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序文

人民教育協会の創設者であり初代委員長であった故アンベードヵル博士の﹃ブッダとそのダンこ

の記念すべき出版、しかしその死後出版という形で携わったものとして、喜びと悲し象の念を交も交

も抱いている。本書は、アンベードカル博士の記念碑的労作であるばかりでなく、彼の偉大な知性の

結実を燦然と輝かす遺作でもある。綾骨の探究の末生れた本書は、彼のシッダールタヘの貴重な捧げ

物である。この著作は、理性の使徒、シッダールタから大いなる感化を享けたアンベードヵル博士の、
てしかるべきであろう。

真華な愛の作業であった。それ故本書は、この世に対する彼の数点の奉仕の頂点として十分評価され

アンベードカル博士は典型的な宗教的雰囲気の中で育った。聖者カビールの信奉者であった父親は、

I序

教祖の教えを厳格に守った。子供たちは自らを向上させるために、毎日何かを読詞すべきだとやかま

しくいわれた。それで、アソベードカル博士とその兄弟は、毎晩寝る前に必ずマハーバーラタやラー

マーャナの一節を大きな声で朗読させられたものである。どうしてマハー・ハーラタを読まねばならな

いかと尋ねると、父親は、その中に登場してくる英雄的ドローナとカルナは、前身が低い身分であっ

たが故に、自分の劣等感を救ってくれるのだと語ったという。同様に、ラーマーャナの作者といわれ

るヴァールミーキ︵現在、清掃夫カーストⅡ︿不可触民﹀は北インドで寺ハルミキィと呼ばれているが、その昔、

狩人であったバルミキィという男が聖者によって改宗し、ラーマーャナを作ったという伝承が広く伝わっている。

訳者註︶についてもよく話してきかされた。この二つの本を毎日読むことによって、若いアンベード

ヵルはヒンズー神話を熟知し、宗教的感情に浸された。中学卒業の際、たまたま父親の友人ケールス

ヵルに紹介され、彼自身の書いた﹃ブッダの生涯﹄を贈られた。そしてその本に書かれていることは、

二つのヒンズー神話とすこぶる矛盾していることを知った。幸い彼はぼんやりとそれを読承すごしは
ダンマとの最初の出会いであった。

しなかった。彼はその対立点を逐一比較したのである。実にこれが、アンベードカルとブッダと彼の

この歴史的著作をものにするに当って、アンベードカルは尼大な思想的分野を渉猟した。様倉の宗

教的概念を岨噛し、それらを理解すればするほど、現代社会の基礎と理想的基盤はブッダのダンマの

上に置かれねばならぬと確信するようになった。その最初のきっかけは、一九五一年、カルカッタの

〃マハーⅡボディⅡソサイェティ︵大菩薩会︶″がその機関紙に小論文の寄稿を依頼した時に遡る。こ

の中で彼は、現代社会に適合する唯一の宗教は仏教であり、もしそれに失敗したなら、社会は破滅に

向うであろうと主張している。彼によれば、ブッダのダンマ以上に、知的、科学的、近代的精神に訴

える宗教は他にない。もし仏教が現代社会に十分受入れられないとすれば、その全集成が余りに広範

囲で拡散しすぎているせいであり、そのため仏教の真髄を把握し難くさせていると彼は信じたのであ

る。それ故、必要なのは、仏教の原理的思想の集成を簡明に記述することだ、と。本書の主題は、ブ
語ることによって緒いてくれた。

ッダのダンマについてであり、そのダンマを、シッダールタの生涯を誠に簡明かつ威厳のある言葉で

生涯を通じて、アンベードカル博士のペンは多様な事象を網羅し、性交にして論議の的となった。

だがその・へソは常に社会的正義、この国のために、最下層の、あるいは一般民衆の救済のためにたゆ

みない努力を払ってきた。その生涯の最後の時間を、彼は本書の完成に全身全霊を傾けて打ち込んだ。
その意味で記念すべき書物なのだ。

この著作の完成によって彼の生涯もまた成就したのである。彼が自ら畢生の大事業というように正に

故初代委員長は、この著作をもってして、〃人民教育協会″の最初の出版物にしようと期待してい

た。そして彼は更にこれにつづいて、方々の大学の秀れた学者、研究者たちが、わが協会のイニシャ
その後にならってくれることを希望して止まない。

ティブによってどしどし寄稿されることを希っていた。この偉大な著作に刺戟され、多くの人びとが

最後に、本書出版に際し尽力して戴いた方々、就中、故初代委員長への限りない敬愛心から多大な
くお礼を申し上げたい。

尽力を惜しまず払って下さったナーナクⅡチャンドⅡラットゥ氏並びに・ハルヵシュⅡチャンド氏に厚

文一九五七年一一月一九日。アーメドナガールにて。
Ⅲ序

人民教育協会委員長、RoRoポーレ

ブッダとそのダンマー︲llll目次

序文︵RoRoポーレ︶I


第一章誕生から出家的
れる一家″

部シ”ダールタ・ガゥタマ,ポーディサノほいかにしてブ,ダとなったか

日ブッダの家系Ⅲ。ブッダの家柄別白誕生別画ア

㈲女たちの敗北列ロ宰相の忠告兇白王子の返答刃目

筋⑥若き日の特質お伽結婚那帥父王の腐心”

シタ仙人の来訪躯⑥マハーマーャーの死別㈱少年時代と教育

申し出る〃㈲出家l解決策卵鶴別離の言葉側局出 離棚的王子と従僕偶目チャンナの帰城妬巳悲嘆にく
第二章永遠の訣別別

シャヵ族のサソガ︵集会︶入会兇同サソガとの対立お㈲追放を

目カピラヴァストゥからラージャグリハへ列○ビンピサーラ王の忠告

5 白ガゥタマの答え鬼②ガウタマの答え兄⑤平和の知 らせ〃㈹問題の新たな展開兇

第三章新しい光を求めて別
㈲隠者ブリグに会う兜ロサーソキャ哲学の修行帥

白苦行へ

の挑戦団四苦行の放棄団
第四章黄等とりと新しい道間

目さとりに到る膜想$○さとり価日新しいダンマ︵法︶
7 6

四ブッダ誕生品

第五章ブッダとその先駆者Ⅵ
日ヴェーダ期のリシ︵聖仙︶別○大哲人カピラ
フマナ妬画ゥ。ハーーシャッドとその教義別
7 3

白ブラー

第六章ブッダと同時代の人びと別
目彼の同時代人別○同時代人へのブッダの態度塊

第七章比較対照別
Bブッダが反対したこと ダが認めたもの筋
4 8

31言

目ブッダが修正したもの筋白ブッ


第一章ブッダの偉大な思慮刈 伶説教の涛路冊○二種類の帰依卯 第二章遍歴行者の帰依肌

伶サールナートで”○最初の説法粥白修行者たちの反応Ⅲ

第三章上流人の帰依叩
Sヤサの出家皿ロカッサ・︿の帰依肥
ツラーナの帰依川画ビソピサーラ王の帰依 イカの帰依川㈲・ハセーナディ王の帰依岨

8 0

白サーリプッタとモッガ

国アナータピンデ
㈹ラッタ。︿−ラの帰依Ⅲ

.個ジーヴァカの帰依

第四章帰郷加

目スッドーダナとの最後の会見川目ヤショーダラーとラーフラ剛

の返答町倫大臣の返答伽㈲ブッダの決意
第五章帰依活動の再開
1 3 1

B素朴なバラモンたちの帰依Ⅸロウッタラヴァティーの・ハラモンの帰依
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第六章低階層者の帰依

目床屋ゥ・ハーリの帰依勝。掃除夫スニータの帰依剛白不可触

民ソー。ハーカとスッピャの帰依恥画スマソガラと低カースト民の帰依Ⅳ ⑤噸を病むスッパブッダの帰依Ⅳ

第七章女性の帰依

1 3 9

1 3 5

2 9 1 2 6

白シャヵ族の対応鰯画スッドーダナの最後の願い

国ブッダ

目マハープラジャー・︿ティー、ヤショーダラーと侍女たちの帰依

目低
9 3

カーストの娘プラクリティの帰依Ⅷ

第八章罪人たちの帰依蝿
目盗賊アングリマーラの帰依畷○他の罪人たちの帰依w

5目


第一章ダンマにおけるブッダの位置

日・ブッダはダンマの中で特定の位置に自らを置いていない脇目ブッダは

救いを約束しなかった。彼は自らを求道者と呼び救済者とはいわなかった暁 白ブッダは自分白身とそのダンマに神性を求めなかった。それは人間による人間の ための発見であり天啓ではないⅣ

第二章ブッダのダンマに関する諸説剛
S他の人びとは・ブッダの教えをいかに解したか?例

第三章ダンマとは何か血

目清らかに生きることがダンマである皿○人生の完成に達することがダ ンマである脇白ニッバーナ︵浬梁︶に生きることがダンマである刷 画渇望を捨てることがダンマである〃㈲全ての事象は一時的で傍いと確 信することがダンマである畑㈹カルマ︵業︶は道徳的秩序の媒介者である


と確信するのがダンマである㈹

1 5 3

第四章何がダンマではないか鵬

日迷信を信ずることはダンマではない脇Qイーシュヴァラ︵主宰神︶信 仰はダンマの本質的部分ではない鵬白・フラフマンとの合一に基づくダンマ は間違ったダンマである刷画霊魂を信ずるのはダンマではないⅧ ㈲供犠信仰はダンマではない脇㈹推量に基づいた信仰はダンマではない 6 8 ㈹ダンマの知識を蓄えるだけではダンマではない脇㈹ダンマ教


典の不可謬性を信じるのはダンマではない剛

第五章サッダンマ︵正法︶とは何か峨
第一節サッダンマの働き剛

㈲心を清らかにすること鵬○この世を義の王国とすること隅

第二節サッダンマたるべきダンマは智慧を深めねばならない柳

㈲学問が全てに開かれてこそダンマはサッダンマであるⅣ口学識だけで

71言

は十分でなく、それだけでは街学者に陥入るということを教えるダンマがサッダンマ

である脚白大切なのは智慧だということを教えるダンマがサッダソマであ

る剛

第三節サッダンマたるべきダンマは慈愛を深めねばならない

目単なる智慧だけでは十分でなく戒行が伴わなければサッダンマではない池 口智慧と戒行以外に力とノー︵同情。憐澗︶が伴ってはじめてサッダンマとなる 白同情・憐佃よりマィトリー︵慈愛︶がもっと大切だという﹄﹂とを教える


2 0 2

のがサッダンマである池

第四節サッダンマたるべきダンマは一切の社会的差別を取り払わねばな

らない郡

目サッダンマたるべきダンマは人と人との垣根を取り壊さねばならない池 口サッダンマたるべきダンマは人を量るのは生れではなくその価値であると教えね

ばならない加白サッダンマたるべきダンマは人間間の平等を弘めてゆかね ばならない川

第四部
第一章宗教とダンマ狐

目宗教とは何か妬○ダンマは宗教とどう違うか恥白宗教とダ

ンマの目的”四道徳と宗教加国ダンマと道徳測尉単

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なる道徳は不十分であり、神聖かつ普遍的なものであらねばならない卿

第二章術語的類似性がいかに根本的相違を陰蔽したか蝿

第一節再生湖

目前置き皿。何が再生するのか?必白、誰が再生するのか”
第二節カルマ︵業︶期

㈲ブッダのカルマ論はバラモン教義のそれと同じなのか迦○ブッダは前 世のカルマが来世に影響すると信じていただろうか剛白その結論鰯
第三節アヒンサー︵不殺生︶
2 3 5

2 3 5

㈲アヒンサーのさまざまの解釈と実践

ロァヒンサーの真の意味

第四節転生”

第五節誤解の原因配

9目

第三章仏教徒の生き方

2 4 0

2 3 5

1 0

B善悪、罪測○渇望と欲情油白傷つけることと悪意捌

口怒りと敵意醜国人、こころ、稜れ”㈹自己と自己抑制班 的智慧、正義、良き友施⑪思慮深さと注意深さ郷⑰良く目覚
0 5 2

めていること、精進し大胆であること淵⑤悲しふと幸い、施しと情け深さ
のダンマと混同するな鰯

口偽善者呪白正しい道を歩む狸冒真のダンマを偽り

第四章ブッダの教え恥
第一節家長への教訓呪 目幸せな家長呪○娘は息子より一層望ましい
第二節品性を保つことの大切さ郷
2 5 5

目夫婦筋

尚白
2 6 2

㈲人間の堕落は何によって起るか郷○邪しまな人間”

最良

の人況画さとった人湖⑤正しい人と善い人知
ことを行う大切さ狐⑤善い決心をすることの大切さ奴
第三節正しさについての教え
2 6 う ( 一 )

圭宮い

正しさとは何か池。正しさの必要鮒白正しさと俗事の道

囚正しい行いによっていかに完成に達することができるか”国

正しい道を歩むのに連れを待つ必要はない

第四節ニルヴァーナの教え加
㈲一一ルヴァーナとは何か?刀。一一ルヴァーナの基礎
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第五節ダンマの教え

B正しい見方が何故最初に位置するか恥○死後の世界を何故気に病むの

か脳白神への祈り、祈願は無意味である妬四人を清らかにする
らかな生活とは何か加

のは何を食し、何を食さないかではない妬㈲間題なのは食物でなく悪い行

いである妬㈲外見をきれいにするだけでは不十分である油㈲清
第六節社会、政治問題についての教え加

㈲王侯の恩恵に頼るな加目王が義の人であれば臣下もそれに従うである

IIE

白政治や軍事力を支えるのはその社会組織である皿画戦争 う邪 は悪である”㈲平和をかちとった勝者の義務”

第五部

2 7 3

2 6 9

第一章サンガ

㈲サンガと第一次結集”○サンガヘの入団許可”白 い”四ピクと聖職者としての罪馴国ビクと制約加 ピクと衆学法馴㈲ピクと罪状の裁定加㈹ピクと告白


第二章ブッダの語ったビクの概念
2 9 3

2 8 7

1 2

291ピ

ク 2 9 5

㈲ピクはどうあるべきか郡○ピクと苦行者 ソ配卿ピクとウ・ハーサヵ︵在家信者︶川

㈲ピクとバラモ

第三章ピクの義務

3 0 2

f ウ と
ソ 0 4

B改宗の務め池○奇蹟によらぬ改宗
四ピクは徳︵ダンこを弘めるために聞え畑

自力によらぬ改宗

第四章ピクと在家信者訓
のダンマ弧

伶布施のきずな弧ロ相互作用Ⅷ白ピクのダソマとウパーサヵ
第五章在家信者の戒め
3 1 5

3 0 6

富者の戒め班 生徒の戒め池 その結論剛

第六部
釈尊とその同時代人
3 2 5

第一章保護者
目ピソビサーラ王の寄進 ジーヴァカの寄進”
四 3 2 う

㈲画(一)

○家長の戒め ⑤夫婦の戒め ㈹娘たちの戒め

○アナータピンディヵの寄進班白

アン・︿・ハーリーの寄進”㈲ヴィサーヵー

の寄進郷

第二章ブッダの敵対者

日魔法で帰依させるという非難甥。寄生虫呼ばわり剃白幸福 な家庭の破壊者としての誇り班画人殺しの濡衣朔㈲不道徳の誇 8 倫従兄弟デーヴァダッタの敵意知㈲・ハラモソとブッダ班 り粥

1 3 1 量

第三章教義への批判麺

目サンガ開放に対する批判形○誓いへの批判班白アヒンサー

3 3 3

3 2 1 3 1 9 3 1 6

白子供たちの戒め犯 ㈲主人と召使の戒め釦

︵不殺生︶教義への批判
1 4

3 4 6

第四章徳の唱道と悲観論への批判

目悲観の原因としての苦測○悲観の原因としての無常観 仏教は厭世的であるか?刑画霊魂と再生理論批判通
論者としての非難漉
3 5 4

3 5 0

国 3 5 1

霊魂消滅

第五章友人と崇拝者

四 3 5 4
3 6 5

㈲バラモンの妻ダナソジャーニーの信仰心

仰筑白マッリヵーの信仰郷

○ヴィサーカーの不動の信 子を宿した母親の熱い願い刑

第七部

展後の旅

第一章親しい人びととの出会い
3 6 6 ( )

布教の中心地邪。訪れた場所姉白母と妻との最後の別れ

画父と子の最後の別れ”㈲サーリプッタとの最後の別れ畑

第二章ヴァイシャーリーを去る
3 7 0

B美しいヴァイシャーリ−の街

○・ハーヴァー村刑白クシナ

−ラ”

第三章入滅
㈹四㈲

3 8 2 日

後継者問題邪○最後の帰依者刑
アーナンダの嘆き刑㈲マッラ族の嘆き
遺骨分配を巡る争い刑

3 7 3

3 7 0

臨終の言葉茄

倫葬儀畑

第八部

シッダールタ。ガウタマという人間
3 8 9

第一章その人となり

3 9 0

目釈尊の容姿畑

○同時代人の証言
3 9 3

白秀れた統率力刑

1 5 1 昌

第二章その人間性

3 9 3

Bマハーカルナー。限りない同情心

目不幸を癒す力

3 9 4

r 6

白寛容Ⅷ口平等の精神仰
第三章好んだもの、嫌ったもの
4 0 6 日
4 0 4

貧困への嫌悪州○
画美しいものへの愛
4 0 9
7 0 4

4 0 5

所有欲への嫌悪

日美しいものへの喜び

結語
目ブッダの偉大さ
4 0 9

ロダンマを弘める誓い蝿白浄土祈願畑

解説︵山崎元一︶妬
訳者ノート︵山際素男︶
4 2 7

装丁渡辺千尋

第一部

シッダールタ。ガウタマⅢボーディサッタは いかにしてブッダとなったか

第一章誕生から出家

目ブッダの家系

紀元前六世紀の北インドには単一の君主国家は成立しておらず、大小さまざまの君主、非君主国が
割拠していた。
第一章誕生から出家

君主国は、アンガ、マガダ、カーシ、コーサラ、ヴァソサ、クル、。ハンチャーラ、マッチャ、スー

ラセーナ、アッサカ、アヴァンティ、ガンダーラ、カンポージャなどであり、非君主国は、カピラヴ

ァストゥのシャカ族、・ハーヴァー、クシナーラーのマッラ族、ヴァイシャーリーのリッチャヴィ族、

ミティラーのヴィデーハ族、ラーマガーマのコーリヤ族、アッラカッ。︿のブリ族、レーサプッタのカ

リンガ族、ピッパラヴァナのマウリャ族、スンスマーラ丘に首都のあるバァーッガ族などである。

シャカ族の政体が共和制か寡頭制かどちらであったかは良く分らない。ただ、シャヵ共和国には沢
ジャ︵王︶と称ばれた。

山の支配家族がおり、順番に国を統括していたことだけは明らかである。そして支配家族の長がラー
19第一部

シッダールタ。ガウタマが生れた時、たまたまスッドーダナがラージャであった。シャヵ国は、イ

ンドの北東端にある独立国であったが、後にコーサラ国王の支配下に置かれた。このためシャヵ国は

コーサラ国王の承諾なしには主権を十分行使できなかった。強国コーサラの。ハセーナディ王、マガダ のビンビサーラ王は共にシッダールタ・ガウタマの同時代人であった。

2 0

目ブッダの家柄

シャヵ国の首都はカピラヴァストゥといい、偉大な合理主義哲学者カピラの名をとったものと思わ
れる。

カピラヴァストゥに住むシャカ族のジャヤセーナを父祖とし、その子のシナフーとカカーナーとの

間に五人の息子、即ちスッドーダナ、ドートダナ、サッコーダナ、スッコーダナ、アミトーダナ並び

にアミターと・ハミターの二人の娘が生れた。一族の氏姓は〃太陽の末喬″と称した。スッドーダナは、

コーリャの首都デーヴァダハに住むコーリャ族のアンジャナとスラクシャナーの娘マハーマーャーを

要った。スッドーダナは武勇に優れ、その力量をかわれ第二夫人を要ることを許されたので、マハー
すき

マーャーの姉マハー・ブラジャー・︿ティーを選んだ。スッドーダナは裕福で、その土地を耕すのに千の

準を必要としたといわれる。彼は多くの宮殿を持ち賛沢に暮らした。

白誕生

シッダールタ。ガウタマはこのスッドーダナの子として生まれ、以下はその誕生の様子である。

シャヵ族はアーシャーダ月︵六月∼七月︶に例年夏祭りを国を挙げて盛大に七日間祝う習しがあった。

マハーマーヤーはある年、大いに娯しく、華かに、ただし酒類は噌ず祭りを過そうと思った。祭

たしなま

りの七日目、彼女は香ぐわしい水で汰浴し、四○万の貨幣を布施し、高価な飾物で身を飾り最上の食 事を喫し、断食の誓をしてから美しく飾られた寝室に入った。その夜スッドーダナとマ︿1マーャー

は共に臥し、マハーマーャーは身篭った。眠りの中で彼女は次のような夢を見た。四人の世界守護神

が現れ眠っている彼女を抱き上げヒマラヤの頂に運び、巨きな沙羅樹の根元に下ろした。それから守

護神の妃たちが現れ彼女をマンサロワール湖に連れていった。彼女たちはマハーマーャーを汰浴させ、

衣服を着せ、香水をふりかけ花で飾り、神に会う準備を整えた。やがてポーディサッタ︵菩薩、悟り

を求める人︶が現れ、いった。〃私はこの地上に最後の誕生をする決心をしました。貴女は私の母上に

なって下さいますでしょうか?″彼女は〃心から喜んで〃と答え、その瞬間夢から覚めた。

翌朝、マハーマーャーはこの夢を王に語った。夢の意味が判らなかった王は、占いで名高い八人の

バラモンを招いた。王は祝花を地面に撒き彼らのために高座を設けた。王は書くラモンたちの鉢を金銀

で満たし、ギー︵上質のバター︶、蜂蜜、砂糖、上等の米、牛乳などで調理した料理を献じ、更に新し

い衣服、黄褐色の乳牛を与えた。・ハラモンたちが大いに満足したところで、王はマハーマーャーの夢
第一章誕生から出家

について述べ、その意味を尋ねた。・ハラモンたちはいった。﹁ご案じ召さるな。王様には王子が授か

るでしょう。もしその御子が世俗の人生を歩めば全世界の大王となり、家を捨て、サンャーシー︵遍
とつき

歴行者︶となるなら、この世の幻想を追い払う〃ブッダー真理を悟った人″となられるでしょう﹂

一方、壷の中の油のように胎内にポーディサッタを十月抱えたマハーマーャーは、臨月が近響つくと 多勢の供を添えて彼女を故郷へ送った。

両親の許で出産したいと王に願い出た。スッドーダナは快よくその願いを聞き入れ、黄金の輿に乗せ

デーヴァダハヘの途中、マハーマーャーはルンピニー園という沙羅樹やその他の樹々が繁り花の咲
第一淵
2 J

き誇る美しい木立を通った。ルンピニー園は恰も大王を迎える野外宴会場のような華かさであった。

樹には枝もたわわに果実が実り、色とりどりの花で包まれ、無数の蜜蜂が羽音を立て、様為な小鳥の

群が陽気に噛っていた。マハーマーャーはその美しさに魅かれ一時園で楽しんでゆきたいと思った。

輿から下りた彼女は沙羅樹に近づき風にそよぐ枝を掴んだ。枝は風にゆられ高く彼女の鉢を持ち上げ

た。そのとたんマハーマーヤーは俄かに産気づき、立ったままの姿勢で男子を産承おとした。時に紀

元前五六三年ヴァイシャ1カ月︵インド暦の二月︶の満月の日であった。

スッドーダナとマハーマーャーは長い結婚生活を送っていたが子供に恵まれなかった。やっと王子

を授かった二人はもちろん、その一族、シャカ族一同は大喜びで誕生を盛大に祝った。
子と呼ばれた。

また丁度スッドーダナはヵピラヴァストゥの支配者でラージャの地位にあったから、息子は当然王

画アシタ仙人の来訪

その頃ヒマラヤにアシタという偉い仙人がいた。天上の神為が〃ブッダ、ブッダ〃と叫び、衣を打

ち振り踊り回るのを観、ブッダの生れた地へ出掛けて承たくなった。アシタは神通力でインドを隈な
った。

く眺め渡し、スッドーダナの舘に光り輝く男子が生れ、神々はその子供のことで歓喜していたのを知

アシタ大仙人は甥を伴い、スッドーダナ王の宮殿を訪れた。門前には何十万という人びとが集って

いた。そこで彼は門番に彼の来訪を王に告げるよう求めた。年老いた仙人が彼に会いたがっているの

を聞きスッドーダナは直ちに席を設けアシタを招じ入れた。アシタは王に敬意を表しその長命を祈っ

た。王は恭しく膝まずき仙人に席をすすめた。アシタが座ると王はやおら尋ねた。

﹁聖者よ、貴方にお目にかかるのは初めてに思えますが、何用あって参られたのですか?﹂
す﹂アシタはいった。

﹁他でもないことですが、貴方にお子がお生れになったのを知り、一目見たいと思って参ったので

﹁左様ですか。生憎わが子は眠っておりますので、暫くお待ち願えますまいか﹂王は答えた。

﹁いや、王よ、かくも偉大なお人は長くは眠りますまい。常に目覚めておるものです﹂

赤子はその大仙人に慈悲を覚え目覚めのしるしを送った。赤子が目覚めたのを知り、王は両腕にし

っかりと息子を抱き仙人の前に連れてきた。アシタは赤子を詳さに眺め、偉大な人がもつ三二の瑞相、 もの︶が何百倍も秀れているのを観、厳かにいった。 ﹁このような人物がこの世に現れたとは、誠に素晴らしい﹂

八○の瑞相が備わり、その身体がブラフマー︵焚天︶を凌駕し、そのオーラ︵身辺に漂う香気のような

アシタは席を立ち掌を合わせ赤子の前に膝まずいた。右回りの礼拝の儀を行い赤子を抱き想いに耽

った。年経た大予言者アシタは、三二相を有する偉人には二つの道があり、第一一一の道はないのを知っ

ていた。それは、世俗の道を歩めば大君主となり、家を捨てれば全き目覚めたブッダになるだろうと
第一章誕生から出家

いうことであった。アシタは赤子が世俗に止まらないのを確信していた。ふとアシタは涙を流した。 王はそれを見、ぞっとする不安に駆られた。
るのではありますまいな﹂

﹁聖者よ、何故そのように涙を流し、深い溜息をつかれるのです?この子に不幸が待ちうけてい

﹁王よ、私はこのお子のために泣いたのではありません。このお子に不幸が待ちうけている訳でも
ありません。私は自分のことを思って泣いたのです﹂
﹁では、どうして泣かれるのです?﹂

23第一制

﹁私はすでに年老いているのに、このお子は必ずやブッダとなり、至上にして完全な悟りを得るで

しょう。これまで何ぴとも行わなかった最高の教えの法輪を転じ、この世の至福のために教えを弘め

るでしょう。彼が弘める教えは初めも、中間も終りも優れ、言葉と精神においても、全て純粋で完壁

なものでありましょう。
2 4

ウドンゲの花が三千年に一度咲くように、数え切れぬ移り変りの後にブッダはこの世に現れてきま
導くでありましょう。

す。お子は至高にして完全な悟りを得られ、無数の衆生を引き連れ悲嘆と惨苦の海原を越え至福へと

然るに王よ、私はそのブッダを拝することがかなわぬでしょうから、かく泣いている次第でござい
ます﹂

王はアシタたちを手厚くもてなし贈物を与え右回りで礼拝した。
アシタは伴の甥にいった。
で陸ある﹂

﹁このお子がブッダとなられたのを知ったら、その教えに救いを求めよ。それはお前の幸福のため
かくしてアシタは王の許を辞し、ヒマラヤの庵へ向った。 ⑥マハーマーヤーの死

誕生の五日後命名式が営まれ、シッダールタと名付けられた。彼の氏族名がガウタマであることか
ら、一般にはシッダールタ。ガウタマと呼ばれることになった。
ハープラジャー・︿ティーを枕辺に呼んだ。

その慶びの最中マハーマーャーは突如重い病に倒れた。死を予期した彼女はスッドーダナと姉のマ

﹁私の息子はアシタの予言通りになるでしょう。それを見ずに死ぬのは心残りです。しかし、ブラ

ジャー・︿ティ−よ、私は貴女にあの子の全てを任せてゆけるので安心して神の下に参れます。どうか

嘆かないで下さい﹂そういって彼女は息を引取った。シッダールタは誕生七日目にして母を失った。

シッダールタにはスッドーダナとマハープラジャー・︿ティーとの間に生れたナンダという異母弟と、

幾人かの従兄弟、即ちスッコーダナの息子マ︿−ナーマ、アヌルッダ、アミトーダナの子アーナンダ、
は下であった。シッダールタはこれらの従兄弟と共に成長した。

叔母のアミターの子デーヴァダッタなどがいた。マハーナーマはシッダールタより年上でアーナンダ

㈲少年時代と教育

シッダールタが歩きはじめ口がきけるようになるとシャカ族の長老たちは、彼を村の女神アビャの

寺に連れてゆくようスッドーダナに進言した。 マハープラジャー。ハティーが着物を着せてやっていると、シッダールタは可愛らしい声でどこへ行 くのかと伯母にきいた。寺に行くのが分るとにっこりした。


