〈シミュレーション仮説〉は宇宙に寛容をもたらす福音なのか?:『リアリティ+』池田純一レビュー

オーストラリア人の哲学者・認知科学者デイヴィッド・J・チャーマーズが本書で展開しているのは、「VRは真の実在である(Virtual Reality is a genuine reality.)」という一見すると直感に反する命題だとデザインシンカー・池田純一は指摘する。バーチャル・リアリティ(サイバー環境)とリアル・リアリティ(基底現実)はリアリティとして同等であり、そう確信した途端、世界の見え方は激変する。その視点を解説する本書だが、より核心にたどり着きやすい読み方(読む順序)のコツについても指南する。
〈シミュレーション仮説〉は宇宙に寛容をもたらす福音なのか?:『リアリティ+』池田純一レビュー
Photograph: WIRED JAPAN

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『リアリティ+』
デイヴィッド・J・チャーマーズ:著、高橋則明:訳〈NHK出版〉

この世界は本物か? 現代の代表的哲学者によるテクノロジーと「心の哲学」探求の最先端

私たちがいるこの世界は本物なのだろうか? それが「確か」だとなぜわかるのか?
テクノロジーが急速な発展を遂げるなか、古くて新しい哲学的難問があらためて問い直されている──
現実(リアリティ)とは何か、どのようにしてそれを知ることができるのか。「シミュレーション仮説」「可能世界」「水槽の中の脳」など、さまざまな思考実験を通じ、見えてくるものとは。
現代哲学の第一人者チャーマーズが、哲学とテクノロジーを大胆に融合させ、新しい現実(リアリティ)、新しい世界観を提示する。

デイヴィッド・J・チャーマーズ
1966年オーストラリア生まれ。哲学者および認知科学者。ニューヨーク大学哲学教授、同大学の心・脳・意識センター共同ディレクター。アデレード大学で数学とコンピュータサイエンスを学ぶ。オックスフォード大学でローズ奨学生として数学を専攻後、インディアナ大学で哲学・認知科学のPh.D.を取得。ワシントン大学マクドネル特別研究員(哲学・神経科学・心理学)、カリフォルニア大学教授(哲学)、アリゾナ大学教授(哲学)、同大学意識研究センターのアソシエイトディレクターなどを歴任。専門は心の哲学、認識論、言語哲学、形而上学。2015年ジャン・ニコ賞受賞。著書に『意識する心──脳と精神の根本理論を求めて』〈白揚社〉、『意識の諸相』〈春秋社〉など。


この世界はシミュレーション!?

クリストファー・ノーランが2010年に公開した映画『インセプション』は、夢の中でさらに夢を見ることが可能な世界が舞台だった。そのため、この映画では終始、では今、自分は夢の中にいるのかどうか、それはどうやったらわかるのか、どうしたら確信できるのか、という疑問が物語の鍵となっていた。この問いが誘う幻影によって、レオナルド・デカプリオ演じる主人公コブだけでなく、映画の鑑賞者もまた幻惑させられた。夢の中に夢を幾重にも抱え込む、文字通りの悪夢の世界だった。

この「胡蝶の夢」の多重掛けのような悪夢をVRに置き換えたものが本書『リアリティ+』を貫くテーマである。ちなみに『インセプション』では、今自分がいる世界が夢かどうか、判別するための方法があった。独楽を回してみて、それがやがて止まれば夢の外の現実にいる。一方、独楽がいつまでも止まらなければそれは夢の中である。現実の世界は帰還すべきオリジナルの世界としてひとり特権的に扱われていた。

『リアリティ+』の主題である〈シミュレーション仮説(Simulation Hypothesis)〉によれば、現実世界の中にいると信じている私たちが実はシミュレーション世界の中にいる可能性は極めて高い。では、私たちが今VR世界にいるわけではないと安心させてくれる手段ははたしてあるのか? 私たちも『インセプション』の独楽のように、自分がVRの中にいるのか外にいるのか教えてくれる手段を持ち合わせているのか? そのような、見方によっては益体もない問いに、著者のデイヴィッド・J・チャーマーズは愚直に取り組んだ。

