないが、その結果、「罪もない日比混血児(新日系人)」が比人の母と一緒にフィリ ピンの極貧の底で苦しみもがく。わが子を異国に棄(す)て去った「冷酷な」同朋がた くさんいるとは信じたくないが、事実なのだ。「日本人の離婚棄民」が今や十万人を超 すというのは悲しくも空しい。その実相を在留邦人や故国に住む人々に訴えて救援した いと思う。 二十年以上も昔、敗戦でダバオから本国へ強制送還された日本人を、NHKテレビが 「熱帯の棄民たち」として報道した。戦争による「国の犠牲者」として取り上げられた ものだが、この番組の力もあって、後に「日系人会」の結成と支援につながった。日本 政府の支援も得て、今日、七ー八千人ともいう日系人が父祖の国、日本で働くようにも なった。 だが、今の「離婚棄民」は、日本人の男が自らの意思で結婚し、子供をもうけ、挙句に 棄てた「罪なき子供たち」だ。すぐに国に責任を問える事柄ではない。せいぜいが新日 系人の実態調査ぐらいだろう。 ただ、結婚後数年で離婚し、子供を見捨てて帰国するという無責任な姿をあまりにも見 受ける。同朋として恥ずかしい思いが捨てきれない。棄てられた子供がいかにもかわい そうだ。


最近、私が有志と一緒に立ち上げた「SNN新日系人ネットワーク・セブ」(NGO) には、日比混血児を連れた比人女性が相談に訪れる。そこで意外だったのが、これらの 混血児の多くが「日本国籍を持ち、日本の戸籍に記載されており、中には期限切れなが ら旅券も持っている」ことだった。そこまでしながら、夫であり父である日本人とは数 年来、音信普通で行方が分からないというのだから驚く。もちろん、養育費や学費を送 って来るまともな父もいる。 離婚に至った原因を聞けば、「コミュニケーションができない」

「就職先がない」

「金がなくなった」ということだから、要は金に詰まって単身帰国という例が多いのだ。 また、片言の日本語でやり取りするだけだから、微妙なニュアンスが互いに伝わらない。 イライラが高じて拳骨を見舞い、互いに引っ込みがつかなくなってしまう。 何も日本人父だけが悪いわけでもない。年齢のギャップなどから比人妻が男をつくって 逃げたとか、妻がシャブなど違法薬物に溺れてどうにもならないという例なども増えて いる。また比人妻の側で、「日本人は金持ち」といういわれのないうわさを信じて夫に 過大な収入を期待し、予想が外れて破婚という例も多いようだ。 ともあれ離婚の数字が示唆するのは、元々結婚すべきでないカップルが結婚したという ことだろう。比人妻がホームシックで帰国してしまい、やむなく亭主が妻を追って比国 へ来たというケースも少なくない。英語もフィリピノ語もできないから就職先はないし、 困窮して日本へ逃げ戻り姿をくらます。こういう人には「言葉を覚えよう」

「生活を

築き上げよう」という強い意志が乏しい。 時々、何でこんな男たちのしりぬぐいをしなければならないのかとがっくりする。しか し、相談に来た子供の笑顔や悲しそうな顔を見ると何とかしたいと奮起するのである。 米国では海外基地問題に付随している「アメラシアン混血児」への対策として「パール バック基金」(NGO)がサポートしている。アメラシアンは往々にして売・買春の結 果で、父親がさだかでないから、新日系人とは本質的に全く違う。しかし、日本人の間 にも、不幸な男女関係で生まれた混血児たちを支援する強力な組織があってもよいと思 う。 北米や北欧向けに「メールオーダー花嫁」をあっ旋するインターネットもあるという。 需要があるから供給があるともいえるが、破婚で子どもが「棄民」になるようなことが なくなるよう祈るばかりだ。


パパ助けて 最近、こういう相談を受けた。相談者はわずか十一歳の少女だった。近所のおばさんに 連れられ、ミンダナオ島スリガオ州の田舎から来たのだ。ラジオ放送で「日比混血二世 をヘルプする」と聞いたという。 少女の父は日本人で、八歳と五歳の妹が二人いる。以前、父と母はセブでダイビング・ ショップを経営していた。最初の五年間は結構裕福な暮らしをしていたようだが、段々、 仕事がうまく行かなくなり、六年前には倒産したらしい。 父は逃げるように帰国して母とも離婚した。三年前には送金も途絶えたという。母はや むなくペンパルのイギリス人と結婚し、英国ロンドン郊外の「ミドルスプロウ」という ところへ渡った。 義父はとても良い人で、比人妻の日比混血児三人を連れ子として引き取ってくれた。姉 妹は叔母に連れられて英国の母の元に渡った。ところが運命のいたずらか、まもなく母 が乳がんを発病し、わかった時は第四期で死の床に就いてしまった。しかも、妊娠が判 明して、イギリス人との間に未熟児(男)を帝王切開で誕生させた。 母の死がやってきた。必死で頼む妻のか細い声を聞き取った夫は、日本人の前夫から国 際電話がかかるようアレンジした。母は毎日、首を長くして待っていたらしい。ようや く、待ち望んだ日本人夫からの電話が入ると、母は涙を流しながら何事かを話していた が、やがてニッコリして電話を切った。そして、数時間後に息を引き取ったのである。 少女には、母が日本人の実父と何を話し合ったのか言葉が分からなかった。しかし、 「私たち姉妹三人の養育費を頼み、引き受けてもらったような気がする」と幼いなりに 推察している。 この物語を十一歳の少女が流暢な英語で、涙も流さずに話してくれた。聞いている私の 方が、何度も声を詰まらせてしまった。本当に賢い少女だ。しっかりしている。 話は続いた。英国からフィリピンへ帰国する旅は幼い三姉妹と母の遺体だけだった。相 談しに来た長女は、しっかりしているといっても十一歳である。よくもたった八歳と五 歳の妹を連れて長旅を続けたものだ。さぞ、さびしく心細いことだったろう。義父は 「自分も貧しいし、勤めがあるから一緒に行けないが、航空会社と良く話をしてあり、 費用は全部払ったから心配するな」と空港で別れ際に話したそうだ。母は同じ飛行機に 乗っていはいても、貨物室の中の冷凍されたひつぎの中である。本当によく頑張ったも のだ。泣けてしまった。


気丈な十一歳の娘は母の故郷に帰ってから、日本の父に電話をかけた。「ダディー、マ ミーはイングランドで亡くなったの。遺体と一緒にフィリピンへ帰ってきたわ。お金が ないから助けて」。 そう訴えたそうだ。だが父の答えは「パパも再婚していて、お金がない。お前も一人で 生きなさい。日本人なら、十歳を超したら一人で生きるものだ。もう家には電話はしな いでくれ。今の妻が怒るから」ということだった。しばらく後で母の残した銀行口座に 送られてきたのは一万円だった。 はっきり言うしかない。この日本人の父は幼い実の娘三人をフィリピンに棄てたのであ る。私はこの情けない日本人と比較し、イギリス人の義父のそれなりの良識ある判断と 立派さを想った。 私は少女に、「必ず父親の住所を探してあげる。父親への手紙を書きなさい」と薦めた。 少女は、父は日本語とタガログ語しか分からないからと言って、タガログ語で、それは きれいな字で手紙をしたためた。 「ダディー、元気ですか?私は死んだマミーと二人の妹と一緒にフィリピンへ帰りまし た。今はお金がなくなり、毎日のご飯が食べられないのです。それでもロラ(おばあち ゃん)がご飯を作ってくれます。でも、ロラも年のせいか元気がありません。叔母さん が私だけを引き取り、学校へも行かせてくれてるという話があります。下の妹二人と分 かれるのだけは絶対に嫌です。ダディー、どうか助けてください。早く会いたいです。」 話を聞いた私たちは少女にこう尋ねた。「今何を一番期待するのかい?」私は日本で働 きたいです。そうすればロラも下の二人の妹も毎日ご飯が食べられますから」 ウーンとうなるしかなかった。「十八歳以下では日本では働けないんだよネ」「それな らヤヤ(子守り)なら良いでしょう」「当面はセブでなんとかするから心配しないよう に」。そう言って帰したのだが … 日本のお父さん、お願いだから子供を棄てないでく ださい。

もう一つの「国籍喪失」 本紙が「国籍喪失」というタイトルで、出生期限3ヶ月が過ぎて「日本国籍を喪失した 新日系人2世」たち4人(首都圏在住) が、東京地裁に「国籍法12条」の違憲性を問う裁判を起こしたと報道した。誠に結構 なアクションだと、私も評価する。だが、今回の提訴はマニラ首都圏に住む日本人父が、 その日比混血の子どもの将来を考えた上での行動だ。こういう2世や比人母は、日本人 父と共に暮らしており毎日が安穏な家庭だろう。 半面、圧倒的多数の新日系人母子には父親がいないという現実を忘れないでほしい。裁 判で最高裁の「勝訴判決」を得るには高裁を経て、早くても5年から7年はかかろう。


だが、父が子を棄てて行方不明という大多数は、すぐにでも「子は就労し、母は就労し て子を養育しなければ飢える」という悲しい現実が、目の前にある。

父のいない2世たち より大きな問題は子供の養育責任を放棄して逃げ、行方不明のまま知らんプリの日本人 父の方が人数でははるかに多く、中には「親権」を戸籍上に残したまま逃亡中の日本人 父もいる。「三食もママならない貧窮のドン底に母と共に沈んだまま」という子供が何 千、何万人もいる。母親には裁判を起こす費用も知識もない人が多い。かたや国籍取得 が可能な期限「満20歳」は年々追っかけてくる。 私たち非営利法人「新日系人ネットワーク(SNN)」は、「国籍『再』取得」の日本 における申請を実質的に行うべく、子供の「日本における就学と養育」を可能にするた め、比人母に定住査証(1年)を現行法の枠内で可能にするべく外務省・大使館と法務 省・入管局と話し合い、既に数十人の母子を日本に送り出し「子は学校へ、母は養育の ため定住就労」させている。 これにはもちろん、難しい身元保証人・引受先企業の選別、戸籍謄本の取得など、クリ アすべき課題が余りに多く、法的な知識経験が豊富な日本人管理職・職員でないと対応 がはなはだ困難だ。まして「日本語はしゃべれるが、読み書きはできない」という比人 観光通訳のレベルでは、まったく使い物にならない。 だから創業時のマネージメントにいた比人職員は辞めさせ、今では上級職員のすべてが 日本人だ。だが、私が83歳でこういう支援ボランティアを無給でしていてさえも、新 日系人2世の子供を「隠れ蓑(みの)」にして、その母フィリピーナを送り出す「プロ モーター」じゃないか?と陰口をたたく人がいて、開いた口がふさがらない。 元エンターテイナーだった彼女らも母となり三十数歳を過ぎれば、もう比でも1日80 ペソの「洗濯婦」しか働き口はない。日本でのエンターテイナーは夢のまた夢だし、再 び男で失敗はしないと骨身に染みているようだ。

貧乏人OK・嘘つきNO 深くお互いに信頼し合っている「特別養護老人ホーム」から、珍しく痛烈なお叱りをい ただいたが、一言もなかった。就労先での受け入れは「『貧乏育ち』は構わん。承知の 上だ。だが『嘘(うそ)つき』は二度と要らん」と痛烈だ。直接電話を受けた専務は茫 然自失の態だ。1人の母が「元の夫は逃げて行方不明」と、長い間言っていた。子供と 2人でこの老人養護施設の寮に住み、子は小学校へ、母は介護ヘルパーとして働いてい た。勤務成績も良いから「母子手当」の申請を県に出し、受給が決まった直後、県庁が 彼女の銀行口座を精査したら、数年前に別れたはずの元夫から毎月「お手当」の振り込


みがあるということがバレた。県当局からかねて高い評価を得ていた養護老人ホームだ けに、恥ずかしくて県庁に顔向けもできないとおっしゃる。当たり前だ。ここで出た言 葉が「フィリピン・ジャピーノ母子が極貧社会に住み育ったことは承知の上。だが『夫 は行方不明数年』と嘘をついて、ウラで毎月元夫から数万円をむしり取り、さらに母子 手当てをシャアシャアと申請した神経が許せない。クビだ。SNNでも『脇を締め直し、 一段と選別を厳しくしろ』」と怒られた。恥ずかしい限りだ。

ウソを見破る方法は? どうしてこの種の嘘を見破れるのだろうか?自分に好都合なことは、平気で嘘をつくの が一般的比人気質で、一向に謝まる気配はない。だからすぐ解雇したいがまだ借金が残 っている。どうも「元ジャパゆき」彼女らが、お金のために必死でついた嘘を見破るス ベは本当のところ無いに等しい。こんな「新日系人2世と元エンターテイナーの救済支 援などやめてしまえ」と短絡してしまいそうだ。ただ、父の国「日本」へ行けると喜ん でくれる子の顔を見るとうれしくなる。 それにつけても正直なところ「日本人夫」

「比人妻」、どっちもドッチで嘘をつく。

夫にも妻にも双方に離婚の責任はある。一方的に日本政府を口汚くののしらない方が、 結局、コトは早く進むと私は思う。ただ一つ「国際化・人口少子化時代」を踏まえて、 「民法」

「国籍法」の全面見直しを行う「民法・国籍法改正審議会」をこそ、1日も

早くスタートさせるべき時代が、目前に来ている。 比は隣のインドネシアを見れば良い。大統領がスカルノ初代大統領の娘から「ユドヨノ 大統領」に代わっただけで、政治を安定させ、経済は東南アジア諸国連合(ASEAN) 主要6ヵ国のドンジリから比を抜いてその上にあがった。比も「血縁社会から脱却した 大統領の交代」だけですべてが変わる。今までのように俳優の人気投票と同じ感覚の大 統領選びでは、この国は永遠に救われまい。

国籍「再」取得のイライラ 「国籍十二条被害者の会」というNGO団体がある。「マニラシルバー会」(石山博美 会長)が運営されている。その目的は「婚外子(非嫡出子)が外国で生まれたら三ヶ月 以内に大使館に『出生届』を出して、日本国籍を留保する意思を表示しなければ、その 出世時にさかのぼって日本国籍を失う」(国籍法十二条)という問題がある。 分かりやすく言えば、本妻の子が愛人の子より不利で不均衡・差別があり、この「国籍 喪失制度」は極めて非人道的だと訴えるものだ。私も同感だが、こういう論議は、弁護 士を使い裁判所が関与して、大変な時間がかかる。だがこれは緊急を要するから大問題 なのだ。


満二十歳でダメ 多くのフィリピン在住「新日系人二世」が、間もなく満二十歳になり「国籍取得の機会 を永久に失う」という局面に立たされている。「三ヶ月出生届が遅れただけで、国籍取 得の権利を奪う」という国籍法自体に問題があるから、法律でも、その救済策として 「日本国内に六ヶ月以上在住したら『国籍再取得の申請』ができる」という。 だがこの申請期間中は「就労できない」という規制もある。だからわれわれ「SNN」 は「身元保証人」が、国籍再取得申請のため日本に滞在する母子に、一6月の滞在生活 費を保証する

二再取得申請を行う弁護士等の法的支援の実行を保証する

得が認められた後の就労先を保障する

三国籍再取

四実子の就学と養育に必要なカウンセリングを

行うーという四項目を保証するという条件で、外務省(大使館)に申請したが、今もま だ法務省(入管)と話し合い中だ。 愛人の子(婚外子)は比国にいたままで申請でき承認も得られるのに、本妻の子(婚内 子)の方が逆に不利なのだからおかしい。だが、今の法律の枠内で通達や規則の解釈を 人道的観点からみて対処してほしい。

なぜ出生届が遅れる お役所では日本人父の怠慢と比人母の無知が原因だという。だが、違うのだ。だから、 シルバー会のご老人がたも怒るのだ。彼らは自らが新日系二世(ジャピーノ)の父であ り、何十年も比で住み、家族を持つ在留邦人の方々だ。 三ヶ月という届け出期間に間に合わなかった原因は、 1. 比政府(NSO)の出生証明書発行が事務能力(コンピューター不足)が原因で 地域により半年から1年かかる 2. NSOでのスペルの間違いなどの訂正だけで三ヶ月かかる 3. 外国人同士なので相手国の法的知識の欠如が拍車をかける 4. うっかりミスーなどなど。こういう事情を踏まえたJFCというNGOが、裁判 で国籍再取得に至った判例があることにも留意しながらSNNは申請している。

家族崩壊をもたらす 国籍が長男は「日本」、次男は「比国」長女は「比国」などだ。理由は長男は日本で生 まれて出生届を出した。 それから慌てて正式婚姻届を出したが、間もなく夫婦は比へ移住して次男と長女を産ん だのだ。次男のNSOの出生証明書発行が遅れて三ヶ月期限に間に合わず受理を拒否さ


れ、次の長女の手続きは止めてしまったという。(ある時期からNSOの出生証明書で はなく、市役所のシビル・レジスター・オフィス発行でも受理してくれるようになって いるが、あまり知られていない)さらには意外と「認知」を求める婚外子は少なく、逆 に「国籍再取得」を求める婚内子が多いのに驚かされる。 同じ父母の間に生まれながら、兄弟姉妹の国籍がバラバラでは円満な家庭にヒビが入り かねない。まして日本へ就学ができる子と、比で育つほかない子との格差が、年ととも に目立つようになれば、悲劇も生まれる。

困窮邦人の保護策 われわれSNNの活動が評価されてくるにつれ、意外な事実が表面化してきた。外国で の暮らしは意外に難しく、行き詰まった揚げ句の「困窮日本老人」が何百人もいる。 彼らには意外に円満な家庭も多く、子女が十六歳以上の働ける年齢にあるケースもある。 こういう家庭の場合、母と子が日本へ行って働き、年老いた父を助けたいというけなげ な子も多い。 彼らは日本での生活を経験したら間違いなく「永住希望」になり、父を呼ぶだろう。何 としてでも日本人にも開いてほしい。比では「アロヨ大統領への直訴」を成功させた私 の経験から、日本でも「法務大臣」(入国管理局)への直訴を成功させて「新日系人二 世」の自立を助けていただきたい。

自分の思い、他人も理解 私たち昭和一ケタ世代の男は「やたら笑顔は見せない」 「人前で涙を見せない」

「喜怒哀楽を表さない」

「黙っていてもお茶は出てくる」

「家事はしない」を、良

しとして育ったものだ。 だからプロ野球の「楽天」野村監督が、一五〇〇勝を挙げた後で笑顔一つ見せず、「ブ ツブツと何かつぶやいていただけ」というテレビ報道を見ても、別に何の違和感も感じ なかった。 だが今はうれし泣きするか、感激した笑顔は見せるものだそうだ。そうすれば「他人も 自分の苦労を分かってくれるだろう」という甘い前提があるからというが、昔人間は 「自分の気持ちなど、相手に分かるわけはない」と思っている。外国に住むわれわれは 日常の生活や仕事でいや応なくフィリピン流も経験しているが「日本人の自分を、比人 の他人に理解させる」ことは、容易ではない。そして結局、「あきらめて離婚し、子を 捨てる人」が半分にもなるからホント悲しい。