第一章誕生から出家

八歳から教育は開始された。最初の教師は夢占いをした八人の、ハラモンであった。彼らが知る限り

のことを教授すると、王はウッディカの非常に高い家柄の、ヴェーダやウパニシャッドに通暁する哲

学者サッ・ハーミタを次の教師として迎えた。彼の下でガウタマは当時流布していた全ての哲学体系を
問も学んだ。

習得した。彼はまたアーラーラ。カーラーマ仙人の弟子で・ハルダワジーという師から集中と膜想の学

紛若き日の特質

25第一部

シッダールタは父王の農園に行き仕事がない時はいつも静かな場所へ行き膜想をした。十分な知的

教養と共に、クシャトリャに相応しい兵法の勉強も授けられた。父王はシッダールタが知的教養に熱

中し武人らしさを失うのを恐れた。シッダールタは優しい性格の持主で、人が人を搾り取るといった

2 6

ことを好まなかった。

ある時、幾人かの友人と父王の農園に出掛けたシッダールタは、炎天下で裸同然の姿で汗水流して

畑を耕し、堤を築き、木を伐る労働者の姿を目にし、いたく心を動かされた。彼は友人に向っていっ

た。人が人の労働を負るのは正しいことだろうか?労働者だけが汗水流して働き、主人はその労働

の実りで暮してゆくというのは正しいのだろうか?仲間達は返答のしょうがなかった。彼らは、労

働者は奉仕するために生れてき、主人に仕えることでその生の定めを全うするだけだという昔からの 考えに少しも疑いを抱いていなかった。

シャヵ族は種蒔き時に、種蒔祭という素朴な祭りを祝った。その日にはシャカ族全員が畑に出て働

く習慣があった。シッダールタはその習しをきちんと守り、人びとと共に鋤を握った。彼は学問の徒
った。

であったが、肉体労働を軽蔑しなかった。彼は戦士族であり、武術を学んだが無益な傷つけ合いを嫌

狩りの誘いを断ると、彼の仲間はよくこういって彼をからかった。﹁君は虎が怖いのかい?﹂﹁いや、

君達は虎狩りに行くのではない。無害な鹿や兎をただ気晴らしに殺しにゆくだけじゃないか﹂﹁それ
を見るのはごめんだよ﹂シッダールタはそういって拒否した。

なら、僕達の素晴らしい射的の腕でも見物に来ないかい?﹂﹁いやだね。罪のない動物が殺されるの

ブラジャー。︿ティーはそういう彼の態度をひどく心配した。二人はよくいい争った。

﹁シッダールタょ、お前は自分がクシャトリャであり、戦うのが義務だということを忘れています。
¥生■一

狩りで上手く獲物を射る練習が戦いの技を磨くことなのです。狩猟こそ戦士族の基礎を作る鍛練です
﹁しかし母上、何故クシャトリャは戦わねばならないのです?﹂

﹁それが義務だからですよ﹂

﹁でも人を殺すのがどうして人間の義務なのです?母上﹂
もしクシャトリャが戦わなければ誰がこの国を守るのです?﹂
ないと思いますよ﹂

﹁そういうことは行者さんに任しておけばいいのです。クシャトリャは戦わなくてはなりません。

﹁でも母上、もしクシャトリャが皆でお互いを慈し象合えば、殺し合わずとも国を守れないことは
ブラジャー・︿ティーは結局彼をほうっておくしかなかった。

シッダールタは逆に仲間を膜想に誘った。〃我身の幸いならんことを。一族の幸ならんことを。一

切の生きとし生けるものの幸いならんことを″このような考えを抱き膜想するよう説いた。しかし仲
と考えた。
第一章誕生から出家

間は本気では取り合わず、彼を暖った。両親も彼の膜想癖を好まず、クシャトリャにあるまじき所業

シッダールタは、正しい想念を膜想することは博愛精神を培うと信じていた。〃我々は生き物につ

いて考える時、区別と差別を始める。友を敵と分け、家畜を人間と分け、友と家畜を愛し、敵と野獣
た時に可能となる″彼はそう考えた。

を憎む。我食はこの区別の境を克服しなければならない。それは順想によって現実の限界を乗り越え

シッダールタの少年時代で一番目立ったのは、その同情心であった。

27第一部

また王の農園で樹陰の静けさと自然の美しさを楽しんでいた時、突然矢に射られた烏が目の前に落

ち、もがき回った。シッダールタは直ぐに介抱してやり懐に入れて温めてやった。再び樹陰に一戻り誰

がこんなひどいことをしたのだろうと考えていると、やがて弓矢を携えた従兄弟のデーヴァダッタが

現れた。そして、空を湖んでいる烏を射ったがどこかに落ちてしまった。君はその鳥を見なかったか、

2 8

とシッダールタに尋ねた。シッダールタは知っているときっぱり答え、すっかり元気になった鳥を取

り出して見せた。デーヴァダッタは鳥を返せと迫ったが、シッダールタは断った。二人は激しくいい

争った。デーヴァダッタは、狩の決まりとして獲物を殺した者にその獲物の所有権があると主張した。

しかしシッダールタはそんな決まりなんか間違っている。所有権を主張できるのはそれを保護してや
停に委ねられ、軍配はシッダールタに上った。
命の方を選んだ。

る者だ。殺そうとする者がどうして所有者であるものか、と譲らなかった。かくて争いは第三者の調

この後デーヴァダッタは彼の終生の敵となったが、シッダールタは従兄弟の歓心を買うより小鳥の

㈹結婚

シャヵ族ダンダ・ハーニの娘ヤショーダラーはその美貌と品性の良さで広く知られていた。彼女は一

六歳になり、ダンダ・ハーニは娘の結婚を考えた。慣習に従い、ダンダ。ハーーーは娘の婿選びに近隣諸国

の若者を招待した。丁度一六歳になったばかりのシッダールタにも招待が届いた。両親は彼の結婚を

考えていた矢先であったので、早速婿選びに参加しヤショーダラーを射止めるよう勧めた。シッダー

ルタは親の意に従って出掛けた。ヤショーダラーは多くの若者の中からシッダールタを選んだ。しか

しダンダパーニは余り喜ばなかった。二人の結婚がうまくいくかどうか危まれた。彼はシッダールタ

が仙人や聖者とばかり接し、孤独を愛する性格なのを知っており、そういう男が一家の主人として成

功するとは思えなかったのである。シッダールタ以外に結婚の相手はいないと決心していたヤショー

ダラーは、聖者や仙人を相手にしてどうしていけないのです?と父親に反論した。彼女にはそうは

思えなかったのである。娘の固い決意を知った母は、ダンダ・︿1一一を説得し結婚を承知させた。

ところが、他のライバル達は、その決定に失望したばかりでなく侮辱すら感じた。彼らは皆に公平

にヤショーダラーは何か試験をして選ぶべきだといった。それでもヤショーダラーはうんといわなか

った。人びとは静まり返ってダンダ・ハーーーがヤショーダラーの決心を雛させるのを固唾をのんで見守

った。だがダンダ。ハーーーが失敗するのを見るや、若者達は興奮し、弓で競い合うよう求めた。ダンダ
。︿−一一も仕方なくその要求を容れた。

初めシッダールタはそんな競争に加わろうとは考えていなかった。しかし御者のチャンナは、もし

拒否すれば、父王や一族の名折れになるだけでなくヤショーダラーにも恥をかかせることになると懸
の優勝で終った。

命に説得し、シッダールタもその意見に心を動かされ競争に加わることにした。結果はシッダールタ

かくして目出たく結婚は成立し、スッドーダナ、ダンダ。ハーニ、そしてヤショーダラー、マハープ
章誕生から出家

ラジャー・ハティーも皆幸せであった。長い夫婦生活の後やっと息子が生れ、ラーフラと名付けられた。

帥父王の腐心

スッドーダナは息子が結婚し家庭生活に入ったことに安堵したが、アシタ仙人の予言が心を離れな

かった。王は予言が成就するのを恐れ王子をこの世の快楽に溺れさせようとした。王は息子のために

第一部一第
2 9

夏、雨期、冬用の快適な宮殿を三つも建てふんだんに享楽的雰囲気で満たし、宮殿の周りをあらゆる

種類の樹や草花で一杯の広灸とした庭園で取り囲んだ。司祭のウダーインは王と相談し絶世の美女を

集めてハレムを用意した。スッドーダナはウダーインに命じ女達に王子を快楽の虜にするよう仕向け

させた。ウダーインは妓女を前にこういった。﹁お前達はあらゆる技芸に優れ、心をとろけさせる甘

言に長けている。お前たちは美しく優雅でその道に熟達している。その雅やかさをもってすれば、欲

ツ 0

望を捨てた仙人やニンフにかしずかれた神々ですら誘惑することができよう。その巧承な言葉、艶め

かしさと美しさは女すらうっとりさせる。まして男の心を魅くのは易いことだ。それぞれの持味を存

分に発揮すれば王子を汝らの虜にするのは決して不可能ではない。おずおずした振舞いは初心な花婿

向きでしかない。いかに英雄が栄光に輝いていようと、〃偉大なのは女の力だ″昔、神にすら負けな

かった偉い仙人がいたが、カーシ国の絶世の美人遊女に擁ねつけられその足下に平伏した。また偉大

なヴィスヴァーミトラ仙人は大苦行者であったが、ニンフの色香に迷い一○年も彼女の森に囚われて

いた。このような多くの仙人すら女の前には無力となったのだから、若芽の年頃の繊細な王子を陥入

れるのは訳のないことだ。王家の世継をしっかりとつなぎとめておけるよう思い切ってやって呉れ。
えるのだ﹂

ただの男を虜にするのは普通の女でもやれる。しかし、高貴で堅固な男を屈伏させてこそ真の女とい

日女たちの敗北

ゥダーインのこの言葉に女達は我こそ王子を虜にせんものと奮い立った。しかしどのような娠態を

もってしても王子は心を傾けてくれそうもなかった。それでも王室僧侶ウダーインの鞭健と王子の優

しさに気を取り直し、酒と愛欲の力を借りて女達は〃仕事″に精を出した。妓女に囲まれ木立を遁遥

する王子は牝の群を引き連れてヒマヴァットの森を歩き回る象のようであった。美しい森木立の中で

天女のような女にかしずかれる王子は太陽のように光り輝いて見えた。ある者は堪らなくなってその

豊かな乳房をそっと王子に当て、ある者はわざと噴いた振りをして王子にひしとすがりつきしなやか

な腕を巻きつけたりした。また他の女は、口に微醇を漂わせ真赤な唇を彼の耳元に寄せ〃私の秘めた

心をお聞き下さい〃と鳴いた。ある者は鉢中に香油を塗り彼の手を握りしめ〃さあここで愛の儀式を

行って下さい〃といい、ある者はブルーの衣裳に身を包承、酔った振りをして絶えず転び、立ち上る

と赤い舌を闇夜の稲妻のようにチラチラさせた。薄いベールをまといこれ見よがしに肢鉢を王子の前

に晒す女、マンゴーの枝を持ち前屈象になって黄金の壷のような乳房をさらけ出すのもいた。蓮の花

のような眼をした女が、蓮の花のような貌をした王子の前に蓮の花の女神。ハドマのようにその花を捧

げた。それと直ぐ判る身振りと歌で王子を刺戟し〃貴方は惑わされた″といったり、あるいはその明

るく長い眉の特徴を生かし、勇士らしい王子の仕種を真似て気を引こうとする女もいた。また、豊満

な姿態と耳飾りを風にゆらめかせ〃さあできるものなら私を掴えてごらんなさい〃とばかりに笑いか
ゃい″などといってからかった。

けた。別の女は男のような歩き方や物腰を真似〃さあ女に負けた人、行って世界を征服していらっし

くるりと丸い大きな眼をし、青蓮の香りのする女は興奮の余り聴きとり難い言葉でこういった。
第一部一第一章誕生から出家

〃ごらんなさい蜂蜜の匂のする花で被われたあのマンゴー樹を。黄金の篭に入れられたように郭公が

楽しそうに歌っていますこと。ごらんなさい王子様。あの恋人達の悲しふを畷いているアショーヵ樹

を。周りで蜜蜂が焔で焼かれるみたいにぶんぶんいっていますわ。このティラカ樹をごらんなさい。
やに

黄色い香油を塗った女に抱かれた白い衣の男の人象たいに、細いマンゴーの枝にまといつかれていま

す。採り立ての樹脂のように明るい、このクル・ハヵ︵深紅色のケイトゥ︶は女たちの美しい爪の色に恥

じたようにうなだれています。この若いアショーカ樹は若芽で被われ、私達の手の美しさに恥じらっ

ている承たいですわ。潅木の茂承に囲まれた湖はまるで白い衣に包まれた美しい婦人のようですわね。

ほら、牡たちを召使のように従えているあの牝の赤ガチョウをごらんなさい9女の力の偉大さを象徴

3 1

しているようではありませんか。ほらあの郭公の酔った承たいな鳴き方を聴いてごらんなさい。別の

も夢中で応えていますことよ・自分の賢さばかり慮っていないで、あの春の烏のように恋をなさいま


3 2


かく女達はあらん限りの手練手管で王子を攻撃したが、克己心の強い彼はにこりともしない有様で

あった。〃あの女達は若さが移るい易いことに気づかず、老いはどんな美貌をも消滅させることを忘
たが何の効も奏さなかった。

れている″王子は浅ましい女達の姿を眺め心静かに思った。この誘惑工作は何カ月、何年も続けられ

目宰相の忠告

王子が女達にまるで興味を示さず誘惑に失敗したことを認めざるをえなくなったウダーインは、政

略に長けた宰相の立場から王子に話して承ようと思った。王子と二人だけになりウダーインはいった。

﹁私は貴方の良き友として王に指命されました。だから心からの友情をもってお話しします。

先ず、友人の三つの特質とは、友人を不利に陥入れないこと。有利なことを仕向けること。不遇の

際に見捨てないことです。友情を約した後、私の言葉に耳を貸して戴けないなら友情もこれまでです。

手管によって女の気を引くのは正しいことです。恥をかかず、かつ満足をうるからです。丁重な態度

で女の意に従えば女の心を把えることができます。上品な振舞いは女の心を魅きつけるでしょう。女

は尊敬されたがるものです。たとえ気が進まなくとも、貴方のその美しさに相応しい上品さであの者

達を喜ばせてやればいいではありませんか?上品さは女の香油、最上の飾りです。それがない美し

さは花のない林のようなものです。しかし上品さだけでは十分ではありません。感情が伴わなくては
いでしょう。

ま せ ん 。。誰しもが望承しかも仲々手に入れ難いこの世の目的を掌中にしそれを軽蔑することはな なり り ま せ ん

悦楽こそ最上の目的であることを知っていたインドラ神はガウタマ仙人の妻を誘惑しました。同じ

ようにアガスティャ聖人はソーマ神の妻を誘惑し、シュルティ︵ヴェーダなど根本聖典︶が語るように

ロー・ハムドラにも同じ運命が待ちうけておりました。偉大な苦行者ブリハス。ハティは、アゥタティャ

の娘ママターにバラドヴァージャを産ませ、月の神はヴリハス。ハティの妻が献酒をしている時彼女を

芋ませブダを産ませました。太古、。ハーラシャラはヤムナー河の辺りで情欲に駆られヴァルナ神︵天

界の司法神︶の息子の娘カーリーと契りを結び、ヴァシシュタ仙人は低いカーストの女ァクシュマー

ラーに子を産ませました。また同じく大仙人ヤャーティは人生の盛りが過ぎてもカイトラルタの森で

天女アプサラとねんごろになりました。カウラヴァ国王・ハーンドゥは、王妃マドリィと寝れば命が果

てるのを承知でその美しさと魅力に負けてしまったのです。これら名立たる存在も快楽のために卑し

い欲望を追い求めました。まして誉めるに足る目的であれば尚更のことです。然るに力と美を兼ね備
される﹂
第一部一第一章誕生から出家

えた若者である貴方は、自分のものにする権利があり、誰もが夢中になる人生の楽し承を蔑すもうと

白王子の返答

神話に助けを借りたもっともらしい宰相の話を聞き終るや、王子は天に轟く雷のような声でこう答
えた。

﹁好意に満ちたお話は誠に貴方に相応しいものです。しかし貴方は私を誤解されていることをこの

際はっきり申し上げねばなりません。私は世俗の目的を蔑しるにしているわけではありません。人び

とはそれに執着しているのを良く弁えております。しかしこの世は移るい易く、そのような目的に私

3 3

は喜びを見出せないのです。たとえ女の美しさが不変であっても悦楽の喜びは目覚めた人間には無価

値です。貴方のお話しになった、欲望の虜となった偉い人達に従ってはならないと思います。破滅が

3 4

その人びとの定めなのです。真の偉大さは、破滅が待受け世俗的喜びに固執し、自制の欠除したとこ

ろには存在しないのです。貴方は女には手管を使えとおっしゃるが、たとえ上品に振舞っても手管は

手管です。女の意に従えというのも気に入りません。所詮真実さのない、心と体が一体とならないも

のには近づかぬ方が賢明です。欲情に駆られ、虚偽を信じ、相手の欠陥に執着し盲となって流される

なら、欺むかれて承たとて何になるでしょう。欲情の虜となったもの同士が欺き合ってもそれで互い
なさりますまい﹂
王に伝えた。

に男女は満足できるでしょうか。もしそうであれば、貴方は私をそういう卑しい喜びに誘いこもうと

こうきっぱり断固とした決意を述べられてはウダーインは黙する他なかった。そしてありのままを

一切の肉感的対象物から息子の心が遠ざかってしまったことを知ったスッドーダナは心痛の余り夜

もおちおち眠れなくなった。王と大臣達はなんとか王子を欲望の世界に引き一戻し、王子が進もうとす

る道から遠ざけようと日夜頭を悩ましたが、これといった妙案は浮かばなかった。美しく着飾った後

宮の女達はその凡ゆる技芸の甲斐なく、王子への恋情を心に深くしまったまま去っていった。
目シャカ族のサンガ︵集会︶入会

シャヵ族の若者は全て二○歳になるとサンガの一員にならねばならなかった。シッダールタ。ガウ

タマも二○歳になりサンガに入会する年となった。首都カピラヴァストゥの公会堂でサンガの集会は

開かれた。スッドーダナは司祭長にサンガ集会を開くよう求めた。集会でシッダールタ入会の件が司

祭長によって発議されると、シャカ軍団の将軍が立ち、シッダールタ・ガウタマをメンバーに受け入

れるよう参加者に求めた。﹁シッダールタ。ガウタマはシャカ族のスッドーダナ家の一員として生れ、

サンガ員になりたいと申し出ている。彼は二○歳になり凡ゆる点から承てサンガの一員たるに相応し

い。故に私は彼をサンガの一員として加えるよう提案する。この動議に異議ある者は発言してもらい

たい﹂一一一度同じ言葉をくり返したが異議を唱える者は一人もなかった。これがサンガ入会の手続上の

習慣である。かくてシッダールタの入会は全員一致で認められ、司祭長は厳かに宣した。﹁汝は、サ

ンガの一員に加えられた名誉を認めるや否や?﹂﹁認めます﹂シッダールタは答えた。ついで司祭長

はサンガ会員の義務を知っているか尋ねた。シッダールタは知らないので教えてくれと頼んだ。

宜しい、と司祭長は以下の条項を告げた。 ﹁先ず、汝は汝の肉体、精神、財をもってシャカ族の利益を守らねばならない。二、サンガの集会

を欠席してはならない。三、シャカ族の行為に過失を認めたなら、恐れることなく利益に惑わされる
あらぱ白状し、なければその無実を述べねばならない﹂
部一第一章誕生から出家

ことなくそのことを明らかにせねばならない。四、もし何らかの罪に訴えられたなら、立腹せず、罪

﹁さて次にサソガからの除名条項について述べる。一、強姦、二、殺人、三、盗承、四、偽証、以

上の罪を犯した者はサンガに認まることは許されない﹂ シッダールタは司祭長に礼を述べ誠心誠意それを守ることを誓った。

ロサンガとの対立

シッダールタがサンガに入会してから八年の歳月が流れた。彼は非常に熱心でしっかりした会員で

あり、サンガの問題を自分の事のように大事にした。彼の行動は模範的で誰にも親しまれた。
うな出来事が発生した。

35節

ところが、八年目の年、スッドーダナ一族に悲劇をもたらし、シッダールタの生涯に危機を招くよ

3 6

シャヵとコーリヤ両国の国境を流れるローヒニー川の水利権を巡り毎年のように争いが生じていた

が、この年は双方に怪我人が出る大きな衝突があった。両者は共にこの問題は武力によって結着をつ

けるしかないと感じた。シャヵ国の司令官はサンガを召集しコーリャヘの宣戦布告を検討した。司令

官は会衆を前に、﹁わが住民はコーリャに攻撃された。彼らを撃退せねばならない。このようなこと

は再三起っている。我之は我慢してきたがこれ以上このようなことを続けさせるわけにはゆかぬ。こ

れを止めさせるにはもはや戦い以外にはない。故にコーリャに宣戦布告することを諸君に提案する。 異議ある者は発言してもらいたい﹂と演説した。
シッダールタ。ガウタマは徐ろに立ち上がりいった。

﹁私はこの決議に反対する。戦争はいかなる問題をも解決しない。戦争を起すことは我々の目的に
は己を略奪する者を生む。

そわない。別の戦いの種を蒔くだけだ。殺人者は殺人者を生疑征服者は己の征服者を作り、略奪者

私はサンガはコーリャに戦争を宣告すべきではないと感じる。どちらに非があるか先ず確めるため

に慎重に調査すべきである。我が方の人間もまた攻撃したと私は聞いている。もしそれが本当なら我
五人目の代表を選びこの者達で問題を解決させるよう提案する﹂ 遇わせないと彼らの脅威はなくならないだろう、といった。

我もまたその責を免かれることはできない。それ故私は双方から二人ずつ代表を選出し、この四名で

シッダールタの修正案は支持されたが、司令官はそれに反対し、コーリャの連中を一度ひどい目に

そこで決議と修正案はそれぞれ投票に付され、シッダールタの修正案は先ず圧倒的多数で否決され

てしまった。司令官は次に彼の決議案の採決を迫った。シッダールタは再び反対演説に立った。

﹁サンガの諸君にお願いする。この決議に賛成しないでくれ給え。シャカ族とコーリャ族は親密な

間柄だ。そのような人びとがお互いに殺し合うのは決して賢明なことではない﹂

司令官は、戦いにおいてクシャトリャは親類、他人の区別はしない。王国のためには自分の兄弟と

も戦わねばならない。供犠を行うのはバラモンの勤めであり、戦さはクシャトリャの、商いはヴァイ
るのだ。これこそ聖典の教えである、と反駁した。
シッダールタはなおも喰い下った。

シャの、奉仕はシュードラの勤めである。各自の勤めを履行するところにそれぞれの階級の長所があ

﹁ダルマ︵法︶は、悪意は悪意によって消すことはできない、ということを認識してこそ成立つの だ。悪意は愛情によっての承消すことができる﹂ 苛立った司令官は激しい口調でいった。 サンガの態度を投票によってはっきりさせようではないか﹂ そこで決議は投票に付され、主戦論が圧倒的多数で可決された。

﹁そんな哲学問答は無用である。問題は、シッダールタが私の決議に反対しているということだ。
第一章誕生から出家

㈲追放を申し出る

翌日、司令官はサンガを再び召集し、動員計画の検討を図った。席上司令官は、二○歳から五○歳

までの全てのシャヵ族男子に対コーリャ戦に備え武装させる権限を与えるよう申し出た。集会には、

37第一部

主戦非戦両派が出席していた。主戦派は司令官の提案を容易に受入れたが、少数派の非戦組は多数派

に従うべきかどうか悩んだ。少数派は多数派に屈しまいと決心して臨んだのだが、いざとなると公に
だろう。

それを口にする勇気のある者は一人もいなかった。恐らく多数派に反対した結果が眼に見えていたの

彼の支持者達が黙りこくっているのを見たシッダールタはすつくと立っていった。
3 8

﹁諸君1.諸君は多数を握っているからには諸君の好きなようにし給え。しかし残念ながら私は動
司令官はそれに対し反撃した。 に恥を晒すことになるのですぞ﹂

員案に反対である。諸君の軍隊にも入らなければ戦争にも加担しない﹂

﹁シッダールタよ、貴方はサンガ入会に際し立てた誓を覚えているだろう。もしそれを破れば世間

﹁もちろん良く覚えています。しかし、私にはこの戦争がシャカ国の為になるとはどうしても思え
ないのです。シャカ族の為なら自分の恥などなんでもありません﹂

シッダールタは、かつてコーリャとの争いが元でシャカ族が強国コーサラに従属させられたことを
と説いた。

思い出させ、今度の戦さはシャカ国の自由を制限する口実を一層コーサラに与えることになるだろう
司令官はその言葉に腹を立てシッダールタに向っていった。

﹁貴方のお喋りは貴方のためにはなりませんぞ、王子。恐らく貴方はコーサラ国王の許可なくして

貴方を死刑にすることも追放することもできないのを当てにしてそういうことをいわれるのだろうが、
ことができるのですぞ﹂

コーサラ国王の承諾がなくてもサンガは貴方の一族を社会的にボイコットし、一族の土地を没収する

流石のシッダールタもこれ以上サンガの決定に抵抗すれば重大な結果を招きかねないのに気づいた。
社会的ボイコットと財産の没収、のいずれかを選ばねばならない。

彼の前には三つの道があった。一つは軍隊に参加し戦争に行くか、絞首刑か追放か、あるいは一族の

第一と第三の道はとても受入れ難い。残る第二の道が唯一の手段だと彼は思った。

﹁宜しい。私の家族は罰しないで下さい。あの人達には何の罪替はありません。私だけに罪がある
に訴えないと誓います﹂

のです。私を死刑にするなり追放するなり好きなようにして下さい。そのことは決してコーサラ国王

属出家l解決策
司令官はいった。

﹁いや、貴方の申し出を受入れるわけにはゆかない。たとえ貴方が自発的に処罰を受けたとしても、 サンガに対して何らかの行動に出るに違いない﹂

それはやがてコーサラ国王の知るところとなり、その罰を課したのはサンガだと思うだろう。そして

﹁もしそれも難しいといわれるなら、一つの解決法を示しましょう。それは私が出家しこの国を去
39節一部一第一章誕生から出家

ることです。それなら一種の追放になるではありませんか﹂シッダールタはいった。

司令官はいい案だと思ったが、実際にそんなことがシッダールタに出来るか疑問だった。 シッダールタは承諾をうるために最善を尽すと確言した。 サンガはシッダールタの提案を最善の解決策と考え賛成した。

﹁貴方の両親、夫人の承諾なしに出家なされるお積りかな、王子?﹂

﹁両親や妻の承諾があろうとなかろうとこの国を直ちに去ることを約束します﹂

会議を終え散会しようとした時、一人の若者が立ち上がり発言を求めた。

﹁シッダールタは約束通りきっとこの国を出て行くでしょう。しかし一つだけ気になることがあり

ます。シッダールタが直きに国を出て行くのに、サンガがコーリヤに直ぐ宣戦布告するのはどういう

ものでしょう。コーサラ国王はいずれシッダールタ追放の件は知るでしょう。もしその直後戦争を起

せば、コーサラ国王はシッダールタが戦争に反対したが故に国を去ったと思うでしょう。それでは具
4 0

合が悪いのではないでしょうか。そこで、コーサラ国王に両者の間に関係があると思わせないよう追
放と宣戦布告に少し間を置いたらいかがと思うのです﹂

サンガはその提案の重要さを理解し、一時逃れの方便としてその案を採用した。 破滅的結末が一時遠のいたことに安堵の息をついた。

かくしてサンガの悲劇的集会は終り、主戦派に敢えて異議を唱える勇気を持ちえなかった少数派は、

㈲別離の言葉

サンガ集会での出来事はとっくに宮殿に届いていた。彼が一戻ると両親は悲嘆の涙にかきくれていた。 スッドーダナは沈痛な面持で我が子シッダールタを眺めた。
なかった﹂

﹁戦さの罪深いことは我らも良く承知している。しかしそなたがこんなことをするとは夢にも思わ

﹁父上、私とて同様です。なんとか平和裡に事を運ぼうと努力しましたが、将軍たちが人びとの心

を戦さに駆り立ててしまい私の説得は効を奏しませんでした。それでも最悪の事態に到ることだけは
﹁だがそなたは我らのことは考えなかったのか?﹂ す﹂シッダールタは答えた。
方がましな位だ﹂

食い止め、自らの信念に従い禍いを私一人の身に止まらすことができたのです﹂

﹁父上、考えたからこそ出家を決意したのです。全ての土地を没収されたらどうなるとお思いで

﹁そなたなしに土地が残ったとて何になろう。いっそのこと我ら家族諸共シャカ国から放逐された

ブラジャー。︿ティー。ゴータミーも泣きながらスッドーダナに味方した。

﹁その通りです。こんな風に私達を残してどうしてお前だけ一人が出て行けるのです/﹂

﹁母上、日頃クシャトリャの母親だといわれていたのはどうなったのです?今こそ勇気を振って
風に嘆かれるのですか?﹂

下さらなければ貴女らしくありませんよ。私が戦場で死んだらどうなさるのです?その時もこんな

﹁いいえ、それは違います。戦場で死ぬのならクシャトリャとしてあきらめもつきます。だけどお 安穏でいられるでしょう。さあ私達も一緒に連れて行っておくれ﹂ 生れたばかりです。この子達を置いて来られますか?﹂


ゴータミーはそれでも納得しなかった。
第一章誕生から出家

前は私達から遠く離れた森に行ってしまい、獣達と暮すのではありませんか。だのにどうして私達が

﹁どうして貴方がた全部を連れてなど行けますか?ナンダはまだほんのねんねだし、ラーフラは

﹁それならコーサラ国王の庇護を求め、あの国へ皆で行きましょう﹂

﹁でも母上、もしそんなことをしたらシャカ族は一体何というでしょう。人びとは私達を裏切者と

思うでしょうよ。それに、私の出家の本当の理由をコーサラ国王に気取られるようなことは一切しな
なるのとどちらがいいと思いますか?﹂
ーダナは未練がましく咳いた。

いと誓ったのです。私は確かに森で孤独に生きてゆくでしょう。でも森で暮らすのと人殺しの仲間に

﹁しかしどうしてそう急ぐのだね。サンガは宣戦布告の時期を延ばしたというではないか﹂スッド
第一部

4 1

﹁恐らく戦いは始まらないだろう。お前の出家も延期してもいいではないか。サンガからお前の滞
在許可を取ることも出来ようというものだ﹂

シッダールタは髪ろとしていった。
4 2

﹁それはなりません、父上。サンガがコーリャヘの宣戦布告を延期したのは、私が出家を約束した

からなのです。私の出家後サンガに布告を撤回させるのはいいでしょう。どちらにせよ全ては私が最
和のためにもきっと悪い結果がもたらされるでしょう。
他に道はないのです﹂

初に出家するということにかかっているのです。約束は守らねばなりません。もし破れば私達にも平

お願いですから母上、これ以上私の邪魔をしないで貴女のお許しと祝福を与えて下さい。これより
ゴータミーとスッドーダナは声もなくうなだれた。 と彼女を見守った。ヤショーダラーの方が沈黙を破った。 ﹁サンガ集会で起った一部始終はすでにお聞きしました﹂ ﹁そうか。では、私の出家についてそなたはどう思うかね﹂
を懸命に抑え彼女はいった。

ついでシッダールタはヤショーダラーの部屋に行った。いうべき言葉も知らずシッダールタはじっ

シッダールタは泣き崩れる姿を覚悟していった。だが、ヤショーダラーは耐えた。叫び上げたい心

﹁もし私が貴方の立場だったら他に何ができたでしょう。私もコーリャとの戦さには反対です。貴

方の決心は正しいと思います。私は貴方の味方ですわ。ラーフラさえいなければ貴方とご一緒に私も

出家しとうございます。こんなことになるなど思ってもおりませんでした。でもこうなった以上気を
命ある限りお守り致します。

強くもって事に立ち向う他ございませんわね。ご両親とラーフラのことはご心配なさらなくとも私の

貴方の大事な人達を残して出家なさるからには、もっと沢山の人のお為になる新しい道を拓かれる

のを、それだけをお祈り致します﹂

ヤショーダラーのこの健気な言葉にシッダールタは深い感動を覚えた。彼女がこれほどまで気丈で

気高い心の持主であったとはこれまで思っても翠なかった。このような妻を持てたことの喜びとそれ
せ、愛児の顔を暫く見詰めてから彼は立ち去った。

から引き裂かれてゆく運命の厳しさを同時にシッダールタは噛承しめていた。ラーフラを連れて来さ

同出離
させてもらおうと思った。

シッダールタはカピラヴァストゥにアーシュラム︵修道場︶を持つバラドヴァージャの手で出家を

翌日、従僕のチャンナを伴い愛馬カンタヵに乗ってアーシュラムに向った。彼が近づくにつれ彼を
第一部一第一章誕生から出家

ひと目見ようとアーシュラムの門前に人びとが群がった。彼を見るや人びとは驚きの眼を開き自然に

合掌した。彼を取巻く群衆は身動きもせず胸をときめかして貧るように見詰めた。女達はシッダール

タの生れつき備わった余りに見事な優雅さにカーマ神︵愛欲神︶の化身かと畷き合った。ある者はそ

の物静かさと威風に光り輝く月の化身かと見まがい、またある者は彼の美貌にあんぐり口を開け、互

いに見詰め合ってはほっと溜息をつくばかりであった。女達は物もいわず、にこりともせずただただ

彼を凝視し、どうしてこんなお方が出家する気になったのだろうと註然とするの承であった。

群衆をかぎ分けアーシュラムの中に入ったシッダールタは、人びとの中に父母の姿を見出し当惑し

た。彼の出家の様子を見れば必ずや取り乱すに違いないのを心配していたからである。彼が祝福を乞

4 3

うと案の定二人は激しく鳴咽し何も言葉にならない有様であった。従僕のチャンナはカンタカを木に

つなぎ立っていたが、悲し象にかきくれる王夫婦の姿に強く打たれ彼も一緒に泣いた。シッダールタ

はやっとの思いで両親から身を引き剥がし、着ていた衣類と飾りを取り去りチャンナに渡し、家へ持
4 4

って帰るよういいつけた。剃髪を終え、従兄弟のマハーナーマが用意して来た粗末な袈裟衣に着替え、

鉢を持ったシッダールタは、バラドヴァージャの手で出家の儀式を授けられた。

約束通り即刻国を出離すべく彼は儀式後直ちに町を離れ旅に出た。彼の出家にいたる事情が事情だ

っただけにアーシュラムは大変な数の群衆が詰めかけ、彼らもまた彼の後を従いて歩き出した。町を
えた。

出、 一 出 、 アノーマー川に向ったところで後を振り返ると、未だ群衆が従いて来るのを見、彼は人びとに訴

﹁皆さん、私にこれ以上ついて来ても何の益にはなりません。私はシャヵとコーリャ両国の争いを
が成立するかもしれません。どうかそのために一戻って下さい﹂

解決することができませんでした。しかし皆さんが和解の方向に世論を持ってゆけば、あるいは和睦

人びとはその訴えに従い町へ一戻りスッドーダナ夫婦もまた王宮へ帰った。ゴータミーはシッダール
であった。

タの置き捨てた衣服や飾りを見るに忍びず蓮池に投捨ててしまった。時に、シッダールタニ九歳の事

的王子と従僕

チャンナはカンタカと一緒に帰らなければならなかったが、どうしてもアノーマー川の川辺りまで
に向っていった。

送ってゆくといい張り、シッダールタもその強引さに負けた。川岸に着くとシッダールタはチャンナ

﹁ここまで従いて来てくれたお前の気持は身にしゑて感謝するよ。何もお返しができなくて心苦し

いけれど、本当に嬉しく思う。人は報酬をくれそうな人には親切にしようとするが、運に見離されれ

ぱ見向きもしなくなるものだ。子は家族のために育てられ、父は子が頼りになることで報われる。人
れ、チャンナよ・

は何かを期待するから親切にするのだ。だがお前だけはそうではない。さあ、馬を連れて帰っておく

父王には確信を持ち、悲嘆にくれぬよう伝えてくれ。私はあの世を求めたのではなく、愛情を失っ

たのでもなく、怒りをもって去ったのではない。そのようにして家を去った私のことでお嘆きになる

ことはない。家族の畔はいかに長く保たれようと、何時か終りがくるものなのだ。死に際して財産の

世継ぎはいるだろうが、美徳の世継ぎを見つけるのは至難である。父上は私に後を継げと求められる。

あれは間違った時に行ってしまったと仰せられるだろうが、真の義務を果すのに時期を選んではおれ

ないのだ。友よ、今の言葉を王に告げ、私のことは忘れられるようお前も努力してくれ。母上には、
だ 第一章誕生から出家

私が母上の愛に価せぬ人間であることをくり返し告げておくれ。母上は言葉に尽せぬほど気高いお方
チャンナはこれを聞き胸が迫り声をつまらせた。

﹁家族のお悲しゑを思うと私の心も沼に沈む象のように重くなります。鉄の心の持主ですら貴方様

のご決意に涙せずにはおれないでしょう。ましてや温い愛に満たされているなら尚更でございましょ

う。宮殿にこそ相応しいその優雅なお琳を何処で横にされるのでしょう?疎だらけの草に蔽われた

隠者の森にお寝承になられるのですか?このままどうしておめおめ帰れましょうか。たとえ貴方様

45第一部

があれほどまで貴方様を愛しておられるご両親、あれほど貴方様に尽されてきた奥方様をお捨てにな

ろうと、私めをばお捨てにならないで下さいませ。貴方様だけが私の唯一の頼りでございます。
うございます﹂

いつも情け深く、憐承をおかけになっておられたお方が、愛する者をお見捨てになるなどおかしゅ

チャンナの切々とした訴えに心を動かされたシッダールタは優しくいってきかせた。
4 6

﹁たとえ愛するが故に家族を捨てなかったとしても、死は私達を無情に引き裂くのだ。私の生家の

母を考えてごらん。私と母上とは何処でどうなっているのだろう。鳥が巣に一戻り去ってゆくように、

雲が集まり散ってゆくように生きとし生けるものには出会いと別離があるものなのだ。この世は移り

変るのに、定かならぬ結びつきの中で何でも自分のものと思うのは間違っている。それ故チャンナよ、

悲しまず行くがよい。もしそれほど心残りなら先ず行き、後程戻ってくるがいい。そして私を責めず、

力ピラヴァストゥの人びとに私への愛を断ち、私の決意の固さをさとるよう告げておくれ﹂
吉祥印のある手でカンタカを撫で友達にでも話すように声をかけた。

主従の悲しい別離の様に愛馬カンタカも顔をすり寄せ主人の足をなめ涙を落した。シッダールタは

﹁カンタカよ泣かないでくれ。お前の労苦も直き報われるだろうよ﹂

遂に別れの時が来たのをさとったチャンナは漸く袈裟衣のガウタマに別れのあいさつをした。ガウ

タマもカンタカとチャンナに別れを告げ立ち去っていった。国を捨て隠者の住む森へと向う主人を見

送るチャンナは絶望の余り腕を打ち振り、地に伏して泣き叫んだ。帰途についたチャンナは時に考え
と歩いていった。

に沈承、嘆き悲し承、ある時は蹟き、転び、自分で自分が何をしているのかも分らぬ有様でとぼとぼ

目チャンナの帰城

チャンナの心は重く、いつもならカンタカを連れ一夜で横切る道を八日も掛って旅した。美しく飾

られたカンタカも主人を失いすっかり元気をなくした。時折りシッダールタの消えた方を振り返り悲

し気にいななき、空腹を感じながらも草も水も腺に口にしようとしなかった。やっと二人は、ガウタ

マがいなくなり無人のように静まり返ったヵピラヴァストゥの町へ辿りついた。蓮の花で覆われた川、

花で一杯の樹為に町は美しく輝いていたが、市民の顔に喜びはなかった。二人がすっかり力をなくし

シャヵ族の誇りも失って帰還したことを知ると人びとは涙を流した。やり場のない怒りに包まれ人ぴ

とはチャンナの後を泣き叫びながら従いて歩いた。王子は何処だ、シャカ族の、王国の栄光は何処へ

行ってしまったのだ。王子のいなくなった町は森だ。王子の住む森が町になった。王子のいない町は
は、空の馬を見るや窓を閉じ大声で泣いた。 巳悲嘆にくれる一家

何の魅力もない。人びとは口為に叫んだ。〃王子様がお帰りになった″といって窓に駆け寄った女達

スッドーダナ一家は、もしかしたらチャンナがガウタマを説得して連れて帰るかもしれないと一綾 の望承を抱き彼の帰りを切なく待っていた。厩舎に入るとカンタヵは一声大きくいななきその悲し象 鱈を宮殿中に伝えた。人びとはその声で王子が帰ったものと早合点し宮殿から飛び出した。だが人びと


誕﹁あの長い腕と獅子のように堂々とした足取り、雄牛のような眼、あのように美しく、黄金のよう 章に輝き、広い胸と、太鼓のように、大空の雲のように深い声を持つ勇者が隠者の庵に住むなどという 鐸ことがあっていいものだろうか?あのように二人とない気高く徳のある勇者が私達から去ってしま

かの見たのは空馬だけであった。ゴータ、、、−は我を忘れ泣き叫んだ。

一つた今となっては、この世はもう何の値打ちもありません。指先きに吉祥の薄膜の張った携かな脚、

評真中に車輪の印のついた、青蓮のように人に知られず柔らかな足でどうやってあの荒れた森の中を坊

7樫えるのでしょう。王座に坐してこそ相応しい、高価な飾り、香水、白檀の香りで身を包むに相応し 4 いあのお帥が、どうして森の中で凍てつく寒さ、灼けつく暑さや雨風に晒されなくてはならないので

4 1 8

す?一族の誇りであり、心優しく力強い、精力に溢れ学識深く、︲美々しく若々しく、物惜し詮せず

求めることのないお方が、どうして他人に物を乞うて妨復い歩かねばならないのです?庇ひとつな い黄金の床に横たわり、音楽の演奏に耳を傾け夜を明かしたお方が、今夜から一枚のぼろ布だけで地
面にお寝承になるなんて!﹂

この痛ましい悲しゑに女官達も相擁して共に涙した。 嘆に我を忘れ地に伏し泣くの承であった。

一方ヤショーダラーはといえば、シッダールタとの別れをあれほど立派に耐えたのに、今はただ悲

﹁あの方は妻である私を捨ててしまわれた。私は最早ややもめも同様です。あの方の正しい妻であ

る私を何故一緒に連れて行って下さらなかったのでしょう。私は天国へなど行きたくはありません。

私はただただあの方とこの世でも次の世でもご一緒にいたいだけなのです。たとえ私があの方のお顔
ないのでしょうか?

を見るに価しない女だとしても、この哀れなラーフラまであの方のお膝で二度と戯れることは許され

あの賢い勇士のお心は石のように非情です。あのお美しさは、優しそうに見えても本当は情知らず

で残酷なのです。未だ口も徐にきけない、敵の心すら和ませてしまうほど愛らしい我が子を、自分か

ら捨てていっておしまいになるなんて!主人が森へ行ってしまい孤児のように捨てられても心臓が

砕けないなんて、私の心はきっと石か鉄でできているのです。それでもあの方は幸せなのです。でも

私はどうすればいいのです?もうこの悲しゑに耐えることはできません﹂
さに遂に押しひしがれてしまった。

余りの悲しさにヤショーダラーは気を失ってしまった。あれほど気丈だった彼女も、その苦悩の重

スッドーダナも、我が子の固い決意の変らぬことをさとり悲嘆に打ちのめされた。悲し承に狂わん

ばかりになったスッドーダナは、よろける足をお付きの者に支えられ、カンタヵの前に立ち、涙で溢

れる眼でその顔を見詰めた。そして彼は崩れるように倒れ、声を放って泣いた。
願う犠牲を捧げることを誓った。

やがて気を取り直した王は、立ち上がり寺院に篭り祈りを捧げ、吉兆の儀式を上げ、息子の帰還を

スッドーダナ、ゴータミー、ヤショーダラーは来る日も来る日も、いつになればシッダールタに再
び見えることができるのか、そればかりを口にした。
ま柔

4 9

第一部一第一章誕生から出家

5 0

第二章永遠の訣別

伶力ピラヴァストゥからラージャグリハヘ

ヵピラヴァストゥを去ったシッダールタ・ガウタマは、マガダ国の首都ラージャグリ︿へ向おうと

思った。時の支配者はビンピサーラであった。そこは当時の優れた哲学者、思想家たちの中心地であ

った。彼はそう思い立つと、ガンジス河の急流を物ともせず横切った。

行く先き先きで人びとは、並ぶ者とてないシッダールタの人柄、威厳、美しさに瞳目し、そのよう

な人物が遍歴行者の姿に身を雲しているのを誘った。彼を見た者は、思わず足を止め棒立ちになり、

あるいはその後を追い、ゆっくり歩いていた者は走り出し、坐っていたものは驚いて飛び上がった。

彼に出会った者は両掌を合わせ恭しく礼をし、ある者は額を地につけ、ある者は心のこもった言葉を

かけるなどし、何の挨拶もせず通り過ぎる者はいなかった。彼を見て灰色の衣を着た人びとは恥ずか
かつた。

しく思い、つまらぬお喋りに興じていたものは口を喋み、邪しまな考えにふける者は一人としていな

長く辛い旅の後、ガウタマは五山に囲まれ要害堅固な、数灸の聖地によって崇められるラージャグ

リハに辿り着いた。都に着くと彼は.ハンダヴァ山の麓に木の葉の草庵を作り、そこを寝ぐらとした。

ラージャグリハから力ピラヴァストゥまで六○○キロ余りの道を彼はずっと歩き通したのである。 ロビンビサーラ王の忠告

着いた翌日、ガウタマは早速町へ托鉢に出掛けた。忽ち数多の群衆が彼の周りに集り、ビンピサー

ラ王の目にとまるところとなった。王は侍従にその人だかりの理由を質した。あの人こそこの地の王

者となるか最高の智慧を得るかそのいずれかになるだろうと尋ハラモソの予言したシャヵ国王の子息で
の居所をつきとめよと命じた。

あり、今それが苦行者として当地に現れた。それで人びとが注目しているのだと聞かされた王は、そ

眼を僅かばかり前に向け、言葉を発せず、悠容と正確な足取りで托鉢に歩き、托鉢を終えるやガゥ
人びとの太陽であるその人はあたかも朝日の如く光り輝いて見えた。
*た岩ター
第二章永遠の訣別

タマは草庵に一戻り、食を喫すると.ハンダヴァに登った。森は孔雀と共にさやぎ、赤褐色の衣を着た、

51館一部

そこで王は平らな岩の上に腰を下ろし話しかけた。 内を明かしたくなる。ひとつ私の言葉に耳を傾けてくれぬかな。

け ウ

ウタマに会いに山へ向った。

岩の如く堂々と朕坐、沈思するガウタマの姿に強く心を打たれ親し承を感じた王は歩糸寄り声を掛

体の具合はどうかという王の丁重な問いかけに、ガウタマも丁寧な態度で心身共に良好だと答えた。

﹁私は由緒正しいそなたの家族に深い親し承を抱いている。こうしていると自然にそなたに我が心

太陽の末喬であるそなたの種族、そなたの若さ、舷しいような美しさを想うと、全ての者との仲を

〆 帝 、 O グ ヘ − 古 『

一部始終を見守っていた廷臣はありのままを王に報告した。王は崇敬の念を抱き僅かな供を従えガ

5 2

断ち、王国より托鉢僧の生活に身を投じようとするそなたの決意がどうして生れたのか一向に解せな
応しく、他人からの施しを受けるに似つかわしくない。

い。そなたには紫檀の薫りこそが相応しくその赤褐色の衣は似合わぬ。そなたの手は臣下を守るに相

もしそなたの父の国を欲しないのなら、私の国の半分を受取ってはくれないか。さすればそなたの

一家も嘆かずにすむであろうし、やがて心も安まる時がこよう。どうか私の申し出を受けてくれ。徳

が徳によって支えられ栄えるなら誠に力強い限りだ。だがもしそなたの誇りがそれを許さないのなら、

共に数知れぬ敵と戦い征服しようではないか。それ故このどれかを選ぶがよい。宗教的功徳、富、快

楽は人生の三大目標だ。人は死に塵と化すのがこの世の定めだ。この三大目標を達成することこそ男

子の本懐ではないか。その弓矢に向いた遅しい腕を徒らに眠らせず三つの目標に向うがよい。私はそ
はない。

なたを愛しく思えばこそいっているのであって、支配欲やその見窄しい姿を見下していっているので

老いがそなたの種族に相応しい美しさを朽ちさせてしまう前に、快楽を満たすのじゃ。老年になっ

ては悦楽を楽しむことすらできなくなる。だから昔からいっている。享楽は若さの特権、富は中年、

宗教的功徳は年取ってから、と。年を取れば人は自ずと反省し勝ちになり何に対しても無感動になっ

てゆく。青春の目舷むような日々を貧ろうと向う見ずに目前の外界の事物に執着し、深い森から脱け

出たばかりの人間のような激しい息遣いをもって駆け抜けるべきではないか。もし宗教が真の目的だ

というなら借し染なく犠牲を神に捧げるがよい。供犠は苦行に劣らぬ功徳である﹂ 日ガウタマの答え

マガダ王はインドラ︵雷神︶の如く雄弁に語った。しかし王子は山の如く泰然とし、面に親し承を

こめて答えた。

﹁貴方のいわれたことは、勇者の家に生れ愛する友に囲まれた貴方が周囲の友に語るならそれも宜

しいでしょう。邪しまな人間の中で一族への好意が失われてゆく時、新たな友愛によって昔からの畔

を強めてゆく人こそ良き人であります。しかし不運にある友人に不変な態度で振舞う人こそ真の友人

だと思います。誰しも裕富な人の友達にはなりたがるものです。ですから富を得た人はその財力で友

人や宗教的功徳を得ようとし、それが失われれば何もかも消え去るでしょう。 情をもってお礼申し上げます。それ以上何も申しますまい。

王よ、貴方の私へのご忠告は純粋な友情と雅量からなされたものであり、それに対し私も率直な友

貴方のいおれる俗世界の目的臆ど私の恐れるもの憾ありません.それら請鐙の移るい易い快楽l 我曇の幸福と富を奪い、葵幻の如く消え去るものl憾人びとの心を夢中にさせます.快楽に溺れ
第一部一第二章永遠の訣別