そんな彼がこのシミュレーションという罠に惹かれたきっかけは、ご多分に漏れず、映画『マトリックス』だった。公開当時、そのいかにもサイバースペースらしい、物理法則を無視した奇抜なアクション──キアヌ・リーブス扮する主人公ネオが弾丸を避けてみせたいわゆる「マトリックス避け」は今でも語り草だ──で話題をさらったこの映画は、今から振り返れば、現代的な哲学の分岐点でもあった。コンピューティングのインターフェイスの変化によってどう人間は変わるのか。『マトリックス』がきっかけになって、テクノロジーと哲学の現代的交配が一気に加速した。『マトリックス』が哲学者、とりわけチャーマーズに与えた影響の大きさは計り知れない。本書を読むと、とにかくそのことを思い知らされる。

『マトリックス』が世に現れたのは、奇しくも前世紀末の1999年。続編の『マトリックス リローデッド』と『マトリックス レボリューションズ』はともに2003年に公開されたが、この年にチャーマーズは映画製作陣からの依頼で「形而上学としてのマトリックス(The Matrix as Metaphysics)」という論考を寄稿している。「マトリックスは錯覚ではない」とする〈マトリックス仮説〉とでも言うべきもので、本書の問題意識もこのときから始まっていた。すでにチャーマーズは、ネオたち人類を拘束し続けたVRシステム〈マトリックス〉を、人工的に設計された世界のコンピュータ・シミュレーションとして一般化して捉えていた。

面白いことに同じ2003年、哲学者のニック・ボストロムが「あなたはコンピュータの世界で生きているのではないのか?」という論考を発表し、その中で〈シミュレーション仮説〉を提唱していた。

〈シミュレーション仮説〉の提唱者ニック・ボストロム。

PHOTOGRAPH: Stephen McCarthy/Sportsfile/Getty Images

「あなたは自分が今、コンピュータ・シミュレーションの世界にいないことを、どうやって確かめるのですか?」という問いかけに対して明確には答えられない事実を認め、だから私たちはシミュレーションの中にいる可能性を留保せざるを得ないと結論づけた仮説のことだ。チャーマーズはこれを聞いて、しまった、「マトリックス」という固有名ではなく素直に「シミュレーション」としておけばよかった、と思ったという。チャーマーズからすれば〈シミュレーション仮説〉の発案者はボストロムだけでなく彼自身でもあったのだ。

現在、オックスフォード大学の哲学教授であるボストロムは、人工知能の暴走を危惧した『スーパーインテリジェンス: 超絶AIと人類の命運』の著者としても知られる。超AIや〈シミュレーション仮説〉だけでなく、人間原理やトランスヒューマニズムまでカバーするボストロムは、2010年代に入りシリコンバレーに最も影響を与える学者の仲間入りをはたした。そのファンのひとりがイーロン・マスクだ。世界一のビリオネアであり、EV(Tesla)と宇宙開発(SpaceX)だけでなく、衛星インターネット(StarLink)やソーシャルメディア(Twitter改めX)まで手中に収めたことで今や「歩く地政学リスク」とまで言われるマスクだが、その彼が「俺たちはシミュレーションの中に住んでいる」と真顔で主張するのだ。そんな言葉を信じる彼の信奉者たちも含めて〈シミュレーション仮説〉は等閑視できるものではない。ドナルド・トランプが「アメリカ・ファースト」と触れ回った結果、何が起こったか。そのことを思えば、マスクが〈シミュレーション仮説〉を喧伝することの未来への影響は看過できない。

総じて人類の生存リスクを研究するボストロムが「人類に警鐘を鳴らす」系の議論に傾くのに対して、その逆を行くのがチャーマーズ。

本書『リアリティ+』ではむしろ、シミュレーション世界のポジティブな可能性について論陣を張っている。

証明できない命題は厄介だ。なぜなら、なんであれ人は何かを知ってしまった後では、そのことを払拭しようにもしきれないものだから。それを知る前には戻れない。〈シミュレーション仮説〉も、そんなことを気にせず過ごしてきた人たちからすれば、一度そんな仮説を知って自分の周りに疑いを少しでも抱いた途端、いつまでもついて回る困った存在。立派に「呪い」である。

もっとも、だからこそチャーマーズたち哲学者は、「可能性が否定できない」という宙ぶらりんの答えに真摯に向き合おうとするのかもしれない。性急に結論を下すことで、今だけでなくこの先の思考をも曇らせてしまうことを何よりも怖れる。しかも、今はVRの開発自体に大きな動きのある時だ。可能性に開かれていた前提条件も、技術的実現性というフィルタを通すことで、いくつかのオプションに変換され、実現性の高いところから開発の道行も始まる。そうした可能性を放棄しないためにも白黒つけないまま思考を限りなく広げることに意味はある。歯切れの悪さはむしろその証左なのだ。

ところでここまで書いてきて今更だが、本書では“Simulation Hypothesis”に対して「シミュレーション説」という訳が与えられているが、本稿では従来どおり──それこそ本書下巻の帯にもあるように──〈シミュレーション仮説〉を使うことにする。Hypothesisにある「検証されるべき」仮説というニュアンスが、シミュレーション仮説のもつ不穏さを伝えるのにやはり有効だと考えてのことである。

すでにシミュレーションは蠢いている

では、〈シミュレーション仮説〉とは、どんな事態を引き起こすものなのか?