解雇されて逆恨み 新日系人ネットワーク(SNN)で昨年、女性社員の一人を解雇した。勤務中、日本人 上司が不在の事務所で、部下の女性社員を「殴った」からだ。 「自分は不可欠の人材で解雇はされない」と勝手に思い上がって、衆目の中で相手の女 性を殴ったのだから、問答無用「懲戒解雇」され、殴られた女性社員が診断書を添えて 告訴している。だが、これを逆恨みした元女性社員はマスコミ・関係官庁などにSNN を誹謗(ひぼう)するブラックメールを送りつけたが、どこも相手にしなかった。ただ 一人が、この誹謗を取り上げ、SNNへ取材に来た。 「事務所の中で殴り合うような者の言い分は、相手にしないで放っておいてくれ」と言 ったが、今も釈然としていないようだ。ただ、われわれSNNだけが「日本人の子供に 日本で教育を受けさせ、その子の養育を母が自らするために、定住査証を取らせ、仕事 先も紹介するという、難しい道をあえて探しながら支援している」と、誰もが承知して いる。

人前で見せる涙 剣道・柔道にのめり込んだ私たちの世代では「男はつらくても苦しくても、人前では泣 くな」と、くどく教えられた。だから人前では極力感情を抑えていた。だが七十歳を過 ぎると、感情を抑えることが難しく涙もろくなり「嗚咽(おえつ)が抑えきれない」と きもある。悲しいときではなく、うれしいときにそうなる。 あるテレビ局の取材で「お涙ちょうだい」を、デスクが嫌うからと聞いてはいたが、子 供の笑顔に涙声を抑え切れなかった私は、このシーンをカットされた。だが、自然な人 間感情の吐露は仕方がないのではなかろうか。

3年ぶりの日本で直訴 脳腫瘍の手術以来、三年ぶりに日本へ一週間の業務出張をしていた。超割引料金(飲み 物・軽食は有料)のセブ・パシフィック便で「セブーマニラー関空」の往復切符を買い、 日本で立ち寄った場所は桑名(郷里)・岐阜・名古屋・横浜・東京・大阪ーと駆け足だ った。 八十二歳の「老人一人旅」は、皆さんを驚かしたようだ。それにしても、乗り換えの地 下鉄が通路がこんなに複雑で長いとは、今にして気がついた。 また二十年も前にホテル名が変わったことも知らず、タクシーが高いから、ウロウロと 迷い歩いた。東京での主目的は、千代田区霞が関にあるレンガ造りの法務省「法務大臣


室」に、直訴する案件だったからだ。詳しい内容はしばらく遠慮したい。「自分の気持 ちが他人に分かるわけがない」と最近いろいろ感じるからだ。だが、法務大臣に直訴し た目的は「十分達成された」とだけは言える。 「三重県・同郷」というだけでご信頼いただき、紹介の労をお取り願ったN会長には感 謝の言葉もない。 最近思うことだが、黙然と一人で想いにふける私のような世代が死に絶えれば、後はも っとあけすけな世界だけになって風通しが良くなるという期待もできる半面、陰影のな い人間だけが闊歩(かっぽ)する、影ができない透明人間の世界になって気味が悪いな あ、という異次元的な空想もできそうだ。

正しいことが通らない 今、鳩山邦夫法務相が辞表を提出したニュースを放映している。彼の発言は「正しいこ とが通らないから、信念を曲げずに辞任する」という。「日本郵政(株)の西川社長が 『かんぽの宿』の売却をめぐって不透明な話があり、解任すべし」という主張が受け入 れられなかったからだ。 「百七億円でオリックス社に一括売却する」ことが、けしからんという話だ。場所の悪 いホテルが多く「タダでも引き取りたくない」という物件もあろう。事業家なら十分承 知して計算する。民間企業なに政治家がダンビラを振り回すべきではない。人間は「弱 者への愛」と「理にかなう正義」と「稲穂の実る謙虚さ」を失ってはいけない。

新日系二世は40万人? 私どもが運営する「SNN日本語学校」で日本語を教えて下さっている若い日本人の先 生がつい最近、結婚された。フィリピン人の新妻も日本人と結婚して一緒に暮らし、日 本人社会に入って数年も経つと挙○動作はもちろん、容姿までが何となく日本人っぽく なってくるから不思議だ。やがて新日系人二世が生まれる。 私の妻は結婚して数年してから初めて娘を連れて日本へ行った。九十歳近い明治生まれ の母は「南洋の嫁さんやで色が黒うて鼻ぺちゃの土人や思うとったが、日本人と何も変 わらんねえ。それに気立ての良いベッピンさんや」と喜んでくれたものだった。 妻はイロイロ市均衡の農業の娘で高校中退だが、英語は人に負けず達者だ。私が日常茶 飯事的に身近で見聞きする比人貧困層の雰囲気はまるっきりない。両親は極めて尋常に 農業を営み、普通に家族を慈しみ育てた。ほのぼのとした「昔風の家庭」だったと妻か ら聞いている。


フィリピン永住を覚悟してから三十年以上になるが、日本人の結婚式にはまず出たこと がない。男が六十歳代、女が二十歳代で第二の人生をスタートする人が少なくないし、 事情をよく知らない第三者としてお祝いする心境には容易になれなかったからだ。ただ 一人だけ教会の結婚式に参列したものの案の定、後で仕事がうまくゆかなくなって日本 へ戻られたといううわさを耳にした。 もう一組は二十歳代か三十歳代初めの若い技術者カップルだったが、こちらは数年を経 た今も家庭円満、お子さんにも恵まれて幸せそうだ。同じ世代同士が普通に知り合って 結婚したということだったが、昔から日本でも「似たもの夫婦」という。一方が「玉の 輿」に乗ったというのでは長続きするのは難しい。 私がよく「ジャパゆき・エンタテーナーとは結婚するな」という意見を述べるのに対し て、「人権侵害」とか「職業軽視」とか批判する声がどこからともなく耳に入ってくる。 しかし、私は「自分自身か、自分の息子が実際に経験したら直ぐに分かる」と言うこと にしている。よく日本のテレビ局から「妻が元ジャパゆきさんで、日本人と結婚してフ ィリピンに住み、子供もいて家庭円満なカップルを紹介してほしい」と頼まれる。残念 ながら私の周りに、そんな家庭は一つもない。妻が元「ジャパゆき」ではなくて、両親 がそろった普通の家庭育ちという注文であれば、それこそ素晴らしい家庭を何件も紹介 できるのだが … 。 今、新日系人と呼ばれる比日混血二世が何人いるのだろうか?日本の厚生労働省による 二〇〇五年度人口動態調査統計で初めて十万人を超えたとされ、「十万千九十八人」と いう数字がある。これは市町村の戸籍、住民票に載っている数字であって、うち何人が 日本に住み、何人が比国に住んでいるのかは統計資料がなくて分からない。 この他にも、フィリピンの市町村役場にだけ「婚姻届」を出したり、子の「出生届」を 比で出しながら、日本の市町村への届け出は意識的に「知らぬ顔の半兵衛」を決め込む トボケタ父親も結構たくさんいる。 SNNでの統計資料から経験的に推定すると、日本の戸籍に記載されている子供は全体 の約二五%(ここ一年以上、ほとんど率は動かない)ではないか。先の人口動態統計で は十万人だから、分母となる新日系人の実数は何と四十万人にもなる。内訳はおおよそ、 一日本国籍を持つもの

二フィリピンで両親が婚姻届を出し、自分の出生届もあり、父

親の認知があれば日本へ行ける比国籍者

三出生届に父親の書名がない比国籍者

四出

生証明書すらない無国籍的な者ーの四つに分かれ、それぞれ十万人ずつというのがSN Nの推定である。 比日結婚の離婚率は統計上で三三%。しかし、私の相当多数に上る面接相談の感じから 推定すれば、少なくても半数(五〇%)が離婚だ。そうなると日本国籍者のうちの五万 人が比に滞在していることになる。


その正確な実態については、日本政府が無償資金を出し、日比共同で調査するしかなか ろう。都会の貧民街や地方の離島、山奥に住む彼らの所在調査は、比国の地方自治体だ けでは全く不可能といってよい。たとえば多言語国家「フィリピン」の貧しい階層では テレビ・ラジオ、特にラジオの呼び掛けなどが非常に効果を発揮する。こういう調査に は言うまでもなく、相当な額の資金が必要となる。人口動態調査によれば、日本の市役 所などに出される毎年の新日系人関連の「婚姻届」が約一万組、「出生届」が約一万人 と増える一方。日本で三十万人が働いているといわれる「日系ブラジル人」をやがて追 い越しそうだ。「十万人の人口移動」は政策を大きく変動させる重要なファクターのは ずである。 太平洋戦争で広島に落とされた原子爆弾一発で十四万人が死に、長崎への一発で九万人 が死ぬという人類の悲劇があった。一夜にして十万人が焼け死んだ昭和二十年三月十日 夜の「東京大空襲」もそれに劣らぬ悲劇である。その直後から東京・上野駅の地下道に 家と親を失った「戦災孤児」

「浮浪児」が十万人も押し寄せた。当時、勤労動員され

た私たち大学生は神田から上野にかけて遺体収容のトラックと一緒に歩いたものだった。 ススとほこりにまみれた孤児たちの地獄の光景が今も眼に焼きついている。 比に住む新日系人、ジャピーノの少なからぬ子供たちが食を抜いて腹を空かせている姿 を、戦中・戦後に街中で飢えに苦しんだ半世紀前の自分にオーバーラップさせてしまう。 この残像が私の活動の原点なのだろう。

論語もいう「待つ」 私たちの運営するNPO非営利法人「SNN」では、まだ幼い新日系人の子子供(日本 国籍)に同行して、自ら子を日本で通学させ養育しようとする「比人母の入国査証取得」 に、かれこれ二年も待たされて来た。子供の通学と養育のため就業しようとする比人母 に「比国で長期滞在査証は発行しない」という杓子(しゃくし)定規ぶりなのだ。だか ら辛抱比べで、「待つという人生」の意義を改めて痛感している。私は表面的にはノン ビリ屋を今も通しているが、親子兄弟の間では「生来の短気者」で通っていた。実弟が 子供のころには「兄貴から一体いくつ殴られたことやら」と、七十歳を超えた今も思い 出話をするそうだ。SNNの日本人パートナー(川平専務)は、私の日本にいる息子と 同年齢で気が短そうだが、いつも「あわてずに待ちましょう」と言ってくれ、それが支 えで日本法務省官僚に向けた不満の筆致の勢いを、それなりに抑えてきたものだ。だが 生来は短気者だから書き進むうちに、憤激の感情が表に出てしまう私の筆の勢いを、本 誌編集局で何度気を使って和らいでいただいたことやら。人間には理屈では分かっても 「今畜生(コンチクショウ)」という「感情」は得てしてあるものだが、私の関係者た ちが「一徹老人の激越に走りがちな文章」を、程よく紳士的に調整してくれてありがた い。(今でも激しいけどナアという声もある?)。


それにしても「二年も待つ」ということはよくよくのことだった。行き詰まったときの 私は「人生は『論語』に窮まる」と認識してきたから、今年の正月は「論語」の拾い読 みをしていた。「学○第一ー十六」の中に「子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)え ず、人を知らざるを患うなり」とあった。分かりやすく意訳すれば「自分が社会的に認 められていないことを嘆くな。自分が人の取り柄を見付ける能力が乏しいことを憂えろ」 ということだ。そしてある日本人学者はこれを「人生とは八割以上が待つことである」 と超訳している。我々NPOのケースで言えば、何とかSNNのいう正論にイエスとい う対応ができるようにと「法務官僚なりに道を探っている」のだと考えようとしてきた。 もし私が弁護士先生なら職業柄「丁々発止と論争すること」が先行して、さらに長い長 い年月を掛けることになるのかもしれない。だから最近では「待つ」ということの意義 を毎日考え直している。 ところでこのごろ、自分はやはり「日本人」だなと感じることが多い。私は宗教心のあ つい祖父と母に育てられもっとも影響を受けた子供だと思う。祖父はまだ明けやらぬ暗 い早朝に起きて、仏間に寝ている私の枕元でお経を上げるのが日課の一百姓(農夫)だ ったし、母は明治生まれでは珍しい、県に一つしかない「師範学校」(今の教育大)卒 業の「小学校の訓導先生」だったが、この二人が口を酸っぱくして言った言葉が、伊 勢・桑名の田舎弁で「お天道サンがチャンと見とんなはるんやに」(お天道様が見てご ざる)という言葉だった。だから祖父や父に似てあまり宗教に熱心でなかった私が「悪 いことしたら必ず神様にバレル。だから悪いことはするな」という素朴な人間行動規範 だけは必ず守ってきた。 江戸時代から明治の初めごろ、大阪北浜の市場では、契約に対してほとんどといってい いぐらい契約書を交わさず、約束は天を仰いで最後に一言「見てござる」とお互いに言 い合うだけだったそうだ。何が見ているのかと言えば「天の神様(お天道様・太陽)」 が見ているのだ。だから契約に違反すれば「天から見放される」ということをお互いに 言い合っていたのだ。「天の神様がいつも、どこでも見てござる」という素朴な日本に 伝承される文化・慣習をどこにもでも伝えてゆけば、世界中がよほど平和になるのでは なかろうか。 さらには論語の「為政第二ー二十六」をある学者が日本語に意訳して「最終的に世間は 自分を見てくれる。」「いつどこで自分の才覚が認められ発揮されるかは、天もキミに 約束はできない。だが青春とはその日をめざして『待つ』ことである」とした。「人生 とは待つことである」とはつらいことだが、最終的には世間がどこかで自分を見てくれ るというふうにでも考えないとなかなか生きてゆけないものだ。


おかげさまで どうも前回といい、今回といい「小生意気な老人の説教論議」に似て気恥ずかしい。受 け売りの話が多くなって汗顔の至りだが、ご容赦願いたい。私も今年2月には84歳、 卯(う)年の年男だが、体力的にボツボツ書きこなせない日が近づいた感じがする。

家を売り飛ばされ 妻の名義で買った土地と家を、不在中に家を勝手に売り飛ばして逃げた。勿論、金は全 額、日本人亭主が出している。こういう騒動の原因は旦那の浮気があるかと思えば、妻 の仕事の赤字もある。中には妻が旦那と別れたくて画策したケースもある。だが、私は こう返事している。「外国人は不動産を買えないという法律を承知して妻名義にした以 上、妻は自分が貰った家なのだから売っても仕方ないでしょう」。仲が良かった仲が良 かった時に若い女に買い与えたものを、喧嘩したから「離婚しよう。家を返せ」は通ら ないのです。 だが、この邦人は「比人弁護士に相談したら『何とかなるでしょう。裁判に訴えましょ う。裁判費用の半額を前金で支払って』といわれた」とおっしゃる。そういう弁護士は 手付金目当てで、裁判に負けることは百も承知しているのです。こうした場合、セブ日 本人会では私が「よろず相談室」で無料対応している。ただ既に比人妻の名義になって おる手遅れの場合が多い。

感謝の心 野球の名監督・野村克也氏が書かれた近刊「野村の実践《論語》」にこういう言葉があ った。「夏が来ると冬がいい」「太ると痩せたい」「忙しいと閑になりたい。閑になる と忙しい方がよい」「金を持てば古びた女房が邪魔になる。隣を見ては愚痴ばかり」 「女が出来たら親さえも邪魔になる」 いったい自分は誰のおかげで育ったのか?親や先生や世間様のおかげで、今があるので はないか?つまらぬ自我妄執うぃ捨てて得手勝手を積んだら世の中は必ずもっと明るく なる。特に公的な社会生活では「おれがおれがを捨てて得手勝手を慎んだら良い」。く だけて言えば「おれがおれを捨て、おかげさまでおかげさまでと毎日を暮らせ」となる。 特に組織の上に立つ者は、どっしりと構えて物事に動じない人物でなければならない。 才覚だけの人間や名誉欲だけの人物がリーダーになった組織は「早晩滅びることになる」 ともある。


四を絶つ これは「論語」の子干第九にある「意」「必」「個」「我」の四字を「孔子」は決して しなかったという言葉だが、「私意を通さず、無理押しせず、固執もなく、我も張らな かった」ということだ。「孔子は聖人君主」のイメージだが、実際は激しく生々しい人 生を送った。権力闘争を繰り返し、反対勢力の男を謀殺もしたという。 二千数百年の昔、55歳を過ぎてから15年もの歳月、諸国を彷徨った。そして「徳」 「仁」「恕」のキーワードで理想の社会や人格を説く思想体系に行き着き、これを弟子 たちに伝え「儒教」へと枝葉を広げていった。日本は「仏教国家」と言われるが、その 底辺にある根深い道徳の基本は江戸時代に大きく伸びた「朱子学」などの「儒教」が、 今も根底に残っている。

おかげさまで 私の本業ともいうべき非営利法人(NPO)「新日系人ネットワーク(SNN)」に関 心をお持ちいただいている方々から近況のお問い合わせがある。新聞という公器を利用 している人もいるらしいから最近は、「プレス・リリース」を一切出していないせいだ。 その他、心無い中傷や悪口雑言に太刀打ちするヒマも金もない。だからここ1年間は 「深く静かに潜航」していた。 さて、今年初めての日比経済連携協定(EPA)に基づく看護師・介護福祉士の募集が 締め切りを延長している。応募者が毎年減少しているし、日本人側求人も減る一方だ。 だが、我々NPOでは毎年求人企業は増え続けて「引く手あまた」であり、目下の最大 課題は「新日系人母子」を地方から探し出し、日本語を教えて支援養護しながら、子は 小・中学校へ入学させ、その子を養育させるため母親が日本で長期就労するという支援 事業だが、厚生福祉事業団による公的受入事業より、はるかに安いからだ。そして日本 語教育レベルも高く評価されてきている。 こういう人材派遣を伴う事業を役所の立案や募集では基本的に高くついて無理なのだ。 こういう経営は、お役人では所詮無理。我々民間組織に委任されたら、恐らく半額で出 来ると確信を持って言える。こういう事業は「上から目線」では上手くゆかない。SN Nは2月には、創立5周年を迎えるが官民双方のご協力を得て日本で就学・就労する新 日系人母子は既に360人を超えたし、課題はこれら貧しい田舎やスクォッター(貧民) に沈んで三食もママならない新日系人母子数万人以上の所在を探し出すという息の長い 事業になってきている。 また、出生届けを90日以内に大使館へ提出できず国籍法12条で国籍を喪った新日系 人二世の「国籍再取得」を既に認められた人も40数名に達している。一方、裁判に訴


えた方々の判決は、更に何年か先になろう。「貧乏NPO」と「どん底の貧乏人SNN 会員二世」は「おかげさま」で感謝の心を持って、知恵を働かせながら前進したい。

新日系人「自立に向けて」 今年から始まったNHKテレビの大河ドラマは、上杉謙信(輝虎)・景勝の執権として 二代に仕えた「直江兼続」(ナオエ・カネツグ)が主人公だが、彼の人生を支えた言葉 は「義と愛」であったという。 また、彼が心服した戦国の雄、上杉謙信の「北越軍談・謙信公語類」には、NHKがタ イトルに使った「天の時、地の利にかない、人の和が整いたる大将というは、和漢両 朝・上古にだも聞こえず」とあるが、今の世でもわれわれが仕事を進める上で常に心得 るべき言葉だ。 特に新日系人二世母子を支援しるNPO(非営利法人)を運営するわれわれは「哀れみ の愛(仁愛)」を持って彼らに接し、また、その法的支援(査証・認知・国籍など)は 「《理》が《義》にkなっているか?」と、常々考えている。 そして過去三年間に比政府側からは「比国籍がない、日本生まれの日本人」(法的には 比国に不法滞在する日本人となる)に「罰金免除」で渡航を認めてもらった。 次いで、日本政府は「日本人の実子を扶養する目的で日本に長期滞在を希望する比人親 で、その子を同伴して入国する場合、昨年九月には比人親に対し《長期滞在(定住)査 証》をマニラで発給すること」を、初めて認めた。 さらに昨年十二月には、国籍法が改正され、「婚外子(父母が正式婚姻していない間の 子)でも、父の認知があれば、日本国籍の取得が可能」になった。 次に続くのは、「婚内子(父母が正式結婚している正妻の子で、出生届を三ヶ月以内に 届け出しなかった)が、日本へ行き六ヶ月の滞在保証人を得て《国籍再取得》を目指す」 という母子に対して《長期滞在(定住)査証》発給を新たに求めている。 いろいろ論議はあろうが、彼らの「国籍再取得」申請については《義がある》と確信し ている。さらにわれわれが査証発給を急ぐのは、彼らが満二十歳を超したら、日本国籍 取得のチャンスは永久になくなるからだ。十九歳・十八歳のギリギリ線上にいる子だけ でも三十数人はいる。 これらを含めて「国籍再取得」への発給が何とか加われば、新日系人二世たちの推定半 数が日本へ渡航して就学でき、貧窮のどん底から救われる。彼らの就学費用は、母親が 自分で稼いで養育するべきものだと覚悟している。 一部の中国残留孤児にあったような「生活保護」を求めているわけではない。残った新 日系人二世の約半数は、日本での法律的書類が整わず比国籍のままで働ける口を、他国 で探すしか方途がなかろう。


