引き継がれた夫の遺志、
そして「日本」が生まれた。
~持統天皇の物語~

夫の遺志を受け継ぎ、前へ

兄・天智天皇でさえなし得なかった律令国家への歩みを、一歩ずつ確実に進めていた天武天皇の死。
吉野の盟約で皇位継承者と認められていた草壁皇子(くさかべのみこ)は、何度も葬儀の場に訪れている。
その間、皇后である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は姿を見せない。あくまでも、草壁皇子が皇位継承者として人々に周知されることを願っていた。
天武天皇のもと、「たとえ母親は違っても、互いに助け合い争いはしない」と誓い合った。皇后は皇室全体の母として、ほかの子どもたちを見る機会も増えた。だからこそ、早くに亡くなった姉・大田皇女(おおたのひめみこ)の子である大津皇子(おおつのみこ)が気になる。大津皇子は、体もたくましく、度量も広く博学、有能だった。その大津皇子があろうことか謀反を計画しているとの情報が入り、即刻処断。彼女の脳裏に、壬申の乱で先手を取った天武天皇の動きがあったかどうかはわからない。が、天武天皇のすぐそばで、皇后は多くのことを学んでいた。

草壁皇子と歳も近く、ライバルと目されていた大津皇子は消えた。将来の抗争の芽を速やかに摘んだのだ。愛息をようやく皇位継承者として天皇の座につかせることができると思った矢先、草壁皇子は病死してしまう。夫についで、息子までも……。
しかし彼女には、道なかばで潰えた夫の果たせなかった夢を現実に変える使命に燃えていた。そして、即位し持統天皇となった。

夫、愛息との思い出を胸に、道なき道をいく

持統天皇は即位すると、次々と天武天皇が生前進めていた律令国家を具現化していく。皇親を冠位制度の中に序列化する皇親政治の推進、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」施行など、天武天皇が目指していた律令制度を確立、また、飛鳥宮以前から更なる発展をとげた、大和三山<香具山(かぐやま)・畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)>を内包する新しい都、藤原京を誕生させた。譲位によって皇位を孫の軽皇子(後の文武天皇)へ譲る太上天皇制の創始、そして現在も続く伊勢神宮の式年遷宮も持統天皇が始めたとされている。

持統天皇は、たびたび行幸を行った。中でも、天武天皇との思い出の地・吉野行幸は特に多い。譲位して数か月後の6月、吉野への行幸。翌年には、東国へも行幸し、行幸から帰ると病床についた。まるで、夫婦ともに人生が変わった壬申の乱の足跡を辿るように……。

長らく途絶えていた遣唐使を派遣。それまでは「倭国」と称していたが、この時初めて中国に対し「日本」の国名を用いた。遣唐使が出発した半年後、持統天皇は亡くなった。遺体は天皇として初めて火葬され、夫と同じ墓に埋葬された。

橿原市提供

蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺された大化元年(645)に生を受けた持統天皇(幼名 鸕野讃良皇女)。
まるで波乱に富んだ生涯を生まれながらにして負っていたようだ。夫の天武天皇、息子の草壁皇子の早すぎる死の悲しみを乗り越え、自ら舵をとり果敢に歴史の荒波を乗り越えてきた。
持統天皇は譲位後、天武天皇が『古事記』『日本書紀』の編纂を命じたように、日本最古の歌集『万葉集』の編纂を発意した。夫と生きた時代の息づかいを歌に託して……。

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年表

673年
天武天皇が即位
679年
吉野の盟約
680年
本薬師寺の建立を発願(697年完成)
681年
律令と国史の編纂に着手
684年
八色の姓を制定
686年
天武天皇が崩御
689年
草壁皇子が急死、飛鳥浄御原令を制定
690年
持統天皇が即位
697年
本薬師寺が完成
694年
藤原京に都を移す
701年
大宝律令を制定
703年
持統天皇が崩御