そのイメージを手っ取り早く掴みたかったら、まずは『ブラック・ミラー』のシーズン6の第1話「ジョーンはひどい人」をご覧になることを勧める。

このシリーズ特有のブラックユーモアは健在で、よくもこんな悲喜劇を生み出せるものだと思う。しかも〈シミュレーション仮説〉の勘所を損ねることなくだ。その一方で、このエピソードを見終えて思ったのは、なるほど〈シミュレーション仮説〉とは、『ブラック・ミラー』で正面から取り上げられるくらいポピュラーな概念になっていたのか、という軽い驚きだった。

だが、それもよくよく考えれば合点がいく。マルチバースの映画がハリウッドで続々と作られ、メタバースを売りだそうとして社名変更までしたビッグ・テックもあった。ついにはAppleまでVisionProなるARゴーグルを売り出す時代だ。

PHOTOGRAPH: Justin Sullivan/Getty Images

都市部のターミナルに行けば、そこら中に「動く映像広告」のモニターが設置され、しかも複数の画面を連動させ、文字通り、そこだけ空間が上書きされたように思える機会も日常化した。スマフォによる行動誘導など言うに及ばず。

すでに、シミュレーションはそこかしこで蠢いている。初期的なARのプロトタイプも稼働中だ。そこから、本格的に空間を書き換え、公共空間を裁断し、私的空間の重ね合わせに変えるポテンシャルを持つARが実装されるのもそう遠くない。その延長線上に、フルダイブのイマーシブ体験を与えるVRの到来を予見するのも理にかなっている。それくらいまでに機は熟してきた。その機を逃さずに、VRやシミュレーションにまつわる思考実験の数々を、時に緻密に時に冗長に論じてみせたのが、本書『リアリティ+』である。

タイトルにある「リアリティ+」とは、端的に「シミュレーション」のことだ。したがってまずはともあれシミュレーションを扱った本である。そのシミュレーションもさしあたってVRゴーグルを使ったゲームくらいの理解の仕方で構わない。おそらくチャーマーズもそのようなVRゴーグルの利用体験から本書の議論を思いついたのであろうから。チャーマーズ自身がゲーマーでSFマニアのギークであることは、『マトリックス』を筆頭に本書の随所で引用される数々のゲーム、映画、SF、から十分察せられる。『レディ・プレイヤー1』や『スノウ・クラッシュ』は当然として、グレッグ・イーガンの『順列都市』や日本のラノベの『ソードアート・オンライン』まで登場する。それらに触れた個人的体験がチャーマーズに〈シミュレーション仮説〉の妥当性を様々な形で確信させたようだ。そのような「シミュレーション」を、わざわざ「リアリティ+」と言い換えたのだから、彼はシミュレーションをリアリティのひとつだと信じて疑わない。

実際、この本の議論(というか思弁)の要となるのは「VRは真の実在である(Virtual Reality is a genuine reality.)」という、一見すると直感に反する命題だ。チャーマーズにとってVRは虚構でもフィクションでもなくリアルである。つまり、コンピュータ上で生成されたバーチャル・リアリティも、私たちの日常の環境たるリアル・リアリティと変わらない。両者はリアリティとして同等なのだ。

そして、「VRもまたリアル」と確信した途端、世界の見え方は激変する。世界はシミュレーションで溢れたものになり、私たちが生活しているこの世界もまたVRと変わらずシミュレーションである可能性に思い至る。チャーマーズによると、我々が誰かに作られたシミュレーションの中の住人、すなわち〈シム人〉である可能性は最低でも25%はあるらしい。

『リアリティ+』と銘打ってしまった手前、リアルとは何か? という話から本書は始まっているが、本丸はあくまでも「シミュレーション」であり「ビット」である。なかには、「意識のハード・プロブレム」の提唱者で知られるチャーマーズが著者であることから「意識」についての議論かと思いたくなる人もいるかもしれないが、本書の話題は圧倒的に「世界」であり「宇宙」である。ビットによって構成されたシミュレーションの世界/宇宙の検討が本書のトリとなる。その意味では「VRは真の実在である」という命題も、究極のシミュレーション宇宙に向けた最初の取っ掛かりでしかない。