フィリピンでの仕事は何をするにも時間がかかると覚悟してはいるが、渡航できる査証 がいまだに少数しか得られていないから、SNNの財政事情も決して楽ではない。 比日経済連携協定(EPA)に基づくフィリピン人の海外雇用に関しては、比国側に 「海外雇用局(POEA)」があり、日本側には「国際厚生事業団」という窓口機構が あり、ここを経由する。 EPAによると介護士派遣の場合(インドネシアとフィリピンとも)、日本側「受け入 れ」企業の負担費用」は、われわれ民間NPO法人が求める負担費用の倍額近くにもな る。なぜだろうか? 第一に、われわれは日本語研修研修を比国で行うから安く上がる。日本人の先生にもボ ランティアで援助願っている。また、われわれは比国政府派遣期間のような派遣手数料 はいただかない。 第二には、われわれNPOは日本人(夫)が子どもを南の国に捨てたり、夫婦別れして 子どもに犠牲を強いたりした一義的な責任は、父にも母にもあるのだという認識を前提 としている。 両親を「甘えさせてはいけない」という観点から、派遣渡航費用立替金の相当部分を母 親が負担して、日本で働きながら「分割返済することにしている」からだ。このへんが 官営事業と民間支援組織の違うところではなかろうか。もっとも中にはジャピーノ二世 母に借金させて、それを働いて返させるとは、ケシカランという論をなす人がいないで はない。だが父は行方不明が多いが、母も離婚に責任がなかったわけではない。正直な ところ「ドッチもドッチ」なのだ。 最近「日系人自立に不況の影」という新聞見出しを見るが、SNNに関しては、特別養 護老人ホームや、地場産業などから好意的なご支援をいただいているからははるかに有 利そうな立場にある。かわいそう、かわいそうでどこへでも送り出していると、将来泣 きを見る恐れもある。 「SNN日本語学校」では、派遣先が決まると、彼ら母子の目の色が変わってくる。戸 籍謄本はもちろん、出生証明書に父の名の記載もないカテゴリー「E」の男子は、日本 行きのメドがつかないから比ボホール島の日系「船員養成大学」(奨学金付き・全寮制) へ送り込んでいる。そこでは、クラスのトップも、トップテンの多くも新日系人二世た ちが占める。だから、今年はSNNからの新入学生を倍増させたいといういうれしい話 もある。


ジャピーノ「探索行」 厚生労働省の人口動態調査統計によれば、新日系人と呼ばれる日比混血児(ジャピーノ) は、2010年度で約15万人近くになる。これは日本の役所に出生届を提出した人数 だけだ。比の出生証明書はあるが、日本側に出生届を出していない人数は、SNNで面 接する母子の比率から推計するとほぼ同数で、さらに毎年増え続けている。さる知人が マニラの「お店」で「ジャピーノがいる人?」と聞いたら、ほぼ全員が手を挙げたとい う「ウソのようなホントの話」もある。 最近は、新日系人母子を雇いたいという企業(特別養護老人ホームなど)が増えてきて、 人数が足りず重要に応じきれない。SNNではビサヤ諸島、ミンダナオ島の農山村にも 新日系人探索の手を伸ばしている。 日比経済連携協定(EPA)の看護師・介護福祉士応募者が激減しているのは、やり方 が間違っているからだ。どのように新日系人探し出すかは、苦労の末の「企業ノウハウ」 だから申し上げない。お金もかかる。ただ、どんな苦労が続くかは、先月ネグロス島バ コロド市で行った無料相談会の風景をご紹介する。上手く聞き出すのは昔の仕事柄、経 験豊かな川平専務の腕だ。(文中「父」とは、ジャピーノからみた呼び名) •

母1

日本語はうまい。日本へは10回行った。父は九州の白アリ駆除業者。5歳の

娘あり。「配偶者ビザ」

「再入国許可書」(期限切れ)がある。別の女がマニラに

いると分かって別れた。戸籍謄本を取って子の国籍を確認。 •

母2

父は自動車運転手。九州で知り合った。今は愛媛県在住。母の日本語はまあま

あ、39歳。8歳の女の子を同行。子は「日比二重国籍」(戸籍確認)。日本行きの 申請手続き費用がない。すぐにもC社に採用内定を求めることにする。 •

母3

顔が暗い。父は大阪・西成の貧乏長屋で暮らしているという。マニラで知り合

って1回日本へ行き、6カ月間「お店」で働いたがクビ。父の住所、氏名、生年月日 など何も知らない。子が生まれて6ヵ月だから働くに働けず、死にそうと嘆く。だが 本人には有効な対策も手段も何もない。父とは何回か寝ただけ? •

母4

えらく年取った「貧乏神」という感じ。母3と同じく、父の情報は何もない。

加えてイロンゴ語と日本語の区別も定かではない。父は自動車部品販売業で、昨年亡 くなったという。とりあえずは、何か日本語で書かれた文書(封筒・はがき・メモな ど)を持ってきなさいという以外に対策がない。 •

母5

33歳。日本語はできる。父は中国人の先妻と離婚した「バツイチ」会社員。

子は「二重国籍」で、今もお金の支援は4万円ある。社会福祉開発省(DSWD)の 「未成年者海外渡航許可書」がないと子の海外渡航はできない。 •

母6

日本語はあまりできない。父とは「離婚できない別居」状態。比国の「ケアギ

バー・ライセンス」を持つ。子は4歳ぐらい。父の「認知届」取得に入る。


母7

父は比退職庁(PRA)の永住査証で比国に住んでいた。だが今は行方知れず。

従姉妹が日本人と結婚して幸せだからその紹介で知り合った。子は5歳(父とそっく り)。PRA査証保持の外国人の所在が分からないはずはない。真剣に調べていない だけでは? •

母8

父は愛知県で服役中。何の罪か分からないが「懲役5年」という。戸籍で「子

の日本国籍」を確認したい。どうすればよいのか。 •

母9

SNNと似た名前を名乗るマニラの民間非営利団体(NPO)に書類一式渡し

たが、何もせず大事な書類を返してくれない。倒産したのか連絡もとれず、命の次に 大事な父の戸籍謄本がなくなった。代表者がにほんじんだったから信用して頼んだの に。金は返らなくても、書類一式だけは返して欲しい。助けて下さい。 •

子1

高校三年生の男子。成績はいつもトップという。父から戸籍に載っていると聞

いたが、本籍は「静岡県静岡市清水区」としか知らない。2002年で連絡が途絶え た(父は死んだと聞いた)。船員への道は「船酔いするから」と拒否。本籍探索の方 途を探るほかない。まずは父宛に手紙を書いて生死を確かめ、本籍を探す。 •

子2

結婚して子どもが三人いる。夫の日給は80ペソ(約160円)

私が洗濯婦をして80ペソ稼ぎ何とか食べている。助けて。(相談会の終了後に駆け込 んできた。何とも無残な暮らしだ)。母は日本人と別れた後、比人と再婚したが、私が 小学校2年生の時に病死した。父については「MAYUYAMA

TAIZO」と私の

出生証明書の父親欄に書いてあるだけ。それ以外の情報は何もない。(MAYUYAM Aは多分MARUYAMAの間違いだろう)。涙をこらえて懸命に話すザンバラ髪の1 8歳は、あまりに可哀想で悲しい。比で仕事を探してやるほかは対策がなさそうだ。 こういう相談ばかりが続くのだが、彼らの一生がかかっているから真剣だ。相談実務を 担当する専務は1日16人(1人30分)が限度だ。それ以上は健康を損なう。私は自 分の走り書きメモを後で清書して、フォローに使うのだが、アラビア文字に近い走り書 きは、自分の字ながら判読が難しく情けなくなる、年はとりたくないと言ったら、息子 が「昔から読めない悪筆だよ」と笑う。どん底で暮らす「ジャピーノと母」を泣かせる NPOは、恥を知って消えて欲しい。


第 9 章 フィリピン人もよく知らない「フィリピンの 歴史」

第 1 話 要約・フィリピン諸島史 フィリピンの原住民 1. 氷河人類時代(二万二千年前)当時は大陸と陸続きであり人類の痕跡(石器)が パラワン島(タポン洞窟)に見られる。(旧石器時代) 2. ネグリート人(アエタ族)二万年前位に陸続きを渡来した。パラワン・ミンド ロ・ミンダナオ・ピナツボ火山に今も生きる。(新石器時代人) 3. プロト・マライ人1万5年前位にボルネオスルー諸島からミンダナオへ渡ったネ グリト人。吹き矢、弓矢、細石器を用い、焼き畑耕作を行った。 4. インドネジアA人(プロト=マライ)約5千年前に渡来した細身・長身・アゴの とがった人種。磨製の石斧、○を使い焼畑耕作で「ヤムいも」

「○」の栽培を

行った。 5. インドネジアB人(ヂューテロ=マライ)3千5百年前頃インドシナ方面から渡 来した。がっしりした体格、暑い唇、大きな鼻、黒い皮膚の人種。焼き畑耕作で 米、タロいもヤムいもを作った。ルソン島カリンガ族・イゴロット族や、ミンダ ナオ島バゴボ族・マノボ族などが子孫とみられる。 6. マラヤ系人(青銅器人)2千5百年前頃アジア大陸南部から銅と青銅文化を持ち 「水稲耕作」を行う人種が渡来した。

イフガオのライステラス(階段式水田)

は彼らの遺産という。 7. マレイ人(3次に渡り渡来) •

1次

2700年頃前、インドネシア諸島からパラワン・ミンドロ・ルソンへの道。

及びセレベス海からミンダナオ・ビサヤ諸島へ。彼らは潅漑農業を行い武器の治金、 陶器、織物を良く知っていた。 •

2次

2千年前頃から13世紀まで続く。海岸平野部に住みルソン島のタガログ族・

イロカノ族・パンパンガ族・ビコール族及びビサヤ諸島のビサヤ族などの祖先が彼ら である。 •

3次

14世紀後半から15世紀にかけて。イスラム回教徒化されたマレイ人がスル

ー諸島・ミンダナオ南部に移住して現在イスラム回教徒圏勢力の基礎が作られた。 以上に見られるような民族渡来の経過からもフィリピン諸島の言語グループは90以上 もあると言われるが、その全てが、オーストロネジア語族中の「インドネシア語」に属 する。


1. 「ラグナ鋼板」の発見フィリピンの文字に残された歴史は、マジェランの随員 「ピガフッタ」の記述(1521年)が最古とされていた。しかし、それより6 21年も早い歴史の記録が、ラグナ州のバイ湖畔ルンバン川で最近発見された。 長さ31センチ、幅18センチ厚さ1ミリの鋼板には10行の文字が刻まれてい た。銘文は解読され、言葉は「古代マレー語」に属し、文字は「古代ジャワ文 字」、1行目にはサカ暦822年(西暦紀元900年に相当)と年代が明記され ていた。古代ジャワ文字の文書は広く東南アジア各地で発見されているが古代ジ ャワ語は交易言語であり、タガログ語を話す人々はインドネシア諸島に住むマレ ー・ジャワ語族と密接な交流があった。銅板には、現在もあるトンドの地名、ブ ラカン州の地名が記録されている。

内容は当時すでに慣習法があり「法的な免

責証書」の体裁を明らかにしているという。これが、現在フィリピンで発見され た最古で、唯一の記録であり精力的な調査で今後スペイン統治以前の歴史的空白 を埋める資料を今後更に期待したい。 2. 中国の歴史書と「比国」地理的な距離から想定される以上に両国文化の接触は遅 かった。中国華南地方から直接南下して比国にくる航路は海流と風の関係が不利 で遅くまで開かれなかったためである。「宋代」以前については不明である。 『文献通考』(宋代)

982年麻逸国より使いを遣わし宝貨を満載して広州に

至る。○舎耶国(ビサヤ国)の土豪数百人が泉州を侵寇。『島夷誌略』(元代) 麻里○(マニラ)が記載。『諸蕃誌』(13世紀初・南宋)

ミンドロ島に比定

される「麻逸国」の名がみえる。パラワン(三○)、マニラ?(○○○)も。 比・中両国の交流は中国人にとり利が少なく活発ではなかったと推定される。 当時の比国では「ミンドロの王国」麻逸国がパラワンからマニラに至るフィリピ ン最大の勢力であった。「明代」に入ると『呂宋国』が最大の勢力となる。

第 2 話 邪馬台国はフィリピンだ!

黒潮は呼ぶ女王国の謎 邪馬台国はどこにあったのか?

という論争は興味尽きない古代史の謎だが、フィリピ

ンに住む我々にとって興味ある「邪馬台国はフィリピンだ」説を紹介したい。邪馬台国 論争は九州説と畿内説に二分されるが、ここに登場する説は海を越えて海外に持って来 た珍しい学説だ。日本と比国は遠いようだが古代でも黒潮に乗り季節風を利用すれば、 決して遠くない距離だし、途中には投馬国に比定される台湾東北部もある。フィリピン 人と日本人は肌が合うと言われるが何がしか興味のある論ではなかろうか?

沖縄海洋

博覧会の際に来航したミクロネシア(グアム島の南)から古式通りの「六人乗りアウト リガー付近木舟」チェチェメニ号が四十七日かけて二〇〇〇㌔の太平洋を見事に乗り切 り、南洋航海民族の古来からの航法が実証された。


都から「倭」への行路論争 当時唯一の中国側記録文書「魏志倭人伝」(陳寿が編纂した「三国志」の中の魏書巻三 〇・東夷伝、倭人の条)が言う。都(帯方郡)から倭に至るには海岸に随って水行しそ の北岸「狗邪韓国」に至る七千余里、初めて一海を渡る千余里「一大国」(壱岐島)に 至る(中略)。また、一海を渡る千余里「末葦国」(九州・松浦郡)に至る。東南陸行 五百里にして伊都国(福岡県)に至る。この辺までは九州説も畿内説も違いがなく一緒 だ。この後が方位・距離・日数・陸行・水行何れを取っても地図に合理的に○まらない ので諸説論争が出て来た訳だ。今回の比国説は伊都国は東南という魏志の表記は正しい ものとして有明海に面する筑後平野に比定している。ここには福岡平野と共に多数の古 墳群があり、明らかに南海産(フィリピン)の材料貝を使った貝の腕輪が他に例を見な いくらい多数出土している。伊都国からは「東南奴国に至る百里。官を児母虎○と白い、 副を卑奴母離と○う。二万余戸あり。東行不弥国に至る百里。・・・」となっている。 ここで倭人伝に随って東南遣すれば熊本平野に入り後背地は奴国に比定される。疑問は それなら何故「漢委奴国王」の金印が福岡県志賀島から出土したのだろうか? ここからは東行百里。不弥国に至るがこれは阿蘇南部を山越えして日向灘へと出る行路 が比定されるが、ここは黒潮の流着点で良港だという点に注目したい。また出土品から は南方文化と北方文化の交流点だった事実が強く見られる。さてここからが問題の「南、 投馬国に至る水行二十日、女王の都するところ水行十日陸行一月」という海上のコース を取ることになる。

海上を二対一で行く航法 注意すべきは不弥国(日向)までは行程の表現が何里という距離で表現されて来たのに、 この投馬国から邪馬台国女王までは日数という時間で表現されていることである。更に 水行二十日の後に更に「水行十日、陸行一月」という表示だ。すなわち二十日と十日と いう二対一の距離比を持つ海域でなければならず、コースを探知する有効な条件となっ てくる。この二対一という航路は古代と近代の船が機能的に違っても終始同一の航法を 取る限り二対一の比自体は変わらない。ここに「日向(不弥国)から台湾東北岸(投馬 国)間」

「台湾東北岸(投馬国)間」の距離はまさしく二対一の行程と地理的位

置を表している。 なお、従来の畿内説では南へ水行二十日という出発点で、これは「東へ」水行二十日の 間違いで瀬戸内海を東へ進むという論旨を取っている。畿内説でも九州説でも都合の悪 い時には、手書きの写し間違いだとしているが全く故のないことではない。最初三世紀 に書かれた「倭人伝」の原本は勿論もう存在しない。今我々が利用している一番古いも のでも、十二世紀南宋の「紹興版」だから八百年以上も経っている。一言一句正確に追 いかけるだけではなお問題は残る。


倭人の習俗・貢ぎ物(班布・吉貝・パンヤ) 「倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し以って大魚・水○を圧う。後や以って 飾りとなす」という習俗はフィリピンと変わらない。文身・刺青は今もフィリピン人は 大好きだし、特にビサヤ地方では十五世紀のスペイン・マジェラン艦隊来航時の記録文 書にも明らかだ。素潜りをして魚介類を好んで採るのも古い古い習俗だ。まだまだ、邪 馬台国フィリピン説を補強するには解明すべき事項は多いが、少なくとも南洋航海民族 の一部が季節風に吹かれ更には黒潮の速い流れに乗せられて九州北岸や日向海岸に流れ 着いたであろうことは疑う余地もなさそうだ。ルソン島山岳民族(棚田で知られるイフ ガオ族)や、台湾東岸の高地民から見ても何となくうなずける共通点があるような気が する。例え民族は枝分かれし、国は別になっても根が同じ系統の民族は何となく肌が合 うものだ。

第 3 話 マジェラン・ラプラプ王の闘い

マジェランがセブ島へ到着 世界最初の地球一周航海途上のマジェランは、1521年4月7日に太平洋を横断した 後、良港のあるセブ島へ到着した。有名な香料の産地である「モルッカ諸島」を探して いる途上だった。当時のセブ島民は 1. 裸で身体に色を塗り、布切れで恥部を隠す。 2. 女は耳に穴をあけイヤリングをしている。 3. 物凄い大酒飲み。 4. 娘たちはかなり美しく、色白で腰布を巻き、裸足である。 5. 楽器演奏が上手である。 6. 平和と怠惰と静安を好む。 7. 家は高床式で、下には豚、山羊、鶏を飼っている。 8. 1回の食事に5ー6時間もかけて楽しむ。聖贄はレチョン(豚の丸焼き)である。 9. 望むだけの妻をめとるが正妻は一人である。 10. 夫は性器に「輪」を填めている。 などと、マジェラン艦隊の航海士「ピガフェッタ」が報告している。