るものは神の国にあっても真の幸福を得ることはかなわぬでありましょう。ましてこの限りある世に

あればなおさらのことです。風に煽られ油を求める火のように快楽を求めるものはそれに満足するこ

とはありません。四海に囲まれた土地の全てを征服した者は海の向う側を征服したくなるでしょう。

流れ込む全ての水を呑承こむ海のように人間は快楽に満足するということはありません。

聖人君子といわれた人びとですら、ぼろをまとい木の根や果実と水だけを食し蛇のように長く髪を

垂らし快楽以外の事柄に没頭していたその人びとですら、快楽に打ち負かされたのを知りながら、ど

うしてそのような仇をなすものを追い求めねばならないのでしょう。快楽に夢中になり世俗的喜びに

耽ったものの惨めな話をきけば、自制心のある者こそそのようなものは払い除けるべきでしょう。汗

5 , 9

水垂らして得たそれらの悦びは束の間の借り物であり、人を欺きやがて貴方を捨てて元の姿に一戻るで

しょう。賢く自制心ある者がどうしてそのようなものに真の喜びを見出せましょう。枯れ草で作った

たいまつの如き、欲望を束の間そそるだけの悦楽に自制心ある者がどうして心を満たされることがあ
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りましょう。官能のように移るい易く、それに執着する全ての者に不幸をもたらすしかない快楽、怒

れる残忍な毒蛇のような快楽、乾いた骨で作られたような快楽に自制心ある者がどうして満足できる

でしょう。悦楽に理性を失い、悦楽の奴隷となった者はこの世においても死の苦し承を味わうことで
この世の快楽はきっと惨めな結末を生糸ます。

しょう。鹿は鳴声に誘われ昆にかかり、虫は明りに誘われ火に飛び込承、魚は釣針に引っ掛るように

世間では〃快楽は喜び〃だといっていますが、よく吟味して承ればそのどれひとつとして真の喜び

に価するものはありません。美しい衣服や諸為の物は単なる飾りにしか過ぎず苦痛を和らげるための

ものに過ぎないのです。水は渇きを癒すために、食物は飢えを癒すためのものです。家は雨風、太陽
けは立ちつづける苦痛を和らげ、水浴は健康を保つための手段です。

の熱から身を守り、衣服は寒さを防ぎ裸身を覆うために求めるのです。乗物は旅の疲れを癒し、腰掛

それ故これら諸々の外的事物は、人間にとって苦痛を和らげるためのものであり、それ自身の中に

喜びの源が存在するのではありません。高熱で苦しむ者は、単にその苦痛を和らげるための方便にす

ぎない冷湿布を喜びと受取るでしょう。全ての快楽は実に千差万別なのですからそれを真の喜びとは

申せません。快楽を生む条件そのものが次に苦痛の原因となり得るからです。厚着や香わしいアロエ

木は寒さには快的でしょうが暑い時にはかえって邪魔だし、熱い時の夜空の月影や白檀のそよぎは快

いでしょうが、寒い冬には逆の効果をもたらすでしょう。損得といった二つの相矛盾する一対の事柄

はこの世の全てにまつわりついています。ですからどんな人間でも際限なく幸福でもきりなく不幸と

いうわけでもありません。苦楽の性格には王位と奴隷という存在に共通したものがあるように思いま

す。王様がいつでも笑ってばかりいられないように、奴隷も二六時中苦しんでいるわけではありませ

ん。その責務が大きければ大きい程王の苦悩も大きいでしょう。王様というものは掛けくぎのような
もので、この世のために困難を引き受け耐えねばならないのです。

見捨てられ易く悲運に見舞われがちの王権に頼る王は不運です。だからといって、王権に頼らなけ

れば気弱な王の幸せは何処に求めたらいいのでしょう。またこの地上を全て征服したとしても、住む

場所として一つの町、いや一軒の家さえあれば事足りるのに、何を好き好んで王は他人のためにあく

せくするのでしょう。王にしても一組の衣服と飢えを満たすに足る食事、一つの寝台、一つの座ると

ころがあれば事足りるのです。他の諸灸の区別は王たるプライドに必要なだけなのです。もしこれら

のもので満足できるのなら王国などなくても心は満たされるはずです。もし人が一度そのように満足

するならば他の区別は無用ではありませんか。このようにして人が真の幸福を得るなら、快楽に欺か
す。快楽は果して何よりも値打ちがあるものだろうか、と。
55第一部一第二章永遠の訣別

れることはありますまい。貴方の親愛なるお言葉を思い出せばこそ、私は繰り返しお尋ねしたいので

私は怒りによって家を出たのではなく、敵によって王位を奪われたのでもなく、より高い望桑を求

めたからでもありません。だからこそ貴方の申し出をお断りしたのです。邪悪な香りの悪魔、枯れ草

のたいまつの焔を追い散らした者が再びそれを求めることがありましょうか。眼が見えるのに盲人を

羨み、自由なのに縛られた者を、富んでいながら貧窮を、正常な理性を有しながら偏執を好む者は、

いうならば、世俗の目的に耽ける者を羨むものです。施しによって生きる者は、我が良き友よ、憐れ

むべきものではありません。その者は最上の倖せと完全な安らぎを得、然る後全ての悲し承は消え去
欲望に苛まれる人こそ憐れまれて然るべきです。

るでしょう。痛苦はやがてやって来るのにこの安らぎの至福を知らず、豊かさに囲まれながらなおも

貴方が私に申されたことは、貴方の性格、生き方、一族にとって相応しく、私の決断は私の性格、

6生き方、一族にとって相応しいのです﹂

四ガ・ワタマの答え

﹁私は世の争いに傷つき、安らぎを求め出家したのです。この世の諸悪から自分を救うために天国

を受け入れようとは思っていない私が、まして人の世の王国など受け入れようとは思ってもいません。

しかし王よ、貴方が申された、三大目的の追求こそ人間最高の目標であり、私が望むものは惨めだと

いうお言葉はかえって反対です。貴方のいわれる人生の三大川標は滅び易く、それ故不十分です。ま

たいずれ年は取るのだからそれまで待てといわれましたが、決断は年によるものではありません。天

の定めは比類なく巧承であり、あらゆる年齢にあってその定めに引き込まれてゆくものです。静誰を

望む賢人が、己れの死が何時かも知らずどうして年老いるのを待っておられましょう。病や死は何時
ためらうことはありますまい。

何処からやってくるか分りません。慈悲の魂を持つ信仰厚い人間の道を選ぶのに老いも若きも子供も

また供犠を借しゑなく捧げよ、それこそ我が一族の繁栄をもたらすに相応しいとおっしゃいました

が、他の生物に苦痛を与えてまで繁栄を望ぷたくはありません。未来の報いを求めて罪なきものを殺

すということは、たとえ犠牲による報いが永遠なものであっても、慈悲深く優しい心の持主にとって

本当に相応しい行為でありましょうか。たとえ真の宗教が、自制心、道徳的実践、情念の完全な克服

などという行いによるものでないとしても、犠牲によって最高の報酬が得られるとする祭儀を踏襲す
世において雨に打たれる草木のように不確かで揺れ動くものです﹂

ることは納得できません。私は未来の報いを当にした行いなどに魅力を感じません。そんな行いは来

王は両掌を合わせいった。﹁滞りなくそなたの望承を得、為すべきことを達成した暁には余にもそ
の祝福を授けてくれ﹂

再会の確約を得た王は、伴を引き連れ帰城した。

国平和の知らせ

ガウタマがラージャグリハにいる時、彼の庵の近くに住む五人の修行者が来訪した。彼らはやはり
ガウタマの姿に打たれ出家の訳を問うた。

ガウタマがその理由を物語ると、彼らはその後国の様子がどうなったか知っているかと尋ねた。否

とシッダールタが答えると五人は交も交も語った。それによるとシッダールタがカピラヴァストゥを

去ってから、コーリャとの戦さに反対する大きな示威運動がシャカ族の中に起り、大勢の老若男女が
57第一部一第二章永遠の訣別

旗をかかげ〃コーリャは兄弟だ″〃兄弟同士が争うのは間違っている″〃シッダールタ・ガウタマ追

放を反省せよ〃と口交に叫び街中を行進したという。その結果シャカサンガは集会を開き問題を討議

せざるをえなくなった。そして今度はコーリャとの和睦を主張する者が多数を制した。集会は和平交

渉使節を五人選出することを決め、コーリャ側もこの報に大喜びし、彼らもまた五人の使節を選んだ。

交渉団は、P︲ヒニー川取水問題に関する一切の論議を取り決める恒久的仲裁会議を設置し、両国は

その決定に従うことを認めた。かくて戦いの恐れは平和裡に解決したのである。 故家に戻り家族と一緒にならないのですか?″といった。

話し終えると彼らは口を揃え〃貴方にはもはやこうして出家している必要はなくなったのです。何

﹁その知らせは大変嬉しい。それは私にとって勝利です。しかし私は帰りません。私は出家のまま

でいつづけねばなりません﹂シッダールタは答えた。そして彼らの計画を尋ねた。

5 8

﹁私達は苦行をやる積りです。貴方も一緒に加わりませんか?﹂五人は誘った。 い、五人の修行者は名残り借し気に辞した。 尚問題の新たな展開

﹁ええ、追い追いにね。私はそれより前に他の道を検討しなくてはなりません﹂シッダールタはい

コーリャとシャヵとが和解したという報らせはガウタマをひどく落着かなくさせた。孤りになり、

自分の置かれた立場を考え、未だ出家をつづける理由があるかを確かめようとした。

何のために一家春属を捨てたのか?彼は自問した。私が戦争に反対したからだ。戦争の恐れがな

くなったのだから何も問題は残っていないではないか?戦争が終ったから自分の問題も自然消滅し たのだろうか?深い反省によって彼は否と、思った。

戦争は元々対立なのだ。それはより大きな問題の一部に過ぎない。この対立は王や国同士との間だ

けではなく、貴族と書ハラモソ、家族間、母と子、子と母、父と子、姉弟間、仲間同士の間で起ってい

ることだ。国家間の対立は時折りのものだが、階層間の対立は恒常で絶え間がない。これこそこの世

の悲し承苦難の根元なのだ。戦争が元で家を捨てたのは確かだ。しかし戦争が終ったからといって家

へ帰る訳にはゆかない。私の問題は一層深まったのだ。この社会的対立という問題の解決を見出さな
思想に挑戦する決意を固めた。

くてはならない。従来の既成の思想はこの問題解決にどう答えているのだろうか。かくて彼は全ての

第三章新しい光を求めて

目隠者ブリグに会う

新たな道を求め、ガウタマはアーラーラ。カーラーマという仙人を訪ねようとラージャグリハを出
第三章新しい光を求めて

立した。途中、隠者ブリグの庵を見、興味を覚え庵に立ち寄った。苦行者、智慧者として名高いアー

シュラムの今ハラモソたちは彼を喜んで迎え入れた。ガウタマはそこでこれまでとは異った苦行を初め

て眼にした。バラモン隠者ブリグは苦行のあらゆる種類とその実りについて語った。

﹁料理してない食物、即ち水から育つもの、植物の根、果実などが聖者の食事である。しかし苦行

の方法は幾らでもある。ある者は鳥のように落穂を、ある者は鹿のように草を食み、ある者は蟻塚に

潜り込んだ蛇のように何も食しない。またある者は非常な努力によって石から栄養物を摂り、ある者

は自らの歯で磨り潰した穀物を食し、ある者は他人のために作った食物が残ればそれを食べる。ある

59第一部

者は蓬髪を絶えず濡らしアグーー︵火神︶に日に二度供物を捧げ、ある者は魚のように水に潜り亀にか
の糧としている﹂

きむしられながらも水に棲む。このような苦行を積むことによって、より高い境地に達し苦痛を功徳

﹁今日初めてこのようなアーシュラムを見ましたが、そのような苦行法は理解できません。今はそ

れだけしか申し上げられません。貴方がたの修行は天上界のためですが、私の願いはこの世の病根が
6 0

何であるかを証し、その解決法を見出すことです。これから私はサーンキャ哲学を学び、精神統一の

業を磨きたいと思います。ここを去るのは貴方がたの行いを嫌悪するからでは決してありません。か
うかお許し下さい﹂

くも親切に教えを垂れて下さった偉大な聖者である貴方の下を去るのは誠に心苦しいことですが、ど

﹁王子よ、貴方はその若さで誠に勇気ある願いを抱かれた。そのような目的であるなら速やかにア 貴方は更に先きに進まれることでありましょう﹂
アーシュラムの長ブリグはかく予見した。

ーラーラ仙人に会われるがよい。必ずや優れた教えを得るでしょう。しかしその教えを修行された後、

ガウタマは深く隠者ブリグはじめ他の行者に礼を述べ庵を出た。 Qサーンキャ哲学の修行

ガウタマは隠者ブリグの許を去りアーラーラ・カーラーマの居所を探した。

アーラーラはその頃ラージャグリハの北、コーサラ国のヴァイシャーリー市に住んでいた。
えた。

ヴァイシャーリーに着くとガウタマは直ちに彼のアーシュラムに向い、アーラーラは快よく彼を迎

ガウタマの気高さ、真筆さ、決意の固さに打たれたアーラーラ仙人は前試験抜きにサーンキャ哲学
の要点を隈なくガウタマに教示した。

ついでガウタマは禅定の達人として知られる彼の下で禅の修行を積ふたいと願い出た。アーラーラ
は快よく引き受けガウタマを教え導いた。

禅定には三つの流派がある。この三つは気息の制御で禅定に達するという点で共通している。

一つはアナー・ハーナサティー︵入出息念、数息観︶といわれ、二つ目はプラーナーヤーマといわれる。

これは気息を三段階に分ける。即ち吸う、止める、吐く、である。第三はサマーディ︵精神統一︶と
して知られる。

アーラーラ。カーラーマは七段階よりなる禅定法をことごとく彼に授け、ガウタマはそれを完全に

マスターした。師の全てを吸収したガウタマは、アーラーラより更に高い禅定に達しているといわれ
法をマスターし、アーラーラに対してなしたと同じように尋ねた。
﹁師よ、未だ学ぶべきことがありましょうか?﹂
鴬窪章新しい光を求めて

る修行者ウッダカ。ラーマプッタの下で教えを乞うことにした。そこでも速やかにその八段階の禅定

﹁否、友よ、もはや私がそなたに教えることは何もない﹂ゥツダヵ・ラーマプッタもアーラーラと
同様に答えた。

ガウタマはかくてコーサラ国の二人の禅の達人の下を去り、マガダにいる禅定の達人を尋ねること
にした。

この地の禅定法も気息の制御を基本とすることに変りはなかったが、コーサラ国のそれとはいささ
いうものであった。

か趣きを異にしていた。その方法は息をするのではなく、息を止めることによって集中に到達すると

この方法によりガウタマは、貫くような音が耳から発し鋭利な小刀で頭を刺し貫かれるような経験
第一部
6 1

を覚えた。それは非常な苦痛であったが、彼はそれに耐え、その方法も遂にマスターした。このよう
にしてガウタマは精神統一の技を磨いた。

白苦行への挑戦

サーンキャ哲学、禅定三昧の世界に通暁したガウタマは次に苦行の世界に挑戦しようと考えた。
語りたいと思ったのである。

苦行者ブリグのアーシュラムで苦行を試承ないで別れたからであり、それについても権威をもって

そこでガウタマはマガダのガヤーに赴き、苦行を行っているガヤーの仙人ネガリの庵のあるウルヴ
した場所であった。

ェーラーに居を定めた。ウルヴェーラーは近くにネーランジャラー川が流れ、静かで淋しい苦行に適

ウルヴェーラーで彼は、シャヵ国に平和が訪れたことを知らせてくれた五人の修行者と再会した。
五人は弟子として彼を敬い従順に仕えた。

彼らもまた苦行を行っていたのである。彼らはガウタマと行を共にしたいと願いガウタマも承諾した。

ガゥタマの行った修行は苦行の中でも最も厳しい種類のものであった。

ある時には一日二軒、決して七軒以上は托鉢に行かず、各戸で二口、多くて七口以上の食物は受け

取らなかった。一日一皿、決して七皿以上の食物は受け取らなかった。一日一食、二日に一食、七日
きぴ

に一食、半月に一食の厳しい定期食の修行も行った。苦行が進むにつれ彼は野草のみを食し、あるい
根、果実、落ちこぼれの果実の承を食して暮らした。

は野生の黍、米、動物の皮の切端しの歌を、ある時は水草、糠、おもゆ、ヒマの粉を、あるいは木の

彼の衣服はごわごわした粗い麻布、塵芥捨場から拾ってきた経椎子、木の皮、黒鈴羊の皮、草、樹

皮の細片を綴った衣、あるいは人髪、獣の毛で編んだ衣、臭の羽の衣などであった。

彼は髪、髪を抜きとる行を行い、真直ぐ座った姿勢を崩さず、鱒まったきりで決して立たず、動く

時もその姿勢だった。

彼は長年このように様々の苦痛を身体に与え、何年も溜まった垢や挨がぽとりと自然に落ちるほど

であった。また誰しもがぞっと身の毛がょだつほど恐ろしい森林の奥深く入って住んだ。寒い季節に

は、月の半分を夜は露天に、昼は森の中に住し、雨期前の最夏期には、逆に昼間は灼けつく太陽の下

に、夜は息もつまる森の奥に住した。墓場では焼け残った人骨を枕に臥した。

更に彼は一日一粒のえんどう豆、一粒の胡麻、一粒の米だけで暮した。そして一箇の果実だけで生
つかむという有様であった。

きていた時身体が極度に衰弱した。彼が腹をまさぐると彼の掌は背骨をつか承、背骨をさぐると腹を

四苦行の放棄
第一部一第三章新しい光を求めて

この最も苛酷な苦行をガウタマは六年間続けた。六年目の終り、彼は衰弱の余り身動きできなくな
彼は自問した。

った。然るに彼が求めた世界苦の解決に一条の光明さえ見出せなかった。

﹁これは安らぎへの道ですらなく完全な知、解脱への道でもない。身体を虐め抜くことが果して宗

教といえるのだろうか?身体が働き、働きを止めるのも心が命ずるからに他ならない。だとすれば、

思念を制御することが正しい道ではないのか。思念のない身体はただの犬のようなものに過ぎない。

もし身体だけ考えればいいのなら、正しい食事を取るだけで利点はあるだろう。しかし実践家にとっ

ても利点はなくてはならない。だがどんな利点がそこにあるというのか?体力の限界に達し、飢え

6 3

と渇き、疲労にうんざりし、心の落着きを失くした者が新しい光りを得ることは出来まい。真の静諦

と心の平静さは、肉体が必要とするものを規則正しく満たすことによって正しく得られるのだ﹂

6 4

その頃、ウルヴェーラーにスジャーターという娘がいた。スジャーターは寺ハニヤン樹に願をかけ、

もし息子を授かったら毎年供物をすると誓った。首尾よく願が成就したのでスジャーターは召使をや

ってお供えの準備をさせた。ところが召使が菩提樹のとこへ行くと樹の根元にガウタマが坐っており、

彼女はてっきり彼を樹の精だと思ってしまった。スジャーターは黄金の鉢で調理した食事をガウタマ

に捧げた。ガウタマは鉢を川岸へ持ってゆき、汰浴し、食した。かくて彼の苦行は終りを告げたが、
て行った。

ガウタマと共にいた五人の苦行者は彼が苦行を止めてしまったのに腹を立て厭気を起し、彼から去っ

第四章さとりと新しい道

Bさとりに到る膜想

食事で生気を取り戻したガウタマは坐してこれまでの経験をふり返った。そして全てが失敗であっ

道たことを認めた。その徹底的な失敗に挫けぬ者はいなかっただろう。彼ももちろん残念であった。だ いがそんな挫折に挫けるガウタマではない。彼は常に道を切り拓く希望を捨てなかった。スジャーター

新の食事曹を喫したその夜は特にそうであった。彼は夜五つの夢を見、目覚めてその夢を解釈することに
と と

りよって、さとりを得る確信を逆に深めた。更に自分の未来を予見しようと、スジャーターの召使いが

さ持ってきた椀をネーラソジャラー川に投げ〃もし私が正覚を得るべきものなら椀をして流れを遡らし

醒めよ。さもなくぱ流れ去れ″と念じた。椀は実に流れに逆らって上り来たり、やがてナーガ王︵竜王︶

毒カ ー ラ の 棲 家 の 辺 り で 沈 ん だ 。 部ガゥタマは希望と決意を一層強めゥルヴェーラーを去りガャーに向う広い道路を歩んだ。道脇に彼

誇はふと大きなバニヤン樹︵菩提樹︶を見、その下に坐してさとりへの道を拓こうと思った。樹下に結 5伽 咲 坐 し こ う 念 じ た 。 6 ﹁我が膚、畦、骨干からび、我が血、肉尽き果てるとも、完全なる正覚を得るまでは差﹂の地を去ら

6 6

じ﹂

ナーガ王カーラと妃は、菩提樹の下に坐したガウタマの姿に気づき、彼が完全なる智慧を得るべく
定められていると、かく誉めたたえた。
は正しくその願い事を成就せん。

﹁おお聖者よ。汝の足下に圧された大地はかくも響き、汝の光りは太陽の如く輝き渡るが故に、汝

大空に羽縛く鳥の群がかくも恭しく崇めるが故に、おお蓮の如き眼の人よ。実にかくも穏かな風の
吹き渡るが故に、汝は正しくその目的を達するであろう﹂

膜想の耀中に悪しき考え悪しき情欲lマ︲ラの子Iが心に忍び入った.

ガゥタマはこの悪しき欲望との戦いにいかに多くの聖仙、.︿ラモンたちが屈したかを知っていたか
告げた。

ら、 彼 、もその力に屈伏するかもしれないとひどく催れた。彼はあらん限りの力をふりしぼりマーラに 、 彼

﹁我には不動の信念、勇気、智慧祥り。いかにして汝の悪しき情欲が我を打ち負かせようぞ。この
ことを望む﹂

風が川の流れを洞らすことがあろうとも、我が決心を洞らすシ﹂とあたわず。我、敗北より戦いて死ぬ

悪しき欲情は、脂肪の塊りのような形をした石の周りを〃ここに何か柔かそうな、旨そうな食物が

ある〃と飛び回る烏のように、彼の心に入りこんだ。しかし何も旨いものが見つからなかった烏のよ うに、悪しき欲情はうんざりしてガウタマから離れていった。

目さとり

膜想の間自らを養うためにガウタマは四○日分の食糧を集めた。彼を悩ました悪しき考えに打ち克
の段階における最終のさとりに達した。 第二の段階で彼は心の集中を獲得した。 第三の段階で彼は平静と念いに満ちた。

ったガウタマは、食事によって元気と力を取り一戻し更に四週間の膜想に励むことによって、遂に四つ

第一の段階で彼は物事の認識をつきつめた。隠遁はそれを一層容易にするのに役立たった。

第四の段階即ち最終段階で彼は平静を純一無垢なものとし、念いを統一な平静さで満たした。

かくして心が統一され、清浄で曇りなく、汚れのない、柔軟、巧承にして確固とし、安らぎを得た
専念した。
第一部一第四章さとりと新しい道

時 、 そ れ 時 、 そ れ 秘まで追い求めてきたものを忘れることなく、彼の心を悩ましてきた疑問に解答を見出すべく

四週目の最後の日の夜、光明が訪れ二つの問題があることをさとった。その第一は、この世には苦

があり、第二は、その苦を如何に克服し人びとを幸福にするかであった。
さとったのである。 目新しいダンマ︵法︶

かくして四週間の膜想の末、暗闇は去り、光りが訪れ、無明は消え智慧が生じた。彼は新しい道を

新しい光りを求め膜想していた時、ガウタマはサーンキャ哲学に強く支配されていた。この世の苦

と不幸は否承難い事実であり、彼はその苦を取り除くにはどうしたらよいか考えたが、サーンキャ哲

学はこの問題を取り扱っていなかった。だから彼はこの事に心を専念させねばならなかったのである。

6 7

当然第一の疑問は、各人がこうむる苦と不幸の原因は何なのかであった。第二は如何にして不幸を取

り除くかである。彼はサンマー・ポーディ︵正覚︶によってこの一一つの疑問に答えた。菩提樹がポデ 曲ィ・ツリーと呼ばれるようになったのはこの故である。

画ブッダ誕生

さとりの以前ガゥタマは単なるポーディサッタ︵求道者、菩薩︶であったが、さとりに達することに よって彼はブッダとなったのである。

では、ポーディサッタはどのような人、どのようなものなのだろう。ポーディサッタはブッダにな
ポーディサッタは一○の修行生活︵十地︶を経なくてはならない。

ろうと希求している人である。どのようにしてポーディサッタはブッダになるのか。

第一段階で、彼はムディタ︵喜び︶を獲得する。鍛冶屋が銀から金津を吹き払うように己れの不純

を除去したポーディサッタは、無思慮であったものが思慮深くなり、雲から解き放たれた月のように

この世を照らす。これを知った者には大きな喜びが生じ、全てのもののためになろうと一生懸命にな

第二に、彼はヴィマーラ︵純一︶を獲得する。ポーディサッタは今や一切の欲情を取り去り、全て

のものに親切になり、邪しまなことにこびず、美徳をけなしたりしない。

第三に、彼はプラバーヵリ︵光輝︶を獲得する。彼の知は今や鏡の如く輝く。彼は無我、無常の真
とする。

理を完全に知り把握する。彼の唯一の希いは最高の智慧であり、これをうるべく一切を犠牲にしよう

第四に、彼はアルチスマティ︵焔の知︶を獲得する。彼は、八正道、四諦、四念処、五行などに心
を凝らす。

第五に、彼はスドゥルジャャ︵打ち勝ち難さ︶を獲得する。彼は相対と絶対の関連を完全に把握する。

第六に、アピムキ︵現前地︶に達し、諸物の発展、原因、十二因縁を余すことなく把握することに

より、無明に閉ざされたあらゆる存在に対する最深の慈愛に目覚める。

第七に、彼はドゥーランガマ︵遠く去る︶に達する。彼は時間と空間を離れ無窮と一体となるが、

存在する全てのものへの憐染により名と形を未だ備えている。彼は他から離れ、この世の汚れは蓮の

葉に弾かれる水よりも更に遠去けられる。彼は人びとの欲望を鎮め、慈悲深く、忍耐強く、巧承にし

て旺盛、平静にして賢く、最高の智慧を有する。彼はすでにダンマをさとってはいるが、世の人びと

に理解しうる方法でそれを示し、それ故巧承で忍耐強くなければならぬことを知っている。人びとが

彼に何をなそうと冷静に受け止める。人びとが彼の真意を誤解し、それが無知によるものであるのを
部一第四章さとりと新しい道

知っているからである。だが同時に全てのもののためになろうとする努力を惜しまず、智慧を失わな
い。故に彼は正しい道から逸れる催れはない。 自然に善をなし、なさんとすること全てを成就する。
時間を超える。

第八に、彼はアチャラ︵不動︶に達する。この段階でポーディサッタとしての一切の努力は消滅し、

第九 に 、 サ ・ 第 九 に 、 サ ードゥマティ︵善慧地︶となる。この段階で彼は全てのダルマ、体系を乗り越え貫徹し

第十に、彼はダルマメーガ︵法雲地︶となり、ブッダの無限神聖な眼を獲得する。

ポーディサッタはこの十の力を獲得せねばならないだけでなく、次々の段階を上るに従い十の。ハー

69第

ラミター展羅密多l彼岸に到為︶を成就しなくてばならない.

一。ハーラミターは一段階の完成でなくてはならず、。︿Iラミターの完成は各段階毎に行われ、あれ

これの段階を少しづつ積んでゆくというわけにはゆかない。ポーディサッタがブッダとなる資格を得

7 0

るのはこうした完全さを積承重ねてゆくことによっての承である.

ジャータヵ物語やポーディサッタ誕生謹はブラフマー化身説と類似している。ジャータカ説は、そ

の存在の本質として最高の純粋さを有するブッダに基づいている。一方化身説は神の形成において必

ずしも純粋であることを要求していない。この種のブラフマー化身説では神は極めて不純かつ非道徳

ではあるが、様食の異った姿形をとることによって彼の信者を救済する。ブッダとなるためにボーデ
いかなる宗教もその創始者にそのような試練を課していない。

ィサッタは予め十の階梯を完遂していなくてはならないとする説は他に類例のないものであり、他の

第五章ブッダとその先駆者

㈲ヴェーダ期のリシ︵聖仙︶

ヴェーダはマントラ︵真言︶即ち聖詩句の集大成であり、これらの詩句の吟諦者はリシ︵聖仙︶と
第一部一第五章ブッダとその先駆者

呼ばれる。マントラは、インドラ︵雷神︶、ヴァルナ︵司法神︶、アグーー︵火神︶、ソーマ︵ハオマ聖酒の

神︶、イーシャーナ︵自在天︶、ブラジャー。ハティ︵創造神︶、プラフマン︵死天︶、ヤマ︵冥界神︶などと

いう神向への単なる呪文にすぎない。
ある。

これらの呪文は対敵加護、財産寄進、信奉者からの食物、肉、酒などの受施に対する単なる祈祷で

ヴェーダには大した思想はないが、哲学的思索に打ち込んだ賢人は何人かいる。それらの賢人とは、

、 ア ガ 1− ノ b ズマルシャナ、2、ブラジャー。ハティ・・ハラメーシュテイン、3、ブラフマナス・ハティ、4、
ンなどだ。

ニ ラ 、 アニ ラ 、 F5、ディールガタマス、6勅ナーラーヤナ、7、ヒランヤガルバ、8、ヴィシュヴァカルマ

これら哲学者の主問題は、世界は如何にして始まったか?各事物はどのようにして創られたか? それらは何故統一し存在しているのか?誰がそれらを創造し運命づけたか?世界は何処から発
7 ]

7 2

生し、再び何に戻ってゆくのか?などといった事柄であった。

アガマルシャナは白く・世界はタ。︿ス︵熱︶から造られた。タ。︿スはそこから永遠の法則と真理が 光りを生承、昼と夜を定めた。

生じた創造原理である。そこから夜が生れ、夜から水、水から時間、時間は太陽と月、天と地、空と

ブラフマナス・ハティは、無から存在の発生を仮定した。非存在という言葉によって彼は明らかに無 だ非存在である全てのものの恒久的基盤である。

限定を意味した。存在はもともと非存在から生じる。非存在は存在する全ての、可能性がありかつ未

ブラジャー・ハティ。パラメーシュテインは〃存在は非存在から生じたか″と問う。彼の見解では、

これは見当違いな質問である。水は存在するものの初源的実体であり、初源的事物l水lは存在、あ

るいは非存在という規定の下にはないからである。彼は事物と原動力との間に何らの区別をつけなか
だという。

った 。 水 恥は、彼がカーマ︵宇宙的欲求︶と名づけたある固有原理によって特定の事物に自ら変形するの っ た 。 水

アーーラにとって原理的要素は空気であった。空気は運動の固有能力を有しており、発生原理を賦与
されていた。

ディールガタマスは、一切は究極的に太陽に依拠するとした。太陽は固有の力によって支えられ往
源をなし、水は植物の源である。

ったり来たりする。太陽は灰色の物質より成り、稲妻、火もまた然り、と。太陽、稲妻、火は水の根

ナーラーャナによれば、プルシャ︵神、自我︶が宇宙の始源である。太陽、月、大地、水、火、中空、

空、無限の広がり、季節、空気、全動物、全種類の人間、全ての社会制度はプルシャから発している.

ヒランャガルバの教説は、。ハルメーシュティンとナーラーャナの中間にある。黄金が始源であり蕊

宇宙的力を有しそこから一切の力、存在、神性、この世的なものは生れる。また火が太陽の実体であ
り宇宙の発生原理である。

ヴィシュヴァカルマンによれば、水が全ての原物質で、それに固有の原動力を与えることによって

世界が生れたとするのは全く不当で不満足だという.もし水が変化の固有力を賦与されているなら、

水の存在は何処に由来し、その原動力、始源性、本源的諸力、法則その他諸左のものは何処に由来す

るのかを説明しなくてはならない。彼は原動力は神だとした。神は始めにして最後である。神は具象

的世界の以前に存在する。神は全ての宇宙的力が存在する前から存在する。この宇宙を創り定めたの

は唯一神そのものだ。神は一つであり唯一である。彼はその中に一切の存在物を擁する生成されない

ものである。彼は精神,力の最強者であり、造り主、決定者である。父として神は我々を造り、決定

者者として全ての運命を司る。 鍵ブッダはこれら全てのヴェーダ聖仙を敬意を表すに価するものとは見なさなかった。彼らを最も古 和い時代の、マントラの真の作成者と考えたにすぎない。しかし彼はマントラに道徳的向上に役立つも

蛙のは何も見出さなかった。彼にとってヴェーダは砂漠の如く無価値であった。それ故ブッダは、ヴェ

鯵ハーグには学ぶべきものは何もないとしてそれを捨てた。またヴェーダ聖仙の哲学にも何も見出さなか

章った。彼らは真理を探ったがそれに達しなかった。彼らの学説は空論にすぎず論理的でもなく事実に 麺基づいてもいない。その哲学は社会的価値がなく何の貢献もしていない。故にブッダは古代ヴェーダ |哲学を無価値なものとして拒けた。

詩○大哲人カピラ
3 7

インド古代哲学者の中で最も傑出しているのはカピラである。彼の学説はユニークであり自ら第一

7 4

級の思想家をもって任じていた。その思想はサーンキャ哲学として知られ、教義は真に驚くべき性格
のものである。

教説の第一は、真理は証明されねばならず、それも知覚と推論によっての象証明すべきだという。

第二は因果律であり、宇宙創造者の存在を彼は否定した。壷を作るには粘土があり、布を造るには糸

が要るように、ある物が真に存在するには予めその原因がなくてはならない。宇宙はある存在によっ

て創られたという説にカピラが反対した最初の根拠がこれであ為。更に彼は自説を次の論拠によって

展開する。存在しないものは活動の主体にはなりえない。そこには新しい創造物はない。生成はそれ

が構成されている物以外の何ものでもない。ある物が生れる前にそれを構成する材料の中にすでにそ

の物は存在している。一定の物はこのような材料から生れる。ある特定の材料が特定の結果を生み出

すにすぎない。では経験的世界の根本は何だろう。カピラは、経験的世界は生成︵ヴィャクター顕現︶
未生成なものの原因にはなりえない。

されたものと未生成︵アヴィャクター未顕現︶なものから成立するという。各個体︵顕現されたもの︶は

各個体は全て大きさが制限されており、このことは宇宙の根元的性格と一致しない。全ての個体は

互いに類似性を持ち、それ故いかなるものも他のものの究極的原因とは見なされえない。しかももの

が原因によって生じるのだから、そのものはその原因には成りえない。またカピラは主張する。結果

は原因によって成り立つが原因とは異ったものであるべきだ。それ故宇宙はそれ自身最終的原因たり

えない。それは何か別の究極的原因から生れた物でなくてはならない。
えている。

何故未生成なものが知覚されえず、知覚できるような運動を示さないのかという問いに彼はこう答

﹁それは多分諸々の原因のためであろう。それの持つ極めて微妙な性格が知覚不能にさせているの

かもしれない。たとえばそのものの存在が明らかなのに、余りに遠すぎたり近すぎたり、あるいは第
の心的不備によって知覚されえないのかもしれない﹂
う答えている。

三者の介在、あるいは何かもっと強烈な感情によって、盲目とかいった感覚器官の欠陥または観察者

では宇宙の根元とは何か。生成されたものと未生成なものとの区別は、といったことに対し彼はこ

﹁生成された諸物は原因があり、未生成な諸物にもまた原因がある。しかし両者の根元は原因によ

って生じず自存している。生成されたものは無数でありかつ大きさと名称は限られている。根元は一 つで、永遠にして普く遍在している。生成された諸物は運動と構成要素を有している。根元なるもの