スペキュラティブの実演

本書で詳述されるように、哲学的な検討から、少なくともこの「私たちの日常をなす現実の世界がシミュレーションである」ことを明確に否定するに足る根拠は見出すことはできない。それが〈シミュレーション仮説〉の本質である。この仮説の特徴は、一度思いついてしまったら、この命題を排除することができないところにある。それに対してチャーマーズはむしろ、だったらこの仮説の上で思索を続けたらどんな世界に到達することができるのか、とことん頭を捻ってみようではないか、と呼びかける。その試みの集大成が本書である。

といっても、頭を捻ったのはチャーマーズひとりだけではない。彼と同業である他の哲学者たちの見解はもとより、物理学者、心理学者、統計学者、情報科学者、数学者といった理系の学識だけでなく、社会学者、政治学者、経済学者、人類学者、歴史学者等々の文系の知性にも参照先として触手を伸ばす。もちろん、シミュレーションの開発や実装を担う工学者や現場のエンジニア、プログラマの見解は言うに及ばず。

そうして可能性の上に可能性を重ねる思弁の山が築かれていく。本書でも参照される『アッチェレランド』の論理である。チャールズ・ストロスの手になるこのSFは、向こう100年の科学技術の発展の先にある未来を10年単位で想像していったものだが、「アッチェレランド」という音楽用語のようにその進歩の速度は「だんだん速く」加速度的に進んでいく。そのような累乗的な「段階を踏む」ことを重視した思考実験の書なのだ。

イギリスのSF作家チャールズ・ストロス。『アッチェレランド』は2005年に発表された。

PHOTOGRAPH: Simone Padovani/Awakening/Getty Images

本書の議論の広がりは、シミュレーションの全てに及び、ということは、最終的に全宇宙にまで対象は広がる。SFでいうワイドスクリーン・バロックのように荒唐無稽と思えるところまで思弁のスケールはぐんぐん広がっていく。『三体Ⅲ』の終盤のようだといえばイメージできるだろうか。可能性の重ねがけによってたどり着く大風呂敷なわけだが、それはまた仮定の上に仮定を重ねる話でもあり、人によってタイミングには違いはあるだろうが、とにかくある時点で、話の広大さ、というよりも、語りの饒舌さに、もうこれ以上はついていけない……と思いたくなるほどだ。

実際、リアリティについての話をすると聞いてやってきたら、語られているのはリアリティではなくポシビリティ(可能性)の話ばかりというのだから、その韜晦さになんだかはぐらかされたような印象をもってもおかしくはない。イライラさせられるところも一度や二度ではない。だが、そうした状態を我慢してとりあえず進むと、ある種の開き直りに達し、逆に、これはもうこの本自体がSFのようなもの、可能性を書き連ねたフィクションの構想メモなのだ、という感じすらしてくる。今風にいえば「スペキュラティブ」の実演である。

それは、随所でこの本がSFの映画や小説を参照していることの効果でもある。というか、そもそも主題たる〈シミュレーション仮説〉という言明が、本質的に「メタ語り」を誘発する性質を帯びている。世界Aは世界Bの人物がシミュレートしたものだが、その世界Bは世界Cの人物がシミュレートしたものであり、その世界Cもまた世界Dの人物がシミュレートし……といった具合にシミュレーションの入れ子的構造が延々と続くことが想像されてしまうのだ。

そのような合わせ鏡の入れ子構造は、20年ぶりのシリーズ第4作となった『マトリックス・レザレクションズ』でも採用されていた。

シミュレーションの入れ子構造が、まさに「合わせ鏡」のように──実際、合わせ鏡も作中に登場している──表現されていた。そうなのだ、『マトリックス』自身、それがきっかけとなって生み出された〈シミュレーション仮説〉の研究蓄積を反映し、第4作の『レザレクションズ』に結実させていた。

そう思うと、シミュレーション世界で生活する、その名も「シム人」たちの人権を考え、その保障のために社会や政府といった政治哲学の議論を扱った『リアリティ+』の第6部が、『レザレクションズ』の解説として読めてしまう。シム人たちの善き生のために必要な条件を考えているのだ。

〈テクノフィロソフィー〉とは何か?

