日本を代表する漢学者も 中国行きたすぎて詰んでいた

 
 

「生徒の模範もはんである教師を目指すからには、深い研究とあわせて“自分を修養すること”も忘れてはならない」(進学にあたっての父親からのアドバイス)

 諸橋轍次は1883(明治16)年、三条市庭月にわづき(旧下田村)で生まれた。4さいの時、小学校校長の父に中国の子ども用漢学書「三字経さんじきょう」を学ぶ。

 小学校卒業後、奥畑おくはた米峰べいほうの「静修義塾せいしゅうぎじゅく」に学ぶ。好きだった将棋しょうぎに熱中するあまり、米峰のいかりを買い、破門寸前となる。轍次は「将棋をはいするの文」を書き、以後、こまを持たなかったという。

 その後、新潟師範しはん学校を首席しゅせきで卒業し、東京高等師範学校・国語漢文科に進学。卒業後、群馬県師範学校や母校の東京高等師範学校で漢文を教えた。

 轍次は、さらなる研究のため、漢学の故郷中国を訪れたいと考え、東京高等師範学校校長の嘉納かのう治五郎じごろう に相談したが、許されなかった。当時、海外渡航とこうを許可されるのは帝国ていこく大学などの教授2、3人に限られていたからである。

 しかし、轍次の願いをかなえてやりたいと考えた嘉納は、財閥ざいばつの三井家や政府へ働きけ、許可をとった。ついに、轍次は中国を訪れることになった。

文・監修/新潟青陵大学特任教授  伊藤 充
マンガ/アヅミイノリ  [Twitter]@karma_toki
企画・制作/新潟日報事業社  出版部
協力/漢学の里・諸橋轍次記念館
主な参考書籍/『諸橋轍次博士の生涯』漢学の里・諸橋轍次記念館(大修館書店)