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Praise for John Lewis Pours in From Nation's Political Elite - The ...By    The New York Times

公民権運動の英雄である下院議会の民主党議員ジョン.ルイスは今月17日、膵臓癌で死亡した。27日、キャピタル.ヒルでは議会を代表するメンバーが参加したセレモニーが行われた。80年間の人生を閉じた彼の名前は、米国の歴史に生涯残ることは確実である。それはなぜだろうか?

ジョン.ルイスの遺体を載せたモーターケイド(大統領またはVIPのエスコートに利用される黒の特殊車両)は26日、セルマにあるエドマンド.ペタス橋を渡った。27日、同じモーターケイドはリンカーン.メモリアルを通過し、東部時間午後1時頃、ホワイトハウスの外側にあるブラック.ライブズ.マター(BLM)広場を通り、午後1時25分にはキャピタル.ヒルに到着した。建物の階下前広場で彼のカスケットを運んだ霊柩車はちょうど30分ほど待機した後に、8人の兵士らによって一階の部屋の中央に置かれた。セレモニーが行われたこの場所はキャピタルの一階にあるロタンダと呼ばれるドーム状のロビーである。ここには、円状に幾重にも配置された椅子に議会の代表者が着席し、ジョン.ルイスのカスケットを待っていた。

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セレモニー開始の最初に、上院議会の共和党リーダーであるミッチ.マコーネルが午後2時11分から4分のスピーチを行った。彼のスピーチは感情のない形式的なものであったが、下院議会の民主党多数派のリーダーであるナンシー.ペロシは午後2時15分からのスピーチで、「私たちは彼がいつも天使の側で働いていることを知っていました。そして今、私たちは彼が彼らと共にいることを知っています」と哀悼の意を表明し、ルイス生存中のスピーチを録音したテープを公開した。ルイスの声は、彼が如何に黒人の投票権を含む平等の為に戦ったかを物語っている。その後、ウィントリー.フィップス牧師によってアメイジング.グレイス(Amazing Grace )の独唱が披露された。彼の美しいエモーショナルな歌声は、多くの議員、特に黒人の女性議員の涙を誘った。その後、献花が行われ、再度フィップス牧師はIt Is Well With My Soulと題する素敵な歌を披露した。最後に下院民主党多数派のリーダーの一人であるジェームス.クライバーンが数分のスピーチを披露した後、参加者は次々にルイスのカスケットに軽い祈りを捧げ、会場を去った。コロナウイルスの感染の拡大を防ぐ為、建物の外側の広場には一般の人々のアクセスが禁止されていた。ジョン.ルイスの遺体は名誉を獲得した最初の黒人議員として、議会議事堂のロタンダに置かれることになる。今日東部時間午後6時から、屋外の東正面にある階段の最上部で一般市民が参加できる追悼式が開催された。その前の午後5時過ぎ、ジョー.バイデン夫妻はキャピタルの一階にあるロタンダを訪問しペロシに迎えられた。

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1940年2月21日にアラバマ州トロイで生まれたジョン.ルイスは人種差別の時代に育っており、マーティン.ルーサー.キング.ジュニアに触発され、彼と共に長年公民権運動に参加した。また、1950年代及び60年代の公民権運動で中心的な役割を果たした。1955年から56年のモンゴメリーでのバスボイコットに参加し、変化の為の行動を促す主要なメンバーであった。1957年、ルイスはアラバマ州を離れ、テネシー州ナッシュビルにあるバプテスト宗教学校に通った。彼はそこで、非暴力的な抗議について学び、人種分離された公的場所での座り込み運動を組織化した。複数のデモ活動では警棒で頭部を殴られ、逮捕されたこともあり、葛藤にしばしば直面したが、諦めることはなかった。ルイスは公民権運動に取り組み、1960年代には南部でのフリードム.ライダーに参加し続けた。1963年にワシントンでブラディー.サンデー(血の日曜日)として有名になったデモ抗議を先導した。彼は1986年に議会に選出され、2011年にオバマ前大統領から大統領自由勲章を受賞した。

27日多数の黒人議員は、中央に白のGood Trouble (良いトラブル)の文字のある黒のマスクを着用していた。この表現はルイスが教えた人生の哲学の一つであり、幾つかの意味がある。7月23日のブルッキングスは、ジョン.ルイスが「良いトラブルに陥った」ことについて5つのことを教えてくれたと述べている。2020年3月1日、アラバマ州セルマのエドマンド.ペタス橋で、ブラディー.サンデー(Bloody Sunday、血の日曜日)を記念して行われた集会で、ルイスは「良いトラブル、必要なトラブルに巻き込まれ、アメリカの魂を償いなさい」と述べた。1965年3月7日、平和的な公民権デモ行進に参加した600人の抗議者たちは橋を渡った為に、警察官に殴打される血まみれの残虐行為に遭遇した。ルイスを含む他の人々はひどく殴打されて入院した。血の日曜日は、ルイスの人生と公民権運動の重要な歴史の一つとして記録に残っている。この決定的な瞬間は、彼が「良いトラブルに巻き込まれる事を教えた5つの意味」を要約している。