ここで一度、本書の流れを確認しておこう。全体は7部構成だが、第1部から第3部、章にすると1章から9章までが総論で、残りの第4部から第7部までは各論となる。ちなみに各部のテーマは次のとおり。

序章 テクノフィロソフィーの冒険
第1部 バーチャル世界に関する重要な問い(1~2章)
第2部 知識を疑う(3~5章)
第3部 リアリティの定義(6~9章)
第4部 VRテクノロジーがつくる現実世界(10~13章)
第5部 心と意識の問題(14~16章)
第6部 倫理と価値の転換(17~19章)
第7部 シミュレーションの中の真実(20~24章)

序章はもちろん、本書の概観だが、ここでいう〈テクノフィロソフィー〉とは、①テクノロジー「について」哲学することと、②テクノロジー「を通じて」哲学することの2つの立場を包含するもので、当然、両者の間の行き来も伴う。本書の記述でいえば、たとえば、VRについて哲学的意義を検討する一方で、VRの知見を用いて古くからある哲学の難問にアプローチするのだが、その両者の間を適宜行き来することで、新たな論点を拾い出し、次の思考に移る、というパターンが繰り返される。その新たな論点が「リアリティ+」であり「シミュレーション」である。チャーマーズはどちらかといえば、後者の②のアプローチ、すなわち、テクノロジーの新知見を通じて哲学的難問に新たなアプローチで取り組むことの方を好んでいるようだ。

もっともテクノフィロソフィーというけれど、本書に限定すれば、コンピュータフィロソフィー、あるいはいっそのことビットフィロソフィーとでもいったほうが、チャーマーズの真意が伝わりやすいかもしれない。というのも本書の議論の前提となるのが〈シミュレーション仮説〉に加えて〈ビットからイット説〉だからだ。この2つが本書の主張の基盤をなす。

〈ビットからイット説〉とは、原文ではit-from-bit thesisであり、ビット=情報からイット=物質が構成されるという主張のことである。要するに物質の構成の根本に情報があるということで、突き詰めると「世界は情報から成る」と主張する。どちらもコンピュータの普及によって議論としての訴求力が増した。〈シミュレーション仮説〉を側面から支えるのが、宇宙はビットを一番の基礎にして構成されていると捉える〈ビットからイット説〉という見立てだ。

とまれ、続く第1部では、本書の主題ならびに後続の議論の土台として、〈リアリティ〉の検討(第1章)と〈シミュレーション仮説〉の紹介(第2章)が行われる。

これを受けて、第2部では「知識」、第3部では「リアリティ」、飛んで第6部では「価値」が扱われるが、これらは第1章で〈テクノフィロソフィー〉の実践として取り上げられた哲学の伝統的な3つの主題、すなわち、「知識(=私たちはどのようにして世界を知るのか?)」、「実在(=世界の本質とは何か?)」、「価値(=良いと悪いの違いは何か?)」に、それぞれ応えるものである。哲学的にはこれらの問いは、それぞれ、認識論、形而上学、価値理論(倫理学や政治哲学)で扱われるものだ。出発点としてのVRとの関わりで言えば、次の3つの具体的な問いとして検討される。

知識の問い:自分がバーチャル世界にいるかどうか、知ることができるのか?
実在の問い:バーチャル世界はリアルなのか錯覚なのか?
価値の問い:バーチャル世界でよい人生は送れるのか?

こうしてVRを足がかりにして〈シミュレーション仮説〉に向けた議論が進められる。

ちなみに、チャーマーズからみたVRの要件は3つあり、それは①没入型で、②インタラクティブであり、③コンピュータによって生成されたもの、というものである。中でも重視するのが「没入」という要件。ここからVR/シミュレーションの内部にいることに気付けるかどうかという重要な論点を扱っていく。『マトリックス』における「レッドピル」の問題だ。大雑把に言えば、それが第2部(知識)と第3部(リアリティ)の主題といえる。そこから〈シミュレーション仮説〉の真偽が議論され、その流れで「物質(=イット)はすべてビットでできている」という、一見するとトンデモだが、しかしかなり真剣に物理学者や情報科学者の間で検討されている〈ビットからイット説〉の導入まで思考は引き延ばされる。それが第3部の到達点だ。〈祖先シミュレーション〉とか〈シミュレーション神学〉と言った言葉も飛び交い、思考の対象は時空を亘りこの宇宙全体にまで及ぶ。

こうして一旦、風呂敷を広げるだけ広げたところで、続く第4部では慌てて地に足の付いた議論に戻るかのように、VRの検討、更にはVRに向けた第一歩としてのARの検討を行う。実は、チャーマーズとしては、第3部までが本書の「総論」であり、その後の第4部から第7部までは、読者の食指が動いたところから任意に読んで構わないとしている。といっても、それを書いてあるのが第3部の最後(上巻287頁)というのだから、さすがにそれは少しばかり意地が悪いだろうと思わざるを得ないのだけれども。

バーチャル社会のガバナンスは?