当時のセブ島「宗教と経済」 宗教は「偶像崇拝」に熱心であったが、司祭・修道士を同行して信仰の教育をしたとこ ろ、セブ王(ラジャ・フマポン)は即座に帰依し、偶像を焼却して十字架を祈ることに した。 セブ王は「ドン・カルロス」と名づけ、市民500人が洗礼を受けた。 「聖母マリヤ像」 と名づけた。

更に王妃には

「幼児キリスト像」(サントニニョ)を与えて「ジョバンナ」

老若の女子、800人が王妃に従った。

そして皆が今までの偶像に代

えて、サントニニョ像を欲しいと希望した。 当時、シャム(現在のタイ国)からの帆船交易があり、シャム人や、モロの商人が来て いた。しかし、モロ(回教徒)たちは容易に改宗には応じなかった。カラガン(ミンダ ナオ島カガヤン・デ・オロに比定)では多量の金が産出された。

米や水を入手するた

めに「金銀貨」を与えようとしたが彼らは逆に「小刀」を欲しがった。 彼らは、法秩序を保ち、木製の秤を使用して度量衡の知識もあったが、父母が年老いた ら尊敬されず、息子が父母に命令を下すなどの分かりにくい事情もあった。(なお、こ の時に王妃に渡された「サントニニョ像」は1565年4月25日、初代スペイン総督 としてセブに赴任したレガスピーが再度発見した)

ラプラプ王の戦い セブ島のフマボン王は戦わずして、すぐにキリスト教に帰依して従順であったが、すぐ 隣の島「マクタン」に陣取る領主「ラプラプ王」は帰順を拒否して対抗した。 この為に1521年4月26日に懲罰戦を計画したマジェラン艦長は60人が20数隻 の船に分乗して、マクタン島ブンタエンガニオ岬の根部(今マジェラン・モニュメント のある所、シャングリラホテルの横)に、翌朝4月27日午前3時頃に到着した。 待ち受けるラプラプ王側は1500人の軍勢を3部隊に編成して迎え討った。 その時は大干潮の浅瀬で、マジェラン側は接岸出来ず浅瀬を歩いて戦闘の場へ行き、完 全にラプラプ王の軍勢に切り立てられて敗戦となり、艦長マジェランは戦死してしまっ た。

艦隊はスペイン本国へと帰らざるを得なかった。

フィリピン建国以来、外国勢に勝った唯一の英雄はラプラプ大王ただ一人である。『当 時セブはズブ、マンダウエはマンダウィ、リロアンはラランと記録されている。』

「フィリピン諸島誌」に見る16世紀頃のフィリピン人 信頼度が高いモルガ博士著フィリピン諸島誌は1595年からマニラのスペイン総督府 にいた彼が、単なる歴史叙述だけでなく、自然・人文・社会の各相にわたり概観したも


のである。 この中から今に至るフィリピン人に民族性を知る上で興味のある事項を順不同で調べて みた。 1. スペイン人が最初に征服し植民し、首都にしたのはセブである。 2. セブ周辺の島々には「ビサヤ族」と呼ばれる原住民が初めから住んでいた。 3. ビサヤ族の有力者は「文身」(イレズミ)をしている。住民はビンロウジの実を キンマの葉に包んで噛み、歯を赤く染めている。 4. ビサヤ族の人達は男も女も顔立ちが良く立派で性質が良く、ルソン島の住民達よ りも素質がよくて態度が高潔である。 5. ビサヤ族の女たちは、器量が良く、しとやかで、非常に清潔で歩き方がゆったり としている。 6. ルソン島の住民は、顔立ちも立派で、中背、仕事にも才能があるが、鋭敏で怒り っぽい。 7. 若者を問わず水浴びを好み、最大の薬と考えている。 8. 女性は縫い物、食事の用意、野良仕事を良くし、家庭を守る。 9. 然し、何故か既婚・未婚を問わずあまり貞淑ではない。そして夫、両親、兄弟姉 妹も嫉妬せず気にもかけない。 10. 椰子酒(ツバ)を良く飲むが、酔いつぶれるという悪習は彼らの間では、不名誉 でも恥辱でもない。 11. 一部の地方では首狩を行い、その首を自分の家の前にぶら下げて自分の勇敢さを 見せびらかしている。

第 4 話 マニラ日本人町「高山右近」 『ディラオ』日本人町 16世紀末、豊臣秀吉の時代には既にマニラの「ディラオ」地区には日本人町があった。 当時のフィリピンは、スペイン統治時代で海外出兵を夢見た秀吉は、ルソン往来の商人 「原田孫七郎」に託して書簡を送り、高飛車に「入貢と服属」を促し、拒否すればルソ ンを征伐するというものであった。 当時の総督「ダスマリニァス」は、秀吉のルソン征伐を延期させるべく工作して、この 間に最も勇敢で戦闘力のある「マニラ周辺に住む日本人商人」を首都防衛軍とさせるべ く1か所に住まわせた。 これが1592年にできた最初の日本人町「ディラオ」である。『ディラオ』は現在の マニラ市役所、フィリピン・ノーマルカレッジがある、イントラムロス近くに位置して


いる。数年のうちに、ディラオの町は繁盛して裕福な町になった。しかしこの間、16 07年にはディラオの日本人が新総督「グスマン」に反発して兵を起こした為焼き払わ れたが、焼け跡には前にもまして、美しい町が再建されたという。 当時のスペインの歴史家「モルガ」が著した一番古いフィリピンの記録「フィリピン諸 島誌」には次のように記録されている。『そこには住む日本人は活動的、良心的、かつ 勇敢である。

更に原住民と祖国日本との間に友好関係を保ち、礼儀正しく、尊敬され

ている』そして、隣の中国人街と共に商業の中心地となっていった。しかし、以後徳川 幕府の鎖国令で、日本人は減少の一途をたどり1762年にイギリスがマニラを占領し た時に、ディラオの日本人町は「バコ」に移された。そして1767年には、最後の日 本人が去っていったと記録されている。

『サン・ミゲール』日本人町 1614年、キリシタン大名の高山右近は、その地位権力よりもキリスト教信仰を選び 金沢を経て長崎から、徳川家家康の命令により「国外追放」された。高山右近一家、内 藤○安一家など高貴な生まれの人々は、1か月余の苦しい航海を経てマニラに到着し、 総督「シルバ」、大司教「サン・ミゲール」に住んだ。 「ディラオ」が商人中心の町であったのに対して「サンミゲール」は、日本人キリシタ ン中心の町であった。このサンミゲールは、ディラオの東側で、今のサンタテレジア・ カレッジやアダムソン大学のあるところである。徳川幕府の鎖国でサンミゲール日本人 町も衰退の一途をたどり、1768年。火災で焼野が原となってしまった。しかしスペ イン政庁は町を再建せず、パッシグ川の向こう岸に新しい町を造り、日本人町の名残と して同じサンミゲールに名前をつけた。これが現在マカラニアン宮殿のある「サン・ミ ゲール」地区である。

高山右近の銅像 フィリピン国鉄の「パコ」駅前広場は、日比友好公園と名付けられ、その真ん中に高山 右近の侍姿の銅像がある。右近は元高槻城主で、有名なキリシタン大名

城主の地位を

捨て、キリスト教の信仰に殉じて、「お家断絶」徳川家康に追放され1614年他の宣 教師らと共に、マニラに渡った。病身の右近は、滞在わずか2か月余で亡くなったが、 同行の人達大名の内藤○安一族、大名の娘

筒井一族、大名大友宗麟の娘などが、スペ

イン人宣教師とともに心豊かな日々を過ごしたという。右近の銅像は、1978年に完 成して、高槻市長・マニラ市長らの手で除幕式が行われた。


第 5 話 リサールとおせいさん

幕末の漂流漁民 徳川時代初期の1767年にマニラの日本人町から、鎖国のために最後の日本人が去っ ていってから日比交流の歴史は一旦途絶えた。 しかし幕府の方針で大型帆船の建造が認められなかった沿岸航路船や漁船は太平洋岸で 度々の遭難を繰り返して、徳川幕府時代後期の1841年「永住丸」や「観吉丸」乗組 員の一部が、スペイン商船に救助されてマカオやマニラに滞在していた。これら漂流民 の「音吉」や「力松」が幕府の日本海国当時にはアメリカやイギリスの通訳官として活 躍をし始めた。 当時の農政学者「佐藤信淵」は早くも、経済的・国防的見地からフィリピン開発の重要 性を説き始めてもいた。これら偶然にフィリピンに漂着した日本人漁民が、通訳官とし て徳川幕府の開国に一定の役割を果たしてたことは興味深い。

明治初期の「フィリピン革命」 米国の黒船来航を契機として、日本は1854年(安政元年)に鎖国を解除した。

たフィリピンでは1892年に「ボニファシオ」が独立のため対スペイン武力闘争を目 的に、秘密結社「カティナプン」を組織した。 「アギナルド将軍」の独立運動は1896年にフィリピン革命となって長く記憶にとど められる。この頃、比人の間でも欧米に対抗してアジア人同士が手を組むべき時が来た として、頻繁に日本を訪れる留学生や、実業家が増えて「東京」や

横浜」にはフィリ

ピン町が作られたという。しかしフィリピン革命に対しては日本からの物的支援は何も 受けられなかった。その後「アギナルド将軍」がスペインから補償金を受け取ってホン コンへ亡命してしまった。

比国援助の「布引丸」事件 結果的にスペインに騙された形となったアギナルド将軍は、米西戦争を機にアメリカと 手を組んでスペインを破り、その支配を終焉させた。

しかし、その後の比国支配をめ

ぐり対立して1899年に米軍と戦争を開始した。 当時、日本は日清戦争では勝ったものの国力は弱り、日露戦争が近づきつつあった頃。 建前ではアメリカの比国植民地化を支持せざるを得ず、本音では比国独立を願望すると


いう実情だった。しかし、時の有名な参謀総長「川上操六」はフィリピン人民の独立願 望に理解を示して、外務省の反対を押し切って武器を払い下げ対比輸出を認めた。 しかし、武器を大量に積んだ老朽船「布引丸」と、フィリピン革命支援の「日本人志士」 数名は不運にも台風のため「台湾海峡」で海の藻屑と消えた。アギナルド将軍の対米独 立戦争では、今は忘れられているが数十万人のフィリピン人が、米軍により虐殺された と米国の記録にあり又有名な小説にもなっている。

リサールとおせいさん フィリピンは統一国家の大裁もないままに、16世紀マゼランに発見されてそのまま1 9世紀の文明時代に入ってしまった。統治省のスペインはカトリックという宗教は与え たが、分割統治された原住民はいつまでも無力状態におかされてきた。しかし19世紀 に入ると、ぼつぼつ形成された中産・知識階級が頭をもたげ始め、その中心的存在が、 今も「敬愛される英雄」ホセ・リサールである。 しかしその後インテリによる改革運動の限界が露呈されるにつれて、局面は貧民出身の 「ボニファシオ」、中農出身の「アギナルド将軍」による武力革命へと転向していった。 リサール博士は富裕な地主出身で、ラグナ州カランバ町の生れ。幼児から神童と言われ、 ヨーロッパにも留学、医学・文学・化学・絵画彫刻などに天分の才を発揮し小説『ノ リ・メ・タンヘレ』は比国民族主義の高揚に大きく貢献した。

彼は1888年(明治

21年)日本に1か月半滞在し、この間に「日本人は温順、平和、勤勉で将来性がある 国民」

「日比の両国民は緊密な友好関係を保つべきである」と書き残している。

この裏には滞在中の恋人「おせいさん」 春ロマンス」が見られる。

(本名、臼井勢以子)からうけた「詩的な青

ちなみに、「おせいさん」はリサールが滞在したスペイン

大使公邸近くの豪邸に住む令嬢であり、豊かな教養、美貌、高い気品の持ち主で、恋人 的存在でガイド兼通訳だったと言われる。 「おせいさん」は、リサールが国家反逆罪で今のリサール公園でスペイン政府に36才 で銃殺された後、英国人大学教授と結婚している。

そして戦後1947年に80才で

他界したという。明治時代にはリサールを「南洋の頼山陽」と呼ぶ人もいた。 政治家というよりは「思想的な先駆者」であったといわれる。「サンチャゴ要塞跡」に あるリサール記念館には、今も永遠の恋人とも言われた「おせいさん」の肖像画が見ら れる。

第 6 話 「比米戦争」の事実 6月12日、フィリピンの独立記念日を祝う各種行事が、総額1万2千ペソの予算で開 かれた。6月12日は1898年にスペインからの独立を宣言した日だ。しかし、その


後も米国が植民地支配を引き継ぎ、本当に独立を果たしたのは、1946年に米国から の独立を宣言した7月4日だ。これが本当の独立記念日だと多くの比人は知っている。 この事実を曲げて6月12日を独立記念日に制定したのは、アロヨ前大統領の実父マカ パガル元大統領だ。米国迎合から無理に押し曲げたもので、多くの国民、特に年輩者は よく知っている。1998年「比独立百年記念祭」当時の世論調査では、国民の約半数 が「6月12日は比が独立した日ではない」と回答している。その「独立秘話」を検証 しておこう。

敗軍のスペインから独立 歴史学者、レナト・コンスタンティーノ氏はいう。「6月12日の独立記念日は全くの ゴマカシだ。敗戦のスペイン軍を前に、アギナルド将軍は確かに独立を宣言し、初代大 統領になった。しかし翌年には比米戦争は始まり、アギナルド将軍は香港へ亡命。比は 米国の植民地になった。この事実を隠蔽(いんぺい)するために、スペインからの独立 を宣言した1898年6月12日を独立記念日にするよう、米国が圧力を掛けたのだ。 これにより、スペインからの独立宣言後、1年足らずで始まった「米国の侵略」を比国 民から隠そうとしたのだ。

「比米戦争」ウラ・オモテ 「比米戦争では3万人の米軍が100万人の比人を殺した」ー。米国の著名作家マー ク・トウェンは、1901年に書いた米スペイン戦争直後のエッセーで、米国と戦って いた比と、その英雄アギナルド将軍を、共感を込めて描き出した。 アギナルド将軍に率いられたゲリラ部隊は、米軍に協力してスペイン軍と戦い、マニラ 占領後の1898年6月12日に独立宣言した。翌99年1月には、「フィリピン共和 国」政府を樹立したが、結果は「スペインが去って、米国が来た」だけだった。 米比戦争は「虐殺の記録」で、米外交史に巨大な汚点を残したといわれる。「当時人口 600万人の比人のうち100万人を虐殺した」とマーク・トウェンは書いている。こ の戦争で米国に持ち去られたのが「パラギガの鐘」だ。 ラモス元大統領は、任期の最後を飾るべく米・クリントン大統領に「パラギガの鐘」の 返還を求めたが拒否された。一説には「比人虐殺という戦争犯罪が蒸し返されることを 嫌ったため」といわれる。 太平洋戦争で、比を救うために戻ったというマッカーサー将軍の美談が語られるが、米 比戦争で「比人虐殺」命じたのはマッカーサー将軍の父「アーサー・マッカーサー」駐 比米軍最高司令官だ。


日本からの独立 太平洋戦争で日本は、「アジアの欧米植民地を解放する」という大義名分を掲げていた から、比でも占領直後の1943年10月にラウレル大統領を擁立して独立宣言を発し、 政府を組織した。 この日本軍傀儡(かいらい)政府には、米国が承認した「フィリピン・コモンウエルス 臨時政府」の重要閣僚や政治かも多く参加しており、必ずしも傀儡とは言い切れない。 関係国の思惑を別にすれば、比が独立を宣言したのは、1898年6月12日(スペイ ンからの独立)、1943年10月14日(日本からの独立)、19464年7月4日 8(アメリカからの独立)と、3回あった。だが、誰もが一番納得できるのは「194 6年7月4日」のアメリカからの独立ではなかろうか。

第 7 話 要約・フィリピン諸島史(V)

バギオ・ケソン道路の難工事 1888年に米国の植民地統治が始まり、インフラ建設のブームから日本人労働者や唐 ゆきさん(売春婦)が急速に増え始めた。この頃アメリカ人は北ルソンの山岳部バギオ を避暑地にするべく人跡まれな渓谷沿いに道路の建設を始めたが、フィリピン人・中国 人では急峻な地形の難工事が進歩せず、工事主任の「ケノ少佐」は郷里のカリフォルニ アで見た優秀な日本人労働者の導入を考えた。 そして1903年648人、翌4年360人余と次々に渡航して2年後には遂に完成さ せた。 「しかし、不慮の事故や熱帯の病魔で日本人労働者から半数近い700人余の犠牲者が 出た。これらの日本人はやがてバギオ周辺「トリニダッド村」に留まって結婚し、現在 の日系2世、3世に繋がる系譜を持ったが、その内多数が新天地を求めて「ダバオ」の 麻栽培地へと移動した。

ダバオのアバカ麻農場開拓 ケノン道路の難工事で悪疫と粗末な食事に苦しむ同胞を見かねたマニラ在住の雑貨輸入 業「大田恭三朗」は、バギオの現場へ日本食を供給していたが工事が完了して職を失っ た労働者のために、ミンダナオ島ダバオ州に「麻栽培農場」を開拓した。

1905年

には自らもダバオへ移住して「大田興業」を設立し、大正5年には第一次大戦の船舶用 ロープのブームに乗り「ダバオ国」ともいわれる規模になり「ダバオ開拓の父」と称せ られた。

ほぼ同じ頃東京大学出の吉川義三が「吉川拓殖」を起こし成功した。

浮き


沈みはあったがアバカ麻農場は発展し、労働者は主として現地の「バゴボ族」

「マノ

ボ族」の女性と結婚し、今の日系2ー3世へとつながる。 第二次世界大戦が始まった1941年頃にはダバオ州の在留邦人は、2万名以上にも達 していた。当時、全フィリピンには2万9千人の日本人が在留していた。そしてその働 き者、誠実、清潔、正直が高く評価されて平和な生活を営んでいた。

戦前、セブ島の日本人 すでに大正4年9月にはセブ日本人会が正式設立された。この頃、ダバオ(7年) ロイロ(8年)

バギオ、バコロド、サンボアンガ(10年)、マニラ、ビンコール

(13年)と続々日本人会が設立され、東南アジアの在留日本人会が設立され、東南ア ジアの在留日本人総数の60%がフィリピンにいたと言われる。セブの1937年度会 員数は既に153名に達し、日本人学校も日本人墓地も持っていた。セブの下町(コロ ン周辺)は、日本人経営のバザール(小型百貨店)が連立してリトル・トーキョーの感 を呈していた。

日本軍のフィリピン侵攻 1941年(昭和16年)12月8日、日本は米国・英国・蘭国に宣戦を布告して太平 洋戦争が勃発した。直後に、中部ルソン島リンガエン湾に上陸した日本軍(総司令官本 間雅晴中将)は42年1月2日、マニラに無血入域した。

そしてアメリカ極東軍司令

官「マッカーサー将軍」はバターン半島を経て「コレヒドール要塞」に立て篭もったが、 結局再起を期して魚雷艇でオールトラリアへ脱出した。日本軍は軍政を宣言して執行し たが、翌43年10月には独立政府をラウレル大統領のもとに組織発足させた。(殆ど の政府官僚はコモンウエルス政府のまま)

戦争による惨劇と裁判 1. バタアン「死の行進」バタアン半島とコレヒドールで降伏した米比連合軍捕虜を 炎天下マニラへ強行軍させて塗灰の苦しみを与えた。(敗戦後「本間雅晴中将」 はこの責任で銃殺された) 2. 敗戦直前「マニラ虐殺」戦時下14万2千名の米比軍や市民が首切り、射殺、焼 殺、目抜き、殴殺、蹴殺などで憲兵隊、陸戦隊に殺された。

