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カテゴリ:夏目漱石
鈴木禎次は、漱石の妻鏡子の妹・時子の婿にあたります。 明治3(1870)年に、駿河国の旧旗本で大蔵官僚の鈴木利亨の長男として生まれました。明治29(1896)年に帝国大学工科大学造家学科を卒業して、三井銀行に入り建築係に勤務しています。時子と結婚したのは明治31(1898)年のことで、漱石が帰国した翌年の明治36(1903)年には、文部省の命を受けてイギリスとフランスに留学したのち、ドイツとイタリアをめぐって北欧にまで足を延ばしました。帰国後は名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の建築科教授となり、のちに名古屋に鈴木建築事務所を開設しています。 生涯の設計物は80棟に及び、漱石の葬式の総括責任者となり、夫妻の墓の設計も行なっています。 漱石と中根家の関係はあまり良くなかったのですが、禎次との関係は別で、漱石のイギリス留学時代には、雑誌「太陽」を贈られたり、イギリスの物を買って送ったりしています。禎次は、自身の帰国後、漱石に瀬戸物の火鉢を送っていますが、漱石はこれを気に入り、書斎で愛用しています。 また、修善寺の大患の際には、アイスクリーム製造機械が届き、漱石はこれを重宝しました。10月10日、漱石は修善寺から長与胃腸病院へと移ったのですが、その時、鈴木夫妻は漱石に「ブジゴキキョウヲシュクス」との電報を打ったのですが、アテナが「ステト」となっていました。誰が送ったのかわからなかったのですが、これは鈴木禎次と時子の頭文字をとったものと後になって判明しました。 どちらかといえば気難しい二人ですが、二人の仲の良さはよく知られていて、文通したり、日記にも良く名前が登場します。もともと建築家を目指していた漱石ですから、その仕事に興味があったのでしょう。 禎次の名前は、名古屋工業大学建築学科の同窓会創設100周年記念事業として鈴木禎次賞が創設されています。名古屋は戦災を受けたため、現存している鈴木の作品はあまり多くありませんが、鶴舞公園の噴水塔や奏楽堂は彼の作品です。
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最終更新日
2020.11.27 18:00:05
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