ともあれ、残る哲学の3大疑問である「価値」を扱う第6部にいく前に、前提としてのVR技術の可能性の検討──これはテクノフィロフィーの①の実践でもある──と、チャーマーズの十八番である「心と意識」の問題が取り上げられる。それらが語られた上で第6部の「価値」の問題へと移っていく。

第6部で扱われるのは、有り体に言えば「バーチャル社会の統治はいかにあるべきか?」ということであり、ある意味、最もチャーマーズ個人の志向/嗜好が現れた部分といえる。彼の社会観、特に、現代情報社会に関する見解が色濃く現れているところであり、この本の執筆動機を想像させる部分でもある。

ところで、ここでひとつ提案なのだが、哲学や技術にさして明るくないが本書のテーマに関心をもったビジネスパーソンや学生などの一般の読者は、先にこの第6部に目を通して、チャーマーズがどのような「バーチャル社会」や「シミュレーション世界」を望んでいるか、大まかに掴んだ上で、第4部や第5部に取り組む方が、なんのために今こうした詳細な検討をしているのか? と悩んで文脈を失うリスクを回避できるかもしれない。

そういう意味では、だいぶ変則的な流れになるが、

序章+第1部 → 第6部+第5部 → 第2部+第3部 → 第4部 → 第7部

という読み方もありかもしれない。チャーマーズが捉えた〈シミュレーション仮説〉の利得や効用を知ってからその解説を読んだほうが、むしろわかりやすいのではないか、という話だ。

チャーマーズの議論の仕方は、ある問いを出した後、その問いに対する代表的なアプローチの仕方を一通り順繰りに検討した後、それぞれの良し悪しを見定め、目下の目的にかなうものを選んでいく、いわゆる「論証」スタイルを取っている。そのため、時に極めて冗長に「解説のための説明のための説明……」が続いているように思われる箇所がある。哲学書とはそういうものだといわれればそれまでなのだが、これは必ずしも読み進めやすいものではない。かなり視野を広めにとって、常に全体を俯瞰しながら、初見のあまり馴染みのない話題の詳細な検討に付き合わなければならない。かなり神経を使わされる。

その意味で一般の読者にとっては先述した変則的な読み方もありだと考える。

というのも、著者のチャーマーズが本書で議論したいのは、〈VRは真の実在である〉という命題を受け入れた場合、いかなる世界を構想することができるのか? という点にあると思われるからだ。その意味では、本書の主題のひとつである〈シミュレーション仮説〉も、議論のゴールではなく出発点にすぎない。

にもかかわらず、哲学者として、というよりも元理系の研究者としては、順を追った解説をすることが習い性になっているようで、本書の前半は、この出発点に過ぎない〈シミュレーション仮説〉に対する解説、ならびに、この仮説が「否定できない」ことの証明(というか説得)に多くの頁が費やされている。

もちろん、それはそれで興味深い話なのだが、しかし、それらはあくまでも本書後半の議論のための準備でしかない。だから、真面目に頭から読もうとすると、日頃から哲学の議論に親しんでいる者でもない限り、おそらくは「木を見て森を見ず」的に、森の中に迷ってしまう可能性はかなり高い。

そこで、変則的だが、こちらの方が読みやすいのでは、と思って記したのがさきほど提案したものだ。

そう思って見直すと、本書の概要を述べた序章に続く第1部では、長い「基本用語解説」として、第1章で〈リアル〉、第2章で〈シミュレーション仮説〉と、本書で議論の俎上に上げられる重要な2つの言葉が紹介されている。

そこから教科書的な哲学談義が続く第2部、第3部を一旦飛ばして第6部と第5部へ飛んでみる。特に第6部は一般読者にとってイメージしやすい「VRの中の社会」が扱われている。今風に言えば「メタバース」である。アバターでログインするプレイヤーと、コンピュータ内で作成されたシム人であるNPC(Non-Player Character)が混在するVR世界のことだ。