は全てに詣いて今にも起ろうとしているが運動も構成要素も持っていない﹂
第五章ブッダとその先駆者

カピラは、未生成なものの発展過程は次の三要素の活動によって進められるという。即ち、サット

ヴァ、ラジャス、タマスである。サットヴァというのは、人びとに明らかにさせ、喜びをもたらす光

りと我々が呼ぶものに相当する。ラジャスというのは、刺戟や動きを有する活動的性質を指す。タマ

スは重く抑制されたもので、無関心、非活動的状態を起すものを指す。

この三要素は本来密接な関係で働き、互いに圧倒し支え合い交じり合う。それは丁度ランプの焔、

油、芯のようなものだ。これら三要素が、どれもが相手を圧倒せず完全に平衡を保っていれば、世界

は静止し、生成を止める。この平衡が破れどれかの要素が他を圧倒しはじめると世界は活動的となり

生成が開始される。三要素が何故平衡を失うのかという問いに対しカピラは、デュッヵ︵苦︶が現存
75第一部

するからと答えている。以上がカピラ学説の要約である。ブッダは当時の思想家の中で誰よりもこの

カピラの学説に感銘を受けた。その学説だけが論理的で事実に基づくものに思えた。しかしブッダは

その全てを受け入れたわけではなく次の三つを肯定したにすぎない。

7 6

実在性︵真実︶は証明されねばならない。思惟は合理的なものに基づいていなければならない。宇
これ以外の説は自分の目標に無関係なものとして無視した。

宙創造主としての神が存在するという考えには何の根拠も論理性もないが、世界には〃苦″がある。

白ブラーフマナ

ヴェーダの次はブラーフマナとして知られる宗教書である。後者は前者の一部であり共にシュルテ
ィー天啓の書と称ばれた。

ブラーフマナ思想には四つの教説がある。第一に、ヴェーダは神聖にして不謬、疑問を抱くべから

ざるものである。第二に魂の救済l即ち輪廻からの解放l砿ヴェー銭に基づく供犠祭儀の実施

とバラモンへの布施によっての承可能である。・ハラモンはヴェーダに理想的宗教教義を見ただけでな

く理想社会論を見ていた。彼らはこの理想社会を四種姓と称んだ。それはヴェーダに深く浸透し、ヴ

ェーダが不謬かつその権威が絶対であるように理想的社会としての四種姓制度は義務的であり疑問の

余地ないものであった。この社会制度には幾つかの法則がある。第一に社会はバラモン︵司祭︶、クシ

ャトリャ︵王、戦士︶、ヴァイシャ︵農民、商人︶、シュードラ︵上位三者に奉仕するもの︶階級に分けら

れる。第二に、これら四階級間に社会的平等はありえず、階級的不平等の法則によって結びつけられ

ている。・ハラモンが最上位に位置し、クシャトリャはバラモンより下だがヴァイシャよりは上。ヴァ

イシャはクシャトリヤより下だがシュードラより上。シュードラは全ての階級の下、という具合だ。

これら四階級はそれぞれの権利、特権についても互いに平等ではない。階級的不平等の法則が権利と

特権問題を決定した。バラモンは彼らが欲しいだけの権利と特権を持ったが、クシャトリャは尋︿ラモ

ンが主張する諸権利と特権を同じように要求はできなかった。しかしクシャトリャはヴァイシャより

はより多く、ヴァイシャはシュードラよりも多くの権利、特権を有していた。シュードラは何の権利
となく従順に生きてゆくことでしかなかった。

も主張できずまして特権など何ひとつ許されなかった。シュードラの特権とは上位三階級に逆らうこ

第三の法則は職業上の区分である。・ハラモンの仕事は学ぶこと、教えること、宗教的儀式の遂行で

あり、クシャトリャのそれは戦い、商売はヴァイシャにあてがわれていた。シュードラの仕事はこの
とは許されなかった。

上位三階級に奉仕することであった。各階級にあてがわれた職業は排他的で互いの領域を侵害するこ

第四の法則は教育の権利についてである。上位三階級は教育の権利を有していたが、シュードラは
第一部一第五章ブッダとその先駆者

0

否定された。またバラモンなど上位三階級の女性を含む一切の女性にも教育の権利は与えられなかつ

第五に、人生を四段階に分けるというもので、第一段階を学生期、第二を家長期、第三を林住期、

第四を遊行期とする。第一期の目的は、勉学と教育である。第二期は結婚生活を送ることで、第三期

は隠遁者的生活に親しむ、つまり家を捨てるわけではないが家族的羅紳を断つ心を養う。第四期は神

を求め、それとの合一を目指すことを目的とする。この段階的人生の功徳に与れるのは上位三階級の

男子の象であり、第一段階と最終段階はシュードラと女性には許されていない。
りと実現した。

これがいうところの理想的四種姓社会であり、バラモンはこの法則を理想化し、その理想をがっち

第四の教説はカルマ︵業︶論である。これは霊魂輪廻説の一部であり、魂は輪廻転生に際し何処に
まりカルマに依ると教えている。

7 7

落着くか、という問いに対する答えである。ブラーフマナ思想は、それはその人間の過去の行為、つ

7 8

ブッダはブラーフマナ思想の第一の教説、その不謬性を疑うべからずという説に強く反対し否定し

た。彼はいかなるものも不謬ではありえず、決定的とはいえない、とした。あらゆるものはその根拠

を問われれば再検討に応えねばならない。人間は真理を知らねばならず、思想の自由は最も根本的な
は思想の自由の全面否定でしかない。

事柄である。彼は思想の自由が真理到達への唯一の道であることを確信していた。ヴェーダの不謬性

第二の供犠教説にも反対した。ブッダは供犠の功徳を認めたが正しい供犠と誤ったそれとを区別し

た。他者のための自己犠牲的なものを正しい供犠といい、個人的利益のために神への供物として動物

を殺すことは間違った供犠だとした。このような殺生による供犠はたとえ魂の救済のためであっても

認めなかった。供犠の反対者はこういってバラモンを郷撤した。〃動物を殺して天国へ行けるのなら
ている。

何故自分の父親を殺さないのか?その方がもっと近道だろうに″ブッダも全くその通りだと賛成し

四種姓も供犠同様ブッダは強く否定した.四種姓制度というブラーマニズムがこしらえた社会組織

は道理に適ったものとは思えなかった。その階級組成は強制的で独断的であった。その社会は変化の

ない固定化された社会であり、ブッダはより開かれた自由な社会を評価した。一度静ハラモンであれば

常に尋ハラモンであり、クシャトリャ、ヴァイシャ認シュードラ全て然りである。人の社会における地

位は出生という偶然によって決まってしまう。その人間がいかに邪悪であろうとそのことで地位が低
上を云々するものは何もない。

くなることはなく、その人間の徳がいかに高くとも彼の地位は上らない。そこには人間的値打とか向

不平等はいかなる社会にも存在する。だがプラーマニズムは別だ。バラモンの説く不平等は公式原

理であり、その思想は平等を信じず、平等に事実上反対した。・ブッダは、階級的不平等は調和を生む

どころか、憎し象を何処までも強め、蔑みを深めるのに役立つばかりで絶え間ない争いの元になるだ
けだと考えた。

四種姓の職業は固定され選択の自由はない。しかも各自の才能に応じてでなく生れで決められる。

このような制度が全ての人間のためになるとは考えられず、まして全てのものの福利を向上させる

わけもないとブッダは思った。それは多数を少数者に仕えさせるため周到に仕組まれたものであり、 隷属状態に置き続けようと目論まれたものである。

その中で人は自称スー。ハーマン階級に奉仕させられるだけである。それは弱者を抑圧、搾取し完全な

ブラーマニズムの規定するカルマ論は反抗精神を徹底的に掘り崩すために考えられたものであり、

人間の苦し承に対しその本人以外誰も責任がなく、反抗もその状態を変えはしない。苦しゑはその人
第五章ブッダとその先駆者

間の過去のカルマによってもたらされた現世の報いとして定めているからである。

ブラーマニズムによってその人間性を最も甚しく損われていたシュードラと女性はこの制度に反逆

する力を全く奪われていた。彼らは知る権利を否定され、それによる無知のためにどうしてかくもひ

どい状態に堕しめられているのかが分らなかった。彼らはブラーマニズムが人生の意義を彼らから奪

い去っていることを知らず、ブラーマニズムに反逆する代りにその信奉者、礼拝者になってしまった。

武器を所持するのは自由を達成するための最後的手段であるが、シュードラはそれも否定されていた。

ブラーマニズムの下でシュードラは利己的な令ハラモン、強力なクシャトリャ、裕福なヴァイシャたち

の陰謀の絶望的餌食となるしかなかった。このような世界が修正できるだろうか?それは神聖犯す
79第一淵

べからざる社会秩序である故に不可能だとブッダはさとっていた。それは終らせるしかない、と。

以上のような理由によってブッダはブラーマーーズを真の人の道に背くものとして反対したのである。

四ウパニシャッドとその教義

8 0

ウ・ハニシャッドは別の系列の文献であり、本来ヴェーダの一部ではなく、正典扱いされていなかっ た。それでもやはり宗教的文献のひとつであることには変りはない。その分量は尼大で、玉石混交で

ある。あるものはヴェーダ神学者、バラモン司祭たちに敵対的であった。

彼らが一致して認めたのはヴェーダを学ぶことは無意味であるという点であった。そしてヴェーダ

は次元の低い認識であるとして、その天啓性の根拠に疑問を投げかけた。またウ・ハニシャッド派全て

は、、ハラモン哲学の基盤である供犠、葬儀の供物、司祭への供物などの有効性を否定した。だがゥ・ハ

ーーシャッド派が一番問題にしたのはブラフマン︵誌︶とアートマン︵個我︶についてである。ブラフ

マソは宇宙を統一する普遍的原理であり、アートマソがブラフマンだとさとるところに救いがある。

ウパニシャッドの主命題は、ブラフマンは実在でありアートマンはブラフマンと同一である。しかし

アートマソは煩悩に巻きこまれそれがブラフマンであることを認識しない。問題は、ブラフマンは実

在するか?ウパニシャッド的命題の容認はこの問いの答えいかんにかかっている。ブッダはその命

題を支持する証明は何一つ見出せなかった。故に彼はウパニシャッドの命題を却けた。このような問
向けられている。

いがブリハッドアーラーーャカ・ウパニシャッドの中で、最も重要な哲人ヤージニャヴァルキャに対し

ブラフマンとは?アートマンとは何か?と問われ、哲人は〃我知らず、我知らず″としかい毎
なかった。

﹁誰一人知らないようなものが実在たりうるだろうか﹂ブッダは問うた。彼がゥ。ハーーシャッドの命

題が純粋な想像に基づくものにすぎないと却けたのは当然である。

第六章ブッダと同時代の人びと

S彼の同時代人

とガウタマが出家した当時インドは知的活動が極めて活発で、バラモン哲学の他に六二の学派があり、

“これらは全て寺ハラモン思想に反対した。その中で注目に価する六つの学派がある。

極その一つは、・フーラナ・カッサ・︿の率いる無為派である。彼は霊魂はカルマによっていかなる形で

酷も影響されないとした。人は嘘をつきつかれる。傷つけ傷つけられる。盗承盗まれ、何をしようとさ

ダれようと圭垂魂にはさわらない。どんな淫蕩な行いをしようとその罪は魂に影響を与えず、どんなに良

・うい行いをしようと功徳は魂にまで及ばない。何ものも霊魂にはもたらさない。死ねば、その組成要素

︾は一鉦蟻雅確長率か窄確誰嫡群識趣識織諦畔、一種の決定論である。誰も何もなしえず何もなさないで

罪もいられない。事は起るのである。何者も事を起すことはできず、不幸を取り除くことも、それを深

誇めることも軽減することも許されない。人はこの世で定められた経験を歩むしかない。 Iアジタ。ケーサヵンバリンの断見論は一種の絶滅論である。供犠、供火には何の功徳もない。魂が 8 喜んだり苦しんだりする行為の報いや効果のようなものは何も存在しない。天国も地獄もない。人間

8 2

はこの世の何かしら不幸な要素で作られており、魂はそれから逃れられない。この世の痛苦から魂は
痛苦はそれ以外の方法ではなくならない。

逃れられず、痛苦はひとりでに消えてゆく。魂は八四○万の大劫の間再生を経験せねばならず、魂の

.︿クダ・カッチャーャナの互因論は、存在の構成要素は地、水、火、風、楽、苦と魂の七つである

という。各自は独立し互いに影響し合わない。自存在であり永遠である。何者もそれを滅ぼすことは
りこんだにすぎない。

できない。もし人の首を切り落してもそれはその人間を殺したことにはならない。武器が七要素に入

サンジャャ・ベーラッティプツタは懐疑論で知られる。彼はいう。〃もし人が天国はあるかと問い、

あると感じたら、然りという。もし天国はないとその時感じたら否という。人間は造られたものかど

うか。人間は良きにしる悪しぎにしる己れの行為の報いは受けねばならず、死後魂は生きるのかどう

かと問われれば、そのようなものが存在するとは考えないが故に全てに否というだろう″

第六番目は、ブッダが真理を探求していた頃丁度生きていたマハーヴィーラ、別名一一ガンタ・ナー

タプッタで、彼の思想は四種禁戒チャトルャーマサソヴァラ︵四つの戒︶として知られる。マハーヴ

ィーラは魂は過去、現在になした悪しきカルマの故に再生を経ねばならないと教えた。それ故、人は

苦行によってその悪しきカルマを克服せねばならない。悪しきカルマをこの世で行わないため四つの
れ。

戒律を守るよう説いた。即ち殺すなかれ、盗むなかれ、嘘をつくなかれ、財産を持たず独身生活を守

目同時代人へのブッダの態度

ブッダはこの新思想の教義も容認しなかった。彼の反対はもっともである。彼はいった。もしプー

ラナ。カッサ・︿あるいは・ハクダ。カッチャーャナの説が真実だとすれば、人はどんな悪事、有害なこ

ともできることになる。いかなる社会的責任、結果を伴うことなく他人を殺してもいいというところ

にまでいってしまう。マッカリ。ゴーサーラが正しければ人は運命の奴隷となり、自分自身から解放

されえなくなる。アジタ・ケーサカンバリンのいうことが本当だとすれば、人間のやることは食べて

飲んで浮かれるだけになってしまう。サンジャャ。ベーラッティプツタに従えば、人はただ漂い流れ

人生上の確たる思想もなく生きてゆくことになる。ニガンタ・ナータプッタの説が正しいとすれば、
くなる。 83第一部一第六章ブッダと同時代の人びと

人間の生活は禁欲主義と苦行に従属せざるをえず、人間の本能や欲望の全き克服と根絶に向うしかな

かくてこれら同時代の思想家たちの唱えたどの道にもブッダは共感せず、そのような思想は希望を
ならなかった。

失い、孤立し、やけっぱちになった人間の考えであると思った。彼は更に別の方向に光りを求めねば

8 4

第七章比較対照

Sブッダが反対したこと

ブッダがその教義を確立した頃、人びとの関心を強く魅いていた考えがいくつかある。S、ヴェー

ダの不謬性信仰。。、魂の解脱、救済信仰。それにより再生を免かれる。白、解脱をうる手段として

の祭儀、儀式、供犠信仰。⑳、理想的社会機構としての四種姓制度。国、宇宙創造者としてのイーシ

ュヴァラ︵主宰神︶と宇宙創成原理としてのブラフマン信仰。㈹、アートマン個我︶あるいは霊魂信
などがそうだ。

仰。㈹、魂の輪廻転生信仰。㈹、過去の行為によって現在の生活が決められているというカルマ信仰、

ブッダは自分の教義を明確にする上でこれらの古い思想を独自のやり方で対処した。

S、自分は何処から来たのかとか、何処へ行ってしまうのだろうか、また自分は一体何なのかなど

といった推測にうつつを抜かすことを拒否した。。、魂への諸説を捨て、それが肉体、感情、意志、

意識のいずれとも同一化するという考えを否定した。白、虚無的考えの全てを捨てた。四、そのよう

な考えは正道から外れていると批判した。国、宇宙発展には既知の初まりがあるという説を捨てた。

㈲、神が人を造ったとか、ブラフマーの肉体から生れたなどという説を否定した。㈹、霊魂の存在を

無視し否定した。

目ブッダが修正したもの

目、妥当性のある因果の大法則を彼は容認した。。、神が人間や世界に何が起るか予め定めたとい

う宿命論やそれに似た馬鹿気た考えを否定した。白、前世に犯した一切の行いは苦しみを生承現在の

努力を無意味化する力を有しているという説を否定した。彼はカルマの宿命論を否定しもっと科学的

カルマ理論に置き代えた.口、輪廻は再生論に置き代えた。㈲、霊魂の解脱論を混渠論に置き代えた。 白ブッダが認めたもの

ブッダの教えで最初の際立った特色は、あらゆるものの中心に〃心〃をおいたことである。〃心〃

は物事に先んじ、支配し造り出す。もし〃心″を完全に把握すれば全ての事も把握できる。〃心″は
第一部一第七章比ii交対照
8 5

全ての働きを導くものであり、主人であり、〃心″そのものがその働きでできている。先ず専心すべ

きことは心の修錬である。第二の特色は、我々の内外に起る全ての善悪は心が生承出す。悪や悪に関

連し悪に属する一切の事柄は心から生じる。善についても同様である。閉ざされた心で語り行為すれ

ば、牛に曳かれる牛車の車輪のように苦し象がついて回る。それ故心が澄承切っていることが宗教の
はなくその教えの実践にあるとした点である。

核心でなくてはならない。第三の特色は一切の罪深い行為を避けよ。第四に真の宗教は宗教害の中で

第二部

第一章ブッダの偉大な思慮

B説教の跨跨

さとりを得、己が道を確立したブッダの心に疑問が生じた。進んで自らの教説を説くべきか、さら
89第二部一第一章ブッダの偉大な思慮

に自らの完成に専念すべきか。ブッダは自分に問うた。

〃実に私は新しい理法を得た。しかし世の俗人がそれを受け入れ従うには余りに難解であり、賢者

にすら余りに絶妙である。世の人びとには、神と魂のからゑ合いから解き放たれ、儀式や祭儀への信

仰、カルマヘの信仰を捨てさることは困難である。人びとには霊魂不滅の信仰を棄て、霊魂は独自の

実体として存在せず、死後生きつづけることはないという私の教えを受け入れることは難しい。人び

とは我欲に執着し、それに喜びや楽しゑを見出している。我欲を克服せよという私の正道を受け入れ

ることは難しいのだ。もし私が理性を説いても、他の人びとがそれを理解せず、理解しても受け入れ
さすらい

ず、受け入れても実行しないなら、他の人びとにとってそれはうんざりするだけであり、私をいら立
のではないか。少なくとも私にとってそれは有益である〃

たせるにすぎまい。俗世を離れた放浪の行者として止まり己が福音を自らの完成に役立てた方がいい

このようにブッダは自問し、何もせず教えを説くまいという気持ちに傾いた。その時、ブラフマー

9 0

。サハン・︿ティ︵世界の主・焚天︶はブッダの心に生じた思いを知りこう思った。〃誠にこの世は滅び

る。完全なさとりを開いた人、世尊が何もせず、その教えを説こうとしないならば〃
手を合わせていった。

不安に駆られたサハン・ハティは天界を離れブッダの前に現れた。上衣を一方の肩に掛け膝まずき両

﹁貴方はもはやシッダールタ。ガウタマではありません。貴方は全きさとりを得られたブッダなの

です。そのような貴方がどうしてこの世の蒙を開き、道を誤った人間を救おうとなさらないのですか。 教えの扉をお開きにならないのですか。 憂いを超えた人よ、憂えに沈んでいる人びとを見そなわせ給え。


それに背を向けるなかれ。

昔マガタ国に多くの汚れあるものの考えた不浄な教えが現れました。世尊はそのもののために永遠の

巌山に立ち周ねく諸人を観る人のように、世尊よ、無垢なる知慧をもって高く上り全てを観る人よ、

立て、英雄よ、戦いの勝者よ、隊商の指導者よ、誕生の負目をもたぬ人よ、世界に向かって進め、

願わくは主よ、慈悲をもって人間と神為にその教えを垂れんことを﹂

﹁ブラフマー、この世の最も優れた者よ、私がその福音を世間に広めないとすれば、それは私が困 惑しているからだ﹂とブッダは答えた。

ブッダは、この世にかくも多くの不幸があるのに、放浪行者のように手を供き、そのまま見過すの
世界に広める決意を固めた。

は過ちであるのを認めた。ブッダはブラフマー・サハン。︿ティ︵世界の主。焚天︶の願いを容れ教えを

目二種類の帰依

ブッダの考える帰依には二つの意味があった。即ち、ビクとなりサンガというビクの集団に入るこ

と。もう一つはウ・ハーサカ︵在家信者︶としてブッダのダンマに帰依することである。ピクとウ・ハー

サヵの生活には四条件を除いて何の違いもなかった。ウパーサカは家庭人でありビクは家のない坊樫

さすらい

人であった。両者は一定の戒律を守らなくてはならなかった。ピクにとってその破戒は厳しい罰を伴

う誓いであり、ウ。︿1サカにとってはできるだけ守るべき教訓であった。ウ・ハーサカは私財の所有は

許されたがビゥには許されなかった。ウ。ハーサカになるには儀式は要らないが、ビクはウ。︿サン。ハダ

ー︵受戒︶の儀式を受けねばならなかった。ブッダは自ら進んで彼の下に来た者をピクあるいはウ・ハ

ーサカとして帰依させた。ウ・ハーサカはそうなりたいと思えばピクになれた。ビクは重要な戒律を破

ったり、サンガを脱けたいと思えばビクであることを止めねばならなかった。
91第二部一第一章ブッダの偉大な思慮

9 2

第二章遍歴行者の帰依

目サールナートで

教えを説く決心をしたブッダは、最初に誰に説こうかと考えた。学識あり、智慧あり、聡明で汚れ

なき彼の敬愛するアーラーラ。カーラーマはどうだろうと思ったが、彼はすでに死んだといわれた。

次にウッダカ・ラーマプッタのことを想ったが彼もこの世を去っていた。そこで彼は苦行を捨てたこ

とに腹って彼から離れていった五人の古い仲間の修行者を思いついた。

〃そうだ、あのものたちは私に良く仕え、色々と面倒を拳てくれた。彼らに教えを説いて象よう″
出掛けた。

五人がイシ・ハタナ︵仙人の集る所︶の鹿の園、サールナートに住んでいることを知り、彼らを求めて

五人の修行者はブッダがやってくるのを見るや彼を歓迎しないことにし、一人がいった。﹁ほら、

こっちに向ってくるのは苦行を捨て安逸に走ったガウタマではないか。あんな男を立って迎え、鉢や

上衣を受けとってやる必要はない。あの男の席は離して設けてやろう。坐りたければ坐るがいいさ﹂

仲間は皆その言葉に賛成した。しかし五人はブッダが近寄るとさきの決め事を忘れ、ブッダの余りの

気高さに圧倒され思わず立ち上がった。一人は鉢を、一人は上衣を受けとり、一人は席を用意し、一

人は足を濯ぐ水を運んできた。

○最初の説法

挨拶を交わし終えると五人の修行者はブッダに苦行をまだ信じているか、と尋ねた。ブッダは否定
的に答えていった。

物事には二つの極端がある。ひとつは逸楽に走り、ひとつは禁欲に走ることだ。あるものは明日は

死ぬのだからと大いに飲承かつ食べ、あるものは二度とこの世に一戻ってこなくて済むように一切の欲
と語った。

望を押し殺そうとする。共に人間には相応しくない。彼はそのどちらにも偏らない〃中道″を信ずる

﹁諸君に答えてもらいたい。諸君の〃自己″が働きつづけ、この世の、天上の悦びを求めつづける
93第二部一第二章遍歴行者の帰依

限り一切の苦行は空しいのではないだろうか?﹂
その通りだと五人は答えた。
いか?﹂

﹁もし欲望の火を鎮めえなければ、いくら惨めな苦行生活を送っても自らを解放できないのではな
その通りだと彼らは答えた。

﹁諸君の自己自身を克服しえた時にの承、諸君は欲望から解放される。その時諸君はもはやこの世 う。肉体の必要とするがままに飲食すればいいのだ。

の逸楽を望まなくなるだろう。そして自然の欲求を満たすことは何ら諸君を稜すことにならないだろ

一切の欲望はいずれ衰えてゆく。官能的人間は自らの欲情の虜なのだ。全て快楽を追い求めること

は堕落であり卑しい。しかし諸君、生命の必要を満たすことは卑しいことではない。身体を健康に保

9 4

つことは大切な務めである。もしそうでなければ諸君の心を壮健で澄んだものにし、智慧の火を燃や
しつづけることはできないだろう。

修行者よ、人が歩んではならぬ二つの極端があることを知るがいい。そのひとつとは、その魅力が

感情、特に官能に依拠するものに習慣的に淫すること。もう一つとは、苦しく無意味で何の益もない

苦行、禁欲にふけることだ。この二つの極端を避ける中道が私の説く道である﹂

修行者たちはこの中道の教えに何と答えていいか分らぬままに、あれから何をしていたのか尋ねた。

ブッダは、彼らと別れガャーに向かい、菩提樹の下で膜想し遂にさとりを開き、新しい道を見出した
てくれとブッダにせがんだ。

ことを話した。それを聞いた修行者たちはその道がどのようなものなのかをしきりに聞きたがり教え

ブッダは承知し、先ずこう語った。彼のダンマは、神にも霊魂にも何の係り合いはない。死後の生

活に対してもそうだ。儀式や祭儀についても関係はない。彼のダンマの中心は人間であり、この世に

おける人間対人間の関係なのだ。これが彼の最初の根本命題である。第二の命題は、人間は悲し承、

惨めさ、貧窮に生きている。この世は痛苦に満ち、この苦悩をこの世からいかに取り去るかがダンマ

の唯一の目的であり、それ以外の何ものでもない。この苦の存在を認識し、それを取り除く方法こそ
教はもはや宗教ではない。

彼のダンマの基礎であり根拠である。これがダンマの唯一の基礎と根拠であり、この認識を欠いた宗

修行者たちは苦の克服がいかにして可能かを問うた。それに対しブッダは、一、清浄な道、二、正
ようなものだと語った。
︿清浄な道﹀

しい道、三、徳行の道を各人が歩むなら一切の苦の止滅がもたらされようといい、彼のダンマはその

清浄な道とは、傷つけず、殺さず、盗まず、他人のものを我がものとしない、真実ならざることを

口にせず、欲情に耽けらない、酔いをもたらす飲物に耽けらない、ことである。この原則は全ての人

間にとって最も基本的なことだ。全ての人間はその行為を判断する規準がなければならない。人は皆

過つことがある。しかし過ちには二通りがある。規範をもつものともたぬものの過ちである。規範を

もたぬものは過ちに気づかず、規範をもつものは過ちから立ち直ろうとする。何故か?そのものは
な規範がないことである。

自分が過ちを犯したことに気づいているからである。問題なのは過ちを犯すことよりむしろそのよう

このような原則を認めることが人生の規範として何故価値があるのかと問うかもしれない。もし諸

君が、この原則は個倉人にとって有益だろうか、世の中のためになるだろうか、と問うなら、その答
95第二部一第二章遍歴行者の帰依

えは自から見出せるだろう。その答えが確信をもって得られるなら清浄な道が人生の真の規範として
認めるに足るものであることが分るであろう。
︿正しい道﹀

ブッダは次に正しい道について語り、そこには八つの道があると説いた。

その第一に、最も重要なものは〃正しい見方″である。この世は土牢であり、人はその中に閉じこ

められていることに気づかねばならない。土牢の暗闇は余りに暗く人は自分が虜囚であることにすら

気づかない。余りに長く暗闇で過したために盲となっただけでなく、光りがあるということ、光りな

どというものが存在することすら疑っている。その光りは心という働きによってのみ届く。しかし暗

闇に住むものの心はこの方向に十分に働かない。ほんの僅かな光りでも通してやれば、闇というもの

の存在が見えてくる。かくその状態は絶望的なようだが全く望承がないわけではない。人には意志と

いうものがあり、適切な動機が生じれば意志が目覚め伊動きはじめる。その僅かな光りで意志の働き

をどの方向に導いてゆくかを知り、解放へと向わせることもできよう。人はこのように縛られている
9 6

ものだが自由になることもできる。人は自分の選んだ方向に心を鍛練しうるものであり、心は人を破
滅にも自由にも導いてゆくものだからである。
﹁では〃正しい見方″の目的は何なのです?﹂ 五人の修行者は尋ねた。

﹁それは〃無知︵無明︶″の撲滅であり、邪見に反対するものである。無知とは、苦の存在、苦の克

服という気高い真理を理解しえず、儀式や祭儀の神聖さを拒否しえないことである。〃正しい見方″

はシャーストラ︵書ハラモソ教典︶信仰を捨て、迷信、超自然力、事実や経験に基づかない単なる推測に

すぎぬ一切の教義を捨てさることを求める。自由な心と考えを求める。 人は皆何らかの目的、抱負、野心を抱いている。
教える。

〃正しい考え″はそれらが気高く価値あるもので、卑しく無価値なものであってはならないことを

〃正しいことば″はB真実の承を語り、○嘘をつかず、白他人の悪口をいわず、四中傷を慎し承、

⑤仲間に向って怒りや罵言を投げつけず、㈹全ての人に親切で丁寧な言葉を用い、㈲無意味で馬鹿げ

た話に夢中にならず、分別ある、目的をもった話をすべきことを求める。

〃正しいことば″は畏れや恩恵によって生まれるのではない。自分の行いを上位者がどう思うだろ 規範は身分の上下、個人的損得とは何の係わりもない。

うかと斑どんなマイナスが生じるだろうかとかいったことにいささかも顧慮してはならない。その

〃正しい行い〃は全ての行為は他人の感情、権利の尊重に基づくべきことを教える。その規範とは

存在の基本的諸法則に最も調和した行為のことであり、その行為がこの法則と調和していれば、〃正

しい行い″に従っているといってよい。

全ての人間はその生活の糧を稼がねばならない。しかしその方法は多様で善と悪とがある。悪しき
で各自の暮らしを立てることであり、これが〃正しい生活″である。

方法とは他人を傷つけ、不正を行うことであり、良き方法は他人を傷つけたり不正を行ったりしない

〃正しい努力″とは、無知を取り除くこと即ち苦痛に満ちた牢獄から自らを解き放つ扉に達し、そ

れを押し開くための最も大切な努力である。〃正しい努力″には四つの目的がある。第一は〃正し

い道″と対立する〃こころ″の状態を起さぬこと。第二は、もし起っても抑制すること。第三は〃正
を一層育く承深めることである。

しい道″を実践できるような〃こころ″の状態を作ること。第四はそのようにして生じた〃こころ″

〃正しい念い〃は注意深さと思慮深さを求める。それは〃こころ″が常に目覚めているということ
遍歴行者の帰依

である。邪しまな情欲に絶えず監視の眼を光らせ注意を怠らない心を持つということである。

修行僧ら当今述べた諸々の正しい道を達成しようと努力する人を妨げる五つの障害がある。負欲、

悪意、怠惰と無気力、疑念、不決断である。この障害は克服されねばならずそれを可能にするのはサ マーディⅡ膜想である。しかし〃正しい膜想Ⅱサマ・サマーディ〃は単なるサマーディとは異なる。

97第二部一第二章

サマーディは単なる集中であり、確かに自ら誘発した静止の状態に入り五つの障害を一時的に停止さ

せはする。大切なのはこころの永続的状態であり、その状態は〃正しい膜想″によっての承獲得され

る。単なる膜想は一時的に障害を停止させただけだから受身である。〃正しい限想″は膜想中に〃良

い行いと考え″に没頭するよう心を訓練し障害から生じる悪しき行い考えにこころが向わないように

させる。〃正しい膜想″はこころに良いことを行おうという大事な原動力を与える。
︿徳行の道﹀

9 8

ブッダはついで〃徳行の道″を修行者たちに説いて聴かせた。
することである。

〃徳行の道″とは、持戒、喜捨、捨心、離欲、精進、忍耐、真実、決意、慈悲、慈愛の徳目を実践

〃持戒″とは道徳的気質、邪しまなことをしたくない、良いことをしたいという気質、間違った行

いを恥じるという性質である。良心の苛責を恐れ悪事を避けるのが持戒である。

〃離欲″は世俗的快楽の放棄であり〃喜捨″は何らの報いを求めず他人のために己が持物、血、手

足、生命をさえ与えることである。〃精進″は正しい努力であり、なそうとしたことを不退転の心を

持ち全力で遂行することである。〃忍耐″は耐え忍ぶことであり、僧し象に僧し承をもつ・てしないと

いうことが最も大事なことである。僧し承は僧し承によって和らげえない。忍耐によっての承鎮める
カルナー

ことができる。〃真実″とは嘘をつかぬこと、常に真実を語ることである。〃決意″は目標に到達し

マイトリ−

ようとする固い決心である。〃悲。思いやり″は人間への慈しぷ深い善意であり、〃慈″とは、自分

の友人だけでなく敵に対してすら、人間だけでなく全ての生き物に仲間としての感情を向けることで
り、結果に左右されず飽くまでそれを追求してゆくことである。
ブッダは更に修行者たちに問うた。

ある。〃捨心″とは無関心とは違った意味の超然とした態度である。好悪のないこころのあり方であ

人はこれを全力で実践せねばならず、故に〃・ハーラミター︵波羅蜜多、完全な状態︶″と呼ばれる。

﹁人格的清らかさがこの世の善の基ではないか?人格的清らかさは、貧り、情欲、無知、殺生、

盗承、邪淫、嘘によって損われないだろうか?人格的清らかさは、このような邪悪さを制御できる
役に立とうか。

ような性格的強さを身につける必要はないだろうか?人格的清らかさを持たぬものがどうして善の

修行者たちよ、再び問おう。人は何故他人を従え支配させて平気なのか?何故に他人を不幸にし

て平気なのか?それは互いに正しからざる振舞いをするからではないのか?私の説いた〃正しい
修行者たちは〃然り″とはっきりと答えた。
ついで〃徳行の道″に一戻り修行者たちに問うた。

道″を全ての人が実践するならこの世の不正、非人間性は克服できないだろうか?﹂

﹁〃喜捨″は困窮者の苦し承を取り除きこの世の善を高めるために必要ではないか?〃悲・いた

わり。同情″は窮乏や苦悩があればその救済に向わさないでいられるだろうか?〃離欲″は私心な
に欠かせないのではないか? 愛は人間にとって欠かせぬものではないか?﹂
部一輔二章遍歴行者の帰依

き働きにとって必要ではないか?〃捨心″は個人的利益がえられずとも不断の努力を持続するため

修行者たちは〃然り″と答えた。

﹁ではもっと先へ進もう。愛だけでは不十分である。愛より更に広い〃慈し承″が必要なのだ。人

間に対してだけでなく生きとし生けるものへの友愛がそれだ。公平な、全てに開かれたこころで、全
と以上に我々は何ができるだろうか?﹂
﹁然り﹂修行者たちは一斉にいった。

てのものへの温いこころ、いかなるものも憎まないこころで己が欲する幸せを全てのものに与えるこ

﹁しかし、この徳行の実践には〃プラジュニャー︵叡知︶″が伴わねばならない。そうではないか諸

君?﹂修行者たちは黙した。そこで、ブッダは善人の資質を説いて分らせようとした。﹁悪しきこと
いものがそうである﹂﹁然りその通り﹂と修行者たちは答えた。

99龍

をなさず、考えず、悪しき方法で日食の糧をえず、悪しきことを口にせず、いかなるものも傷つけな

1 0 0

﹁だが盲目的に良いことを行うのは好ましいことだろうか?否である。もしそうなら赤ん坊は常

にいいことばかりしていることになるだろう。肉体が何であるかも分らぬ赤ん坊に、足をぱたぱたさ

せる以外その鉢でどんな悪いことができるだろう.言葉を知らぬ赤ん坊に泣く以外にどんな悪いこと

がいえるだろう。考えとは何であるかを知らぬ赤ん坊に悦びの声を上げる以外何がいえるだろう。生

活の意味も分らぬ赤ん坊に、母親の乳房にすがる以外どんな悪いやり方で生きてゆけるだろう。

それ故〃徳行の道″はプラジュニャー︵叡知︶によって確かめられなければならない。またそこに

プラジュニャー。ハーラミ愛1︵般若波羅蜜多l智慧ある完成された状態︶が何よりも重要で必要とされ

るもうひとつの理由がある。〃喜捨″は必要だ。しかし〃叡知″のない喜捨はかえって人を堕落させ

るかもしれない。〃悲・同情″はなくてはならない。しかし〃叡知″のないそれは邪悪を勢いづける

ことで終るかもしれない。〃。︿1ラミター″︵完成された状態︶の全ての行為は、〃プラジュニャー。ハ

ーラミター〃によって確かめられねばならない。善悪の行為への理解と自覚なしには、たとえその行 為が良いものであったとしても真の善は期待できない。〃叡知″は大切な徳行であるというのはその
故で理ある。

ブッダは次のように説いて結論した。

﹁私のダンマは苦の存在を強調するが故に厭世的と思うかもしれない。もしそう思うなら間違って

いる。私のダンマは確かに苦の存在を認めているが、同時にその克服をも強調している。そこには希

望と目的とがある。その目的は苦の存在への無知を取り除くことであり、苦の止滅をもたらすという
修行者たちは一斉に深く大きく〃然り″と領いた。

大きな希望を示すことである。諸君はこのことに賛成するだろうか?﹂

白修行者たちの反応

五人の修行者はこれが真に新しいダンマであることを直ちに悟った。彼らはその新しい人生問題へ
の対し方に深く感動し、一斉にいった。

﹁人間の苦の認識をその宗教の基に据えた創始者はかつて歴史に存在しなかった。その惨苦の克服

がその教えの目的であるといった創始者はかつて存在しなかった。その性格がかくも平明で、超自然、

超人間的存在からかくも自由で、霊魂信仰、神信仰、死後の世界信仰からかくも解放され、それらに

かくも敵対的な救済論はかつて歴史に現れなかった。天啓と何の関係もなく、神の秩序ではなく人間

の社会的要求の究明からその至上の言葉を発している宗教はかつてこの世に存在しなかった。救済と
101第二部一第二章遍歴行者の帰依

いうものが現世において、人間の手によって、自らの努力で生象出された正しさによって得られる幸
せとして考えられたことはかつてなかった﹂

彼らはブッダの中に、最も熱烈な道徳的目標に満ちその時代で最も知性豊かな改革者の出現を感じ

た。彼らは、時の対立思想を十分検討し、自己錬磨と自制力によってもたらされる内的変革が、この
見た。

世で救済を可能にさせるという救済論を、思慮深く提出する勇気と独自性を有している改革者の姿を

彼らの尊敬の念はとどまることを知らぬほどに深まり、思わずブッダの足下に膝まづき弟子にして
欲しいと懇願した。

ブッダは〃来なさいビクたちよ〃というひとつの決まり言葉を用いて彼らを受け入れた。この修行
者たちは〃五人の尊敬さるべき僧″と呼ばれた。

1 0 2

第三章上流人の帰依

Sヤサの出家

バラナシにヤサという良家の息子がいた。彼は若く魅力的な青年であった。両親に愛され、多勢の

ものに博かれ、︿レムで日夜踊りと歓楽に明け暮れていた。が、やがてそういう生活への厭悪感が訪

れ彼の心を悩ますようになった。もっとましな生活を望んだが名案も浮かばぬまま家を出ようと思っ

た。ある夜遂にヤサは家を出、街を坊樫い歩いた。そして偶然イシ・︿タナ︵鹿の園︶に足を向けるこ

とになった。歩き疲れ、道端に腰を下ろしたヤサは思わず大声で咳いた。﹁私は何処にいるのだ。こ

の道は何処へ行くのだ?ああ、なんという悲惨、なんという危うさ﹂

この日は偶々釈尊がイシ。ハタナで五人の修行僧に最初の説法を説いた日であり、釈尊は夜が白むと

ともに起き出し外を散策していた。釈尊はヤサの悲痛な咳きに憐承を覚え、声をかけた。

﹁悲惨もなく、危うさもない。来なさい、若者よ、本当の道を教えよう﹂釈尊はヤサに福音を説い

た。ヤサはその教えに歓喜し、金のサンダルを脱ぎ捨て釈尊の前に膝まずいた。そして弟子にして欲

しいと懇願した。ブッダは例のように〃来なさいビクよ″といいヤサを受け入れた。

一方、ヤサの両親はヤサの失院を知りひどく心配し行方を探しはじめた。父親は釈尊とビクの衣に

着替えたヤサが座っている場所を通りかかり、釈尊に息子のヤサを見なかったかと尋ねた。釈尊は、

息子さんはここにいますよといったが、息子の余りに変り果てた姿に直ぐには見分けがつかなかった。

釈尊から一部始終を聞き終った父親は、ヤサが正しい道を選んだことを喜んだ。しかし母親が嘆き悲

しんでいるから帰って元気づけてやるようヤサに求めた。ヤサは困惑し釈尊を見た。釈尊は、ヤサが

以前と同じ逸楽の生活に一戻るのを望むのか、と父親に問うた。父親は、もしヤサが釈尊の下に留まり
たいと申し出た。

たいならそうしてもいいといい、ヤサはビクでいたいと答えた。父親は別れ際に釈尊を食事に招待し

釈尊は衣を著け托鉢の鉢を持ってヤサを伴い出掛けた。釈尊らは母親とヤサの妻に会い、食事を共

にし、食事のあと家人に教えを説いて聴かせた。人びとはいたく喜び教えに従うことを約束した。

さて、ヤサには四人の資産家の息子の友人がいた。彼らはヤサがブッダとそのダンマに帰依したの
第二部一第三章上流人の帰依

を知り、ヤサに善ならば自分たちにも善に違いないと思い早速ヤサに会いに来た。そして自分たちも
を説き、四人もまた帰依した。

ブッダの弟子にして貰えるよう計らってくれるよう頼んだ。ヤサの願いを聞いてブッダは四人に教え

ロカッサパの帰依

バラナシにカッサ・︿という一家があった。三人の息子はそれぞれ高い教育を受け厳しい宗教的生活

を送っていた。ある時長男が先ず遍歴行者になろうと思い立ち、家を捨てウルヴェーラーにアーシュ

ラムを作った。やがて二人の弟も兄の後を追い遍歴行者になった。彼らは皆火神アグーーの信者であり、

7 0 3

ほら貝結び︵長髪をほら貝の形に結んでいる︶行者と呼ばれていた。この三兄弟は、ゥルヴェーラ。カ

ヅサ・︿、ナディー。カッサ・︵︵ネーランジャラー河のほとりの︶、ガヤー。カッサ・︿︵ガヤー村の︶として

7 0 4

知られ、ウルヴェーラ・カッサ。︿は五百人、ナディー・カッサ・︿は三百人、ガャー・カッサ。︿は二百

人の結髪の弟子をそれぞれ引き連れていた。彼らの長はウルヴェーラ・カッサ。︿であった。彼の名は 広く聞え現身でムクティ︵解脱︶を得たと評判であった。
ラ・カッサ・︿に会い、一夜彼のアーシュラムで過したいといった。

