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「読書」の意味を調べたら「趣味」の意味が正反対に!?

皆さま、こんにちは。

抽象的な概念である「趣味」という意味の中に唯一具体的な行動として「読書」という言葉が出てきたので「読書」へ舵を切り、綴っていくことに決めた。。。
というのが、既投稿「「読書」に舵をとったら「数式」の暗礁に乗り上げた」までのあらすじです。
船を進めましょう。

「読書」の意味を調べてみた

「読書」=「書物を読むこと。」とあります。
出典;CASIO EX-word DATAPLUS6内の明鏡国語辞典

前回までと出典が異なるのは気にしないでください。
私の手元近くにある辞書を用いているだけです。
今回は子供の電子辞書を借りました。

同辞典では
「書物」=「本、書籍」とあります。

出てきた単語をまた同辞典で調べ尽くしていきましょう。

「本」=「文章・絵・写真などを編集して印刷した紙葉を、ひとまとめに綴じて装丁したもの。書物。書籍」
「書籍」=「書いた文字のあと。文字の書きぶり。筆跡」

これで意味はほぼ出そろいました。

読書にはあらゆる分野の本を読むことが含まれる

これらの意味から解釈するに、
「論文、雑誌、写真集、漫画、エッセイ、コラムおよび絵本、もちろん小説も含めて私の考えつく「あらゆる分野の本」を読むこと」=「読書」ということになります。

これで、漫画しか読んでいなくても「読書している」と言い切れます。
うちの子供たちに「読書はやめにして、そろそろ読書しなさい」という場面も守備範囲に含まれます。

「趣味」と「娯楽」は相関がない?

ここで、前回までに座礁しかけた疑問がまた湧き上がってきました。
「読書」の中にも「娯楽」に近いものがあるのではないかという疑問です。
趣味と娯楽は軸が直交しており、相関がないのかもしれません。
娯楽の大小は趣味と何ら関係なく、趣味の大小も娯楽と何ら関係がない。ということです。
以下、私の「趣味と娯楽の関係について」の想像図です。

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今は深く掘り下げるのはやめにしておきましょう。
そちらの方角に私の求めるモノリスは無い様な気がします。

さて、せっかくですので、CASIO EX-word DATAPLUS6内の明鏡国語辞典にて、今一度「趣味」と「娯楽」を調べてみます。

「趣味」=「①職業や専門としてではなく、個人が楽しみで愛好していること。②物事の持っている味わい。おもむき。」

過去を振り返って「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」での趣味の記述を思い出してみます。

「趣味」=「広く教養や美的感受性を養うこと,それに役立つ活動をいい,読書,各種の芸術の鑑賞,職業としてでなく作品の製作を楽しむことなど

明鏡国語辞典では、語尾を「など」と濁していません。
そのため、明鏡国語辞典からは「職業や専門としてしまうと趣味ではない」と解釈できます。

「専門」とは何なのでしょうか?同辞典にて調べてみましょう。

「専門」=「もっぱら特定の分野の学問や仕事を研究・担当すること。またその学問や仕事」

ちなみに

「もっぱら」=「それだけが行われるさま。」

以上のことから「特定の学問を研究」していることは趣味ではないと解釈できます。
言葉が言葉を生みだすので、なかなか結論が見えてきません。
行き着く先まで行ってみましょう。

「研究」=「物事を学問的に深く調べたり考えたりして、事実や理論を明らかにすること。またその内容。」

ここで「深く」と書かれてあることを覚えておいてください。

「学問」=「①体系的な知識や理論を専門的に学ぶこと。またその知識や理論。②広い知識、教養、学識。」

出揃った様です。私はそのように思います。

以上から明鏡国語辞典の中で意味合いを閉じると「広い知識、教養、学識を深く調べることは趣味ではない」ということになりました。
はて私はどこかで、論理展開を間違えてしまったのでしょうか。
現時点において間違えた箇所がどこか私には分かりません。
そもそも、間違っているのかどうかも分からないのです。

ところで、仮にこの結論が正しいとして
このことは社会一般に考えられている「趣味」の意味合いと一致しているのでしょうか?

少なくとも私が想像していた「趣味」とは異なります。
さらに、前回調べた趣味の記述の一部である「教養や美的感受性を養うこと」(出典;ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)と反対の意味となってしまいました。

さて、明鏡国語辞典とブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「趣味」の意味についてよく目を凝らしてみますと、
さきほど「覚えておいてください」と申しあげた「深く」が気になります。

両者の辞典が合わせ持って言いたいこととは、「深く調べてしまうと趣味ではなくなりますよ。趣味は、ほどほどにしておいてくださいね。」ということなのかもしれません。

ほどほどでなければ趣味ではない?

皆さまは、この結末についていかがお感じでしょうか。

「なるほど、納得。ほどほどだから趣味なんだよね。」と感じる方。
「いやいや、趣味は深く深く突き詰めるものでしょう。」と感じる方。
さらには「どっちでもいいんじゃないの。」と感じる方もおられることでしょう。

以下、前回までに先出してしまった綴りとなります。
もしこのように、人々により言葉の意味に対する認識の相違が生まれることが避けられないということが現実であるならば、
「言葉というものは抽象的な概念を多分に含んでいるぶん、ふんわりとやさしく、あいまいを持ち味として用いていくべきものなのではあるまいか」ということのが私の(現時点の)感想となります。
(抽象的、概念とは何なのかは追々調べていくこととします。)

私はどの感覚に該当するのでしょうか。
思考の深層を探る事によって理解が進むことを期待しています。

意味=ニアリーイコール?

言葉の持ち味が「あいまい」だとすると、いままで「=」(イコール)で意味を結んでいたことが間違いだったのかもしれません。
意味とは定義と呼べるほど正確ではないものであるならば、少なくとも「≒」もしくは「≈」(ニアリーイコール(=ほぼ一緒))を用いるべきだったのでしょう。

最後に辞典で「意味」の意味を調べてみたい、という好奇心がうずきます。
しかしながら調べることを思いとどめることとします。
なぜなら、もし「≒」とは異なる意味が記述されていた場合、また辞書引きを続けなければなりませんから。

それでは、また。

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