そして45年2月

マニラ陥落の直前には絶頂に達した。(敗戦後、本間中将の後任「山下奉文大将」 が、その責任で絞首刑された) 3. 比国全土にわたる虐殺事件、マニラ聖パウロ大学で800名、マニラ北方墓地で 2000名、ラグナ州カランバで2500名、セブ州ボンソン島で400名、タ ブアオで170名などが判明している。


4. 米軍によると「軍事裁判」本間、山下両将軍を裁いたのは「東京の極東国際軍事 裁判」でなく、アメリカ太平洋陸軍総司令部が単独でマニラ法廷を組織し「司令 官も部下が犯した犯罪に最終的責任を有する」との法理論を盾に、死刑判決を下 したと国際的に厳しい批判を浴びた。

フィリピン人の戦後対日憎悪 他の東南アジア諸国に比して、比国人の対日ゲリラ活動が活発で日本軍の掃討活動も激 化し、惨禍をもたらした背景には、独立は既にアメリカ政府からコモンウエルス政府の 形で事実上発足しており民族自立を援助するという日本政府の「大東亜共栄圏構想」は いらぬお節介という事実があった。ここがインドネシアとは違う。

第 8 話 日本人とフィリピン人を 戦後55年にわたって日教組や左翼政党や左がかった新聞を怖れて封印されていた隠れ た戦後史の謎をこの辺りで掘り起こしておきたい。ここに掲載したのは単なる風聞・伝 聞の類ではない。(岡

昭)

バターン死の行進 太平洋戦争中、緒戦の段階でマッカーサー将軍率いる米比軍はマニラ湾の西側にあるバ ターン半島で、日本軍による唯一の敗戦を喫してマッカーサーは潜水艦でオーストラリ アへと逃亡した。そして翌42年4月9日には全面、日本軍の圧勝だった。しかし、こ の圧勝が悲劇の引き金となった。当時バターンには飢えと伝染病い苦しむ約一万二千人 の米軍将兵と六万四千人の比軍将兵がいたが、日本軍にはこの七万六千人にもの予想外 の捕虜に供給する食料も輸送用のトラックも十分ではなかった。この結果やむなく軍は 捕虜をルソン島中央部のサンフェルナンド(パンパンガ州首都)まで、真夏の炎天下を 歩かせるという無謀な決定を下した。

これが戦後の米軍マニラ軍事裁判で追及された

「バターン死の行進」だった。 そして、日本軍の責任者として追及されたのが初代のフィリピン派遣軍総司令官「本間 雅晴」中将だった。彼はその当時の比国軍政が手緩いとして本国に召還されて退役にさ れてしまった。戦後逮捕されたときにはバターンがどこだったのか?そこで何が行われ たのかを知らなかったと言う。しかし、このバターン死の行進は炎天下を食料も十分で なく歩かされ約二万人の米比軍将兵が亡くなった。何故こんな暴挙が行われたかと言え ば「一に八万人近い全く想定外の大量捕虜を残して最高司令官マッカーサーだけが逃げ 出したこと」

「二に軍事作戦上、日本軍は部隊を南へ転進させる必要があり、大本営

作戦部の辻正信参謀から本間中将が手緩いといの批判が出ていた。」という理由と背景 から「死の行進」が強行されたのだった。イギリス駐在武官だった経歴のインテリ将軍


だった本間中将は追い落とされて退役隠棲家中を逮捕されて、比国で「銃殺刑」に処せ られた。

東京国際軍事裁判 その本質を最初から見破っていたのは、インドのパール判事だけだった。曰く「アジア を植民地にしてきた欧米に日本を裁く資格はない」と。そもそも東京裁判は開幕冒頭に 東条被告の弁護士が 戦勝国が敗戦国を裁く資格などない。つまり管轄権がない。 と主 張すると法廷は返事が出来なかった。又、日本側弁護人を務めたアメリカ人弁護士ブレ ークニーは 原爆を落とし、無差別殺人をやった国がなぜ日本を裁けるのか と発言して 法廷がうろたえるという場面があった。南京虐殺事件でも中国側が三十万人というのに 対して実際に見た殺人は一件とし伝聞ばかりで、裁判長以下判事団が「証拠として採用 出来ない」と言っている。そしてあのピストル自殺で「死に損いの恥さらし」となった 東条英機被告は「日本国民に対して自分は有罪。連合国に対しては無罪」といい切り、 孤独な中で見事に戦い切ってキーナン検事をたじたじとさせ、粛々と絞首刑を受けて刑 事の露と消えた。 これらの東京裁判が○した史観は「日本が二度と米国の軍事的脅威にならないこと」 「日本人に徹底的に過去への罪悪感を植え付ける事」「精神的にも武装放棄をさせるた めに憲法を作ること」であったが、米国の意図は見事に成功した。

我々日本人はこれ

らの表裏を良く読んで、二十一世紀への国家経営の指針としなければならない。

戦犯裁判「鴨緑丸事件」 1945年(昭和20年)1月30日連合国俘虜護送指揮官の陸軍中尉「都子野順三朗」 は門司港の埠頭で米軍の俘虜代表に「無事に護送したいと祈ったが思わぬ被害を受けて 気の毒だった。そうにもならなかった。十分に静養して、健康を回復されたい」と別れ の言葉を送った。

米軍機の猛攻に耐え、苦難の航海を俘虜護送に過ごしたこの中尉に

対して、横浜のBC級軍事裁判は、思いもかけない罪で「死刑」を宣告した。 彼は民間の貨客船「鴨緑丸」に邦人1800名、連合国軍俘虜1600名を乗せて44 年12月14日マニラ港から台湾の高雄港へと向かった。所が何と途中米軍機が猛攻を かけて、激しい浸水で船体は傾き出した。そこで已む無くオロンガポ軍港に避難して時 期を待っていた。 この間に米軍機の攻撃で死亡した俘虜は約500名に達していた。

然し、真面目過ぎ

る彼はその後も台湾の高雄を経由して450人の俘虜を日本へ護送して責任を果たした。 ところが戦後彼は米軍に逮捕され「戦争の危険から保護する適当な手段を講じることを 怠り拒絶した」と告発され僅か2ヶ月足らずの審理で絞首刑の判決を受けて刑場に向か った。


更に、比国内にある連合国俘虜収容所の最高責任者だっ・・・・(ここまでで終わって います)

第 9 話 太平洋戦争中、日本軍セブ島での戦い

日本軍セブ島に上陸 昭和17年(1942年)1月2日マニラを占領した日本軍は、間もなく4月10日に セブ港に上陸してビサヤ地方制圧の根拠地とした。

当時のセブ島は平和な町で南はア

ルガオから北はダナオに至るまで「軽便鉄道」が通じており、レイテ島からネゴロス 島・パナイ島に至るビサヤ地方の中心地として繁栄していた。 進駐した陸軍の中心は第35軍(片岡中将)、船舶工兵隊(鬼頭中佐)など。

海軍は

陸戦隊(原田少将)が主力であった。 当初は市民との交流も円滑に進んだというが、軍票の乱発と食糧の現地徴発などによる 食糧枯渇や異常な物価高騰などで民心は急速に日本軍から離反していった。

抗日ゲリラの抵抗 セブ島における抗日ゲリラの中心人物はアメリカ人「ジェームズ・クーシン中佐」だっ た。

彼は戦前セブ島トレド山中の銅鉱山(今のアトラス・マイニング)に技師として

勤め、比人の妻と平穏な生活をしていたが、戦争で米軍中尉となりトレド近郊山中のス ドロン村に立て篭った。

マッカーサーが最初日本軍に敗れて豪州へ逃げた後も、山中

で比人ゲリラ(日本軍では「山の兵隊」と呼ぶ)を指揮して、ミンダナオを経由して米 軍総司令部と連絡を取りながら、米軍の比国奪還を待っていた。 これら「抗日ゲリラ」の討伐を専門的に担当したのが、昭和19年1月末に新しく派遣 された大西中佐以下1000余名の熊本編成・独立歩兵大隊であった。 中国戦線から転属された見るからに屈強な精鋭ばかりで、セブ市ダナオ・ナガ・トレ ド・バランバン・ドマンホグなどセブ島の各地に駐留したが、ゲリラの掃討作戦は思う に任せなかったという。 年内にはマッカーサーが戻ると信じる住民は、山で抵抗を続けるゲリラを英雄視して物 心両面で支えていた。この大西部隊によるゲリラ掃討作戦が、その過酷さの故もあり後 日戦犯裁判を引き起こした。


米軍セブ島タリサイに上陸 昭和19年9月12日には反撃が軌道に乗った米空軍グラマン艦載機数百機がセブ市と 近郊の爆撃を開始した。

これは、10月20日レイテ島タクロバン近郊へマッカーサ

ーが上陸する作戦の前哨戦であった。

セブはレイテ島を支援する日本軍の基地だった。

そして遂に昭和20年3月26日には米軍がセブ市の南郊「タリサイ岬」に上陸を開始 した。当時の日本軍の兵力は陸軍が約8千6百名、海軍が約5千3百名と記録される。 全部合わせても約1万4千名、保有する小銃は3千挺に過ぎなかった。 大砲・重機関銃などは全てレイテ戦線に投入されて1基もなしで衆寡敵せず、早くも4 月10日には組織的抵抗戦力をなくして、「天山」(ブサイ山頂)から「500高地」 (ダナオ北西山岳)を経て、セブ島北部へと飢えに苦しみながら、転進敗退して行った。 食糧もなく、飢えで死んだ兵隊や在留邦人はその半数以上に達し泣き叫ぶ邦人の子供を 兵隊が殺すという悲劇も生じた。

カモテス諸島作戦の悲劇 セブ市の近郊にあるリロアンには「暁第6142部隊」という船舶工兵第一野戦補充隊 が駐留していた。しかし米軍上陸で戦局急を告げるレイテ島へ作戦出動することとなり 松井少佐が4百名を率いてオルモックへ上陸した。 しかし、すぐ後で米第77師団がオルモック南方イピルに上陸して反撃され、殆ど全員 が戦死したという。日本軍は更なる反撃を企図して数日後の昭和19年12月中旬にオ ルモック対岸のカモテス諸島ボンソン・ボロ島で日本軍が400名以上の住民を虐殺し たという事件が指摘されてきた。(日本軍側の記録では、ゲリラ掃討作戦の一環という)

ボゴ・メデリン強姦事件 セブ島最北端にあるメデリン町の旧砂糖工場に駐留した日本軍ゲリラ討伐隊が、無実の 一般市民を強姦・強殺したとして、戦後米軍特別法廷で裁判となった有名な事件がある。 日本軍が支那駐留地からゲリラ討伐専門にセブ島へ派遣されて、勇名と悪名を噂された 大西中佐率いる独立歩兵大隊であったこと。また判決で13名が絞首刑を受けたこと。 その後、絞首刑軍人の中からセブ島にはいなかったと証明された者、同姓だっただけで 明らかに異人だと証明された者などが出て、比人証言者の質と虚言が蒸し返されて大問 題となったことがある。

戦争の虚しさを知ることから 何かが生まれる。


参考資料 1. 「山の兵隊」柳井乃武夫著 2. 「リロアン」船舶工兵第一野戦補充隊の足跡 3. 「さらばセブ島の落日」万田村

純著

第 10 話 戦後における日比交流の軌跡

フィリピン共和国の独立 日本敗戦の直前1944年10月23日には、既にセブ島出身のオスメニア大統領がレ イテ島にコモンウエルス政府を樹立していたが、正式に46年7月4日にフィリピン共 和国の独立を宣言して、ロハス大統領が就任した。 この間、敗戦直前には戦争中の大統領だったアキノらは日本に亡命しており、日本軍の 山下奉文大将や本間雅晴中将は戦犯裁判で処刑されていた。

日比間の戦時賠償協定 1952年1月には日比賠償会議がマニラで開催され、最初は主に沈没船引き上げにつ いて協定を結びながら56年には最終的な日比賠償協定が締結された。 そして56年7月には戦後初めて日本大使館も開設された。私自身も、57年に比国に 賠償機械として引き揚げられ、マニラ港外の空き地に山積みされた赤錆だらけの工作機 械をフィリピン国内で活用する方法を助言するプロジェクトのために比国政府の招聘を 受ける形で、まだ焼け跡のマニラへと足を運んだ。

当時の反日感情はまだまだ凄まじ

いもので、日本人であることを必死で隠しながら行動したものだった。

日比友好通商航海条約の批准 この戦後一番重要な条約は60年には早くも調印され、翌61年には日本の国会でも承 認された。しかし、その後の比国審議会では長い間与野党間の政争の具にされようやく 73年になりマルコス大統領の強権発動で批准書交換にこぎつけられたという経緯があ ったが、これが戦後フィリピンの立ち上がりを遅らせたという有識者もいる。 それ程にも戦後の対日憎悪は厳しいものがあった。

然し、


マルコス大統領の独裁 1965年にマカパガルを破って大統領に就任した英才の誉高いマルコスは、長期的な 日比間の関係強化を目指して次々に政策を実行に移した。 「青年海外協力隊の派遣承認」 「日本商社の事業活動を承認」 「マニラにアジア開発銀行を設立」 「日比合弁企業の設立認可」 「日本航空のマニラ線開設許可」 「政府派遣遺骨収集団の集骨許可」 「政府派遣『青年の船』が訪比」 「日本産業見本市の開催」 「日比租税条約の締結」 「ルネタ公園の日本庭園を完成」 「日比航空協定の締結」 「巡回見本市船の訪比」 「投融資調査団の受け入れ」 「政府派遣経済使節団の訪比」 などなど、矢継ぎ早で果敢な対応が日本側でも高く評価された。 しかし、これに反発した上院は72年3月に日比友好通商航海条約の批准拒否を決定し、 マルコスの戒厳令を誘発する因となった。 そして結局は戒厳令下に強健で批准され批准書が交換されることになった。

批判され

ることの多い独裁者マルコスも、その政権の初期においては革新の旗を掲げて随分と有 効な政策を取りあげて来たと云われる。

マルコスの功罪とアキノ革命 マルコス政権の末期、82年頃には確かにマルコス大統領への不満が鬱積し特にその矛 先がイメルダ夫人へと向かっていた。 「雌鳥囁いて天下の秋を知る」という中国の諺どうりだった。 腎臓病に悩むマルコスが多分知らぬ間に、バル参謀総長と組んだイメルダ夫人は強行帰 国するアキノ元上院議員を衆人環視のマニラ空港で暗殺したという。

いまだにこの真

相は定かでない。しかし、この後のマルコス政権側の政治的対応は拙かった。そして有 名なEDSA革命へとつながって行く。86年の大統領選挙で大規模な不正が行われた ことに反発したエンリレ国防省とラモス参謀次長が若手国軍改革派(RAM)の支援で 立ち上がったのが、この2月の民衆革命で、マルコス一派はアメリカへと亡命を余儀な くされた。


この後を継いだのが、普通の家庭婦人から押されて大統領になったアキノ未亡人だった が、民主政治体制の基盤を築いただけで、国軍改革派の反乱に悩まされ続けて政治的に はなすこともないままに現大統領「フィデル・ラモス」に後事を託した。

海外出稼ぎと「ジャパゆき」 1962年以降、商社活動が承認を受けて活発化し、岸・池田・佐藤・大平らの首相訪 比も相次ぎ日比の関係も徐々に円滑化し経済を中心として進展を続けた。 特に1970年代以降、緊密の度を増しつつある

更に親日的なアキノ政権以降は、政

治・経済を中心に人的交流も盛んになってきた。「海外出稼ぎ大国」といわれるフィリ ピンは82年には「フィリピン海外雇用庁」を設置して、全面的に促進する政策を取っ てきた。 かつて19世紀の終わり、明治大正時代には多くの貧しい日本女性が「口減らし」のた めに売られて、東南アジア・フィリピンなどの各地で娼婦とされ働かされ「からゆきさ ん」(唐行き)と言われた悲しい時代があった。 戦後の経済的立ち上がりが遅れて「アセアンの病人」とまで言われた一時期のフィリピ ンからは多数の若い女性が「ジャパゆき」と称せられて、日本の夜の街へと出稼ぎに渡 航した。

現在日本人が最も多く結婚する外国人はフィリピン女性であり、対日憎悪間

を拭いさった陰の功労者と言われる。


第 10 章 懐かしくも苦い「回想のフィリピン」

回想のフィリピン 1 東京羽田空港を飛び立ったエア・フランスのプロペラ機は8時間余もかかって、マニラ の上空にさしかかっていた。初めてみるこの熱帯の街はトタン屋根の赤茶けた家並みと、 数え切れない椰子の木が極めて印象的だった。然しそれよりもこれから来るであろう税 関との『英語会話』に対する恐怖で、窓の外の風景など眺める心境になかった。飛行機 の中で『コーヒーかティか?』と聞かれたのに満足に返事も出来ず、『入国カード』も さっぱり書けず困り切った一人旅だった。 プロペラが止まり、窓からボンヤリとバラックに近い空港建屋を眺めているところへ、 開いたドアから数名の人たちがドヤドヤという感じで入ってきて何事か説明している。 然し私にはサッパリ分からない。その内になんと『ミスターオカ・ミスターオカ』と言 っているようだ。なんと困ったことになったと思ったがどうしようもない。どうも私を 探しているらしく『ミスターオカ』と言いながら両側を見渡しつつ近ずいて来るのだ。 どうにもならない。黙って手を挙げたのです。 さあそれからが大変。何か英語らしい言葉で言うのだが、さっぱり分からない。『ア イ・ドント・ノウ』と『ノウ・ワカラナイ』の連発。皆がゾロゾロと降りて行くのに一 人の職員らしいのと、スチュアデスが、身ぶり手ぶりでそのまま座席に座っているよう に言う。戦後12年経っているとは言うものの、フィリピンの対日感情は極めて悪く到 着早々何かされるではと、戦々恐々。流れる汗に顔中汗まみれ、困った困った本当に困 った。然しスチュアデスがニコニコしているのだけが救い。 そして乗客はもう誰もいなくなってしまった。そして一人のなんとなく正装した感じの 人がやってきて、手ぶりで『どうぞ』という感じで出口を指し示す。分からないなりに 『どうでもよいわい』という感じで歩いたものの、内心はビクビク。どうもこの辺は 『ニノイ・アキノ』の心境も如何ばかりかと思われる。 出口から出たらサア・ビックリ。階段には赤い絨毯が敷かれ下に何人もの正装の人達が ニコニコと立ち並び拍手だ。何が何やら、正に『ハトに豆鉄砲』とはこの事だ。紹介さ れながら握手するのだが、さっぱり分からない。私の知った顔が一人もいないのだ。た だもう訳も分からずただニコニコとしていたが、案外顔はこわばっていたかも知れない。 後で知ったことだが、一番えらい正装の人は、今は忘れたが『上院議員』だったそうだ。 その後税関へと進んだのだが、そこには旧知の日本語の分かる『ダ・コスタ』氏がおり ホットした。私はその頃まだ髪の毛もフサフサした29才だった。そして『フィリピン 最初の国産ミシン』をシンガーに対抗して作るプロジェクトに、当時日本からの『賠償


機械』で未利用のまま、野天に山積みされていた機械の利用方法を開発するべく政府の 特別許可を受けて、フィリピンへと足を運んだのだ。然し英語も良く話せないのに、い い格好してやって来たもの。若さから来た野放図とも言えよう。アメリカのシンガーミ シンに対抗して国産品を開発しようという、当時は熱気のあったフィリピンになんとか 手助けしようという若気もあった。当時は私自身父の経営するミシン工場で働き、なに がしか金儲けの足しになる可能性も考えていたかも知れない。