釈尊はその評判を知り、彼にも説法を聴かせ、できれば改宗させたいと考えた。釈尊はウルヴェー

﹁いや、それは賛成できませんな。ここにはこの辺りを支配するムチャリンダという竜主がおり、

非常な恐るべき力をもっております。竜王は火を信仰する行者全ての敵です。あれは夜な夜な行者の

アーシュラムを訪いひどいことをします。あなたにも同じことをするのを恐れるのです﹂

カッサ・︿は竜王がすでに釈尊に帰順しているのを知らず、そういって断わろうとした。

﹁いや、竜王は私には何も害をしますまい。どうか一夜あなたの聖火堂をお貸し下さい﹂釈尊は重

ねて乞うた。カッサ。︿は他にも色々と理由を並べて断わろうとしたが釈尊は飽くまで引き下らなかっ

た。カッサ。︿は、あなたと議論したいわけではない。ただ心配なだけだ。でもそうまでいうのなら好 きなようにするがいいと根負けした。

釈尊は聖火堂に入り座を占めた。いつもの時刻になり堂に入ってきた竜王は、カッサ。︿の席に釈尊
れ釈尊を拝しはじめた。

がいるのを見た。竜王ムチャリンダは偉大な神の前にいる思いに駆られ、柔和に溢れた表情で頭を垂

その夜、客の身を案じてカッサ・︿はまんじりともできなかった。もしかして焼け死んだかもしれな

いと不安に駆られ起き上り堂に行った。だがそこで見たものは、釈尊を拝しているムチャリンダであ

った。この奇蹟に打たれたカッサ・︿は釈尊にアーシュラムを作り共に住むよう頼象、釈尊の世話は引

き受けると約束した。釈尊はその願いを聞き入れた。しかし両者の思わくは違っていた。カッサ。︿は

ムチャリソダから護ってもらおうと思い、釈尊はその内カッサ。︿は自分の説法を聴こうとするだろう

と期待したのである。だがカッサ・︿は一向そんな様子をみせなかった。彼は釈尊をただの神通力遣い

と思っていたのである。そこで釈尊はある日自分の方からカッサ。︿に近づきこう尋ねた。﹁あなたは

阿羅漢︵完成した人︶ですか?もしそうでないならアグニ信仰はどんな利益があなたにあるのです
か?。﹂

﹁阿羅漢とは一体何なのです?その意味を説明して下さい﹂カッサ・︿はいった。 者は人間の罪を清めることはできません﹂釈尊はいった。

﹁阿羅漢とは八正道を求める人間の障害となる一切の欲望を支配しえた者のことです。アグーー崇拝

カッサ。︿は誇り高い男であったが、釈尊の説得力にいつしか心が柔らぎ、遂にそのダンマを信じよ

うという気持ちを起した。彼は釈尊の智慧と自分の貧弱な智慧とは較べものにならないことを認め、
上流人の帰依

謙虚に釈尊に屈伏し、その教義を受け入れ弟子となった。そして道徳的に柔順な彼の弟子たちもカッ

サ・︿を見習い教えを受け入れた。かくてカッサ。︿とその弟子全員が帰依することとなった。ウルヴェ

ーラ.カッサ・︿は彼の持物、供犠用器具一切を河へ投げ込承、荷物はぷかぷかと水の上を流れていつ

第三章

下流に住んでいた弟のナディー、ガャー・カッサ。︿は、衣類その他の物品が次灸と流れてくるのを

見、これは兄上の持物だ。どうして河へ投げたのだろう。何か大変な事が起ったに違いないとひどく

105第二部

心配した。一一人は五百人の弟子と共に兄に会いに行ったところ兄とその弟子たちが皆隠者のような姿

になっているのに驚き理由を尋ねた。ウルヴェーラは改宗にいたった物語を彼らにすっかり話した。

﹁兄上が従ったからには我らもまた見習うにこしたことはない﹂二人はいい、弟子たち全てを引き
連れ釈尊の教えを聴いた。

1 0 6

﹁無知の黒い煙が上り、混乱した思想は木と木がもつれるように火を発する。色情、怒り、幻想は

作り出された火のようであり、嘆きや悲し象の元になるもの全てに火を付け燃え上がらせる。もうこ

のことが分れば、そして色情、怒り、幻想が消滅するなら、そこから明知と清い行いが生れる。一度
れる﹂

人の心に罪に対する厭悪が生れればその厭悪の情は貧欲を取り去り、寅欲は消滅し、真の修行者が生

釈尊の教えを傾聴した仙人たちは火に対する信仰を捨てブッダの弟子になりたいと願った。カッサ

.︿兄弟とその弟子たちの帰依は釈尊の大きな勝利であった。というのは、彼らは世の人びとの心を極 めて強く把えていたからである。
白サーリプッタとモッガヅラーナの帰依

釈尊がラージャグリハにいた頃、二五○人からの行者を弟子とするサンジャャという高名な人物が

いた。中でも秀れていたのはサーリプッタとモッガッラーナという若い寺ハラモンであった。一一人はサ

ンジャャの教えに飽き足らず更に優れたものを求めていた。ある日サーリプッタは、ラージャグリハ

に托鉢に来た〃五人の修行僧″の一人アッサジの姿を見、その威厳に満ちた振舞いに打たれた。サー
重に挨拶し、いった。

リプッタはアッサジに魅かれ、托鉢を終え庵に帰ってゆく彼の後を追った。庵に戻ったアッサジに丁

﹁友よ、あなたの顔付は穏かで、皮膚の色は清らかで明るい。誰方の手で出家となられたのです

か?あなたの師は誰方です?誰方のダンマをあなたは奉じているのですか?﹂
その方のダンマに従うものです﹂アッサジは答えた。

﹁友よ、シャヵ族の大いなる隠者、釈尊の手によって出家となりました。その釈尊が我が師であり、

﹁では尊い人よ、あなたの師の教えとはどのようなものなのです?﹂

﹁私は弟子になって日が浅く、ダンマも教義も教わったぽかりです。ですからダンマについて詳し

くお教えはできませんが、いささかその意味を簡略にお話しましょう﹂

アッサジからブッダの教えの要点を説明してもらったサーリプッタは十分満足した。モッガッラー

ナと兄弟のように親しく大切な事は分け隔てなく打ち明けあってきたサーリプッタは、早速モッガッ

ラーナの許へ赴いた。サーリプッタを一目見るやモッガッラーナはいった。

﹁友よ、そなたの顔つきは穏かで、皮膚の色は清らかで明るい。遂に真理に到達したのですか?﹂

﹁私は真理に出遇ったのです、友よ﹂サーリプッタは逸る心を抑さえつつアッシジとの会話を物語 おう。その方こそ私たちの真の師に違いない﹂
第三章上流人の帰依

った。話を聞き終えるとモッガッラーナはいった。﹁友よ、行こう。行って釈尊の弟子に加えてもら

﹁しかし二五○人の遍歴行者がここに暮らしているのは我為のためであり、彼らは私たちを当てに

している。去る前に彼らに一言伝えよう。後は彼らがどうするか決めるだろう﹂サーリプッタはいつ

二人は遍歴行者たちのところへ行きありのままを話した。すると彼らは、二人がそういう偉い方の

傘下に入るのなら我をも一緒に従いてゆくと答えた。そこでサーリプッタとモッガッラーナはサンジ

ャャのところへ行き、﹁友よ、我らは釈尊の許へ赴く。あの方こそ我らの師である﹂と告げた。サン

107第二部

ジャャは﹁否。友よ、行くな。我ら三人でこの仲間の面倒を見なくてはならない﹂と反対した。再三
釈尊のいる竹林へ出掛けた。

押し問答を繰り返した揚句、サーリプッタとモッガッラーナは説得を諦らめ、二五○人の行者を連れ

多勢の行者の先頭に立ってやって来る二人を見た釈尊は僧たちに向っていった。

1 0 8

﹁見ょあの二人を。あれらは我が弟子の双壁となるであろう。幸先良い二人組である﹂

サーリプッタたちは竹林にいる釈尊の許に行き、その足に頭をつけていった。〃尊師よ、何卒尊師

によって戒を授けて下さい〃釈尊は許可を与える時いつも行う所作通りに応じていった。〃来なさい、

ビクたちよ〃。かくてサーリプッタ、モッガッラーナと二五○人の行者はブッダの弟子となった。 四ビンビサーラ王の帰依

ラージャグリハはセーニャ・ピンビサーラ王の統治するマガダ国の首都であった。街は大勢のほら

貝結び行者を帰依させた釈尊の噂でもちきりであった。ビンビサーラ王もこのことを聞き心に咳いた。

〃あの誰よりも頑固な正統派を帰依させたのは只事ではない。その人物は見識と行いに秀でた尊いブ 知るという真理を語っているに違いない。

ッダに違いない。この世を知り尽した旅人、人間と神をも導く至高の人であろう。その人は己自身を

その人は始めに素晴らしく、中間でも素晴らしく、終りで素晴らしく、精神と言葉において素晴ら
違いない。そのような人を一日見るのはいいことだ〃

しいダンマを説いているに違いない。その人は完成され、純粋で清らかな人生を明らかにしているに

そこで王は一二万のバラモン、資産家たちに囲まれ釈尊のいるところへ出掛けた。王をはじめ多く

の人びとは丁重に挨拶し釈尊の周りに座った。ところが、釈尊を取り巻く僧の中にウルヴェーラ・カ
察し尊者カッサ。︿に話しかけた。

ッサ。︿がいるのを見て人びとはカッサ・︿と釈尊のどちらが師事しているのかと誘った。釈尊はそれを

﹁大いなる人といわれたウルヴェーラーの人よ、あなたはどうして火の信仰、火の供犠を棄てたの
ですか?﹂

﹁供犠が約束するものは色形、音、味、愛欲であり、それが微れであるのを知ったために供犠にも
供物にも歓びが見出せなくなったのです﹂カッサ・︿は答えた。

﹁では何故そう思ったのか、良ければ話してくれませんか?﹂釈尊の言葉にカッサ。︿は立ち上がり、

上衣を一方の肩に掛け、釈尊の足に頭をつけて礼拝し、﹁私の師は釈尊、あなたです。私はあなたの
解した。
し歌

弟子です﹂といった。一二万人の人びとはカッサ・︿が釈尊の下で清らかな修行を行っていることを了

そこで釈尊は人びとの願いを察し教えを説いた。汚点一つない純白の布が正しノ、染まるようにビン

ビサーラ王をはじめ一二万の聴衆はダンマの清い汚れのない色に染まり、一万人がその場で在家信徒
は釈尊に向っていった。
第三章上流人の帰依

になることを宣した。その様子を見、ダンマを理解し全ての迷いが去ったセーーーャ。ビンビサーラ王

﹁尊師よ、私が若くまだ王子であった時五つの願いを抱きましたが、今それが満たされました。そ

の時私はこう思ったのです。〃ああ、私は戒を授かった王になりたい〃これが第一の願いでありまし

たが、今それが叶えられました。〃尊い、完きさとりを開いた方が我が領土に到来せよ″これが第二

の願いでしたが、それも今叶えられました。〃その尊師にお仕えしたい〃というのが第三の願いでし

たが、それも今叶えられました。そして〃その尊師が教えを説いてくれますように〃というのが第四
五の願いでしたが、それも今叶えられました。

の願いであり、それも今叶えられました。〃その尊師のダンマが理解できますように″というのが第

第二部

尊師よ、素晴らしいことです。あたかも倒れたものを起こすように、隠されたものを明らかにする

1 0 9

ように、道に迷ったものに方角を示すように、眼あるものなら見ることができるようにと暗闇に灯火

をかかげるように、尊師は様為の仕方でダンマを明らかにされました。尊師よ、私はあなたに帰依し、

1 1 0

ダンマに、サンガ︵ビクュ鍔︶に帰依します。私を今日この時より私の命ある限り在家信者として受
け入れて下さい﹂

㈲アナータピンデイカの帰依

スダッタはコーサラ国の首都シュラーヴァスティーの住人であった。国は.ハセーナディ王が統治し 独な人びとに食を供する人″として知られていた。
おさ

ていた。スダッタは王の財務官であり、貧者への借し承ない施しによって〃アナータピンデイカ・孤

尊師がラージャグリハにいた時、アナータピンデイカはたまたま自分の所用でその地を訪れた。彼

はラージャグリハの商人仲間の長に嫁いでいる妹のところに泊ることになっていた。

その富商の家に着くと、その人は釈尊と修行者たちを盛大に迎える準備をしていた。彼はその仰為

しさに驚ききっと結婚式か王様かが招待されているのだろうと思った。事実を知ったスダッタは無性

に釈尊に会いたくなり、その晩釈尊を訪ねていった。釈尊は一目でスダッタが素晴らしい心の持主で
ついての教えを乞うた。釈尊はその願いに応じながらこう質した。

あることを見抜き、ねぎらいの言葉をかけた。スダッタは席をしめると早速幾つかの宗教上の問題に

﹁イーシュヴァラ︵主宰神︶が創造者だろうか?もしそうなら生きとし生けるものは黙ってそれ

に従うしかないだろう。一切は壷職人の手で作られた壷のようなものだからだ。イーシュヴァラによ

って世界が造られたのなら、悲し承や惨苦、罪のようなものもないはずである。浄、不浄な行いもイ

ーシュヴァラから生じるからだ。もしそうでないなら、彼以外の原因があるはずだ。そしてそれは自

ら存在するものではない。これでイーシュヴァラという観念が覆えるのが分るであろう。

〃絶対者″というものも原因たりえない。我灸の周囲の全てのものは植物が種子から生ずるように

ある原因によって生れる。〃絶対者″がどうして同じ形で一切の原因となりうるだろうか?もしそ

うだとすれば、原因とはなりえないはずではないか。また〃それ自体″が創造者だという。もしそう

ならもっと事物を楽しいものに造ればいいではないか。だが悲しゑや歓びの原因は現実に客観的に存

在する。それらが〃それ自体″なるものによって造られたといえるだろうか?だがもし、そこには
めなのか?

一切の創造者、因果もないとすれば、我灸の生活を形作り、目的のために色々と努力するのは何のた

故にいおう。一切のものは原因なくして存在しない、と。しかし、イーシュヴァラも絶対者も自己

自身も、無原因も創造者たりえない。だが我煮の行為は善悪共に生承出す。一切は因果法則の下にあ

り、そこに働く諸原因は心に係わりがある。それは金で出来た容器は全てが金であるようなものだ。

それ故イーシュヴァラ信仰を棄てよ。益のない神秘さなどに思い耽けるのを止めよ。自己と我欲を
第三章上流人の帰依 そう﹂

棄てよ。あらゆるものは原因があって生じるのだから、善いことで我為の行為が生れるように善をな

﹁尊師よあなたの教えで真理が見えて参りました。私の心を十分に開きたいと思います。私は大き

な富を築き仕事で一杯です。ですが私は仕事を愛しそれに勤しんでいます。多くのものが私の下で働

き私の事業の成功に頼っています。ところで、尊師のお弟子たちは隠者の喜びを良しとし、世俗の悩 承を非難されているそうです。その人びとは〃釈尊は王国も家督も捨て正道を見出された。そして解
脱への道を世に示された″と申されているそうです。
はらから

H1第二部

尊師よ、私の心は正しいことを行い、私の同胞のためになりたいと心から願っています。お尋ね致
らぬのでしょうか?﹂

します。私も尊師のように、富も家も事業も捨て、心の喜びを得るために遍歴行者の道を歩まねばな

1 1 2

﹁八つの正しい道を歩むものには誰でも心の平安と歓びはえられるのです。しかし富に執着するも

のはそれによって毒されるより富を捨てた方がよい。富に執着がなければその富を正しく用い同胞の

ために尽すがよい。故にそなたに告げる。あなたは今の生活に止まり事業に精を出すがよい。人をと

りこにするのは生活や富や権力ではなくそれに対する執着である。気楽な生活を送るために隠退した

ビクは何も得ることはできないだろう。怠惰な生活は厭悪すべきものであり、無気力さは軽蔑さるべ

きである。タターガタ︵修行を完成した人Ⅱ如来︶のダンマは、自らそう望まぬものに世捨人となるこ 快楽への欲望を断ち切り正しい生活を歩むことである。

とを要求してはいない。ダンマが求めるのは、全てのものが自己への幻想から解放され、心を清くし

人が何をなそうと、職人、商人、役人として世俗の生活を送ろうと、世を捨て膜想一途の生活に専

心しようと、それぞれの仕事に専念し勤勉に精一杯やることだ。水の中で育ち水に沈まない蓮のよう

に、妬承や憎しみを抱かず人生を闘い、利己的にならず真実の人生を送るならば、間違いなく歓びと

平安と祝福が心に宿るであろう﹂かく釈尊は語り、スダッタはその言葉が最高の真実と平明さと智慧
に額き、両掌を合わせ礼拝した。

に満ちたものであるのを理解した。そしてその真実の教えによって心をしっかりと安んじ、釈尊の足

㈹パセーナディ王の帰依
。︿一

。ハセーナディ王は釈尊の来たことを知り供を引き連れジェータ林へ釈尊に会いに出掛けた。王はい
つた。

﹁取るに足らぬ我が国にこのような幸運が訪れたことは喜ばしいことです。何故なら、世界の王者、

法の王者、真理の王者である尊師の前にはいかなる災厄も危険も降りかからぬでありましょうから。

かく御尊顔を拝しましたからには尊師のお教えの一端なりともお聞かせ下さい。世俗的利益は移るい

やすく滅びやすい。しかし信仰的な功徳は永遠で尽きないものです。たとえ王であっても世俗の人間

は悩承に満ち、普通の人間でも神に仕えるものは心の平安をもっています﹂

負欲で快楽主義的な王の性格を知っている釈尊は絶好の機会を見つけた。

﹁低い身分の生れのものでも徳の高い人物を前にすれば自から尊敬の念を抱きます。前世の因縁に

よって多くの利点を得ておられる独立自存の王であればもっとそうお感じになるのではありますまい
我々の善い行い悪い行いは絶えず影の如くついてきます。
最も大切なものは慈愛の心です。

か。今ダンマを手短かにお話ししますが、私の言葉を良く聴きしっかり心に留めて下さい。

我が子を大事にするように、臣下に心をお掛けなさい。彼らを虐げ、破滅させてはなりません。身
第二部一第三章上流人の帰依 かありません。
7 1 3

体の各器官を正しく抑制し、正しからざる教義を捨て、真直ぐな道を歩承なさい。他人を踏詮つけに
して自らを高めず、苦しむものに慰さめと友愛を施しなさい。

王の権威に余り拘わらず、おくっかものの言葉に耳を貸さぬことです。

苦行で我身をさいなんでも益はなく、ダンマを膜想し正しい法に想いを凝らしなさい。

我々は四方を悲苦の岩で囲まれています。この悲哀の谷から逃れる法は、ダンマを熟考することし

不平等を施して何の益がありましょう。全ての賢者は情欲を拒承、精神的なものを高めようとしま

樹が焔に包まれているのに、どうして鳥が寄り集まれましょう。欲情に燃えた身体に真理は宿れま

せん。このことを知らぬ識者は、たとえ聖者と崇められようと所詮無知な人間です。

このことを知るものには真の智慧が目覚めるでしょう。この智慧を得ることこそ大切な目的なので す。これを無視すればその人の人生は失敗に終るでしょう。

〃4

全ての宗派の教えはこれを中心とすべきです。そうでなければ意味がないからです。

この真実はひとり隠者だけではなく、司祭にも俗人にも全ての人に係わります。この真実は誓を立
だの俗人もいます。

てた僧にも家庭を持つ俗人にも区別はありません。地獄に堕ちた隠者もいれば、聖者の域に達したた

欲情の高波は全てのものに危険であり、世界を流し去ります。その押し寄せる波に巻きこまれたも
はマーラ︵悪魔、死の神︶の攻撃からあなたを救ってくれるでしょう。

のは脱れることはできません。しかし智慧は手近かな小舟となり反省は舵となります。ダンマの言葉

自らの行為の結果からは逃れられないのだから、善い行いをしなくてはなりません。悪しきことを

行わぬよう自分の考えを常に監視していなくてはなりません。蒔いた種は刈らねばならないからです。

光りから暗闇へ、暗闇から光りへ到る道は幾つかあります。同様に暗がりから一層深い闇へ、薄明

りから一層の明るさへ到る幾つかの道もあります。賢い人はもっと光りを受け取ろうと明りを利用し、 真理を更に究めてゆくでしょう。
なさい。

徳行と明知によって真の優越性を示しなさい。世俗的虚栄を深く反省し、人生の気まぐれを理解し
精神を向上させ、確固たる目的をもって真筆な信仰を求めなさい。 そうすれば長く名声を保つことができるでしょう﹂

王たるものの道を外さず、俗事に己れの幸せを求めず、己がこころにそれを求めなさい。

王は恭しくこれらの言葉に耳を傾け心に刻承、在家信徒となることを約した。

㈲ジーヴァカの帰依

ジーヴァカはラージャグリハの娼婦サーラヴァティーの息子であった。父無し児であったジーヴァ

カは生れると直ぐ篭に入れられご承捨場に棄てられた。大勢の人がご承捨場の赤ん坊を取り巻いて見

守っているところに、たまたま無畏王子というァ雷ハャ王子が通りかかり何事かと尋ねた。人びとは

〃生きている″と答えた。このため赤ん坊は〃ジーヴァヵ〃と呼ばれるようになった。アバャは赤ん

坊を養子にし育てた。成長したジーヴァカはある時自分の出生の秘密を知り、他人を救える身になり
リハに一戻って医師となりたちまち大きな名声を博した。

たいと強く願った。彼はアバャの許しをえてタクシラの大学へ行き七年間医術を学んだ。ラージャグ

彼の最初の患者は、サーヶータの富商の妻であったが、彼女を治癒させたことで彼は一万六千金と
〃 5 第 二部一第三章上流人の帰依

男の召使い、馬と馬車をもらった。ア・ハャはジーヴァヵの優秀さを知りn分の敷地内に彼の家を建て

てやった。ジーヴァカはビソビサーラ王のやっかいな〃漢″を治したことで、王の五百人の妃の飾り

をもらったといわれる。他にジーヴァカの施した有名な治療に、ラージャグリハの富商の開頭手術を
挙げられる。

行ったこと、臓器の位置の異常から長く患っていた零ハラナシの富商の息子を治してやったことなどが

ジーヴァカは釈尊に深く帰依し、釈尊とサソガの侍医として仕えた。彼は釈尊の弟子となったが、

釈尊は彼がいつでも病人や怪我人の治療に専念できるようにと思いビクにはさせなかった。

ビンビサーラの没後も息子のアジャータサットゥに仕え、父親殺しの罪を犯したアジャータサット

ゥを釈尊の許へ連れて行き悔悟させたのは主として彼の働きであった。

Z I 6

㈹ラッタパーラの帰依

ある時、釈尊は多勢の托鉢者たちと共にクル国を巡りトゥラコッティ力という町に足を止めた。町

の寺ハラモンや有力者たちは釈尊に敬意を表しに訪れ、釈尊は人びとに教えを説いた。人びとは感謝し

深い尊敬の念を抱いて去った。その中にラッタ。︿1ラという資産家の跡取息子がいた。彼はこう思っ

た。〃釈尊の教えは家にいたままでは仲々到達できない。いっそ頭も髭も剃り黄色い衣を着て托鉢し

て回ろう″そう決心した彼は釈尊のところにゆき彼の許で修行させて欲しいと願い出た。それに対し

釈尊は両親の許可を得ているのかと尋ねた。いいえ、とラッタ・ハーラがいうと、釈尊は両親の許可な

くして許すわけにはゆかぬと告げた。ラッタ・ハーラは直ちに帰って両親に出家の許しを求めた。しか

したった一人の跡取息子を失うことを恐れた両親は頑として許そうとはしなかった。再三の懇願も空

しく退ぞけられたラッタ・ハーラは地面に身を投げ、ビクになるかさもなければこのまま死んでしまう

と宣告し、誰がなんといおうと一言も口をきかず起き上がろうとしなかった。弱り果てた両親はラッ

タ。ハーラの友人に説得を頼んだが、彼の意志の固いことを知った友人たちは、あのまま地べたにひつ

くり返って死なせるくらいならいっそのこと出家させてやりなさいと逆に両親を口説いた。両親も遂

に折れ、出家の後再び会いにくるという約束で許しを与えた。釈尊の許しをえたラッタ。ハーラは独り

刻苦奮励し僧たるに相応しい修行を積んだ。やがてラッタ・ハーラは師の許に行き両親に会う許しを乞

うた。釈尊はその心を読承、彼が修行を放棄したり俗世に戻ろうとする恐れのないことを見極め帰郷

を許した。ラッタ・ハーラは黄の衣を着、鉢を持ち故郷へ巡礼に出掛けた。

朝早く各戸を巡りやがて我が家の前に近づいた。家の中で髪を柿いていた父親はその姿を望見し、

〃一人息子を奪った忌々しい坊主めが″と咳いた。ラッタ・ハーラは父の家で何も貰えず、悪態をつか

れただけであった。

奴牌の娘がたまたま古くなった前日の飯を捨てようとしたところラッタ。ハーラはそれを鉢へ入れて

くれませんか着と頼んだ。娘は鉢に入れてやりながら、その手、足、声がまぎれもなくラッタ。ハーラ

のものであるのに気づき、女主人のところに馳けつけ〃息子様が一戻られました!″と叫んだ。〃もし

本当なら、お前はもう奴隷でいなくてよ″というなり女主人は急いで夫にそのことを告げに走った。

父親が飛び出して承るとラッタ・ハーラは生垣の下で古くなった残り飯を食べているところであった。

息子よ、なんということを。お前の家に帰ってきたのではないか、と父親は思わず叫んだ。
か悪態をつかれただけでした﹂とラッタ・ハーラは答えた。 ﹁さあ、中へお入り﹂父親はいった。
第二部一第三章上流人の帰依

﹁家無き我らに自分の家というものはありません。あなたの家に参りましたが、何も戴けぬどころ

﹁いいえ、御主人、私はたった今、今日の食事をすませたところです﹂ラッタ。ハーラはすげなく答

えた。父親はラッタ。ハーラに翌日食事をしにくるよういい、ラッタ・ハーラは黙って領いた。
した。

父親は金銀財宝を山と積承、ラッタ。ハーラの妻妾たちを着飾らせ、大御馳走を用意して彼をもてな

ラッタ・ハーラが席につくと父親は財宝の覆いを取り払い、これらは全てお前が父母、祖父から受け

継ぐべきものだ。これでお前は十分に楽し承善をなすがいい、といった。

﹁御主人、もし私の忠告を聞き入れて戴けるなら、この宝の山を運び出しガンジス河に沈めてしま

われるが宜しい。何故なら、これらは悲嘆、病、心身の苦し承の元だからです﹂ラッタ。ハーラは答え

7 1 7

た。彼の妻妾たちはラッタ・ハーラの足にすがりつき、どんな女神のためにこんな生活を送っているの

かと口為に恨承言をのべた。﹁いや誰のためでもない、姉妹たちよ﹂ラッタ・︿−ラは告げた。この

Z Z 8

″姉妹よ″という呼びかけに女たちは皆気を失って地面に倒れ伏してしまった。

食事を終えるとラッタ。ハーラはさっさとクル王の鹿の園に行き、午後の陽差しを避け樹の下に坐し

一方、ラッタ。ハーラのことを度々耳にしたクル王は興味を感じ自ら彼に会いに森へ出掛けた。

﹁出家になるのは四つの損失、即ち老い、病疾、貧窮そして近親の死に際してである。

年をとり、人生の終りに近づき、自らの立場をさとり、これ以上新しい仕事をやれず、これまでの

事業もうまくこなせなくなったとさとった時、世捨人になればいいのだ。これが老年のもたらす損失
それなのに何を見、何を聞いて世捨人になったのかね?﹂
王の問いかけにラッタ・︿−ラは答えていった。

だ。病疾も貧窮も近親の死も然りだ。しかしそなたには若々しい肉体と健康、肉親、友人が沢山いる。

﹁私は釈尊の説かれた四つの命題を知り、観、聴いたが故に托鉢者になったのです。その四つとは、

S、世界は流転し変化する。。、世界には保護者も守護者もいない。白、我為は無所有であり、一
えです﹂

切を後に残して行かねばならない.四、世界は不足を感じ渇望し、欲望の虜となっている。という教

﹁素晴らしい。見事だ。その釈尊とやらは何と正しいことだ﹂王は感嘆の声を上げた。

第四章帰郷

㈹スッドーダナとの最後の会見

サーリプッタとモッガッラーナを帰依させた後、釈尊は二カ月程ラージャグリハに滞在した。それ

を伝え聞いたスッドーダナは使いをやり、死ぬ前に一度会いたい。世の人びとはお前の教えを聞く恵

采をうけているのに、父たちはうけていない、と告げた。廷臣の息子カルダーインが使者として造わ

され釈尊にいった。この世の尊き完き人よ、あなたの父上は百合が朝日を待ち望んでいるように、あ

なたのお出をお待ち申し上げています。釈尊は父王の懇請を受入れ、多勢の弟子と共にシャカ国へ出
第四章帰

発した。釈尊の旅はゆっくりしたペースであったが、カルダーインは大急ぎで帰国し釈尊の来訪をス

ッドーダナに告げた。シャカ国中にその話は伝わり、彼の噂でもち切りであった。

釈尊がカピラヴァストゥに着いた日、スッドーダナ、マハープラジャー。ハティは一家総出で出迎え

"9第二部

た。やがて見えて来た我が子の美しさと威厳に打たれた二人は万感胸に迫り言葉もなかった。これは

正に我が子だ。その見目形はまぎれもなくシッダールタだ。偉大なサマナ︵沙門、道の人︶は二人の心

に限りなく近く同時に限りなく遠いところにいることを二人は感じた。この尊いムニ︵聖者︶はもは

や我が子シッダールタではなく、ブッダであり、釈尊、真理の王、人類の教師である。シッダールタ

1 2 0

は息子の宗教的権威を尊重し、いち早く車から降り先きに敬礼した。

﹁あれから七年経ってしまった。この日をどんなに待ち焦がれていたことか﹂スッドーダナはそう

いうのがせい−杯であった。自分の前に坐したブッダをつくづくと眺め、王は〃シッダールタよ〃と

呼びかけたくてうずうずした。しかしどうしてもその言葉を口に出せなかった。〃シッダールタょ、

父のところへもう一度帰ってきておくれ、もう一度息子になっておくれ″心の内で咳くことしかでき

なかった。我が子の厳たる姿を前に親子の情を吐き出すこともかなわず二人は暗潅たる気持に包まれ
を味わっていた。

た。スッドーダナは、子でありながら子でなく、また一方でそのことを誇らしく思う悲喜交々の感情

﹁わしの領土を全てそなたに与えよう。だがそなたには灰のようなものにすぎまいな﹂王は気弱く
咳いた。

﹁王よ、あなたは私を心から愛し、その故に深い悲しふに包まれているのをよく知っております。

しかし失った息子への愛情で同胞を等しく慈んで下さい。そしてあなたのかつての息子の代りにそれ
この言葉にスッドーダナは喜びに打ち震え両掌を合わせた。

よりもつと優れた者、真理の教師、正しい道の唱導者、平安と浬渠の招来者を受け入れて下さい﹂

﹁ああ見事な変化だ。圧し潰されそうだった悲し承が消えてしまった。そなたが自らの大きな憐翠

の情に突き動かされ力の甘い汁を拒否し、道の人の生活の中に崇高な目標を見出したのは正しいこと
いてやっておくれ﹂

だった。さあ、正しい道をさとった今、そのダンマを迷いから解き放たれたいと願う全ての人間に説
かくしてスッドーダナは帰城し、ブッダは弟子と共に林に残った。

翌朝、釈尊は力ピラヴァストゥの町に托鉢に出掛けた。噂は忽ち町中に広がり人びとは口交に畷い

﹁供を連れ美食しく着飾り馬車に乗って駆け抜けていったあのシッダールタ王子が、今ぼろ衣を着、 土の器を持って戸口を回って歩いている﹂ その噂を耳にした王は驚いてやってきて、釈尊にいった。 ないとでも思っているのかね?﹂


しきたり

﹁どうしてそんな不面目なことをしてくれるのかね。わしがそなたたちに食事を供することができ
﹁これは︲わが集いの習慣なのです﹂

﹁だがどうしてこんなことを?そなたは食物を乞うようなものの仲間ではないではないか﹂
します。故に先人を見習い食を乞い、布施で生きてゆくのです﹂ 王は沈黙し、釈尊はつづけていった。

﹁父上、あなた方は王族の子孫であることを誇りとし、私は古のブッダの末喬であることを誇りに

﹁もし誰かが秘宝を見つけたらその最も貴重なものを自分の父親に先ず差出すのが習慣です。それ
故私の最上の宝、ダンマをあなたに差上げることをお許し下さい。

しきたり

第四章帰

もし夢から醒め、真理に心を開き、勤勉に正しい道を歩まれれば、永遠の祝福をえられるでありま
しょ矛フーー

スッドーダナは黙々と耳を傾け、そしていった。 ﹁わが子よ、あなたの語ったことを一生懸命達成しよう﹂
ロヤショーダラーとラーフラ

1 2 1

第二部

スッドーダナは釈尊を宮殿に招き、一家総出で敬意を表した。その中で一人ラーフラの母ヤショー

ダラーの姿が見えなかった。王はヤショーダラーを呼びにやったが、〃もしそのお気持がおありにな
7 2 2

るのでしたら、あの方の方から私のところへ来られてもいいのではございません?″と彼女は答えた。

人びとと挨拶を交わした釈尊はヤショーダラーのいないのに気づき訳を尋ねた。彼女が出て来るの
ッラーナの二人に一緒について来るよう命じた。

を厭がっていると聞くと、直ぐ立ち上がり真直ぐ彼女の部屋へ向った。釈尊はサーリプッタとモッガ

﹁私は何ものにも縛られていない。しかしヤショーダラーはそうではない。長い間私に会えなかっ

た悲し承で彼女の心は一杯なのだ。思い切りその悲し承を吐き出させてやらないときっと彼女の心は
けない﹂

引き裂かれてしまうだろう。彼女は私にしがみついてくるだろうが、そなたたちはそれを止めてはい

ヤショーダラーは深い物思いに耽っていた。釈尊が部屋に入ってくるのを見るや我を忘れ、それが

もはやブッダであることも忘れ彼の足にすがりつき、思い切り声を上げて沸いた。やがて義父たちの
した。

いるのを思い出し、我に返ったヤショーダラーは恥かし気に立ち上がり少し身を離し、居住いをただ

スッドーダナは取り乱した嫁に代って弁明した。﹁これは一時の感情ではないのだ。彼女はそなた

が頭を剃れば自分も剃り、飾りも香水も用いなくなったと聞けばそれも止め、お前がするようにきま
も、気弱からなどではないことを分ってやって欲しい﹂

った時間に土器から食事をとっていたのだ。これが取り乱したのは、深いわけあってのことだとして

釈尊はヤショーダラーに、自分が出家する時に示した素晴らしい美徳と勇気について語り、彼がポ

ーディサッタ︵さとりを求める人︶であった時、彼女の純心さ、優しさ、献心がどれほど励ましであり

貴重なものであったかと話した。そしてこれが彼女のカルマであり、その美徳のもたらしたものだと

いった。彼女の嘆きは言葉にいい尽せないものであったが、彼女の生来の精神的輝きは、その気高さ によって一層深められ稀に承る人柄に成長させていった。

気を取り直したヤショーダラーは、七歳になるラーフラを王子に相応しく着飾りいった。

﹁ブラフマーのように気高いお貌をしたあの尊いお方がお前の父上です。あのお方は私がまだ見た
下さるようお願いしなさい﹂

こともない素晴らしい財宝の山をお持ちです。さあいって、息子が受け継ぐに相応しいものを授けて

﹁私の父上は誰方なのですか?スッドーダナ様以外に私の父上は知りません﹂ラーフラは答えた。
実の父であることを告げた。

ヤショーダラーはラーフラを抱き上げ、室の外でビクたちと食事をしている釈尊を指差し、あれが

ラーフラは釈尊に近づき恐れることなく見上げ懐しそうに話しかけた。

﹁あなたは私の父上なのですか?サマナ様︵沙門︶、あなたの御影すら喜びに包まれています﹂

釈尊は黙って食事をすませ、人びとに祝福を与え宮殿を去ろうとした。しかしラーフラはその後を

第四章帰

追い、何か譲って戴けるものはないのですかと尋ねた。少年を制止するものは誰もいなかった。釈尊 にもできなかった。彼はサーリプッタに向かっていった。
が、決して朽ちない宝を遺産として与えてやることはできる。

﹁わが子は遺産を欲しがっている。私は気苦労と悲嘆をもたらす一時の宝を与えることはできない

123第二背

金銀宝石の宝はないけれど、心の宝を受け取ってくれるというのなら、そしてそれをいつまでもし

っかりと持ちつづけてゆけるのなら、どっさりそれを上げよう。心の宝とは正しい道のことだ。最高
﹁はい、そうしたいと思います﹂ラーフラは健気に答えた。

の喜びを得るために心を鍛えようと一心に励む人びとの仲間に加わりたいと思うかね?﹂

ツ ー スッ ・ド ドー 群ダナは、ラーフラがビクの仲間に加わりたいといったということを聞き、またひとしお嘆
1 2 4

きを深めた。

白シャカ族の対応

釈尊がシャカ国へ帰った時、彼への評価が二つに分れているのを知った。それは、シャヵとコーリ

ャとの水利権を巡ってサソガが真二つに分れた時のことを彼に思い出させた。彼に反対した人びとは

今も彼に従うことを拒み、彼の偉大さを認めようとはしなかった。彼に味方するものは一軒に一人ず

つ息子を差出し弟子にしようと決めていた。彼のサンガに加わろうと決意した人びとはラージャグリ ハに一戻る釈尊と行を共にしようとしていた。この人びとの中に叔父のアミトーダナがいた。彼には二

人の息子があり、一人はアヌルッダといい非常に神経質に育ち、もう一人はマハーナーマといった。

マハーナーマはアヌルッダにいった。﹁どちらが世捨人になろうか?﹂﹁私は神経質すぎて家を捨て世

捨人の生活をとても送れそうにはないから、君が行ってくれ﹂アヌルッダは答えた。

﹁だけどれアヌルッダ、世俗の生活というものにはこういうことがつきまとうものだよ。先ず畑を

耕し、種子を蒔かなくてはいけない.それが終ったら水を引き、後でその水を落さなくてはならない。

それから雑草むしりだ。そして刈り入れだ。刈り入れの後は束ね、脱穀し、藁とも承殻を選り分け、

もゑ殻を吹き飛ばさなくてはならない。それから倉入れだ。次の年もまたその次も同じことを繰り返 さなくてはならない。仕事に終りはないのだ。いつこの果しない労働に終りがくるのだろう?欲望
く、労働は果しない﹂

の歓びがあるとはいえ、安らぎはいつ訪れるのだろう?そうなんだアヌルッダょ、仕事に終りはな

﹁そうか、では君が家に残りな玉私が放浪生活に入ろう﹂アヌルッダはいい、早速母親の下にゆ

き家の許しを乞うた。しかし母親はどうしても許そうとしなかった。アヌルッダの再三の願いに困惑

した母親は一計を案じた。その頃シャカ国の実際の統治に当っていたのは寺ハッディャであったが、彼

はアヌルッダの友人でもあった。このような立場の人物がよもや世捨人になろうとは思わず母親はア

ヌルッダに、もし彼が出家するなら一緒に行ってもいいといった。アヌルッダは王の許に行き、君さ

え一緒に出家してくれれば出家できるのだと話した。彼は、他のことならともかく、一緒に出家する

ことだけはできない。一人で行ってくれと断った。だがアヌルッダはそれが母親の唯一の条件だから
歩した。

と執勘に迫った。バッディャは根負けし、七年待ってくれないか。そうしたら一緒に出家しようと談
﹁いや七年は長すぎる。そんなには待てない﹂

﹁では六年でどうかね﹂それも断わられ、一年になり六カ月になり一月そして最後は遂に二週間に

まで短縮させられてしまった。それでもアヌルッダは待てないといい張った。

﹁じゃ七日だけ待ってくれ給え。その間に国を息子や兄弟たちに譲らなくてはならない﹂

﹁よかろう、七日なら長くはない。その位なら待ってやるよ﹂アヌルッダは平気な顔でいった。
125第二部一第四章帰

さて約束の七日目がくると、バッディャ王、アヌルッダ、アーナンダ、バグ、キンビラ、デーヴァ
賑々しく出立した。

ダッタたちは以前よく一緒に華々しく行列を組んで遊園に出掛けたように、床屋のウ。ハーリを伴ない

ほどなく行ったところで供の者を帰らせ隣境を越え、そこで衣服を脱ぎ装飾品を外し黄の衣に着替

えた。元の衣服を束ねウ。ハーリに渡していった。﹁ウパーりよ、お前はこれで力ピラヴァストゥに帰

るがよい。これだけの物があれば十分暮してゆけるだろう。我らはこれから行って釈尊の仲間に入れ

てもらう﹂そういい残し六人のシャカ族の貴公子たちは去っていった。

1 2 6

⑲スヅドーダナの最後の願い

スッドーダナは、息子が永久に去ってゆくのだという思いに激しく泣いた。そして顧問の大臣や家
を追った。樹の下に坐した釈尊に家付司祭は懇願した。

付司祭にもう一度息子を家に留まるよう説得してくれと頼んだ。彼らは王のいいつけに従い釈尊の後

﹁王子よ、王はあなたと別れてから泣いてばかりです。王のお気持ちを察して下さい。王はもう一

度一戻られるのを切に願っておいでです。それで王は安らかに死ねるでしょう。

あなたの固い決意は私も良く承知しています。その志は決して変らないだろうということもです。

しかしあなたが放浪の生活を送られることを思うと心がかきむしられるのです。

さあ、義務を大切にされるお方よ、その義務のために志を捨て、暫らくは王たる地位をお楽し承下

さい。森へ行きたければ聖典が決めた人生の時期に行けばよろしいではありませんか。あれほど悲嘆

に暮れている身内を無視するものではありません。全てのものへの思いやりこそ真の宗教ではありま

せんか。信仰生活は森の中だけで完成されるものではありません。苦行者的解脱は町の中ででも可能

です。思想と努力こそが真の手段であり森とか外見上のものはむしろ勇気のないものの印です。 れかけている牛のように絶望的な王をどうか救って上げて下さい。 あの方にも心して上げては下さらないのでしょうか。

シャカ族の王は、あなたのことを想い、悲しゑの海深く沈承、悩承の波に囲まれているのです。溺

それにあなたを育てた王妃のことも考えて上げて下さい。仔牛を失った牝牛のように嘆きつづける

もちろんあなたの王妃はあなたの姿を見て生き返るでしょう。あの方は、ご主人が生きているのに

未亡人になったように嘆き悲しんでおられます。そのお姿はまるで連れ合いを失った白鳥のように、

森の奥深く置き去りにされた牝象のように哀れを催します﹂
た。

釈尊は黙然と司祭の言葉に耳を傾け、暫く思いに耽った。やがてしん承りとした口調で語りはじめ

国ブッダの返答

﹁私は父上の深い愛を十分感じている。しかしそうと知りながらこの世の余りに深い不幸にいたた

まれなくなり家族を捨てざるをえなかったのだ。愛するものとの別離さえなければ、その人たちと会

いたくないと思うものはいまい。一度の別離の後でも再び別離はやってくる。だからこそ私は愛しな

がらも父上から去ったのだ。しかし父上の嘆きが私のせいだと思うのは間違っている。一緒に暮して

いるという喜びの最中にも、いつか別離がくるという思いに苦しまれるに違いないからだ。だからこ

そそなたもここのところをしっかりと見定めるがよい。諸々の形は常に移り変る。息子、肉親である

ことが悲し承の因ではなく、その悲しぷは無知から生じる、ということを。別離は全てのものに必定

なのだ。それは道中で道連れと出会う旅人のようなものだ。賢い人は、たとえ肉親をいかに愛してい
第二部一第四章帰

ようと一度失った人への悲し承にいつまでも溺れるだろうか。肉親を離れ、あちらへ行きこちらへ行

き動き回るのが人の定めであろう。さとったものはその定めをどう考えるだろう。母の胎内から生れ

出た瞬間から死ははっきりとついて回る。私への愛情から何故森へ行くことを時期尚早というのか?