具体的イメージが欲しい人は、チャーマーズのお気に入りの映画『フリー・ガイ』を見てみよう。
ライアン・レイノルズ扮する主人公のガイは、自我に目覚めたゲーム内のモブNPCという設定であり、このガイが自分たちNPC、ならびに自分たちのいるゲーム世界を作った製作者たちを一種の神として崇めつつ、自分たちが存在する意味や生きる目的を探していく。まさに〈シミュレーション仮説〉が想定する「自分たちのいる世界はシミュレーションかもしれない」という疑問に行き着いたキャラクターである。

2021年に公開されたこの映画にチャーマーズが強い関心を寄せるのは、ガイのいるゲーム世界が、まさにNPC改め「シム人」だけからなる「純正シミュレーション世界」の雛形となるからだ。なぜ、この「純正シミュレーション世界」が重要かというと、〈シミュレーション仮説〉を信じるなら、私たちが今生活している世界もまた、誰かに作られた「シミュレーション世界」のひとつであり、その限りで、私たちもまた「シム人」であると考えられるからだ。つまり、先ほどのNPCの主人公ガイは、そのまま私たち自身かもしれない。チャーマーズの議論の要のひとつが、この「シム人の世界」と「私たちの世界」を等価に扱う視点が必要だ、というところなのだが、そのことの意義を想像し理解する上で『フリー・ガイ』は最適の教材だ。本書の前半で〈シミュレーション仮説〉の詳細な検討が行われたのも、ガイたちの視点に立って「純正シミュレーション世界」のことを考えるための準備だったのである。

この第6部は、社会のあり方について議論するという点では、哲学の中でも特に政治哲学について論じた部分であり、そのため、ホッブズやカント、ベンサム、ミル、ロールズ、ノージック、といった、有名な政治哲学者の名が散見される。その名前から、「万人の万人に対する闘争」(ホッブズ)、功利主義(ベンサム、ミル)、リベラリズム(ロールズ)、リバタリアニズム(ノージック)といった言葉を想起する人もいるかもしれない。こうした概念を参照しながら、VRや、VRの一般形態であるシミュレーション世界における社会統治のあり方について議論がなされる。

今、私たちが実際に生活している社会のあり方とのかかわりで〈シミュレーション仮説〉を受け入れた社会を想像してみる、その点で第6部はより身近で具体的な話題を扱っている。本書の他の箇所(特に第7部)が、可能性の上に可能性を重ねて議論する「思弁的」な内容であるのとは大違いだ。その一方で、本書の別の箇所(特に第4部)で見られるようにVRやARの技術をもとにあれこれ細かい議論がなされているところと比べれば、適度に抽象的で一般的だ。

要するに、第6部はVR社会やシミュレーション社会を扱っている点で、具体性と抽象性の程よいバランスが保たれている。〈VRは真の実在である〉という命題を受け入れたとき、ではそのVRの中の社会は(現在のリアルな社会と比べて)いかにあるべきか? 本書の中で最も普通に「社会的」な問題が扱われている。

第6部と第5部は先に読め!

では、その第6部の後に第5部を勧めるのはなぜかというと、第5部で扱われるのが、チャーマーズの十八番のひとつである〈意識〉に触れているからだ。彼が最も注力する話題であるため、彼の問題意識が最も鮮明に現れているところでもある。というのも、先ほど触れた、シミュレーションの中の住人である「シム人」に、私たち人類と同様の道徳的身分、すなわちなんらかの権利を認める上で必要となる条件として、チャーマーズは「意識の有無」を挙げているからだ。「意識とは何か」とは、彼が数学や物理学、情報科学から哲学に転向するきっかけとなった疑問だったのだという。それくらい彼にとって「意識」は重要な問題なのだ。

本書の文脈で言えば、〈シミュレーション仮説〉を受け入れることで、私たち自身も(誰か私たちの世界の外部にいるであろうメタな創作者が手掛けた)シム人である可能性を否定しにくくなるのだが、そのような状況下でこそ、チャーマーズの「意識」に対する議論、つまり、意識は、身体を成立させる物理法則とは別の原理で成立し稼働しているという議論を援用することができる。心と体は別々の原理で説明されるはずと考えるチャーマーズの立場は、一種の心身二元論なのだ。

まとめると、第6部と第5部を先に読むことによって、一般読者にとって比較的親しみやすい「シミュレーション社会の統治・政治」という話題で本書の問題意識のイメージを掴み、その上で、チャーマーズが最も敏感なテーマである「意識」についての議論を知ることで、本書の「こだわり」について具体的に理解することができる。そうしてチャーマーズならではの議論の傾向を理解した上で、そうした議論の土台として〈シミュレーション仮説〉などの詳細について触れていってはどうか? というのが先述の「変則的だがオススメ」の読書ルートだった。