回想のフィリピン 2 当時アメリカのシンガーに対抗してフィリピン国産のミシンを作ろうと計画したのは、 なんとアメリカ人のウイルソン氏だった。 彼はハーバード大学出の旧アメリカ軍将校で、韓国・日本駐留を経た後、除隊しフィリ ピンで貿易業を始め、日本商品に着目成功していた。天性、感の良い彼はミシンに注目 早くもアメリカ向けに怒涛の輸出で好評の日本製ミシンを国産化しシンガーが独占する フィリピン市場をものにしようとした。 然しフィリピン政府は機械の輸入を許可せず、日本から賠償で得た『雨ざらしの機械』 を五割以上使えばミシン専用機輸入許可をしようと言う条件をつけた。この事業が私の 目的だった。当時は未だ一般日本人の入国は殆ど不可能に近く、商社の支店開設も正式 には認められず、僅かな人々が短期駐在でいた位だ。 マビニ界隈には『カレサ』(馬車)走り、それでもどういう訳か一軒だけ『熱海』と言 う日本食堂があった。今の『いせや』のあたりだった記憶。到着早々歓迎会がロハス大 通り沿いの『カサ・マルコス』スペイン料理点で盛大に開かれたg全くのチンプンカン プン。これは大変なことになったと困惑しきり、旨そうな料理も一向に喉に通らず、隣 席のキレイな『ダ・コスタ』支配人夫人の妹としゃべれないままに、ニッコリしている だけだった。 これはまず英語をものにしないかぎり、公私共に何ともならぬわいと、遅ればせながら 気がついたことだ。最初に気がついたことは、下手に文章を作ろうとせず、単語だけポ ツリポツリと並べる方が通じ易いと言うこと。今でも英語はさして上手ではないが、当 時はこんなレベルでスタートしたもの。 総支配人のダコスタ氏は日本生まれの英国人だったが、日本語は何とか日常会話が通じ る位、然し非常に優秀なビジネスマンで後にはNCRフィリピンとNCRブラジルの社 長に出世した。フィリピンのビジネスについても第三者的な眼でそれは良く教えられた。 社長のウイルソン氏はアメリカ人特有の明るい実業家で、ビジネスマシン・コーポレー ションが本業、キャノンの代理店として盛業だった。彼とは心臓病による1984年の 急死まで親しい交友が続いた。 さてマニラに着いてからの仕事は、まず政府の賠償管理局と交渉してどの機械から使う かを決めることだった。中には日本へ持ち帰って自分で使いたいレベルの機械もあった


が、殆どが欠品だらけでどうにもならない者が多く相手の知識欠如につけ込んでひどい 機械を員数、金額だけ揃えて送り込んだ感じでひどく嫌な思いをしたものだった。それ でも二週間近くかかって、港に近いナスコの野天置場から比較的良さそうな機械を選別 使用することにした。 この頃にはさすがにどうにもならず、ある商社の人に通訳を頼んだが、この国で仕事を するには英語が第一条件。社長のウイルソン氏は私より二才年長だったが、未だ独身で、 毎晩ロハス大通りの『ベイサイド』ナイトクラブへ通ったものだ。家事でオーナーは変 わっているがベイサイドは九十年代まではあった。 英語は女性から習得するに勝る方法はない。今何とかこのフィリピンで仕事が出来るの は20代のこの頃遊び歩いた結果だろう。 それにつけても、当時マニラ港の機械置場へ行く度に大人に睨みつけられる対日感情の 悪さ、子供達の戦時歌謡『見よ東海の夜明けて』の歌声が耳に痛く思い出される。

回想のフィリピン 3 何とか戦時賠償機械を使いこなす事にして買い取り契約をすまし帰国して、すぐにミシ ン専用加工機を手配しマニラへ戻った。このミシン工場は鋳物・ヘッド機械加工・塗 装・組み立ての一貫工場で木製品のテーブルだけが、フィリピン側の担当で後の全ては 30才に満たない若い私の責任だった。 一番困ったのは良い『鋳物砂』が無いことだった。同行の鋳物砂専門技術者『松浦』君 と地質研究所の地図から良さそうな所を選び、片っ端から歩き廻った。後で聞けば当時 ルソンで暴れまわっていた共産系ゲリラ『フクバラハップ団』の本拠地近く迄ウロウロ していたようだ。20か所以上も探しまわって、やっとバンガシナン川の川砂で良いも のを見つけた。 この砂探しにはホトホト困り果てた。鋳物砂はミシン頭部の品質を左右する最大の要素 だった。我々20代の若さと日本人特有の根気があればこそだ。当時は政府の許認可も なく取り放題だったが、2ー3年の内に厳しく認可料を取るようになり遠くロンブロン から運んだほうが安くなってしまった。 政府が手近な欲にかられて地元に育ちかけた産業を潰したようなものだった。色々と問 題もあったが一年足らずの間に操業を開始。工場はマンダルーヨン市のキングアルバー ト通りにあったが、その頃は未だアメリカ名前が殆どの地名だった。今はJRC大学の 横になる。このフィリピン・ソーイングマシン社もその後主として鋳物と機械加工でを 発展し、昨年に移転し三菱・トヨタなどの自動車部品を作り『メタコア』社と改称され た。


我々が何もない所に芽をふかせ立派に育ったのを見るのは気持ちの良いものだ。それに つけても35年前の機器がそのまま動いているのをみるのはフィリピン人の修理保守能 力高く評価して良いのか、改善改善改良への努力欠如を嘆くべきなのか、微妙な点だ。 ここにも政府の政策が一つの産業を破壊してきた姿がかい間見える。と言うのは、この 国産ミシン誕生の暁には輸入を禁止して育成すると言う約束がシンガーの政治力で反古 にされてしまったのだ。当初は彼らもタカを括っていたのだが、意外にも早く良い品質 のものが出来て、これは良い品質のものが出来て、これは大変と完成輸入品の継続と輸 入部品の高率関税化を推し進めた。フィリピン政府のアメリカ人社長への反感もあった ようだ。 これらの事情もあり今一つミシン部門は成功とは言えない。しかしシンガー以外の色々 なブランドのミシンは全て今もこの会社のものだ。ともあれ私の青春を注いだ工場が5 0年たっても隆々と発展しているのは、何物にも代えがたい喜びだ。さて工場建設当時 の1958年はフィリピンも東アジア最大の輸出国家として羽振りも良く、今のマカチ 市が開発に本格着工し始めた頃だ。EDSA沿いにはコカコーラやアメリカ系のモダン な新工場が立ちはじめてはいたものの、マカチには未だ水牛がノタリノタリと草を喰ん でいる時代だった。超高層ビルの立ち並ぶ現在のマカチからは想像すべくもない。フィ リピンもそれなりに発展したと言える。 当時のままの姿はサリサリストアとトロトロ飯屋だろうか。また特権富裕層と貧民階級 の格差もそのままだ。やはり政治が経済を破壊し続けている姿もそのままのようだ。た だ当時は軍の規模も3万人たらずで、規律が問題になることはなかったようだ。軍警察 が幅をきかす今よりはよかったのではないだろうか。

回想のフィリピン 4 毎晩のように社長のウイルソン氏とベイサイドを始め飲み歩く内に少しずつ英語も上達 し、若さと金にまかせて遊び始めた。父のミシン工場も景気は良くお金に不自由もなく、 川砂も見つかりホッとした頃だ。今のAG&Pや色々な大工場を見て廻る内に小さな鋳 物工場を見つけてこの技術指導をして下請けに予定したが、どうもこのオーナーの一人 娘に惚れたようだった。この女性が私の英語を何とか物にしてくれた。毎晩のデートで は否応なしに勉強せざるをえない。父親から怒鳴られながらも毎晩出かけてくれた人も 羨む美人だった。が、戦争中の名残が色濃い当時日本人との色恋など全くの御法度で、 泣く泣く父とともにオーストラリアへ帰る羽目になった。私の青春ロマンスであり英語 取得の恩人でもあった。 工場建設の進展につれて従業員が我々日本人を『パグサンハン』の滝昇りへと招待して くれた。ダコスタ総支配人の配慮があったのだろう。当時はテレビでまだまだ反日映画 が隆盛を極め、日本兵が赤ん坊を投げて銃剣で突き殺す場面が、必ずでてきたものだ。 従業員共々ピクニックに行く等到底考えられない一般社会の空気だった。それだけに九


州男児で感激し易い松浦君はおう張り切り、明るいフィリピン人の本性に触れたような、 楽しい一日だった。帰りの車(トラック)の上では楽しい楽しい熊本民謡『おてもやん』 の大合唱だ。 政府のお役人から町中では絶対日本語を使わないように注意されながらの比の大合唱、 良いのかしらと不安ながらも若い従業員の『おはやし』と酒の勢いもあってこれほどフ ィリピン人に友情を感じたことはなかった、帰国後の松浦君はフィリピンと言えばいつ もこの話題でした。 もうこの頃は工事の進展につれ彼の他に『機械加工』の伊藤君、『塗装と組み立て』の 高山君と三名の技術者が来ていた。いずれも20代の青年ばかりだったが英語も分から ない熱帯の異国で、慣れぬ食事の中2年近くもよく頑張ってくれたと感銘新たなものが ある。比のような昭和一桁戦中派が今の日本の礎を築いてくれたのではだろうか?勿論 当時は日本食堂もカラオケもなく、テレビを見れば小さくなっていなければいけなかっ たのだ。あれから50年、日本もすっかり変わった 。 私自身84才になったが、未だ『人生余熱あり』どころか『人生未だ燃焼中』で過去を 振りかえるつもりは、サラサラないが折にふれて思い出すことやら、行動を共にした青 年のの事どもを回想したくて、筆を走らせている。それにつけても、当時と今とこのフ ィリピン人の本性の変わらなさは、土性骨だにろうか?あるいは全てに『あきらめ』が あり何してもどうにもなりはせぬと言うことなのだろうか?未だに良く分からない。或 はカトリックの教義が長年の間にしみ込ませた性格かも知れない。 また反面日本人のような物欲中心の考え方にこそ疑問を抱くべきかも知れない。変化の ない社会にこそ、意外と心の平安をもたらす何かがあるのだろう。過去の回想から色々 と考えることがあるものだ。

回想のフィリピン 5 二年近く掛って本格操業が軌道に乗ったのを見てからは、このミシン工場から我々日本 人技術者は引き揚げた。この二年近く部品供給を、或る中小商社を通じて輸出していた が比の商社が倒産、フィリピンから預かっていたお金をパーにしてしまった。当時ミシ ンにはチェックプライス(最低輸出価格規制)制度があり、LC金額は実際価格よりも 高くこの差額が日本側の預かり金になっていた。 当然返す義務がある。これはマア違法行為だったが十人が十人やっていたことだ。私は 日本人の恥になるとして、この倒産商社の預かり金を全額ウイルソン社長に。それ以降、 前にもまして彼との交友は深くなった。商社は何よりも信用第一と痛感したことだ。然 し日本経済の発展につれて、日本製の部品が高くなり、この部品輸出の仕事は当時別の 取り引きがあった「東洋綿花」に引き継ぎ台湾からフィリピンへと変わった。これ以降


は一応フィリピンとの商売はなくなりウイルソン氏との個人交友だけが続いていた。毎 年のように私が行ったり彼が日本へ来たりしていた。 1962年頃彼は新婚旅行に日本に来たが、奥さんはフィリピンの一流バッテリーメー カー『ラムカー』者のお嬢さん。今はご主人のウイルソン氏が亡くなり『ビジネスマシ ン社』『メタコア社』『データグラフィック社』『ラインマーケティング社』の一流企 業グループの総帥として活躍中だ。 人の世の『縁』は何時までも続くもの、大切にしたいものだ。1973年当時大学卒業 前の息子『正樹』をマニラのウイルソン邸に意識して遊びにやった。外国の空気に触れ、 英語の重要さを身に沁みさせ、狭い島国根性から脱却させたいと思ったからからだった。 一言も日本語の通じない環境の中に放り込まれて困ったようだが、それでも若さと心臓 で結構楽しんで一か月の夏休みをエンジョイしたらしく羽田へ文無しでたどり着いた。 当時は私も経済的に苦境でもあり、息子も地下鉄の土方仕事のアルバイトで旅費の殆ど を調達していた。安易に親の援助で海外旅行する風潮があるが、これは本当の国際人と しての見識を養えるチャンスを自ら放棄している結果にならないだろうか?比の一度の 海外旅行が商社マンとして働きたいキッカケになった。彼も今では「伊藤忠商事直系の 伊藤忠メタル(株)代表取締役兼社長」として活躍するようになり、私の家族も親父は フィリピン、息子はアメリカ、娘は日本と文字通り『インターナショナル・ファミリー』 になってしまった。

閑話休題。

回想のフィリピン80年代 1957年(昭和37年)フィリピンに初めて渡航してから40年、1980年永住を 初めてからでも早や17年、滞比期間を換算すれば35年近くにもなった。親会社があ る訳でもなく、一匹狼として事業を引っ張って来た経験それも失敗談を主としてのフィ リピン滞在を回想し、この随想が何らか「フィリピンで生きる知恵」のご参考になれば 幸いとして、折にふれ筆を進めて見たいと思う。

比英語に慣れたころ 1981年、マニラにいた頃の経験です。

57年に賠償機械の活用策でマニラに1年

以上来てアメリカにもいたから、やはり長い間使ったり使わなかったりしたため、フィ リピン英語がスンナリとは耳に入って来ず、毎晩のようにマビニ通りの日本式スナッ ク・クラブ「KAYO」のカウンターに座って若い女の子と雑談していた。 つと比英語にも慣れた。

半年も経

金がないから専らカウンター席だったが、ビール2本で1時

間粘って15ペソ(当時レートで450円)であった。


このようにして、ある程度会話に慣れて自信らしいものが芽生え始めた頃この頃が、今 にして思えば一番狙われやすい時期に来ていたと思う。

詐欺師が声をかけて来た 当時事務所はビジネス・センター「マカティ」の日航マニラ・ガーデンホテルの中にあ ったが、ホテル前のタクシーは高いので近くのシューマート前に行き、キョロキョロと タクシーを探していた。

昼で銀行が閉まる前に現金を引き出してたくて急いでいたの

だ。 一人の若いフィリピン男が声をかけてきた。「日本人か?

私も沢山のニッポンジン・

トモダチがいるが、みんな良い人ばかり」という雑談。タクシーが来たので、そのまま 「グッバイ」。銀行で現金を引き出してから、事務所へ戻るべくタクシーを待っていた が間の悪いときでタクシーがつかまらない。

イライラしていた所へ突然1台のジープ

が止まり「ヤア、トモダチ」と先ほどの若い男だ。

運転手は50過ぎの老人。

「どこへ行くんだい」 「マニラ・ガーデンだよ」 「ああそれなら近いから、乗ってもいいよ」 運転手は老人、白昼の街中だから、何の警戒心もなく、むしろホッとして乗ってしまっ た。

詐欺師のシカケ この若い男、決して「うさん臭い感じは」はしなかった。

調子良さそうな感じでしゃ

べりまくのだが、これはフィリピン人タイプによくある例。 「運転する老人は父親で、退職したばかりの警官」 「たばこはどうだ?

マルボロならあるよ」

「日本に日本人のガールフレンドがいる」 「姉はマカティ・メディカルセンターに勤める看護婦だ。

妹はまだ大学生だ。」

などなど。まあ言えば「私は安心な男だよ」という自己宣伝だった訳だから、これから 入ろうとする詐欺師行為の「シカケ」を一生懸命にしていたのだろう。私自身は「ああ 俺の英語も問題なくなってきたようだ」と多少はいい気分だった。 「日本の女友達から手紙が来ているからが、日本文だから分からない。

10分くらい

家に寄って翻訳してくれないかい」という訳で気安くOKしてしまいました。 が家というのがグルグル回ってバコを経由しキアポに近い路地の奥。 分からないようにしていたようだ。

ところ

後で探そうにも


詐欺師の住み家 ゴミゴミした路地の奥にある家はあったが、意外にも小奇麗でカラーテレビ・ステレオ もあり、ちょっと驚きながらも安心した。

しかし銀行で下ろした現金2千ペソ(私に

は大金。当時1ペソ30円)はしっかりと押さえて体から離さないように気を張ってい た。 30過ぎの小太りの姉が出てきて確かに日本語の手紙を見せられたが、何と言うことも ない単なる礼状でラブレターでも何でもない。今にして思えば女文字ではなかったよう にも思えるため、一つの用意された「小道具」だったのだろう。西瓜やバナナを出して くれたり通訳料として50ペソを払おうと出してきた。

トンデモナイと断ったら、そ

れでは気がすまないから妹がアルコール・マッサージのエキスパートだから、一休みし てくれとのことだった。

このアルコールで拭くマッサージは、フィリピン人家族が気

に入った来客への最大のサービスで民族の誇る習慣だという訳。 そんな習慣など聞いたこともなかったからが、10分でサッパリするというし、妹とい うのがスラリとした色白の美人だったからホイホイとマッサージを受け、10分後お礼 を言って送ってもらった。 詐欺被害は「お札が新聞紙に化けた」事務所へ送られて、しっかり見ていた筈の財布か ら出てきたのは「札サイズに切断した紙切れ」いつすり替えられたのかは今もって分か らない手品。

フィリピンの心霊療法ヒーラー ヒーラーのいる町へ 83年当時、日本でもテレビで色々な心霊療法が紹介されてブームとも云えるようだっ た。マニラの有名な心霊療法士(ヒーラー)へ日本の女優が通っていると噂されていた。 しかい、このマスコミで有名なヒーラーは法外な外国人値段を吹っかけるというので、 田舎のヒーラーへ出かけることにした。 当時私は、首の下に脂肪瘤が出来てカッコ悪く、又肩こりが続いていた。

この為に、

当時付き合いのあった女性家族と「物は試し。行って見よう」ということにして、ジー プニーをチャーターした。田舎なりに有名だという「ヒーラー」(心霊療法士)がいる 町はマニラから南へ高速道路を走り続けて終点のカランバを下りて左折、しばらく行く とロスパニオスへ到着する。

ここは国立大学の最高峰「フィリピン大学」も農林学部

や、「アジア米作研究部」があって当時から開けた地方都市だった。このロスパニオス からバイへの町へ走る途中に「心霊療法士の館」はあった。

マニラを早朝3時に出て

6時前には到着には到着したのに、受付番号は143番号だという大変な混雑。


おそらく午後になるということで、余り遠くない観光地として有名な「パグサンハンの 滝昇り」へ行く。ところが途中から「カリラヤ・比島戦没者の碑」へと行き先を変更し た。日本と比国政府が日本霊園を造り、今も毎年8月15日の終戦記念日には日本大使 館が主催して慰霊祭が行われる、静かな眺めの良い素晴らしい公園だ。ところが、この 地を含むロスパニオス・バイ・カランバ・リパ等のラグナ集からバタンガス州にかけて の一帯は、敗戦直前に日本軍が比人市民を集団虐殺したとして、敗戦後しばらく日本人 が立ち入れなかった土地だった。

大繁盛の心霊療法「ヒーラー」 ヒーラーの「ブラザー・エミリオ」の治療所は路地の奥にある粗末な萱葺きの家だが、 十番を待つ人達でごったがえしていた。早い人達は前夜の9時に来て順番札をとり、そ のまま徹夜していたという。そしてこの繁盛が毎日のことだと云うから凄い。これだけ 多くの患者がルソン島各地から来るというからには、なにがしかの治療実績はあろう。 毎日患者は200名は下らないという。人事ながら懐を計算したくなる。