確かに俗世的目的を達するのに〃悪い時期″というものはあるだろう。時間は全てのものと分ち難

く結びついており、世界を様食な時相に導いてゆく。しかし真に賞讃さるべき祝福はどのような時で

Z 2 7

あっても相応しいのだ。父上が私にその領土を譲りたいと願われるのは、父上に相応しい貴いお考え

だ。しかし私がそれを受け入れるというのは病人が体に良くない食事をとるのと同じように正しいこ

とではない。賢いものが、幻想の元であり、不安と欲望と心痛の種子であり、他人の力で一切の権利
r 2 8

を踏承にじることになるような王権を受け取るのは正しいことだろうか?きらびやかな宮殿は私に
のだ﹂

とって火の上にいるようなものだ。毒入りの御馳走、鰐のうじゃうじゃいる穏やかな蓮池のようなも

㈱大臣の返答
ブッダの言葉を聞き終えた大臣はいった。

﹁あなたのその決心は誠に御立派だと思いますし、この時点、という点を除いては何の不満もござ

いません。あれほど義務を大切にされていたあなたが、年老いた父上を悲嘆の底に置きざりにしてゆ

かれるのは、あなたの義務ではありますまい。まだ実施するかどうかも分らぬことのために、はっき
していないからではありますまいか。

りと見える目的を無視し、去ってゆかれるとは、あなたは義務や富、快楽といったものを吟味され尽

ある者は再生があるといい、ある者は無いと断言します。一切は不確実であります。それなら手中

にある幸運を享受なさるのが本当ではないでしょうか。来世にも生活があるなら、その通りに従って

生きましょう。もし現世の向うに生活がないのなら何も努力せずとも救われるではありませんか。あ

る者は来世があるといいながら、解脱の可能性を認めません。火はその性質上熱く、水は流動性を帯 びているように、我交の行動力には特定の性質があるといいます。ある者は全ては生来の資質によっ

て生じる、善も悪も存在も非存在も。そして世界は自然に生れてくるのだから何を努力しても無駄で

ある、と。感覚の働きは限定されており、何をどう好むと好まざると結局は老いと痛苦に分かち難く

結びついているのに何を努力しても甲斐はない。全てはなるがままにしかならぬ、と申します。火は

水で消え、火は水を蒸発させます.個体に統一された異った要素が統一を生み、世界を作り上げます.

胎児の性質は、手、足、腹、背、頭が出来てゆくに従って作られ、魂とも結びつきます。賢者は全て

は自然に生れてくるといいます。誰が疎の鋭さを作ったのでしょう?誰が獣や鳥の性質を作ったの

でしょう?全ては自然に出来てきます。欲望の働きではありません。意志などどこに働いているで

しょうか?またある者はイーシュヴァラが世界を創造したといいます。だとすれば目覚めた魂の努

力など何の必要がありましょう?世界の活動原因であるものはまたその終えんの原因と決められて

います。ある者は、生成と消滅は魂によって生じる。しかし生成に努力は必要とされず、解脱は努力

によって達せられると申します。人は子孫をもうけることで先祖に借りを返し、聖典を講することで
ら解放されたものこそ本当に解放されたものなのです。

聖人に、供犠によって神に借りを返します。人はこの三つの負目を持って生れてくるのです。これか

この一連の淀によって賢者は自ら努力するものへの救いを約束します。

それ故もしあなたが救いを願うなら、定められた淀を忠実に守られることです。そしてあなたは救

いを手にし王の嘆きも消えるでしょう。森の生活から家庭へ帰られることであなたのこの世の悪への
129第二部一第四章帰

挑戦が中止になってしまうという懸念も御無用です。昔も幾多の聖者が森を出、俗世へ一戻っていま


そういって大臣はアン、ハリーシュ。ドゥルマヶーシャ、ラーマその他の名を挙げた。

㈲ブッダの決意

大臣の愛情のこもった誠意ある言葉を聞き終えたブッダは、何ものをも見落さず、冗慢でもなく性
急すぎもしない完壁な表現で答えた。

1 3 0

﹁何かが存在するかしないかという疑問を、私は他人の言葉で解決しようとはしていない。禁欲主

義や静寂主義の結論した真理ではなく、私自身で真理を掴んだのだ。知見されていないことに依拠し、

ことごとく反ばくされ、数多の先入観を持ちこんだ教理を私は受け入れはしない。他人の信条によっ

て賢者は動かされはしない。人間は暗闇を盲人に手を引かれてゆく盲人のようなものだ。たとえ私が

真理を見分けえないとしても、善悪が疑われるなら心を善に据えるがよい。その努力が報われないと

しても心の善なる人によってそれはなされねばならない。もしこの神聖な伝統的教義が不確かに思え

れば、信頼するに足る者の言葉をの染正しいものとせよ。信頼するに足るということの意味は過ちが

ないということである。過ちのない者は不真実な言葉を語らないからである。

また家庭に一戻れというそなたの言葉についていえば、そなたのあげた例は権威がない。誓を破った

者をどうして権威として引用できるだろう。太陽が地上に堕ちようと、ヒマラヤが崩れようと、五官
むことはあっても私の悲願が達成されるまでは家には一戻らない﹂

の関心を外界の事物にの象向ける世俗的人間としては私は断じて家には戻らない。たとえ火に飛びこ

断固としたその決意と共に立ち上がった釈尊は、無欲さそのものの姿で去って行った。
やがて力ピラヴァストゥへ引き返した。

釈尊の固い決意の前になす術もない大臣と司祭は涛柁たる涙とともに梢然と後をついていったが、

王子への離れがたい愛着と王への忠誠心に引き裂かれた二人は何度も振り返っては釈尊の方を見送

った。姿は見えなかったがその何人も及ばぬ気高さは太陽のようにいつまでも光り輝いていた。

説得に失敗した大臣と司祭はとぼとぼとよろめきながら互いに咳き合った。

﹁王子をあれほど待ち焦れている王に一体なんといえばいいのだろう﹂

第五章帰依活動の再開

B素朴なバラモンたちの帰依

ラージャグリハに近いグリドラクッタ山麓にバラモンだけの七○家族余りが住む村があった。
第二部一第五章帰依活動の再開

ブッダはこの人びとを帰依させようと出掛け、とある樹陰に坐した。村人は彼の威厳ある様子、そ
しているのか尋ねた。

の姿の気高さを見、周りに集まって来た。やおらブッダは彼らにどの位この山中に住承、何を職業と

﹁我為は三○世代ここに住承、牛を飼っている﹂と人びとは答えた。彼らを何を信仰しているかと

の問いに、季節に合わせて太陽、月、雨、火を拝承供犠を行っていると答えた。
人びとはいった。

﹁もし我々の誰かが死ねば、集まって、ブラフマーのいる天国に生れ輪廻から免れるように祈る﹂

﹁それは正しいやり方ではない。そんなことは無益だ。正しい道は私に従い、誠の禁欲者となり、
語ったc

ニルヴァーナ︵浬梁︶をうるために全き平静さを修めることである﹂そういってブッダは次のように

1 3 1

﹁真実を真実ならざるものと考え、真実ならざるものを真実と考える者は、ただ異端的考えを用い

Z 3 2

るにすぎず、真に前進することはできない。しかし真実を真実と知り、間違いを間違いと知ることは、

全く正しく、真の功徳をもたらすものである。人生到るところに死あり、それから逃れることはでき
そのような真理の中に己れ自身を鍛えることである﹂

ない。生者必滅を全て存在するものの姿として観るなら、またそれ故生死より逃れんと欲するならば、

七○人のバラモンはこの言葉を聴くやいなや即座にサマナ︵沙門︶になりたいと願い、ブッダはそ

れを快諾した。彼らは直ちに引き退がり弟子たるに相応しい姿をととのえ再び現れた。

一行は釈尊の僧園に向けて出発したが、途中残してきた妻子のことが気掛りになった。丁度その時

油然と雨が降りはじめ一行の前進を阻んだ。道端にある何軒かの家のひとつに入って雨宿りをしたが、
こう語った。

激しい雨漏りが生じ、身を守るものもなくずぶ濡れになってしまった。ブッダはその様子を見て早速

﹁屋根がしっかりしていないと雨が漏ってくる。それと同じように思いが注意深く制御されていな

いと、情欲が我らの良い決心を直きに穴だらけにしてしまう。しかし屋根がしっかりしていれば雨は
らを悩ますこともない﹂

漏らない。それと同じように思いが制御されており、慎重に行動するならそのような欲望は起らず我

この言葉を聴いたバラモンたちは、彼らの執着は叱責されても仕方ないものであり、迷いから全く
解き放たれていないことを知ったが、それでも前進をつづけた。 臭のする魚の臓物が落ちており、ブッダはそれにも注意を促した。

道端に何か匂いのする包承が捨てられているのを見、ブッダはそれに一行の注意を引いた。更に悪

﹁低級で下劣なものと交わるものは、悪臭のする物を扱う人のようにその臭いに染まる。彼は益々

駄目になり最後は訳もなく破滅してしまう。しかし賢い人と交わるものは、良い匂いのする物を扱え

ぱその香りが身体につくように賢い人に似てくる。智慧を深め、徳を積み完成の道を進むことで充足
する﹂

七○人のバラモンはこの詩句を聴き、家への未練、快楽への未練が汚点のように染承ついているの
た尊敬さるべき人︶となった。

をさとり、その思いを捨て去り僧園に赴いた。そしてやがてアラハット︵阿羅漢、真人、修行を完成し

ロウヅタラヴァティーのバラモンの帰依

釈尊が、シュラーヴァスティーのジェータ園に住んでいた時、その東方のゥツタラヴァティーとい

う地方に五○○人の寺ハラモンの集団が住んでいた。彼らは、ガンジス河の辺りにいるニルグランタ苦
133第二部一第五章帰依活動の再開

行者のところに揃って出掛けることになった。その行者は汚物その他の異物で身体を稜し仙人になる
うと願っていた。

道の途中、一行は荒野で渇きに襲われた。彼方に木が見えたので人家があるかもしれないとその方 に急いだが生物らしきものの姿はなかった。がっかりして嘆いていると頭の上で声がした。木の精で
に彼の前世を尋ねた。

あっ っ た 。 訳 を 知 る と 彼らにたっぷり飲食物を授けてくれた。バラモンたちは出発にさきがけ、木の精 あ た 。 訳 を 知 る と 鈴
よく尋ねてくれましたと木の精は次のように物語った。

スダッタ長者がブッダに僧園を寄進した時、シュラーヴァスティーの僧侶の集いに彼も出掛け、一

晩中ダンマの教えに耳を傾けた。翌朝帰ると一晩中家を明けて何をしていたのだと女房にひどく怒ら

れた。ブッダの説教を聴いていたのだというと、女房はブッダを罵り、そのブッダは気が触れている。

どうせ人を編して歩く説教師だろうなどと悪たれた。だのに私は女房を叱りもせず小さくなっていた。

7 3 4

それで死んでから精霊にされ、憶病さのせいでこの木に閉じこめられているのだ、といい、幾つかの
詩句を吟じた。

﹁供犠は不幸の源だ。昼も夜も常に負目と不安の種だ。悲しゑから逃がれ、肉体的諸要素を減する

ためには、ブッダの法を傾聴し、世俗の宗教から解放されねばならない﹂ に会い来訪の目的を話すと釈尊はこういった。

バラモンたちはこの言葉を聴き、ブッダのいるシュラーヴァスティーに行くことに決めた。ブッダ

﹁螺髪に裸でいようと、僅かの葉、かもしかの皮をまとおうと、汚物をつけ石の上に臥そうと不純

な思念から逃られはしない。しかし、争わず殺さず、火によって滅ぼさず、勝利をえようと思わず、

この世に対する善意によって立ち上がる者には、悪意や僧しゑが生れる根拠がない。功徳をえんがた

めに、死後の報いを当てにしてなされる供犠は、良き人を尊ぶことの四分の一にも及ばない。善い行
美しさと強さ、そして生命と平安である﹂

いに専念し、他者に正しく敬礼し、年長者を敬う者には四つの幸せな報いが益々増える。すなわち、

第六章低階層者の帰依

日床屋ウパーリの帰依

さて、バッディャたちと別れた床屋のウパーリは帰りながらふと思った〃シャヵ族は狂暴だ。もし

この装身具を持って帰ったら、あの人たちを私が殺したと思い、私を殺すだろう。いっそのことあの

誰若い人たちが辿ったと同じ道を私も辿ろう〃。ウ・ハーリはそう決心すると装身具の包承を木に吊し、︲

却欲しい者は勝手に持ってゆくがいいと咳き、皆の後を追った.ゥ・ハーリが追いかけてくるのを見た若

燦者たちは、どうして一戻ってきたのかと尋ねた。ウ・ハーリは思ったままを語り、若者たちは、よくやつ 低たウ・ハーリ。もし国へ帰ったらきっとお前は殺されていただろうとその気転を誉めた。

請彼らはウ・ハーリを伴い釈尊のところへ行き恭しく礼拝した。そしていった。 第 ﹁我々シャカ族は高慢です。この床屋のウパーリは長年私共に良く仕えてくれました。釈尊よ、何 給卒彼を先きに出家させ入信させてやって下さい。そうすれば私共は彼に対し目上の人に相応しい礼儀

錘と尊敬を捧げ平伏して敬礼しましょう。それによって私共の高慢さも幾らかは減るでしょう﹂ 5 これを聞き釈尊は先ずウパーリを入信させ次に貴族の若者たちをサンガに加えた。 3

1 3 6

目掃除夫スニータの帰依

ラージャグリハにスニータという掃除夫がいた。彼は町の人びとが道端に棄てたご承を掃き集める

道路掃除をして暮らしていた。その仕事は社会的に極めて低い世襲性のものであった。

ある日朝早く釈尊は多勢の供を連れ町へ托鉢に出掛けた。スニータは一生懸命ご承の山を片付けて

いるところだった。釈尊の姿を見かけたスニータの心は喜びと惚れにおののいた。スーーータは身を隠
で呼びかけた。

す所もなく塀の陰にやもりのようにへばりつき釈尊を拝した。近くに来た釈尊はこの上なく優しい声

﹁スーーータょ、こんな惨めな生活をして何になるのかね?家を捨て出家する覚悟をしたらどうか
な?﹂

甘露をふりかけられたような歓喜に燃えスニータはいった。﹁釈尊ほどのお方が僧になられている

のに、どうして私ごときものがならずにおられましょうか。どうか出家をお許し下さい﹂﹁宜しい。

来なさいピクよ﹂尊師のこの言葉でスーーータは出家を許され、托鉢の鉢と衣を授けられた。 う修練によって人は清らかになる﹂

尊師はスニータを僧園へ導き、ダンマと修練を説いていった。﹁清純な生活、自己抑制と統御とい

スニータがどうしてあれほど立派な人間になったのかと人に問われた時、釈尊はこう答えた。
の子供は生れるのだ﹂

﹁道端の芥溜にも美しい百合が咲き、芳しい薫りを放つように、つまらぬ世俗の者の中にもブッダ

白不可触民ソーパーカとスヅピヤの帰依

ソーパーカはシュラーヴァスティーの。ハリァ︵不可触民︶であった。彼の母は出産の際人事不省に

なり人びとは死んだと思い込拳、墓地へ運んで茶毘に付そうとした。しかし俄かに暴風雨に見舞われ

火の消えた薪の上に彼女を置いて帰ってしまった。ところが彼女は死んでおらず、薪の上で出産して

死んだ。墓守はソー・ハーカを拾い上げ息子のスッピャと共に育てた。

ある日釈尊が墓場を通りかかった折、ソー・ハーカは釈尊の弟子にして欲しいと願った。ソー・ハーカ

はまだ七歳の少年だったので釈尊は父親の承諾をうるようにいった。ソー・ハーヵは父親を連れてき、

父親は彼を僧団に加えてやってくれと頼んだ。ソー。ハーカは.ハリア・カーストであったにも拘らず釈

尊は彼を僧団に入れてやり教えを説いた。彼は後に長老にまでなった。

スッピャは共に育ったソー。︿−力から釈尊の教えを聴き自分より階級の低いソー・︿1力に僧団に入

れて欲しいと頼んだ。スッピャも墓守という軽蔑されたカーストであったがビクとなった。

砺画スマンガラと低カースト民の帰依

罷スマンガラはシュラーヴァスティーの農夫であった。チャンナは力ピラヴァストゥの生れでスッド 低Iダナ王の奴隷であった。ダンニャはラージャグリハの住人で陶工であり、カツ・ハタ・クラはシュラ

鍔−ヴァスティーの生れで物乞いをして暮らしていたので〃カツ。︿タ。クラーぼろと米″と呼ばれた。

毒長じて刈草売りをしていた。ブッダはこれらの人びとの生れや生活振りなどいささかも気にすること 部な く 僧 団 に 受 け 入 れ 弟 子 に し た 。

第国頴を病むスヅパブッダの帰依
7 3

釈尊がラージャグリハ近郊の竹林にある栗鼠飼育所のある所に住んでいた時、スッ。︿ブッダという

1 3 8

瀬を病む哀れな男がいた。

ある日のこと釈尊の説教を聞こうとする多勢の聴衆を見、スッ・︿ブッダは食物にありつけるいいチ

ャンスだと思った。近寄って承ると群衆の真中で釈尊が説教をしており食物の布施になどとても預か

りそうもない雰囲気であった。スッ・︿ブッダは物乞いを諦らめ説教に耳を傾けた。釈尊は並入る聴衆

の中で誰が私の教えの真意を把握できるだろうと、心眼によって見分けようとした。そしてスッ。︿ブ

ッダの姿を見、この者こそ真理を掴めると見抜かれた。そこで釈尊は彼のために、布施、清らかな生

活、天上界のことなど順を追って説き、欲望の卑しさ、害悪、煩悩からの解放の功徳を指摘した。釈

尊はスッ・︿ブッダの心が柔らぎ、解放され生き生きとして信ずる気持で一杯になっているのを見、ブ

ッダの最高のダンマ、即ち苦、苦の原因、苦の止滅とそれに到る道を説いて聴かせた。純白の布が速

かに染まるように、汚れなき真理の内観が生じ、初めある全てのものは必ず終りがあるというさとり

が生れた。そしてスッ。︿ブッダの中に真理への眼が目覚め、真理を観、真理に到達し、知覚しその中

に没入し、迷いを越え全ての疑問から解き放たれ、釈尊の教えに確信を抱き、それ以上何も必要とし

なくなる状態が生じた。スッ。ハブッダは今や恐れることなく立ち上がり釈尊の傍に座していった。

﹁おお素晴らしい、主よ、素晴らしい。主は倒れた者を起こし、隠されたものを見出すように迷え

る者に道を示し、暗闇に光を示される。〃さあ視る眼ある者は見よ″といわれ様々な方法で真理を説

かれた。主よ、私奴の如き者すら釈尊におすがり申し、ダンマと僧団におすがり致します。何卒主よ

私を信者として今より死に到るまで帰依し奉る者として受け入れて下さい﹂

釈尊の教えに確信を抱き、高められ至上の喜びに酔ったスッ。ハブッダは厚く礼を述べ立ち去った。
まった。

ところが不幸なことに喜びに満ちて帰る途中スッ。ハブッダは若牛に突き刺され無残にも殺されてし

第七章女性の帰依

日マハープラジャーパティー、ヤショーダラーと侍女たちの帰依

釈尊が父王を訪ねた時、シャカ族の男たちと同様女たちの間でも釈尊の僧団に加わりたいという熱

心な願いがあった。その先頭に立ったのは誰あろう釈尊の義母マハープラジャー。ハティーであった。
第二部一第七章女性の帰依

彼女は再三女性も出家しサンガに入れて欲しいと懇願したが、その都度とんでもないことだと釈尊に
拒絶された。

マハープラジャー・︿ティーの悲嘆は大きかった。釈尊が去った後、彼女を中心にシャヵ族の女性た

ちは鳩首し、どうしたらサンガに入れてもらえるか知慧をしぼった。彼女たちには釈尊の拒否がどう

しても絶対的なものとは思えず、思い切った手段に出た。マハープラジャー・ハティーは髪を切り黄色

い衣をまとい多勢の女性を引き連れ、ヴァイシャーリーの僧団にいる釈尊に会いに出発した。
寵象

マハープラジャー・ハティー一行は長旅の汗と挨りにま染れ腫れ上った足を曳きずり、重閣堂にいる

釈尊に見えた。それでも釈尊の答えは変らなかった。マ︿−・ブラジャー・ハーアィーは途方に暮れ会堂の

1 3 9

外に立って泣くばかりであった。そこへ釈尊の従弟のアーナンダが現れ、伯母の変り果てた姿に驚き

事情を問うた。事の一部始終を聞いたアーナンダは深く同情し釈尊に訊意を求めた。それでも願いが

1 4 0

聞き入れないのでアーナンダはその理由を尋ねた。

﹁尊師よ、あなたが女の人を出家させない理由は一体何なのですか?あなたもよく御承知のよう

にハラモンたちはシュードラと女性は不浄で下等だから解脱できないと称し、それを理由に出家を拒

んでいます。釈尊もそれと同じ考えをお持ちなのですか?しかし釈尊は尋ハラモンたちと同様シュー

ドラに出家を許しサンガに加えてやっているではありませんか。女性だけどうして区別するのです?

女性は釈尊の説かれる教義と戒律の下に混渠に到達できないとお考えなのですか?﹂

﹁アーナンダミ誤解してはいけない。私は女も男たちと同様浬梁に達しうると考えているし、性

的差別を立てているのでもない。ただ実際問題で難しいから反対しているのだ﹂と釈尊は答えた。

﹁分りました、釈尊。しかしそのことでマハープラジャー・ハティーの願いを拒否しなくてはならな

いのでしょうか。それはかえってダンマヘの信頼を失わせ、性的差別を立てているという攻撃をまね

くことにはなりませんか?そのような問題を解決する規律を作って承てはいかがです?﹂

﹁宜しい、アーナンダ。もしどうしても彼女が出家したいというなら八つの戒律に彼女自ら率先し

て従うという条件で許可してもいい﹂これを聞いたアーナンダは早速マハープラジャー。︿ティーのと

ころに行って話した。彼女は即座にその条件をの承生涯八つの戒律に従うことを誓った。

かくてマハープラジャー・︿ティーは戒を授かり五百人の侍女たちも共に入団を許された。この中に

はヤショーダラーもおり、出家後、彼女は奇ハッダッヵッチャーナーと称ばれた。 。低力lストの娘プラクリティの帰依

釈尊がシュラーヴァスティーのジェータ園に住んでいた時のことである。ある日アーナンダが町に

托鉢にゆき、食事を終え川へ水を飲承に行った。川辺りで水がめに水を汲んでいる娘を見かけたので

水を所望した。プラクリティというその娘は自分はチャンダーラ︵不可触民︶の身分だからといって
断わった。

﹁私は水が欲しいのであって、そなたのカーストなど気にはしていない﹂とアーナンダはいい、娘

は安心して水を与えた。娘はジェータ園に帰るアーナンダをつけ、彼の名と居所と、ブッダの弟子で

あることを知った。家に一戻ってから彼女は母親にその日のことを話しさめざめと泣き出した。そして

結婚するのならあの人以外は絶対いやだといい張った。母親のマータンギーは事実を調べにゆき、帰
まった。

るとあの人は出家の身で独身を誓っているから結婚は無理だといった。娘は悲観の余り食を断ってし

﹁おかあさん、あんた呪術を知ってるだろ。どうしてそれであたしの望象を叶えてくれないのよ﹂
と娘はせがんだ。

﹁そうだね、ひとつやって承るか﹂
第七章女性の帰依

娘の身を案じたマータンギーはアーナソダを食事に招くことにした。そんなこととは知らず招きに

応じてやってきたアーナンダにマータンギーは、娘が死ぬほど彼に焦がれているから一緒になってく
と告げた。

れと頼んだ。当然アーナンダは戒を破ることになるからと断り、母親は奥にゆきやっぱり駄目だった
﹁かあさん、魔法は一体どうしたのよ﹂娘は叫んだ。

第二淵

﹁タターガタ︵さとりをひらいた人︶には私の魔法なんか通じやしないよ﹂母親はいった。

﹁扉を閉めてあの人を外に出さないで。今夜どんなことがあってもあの人と一緒になるんだから﹂

1 4 1

娘は泣きわめいた。母親は仕方なく娘のいう通りにし、夜になるとアーナンダのいる部屋に寝床を持

ちこ承、着飾った娘がそっと入ってきた。しかしアーナンダは微動だにしなかった。母親は遂に魔法

r 4 2

を用い部屋を火で包承彼の袖をつかんで脅迫した。﹁もしあんたが娘を嫁にしてくれないんなら、こ

の火の中にほうり込んでやる﹂それでもアーナンダがびくともしないので、二人は根負けし彼を帰ら

せるしかなかった。アーナンダは一戻ってから釈尊に事の一部始終を語った。

翌朝、娘は再びジェータ園に現れアーナンダを探した。たまたま托鉢に出掛けようとしていたアー

ナンダは娘の姿を見、彼女から避けようとしたが、娘は何処までも彼の後を追ってきた。ようやく彼

女から逃れ、托鉢をすませて帰ってくると、娘は彼の僧房の前で待ちうけていた。閉口したアーナン

ダはそのことを釈尊に話すと、釈尊は娘を呼びにやった。何故そうしつこく彼につきまとうのかと釈

尊が尋ねると娘は、彼と結婚したいのだ。〃あの人は独り者だし、私もそうだから″といった。

﹁アーナンダはビクだよ。見てごらん頭を丸めているではないか。お前も頭を剃って承るかね。そ

れからまた考えてゑようではないか﹂釈尊がいうと、﹁はい、そうします﹂娘は即座に返事した。

﹁そうか。それなら剃髪の式をしてもいいかお母さんの許しをもらっておいで﹂釈尊はいった。

娘は母親のところへ飛んで帰り、﹁おかあさん、あんたがやれなかったことあたしやってのけたよ。

寺ハァガヴァン︵尊師︶が、頭を剃ったらアーナンダの嫁にしてやるっていったんだ﹂母親はそれを聞

くと怒り出して娘を叱った。﹁お前は私の娘だよ。髪は生やしてなくちゃいけない。どうしてアーナ

ンダのような坊さんとそんなに結婚したがるんだい。私がもっといい男を見つけてやるよ﹂

﹁あの人と一緒になるか、さもなけりや死んでやる。他の男なんか真平よ﹂娘は叫んだ。﹁なんて

娘だろうね、お前は﹂﹁あたしが可愛いいんならあの人と一緒にさせておくれよ﹂娘は何をいっても
んの通り丸めてきましたと告げた。

聞き入れず、母親はとうとう娘の頭を丸めてやった。娘は坊主頭でいそいそと釈尊の前に現れ、ごら

﹁で、何が欲しいのかね。あの男のどこがそんなに気に入ったのだね?﹂釈尊は尋ねた。

﹁あの人の鼻も、口も耳も、声も、眼も、歩き方も何もかも大好きなんだもの﹂

﹁良くお聴き娘さん。眼は涙の巣、鼻は汚水の巣、口は唾の巣、耳も汚れの巣だし、鉢はそれこそ

糞尿のかめ承たいなものなんだよ、男と女が一緒になると子供ができる。しかし誕生は死でもあるの

だ。死ねば悲し承がある。娘さん、アーナンダと一緒になって何がえられると思っているのか私には

少しも分らないんだがねえ﹂その言葉に娘は考え込んだ。そしてこれほど熱心に求めていたアーナン

ダとの結婚に何の目的もなかったことに気づいた。娘は釈尊を拝礼していった。

﹁私の無知ゆえにアーナンダ様を追いかけていたのです。今やっと目が覚めました。私は暗礁に乗

り上げた船の水夫のようでした。私は、自分を守ってくれる人がやっと見つかった無力な年寄りのよ

うです。あなた様の有難いお言葉で眠りからようやく目覚めました﹂

﹁そなたに祝福あれ、プラクリティよ・そなたはチャンダーラの娘だが、貴族たちの模範となるだ
143第二部一第七章女性の帰依

ろ う。 。バ ・ ハ ラ モ ソもそなたから教えられよう。正しい道を真直ぐ進むならばそなたは王妃たちにも優る ろう ラ モ ン 副
人になるだろう﹂

結婚こそできなかったが、彼女はビクニの道をためらうことなく選び、許された。

1 4 4

第八章罪人たちの帰依

㈲盗賊アンゲリマーラの帰依

コーサラ国王パセーナディの領地に、アングリマーラという甚だ狂暴な悪党がいた。村という村、

町という町は彼によって荒され見る影もない有様となった。殺めた人間の指を切り落とし、それを首

飾り代りにぶら下げているので〃指の首飾り″という異名をとったほどである。

シュラーヴァスティーのジェータ園にいた時、この話を聞いた釈尊は彼を改心させてやろうと思い

立った。そこである日釈尊は着替えと托鉢の鉢だけを持ち瓢然と旅立った。

アングリマーラが出没する地帯に近づくと誰もがそちらには行くなと制止した。﹁何十人もが集団

でここを旅しても、あのアングリマーラの手に掛ってしまう。止めなされお坊さん、この道は危険で

す﹂しかし釈尊は黙々と進んだ。やがてアングリマーラは釈尊の姿を見つけ驚いた。何十人もの群で

さえこの道を通ろうとしないのに、あの坊主はたった一人で進んでくる。ふむ、小績な奴め、殺して

やるわい。アングリマーラはそう思って釈尊の後をつけ始めたが釈尊は普段の。ヘースで歩いているの

に彼は全力で追いかけても追いつけない。〃これは只事ではない。これまで象だろうと馬だろうと、

馬車でも鹿でもどれほど奴らが頑張っても必ず追いついたものだ。だのにこんなに急いでもあの坊主

には追いつけない〃彼は業を煮やし大声で〃止まれ″と叫んだ。釈尊は足を止めて待った。

﹁お前のために立ち止まったのだよ、アングリマーラ。お前も悪事を働くのを止めたらどうかね。

私はお前を正しい道に導こうとしてやってきたのだ。お前の内の善なるものはまだすっかり死に切っ

てはいない。もしそうしたいと決心すれば生れ変ることもできるだろう﹂

自若たる釈尊から発せられたこの言葉にアングリマーラは圧倒され内心思った。〃とうとうこの聖

者に掴まったということか〃 ﹁あなた様のお言葉でやっと悪事を止める気になりましたわい﹂そういうなり彼は〃指の首飾り″

を深い谷底へ投げ捨て、釈尊の足下に平伏した。 ﹁宜しい、施しを受ける人よ、私について来なさい﹂と釈尊はいい、その時からアングリマーラは
第八章罪人たちの帰依

施しを受ける人となった。釈尊がアングリマーラを従者としてシュラーヴァスティーの僧園に向って
ある朝.ハセーナディ王が釈尊の僧園を訪れた。

いる丁度その頃、群衆が城門に押しかけアングリマーラを逮捕しろと騒いでいた。

﹁どうしました王よ。マガダのピンピサーラ王か、ヴァイシャーリーのリッチャヴィ族、それとも
別の敵と面倒なことが起ったのですか?﹂釈尊は尋ねた。

﹁いやそんなことではありません。私の領地にアングリマーラという盗賊がいて領民を悩ましてい

るのですが、まだ捕えられないので困っているのです﹂王はいった。

145第二部

﹁もしその盗賊が頭を丸め僧となり、人を殺めず、盗まず、一日一食しか摂らず、徳と善に満ちた

清らかな人生を送ろうとする遊行僧となってあなたの前に現れたら彼をどうなされます?﹂

﹁もしそうなら、彼に敬礼し、側に坐らせ衣と必要な物を与えてやりましょう。また当然そのよう

な人物が受けるべき保護と安全を保証してやります。しかしあれほど邪悪で腐り切った者にそんな美

i I 4 6

徳が備わりましょうかな?﹂

この時、釈尊は近くで静かに坐っていたアングリマーラを指さし、﹁これがそのアングリマーラで

す﹂といった。これを聞くや、王は真青になり総身の毛を逆立て口もきけなかった。

﹁王よ、恐れなさるな。ここには恐れの原因などありません﹂と釈尊は王を宥めた。王はやっと安
﹁いかにも左様です﹂

心しアングリマーラの方にゆき﹁そなたは本当にアングリマーラなのか?﹂と尋ねた。
﹁そなたの父方と母方は何という?﹂ ﹁父方はガッガ、母方はマンターニーと申します﹂

﹁そうか、でかした。今後お前の面倒は私が一切見てやろう﹂王は満足気にいった。しかしアング
の申し出を辞退した。

リマーラは荒野に住承托鉢で暮らし、三枚のぼろ衣だけで過すことを誓った身であることを理由に王
王は釈尊の側に坐りいった。

﹁いやお見事です。尊師は飼い慣らせないものを慣らす人であり、鎮められないものを鎮めなされ

る。私が武器で従えさせられなかったものを、武器なしで従わさせた。全く敬服の限りです﹂ 王は釈尊に深い敬意を捧げ立ち去った。

ある日、赤褐色の衣を着、手に托鉢の鉢を持ってアングリマーラがシュラーヴァスティーの町へ出

掛けると土塊、棒切れ、瀬戸物の破片などが次々と投げつけられた。頭から血を流し、鉢は砕かれ衣
耐え抜くのだ″といった。

はぽろぽろになったアングリマーラが来ると、釈尊は彼を側へ呼び寄せ、〃一切を耐えよ。ひたすら

かくて大盗賊アングリマーラは義の人となった。心を開かれた歓びを彼はこういって表わした。

﹁情熱のないところに情熱を生み、過去を美徳で覆い隠し、若くてブッダにすがる人は、月のよう
に光りで地面を洗う。

わが敵をしてこの福音を聴かしめ、この教義を受け入れしめ、智慧に拠る人びとに従わしめよ。わ

が敵をして時宜をえた、柔和な忍耐を説く愛の言葉を聞かしめ、彼らの生活をそれに一致せしめよ。
私は血の海に浸っていたが、今私は救われた﹂ 自他の罪人たちの帰依

私は〃指の首飾り″と呼ばれこの世をさまよい、ブッダによって救われた。〃指の首飾り″として

ラージャグリハから南に百キロ余り離れたところに大きな山があり、その山を抜ける深い淋しい山
第八章罪人たちの帰依

道は南インドに通じていた。この谷間には五百人の盗賊が幡眠し旅人を襲った。王は度煮兵を差し向

けたが捕えることができないでいた。 ブッダはこの盗賊のことを聞き及び、彼らの眼を開かせてやりたいと思った。そこでブッダは裕福

な身なりに変え、美しく飾った馬に金銀をぎっしりつめた袋をくくりつけ、剣と弓を携えて出立した。

峡谷に入ると馬が大きくいなないた。その声を聞きつけ盗賊たちは色めき立った。そんな素晴らしい
だ一体これは、彼らは口為に怪しんだ。

獲物は久し振りだった。だが、ブッダを包囲し突き進もうとしたとたん全員が転んでしまった。なん

147第二部

ブッダは唖然としている賊たちに向って諒々と論した。お前たちが互いに傷つけ合っている傷など

この世を支配する悲嘆、不信、疑いがもたらす傷と較べれば何程のこともない。この傷を癒すには信

仰の教えに耳を傾けそこに救いを見出すより他に道はない。そして次のような言葉を語った。

﹁悲し承ほど深い傷はなく、愚かさほど鋭い矢はない。この傷を癒すものはわが教えに耳を傾ける

1 4 8

他方法はない。それによって盲いは眼が見え迷いし者は目覚めるであろう。たとえ眼がなくとも、こ

のことによって眼がある如く人は教えられ導かれる。それは不信を追い払い悲し承を除き喜びを分ち 合う。最高の智慧は〃聴こう″とする人びとのものである﹂

これを聴き盗賊たちは前非を悔い、身体に深く突き刺さっていた矢がとれ傷が癒えた。そして彼ら はブッダの弟子となり平安と安心をえた。

ラージャグリハから二五○キロ余り離れた山国にブッダが住んでいた時のことである。この山中に
ような言葉を語った。

一二二人の狩猟族が住んでいた。ブッダは男たちが狩りにいっている留守に女たちを帰依させ、次の

﹁慈悲心のあるものは生き物を殺さない。生き物を殺さない人が慈悲心ある者である。そうである

ことによって自らの命を保つことが出来る。この原則は不滅であり、それを守るものには、災いはふ

りかからぬであろう。親切であり、俗世のことに無関心で誰をも傷つけず迷惑をかけないこと。これ

がプラフマー神の特徴である。弱い者に慈愛を抱きつづけること。ブッダの教えに従って清らかであ

ること。足ることを知り、止める時期を知ること。これが生死の輪廻から逃れる道である﹂
ッダの言葉に耳を傾け共に帰依した。

この言葉を聴き女たちは帰依し、帰ってきてブッダを殺そうとした男たちを制止した。男たちもブ

﹁慈悲をもち、生きとし生けるものに優しくするものには一一の功徳がある。健康と安眠をえ、学

んでいる時落着いていられる。悪い夢を見ず、神に守られ人に愛される。邪悪なことに災いされず戦

さの暴力から逃れられ、火や水の害から守られる。どこにいようと成功し、死ねばブラフマー神の世 界に達する。これが一一の功徳である﹂

この言葉を聴いた後、男も女も弟子として加えられることを許され安心をえた。

149第二部一第八章罪人たちの帰依

第三部

第一章ダンマにおけるブッダの位置

第三部一第一章ダンマにおけるブッダの位置

Bブッダはダンマの中で特定の位置に自らを置いていない

キリストは予言者と宣し自ら神の子といい、それを認めないものに救いはないとした。かくてキリ
ることによって自らの位置を定めた。

ストは、自己を予言者、神の子として受け入れるかどうかにクリスチャンの救済がかかっているとす

イスラム教の予言者モハメットは神によって遣わされた予言者であると自ら宣した。更に彼は二つ

の条件を受け入れるものの象が救われるとした。即ちイスラム教に救いを求める者はモハメッドを神

の予言者として受け入れ、彼が最後の予言者であることを受け入れねばならない。モハメッドは自ら

の位置と救済は彼を神の予言者として認めるかどうかにあるとすることで確かなものとした。

ブッダはこのような条件を全く定めなかった。彼はスッドーダナとマハーマーャーとの間にできた

普通の人間以外の何者でもないといった。ブッダはキリストやモハメッドのように彼を救済者と見倣

すという条件を設けることで自分を自分の宗教の特別な位置におかなかった。このためあり余るほど

1 5 3

の資料がありながらブッダ自身について我々はほんの僅かしか知らないのである。

ブッダの死後間もなくラージャグリハで仏教徒の第一次結集が開かれた。カッサ。︿が集会を司会し、

1 5 4

アーナンダ、ゥ。ハーリその他多勢のカピラヴァストゥ出身のもの、また彼が行くところには常につい て歩き回り、死の時まで行を共にしたものたちが出席した。
カッサ。︿はそこで何をしたのだろう?

