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前将軍の功績を消し去った問題多き後継者 ~ 9代将軍・徳川家重 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第10回 

飲酒癖に言語障害…無能さを露呈し乱れた世に 

生まれながらに障害を抱えていた家重だが、将軍後継者争いを避けるため父・徳川吉宗の意向で将軍に就任。だが、幕政における存在希薄で、家重女性説など荒唐無稽な噂もあった。イラスト/さとうただし

 

 名君とされた8代将軍・吉宗にも、泣き所はあった。まだ紀州藩主であった頃の正徳元年(1711)12月に、側室・お須磨が嫡男・長福丸(後の9代将軍・家重/いえしげ)を生んだ。だが、お須磨は2年後に死亡したが、別の側室・お古牟(こむ)から二男・小次郎が生まれ、さらにその後、別の側室・お梅に三男・小五郎が生まれている。小次郎は、後に江戸城内田安門内に邸宅を与えられた「田安宗武(むねたけ)」であり、小五郎も後に江戸城内一橋門内に邸を与えられた「一橋宗尹(むねただ)」である。後に生まれる家重の二男・万次郎には清水門外に邸宅を与えて清水重好と名乗らせた。ここに「御三家」の向こうを張るような形で「御三卿(ごさんきょう/田安・一橋・清水)」が誕生する。

 

 吉宗の嫡子・家重は、生まれつき虚弱であり、病気がちであった。性格も柔弱で多少の言語障害があった。しかも14歳で元服すると、早くも飲酒に耽(ふけ)るようになった。4歳年少の二弟・宗武は家重と違い、この頃には

父・吉宗の前で「論語」20編を暗記して淀みなく述べて父を驚かせたという才人であった。老中や幕閣の中には、家重ではなく宗武を9代将軍位に、という意向もあった。吉宗自身もそうしたい気持はあったようだが、「長幼の序」を乱しては天下の人心にも悪影響を及ぼす、として二男・宗武を将軍位に立てることは避けた。吉宗は、自ら嫡子・家重を教導する覚悟を持って臨んだが、結果として飲酒癖に染まった家重は大酒によって軽い中風症状を起こし、言語障害がますますひどくなった。だが、家重は延享2年(1745)には9代将軍となった。その時に、父の政権を支えた老中・松平乗邑(のりさと)を罷免(ひめん)し、弟・田安宗武を謹慎処分にした。

 

 しかし、政治的にも無能で言語の障害が進行する家重の言動は、誰も理解できず癇癪(かんしゃく)ばかりが目立つようになった。

 

 この時にお側衆として取り立てられたのが、大岡忠光(大岡越前忠相/ただすけの一族)である。忠光は、不思議なことに幕閣内でただ一人、家重の言葉を理解できたという。「今日は風が吹いて庭園は寒い。御羽織を召したいと仰せである」などと言い、侍女が羽織を広げて着せると家重の機嫌が直る、といった類の対応が忠光のやり方であった。「ただ一人、家重の言葉を聞き取れる」。これによって寵遇された忠光は、お側衆として5千石から、宝暦元年には上総・勝浦1万石の大名になり、宝暦4年には若年寄に、その2年後には側用人に、さらには武州・岩槻2万3千石となり、権勢を持った。

 

 吉宗が改革したすべてが家重政権では弛緩(しかん)して、金権万能・賄賂の横行・士風の乱れ・退廃世相となった。農民一揆は各地に起こり、尊王思想が自然発生し「宝暦事件(竹内式部事件)」などが起きた。家重の嫡男は家治。宝暦10年(1760)、家重は家督を家治に譲り大御所を称したが、宝暦11年6月、51歳で病死した。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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