儲かってし

ょうがない。

お祈りの後の治療は? まずは、エミリオ術士の弟がコンサルテーションとして予め病状などを聞いておく。こ の後出口でタバコ?の若葉を渡し、これを揉んで患部に当てるようにとのこと。なんか 麻薬効果を期待してのアフリカ風土治療のような感じがする。待っている間にも、目の 前でエミリオ術士が老婦人の眼を治療している。鳩のような鳥の血をマッチ棒の先に垂 らして眼の下をこすっている。4∼5回こすったら次に「聖水の壷」の水を脱脂綿に浸 して拭いて終わり。眼が良く見えるようにとなるということらしい。女友達が後で、老 婦人に聞いたら段々良くなっているという。 名前を呼ばれてエミリオ術士の前にゆく。なぜかメガネと時計を外せという。部屋は狭 いし後の患者も側に立っているし、手品でごまかすという雰囲気でもない。何も聞かず に首下のコブに指先を当てて絞るようにする。心もち抓られたような痛みはあるものの 何ということはない。片手の指で強く絞めつけ、もう一方の指で何かを搾り出すように して2∼3分。何か魚か小鳥の「はらわた」のようなものを見せられて、一巻の終わり。 脂肪瘤が血管に近いから一度では取れない。来週に再度来るようにということだった。 勿論傷跡は何もない。

ヒーラーは効くのか?手品か? 患部から取り出された「はらわた」状のものは、どうも魚のはらわた臭い。

見たとこ

ろも臭いもそうだ。そしてこの腐ったような臓物の臭いは帰りの車中にまで漂っていた。


どう考えても机の下から取り出された手品のように思えるが、注意して見ていたのに分 からない。 ただ、不思議だったのはこの治療中も、その後でも麻酔薬が切れた手術後のように頭が ボンヤリした感じが残っていたことだ。治療費はたったの30ペソ(当時のレートで約 400円)だったから、やはり貧しい一般大衆には助けになるのであろう。一週間経っ ても、コブの大きさは変わらずアホらしくて再訪はやめた。しかし効いたという人は後 を絶たないから「病は気から」という事か又は5次元世界からのヒーラーなのか?今も 分からない。(結局私の脂肪瘤は数年後セブの病院で手術した。)

ホールドアップ実体験記

チンピラにやられた 初めてホールドアップ(強盗)にやられたのは1981年マニラに着いて間がない頃だ った。英会話に馴染むため毎晩夕方になると当時カルティ・マーケットに近い自宅のア パートから歩いて、マビニ通りのスナックへ通っていた。

タフト通りの裏道へ入った

途端に突然停電して辺りは辺りは真っ暗闇。突然後ろから抱きついた物がいて首を絞め ようとする。前にはもう一人が立っている。 闇に慣れてきた目には16∼17才の若者らしい。サッと体を沈めながら肘打ちして首 を絞める手から逃れ、若い頃鍛えた剣道二段の構えから「ヤー」と大声を張り上げた。 前にいた若者が後ろにいる一人に身振りで逃げようと合図しているのが分かる。ジーッ と無言でにらみ合いをする内に、彼らはそのまま得るところなく逃げて行った。あわて ずにジーと無言で構えただけだったのが、良かったらしい。 腕力に任せて反撃してはいけない。腕に自信のあった柔道の猛者がその頃ナイフで刺さ れて重症を負ったという記事が新聞を賑わしていた。それにしても街なかの裏道を歩く ことは危険極まわりない。

本格的強盗にやられた ほぼ同じ頃だった。

当時事務所を持っていたマカティの日航マニラガーデンからタフ

ト通りに近い自宅のアパートメントへ帰ろうとしたのは午後8時頃だったろうか。

テル前のタクシーは高いので少し歩いて流しのオンボロ・タクシーを拾った。当時のタ クシーはオンボロもいいとこ。雨の日に水の中を走れば車内に水がはいるので足を上げ ていなければいけない始末だった。タクシーは当時街灯もないレガスピー・ヴィレッジ の暗い道を走る。

事務所が閉まった後のマカティはちょっと裏へ回れば真っ暗だった。


表通りを走らず、暗い裏道ばかり走るなあとチラッと思ったが、近道してるだけだと理 解していた。 突然、交差点で止まった。

対向車があってのことと思う間もなく、ドアが開いて頭を

殴られ文字通り目から火花が飛び、メガネが吹っ飛んだ。当時、フィリピンでは乗車客 は運転席の隣に座るのが普通だったから、私も前の席に座っていた。これは困ったと思 う間もなく、強盗はナイフを突き付けて前の席へ二人がけ。

気がつかない内に後ろの

席にもう一人入り込んでいて後ろから首を羽交い絞めにする。そして絞めながら後ろの 席へ引っ張り、移れといい張り込まれてしまった。

運転手は終始無言のまま。

「持っている物は全部やるから乱暴はするな」 「それは良い。

全部出せ。」

「もう何もないか?

ウソをついたら殺す」

「もう何もないよ」 「分かった。

これから目をつぶれ。

目を開けたら殺す」

有り金全部、(当時で2千ペソ余)、メガネ、時計、万年筆、電卓など全部召しあげた ら彼らも落ち着いてきた。

彼らもそれなりに怖かったのだ。

「お前はチャイニーズか?」 「違う。

ジャパニーズだ。」

「それにしては英語がうまいじゃないか?

どこで覚えたんだ」

「何年フィリピンにいるんだ」 「俺達もこんなことやりたくない。

田舎から出てきたのに仕事がないから仕方ないん

だ」 「マルコスの野郎をブッ殺してやりてえ」 「メガネを返してくれ。

メガネがないと歩けない。

ているから返してくれ。

家に入れないから。」

「OK。

小銭入れには自宅のキーがつい

お前は素直だから返してやろう。」

ぐるぐると暗がりのレガスピー地区を目隠しのまま回った後で、降ろされた。 「ここで5分立っておれ。

その後は自由だ。」

無意識で一応は抵抗したのだろうか?

首と腕についた「黒ずみ」が消えたのは2週間

後だ。 この二人組強盗は間もなくマカティのリザール映画館(今はシャングリラ・ホテル)前 で警察と撃ち合って射殺された。 ご用心。

80年代から今に至るまで、余り変わってはいない。


ミンダナオ島「NPA]の襲撃

戦後初めて、機関銃の銃声を聞く 私たち戦中派は、太平洋戦争中から爆弾や銃の音には慣れっこだった。毎日のようにア メリカ空軍の爆撃と機銃掃射を受けて逃げ回るのが大学生時代だったのだから。しかし 戦後37年も経過して平和を謳歌する日本からフィリピンへ来て、再びミンダナオ島で 銃声を耳にしようとは夢にも思っていなかった。小銃はともかく、さすがに機関銃の音 は凄まじい。

私たちの年代は「学校教育」を受けており実弾射撃訓練もあったから、

小銃音と機関銃音の区分は直にも分かる。

ところが、そこに手りゅう弾の炸裂音が加

わってきたから、呑気物の私もサア大変と立ち上がった。 1982年頃、私はミンダナオ島北部カガヤン・デ・オロ市の郊外で日系合弁企業「家 具部材・木工工場」の経営責任者よして駐在していた。当時はミンダナオ島山岳部の各 所が「NPA](共産党系の新人民軍)の強力な影響下にあり、私どもの工場も例に漏 れずNPAの制圧下にあった山から「植林材・ファルカッタ」を買いつけていた。 銃声は工場のあるエル・サルバドール町から山へ入る方角のバランガイから聞こえる。 夕方、就業してからの間もない時間だった。逃げるにしかずと何もかも放り出して宿舎 へ逃げ帰ったが、翌日の情報ではこの小さな部落がNPA主力部隊の襲撃を受けて、老 若男女23名が皆殺されたという。理由はこの部落民がこっそりと軍基地に木材を売り ながら、その代金を山岳部の住民に払わずネコババしたからだという。NPAは山岳民 を保護する「必殺仕事人」を自負していた訳だ。 同じような理由で私どもおの工場に出入りしていた業者が、立ち木に夫婦向かい合わせ に縛られて銃殺されていたこともある。

金をネコババして山の貧しい人々に払わなか

ったという理由からだった。

NPAの襲撃を受ける 当時、襲撃するNPAは3回までは警告するが次は問答無用で必殺の攻撃をすると言わ れていた。私が総支配人として駐在した工場は、工場長としてマニラから派遣された比 人がいた。合弁の比側パートナーがマニラ会社だったからだ。しかし、この男がマニラ の親会社を○に着て然もタガログ語でまくし立てるものだから百数十名以上の従業員か ら総スカンを食らい、弱者の見方を標榜するNPAに訴えられてしまったらしい。 NPAからは彼宛に3回警告状が送られて「直にマニラへ帰れ。さもなければ必ずお前 を殺す。」という主旨だったそうだ。

しかし彼は従業員の一部がNPAの名前を勝手

に使って、嫌がらせをしていると解釈して握りつぶしていた。ある日、重武装した数名


の兵士が事務所へ押し入ってきた。

ゲートにいたガードマン等はトラックの荷台で機

関銃や小銃を構える兵士がいては問答無用、簡単にホールドアップされて降参していた。 事態に驚愕したタガログ工場長は、なすすべもなく震えているだけで言葉も出ない。 「お前が○○か?」 「アアアア」(言葉にならない) 「3回の警告状を無視したから今からお前を殺す。ただ、ミスター・オカは従業員と一 体で良くやってくれている。彼の目前ではやりたくないからミスター・オカだけ室外に 出て欲しい。」 私が答えた。 「私に免じて彼をマニラへ帰して欲しい。私は3回も警告状が来ていたとは知らなかっ た。タガログ語の彼ではビサヤ語の従業員を統括することは困難だと理解して、本社サ イドとは既に了解済みだから。彼には家族もいる。」 「分かった。

今すぐに○○は空港に行け。」

この間、小銃はタガログ工場長の胸元に突きつけられたまま。私に突きつけられはしな かったもののはなはだ気持ちは悪い。こうした怖い経験をした時期もあったが、ビサヤ 語従業員には結構評判が良く慕われて、結局セブに落ち着くことになった。逃げ帰って 命が助かったタガログ・マネージャーは後日「オカが仕組んだ追い出し劇」だと報告さ れたと聞いたから、間も無くこの会社とは縁を絶ち切ることにした。このような一歩間 違えば命を落とす危険と紙一重の中で仕事をした時代もあった訳だが、今となればこれ らも懐かしい思い出だ。

パラワン島漂海民のボルネオ詐欺

ボタン貝を求めて、未知のパラワン島へ 確か84年頃だったか、当時私の事務所の一角で机を借り水産物を扱おうとしてセブ島 に来ていた水田(仮名)さんが「ボタン用の原貝〔トロカス〕を買い付けましょう。バ イヤーはいくらでもある。」という話だった。この業界については知識も経験もなかっ たが、バスケット類以外の商材を探していた私は彼と日本側バイヤーの話を信用して、 マニラに作っていた中国系比人との合弁企業で扱うことにした。

しかし結果的には当

時の私には大変手痛い100万ペソ余りの赤字をしょい込むことになったが、これは後 の話。 まずは、安く買い付けるためにはミンダナオ島南西端のサンボアンガかパラワンに買い 付け事務所を作る必要があるという話だった。サンボアンガはモスレム回教徒族の根拠 地に近く治安に問題があった。結局パラワン島の首府プエルト・プリンセサ市に事務所 を構えることになりマニラの合弁会社の会計担当マネージャーと、日本人「水田」の二 人を派遣し駐在させた。


パラワン島は夢の島か? 誤解があるようだが、当時すでにパラワン島北端部の「エル・ニド」は大手日系企業の 手で開発され確かに外国からくる観光客にとって夢の島だと言われて発展してきた。小 さな飛行機でマニラから行けるだけで、陸路や普通の海路では到底行けないところだか ら○びた風情が今に残り良い評判を今でも保っている。首府のプエルト・プリンセサで は中華料理店さえもまともではなく、まして日本料理店などは一軒もない。ただ市場で カルテックス・オイル缶(1リットル弱?)一杯の獲れたて「うに」が、たった5ペソ で売っておりびっくり仰天して「うに丼」を作った楽しい思い出もある。 その他パラワンで有名な事業と云えば日本のJICAが支援する「ワニの養殖場」くら い。木材切り出しは、すでに伐採制限と特別な伐採権を持つ一人の業者が独裁的な権限 を行使して、部外者が手を出せる状態ではなくなっていた。長期滞在する日本人と云え ばワニ養殖場で働くJICA駐在員が3人、定年退職者が2人、遊園地計画で夢を描く 訳の分からない人物など7∼8人に過ぎなかった。一番高級なホテルへチェックインす れば「鍵が確実にかかる」「トイレで水が流れる」「エヤコンが動く」「電話が通じる」 「トイレで水が流れる」という部屋が遂になくて、電話以外は何とか動く部屋へたどり 着くまでに5部屋を順番に見て回った。もっとも、それ位暇でお客もなかった。

モロ族漂海民の詐欺師にやられる 水田市からの話で、真面目そうな男の話だがと云って次のような提案があった。 1. 彼は船を1隻持っている。登録所もある。 2. 船と自宅を抵当にいれるから、15万ペソの前金と米500キロと油が欲しい。 3. そうすれば、国境線を越えてボルネオ島サバ州(マレーシャ領)へ行き、いくら でも獲れるボタン貝を船一杯持って帰る。 フィリピンだマレーシャだと云っているのは現政権が勝手に線を引いているので、我々 は昔からサバ・サラワクとは自由に往来している。水田は間違いないというし、イエス という結論で送金した。 た。

だが結果は完全に騙された。米と水と油を積んで船は出港し

それっきり船の姿は消えた。船は国境線にある「バラバック島」でホトボリが覚

めるまで停泊している。

船主はここに若い彼女がいるから、10万ペソもあれば5年

も8年でも滞在できる。 フィリピンらしいのは、沿岸警備隊が聞きつけて解決してやるから、油と10万を要求 してきたことだった。 知らない事は怖い。

こう簡単に騙されたのではないが、思うだに腹が立つ思い出だ。


マルコス政権下アンダーテーブルの真相

種銭を(タネセン)を稼いだ時代 1980年代はマニラへ来て鋳物工場の拡張工事が一段落した後、しばらくは仕事もな かった。ところがジェトロから市場調査委託の業務が出て来て一息ついたが、調査は私 の本業に近い「フィリピンにおける鋳物工業の投資可能性調査」だったから、東京でも 評判になたレポートが提出できた。お金も当時の私には破格のものだった。それからは 次々と委託調査の下請けをこなしていった。 「フィリピンにおける魚網産業の現状」とか「電線事業の投資可能性調査」とか7つ8 つこなした記憶がある。これらの仕事が好評だったらしく国際通貨基金(OECF)か ら比国政府機関「ヒューマンセツルメント省」にある技術開発庁(テクノロジーリソー シス・センター「TRC」)での仕事に協力することを求められた。「輸出産業近代化 資金」約50億円の貸出審査が主な仕事で、これは三菱銀行三菱総合研究所が設立した 「MEF」という海外コンサルタント会社がOECFから請けて、更に実務は「東レ」 系列の大手コンサルタント「ユニコ」が下請けするという形態だった。私はだからユニ コ社の現地採用嘱託社員だった。 これは正直なところこの仕事(英会話が出来て、英語でレポート書けて、図面や技術が 分かる)をこなせる人材が見当たらないという事情もあったのか、考えられないくらい の報酬をもらって、現在の事業を開設する種銭を作ることができた。しかし、反面この ためにフィリピンに永住することにもなってしまった。事業には種銭(最初の投資資金) が要るが、案外このことを忘れて何となくスタートする人がいる。だが、これは失敗の 元だ。

ミンダナオ島へは出張すべからず 80年代初期にはミンダナオ島はNPA(共産党系新人民軍)の活動が一番活発であり、 治安が悪くてマニラの総合商社筋では本社の指示で駐在員の出張は禁止されていた。し かし、木材などの検品・検量は不可欠であり、これらの仕事は信頼できる我々在留日本 人にどんどん委託されてきたから、たまらない。仕事はいくらでもあり、お金は儲かる。 ただ、命がけということではあった。だがこれは表面的な話で、現地へ行き良い人間関 係を築いておれば格別心配もなかった。事件や事故を起こす人物は多分に自業自得とい うような面があった。 この表面的には危ない仕事が隠れた大きな収入源になった。私はサイレント・カンパニ ーと称して、こっそりと水面下で仕事をしていた。


月夜ばかりじゃない恐怖 TRCを管轄するヒューマンセツルメント省(社会福祉開発省)の大臣はイメルダ・マ ルコス夫人だった。そしてTRCの長官には腹心の女性を当てていた。ある時、選挙の 直前だったが長官と直属長が新しいプロジェクト申請を持参して直に審査を終了してO ECFに回付し、資金が出るようにせよというき強制的な話だった。 しかし、ミエミエの作文案件でだだだだイメルダ関連とというよりも一族の資金作りが 目的だったから私とユニコ社の担当技術者とで、拒否した。それからは大変、毎日毎日 脅され、宥められという日が続いたあげく「今日は闇夜だから危ないよ」という始末だ。 ただ、私にはイメルダ夫人の名前を使った女性長官の疑惑行為だという感じが拭えず、 注意しながら毎日を過ごしたがやはり内心は怖かった。

マルコス大統領への袖の下 ある案件で、これに関与する日本の二流商社から15%を載せて入札するとように強制 されたことがあった。しかし信念として私と私が提携した会社はこれを拒絶したことが あった。この二流商社は、有名な一流総合商社のダミーとも噂されていたから、マルコ ス政権への献金は確かに二流のダミー商社が入札に応じて実務を担当していた。現にマ ルコス政権が崩壊した後で、この二流商社の幹部は日本へと帰国逃亡して姿を隠してし まった。 これらのキックバック袖の下は、マルコスもさることながらODAプロジェクトのおい しい汁に群がった日本人も大きな責任がある。

マクタン島、戦いの跡は今? マクタンにいたレンジャー部隊 84年頃だったと記憶するが、今のシャングリラホテルから少しブンタエンガニオ岬の 方へ入った辺りに、フィリピン軍の精鋭「レンジャー部隊」が駐留していた。彼らはミ ンダナオ島・スルー諸島などで「モロ民族開放戦線」など回教徒族との血なまぐさい戦 闘を経た生き残りの精鋭だった。一見しただけでも普通の兵隊と人相も服装も違ってい た。血なまぐさい戦場から帰ったばかりという雰囲気を周囲にまき散らしていた。 隊長はサバンディハ「SABANDEJA」という大尉でした。隊長以下全員が髪の毛 は長く伸ばしたままで切ったことはないという。長髪も、髭もじゃで真っ黒に日焼けし て眼光鋭く、戦闘服を着て町中を歩くからいやでも目立つ。一般市民も彼らには一目置 いて「敬して遠ざかる」という感覚のようでした。


最初、セブ市中でトラック上に仁王立ちした彼らを見たときは、またクーデターかとビ ックリした。それほど凄まじい雰囲気を漂わせていたが事実数週間前まではミンダナオ 島各地で、現実に人殺しの戦いを続けてきた連中だから「サモアリナン」ということだ った。 彼らは生死が紙一重の戦場にいた訳だから迷信深くなっており「長い髪の毛が力の源泉」 だと信じ切って、絶対に髪の毛を切ろうとしない。だからいつまでも凄まじい雰囲気を 失わなかった。