このような本書の第6部に焦点を当てた読み方は、言ってしまえば一種の「社会派」読みである。VR社会、シミュレーション社会が今後どうなっていくのか、それだけでなくどう治めていくべきか、そのような倫理や政治の価値を伴う見方だ。そして、こうした一般的なシミュレーションの世界まで想定したとき、本書の議論と突き合わせてみると面白そうな作品が、先ごろ10年ぶりに続編が公開された映画『アバター』である。

アバターという言葉が、インド神話においてヴィシュヌ神が人間界に降臨する際にとった「化身」に由来することはよく知られている。映画『アバター』でも、地球人類が、異星パンドラの住民であるナヴィの姿を模した「アバター」へと意識を移し、青い巨人としてパンドラの大地を駆け巡っていた。この状況が、まさに〈シミュレーション仮説〉から想定される「シム世界」の最たるものだろう。

『アバター』の主人公であるジェイクは、物語の終盤で、パンドラの地母神的存在である植物ネットワーク「エイワ」──パンドラの地上を覆うインターネットのような惑星大のアーカイブかつインテリジェンス──の力により、アバターに意識を完全に転移・定着させナヴィの一人として生きることを選んだ。これにより、パンドラと地球という2つの世界で両者の交流を可能とする超越者(神でも自然でもいいが)の存在が想像される。映画では、地球からパンドラへの一方的な進入のみが描かれているが、逆もまたあり得るのではないかという気にさせられる。おそらくは、そうした相互交流の可能性が想像できた時点で、本書の第6部で扱われたような「シム人の人間としての扱い」の必要性に思い及ぶことができるのではないか。

ともあれ、意識の転送を別様の生命体(の模造=シミュレーション)に対して実現させた『アバター』は、意識と身体は別物という点でも、チャーマーズが支持する心身二元論とも整合するものだったといえる。

本書の議論によれば、〈シミュレーション仮説〉を受容することの人類社会にとっての意義は、神のもとでの平等に代わって、シミュレーション宇宙の創作者(たち)の存在を想像することで「入れ子になったシム世界の可能性」のもとでの抑圧排除(=エクイティ)について検討できるところにある。つまり、〈シミュレーション仮説〉は〈神〉の代わりとなる。シミュレーション仮説を信じることで人は寛容の意義を知る機会を得る。〈シミュレーション仮説〉はその気付きのための世界観である。ナヴィと人類の交流可能性が想像できたように、異なる生命体の間で共役可能な地平を見出すきっかけとなる。

第6部のこうした議論から、現状のビッグ・テックが支配する、ワイルドウエストな情報社会を憂い、放っておけば生じるであろう民間企業の専横を封じるためにも〈シミュレーション仮説〉が開く思考実験の意義を見直すべきなのかもしれない。有り体に言えば、プラットフォームにも、「運営(manage)」ではなく「統治(govern)」が必要ということだ。そうした気づきも本書は与えてくれる。

もちろん、以上は「社会派」寄りの読み方から得られる本書の示唆である。「哲学派」や「技術開発派」のような読み方も当然可能だろう。個人的には第7部で検討された「デジタル物理派」としての「計算する宇宙」的読み方にも魅力を感じた。現代物理学のドンのひとりジョン・ホイーラーの提唱した“it-from-bit”に根ざした、宇宙はビットから成るという議論である。

アルバート・アインシュタイン(左)、湯川秀樹(中)と談笑するジョン・アーチボルト・ホイーラー(撮影は1954年)。

PHOTOGRAPH: JHU Sheridan Libraries/Gado/Getty Images

本書でも〈ビットからイット説〉として、〈シミュレーション仮説〉の影に隠れながらも、本書の議論を根底で支える2大仮説として後半の議論を大いに盛り上げていた。セス・ロイドの『宇宙をプログラムする宇宙』やマックス・テグマークの『数学的な宇宙』で扱われた世界だが、そうしたSF的な読解については別の機会としたい。それよりも今は〈シミュレーション仮説〉に秘められた、異なる世界=社会に橋を架ける力に注目したい。そこから立ち上がってくる「寛容の精神」は現代の情報社会を見直すためのよい契機になるはずだからだ。

※『WIRED』によるブックレビューの記事はこちら


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