1.常に投票しなさい: 「あなたの投票は重要です。そうでなければ、なぜそれを奪おうとする人々がいるのでしょうか?」 2018年7月3日、ルイスはこのツイートを送信した。公民権運動の主要な部分は黒人が投票権を獲得することであった。1965年の投票権法はそれを現実化したが、2013年のシェルビーV.ホルダーの判例で、最高裁の決定は基本的に投票権法を拒否し、有権者に対する広範な抑圧とジェリーマンダーリング(選挙区割)への道を開いた。2. 違いを生むには若すぎることはありません: 学生非暴力調整委員会の創設者およびリーダーとして、ルイスはワシントンで講演した時、最年少者であった。年長の公民権運動指導者たちは、彼の言葉を漸減することを目指した。 ルイスはケネディ政権、および連邦レベルで大規模な法律の変更が非常に遅れたことに批判的であった。 また、ルイスは黒人に対する残虐行為を取り扱っていないとして公民権法を批判した。高齢者の公民権運動指導者たちがルイスに耳を傾けていたとしたら、BLM運動の瞬間は変わっていたかもしれない。年齢は単なる数値であることを教えたルイスは「アメリカの若者が1960年代の精神を感じ、良いトラブル、必要なトラブルに巻き込まれる方法を見つけて欲しい」と述べた。

3. 力のために真実を話しなさい:ルイスは「声を上げなさい」と言い、率直に発言することの重要性を教えてくれた。「あなたは何かを言わなければなりません。あなたは何かをしなければなりません。私は言論の自由を信じていますが、人種差別的、偏見的、反ユダヤ的、または差別的な言論を非難する義務があると信じています」と述べ、我々は常に不正について率直に発言する必要があることを教えた。4. ルイスは政治活動家から人種公義の政治家になった。そのため、人種的公平の擁護者として発言し、声を出してきた。ルイスは、変革を起こすためには、テーブルにいる必要があり、しばしば自分の椅子を持参する必要があることに気付いた。テーブルに着くと、彼はテーブルで議論する書類を作成する必要性に気付いた。これは彼が選出されるきっかけとなり、人種的公義を阻害する法律、政策、手順、および規定を変更、分解、再構築する人種的な政治家となった。5.決して諦めない: ルイスが1986年に議会に選出された後、彼が促進した最初の法案の1つは、黒人アメリカ人の歴史、文化、成功を記録する国立博物館の設立であった。この法案は2003年に可決され、2016年に国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館が設立された。粘り強さを教えてくれたルイスは、人が変革的なアイデアを持っている時、それらのアイデアを徐々に衰えさせてはならないことを私たちに教えてくれた。ルイスは平等、社会の変化、社会的正義のための強いパワーであった。

John Lewis Memorial Service Transcript at US Capitol July 27 - RevBy   Rev

ブルッキングスの筆者デイビッド.ルーベンシュタインは、アメリカの人々は公平のために公民権運動に葛藤し、生涯公平を追求した彼の遺産と歴史を継続し、「良いトラブルに巻き込まれなければならない」と述べている。ナンシー.ペロシは、27日のスピーチで、「ジョン.ルイスがこの愛国者のパンテオンに加わり、エイブラハム・リンカーン大統領と同じカタファルクで休むのはふさわしいことです」と言った。また、ペロシは「ジョンはリンカーン大統領を崇拝しました。57年前、リンカーン記念館の影で、『すべての人々に自由と正義が訪れるまで、私たちの心と魂は休むことができません』とジョンが宣言した時、リンカーンとの彼の同一性は明確になりました」と述べた。カタファルクとは、死者の遺体を支えるため、使用される可動式の箱、またはカスケットとほぼ同様のプラット.フォームである。つまり彼の遺体はキャピタル.ヒルにあるロタンダに葬られることになる。これほどまでに名誉が称えられる黒人議員は歴史上初めてであり、公民権の英雄として、世代から世代に語らえる偉大な人物として、死後も彼の名前は残ることを意味する。更に、投票権をめぐる戦いは今後も続く事を意味する。