彼はアーナンダにダンマを繰り返し読諦させ、これでよいかと会衆に尋ね、確認をえた。次にウ・ハ ーリに戒律を繰り返し読諦させこれでよいかと尋ね、確認をえた。

カッサ・︿は三番目に誰かにブッダの生涯の重要な出来事を記録するよう計って承ればよかったのに、

彼はそれをしなかった。サンガに係わるものとして彼が考えたのはこの二つの問題でしかなかったの

である。もしカッサ。︿が記録を集めていれば今日我有はブッダの立派な伝記を手にしていたろう。だ

が彼はどうしてそうしなかったか?この疑問は重要である。唯一の答えは、ブッダが自らを何ら特

定の位置に置かなかったからである。ブッダと彼のダンマとは全く独立したものである。ブッダが自
度も後継者を決めるよう求められたがその都度拒否した。

分を自分の宗教と分けているもうひとつの証拠は、後継者を決めなかったことにもみられる。彼は何

﹁ダンマこそがその後継者である。原理はその原理自体によって生きつづけるべきであり、特定の

人の権威によってではない。もし原理が人の権威を必要とするならそれは原理ではない。もしダンマ

の権威を強調するために常に開祖の名を借りねばならぬのならそれはもはやダンマとはいえなと 自らのダンマに対する自分の位置を彼はこのように考えていたのである。

。ブッダは救いを約束しなかった。彼は自らを求道者と呼び救済者とはいわなかった

ほとんどの宗教は天啓として述べられている。しかしブッダの宗教は天啓ではない。啓示的宗教と

峰創造主の被造物l造物主を崇拝し魂の救済を求める者たちlに対するメッセ︲ジであるが故

にそう呼ばれる。屡有このメッセージは、そのメッセージが啓示され、それを人びとに啓示する予言

者と呼ばれる特別に選ばれた人物を通して送られる。予言者の義務は信︵仰︶者の救済を約束すること

である。信︵仰︶者の救済とは、彼らが神の命に従い予言者を神のメッセンジャーと認めるなら地獄へ

送り込む代りに魂を救ってやる、ということだ。ブッダは自分が予言者だとも神のメッセンジャーだ

とも決していっていない。彼はそう呼ばれることを断乎拒否した。そして更に大事な点は、彼の宗教

が発見であるということである。天啓といわれる宗教とははっきり区別さるべきである。彼の宗教は、
155第三部一第一章ダンマにおけるブッダの位悩

現実的人間の生活状態の探求、人間が生れ落ちた時から持っている本能の働き、歴史や風俗習慣の所

産として人が形成し、マイナスにも働く本能及び性向の型などへの深い洞察の結果生じた発見なので

ある。全ての予言者は救済を約束した。ブッダはそのような約束をしなかった一人の教師である。ブ

ッダは、救済者と求道者とを鋭く区別した。彼は求道者に過ぎず、救済は各人が各自の努力で求める

べきものである。彼はこのことをバラモンのモッガラーナに次のように明らかにしている。

釈尊がシュラーヴァスティーの東の園にあるミガラの母の家に滞在していた時、バラモンのモッガ
ッラーナが訪ねてきた。モッガッラーナは釈尊にこういった。

﹁尊師ガウタマよ、この重層家屋の眺めのように、段階を追って階段の天辺に達するように、我食

バラモンも順を追って向上します。つまりそれがヴェーダを学ぶ道筋です。弓の訓練のように我煮・ハ

ラモンの訓練は数を数えるように一歩ずつ前進します。一掛ける一、二掛ける二、三掛ける三、四掛
的訓練をなされるのですか?﹂

ける四、百掛ける百という風に生徒に教えます。尊師ガウタマきあなたの弟子にもこのような段階

﹁その通りですバラモンよ。良い馬を引き受けた調教師は先ず、は承と手綱を覚えさせ次の訓練へ

1 5 6

進ゑます。ターターガタ︵全き人︶もそれと同じで、訓練に価する人を引き受けこういいます。さあ

兄弟よ、徳を磨きなさい。耐え忍びなさい、義務の束縛によって自制しなさい。正しい行為を行うこ

とに熟達し、つまらぬ過ちにも危険を知り、道徳の士となりなさい。これらを全て完遂したら次はこ

う教えます。対象をその一般的形や細部に惑わされずしっかりと直視することです。渇望によって、

抑制を失った視覚によって起る、洪水のように人を圧倒するこれらの悪い状態から生じる動揺を抑え

ることに固執しなさい。視覚に用心し、視覚の統御を覚えなさい。他の感覚器官についても同様です。

耳、鼻、舌、触覚などの器官を用いる時も同じように対象をその一般的な形あるいは細部に惑わされ

ず、注意深く物事を知覚することです。それが完遂できれば次に進ふます。食事を節制しなさい。真

面目に注意深く食事しなさい。面白半分や放窓な食べ方をせず、容姿や美容のために食べないで、身

体を健康にし、しっかりと支えるために、病気にかからないため、正しい生活を維持するために食べ
生れず、持続と慰めが自分のものとなっている、と。

ることです。そしてこう思います。私は以前の感じを吟味してみよう。そこにはなんら新しい感じも

次に心の清浄を保つために歩くときも坐っている時も夜も昼も心の見張りを怠らないことです。夜

右脇を下に獅子の姿勢で臥すときも一足歩く毎に心を留め、感情を抑制し、思念を心身の働きという

ものに置くことです。このように心の見張りに没頭したなら次は、自己統御を我がものとすることで

す。前へ行くときも後へ行くときも自己を統御しなさい。前を後を見るとき、しゃがんだり寛ろいだ

りするとき、衣を着たり衣や鉢を運んだり、食べたり噛んだり味わったり、歩いたり立ったり坐った

り横たわったり眠ったり話したり黙ったりするときも自分を統御しなさい。

このように自己統御を会得したら全き人はこのように次の訓練をいいつけます。さあ兄弟よ、人里

離れた棲家、森や木の根元、山や洞窟、墓場、森の隠家、野っ原、藁山の上などを探しそこで暮らし

なさい。食事をしたら結伽鉄坐し上体を真直ぐ伸ばし四つの法悦へ進承なさい。

これが弟子たち全てへの、心の統御をまだ会得していないものへの訓練法です。しかし阿羅漢であ

る兄弟、煩悩を減し、任務を完遂し負目を捨て自分の救いをかちえ、再生の束縛を完全に滅ぼし完全
役立つでしょう﹂

な内観によって解き放たれた人にとって、これらの事柄は生きることを容易にし注意深い自己統御に
これを聴いたモッガッラーナはいった。
第一章ダンマにおけるブッダの位置

﹁釈尊という偉大な教師がおりながらどうしてある者は浬渠に達し、ある者は達しないのでしよ

L一

﹁バラモンよ、あなたはラージャグリハへの道に詳しいでしょう。あなたが誰かに道を教えてやっ

たとしてもその人が間違った方向に行ったらどうします。別の人に同じことを教え、その人が教えら
全き人タターガタとはただ道を示す人のことです﹂

れた道をきちんと辿ればラージャグリハに無事に着くでしょう。それが私のやるべき仕事なのです。

ここに彼は救済を約束していないということが明白に述べられている。彼は道を示すだけなのだ。

では救済とは何なのか。モハメッドとキリストの場合、救済とは予言者の取り成しで魂を地獄へ送ら る。このようなダンマにどのような救いが約束されうるのか?

ず救ってやるということを意味する。ブッダの救いとは、浬梁であり、浬盤とは情念の全き統御であ

157第三部

白ブッダは自分自身とそのダンマに神性を求めなかった。それは人間による人間のための発見であり
天啓ではない

1 5 8

いかなる宗教的開祖も自分あるいは自分の教えに神性を要求する。モーゼは彼自身に神性を求めな

かったが、彼の教えには神性を要求した。彼は信者たちに、もし乳と蜜の国へ行き着きたければ、エ

ホバの教えである自分の教えを受け入れよといった。キリストは自ら神の子を名乗り、当然ながらそ

の教えは神性なものとされた。クリシュナは神そのものだといい、ギーターはその神の言葉だといつ

ブッダは自分自身にも自分の教義にもそのような要求をしなかった。彼は、自分は諸交の人間の一

人であり自分の教えは人間に対する人間の言葉なのだと明言した。彼は自分の言葉の不謬性など決し

て求めなかった。彼が求めたのは、彼の言葉は彼のさとった救済に到る唯一真実の道だ、ということ

であった。そしてそれは人間の普遍的経験に基づき、誰しもがその教えに疑問を持ち、確かめどのよ
した開祖はかつて存在しない。

うな真実が潜んでいるかを見出すことができるものだといった。自分の宗教をかくも大胆な挑戦に晒

第二章ブッダのダンマに関する諸説

159第三部一第二章ブッダのダンマに関する諸説

S他の人びとはブッダの教えをいかに解したか?

ブッダの教えとは何か?これに対して仏弟子、仏教研究者たちの意見は各人各様といえる。 ある者にはその根本的教えはサマーディ︵三昧︶であり、ある者には内観︵顕示︶であり、ある者に

は密教的、あるいは顕教的であり、ある者には無内容な形而上学、全くの神秘主義、現世からの独善
きものである。

的逃避、あるいは一切の衝動、感情の組織的抑制である、といった具合にその意見の多様さは驚くべ

これらの中にはある特定のことに好承をもつものがある。それは三昧、内観、密教を仏教の本質と

観る人びとのものだ。その他の見解の多くは古代インド歴史学者のものが圧倒的で、その仏教研究は
化人類学者ですらない。

付属的で偶発的なものである。あるものは仏教研究者ともいえず、宗教の起源や発展を主題とする文

そこで挙がってくる疑問は、ブッダは何らの社会的教訓を残していなかったのだろうかという点だ。

人は二つの点を上げる。不殺生と平和だ。ではブッダは正義、愛、自由、平等、友愛を教えたか?

カール・マルクスに答えているか、などについてはどうなのか?このような疑問はブッダのダンマ

1 6 0

を論議する中でほとんど取り上げられてこなかった。しかし私はブッダはこれらの質問に答えている
と思う。ただ現代の著作者に蔑ろにされているだけなのだ。

ブッダはダンマを幾つかに区分けして扱っている。最初の範鳴をダンマと呼び、ダンマと呼んでい

るが実はアダンマ︵非ダンマ︶であるという新しい範鳴をこしらえ、サッダンマ︵正ダンごと彼が呼
三つのダンマ、アダソマ、サッダンマを理解せねばならない。

んだ第三の範鳴を設けた。この第三の範鳴は別名ダンマ思想という。彼のダンマを理解するにはこの

第三章ダンマとは何か

B清らかに生きることがダンマである

第三部一第三章ダソマとは何か

三つの清らかな形がある。身体の清らかさとは、殺さず、盗まず、罪を犯さぬことである。言葉の 清らかさとはいかなるものか?虚偽を犯さぬことである。心の清らかさとはいかなるものか?も し性的欲望を抱いている僧がいるとすれば彼はそれに気づいている。そのようなものを抱いていなけ

れば彼はそれにも気づいている。彼はまた未だ生じていない性的欲望がいかにして生じてくるかも知

っている。その欲望が生じたときどのように断ち切り、将来においてそのようなものがいかにして生

じないかを知っている。もし悪意を抱くなら、自分の中に悪意がある、ということに気づいている。

またそれがいかにして生じ、いかにしてそれを断ち切り、将来においていかにして再び生じないかを

知っている。もし怠惰と無気力さ、興奮と動揺を抱き、疑心と迷いと負欲を抱いていれば、彼はその
を知っている。これが〃心の清らかさ″である。
〃罪を洗う人″と呼ぶ。

ことを知っている。またいかにしてこれらのことが生じ、断ち切り、将来再び生じないかということ

7 6 1

身体、言葉、心が清らかなものは、罪なく汚れなく清らかさによって祝福されており、人びとは

7 6 2

五つの弱点がある。それらは鍛錬の妨げとなる五つの原因である。その五つとは何か?生命を奪

うこと。自分のものでないものを奪うこと。淫欲、悪行、嘘言、人を怠惰にさせる飲酒に耽けること

である。これらが人を過ちに導く五つの弱点、原因である。この五弱点が除かれれば、四つの念いが
れる渇望と不満を克服する。

生じる。ここにおいて僧は身体を身体として凝視しつづけ熱心に注意深く感情を抑制し、この世に溢

彼は同様にして感情を感情として凝視しつづけ、心を心として考えを考えとして凝視しつづけ、熱

心に注意深く己を抑制し、この世に溢れる渇望を不満を克服する。鍛錬の妨げとなるこの五つの弱点 の原因が取り除かれれば、これら四つの念いが生じる。

三つの過ちがある。道徳と心と見解におけ為過ちがそれである。道徳的過ちとは何か?生命を奪
お喋りをすることを道徳的過ちという。

い、盗承、性的欲望を邪しまな行為で満たすこと、嘘言者、中傷する者、罵言を吐くこと、つまらぬ 心の過ちとは何か?寅欲と悪意を抱くことである。

見解の過ちとは何か?布施、献身、供物に功徳はなく、善行悪行には報いも結果もなく、現世も

あの世もなく、父母もなく自然な誕生もなく、頂上を極め、完壁を極め、自らの自発的努力で彼岸に

達した僧もバラモンもいないという堕落しねじ曲った考えを持つものがいるとすれば、それが見解の
れはこの三つの過ちのせいである。

過ちである。生けるものが死後その体が分解し、塵となり悲哀、破滅、煉獄に再び生れるとすればそ

三つの成功がある。即ち道徳的、心の、見解の成功である。生命を奪わず、その他つまらぬお喋り

をせず罵言を吐かぬのが道徳的成功である。心の成功とは寅欲と悪意を抱かぬことであり、見解の成

功とは、布施、献身、供物に功徳があり、善行、悪行には報いがあり、この世と彼岸はあり、父母と

自然な誕生はあり、彼岸に達した僧とバラモンはこの世にいるのだと考えることである。生けるもの
という。

が死後体が分解し幸いな状態で再び生れてくるのはこの三つの成功のお陰であり、それを三つの成功

○人生の完成に達することがダンマである

三つの完成がある。それは身体、言葉、心の完成である。心の完成とはどのようなものか?煩悩

を断ち切ることによって、煩悩から解放された内観によってもたらされる解脱をこの世で見極め、そ
スブーティに次のように説いた。
763第三部一第三章ダソマとは何か

れを獲得しそこにとどまることである。これが三つの身体的完成である。他の完成についてブッダは

スブーティ﹁菩薩の与えることの完成とはどのようなものですか?﹂

ブッダ﹁彼の思慮はあらゆる種類の知識に結びついており、︲内なるもの外なるもの全てに祝福を与 もそうしむけるが、そこには一切の不安は存在しない﹂

え、それらを全てのものに共通するものとなし、それらを最高のさとりに捧げる。また他の人びとに

スブーティ﹁道徳の完成とは?﹂ ブッダ﹁自ら健全な十の行為を守り、人びとにもそうしむけることである﹂

スブーティ﹁忍耐の完成とは?﹂ ブッダ﹁自ら忍耐を勝ち取った者となることであり、人びとにもそうしむけることである﹂ スブーティ﹁生気の完成とは?﹂

ブッダ﹁五つの完成に断固としてとどまり人びとにもそうしむけることである﹂

1 6 4

スブーティ﹁集中︵膜想︶の完成とは?﹂
ある﹂

ブッダ﹁熟達した技法により無我の境に入り、しかもそれに伴って生ずる天界に再生しないことで
スブーティ﹁智慧の完成とは?﹂

ブッダ﹁いかなる法にも固執せず全ての法の根本的性格を見極め、人びとにも全ての法の熟考をす

すめることである。このような諸々の完成を培うことがダンマである﹂
白ニヅバーナ︵浬桑︶に生きることがダンマである

ブッダは浬盤に優る幸せはない、といった。ブッダの教えの中でもこの浬梁教義が最も中心的であ

では浬梁とは何か?ブッダの説いた浬梁は彼の先人たちのそれとは全く違った意味と内容をもつ
ている。

先人たちによる浬梁は魂の救済を意味する。この浬梁︵解脱︶には、現世的︵物質的、飲食、快楽︶、

ヨーガ的、ブラフマン的、ゥパニシャッド的な四つの道がある。後二者は魂をひとつの実体として把

えるが故にブッダはこれを拒けた。現世主義的方法は人間本能を満足させれば事足りるとする享楽主

義にすぎず、このような道を受け入れることは人間にとって大きな過ちとなり、真の幸福をもたらさ
ている間だけの法悦で永遠のものではないと考えた。

ずかえって不幸を積承重ねるだけであるとした。ヨーガ的方法は一時的なものであり、ヨーガを行っ

ブッダの浬渠とはこれらと全く異ったものである。ブッダの浬梁には三つの思想がある。第一は魂

の救済ではなく知覚的存在︵人間︶の幸せである。第二は、生きている間に見出しうる輪廻的知覚的

存在の幸せである。しかし死後の魂とその救済という考えはブッダの浬梁思想と全く相容れない。第

三は、常に燃えている情念の焔を統御するという思想である。情念は燃え織る火のようなものだとい

う考えはブッダがガャーにおいてビクたちに与えた教説に見えている。彼はこういっている。

﹁おおビクたちよ、全てのものは燃えている。燃えているこれら全てのものとは何なのか?眼も

形も視覚も眼でえた印象もいかなる感情、快、不快、無関心もそれがえた印象に基づいて生じ、燃え

ている。何によってそれは燃えているのか?情念、僧し象、逆上、誕生、老い、死、悲しゑ、嘆き、

惨めさ、絶望によって燃えている。耳、鼻、舌、身体、想念全ても心による印象に基く全ての感情は

燃えている。学識有り高潔な人間はこのことを知り厭悪する。この厭悪感によって彼は情念から離脱

し自由になり、自由になった時、自分が自由であることを自覚する﹂
第三章ダンマとは何か

では浬薬はどのように人を幸せにするのか?一般には人は何かに不足しているから不幸なのだと

いわれるが必ずしも本当ではない。充ち足りていても不幸なものもいるのだ。貧欲は持てる者持たざ

る者にとっても有害であり、不幸の元である。このことをブッダはピクたちにこのように説いた。

﹁寅欲に駆られ、怒りたけり、迷妄によって盲となり、くじかれ、虜われた心によって人は己れの、

他人の不幸を色々と考え、精神的苦痛や悩承を味わう。しかし、負欲、怒り、迷妄がなくなれば、己

れの不運、精神的苦痛や悩象をくよくよ考えることはなくなる。だから兄弟たちよ、浬渠は現世にお
的で到達可能な世界なのだ﹂

いて実現できるものであり彼岸においてだけではない。賢明なわが弟子たちには心を引きつける魅力

第三部

ブッダは浬梁への道を邪魔する情念を三つに分類している。第一は、情欲、逆上、寅欲といった凡

1 6 5

そ一切の欲念、執着に関するものであり、第二は、憎悪、怒り、苛立ちといった一切の反感の類。第

三は、迷妄、愚鈍、愚かさといった一切の無知の類である。第一と第二は感情と他人に対する人間の

Z 6 6

態度や感じ方全体に関するものであり、第三は真実ならざる一切の考えに関するものである。

ブッダの浬梁思想については幾つかの誤解がある。浬薬は語源的には火が消える、消すという意味

である。この語源的意味をつかまえてあるものはブッダの浬渠論を無意味化しようとした。彼らは浬

盤は死と同義語に等しい一切の人間的感情の消滅を意味するとした。しかし燃える火の誉を良く考察

すればそれがブッダのいう浬梁の意味でないことは明らかである。火の垂訓は、生命は燃えており、

死は消滅であるといっているのではなく、情念が燃えているといっているのだ。情念は完全に消して

しまわなくてはならぬといっているのではなく、焔に油を注ぐなといっているのだ。第二にニルヴァ

ーナ︵浬梁︶と.︿リニルヴァーナ︵完全な浬梁︶とを区別していない。ウダーナの詩句の中で語られて

いるように、﹁完全な浬梁は身体が減し、一切の知覚が停止し全ての感覚が失われ、活動が止まり意

識が失くなった時に発生する﹂。一一ルヴァーナの意味はこれとは全く違う。ニルヴァーナは人が正し 正しい生活を意味するとブッダはラーダにはっきりといっている。
ある時ラーダは釈尊にこう尋ねた。 ﹁ニルヴァーナは何のためでしょうか?﹂ ﹁ニルヴァーナは情念から自由になることだ﹂
﹁ではその目的は何でしょうか?﹂

い道を進めるよう情念を統御するということでありそれ以外の何ものでもない。浬梁とは別の言葉で

﹁ラーダよ、ニルヴァーナにしっかり腰を下ろし正しい生活を営むことだ。ニルヴァーナはそのた
めの目標であり目的である﹂

浬梁が消滅を意味していないということをサーリプッタも次の教訓の中ではっきりいっている。

シュラーヴァスティーのアナータピンデイカ園にいた時、ブッダが退席した後弟子たちは残ってサ

1リプッタに浬渠の意味を尋ねた。彼は答えていった。

﹁兄弟たちよ、貧欲は唾棄すべきものであり、憤まんもそうだ。この負欲と憤まんを捨て去るため

我々に視る眼と知る眼を与え諭安らぎと内観、覚醒と一一ルヴァーナヘと導いてくれる〃中道″の教え 力し、正しく心を配り、正しく集中、膜想する〃八正道″である。

がある。中道とは即ち正しく視、正しく思念し、正しく語り、正しく行い、正しく暮らし、正しく努

怒り、悪意、妬み、嫉妬、害晋、負欲、偽善、欺硫、倣慢、得意、怠惰は全て厭悪すべきものだ。 導いてくれる。ニルヴァーナは高貴な八正道以外の何ものでもない﹂
わる全ての混乱も無くなるであろう。
第三章ダソマとは何か

これらを捨て去るために中道があり、それは我為に視る眼、知る眼を与え、安らぎと内観、覚醒へと

全くの絶滅も完全な浬梁もそれぞれ極端であり浬梁は中道である。このように解すれば浬盤にまつ

画渇望を捨てることがダンマである
ダンマ。︿ダ︵真理のことば︶の中でブッダはいっている。

﹁健康に優る恩恵はなく、満ち足りた心に優る宝はない﹂

この〃満ち足りた心″を環境に柔順であるとか身を任すという意味に解すべきではない。何故なら

それはブッダの他の教えに相反するからである。ブッダは〃幸いなるかな貧しきもの〃とか〃苦しむ

167第三部

者はその状態を変えようと努めるな″などとはいっていない。彼は一方で〃裕福なのはけつこうなこ

とだ″といい、限りない苦し承の代りに積極的な行動である〃精神″を教えている。満ち足りた心を

富の最高の形態だとブッダがいったのは、際限のない貧欲に身を委ねてはならないという意味なのだ。

ビク、ラタ・︿−ラがいっているように﹁愚かな富める人は、与えることなく貧り、新たな快楽を追

1 6 8

い求める。海の彼方に征服の手を拡げ諸国を支配しようとし、なお止むことなく渇望する王は足るこ

とがなく、死して後も足らず、この世の快楽に満たされるということはない﹂のである。

言︿︲・ニッデ︲ザ・系ツタンタ︵スッタニベーターブッダのことばlの中のアシ顔力・ヴァッガに

対する註釈︶の中でブッダはアーナンダに負欲の抑制の必要性をこう説いている。

﹁得たいという願望の故に渇望が生れ、その願望が所有欲となり、所有欲が所有への執着を生承遂

に負欲となる。抑制なき所有本能による寅欲は良く監視せねばならない。では何故この渇望あるいは
様なの有害な事態を生承出すからである﹂

寅欲は非難されねばならないのか。それは、不幸や苦痛、争い、自家撞着、報復、中傷、虚偽など

これは階級闘争の正しい観察である。ブッダが貧欲と渇望の抑制を強調したのは正にこの故である。
㈲全ての事象は一時的で惨いと確信することがダンマである

この一時性論には三つの面がある。複合物の一時性、個体の一時性、条件づけられたもの自体の性
質の一時性である。
ゆが

複合物の一時性について、偉大な仏教思想家アサンガ︵無隷、西暦三一○∼三九○年頃。大乗仏教の
〃空観″に基づき、燕伽、唯識至祁を弘めた︶が見事に説いている。

アサンガはいう。.切の事物は諸原因と諸条件の組合わせによって造られておりそれ自身の独立

した本体というものは存在しない。この組合わせが崩れた時そのものは消滅する。生命あるものは四
分解した時解体が生ずる﹂

つの要素、即ち土、水、火、空気の組合わせによって成立し、この組合わせがそれぞれの組成要素に
これが複合統合体の一時性といわれるところのものである。

生命ある個体の一時性は、在るものは成るものであるという公式によって立派に説明される。この

意味は、ある過去時の存在は生きていたが生きてはおらず、生きてはいないだろう。ある未来時の存

在は生きているであろうが生きてはいなかったし生きてもいない。ある現在時の存在は生きてはいる

が、生きてはいなかったし生きもしないだろう、ということである。つまり人間は常に変化し常に生

成する。彼は人生の二つの異った時間において同一ではない。第三の一時性の側面は普通人にはいさ

さか理解し難いところがある。全ての生きものはいつか死ぬだろうということは容易に理解できる。

だが、人は生きていながらいかに変化しつづけ生成してゆくかを理解するのは容易くない。

﹁これはいかにして可能か?全てが一時的であるが故に可能なのだ﹂とブッダはいう。

これが後に〃空観″と称ばれる理論を生承出したのである。仏教の〃空″はニヒリズムを意味して
第三部一第三章ダンマとは何か

はいない。それは現象界の一瞬毎に起る永久の変化を意味しているにすぎない。全てのものが存在し

うるのはこの〃空″故であることを解するものは極めて少ない。それなくして世界には何ものも存在

しえないのである。一切のものの可能性が依拠するのは正にこのあらゆるものの姿である一時性なの

だ。もしものが恒常的変化に従わず、不変で永久的であれば、あるものから他のものへと変化する全

ての生命の発展は決定的に停止してしまうだろう。もし人が死に変化しても全く同じ状態でありつづ

けるなら一体どんな結果が生じるだろう。人類の進化は完全に止まっていただろう。もし〃空″が単

なる虚無あるいは空虚であるとすれば途方もない困難が生じていたであろう。しかし実際はそうでは

ない。〃空″は広がりも長さもないが内容のある点のようなものである。

一切は一時的であるというのがブッダの教義である。ではこの教義の教訓は何なのか?これはよ

1 6 9

り重要な質問だ。その教訓は簡明だ。何ものにも執着するな、である。超然さを養うこと、財産、友

全てから超然とすることを学べ。〃一切はかりそめである″からだ、とブッダはいっているのだ。

7 7 0

㈹カルマ︵業︶は道徳的秩序の媒介者であると確信するのがダンマである

物質界には一定の秩序がある。これは次の現象によって証明される。天体の運動と活動には一定の

秩序があり、それによって季節は定期的に継起する。種子が木となり木が実を生じ実が種子を生じる

のも一定の秩序による。仏教用語でこれを〃ニャマー決定″法則という。

人間社会にも同様に道徳的秩序がある。それはいかに生れ維持されてきたのか。

神の存在を信ずる者にはこれは容易い質問である。道徳的秩序は神の定めたものであり、神が世界

を造り世界の統治者である。神はまた物理的法則と同様道徳の作者である。

道徳律は神の意志から生じたものであるが故に人間のためになるのだという。人は創造主たる神に

従わねばならず、道徳秩序を守ることは即ち神への帰依である、と。だがこの説明では全く不十分だ。

もし道徳秩序が神から生れ、神がその秩序の初まりであり終点であり、人は神に従うより他ないとす

れば、世界は何故かくも道徳的無秩序に満ちているのか。神の淀の権威とは何か。神の徒の人間への

支配力とは何か?この質問に対し、道徳秩序の基礎を神の配慮とする人びとは何ら満足のゆく答え

をしていない。そこで人びとはテーマを修正しこういう。創造は明らかに神の命によって生れたもの

である。宇宙は神の意志と指示によって活動をはじめた。神はそこでもう一度この途方もないメカーー

ズムを動かす力としてのエネルギーを宇宙に授けた。しかし神はその力を自然に任せ、自ら造った法

則に従って働かさせるようにした。だからもし道徳秩序が神の期待通りに働かなかったとすればそれ

は自然の所為であり神の過ちではない。これでも問題は解決されない。神をその責任から免れさせる

だけにすぎない。何故神は自らの淀の施行を自然の手に委ねばならなかったのか?この神の不在は 何のためなのか?

ブッダの答えは簡単である。﹁それはカルマ。ニャマ︵行為による決定︶であり、神ではない﹂ の何ものによるのではないとブッダは説く。

世界の道徳的秩序は良くもあり悪くもあるだろう。しかしそれはあくまで人間に依るものであり他

カルマは人間の行為であり、ヴィ。ハーヵは報いである。道徳的秩序が乱れるのは人間の悪業のせい であり、良い秩序が生れるのは善業によるものだ。

ブッダはカルマを説くだけでは満足せず、行為による決定を意味するカルマ法則を説いた。ブッダ

がいわんとしたのは、夜の次に昼がくるように行為の結果が引き起す必然性である。善業の良い結果 によって幸いしない人がいないように、悪業の悪しき報いから何人も免れることはできない。

それ故ブッダは人間社会が良き道徳的秩序に恵まれるよう善業をなし、悪業が産み出す悪しき道徳
ダンマとは何か 171第三部一第三章

的秩序によって人間が苦しまぬよう心がけよ、と説くのだ。しかしカルマとその報いが現れるまでに

は間がある。それは実に屡々そうである。そこで〃近因的カルマ〃〃遠因的カルマ〃〃不定因的カル

マ〃が考えられる。また効果のないカルマというものもありうる。このようなカルマは作用する力が

極めて弱く、他のより強いカルマによって影響されてしまう。しかしこれらを全て容認しても、カル

マ法則は何人も容赦しないというブッダの言葉の正しさはいささかも変らない。カルマ法則は、カル

マの結果は行為の当事者にはね返ってくるという考え方を必ずしも含んではいないし、それ以上考え

ることはないと思うならそれは誤りである。ある行為はその行為者以外の他者に影響を与えることが

屡為ある。それと同様道徳的秩序を守り、乱すのもカルマ法則の働きなのだ。人は生れ死んでゆく。 が神に代って重視されるのもこの故である。

しかし世界の道徳的秩序とそれを支えるカルマ法則は残ってゆく。ブッダの宗教においては、道徳性

だからこそ世界の道徳的秩序はいかにして保たれるのかという疑問に対するブッダの答えはかくも

1 7 2

簡明かつ反駁し難いのだ。

しかしその真の意味は仲を理解されない。カルマ法則は全般的道徳的秩序の問題に関与するのであ
にダンマの一部なのだ。

り、個々人の運不運とは本来何の係わりもないのである。それは世界の道徳秩序の維持に係わるが故

第四章何がダンマではないか

B迷信を信ずることはダンマではない
173第三部一第四章何がダンマではないか

ある現象を前にすると人は常にそれがどうして起り、その原因は何かを知りたがる。時には原因と

結果が極めて接近しておりある出来事の発生を説明することも難しくない。しかし性々にして結果が

原因と余りにかけ離れすぎて結果が説明できないことがある。で当然原因なしに事が起こるように見
よく奇蹟と呼ばれる超自然力、原因のせいにするやり方だ。 ブッダの先人たちはこれに対し極めて異った答え方をしている。

える。それでもどうしてそういうことが起るのか、と人は尋ねるだろう。一番良く使われる答えは、

・ハクダ。カッチャーナは一切の事象に原因などなく、事象はそれ自体独立して起る、といった。

マッカリ。ゴーサーラは事象には原因はあるとしたが、その原因は人間の行為の中にではなく、自
然、必然、事物に固有の法則、宿命などに見つけろと説いた。

ブッダはこれらの説を退け、全ての事象には原因があるだけでなく、その原因は人間の行為の結果

や自然法則によるものだとした。時間、自然、必然などが事象の原因であるという説にブッダが反対

したのは、もしそれが単独の原因でありうるとすれば、我々は一体何だということになるからだ。人

1 7 4

間は時間、自然、偶然、神、運命、必然の単なる操り人形にすぎないのか?もし人間が自由でない
何のためにあるのか?

のなら人間は何のために存在するのか?もし人が超自然的原因を信じつづけるなら、人間的知性は

もし人間が自由であるなら、あらゆる事象は人間的行為の、あるいは自然的行為の結果でなくては

ならない。そこにはその根源が超自然的であるようないかなる事象もありえない。それは恐らく事象
きるはずだ。

の発生の真の原因を人間が見出せないということであり、いつか人間の知性はその真の原因を発見で

ブッダは超自然主義を否定し三つの目標を定めた。彼の第一の目標は人間を合理的世界へ導くこと。

第二は真理探求へ向って人間を解き放つこと。第三はその結果探求心を失わせることになる最も強力

な迷信の根源を取り除くことであった。これがカルマと原因法則である。このカルマと原因説は仏教
なってしまう。超自然主義の礼賛はそれ故にダンマではない。
目イーシュヴァラ︵主宰神︶信仰はダンマの本質的部分ではない

の最も中心的教義であり、それは合理的思想を鼓吹し、この精神を抜きにした仏教は何ものでもなく

誰がこの世界を創ったかというのはよくある疑問である。その最もありふれた答えは、神がお造り
になったというものだ。

プラフマニズム体系では、この神はブラジャー。ハティ︵創造神︶、イーシュヴァラ︵主宰神︶、ブラフ

マーあるいはマハープラフマ1︵焚天︶などという様食の名で呼ばれている。この神とは何者か、い

かにそれは存在するにいたったかという疑問には一切答えはない。神を信ずる人びとはそれを全知、

全能、普遍的存在として語り、彼は全てを知っているという。また神に付随する幾つかの道徳的資質

がある。神は善にして義であり全てを愛する。釈尊は世界の創造主としての神を受け入れたであろう

か。〃否″である。何故彼が神の存在論に反対したかには幾つもの根拠がある。

誰も神を見たものはいない。人びとは神について語っているにすぎない。神は知られざる、見たこ

とのないものである。神が世界を創造したことは誰も証明できない。世界は展開してきたのであって

創造されたのではない。神を信ずることでどんな利点があるか?利点などない。ブッダは神に依拠

する宗教は推測に基づくものでありそのような神を信ずることによって益することはないといった。

それは所詮迷信を作り出すのがおちである。ブッダは更にこの問題を多面的に検討している。神の存

在論は真実に基づくものではないとして彼は次のように反駁している。彼はこのことを、ヴァーセッ
175第三部一第四章何がダンマではないか

タとバーラドヴァージャという二人のバラモンとの対話で明らかにした。二人はどれが救済の正しい

道でどれが間違っているかを議論した。たまたま釈尊が多勢の一行と共にコーサラヘ行く途中、マナ

スカタというバラモンの村へ立寄りアチラヴァティー川の辺りのマンゴ樹の下にとどまった。二人の

バラモンはその村の住人で、釈尊が立寄ったことを聞き釈尊に各自の考えを述べ彼の意見を求めた。 りそれによれば人はブラフマンと合一できます﹂

バーラドヴァージャはいった。﹁タルカ︵論理︶の道こそ真直な道であり、救いに向う正しい道であ

ヴァーセッタはいった。﹁バラモンは各人各様に道を説きます。それに従えばブラフマンと合一す

るといいます。それは丁度村や町の近くには幾つもの色右の道があるけれど結局そのどれもが村で一

緒になるようなもので、様々の教えも結局はブラフマンとの合一を約束しています﹂
﹁はい、そう申しました﹂ヴァーセッタは答えた。

﹁それらは全て正しい道だというのですか、ヴァーセッタさん?﹂ブッダは問うた。

﹁だがヴァーセッタさん、ヴェーダに精通するバラモンの一人でもブラフマンと対面したものがい

るでしょうか?﹂
1 7 6

﹁いいえ一人もいません、ガウタマさんよ﹂
いではありませんか﹂
﹁その通りです﹂

﹁誰もブラフマンを視たものはいないとすれば、ブラフマンについての知覚的知識はこの世にはな

﹁だのにどうしてブラフマンは存在するというバラモンの主張が真実だと信ずるのです?それは

盲人が互いにすがり合って歩くのと似ていないでしょうか。先頭のものも真中も一番後も何も見てい

ないのに皆が見たといっている。バラモンのいうこともそれはただの言葉にすぎず空疎なものではあ

りませんか。またそれは見たこともない女に恋をした男のようなものです。ヴァーセッタさん。その

あなたの恋い焦がれる絶世の美女は一体何ものなのかと問われたら何とあなたは答えるのですか?

