記事で紹介した商品を購入すると、売上の一部がELLEに還元されることがあります。
記事中に記載の価格は、記事公開当時の価格です。
2019年はレオナルド・ダ・ヴィンチの没後500年に当たる。パリのルーヴル美術館では現在大規模回顧展「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」が開催されている。日本でもレオナルドや彼の作品の謎を解き明かすテレビ番組やイベントが増加、来年は代官山ヒルサイドフォーラムで「レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500 年記念「夢の実現」展も開催される。そこでレオナルド・イヤーをより楽しむために、この巨匠をめぐる10の謎をクローズアップ!(この特集で紹介している作品は「夢の実現」展に展示される予定のないものも含まれています)
師匠の自信を奪った?
レオナルド・ダ・ヴィンチは14歳のときにヴェロッキオという画家の工房に弟子入りする。当時、大きな工房では弟子たちが師匠の絵の制作を手伝うのが一般的だった。レオナルドが手伝ったといわれるのがこの「キリストの洗礼」。画面左下の2人の天使のうち、左側の天使と遠くに見える岩山をレオナルドが描いたとされている。完成した絵を見たヴェロッキオはレオナルドの担当部分があまりにも上手なのに圧倒されて自信喪失。その後、絵を描くのをやめてしまったというエピソードも残っている。
「モナ・リザ」の注文主は泣いていた?
完璧主義者として有名だったレオナルド。作品を仕上げるのにも時間がかかったそう。「モナ・リザ」にも死ぬまでずっと手を加え続けていた。レオナルドがいかに完璧主義者かを示していると言えるけれど、それ以外にもう1つわかるのが、レオナルドの「仕上げられない病」。当時、画家たちは貴族や王からオーダーを受けて描くのが一般的。だから納期がきたら、多少納得がいかなくても注文主に収めなくてはいけなかった。でもレオナルドは生前「完璧主義者すぎて、絵が出来上がらない人」として有名でオーダーも少なかった(だから貧乏でもあった)。「モナ・リザ」も、あるシルク商人の依頼で商人の妻を描いたものだと言われている。一生手元に置いていたということは、注文主夫妻は待ちぼうけだったことになる。名画として歴史には残ったけれど、注文した側の気持ちを考えると不憫。
裸のモナ・リザがいた?
これはレオナルドのアトリエで長く保管されてきた「モナ・ヴァンナ」。その後、パリ北部にあるコンデ博物館で保管されてきたけれどレオナルドではなくその弟子が描いたものだとされてきた。今年レオナルドの没後500年を記念して、ルーブル美術館で大規模な展覧会が開催される。それに出品するためにルーブルの専門家たちがこの「モナ・ヴァンナ」を徹底分析! その結果、この作品の下絵の少なくとも一部がレオナルドの手になったものだという結論に達した。さらに描かれた時期が「モナ・リザ」の少し前だと推定されたことから、「モナ・リザ」を描くための準備作品だという説も浮上している。そう言えば、手の位置も同じ!
無類の死体好きだった?
レオナルドは解剖学が好きだったことでも知られている。画家として正確に人体を描くことを大切にしていたため、人体の各部位の長さの比率や筋肉の仕組みを知りたかったそう。そのため、生涯に30体以上の人体解剖をしたという記録も。これほどの数の解剖をした人は当時、医者でもいなかったという。もちろん防腐剤も冷蔵庫もない時代。どんどん臭ってくる死体を前にスケッチする様子は鬼気迫るものがあったそう。同じ時代に活躍していた画家&彫刻家のミケランジェロは「解剖は臭いから嫌い!」と逃げ出したというエピソードも残っている。
「最後の晩餐」は描かれた時からボロボロ?
レオナルドの名作の1つ「最後の晩餐」。実はこの作品はレオナルドが生きているときから損傷と劣化が進み、修復が重ねられた。現時点では大部分がレオナルドの直筆ではなくなっている。なぜこんなに劣化が早かったかというと、それはレオナルドの「新しもの好き」が原因。壁画はフレスコ技法を使うのが一般的。漆喰を塗って生乾き(つまりフレッシュ。イタリア語だとフレスコ)な状態の壁に水で溶いた絵の具で描く方法である。でもレオナルドは生乾きの漆喰の上に、当時新しく開発されたテンペラ(卵黄や蜂蜜、膠を混ぜた絵の具)で描いた。テンペラは石の上に描くのに適しているけれど、漆喰には染み込まない。そのため塗料がどんどん剥がれ落ちて行ってしまった。新技術を取り入れるのに貪欲だったがゆえに、作品がボロボロになってしまったというわけ……。
文字を裏返しに書いていた?