レンジャー部隊は密輸で食う 当時はマルコス政権の末期で、軍の給与もままならずミンダナオで命をかけて戦って一 時の休息を求めてセブへ駐留したのに、食うにも食えない状況に放り出されて、サバン ディハのグループは自立の道を求めて歩き始めた。それからは、もう政府側や軍から何 を言ってきても「全く聞く耳を持たない治外法権グループ」となって行った。厳しい訓 練で鍛えられた頑強な肉体、実弾を打ちまくった戦闘体験、選び抜かれた頭脳などなど 「もう怖い者なし」。 彼らは「ミンダナオから来る密輸ラタン材の搬入」、「密猟の珊瑚」をマクタン島に陸 揚げして、堂々とセブやマンダウエの工場や業者に届けて護衛の役を果たして稼ぎに稼 いだ。マンダウエ大橋にチェック・ポイントがあったがこのレンジャー・グループが来 れば反対側を向いて知らん顔。ラタンを満載したトラックの上に立ちはだかって機関銃 を構える怖い顔のレンジャーには誰も立ち向かえません。マクタン島には空軍基地もあ り、政府軍もいましたが、レンジャー基地はもっと治外法権下にあるというのが実態で した。

ダイナマイト・フィッシングの虚実 当時レンジャー一味の駐留するブンタンエンガニョ岬の沖合いでは毎週のように日曜日 にダイナマイトフィッシングが行われていた。私はこの地域に住むアメリカ人の友人宅 へ日曜日毎に行っておりサバンディハとも知り合いだったから裏も表も知っていた。ダ イナマイト漁は仕事もなく貧しいブンタエンガニョの人々にとっては唯一に近い現金収 入の道で、これを官憲の取り締りから守ってくれるレンジャー達は住民。漁師にとって は守り神のように思われていた。今日は何時頃ダイナマイトがどの辺で爆発するかは誰 でも知っていた。 最近の新聞上でダイナマイト漁はその地区漁民の知らない他地区からの密漁だともこと しやかに書かれてたが、これは「タテマエ」だろう。仕掛けた漁師は悪くすれば手が吹 っ飛ぶ危険をおかしてのことだから、爆発後に浮かび上がる魚を手づかみでとる優先権


がある。爆発音がするや待ち構えた地区住民の若い衆が抜き手を切って泳ぎよって来る。 早い者勝ちの世界。何が他地区からの密漁なんかであろう。

レンジャー達の戦死 マルコス政権の凋落と、マスコミのレンジャー治外法権への攻撃とともに重い腰を上げ た軍がブンタエンガニオへの総攻撃を仕掛けて多勢に無勢、サバンディハ・グループは 多数の戦死者を出してトレド方面へ敗走しそれ以後声を聞きかない。シャングリラの直 横で10数年前には戦闘があったのだ。

当世フィリピン人事情 最近ではフィリピンについて語る本も増え、その殆どが「フィリピンも結構素晴らしい」 という論議が、主流のようだ。しかし現実にビジネスの第一線で活躍され、また永住目 的で色々な立場で暮らしている方々からは「それ本当?」という批判的な話も良く耳に する。 38年前にフィリピンと技術援助で関わりを持ち、日比双方の政府機関で働き、比人社 会の中に住み、今フィリピン雑貨を輸出する「一日本人ビジネスマンの眼」から見た 「遠慮のない辛口のフィリピン人論」も時には如何だろうか?

フィリピン人を好きな

人間として、このような率直な見方が日比両国民にとって必ずしもマイナスには作用せ ず、プラスに作用するものと考えた上の論議である。

ええカッコしい 関西弁ですが日本人ならお分かりの通り、兎も角「格好をつけたがる」人が多いようだ。 考えれないくらいプライドは高く、人前でこの「ええカッコ」を傷つけようものなら大 変。そのため、プロジェクトの「フィージビリティ・スタディ」をやらせたら、素晴ら しい文章でカッコいい案が提出される。作成には情熱を注ぎ甚だ熱心だが、これをいざ 実行に移す頃には情熱も冷めてしまう不熱心になる。 一般的に格好の良い仕事ではなくなるためだ。

実行にはトラブルがついて回り、

そしてこのプロジェクトの成否に関係

なく次の「ええカッコ」が出来る仕事を探し始めます。 しかし「格好をつけたこのプロジェクト・スタディ」を採用しなかった場合には、これ をリジェクトする説得のテクニックと知恵が必要である。これを誤ると「この日本人上 司は駄目だ」という烙印を押されかねない。所謂「プライドを操りながら」の説得術、 相手を部下だからと見下してはいけない。


ミスター・アバウト フィリピンの人たちは一般的に「おおまか」で「おおらか」という南国特有の性格が多 い。このような性格の人達に私は「アバウトさん」とニックネームを陰でつけている。 個人的な問題では、このおおらかさが温かい比人として外国人から大変に好かれる訳だ。 しかしビジネス社会では、これらの性が「いい加減」「時間を守らない」「納期が遅れ ても懲りない」という悪評になってくる。 日本人ビジネスマンで「内向的」「生真面目」「心配性」「融通がきかない」「完全主 義」「潔癖主義」という方々にとっては甚だ働きにくい国、つき合いにくい比人という ことになる。

ただ「ある程度のいい加減さ」は、容認してつき合わないとこの暑い国

では身体が持たない。 ここにも「経験・知識」ではない「知恵」が必要になるが、この「ミスター・アバウト」 は、容易に「ミスター・ノープロブレム」に変身するから難儀だ。

あまりのアバウト

さに、事は仕事だからと厳しく追求すると「ノー・プロブレム」問題ないとシレーとし て、何をカッカしているのかという風情。

この問題については、滞比期間が長い私で

もまだこの「懲りない面々」に悩まされているのが実情だ。 人間関係を壊さない範囲で「率直な話し合いのコツと知恵」が肝要である。

ある日本

首相の、政界運営のモットーであった「寛容と忍耐」が、ここ比国では更に必要だろう。

「パキキサマ」(相互扶助) このタガログ語「パキキサマ」だけは、フィリピン全土に渡る普遍的なフィリピン人の 感情・行動を知る上のキーワードと言えよう。比人の強固な家族・親戚間の支え合いは、 戦前の日本にもあった「家族主義」以上のものだ。また、これが比人の温かい性格を培 養し形作ってもいる。しかし度を過ぎた支え合いが最近では比国の工業化を阻害し、近 代化を遅らせる要素となってはいないか?という意見もこの頃散見される。 一利・一害があり何とも言えないが例えば、上司への不満から劇場のままに簡単に会社 を辞めてしまう。我々は「給料もなくなり、どうして食べるのだろうか?」と心配が先 に立つが、彼らはノンシャラン。 月曜・火曜は父母の家で、水曜は姉の家、木曜は叔父の家、金曜は従兄弟の家、と回っ ておれば飯は問題ないという。私は長女だから弟妹の学費を稼がなければと「ジャパゆ き」を志願する娘も多い。なかには父が失職し、母が病気で弟妹のために売春婦になっ てまでも、家族を支える娘もいる。「パキキサマもほどほどに」というのは局外者の立 場にいる日本人だからこそ言える、悲しい現実かも知れない。それにしても「職の当て もなく、簡単に辞職する」という、後先を考えない行動は理解が難しい。


借金は返さない 大会社の方々にはないケースだろうが、中小企業の従業員や、比人妻の親戚から、小額 の借金を申し込まれることが頻発する。

これは貸したら最後、まず返ってこない。催

促したら貴方は金があるのに、なぜ催促するのか?」と、怪〇な顔をされてビックリし たという話さえある。 金のある人が、金のない人を助けるのは当たり前のこと。「金が出来たら返しますよ」 と、借りた時の返済予定や約束には知らぬ顔の半兵衛を決めこみます。「この金がなか ったら家族は死んでしまう」と言いながら、断られても余り気にしない。「ダメでもと もと。マア話だけでもしてみよう」ということも多いようだ。私の対策は「私は金貸し ではないから、お金は貸せない。しかし貴方も困っている様だから、1000ペソ以内 なら援助しよう。これは差し上げたのと同じで私は忘れます。領収書もいりません。」 過去何十人という例があったが、お金を返しに来たのは何と「1人」だけだった。 以上は個人的な問題の例示だが、商売では前渡金が付き物。しかし、この可否判断は 「失敗の経験」を積んで痛い目に遭ってからのこと。理屈だけでは判断が難しいように 思う。ただ担保を出すからという話には乗らないようにすべき。

外国人は自分の名義

では不動産が持てないのだから、将来トラブルの種になるだけだ。

ジャパゆき ジャパゆきさんの否定的な面だけが取り上げられる事が多いように思う。しかし最近の フィリピン人が対日感情を好転させてきた最大の功労者は、意外にも「ジャパゆき」さ ん達ではないかと思える。マニラにいただけでは分からない。フィリピンはこれだけテ レビが発達したマスコミ社会のように見えるが、昔からの「クチコミ社会」という本質 が今も健在だ。 今も「バランガイ社会」が小さいながら大きな影響力を持っている。帰国したジャパゆ きは、一旦は必ずビサヤ・ミンダナオなどの田舎へ帰る。そして殆ど例外なく「日本と 日本人の素晴らしさ」を我々が気恥ずかしくなる位に褒めちぎってくれる。

何と9

0%以上が又日本へ行って働き、日本人と結婚したいと言う。 田舎の人々は多額の「ODA援助」も良くは知らない。娘や、その友人や、バランガ イ・クチコミを信じて生きている人達こそが、フィリピン人の大多数なのだ。これは隠 された「ジャパゆきさんの功労」と言えるのではないか。


フィリピンの三悪人 前に大統領選で「汚職追放」だけをスローガンにして立候補した「サンチャゴ女史」が、 思いがけぬ大量得票でビックリしたことがあった。

この時にも「軍人」「警察」「官

吏」という「三大悪人の汚職」が大問題として挙げられた。 また、ある時ミンダナオ島で「全国弁護士集会」があり偶然会った知人の弁護士が、自 嘲して「クロコダイル大会だよ」と言ったのが忘れらない。

弁護士には「クロコダイ

ル―顎―」のように、やたら噛み付きたがる悪人が多いという話だった。

日頃結構、

裁判で弁護士に泣かされている人が多いようで、何となく納得出来そうな話であった。 しかし勿論「素晴らしい人格者の弁護士も多い」ので勘違いしないようにお願いしたい。 然し、この国が近代化し発展する上での鍵は「政治家」「軍人」「警察」「官界」の汚 職追放と、見え隠れながらそれを陰で支える「悪徳弁護士」の排除ではないだろうか?

激情的ヒステリー 最近のシンガポール「コンテンプラシオン事件」でも見られた傾向だが「可哀想・可哀 想、シンガポールはけしからん」という大合唱が起こった。 らではのこと。

熱しやすい「情の国」な

一般的には1年前に死刑の判決が出て、本人からは無罪の上申もなく、

死刑執行の直前になってから「冤罪」の証言者が出て来たという事件だった。他国の政 治的な問題で、軽がるな批判は慎むべきだろう。この問題では庶民の段階ですら、意見 の相違から殺人が起こった国柄だ。 それにつけても民主主義国家の三原則「立法」(議会)「司法」(裁判所)「行政」 (政府)の「三権分立が、あいまいな国フィリピン」であって欲しくない。少なくても 「外国人には通訳をつけた、公正な裁判」を願いたい。 この激情に走り易い国民性は個人段階では、世界的にも有名な「ヤキモチ妬き」となっ て現れることがある。そのくせ「比人の旦那は9割以上が浮気している」という無責任 な統計も一部にあるそうだ。「パロパロ―蝶々―」と言われる一部の浮気者日本人諸公 も、心すべき。

タガログ語族とビサヤ語族 どの本にも書かれることはない。「タブー」なのだ。しかし私はマニラを中心とするタ ガログ語圏にも、セブ・ミンダナオ諸島を中心とするビサヤ語圏にも住んでいたので実 情を良く承知している。この潜在的対立感情はビサヤ語圏の人々により顕著にみられ、 理屈の外である。


事実アキノ政権時代に、セブ州議会は「教育用言語および公用語としてのフィリピノ語 ―タガログ語―の使用禁止」した。その背景にあるのは「えらそうに威張るタガログ語 族」と「見下される事の多いビサヤ語族」の潜在的な感情対立だ。私もミンダナオ島で 工場経営をした時に、合弁先のマニラの会社から派遣されたタガログ語のマネージャー と、ビサヤ語の従業員が決して心から打ち融けることなく「タガログマネージャーを更 迭して、全てがスムーズになった」という経験がある。セブを中心とするビサヤ諸島、 ミンダナオ島などのビサヤ語圏の人々は「タガログ語」は聞いて理解できても、自ら進 んでは話そうとはしない。

カニの根性 何年か前にフィリピン人著者の手で「カニの根性」がこのマブハイ紙に掲載されたこと がある。フィリピン人同士は足の引っ張り合いをするから「かごの中のカニ」と同様、 別に厳しく蓋をしなくても逃げられず、未来永劫そのままに住むだろうという自嘲的な 話と関連しての反省論議であった。 議会でも相互に足を引っ張り合いケンケンガクガクの論争を繰り広げて共倒れになると いうフィリピン人特有の根性から脱却しなければ比国の将来はないという意見だったと 記憶している。 戦後早くも両国政府間で締結された「日比通商航海条約」が長い間比国議会で与野党間 の論争カケヒキの的となって批准が遅れ、ようやくマルコスの強権で批准されたことが フィリピンの経済を、アセアンのどん尻にまで追い込んだ最大の原因であり、論争に明 け暮れて「日比通商航海条約」を政争の具にした政党や国会議員にこそ、重大な責任が あったと指摘する比国経済人もいた。 「他人の不幸は蜜の味」とも言う。

競争相手を引きずり降ろして不幸に追い込み、自

己の勢力を拡張しようとしても「コップの中の嵐」「かごの中のカニ」では駄目だ。 しかもシンガポール流独裁を否定し、時間はかかるが民主主義的航路を選択したラモス 政権が「アセアン諸国のどん尻」にいながら、どうにか経済的浮上をし始めた今、フィ リピンの人々の傷口に塩を擦り込むような傲慢な態度こそは、戦争中に大変な被害をも たらした日本人として心から謙虚に慎むべきことだろう。

死の淵を越えて 私の人生で、お先真っ暗の困惑、時には死の淵に立たされたことが三回ある。


一回目は終戦直前、「赤紙」と呼ばれた軍の召集令状が来て、勉学中の横浜から郷里の 三重県桑名市の実家に帰った時だ。駅から近かった家の前まで来たら、門前に立ってい た妹が顔色を変えて家の中に飛び込んでしまった。家に入ると皆が黙って私を見つめる。 「ただいま」というと「幽霊やないかな」と母がようやく言葉を発した。前夜、「アキ ラハタノトユクコ」という電報が届いたという。当時、電報は電文「十字」までしか受 け付けないから、当然「判じもの」にあんる。母は「昭はたうた(う)逝く

近藤」と

読んでしまった。「近藤」じゃ同宿の学友の名だ。父母は「昭が遂に死んだ」と一晩マ ンジリともせず、朝の始発電車で父は「近藤」の家がある岡崎市へ駆け込んだ。実家で は葬儀屋が祭壇の準備を始め、伝え聞いてボツボツお悔やみに来る人もいた。 そこへ死んだはずの当人がガリガリにやせて現れたから「幽霊」と勘違いしたのだ。実 は、帰郷に下宿先の「波多野夫人」が夫の一雄氏(後の住友銀行副頭取)を兵役に取ら れたまま焼け出され、同行していた。当時、旧制専門学校、工学部で私が剣道部、近藤 君が柔道部の主将だったので、主任教授が「用心棒」代わりに義兄の波多野家に住み込 ませていたのだ。これが第一回目の私の「死亡」。直後、「日本国の死(敗戦)」が訪 れた。私も金はあっても買う食糧がない「戦時栄養失調」で、実際死の淵にいた。 二回目に「絶望的な死の淵」に立たされたのは、父と共に精魂込め、名古屋の証券取引 所、二部上場するまでに育て上げた工場(桑名市)が会社更生法適用、つまり「実質倒 産」のやむなきに至ったときだった。当時、有名になった話だが、取引銀行の内部抗争 の側づえを食った。私は三十九歳だった。その後、塗炭の苦しみを味わったが、数年で 会社を更生させて普通の会社に戻した。責任を果たしてから新しい道を求め、若いころ 存分に活躍したフィリピンへと漂白したのである。 新規開業した「家具・雑貨の専門商社」は軌道に乗り、新しい比人妻と子にも恵まれフ ィリピンでのハッピーエンドとなるはずだった。ところが好事魔多し。七十歳の坂を越 えると毎年、手術を伴う大病が次から次へと襲ってきた。 そして、とうとう七十九歳で「三回目」の死が来た。脳腫ようと腸閉塞の同時発症であ る。日本での診断は「死亡確率50%」初めて「遺言書」を記し、比人妻と日本の息子、 娘に見送られながら手術室に入り、開頭手術は十時間に及んだ。その三週間後、約六時 間の開腹手術を受けたが生き延びた。さすが、この後は「セブ日本人会会長」の職など 全てを辞し、年金生活に入ったはずであった。だが、そこで出会ったのが「余りにも無 残な新日系人(ジャピーノ)たちの絶望的なまでに悲しい暮らし」だったのである。 私は「余生を彼らのために使い切ろう」と心を新たにし、昨年二月二十四日、満七十九 歳の誕生日に非営利法人(NPO)、「新日系人ネットーワーク」(略称:SNN)を 立ち上げた。まさに「第四の人生」の始まりである。 SNNはボランティア事業とはいえ年次事業計画書が必須で、これに伴う資金(キャッ シュフロー)計画が要るのは常識だ。ところが政府機関を相手にすると、計画がいつも 絵に描いたモチになる。日本国籍を持つ八歳の子供がいる。幼いので比国籍の母親が日


本に同行しないと養育できないが、この母に日本の入国査証が下りない。大使館や外務 省が承認してもまだまだ。日本の法務省入国管理局という壁が立ちはだかるかるのだ。 「官」に嫌がらせされているとしか思えない頃もあった。 トヨタが世界一の自動車メーカーになろうとしているのは、「カンバン」「ダンドリ」 「カイゼン」の成果だが、あえて絞れば「段取り」だ。我々が一番悩むのは「これこれ の条件をクリアすれば三十日でビザが下りる」という明確な指針が与えられず、「段取 り」がつけられないからである。イライラする無駄な時間と労力を費やさざるを得ない。 全て事業は「金」に直結するのに……。 政府の役人は「日暮れ、腹減れのニコヨン」と同じではないか。昔、我々が戦後復興に 必死で働いた時、工場現場では「そんなダラダラした働き方ではニコヨンと同じじゃね えかよ」とよく怒鳴られた。「ニコヨン」とは「日給二百四十円の日雇い人夫」のこと で、日が暮れて腹が減るころには二百四十円もらえた。役人も「仕事をしてなくても、 給料は同じだけ」とからかいたくなる。 役人でも一生懸命働く人も沢山いる。しかし、「段取りをつけて改善する」やり方を 「新しき葉悪しき」と敵視する役人がいることも事実なのだ。一日延ばしに「待て、待 て」と言われるのは、本当に困る。今の感じでは日本政府の取り組みがフィリピン政府 世よりも倍以上かかる遅さだ。発展途上国のフィリピン政府の方が捨てたものではない と思う、きょうこのごろである。「死の淵」とは言わないが、深い困惑に立たされてい る。


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