レオナルドはとにかくメモ魔。絵よりもたくさんの手帳やノートが残っている。その大部分は人体や鳥の観察記録、天文や数学、人体学や建築学などに関する研究メモだった。その大部分は鏡面文字で書かれている。飛行機のアイディアを描いたこのメモの文章部分も、文字が裏返されていて左右が逆になり、右から左に書かれている。レオナルドが教会の教義に反する考えを持つ異端だったため、それを隠そうとしていたからという見方もあったけれど、今の有力説は「単に左利きだったから。その方がレオナルドには書きやすかったそう。とはいえ、世の中の左利きの多くの人が鏡面文字に走らないことを考えると、これも彼の非凡さを表していると言えそう。
(ほぼ)同じ絵を2枚描いていた?
ルーブル美術館にある「岩窟の聖母」。実はこれ、ロンドンのナショナルギャラリー(次ページ)にもある。なぜ同じ絵が2枚もあるのか。それはレオナルドが注文主に怒ったから。無原罪懐胎信心会という宗派からオーダーをもらって祭壇画として中央部分(この画像)をレオナルド、左右の部分を他の画家が描いていた。でもほぼ完成したところでギャラを巡って、レオナルドたち画家VS信心会でバトルに!
裁判に20年近くかかったため、レオナルドは途中で業を煮やしてこの絵を他の人に売ってしまう。裁判の決着がついたとき、手元になかったため慌てて描いたものを信心会に納品したと言われている。ちなみに先に描いた方がルーブル、後に急いで描いた方がナショナルギャラリーのものだそう。
興味がないのは女性? それともセックス?
レオナルドは作品の数が少ないと言われる。その少ない作品のほとんどは女性を描いたもの。でも恋人の話題は皆無。男娼を買った容疑で逮捕され告訴されたことがあるため、男性に興味があったのでは? という説も。とはいえ男性の恋人の話題も少ないので、フロイトは「レオナルドはセックスを嫌悪していた」と分析している。
数少ない恋の噂のお相手は、弟子のジャン・ジャコモ・カプロッティ。彼をモデルにこの「洗礼者ヨハネ」を描いたという説もある。ちなみにこの弟子にレオナルドがつけた通称はサライ(小悪魔)。人の心を弄ぶ小悪魔なのかと思いきや、手癖の悪いお財布的小悪魔。何度も小金を盗まれたから、こう名付けたとか……。
肩書きは絵描きではなかった?
レオナルドと言えば絵画界の巨匠。でも生前の彼は軍事や建築の経験を売りにしていたもよう。30歳のときにミラノ宮廷の宮廷画家(いわゆるお抱え画家)の座を目指してフィレンツェからミラノに引っ越したレオナルド。自薦状、つまり経歴書には「新兵器を開発できます!」「宮殿も設計できます!」とアピールしてあったという。何より得意にしていたのは晩餐会や祝賀行事など催し物のプランニング。舞台装置や衣装を手がけ、リラの演奏も自分でやっていたそう。お堅い天才に見えて、エンタメ系だった。
(これはレオナルドがデザインした舞台衣装)
とは言え軍事技師としてはイマイチだった?
ということで軍事技術が大好きで飛行機やヘリコプター、機関銃の構想図もたくさん残しているレオナルド。でも軍事技師としては出世していない。それは実現させるための具体的な方法が欠けたものばかりだったから! 最近、彼のスケッチをもとにヘリコプターの模型を作るという試みも行われたけれど、仕組みが書かれていなかったから、結局飛ばず仕舞い。口だけ、というか絵だけ状態のレオナルドのせいか、彼がミラノ宮廷で軍事技師を務めている間にフランスが攻め入ってきたけれど、ミラノは負けてしまっている。ちなみにこのスケッチも、実現しなかった戦車のアイディア図。
text: Yoko Nagasaka