貴族の女か、バラモンの女か、商人階層あるいはシュードラなのか? ブラフマー︵焚天︶が自ら不滅にして全能、裁く者、創造主、自己自身の主、全てのものの父と称

し、お前たちは全て私によって造られたのだ、というのなら、どうして我点はかくも修なく一時的で
かつた。

不安定で消滅すべく運命づけられているのでしょう﹂これに対しヴァーセッタは答えることができな

﹁またもし神が全能にして創造の源であるとすれば、私たちは何をしようと望めばいいのでしょう。

何か積極的に行おうという意志はどこから湧いてくるのです?この世の事柄について何も重要な役

割を与えられていない消極的存在で終るしかないでしょう。もしそうなら、ブラフマーは何のために

人間を造ったのです?﹂ヴァーセッタはこれについても答えられなかった。

﹁もし神が全き善であれば、人は何故人を殺し、盗み、不貞を働き、嘘をつき、中傷し罵り合い、

貫欲で悪意をもちねじ曲がっているのですか?その原因はイーシュヴァラにあるのではありません
か。全き善なる神にそういうことができるのでしょうか?﹂ 神の全知についてブッダはこう反論した。

﹁もし至高の創造者が義と慈愛そのものであるならこの世はどうしてかくも不正に満ちているので

しょう?この病んだ社会を視る眼があれば、ブラフマーは自分の被造物をどうして真直ぐにしてや

らないのでしょう。無限の能力を有しているにしては、彼の恵みを受けるものは余りに少ないではあ

りませんか?何故彼の被造物は全て苦しまなくてはならないのです?何故彼は全てを幸せにして

やれないのです?何故虚偽が真実を打ち負かすのです?真実と正義が何故敗北するのでしょう?
第四章何がダソマではないか
ます。

不正のかくれ蓑にしかすぎぬような世界を造ったブラフマーは最も邪悪な存在のひとつだと私は思い

全ての被造物に祝福、悲し象、行動、善、悪、なんであれかなえてやれる全能者がいるとしたらそ
不善、そして盲目ということになるでしょう﹂

のものは罪で真黒でしょう。人が自らの意志で生きてゆくのでないとすれば、人を動かす神は不正、

次にブッダは神の存在というものは益がないという問題についてこう語っている。彼によれば、宗

教の核心は人間の神に対する関係にあるのではなく、人間対人間の関係であり、宗教の目的は、全て

のものが幸せになれるよう人は他人にどう振舞えば良いのかを教えることにある。

777第三部

ブッダが神の存在というものに反対したもう一つの理由がある。彼は宗教的儀式、祭礼に反対した。
になると考えたからである。

それらが迷信の巣であり、彼の八つの正しい道の中でも最も大切な要素である〃正しい見解″の妨げ

釈尊が神信心を最も危険なものと考えたのは、そのような信仰は礼拝や祈祷を効果づけ、その効果

J 7 8

づけは司祭僧を権威づけ、司祭僧こそが全ての迷信を作り出す元凶であり、〃正しい見解″の成長を
狂わすと信じたからである。

神の存在を否定するこれら議論の大半l中にほ実際的なものも幾らか臆あるがl憾神学的なも

のであり、神の存在への信仰にとって決定的効果を上げていないことを釈尊は承知していた。だが、
わされている。

釈尊はこの問題に関する決定的な論証を上げていないわけではない。それは彼の〃縁起論″の中に表

それによれば神が存在するかしないか、神が宇宙を創造したかどうかは大した問題ではなく、本当
かに神が世界を造ったかという答えによる帰結でなければならない。

に大事なのは、いかにして創造主が世界を造ったか、である。神を信ずるのが正しいのならそれはい

重要な設問。〃神は無から何かを造ったのかそれとも何かから何かを造ったのか?〃

無から何かが造られたというのは信じられない。では何かから新しい何かを造ったのなら、その何

かは神が造る前から存在していたことになる。彼以前に存在していた何ものかの創造者とはもはや呼

べないのは明らかだ。つまり神は最初の原因、一切の創造者とはいえない。誤った前提に基づく宇宙

の創造者、神への信仰はそれ故にダンマではない。単なる錯覚である。
白ブラフマンとの合一に基づくダンマは間違ったダンマである

ブッダが活動していた頃ヴェーダーンテイズムという思想の流れがあった。その教説は第一に平面

の背後にはブラフマあるいはブラフマンと呼ばれる生命の普遍的原理が遍在している。ブラフマンは

実在する。アートマンあるいは個食の霊魂はブラフマンと同一物である。次に人間の救済は己れの中

のアートマンとブラフマンとを合一させることにかかっている。これが第二の原理である。このブラ

フマンとの合一は、アートマソがそれがブラフマンと同一物であると認識することによって可能とな
ーンティズムといわれる思想の教理である。
って思想としてかかげるに値しないと考えた。

る.その認識に達する方法はサンサ︲ラー輪廻流転lを断ち切ることである.これがヴヱ︲ダ

ブッダはこの教義を一顧だにしなかった。彼はそれが誤った前提に基づき、何の価値も生まず、従

バーラドヴァージャとヴァーセッタ両やハラモンとの問答で彼はこのことをはっきりさせている。
は知覚と推論の二つの方法がある。
館内章何がダンマではないか

ブッダは事物の実在性を受け入れる前に、そのことは証明されなくてはならないといった。証明に

﹁ブラフマンを知覚したものがあるか?ブラフマンを見たもの、ブラフマンに話しかけたもの、

匂いを唄いだものがいたか?﹂とブッダは問い、ヴァーセッタは〃否″としか答えられなかった。も

うひとつの証明方法もブラフマソの存在を証すには不適格である。﹁ブラフマソは何から推論するの

か?﹂答えはやはり〃否″である。眼に見えなくとも事物は存在しうる。だからブラフマソは存在す

ると主張するものもいる。一応そういうこともありうるとして議論を進めよう。電気は正にその好例

であろう。だがそれで話が終ったわけではない。見えないものでも何らかの形で見えることを証明し

なくてはならない。それでこそ実在しているといえるのだ。我たは電気は眼に見えないがそれが生承

出す結果によってその実在性を容認するのだ。電気は明りを産む。このことによって我々は電気の実

179館三部

在を受け入れる。ブラフマンは一体何を産承出すのか?眼に見える何かを産出するだろうか。

別の例を用いてもいいだろう.法律で峰擬制l存在することが証朗されていないが真実と仮定

する陳述lが華本的概念として採淵される。そして我食はそれを法的フィクシ;として受け入れ る。では何故受け入れるのか?それが有益かつ正しい結果を生むから我々はその法的虚構を受け入

1 8 0

れるのである。ブラフマンはフィクションである。ではどんな有益な結果をそれは生承出してくれる
のか?

﹁ヴァーセッタさん、あなたはブラフマンをその眼で見ましたか?ヴェーダに精通した零ハラモン の一人でもブラフマンと対面したものがいましたか?﹂
﹁いいえ、ガウタマさん﹂

﹁先祖が七代さかのぼるれっきとしたバラモンの一人でもブラフマンに対面したものがいました
るか、どこへ行ったか知っている″といったものがいましたか?﹂

か?古の聖者で、〃われわれはブラフマンを信じている。われわれは視た。ブラフマンがどこにい

﹁いいえ、全然。ガウタマさん﹂二人の寺ハラモンは答えた。ブッダはつづけて質問した。

﹁ではヴァーセッタさん、もしブラフマンが存在しないのなら、フラフマンとの合一などという教義

そのものが馬鹿気たお喋りにすぎないことにはなりませんか?それは互いにすがり合って歩いてい

る盲人の列のように、何も見ていない人の話に似ていませんか?・ハラモンのブラフマン論議は馬鹿 馬鹿しい空疎なたわ言ではないでしょうか﹂

ブラフマンは実在しない。故にそれに依拠するいかなる宗教も無益である。
⑳霊魂を信ずるのはダンマではない

。ブッダは霊魂に依拠する宗教は推論に基づいているにすぎないといった。霊魂を見たもの、それを

話したものはいない。霊魂は知られざる見えないものである。真実存在するのは霊魂でなく〃とこ

ろ″なのだ。こころは霊魂とは違う。霊魂信仰は無益だ、とブッダはいった。それは迷信を生むだけ

で益がない、と断じただけでなく、彼はあらゆる面からこの問題を検討した。霊魂信仰は神信仰と同

様一般的で、バラモン宗教の重要な部分である。そこでは霊魂はアートマあるいはアートマンと呼ば
与えられた名称である。
のようなものである。

れる。アートマンは関係とは離れて存在するが、生れた瞬間から常に存在し体内に生きている実体に

霊魂は関係と共に消滅せず、他の肉体が生れてくる時その中に住桑つく。肉体は霊魂にとって衣服

ブッダは霊魂を信じただろうか?〃否″である。彼の霊魂論はアナッタ、非霊魂説と呼ばれる。

肉体から遊離した霊魂は様灸の疑問を提出する。霊魂とは何か、どこから来、肉体が死んだ時それは
181第三部一第四章何がダソマではないか

どうなるのか、どこへ行くのか、その後どんな形で存在しているのか、遊離した後どの位その状態で

いるのか、などの疑問についてブッダは霊魂説支持者と議論を戦わした。彼は先ずお得意の反対尋問
ブッダは霊魂支持者にそのサイズと形を尋ねた。

形式で、霊魂についての考えがいかに不明瞭なものであるかを明らかにしようとした。

彼はアーナンダに、霊魂に関する言挙は沢山ある、といい、ある者は〃我が魂は形がありそれはす
〃無形で無限である〃などといっているといった。

こぶる微細である〃、またある者は、〃それは形をとり限りがなくかつ微細だ〃を称し、あるいは

﹁霊魂信仰者は霊魂をどのように知覚しているか?﹂とブッダは更に尋ね、ある者はわが魂は感じ
いるといった。

るといい、ある者はいや私のそれは感じないが、無感覚でもない、ある者は感情をもち感覚ももって

ブッダは肉体の死後における霊魂の状態、死後も霊魂は見えるかどうかなどについても質問しその

都度実に様々な暖昧な申し立を受けている。死後も霊魂は形を保っているかという質問に対し彼は八

1 8 2

つの異った推測があるのを知った。霊魂は肉体と共に消滅するかという質問には数え切れないほどの

意見が続出した。肉体が滅びた後霊魂は幸せかどうかという質問に対しても寺ハラモンや隠者は色々と るといい、他のある者は幸せでも惨めでもないと答えている。
にこういっている。

意見を異にしている。ある者は全く惨めだといい、ある者は幸せ、ある者は幸せでもあり惨めでもあ

ブッダのこれら様為の説に対する答えは、彼がチュンダに与えたものと同じである。彼はチュンダ

﹁チュンダょ、これらの説のいずれかを信ずる隠者やバラモンに対し、私は〃そうですか、友人

よ〃といい、彼らが〃そうです、これのみが正しいのです″といっても、彼らの主張を受け入れるわ
皆取るに足らないものだ﹂

けではない。何故ならこの種の質問には全く各人各様の説があるからだ。私にとってそれらの意見は

ブッダの霊魂否定の論拠は彼の神の存在否定と同様である。つまりそんなことの論議は無益だとい

っている。彼はまた霊魂信仰は神信仰と同様〃正しい見解″の薫育に有害であり、神信仰以上に迷信

の温床となると警告している。またそれは司祭職を強化し、生れてから死ぬまでの間、人間を完全に

意のままに牛耳る権威を与えることになるといった。だが彼のこの論争態度のせいで、ブッダは霊魂

存在について何も明確な意見を表明していないとか、その存在を否定していない、あるいはただ問題

をはぐらかしているだけだなどといわれる。だがそれは間違っている。彼はマハーリイに対しはっき
非霊魂説と呼ばれるのである。

り〃霊魂″などというものは存在しないと断言している。だからこそ彼の霊魂説はアナッタⅡ無我・

霊魂存在を否定する一般論以外に、ブッダは霊魂説にとって一層致命的なものと考えた反対論を提

出している。それはナーマ︵名︶Iルー・︿︵色︶論である。名色論は人間という知覚的存在の構成要素

の厳密な分析に基づいている。この知覚的存在は物質的要素と精神的要素の複合物でスカンダ︵識Ⅱ

積季集められたもgといい、ルー。︿・スカンダ︵物質︶、ナーマ。スカンダ︵非物質︶とに分けられる。

ルー。︿。スカンダは地、水、火、空気のような物質要素から成立ち、肉体Ⅱルー。︿を構成する。ナー

マ・スカンダが知覚存在を作る。これがヴィンニャーナⅡ意識である。ナーマ。スヵンダは三つの心

的要素lヴ室I変ナー︵現実と嬢触す愚六つの感覚が坐瞳る感億、サンニャ︲︵知覚︶、サンヵーラ︵心 ナが知覚存在の中心であるということだ。

理状態︶を含む。現代心理学では意識が他の心理的現象の主原因であるという。つまりヴィンニャー

意識は地、水、火、空気の四要素の結合体である。このブッダの提出した意識論に対し意識はどう
183第三部一第四章何がダソマではないか

やって生れるのかと反論するものがいる。確かに意識は誕生と共に生れ死と共に消滅する。それでも

意識はこの四要素の結合体だといえるのか?ブッダは物質的要素の共存あるいは集合体が意識を生

む⑳でばなく、ル︲べl物質色lがあるところに意識が伴うのだといってい論のだ.っ護り電

界があればそこには常に磁場が伴っているようなものである。磁場がどのようにして作られ、生じる

か分らなくとも電界には必ず磁場が存在する。これと同じ関係が肉体と意識の問に存在するといえる

のではないか。電界に伴う磁場を誘導界という。意識も肉体に伴う誘導界といえるだろう。

ブッダの反霊魂説はこれに止まらない。一度意識が生じると人は知覚的存在となる。それ故意識は

人間生活の主体となる。意識は認識的、感情的、意志的である。意識は、内在的出来事であろうと外

的事物であろうとそれを判断、理解すべきものとして知識、情報を伝えるとき認識的である。意識は、

主観的状態において、嬉しいとかつらいとかに特徴づけられているとき感情的となり、感情的意識が

情感を生む。意志的段階の意識は、ある目的を達しようと自らに働きかける。意志的意識が我交のい

うところの意志や行動を生む。知覚的存在の全ての働きは意識を通じ、あるいはその結果として知覚

1 8 4

的存在が遂行するものであることがこれで明らかであろう。このような分析を行った後ブッダは霊魂

が行う働きとは一体何なのかと尋ねる。霊魂に帰される一切の働きは意識による以外何ものでもない
ンマたりえない。

ではないか、と。何らの機能も有しない霊魂とは馬鹿為たしい限りではないか。故に霊魂の存在はダ

⑥供犠信仰はダンマではない

、︿ラモン宗教は供犠に基づいている。供犠には二種類があり、ひとつは義務的、ひとつは現世的利

益をえようとして行ってもらうものである。・ハラモソ供犠は飲酒、屠殺、お祭り騒ぎを含むが、これ

らも宗教儀式として行われる。ブッダは供犠に依る宗教は信奉するに足らぬと考えた。彼は、供犠が

何故宗教に値しないかについて論争を挑んだ沢山の寺ハラモンに色有と説いてきかせた。彼と論争した

三人の癖ハラモンがいる。クータダンタ、ウッジャヤそしてウッダーインである。

クータダンタはブッダに供犠の価値についてどう考えるか尋ねた。宜しい。よく注意して私のいう
ことを聴きなさい、とブッダは話しはじめた。

﹁昔、マハ1.ヴィゲータという大層裕福な大王がいた。ある時その繁栄をもっと続かせたいと思

い盛大な供犠を行おうと思いついた。そこへ司祭がやってきてこうこぼした。〃王よ、悪党がはびこ

り国中を荒らしております。このような際更に税を取り立てるのはいかがと思われます。王は、不正

な役人を厳しく罰し、悪人に罰金や死刑を課し無法を取締ろうとなさるかもしれません。しかし網の

目を逃れたものは依然悪事を重ねるでしょう。それよりむしろ、家業に精を出す領民、任務を誠実に

遂行する役人たちに資金や食糧を与え、給料を増してやったらいかがでしょう。人びとが一生懸命働

けば悪事に耽ることもなくなり、税収も自然増すでしょう。国は平穏になり人民は互いに喜び合い安

心して戸外で子供たちと共に踊り戯れるでありましょう″王はその忠言を受け入れその通りのこと

を行なった。国の治安は回復し人民は安心して暮すようになった。そこで王はまた盛大な供犠を催そ

うと考え、司祭に相談した。司祭は、〃けつこうでしょう、王よ。では国中のクシャトリャ、バラモ

ン、資産家たちを招待し、この福利がいつまでも続くよう供犠を行うと申されるが宜しい〃。王はそ

の意見を入れ、人びとを招んだ。参集した人びとは口々に供犠に賛意を表した。王も司祭も大変賢い

有能な人物であった。司祭は王にこういった。〃王よ、供犠を行うに当って、あるいはその最中ある

いは行った後で、つまらぬことに散財してしまったと後悔なさいませんようとくとお考え下さい〃そ

して集まった人びとにこういった。〃生物を殺し供犠をなそうとするのを止め、人の物を取るのを止
何がダンマではないか

め、欲望のために悪事をなすのを止め、嘘をつくのを止め、他人を中傷するのを止め、不作法な物の

いい方をするのを止め、無駄口をたたくのを止め、負りを止め、悪意を抱くのを止め、間違った見解

を捨て正しい見解を持つものに王は儀式を取り行い心の安穏を与えるであろう″そして供犠に際し、

一匹の牛も山羊も豚も鶏もいかなる生物も殺さず、柱にする木も伐らず、祭壇に敷く香草も刈らず、

奴隷や労働者は鞭でたたかれることもなく、涙して働くこともなく、働きたいとき働き、働きたくな

い時は働かず、ギー︵良質の静ハター︶、油、バター、蜂蜜と砂糖だけで供犠は取り行われた。もしあな

85第三部一第四章

た方が供犠を行いたいなら、このヴィゲータ王を見習いなさい。供犠は浪費であり屠殺は残酷です。
最低の宗教です﹂

供犠は宗教的要素にはなりえません。罪のない生物を殺すことによって天国に行けるなどというのは

﹁では生物を犠牲にしないでもっとご利益のある供犠はあるのでしょうか、ガゥタマさん?﹂

﹁ありますとも、バラモンの皆さん。次の教えを心から信じて守ることです。殺さず、盗まず、欲

望に駆られて悪事を働かず、嘘をつかず、不注意の元である強い酒を過ごさぬことは、どんな盛大な

1 8 6

供物、欠かさぬ施与、住み家、導きよりも優る供犠です﹂

﹁見事なお言葉です。ガウタマさん﹂クータダンタは感嘆していった。 さてウッジャャが釈尊に問う番であった。
﹁ガウタマ様は供犠を尊重なさいますか?﹂
認めません﹂

﹁いいえ、バラモンさん、私はどんな供犠をも尊重しません。生物を殺すような形での供犠は一切
﹁どうしてですか、ガウタマ様?﹂

﹁正しい道を歩む立派な人はそのような屠殺行為には近寄らないものだからです。しかしそのよう な行為を伴わない供犠、たとえばずっと行われている施しとか、一族の幸せのための献供は認めま

ウッダーイソはヴッジャャと同じ質問をしやブッダは同じように答えていった。

﹁清らかな生活を十分に積んだ人、真実を明らかにした人、時限を超えて進む人ですら正しい時期

に、いかなる残酷さも示さず正しく行われる供犠には喜んで加わります。目覚めた、功徳を積んだ人

びとはそれを賞めたたえます。供犠であろうと信仰によるものであろうと、功徳のために心から正し

くなされた献供、正しい生活を送る人びとが惜し染なく供える供物は、神交も喜ばれ、そのような思

慮ある賢明な献供は、苦し承から解き放たれた幸せな世界をもたらすでしょう﹂
㈹推量に基づいた信仰はダンマではない

R自分はどれだけの時を過ぎてきたのか?○その時自分は何だったのか?白何から何に移った

のか?四自分はどの位経って現れるのか?国その時何になっているのか?倫何から何へ生れ変

るのか?などといった疑問を発するのは当時普通のことであった。また、自分は在る、ない、とか、
今日でも疑問が発せられている。

自分は何か、いかなる自分か、どこから自分はきたのか論どこへ行くのかなど〃自己自身″について
宇宙についても種々の質問が発せられた。

〃宇宙はいかに造られ、いつまでも続くのか?″あるものはそれはブラフマーが、あるいはブラジ

ャー。ハティが造ったといい、永続性については、続かない、限度がある、無限だと色為の説がある。

ブッダはこのような質問を考えること自体拒否し、そんな質問を本気でする者は頭のおかしい連中だ
第四章何がダンマではないか

けだと取り合わなかった。このような質問に答えられるのは全知全能者の承であり、自分はそれに答

えられるような全知全能者ではないといっている。また知りたいことが何時でも分るなどとは誰もい

えず、分らないことはいつもあるのだといった。それ故ブッダはこのような問題に関する教義は自分
である。

の宗教には含めなかった。そのようなことを教義とするような宗教は宗教たるに価しないと考えたの

ブッダの同時代人が彼らの宗教の基礎にした教義は、㈲自分自身、○宇宙の起源に係わるものであ

った。彼らはそれについて前述したような質問と答えを出している。ブッダはそれに対し、やはり前

述のように述べ、そのような質問をすること自体馬鹿気ているし、それに答えられるのは全知全能者

187第三部

だけであり、そのような教理は単なる推量、空論であり、立証されてもいなければ、立証可能でもな

いと否定している。しかもこのような空論は人間対人間の関係にどんな利益をもたらすのか?何も

ないではないか。ブッダは宇宙は誰かが造ったのではなく、展開してきたのだと信じていた。

1 8 8

㈲ダンマの知識を蓄えるだけではダンマではない

バラモンたちは知識を強調し、知識が全てで終りだと主張した。ブッダは教育の重要さを強調した
ばならず、徳性のない教養は最も危険だと特に強調した。

が、それよりその知識をどう活用するかを重視した。従ってブッダは、知識のある者は徳性を磨かね

このことは後に高僧となった.ハティセーナの物語に良く表わされている。

ブッダがシュラーヴァスティーに住んでいた時。ハティセーナという年老いた托鉢僧がいた。彼は生

来愚鈍な性で賛歌のひとつも諸じることができなかった。ブッダは五百人の阿羅漢に命じ毎日のよう

に彼に教え込ませたが、三年経っても満足に覚えられなかった。彼の愚かさは国中に知れ渡り笑い者
らの体で過ちを犯さぬ者は救われよう〃。

になった。ブッダは。ハティセーナを憐承詩の一節を繰り返し教えた。〃口を慎し象思いを慎しふ、自

”ハティセーナは師の思いやりに感動し、心が開きとうとうその詩を覚えることができた。

﹁老・ハティセーナよ、そなたはそれをただ暗詞するだけで、内容を理解していない。それでは矢張
ういって次のような教えを説いた。

り人に馬鹿にされよう。私がその詩の意味を説いて上げるから良く注意して聴きなさい﹂ブッダはこ

肉体に関する三つの原因、口に関する四つの原因、思いに関する三つの原因を克服することによっ

て人は救われる。・ハティセーナはその真理を遂に把握し阿羅漢︵完成された人︶の域にまで到達した。

さて、その頃、僧園に住む五百人のビクーーたちからブッダに使いがきて、ダソマを説きに誰かを遣わ

して欲しいと頼んできた。そこでブッダは。ハティセーナを送ってやった。ビクーーたちはそのことを知

り大笑いし、彼がきたら詩歌を逆さまから暗詞し困らせ、恥をかかせてやろうと諜し合わせた。。ハテ

イセーナが着くとビクニ全員が迎えに出、彼に挨拶をし互いにぼくそ笑承合った。食事が出され、食
坐してこういった。

べ終り手を洗ったところで、彼女たちは彼に説教を所望した。老托鉢僧は請われるままに高座に上り、

﹁皆さん、私は能がなく、学んだこともほんの僅かしかありません。私はたった一つの詩歌しか知
聴き、その意味を理解して下さい﹂

りませんが、今それを暗話し、その意味を皆さんにお聴かせしようと思います。どうか良く注意して

そこで若い尼僧たちは全員その詩歌を逆さまから諸じようとしたが、一人として口が開かなかった。

尼僧たちは深く恥じ頭を垂れた。。ハティセーナは落着いて詩歌を諸じ、ブッダに教えられた通りにそ
龍四章何がダンマではないか

の意味を説いた。それを聴いたビクニたちは驚き語かり、歓喜しその教えを受け入れ、遂に阿羅漢と
なることができた。

またある時、・ハセーナディ王はブッダと僧侶全員を招き宴会を開こうとした。ブッダは.ハティセー

ナの優れて厳かな風姿に目をとめ、自分の鉢を持って後に従いてくるよう命じた。ところが宮殿の入

口にくると、・ハティセーナの評判を耳にしていた門番は・ハティセーナを押し止め、お前のような詩歌

ひとつしか知らぬつまらぬ坊主を中へ入れることはできない、とっとと立ち去れといった。・ハティセ

ーナは逆らわず門の外に坐って待った。ブッダが台座に坐し手を洗うと、ブッダの鉢を捧げた.ハティ

セーナの手が室内ににゅ−つと伸びてきた。王をはじめ並居る人びとは驚憎し、これは一体誰なのか

189館三部

と口々に叫んだ。そこでブッダは、これは。ハティセーナの腕です。彼はさとりを得たばかりですが、

私が望んで私の托鉢の鉢を持って従いてくるよう命じました。ところが門番が中へ入れてくれなかっ

たのです、と答えた。・ハティセーナは直ちに会場へ入ることを許された。・ハセーナディ王はブッダに

向い、ひとつの詩歌しか覚えていない無能な者がどうして左様なさとりをえたのかと尋ねたP

1 9 0

﹁教養は二の次であり、行いが第一です。この.︿ティセーナは一つの詩歌の奥義を把握し、その躯

も口も思いも完全な穏かさを獲得しました。たとえ人がどれ程知識を蓄えていようと、その知識が彼
しよう。

の核心にまで達せず、己れを破滅に導くであろう諸右の力から解き放たれないのなら何の益がありま

人が幾千の詩歌を諸じて象せようとその意味を完全に把握していないなら、一つの詩歌を完全に把
それに従って行動する方が救われます﹂

握し、思いを慎しむ者に、その行いは劣るでしょう。幾千の言葉を繰り返すより、一つの真理を掴承

これを聴いて王はじめ多勢の宮廷人、二百人のビクたちは一様に大きな喜びに包まれた。
㈹ダンマ教典の不可謬性を信じるのはダンマではない

バラモンはヴェーダの神聖さの承ならずその権威も最高だとした。彼らはヴェーダを決定的なもの

であり不可謬であると宣した。しかしブッダはその点で徹底して反対した。彼はヴェーダの神聖さ、

絶対的権威、不可謬性のいずれをも否定した。彼と似た態度を取った思想家は他にも沢山いたが、結

局全て寺ハラモン哲学とバラモンの権威に屈し、ブッダの承が譲らなかった。

テーヴィッジャー経で、ブッダはヴェーダは水のない砂漠、道なき森でありつまりは破滅であると

明言している。知的、道徳的渇きを持つ者がヴェーダに向ったとて決してその渇きを癒すことはない。
委ねられねばならないとした。

ヴェーダの不可謬について彼は何事も不可謬ということはありえず、全ては徹底した検討、再検証に
このことを彼はカーラーマヘの教えではっきりさせている。

ある時、釈尊は多勢の弟子を連れコーサラ国を通り過ぎる途中、カーラーマの住むケーサプッタの

町に立ち寄った。カーラーマはそのことを知り釈尊の許へ赴きこのように語った。

﹁世尊よ、何人もの隠者や苦行者がケーサプッタを訪れ、それぞれ自分の見解を披涯し教示します
っているか分らず不安で仕方がありません﹂
た 191第三部一第四章何がダンマではないか

が、誰もが他人の考えをやっつけ反対します。そのため私共はどの人の考えが正しくどの人のが間違

﹁不安と疑いを持つのはもっともですカーラーマさん。あなたはいい時に不安と疑問を抱かれまし

いいですかカーラーマさん。あなたが聞いたことを単に信じてはいけません。人から人に手渡され

たものを単純に信じてもいけません。一般に流布していることもそうです。経典に書かれていること、

理の巧承さ、表面上の考察、説かれた信条や考えが気に入ったからとか、もっともらしさや評判の高

い隠者たちの言葉だからなどの理由で全てを簡単に受け入れてはなりません﹂ ﹁ではどうやってその正しさを見分ければよいのでしょうか?﹂

﹁それは先ず自らに問うことです。これこれは健康に良くない、これらはいけないことだ、これら

は賢人によって戒められている、これらは悪しき状態、苦し承を引き起しているかどうかを見分ける

ことです。そして更に一歩進め、教わった教理が渇望、僧しゑ、幻想、暴力を増長させていないかど

うかを検討しなくてはなりません。しかしこれだけで十分とはいえません。その教理が人を情念の虜

とするものでないか、生き物を殺さそうとしていないか、他人のものを取ろうとか、人妻の後を追い

かけ、嘘をつき、他人にも似たようなことをさせようとしていないか、そういう現れがないかどうか

良く確かめなくてはなりません。そして最後にこれら全てが不健康と不幸に向わせるものでないかど
ながりませんか?﹂

うかを自らに問わねばなりません。どうですかカーラーマさん?これらのことは不健康と不幸につ

﹁つながります世尊よ﹂
1 9 2

﹁これらはいけないことですか?﹂
﹁いけないことです﹂

﹁賢人が戒めていませんか?﹂
﹁戒めています﹂

﹁それらは不健康や不幸に導きませんか?﹂
﹁導きます﹂

﹁その経典は決定的で不可謬ではありえませんか?﹂
﹁ありえません、世尊よ﹂

﹁しかしカーラーマさん、私は〃これこれのことをただ簡単に受け入れてはならない〃といっただ

けなのです。あなたがそのことを十分見極めてから退けなくてはいけません﹂
我々はあなたを信じ依りどころとします﹂

﹁見事です世尊よ。誠に素晴らしい。どうか私共を今日より死ぬまで弟子として受け入れて下さい。

この論旨の眼目は簡明である。誰の教えであれその権威を受け入れる前に、それが経典に書かれて

いるからとか、理が巧承に説かれているからとかで直ぐ受け入れず、表面上の考察や、説かれている

信条や考えが気に入ったとか、もっともらしく見えるからとか、偉い人がいったことだからだとかい

ったことだけで受け入れてはならない。それらの信条や考え方が健康か不健康か、いけないことかい
づいての承私たちは他人の教えを受け入れることができるのである。

けなくないか、幸福か不幸かどちらに導くことなのかを十分考慮しろということである。これらに基

第五章サッダンマ︵正法︶とは何か

第一節サッダンマの働き
第五章サッダンマ(正法)とは何力

伶心を清らかにすること

ある時釈尊がシュラーヴァスティーに住んでいた時、コーサラ国王パセーナディが釈尊の許を訪れ、
と思い、彼を食事に招待した。

二輪馬車から降り恭しく敬礼をし近づいた。王は釈尊の見事な人格と教義を市民に示し信仰させたい

ブッダは承諾し翌日弟子を伴い街へ行き、街の大通りの四辻の指定された場所に坐した。食事をす
ませたあと黒山の人だかりの四辻で説法をはじめた。

集まった聴衆の中に二人の商人がいた。一人はこう心で咳いた。〃このような教義を公衆に説かせ

る王はなんと聡明な方だろう。教義の適用範囲は実に広く、その内容は実に深い!″もう一人はこう

193第三計

思った。〃こんな人をこんな所で説法させる王はなんと愚かだろう。車にくくりつけられた牡牛の後

に従いて鳴きながら歩いている仔牛のようにこのブッダは王の後にくっついている〃

二人は街を出、宿に一戻った。善良な商人は酒を慎しみ、もう一人は酔っぱらって道路に寝てしまっ

た。翌朝早く商人の馬車は出発し道端に横たわっているその商人を御者は誤って蝶き殺してしまった。

1 9 4

もう一人の商人は遠国へ赴き、馬占いによって王座につく幸運に恵まれた。後その王は不思議な因縁
の巡り合わせを想い、ブッダを招いて人民に説法を説くよう願った。
をつけ加えた。

釈尊は、邪しまな心を持った商人の死と賢明な考えを持った王の繁栄の理を説法し次のような詩句

﹁心は全ての根本である。心は主人、心は原因である。心の中に悪しき思いがあれば、その言葉は

邪しま、行いも邪しま。罪から生れる悲し承は、車についてくる職のようにその人について廻る。心

は全ての根本である。支配し、災を招くのも心である。心の中に良い思いがあれば、その言葉は善く、

行いも善い。そのような行いから生れる幸せは身体についてくる影のようにその人について廻る﹂

これを聴き、王をはじめ多くの人びとがブッダに帰依し弟子となった。
目この世を義の王国とすること

宗教の目的とは何か?それぞれの宗教はそれぞれの答えを持っている。中でも最も普遍的な答え

は神を求め、魂の救いの大切さを教えることである。ほとんどの宗教は三つの王国を説く。一つは天

国、二つ目はこの世の、三つ目は地獄である。天国は神が,支配し、地獄は悪魔が支配しており、この

世は争いが絶えない。また未だ神の威令はこの世を覆わず何時の日かと待たれている、ある宗教では、

天国は神が直接統治しているが故に義の栄える国であるという。別の宗教では、天国はこの世にはな

いという。そこに行ける者は神とその予言者を信じたものの承である。天国に行けばいかなる快楽も

かなえられる。全ての宗教ではこの天国に到達することが人間の目的であり、どうやってそこに到達
答え方をしている。

するかが最大の問題とされる。この〃宗教の目的は何か?〃という質問に対し、ブッダは全く異った

人生の目的は想像上の天国に辿りつくことだと彼はいわなかった。〃義の王国″はこの地にあり、

正しい行いによって到達できるということであり、それぞれの悲しゑを取り除くため、他人に対し己
ということであった。

れの行為が正しくあるよう努めて学ぶべきであり、そのことによってこの世を〃義の王国″とせよ、

ここが彼の宗教と他のそれと違うところなのだ。彼の宗教は五つの戒しめ、八つの正しい道、パー

ラミターI智慧を強調している。何故これらを彼の宗教の土台としたのか?それだけが人を正しい
第五章サッダンマ(正法)とは何か

ものとさせる人生を作るからである。人間の惨めさは人間の人間に対する不公正さから生れる。義の

桑がこの不公正と惨めさを失くすことができる。それ故にこそ宗教は説教するだけでなく、行いが正

しいことが何よりも優って大切なのだということを人の心に浸承こませなくてはならないといったの

だ。義というものを教えこむために宗教は幾つかの義務を果さねばならない。宗教は何が正しく、何

が間違っているかを知らねばならぬこと、そして正しい道には従うべきことを人に教えねばならない。

これ以外にブッダは二つの目的を極めて重視した。第一は、祈祷、儀式の励行、供犠といったもの

とはっきり区別される人間の本能と性質の錬磨である。 ブッダはこのことをデーヴァダハ・スッタの中のジャイナ教に対する彼の考えで明らかにしている。

ジャイナ教教祖マハーヴィーラは、人が経験することは全て前世の行為に由来すると確信していた。

前世の過ちが消え新たな過ちを犯さなければ将来何事も起らないだろう。未来に何事もなければ過ち
苦し象は消え去る、というものだ。

195第三皆

は無くなり、過ちが無くなれば痛苦も無くなる。痛苦が無くなれば諸為の情念も失せ、従って一切の

ブッダはこれに対しこう尋ねた。〃現時点で心の悪しき性質が矯められ正しいものとなっているだ

ろうか?もしそうでないなら、そこでもし心を正しいものに変える修練を積まないなら、前世の過

1 9 6

ちが消え新たな過ちを犯さないことに何の意味があるのか?〃

ブッダはそこにこれまでの宗教の重大な欠陥を見ていた。心の良き性質こそ変ることなき善の不変

の基礎であり保証なのだ。それ故ブッダは心の鍛練を第一義として重視したのである。 カ・スッタでこの点を強調している。

第二は、たとえ一人であっても正しいものの側に立つ勇気を持つことである。ブッダはサッレー

﹁チュンダょ、そなたはこのように決意し心の悪しき性質を取除かねばならない。他人が害を与え

ても自分は他人を害しない。他人が殺しても自分は殺さない。他人が盗んでも自分は盗まない。他人

がより清らかな生活を送るまいとしても、自分はその道を歩む。他人が嘘をつき、中傷、非難し、無

駄口をたたこうと自分はそのようなことはしない。他人が負欲でも自分は貧らない。他人が悪意を抱

いても自分は抱かない。他人が間違った見解、目的、言葉、行為、膜想に身を任せても自分は八つの

正しい道︵正しい見解、正しい目的、正しい言葉、正しい行い、正しい暮らし方、正しい努力、正しい注意、正

しい唄想︶に従う。他人が真理や救いについて間違った態度をとっても自分は正しい態度をとる。他

人が怠惰、無気力に陥入っても自分は陥入るまい。他人が得意がっても自分は謙虚でいよう。他人が

迷いに陥入っても自分は陥入るまい。他人が激怒、悪意、妬承、嫉妬、害沓、寅欲、偽善、欺瞭、頑

な、倣慢、出しゃばり、悪友との交際、噸惰、不信、恥知らず、無思慮、無指導、不活発、混乱、愚
のようなものに固執せず、捨て去ろう。

かさなどを抱いても自分はその反対であろう。他人が一時的なものに固執ししが承つこうと自分はそ

これこそが、行為や言葉はいうまでもなく意識の正しい状態を保つのに最も有効な心の開発なのだ。 ブッダが考えていた宗教の目的とはこのようなものなのである。

それ故これらの決心を失わぬよう意志を鍛えねばならないのだよ、チュンダ﹂

第二節サッダンマたるべきダンマは智慧を深めねばならない

B学問が全てに開かれてこそダンマはサヅダンマである

バラモン教義は、知識の修得は全てに開かるべきでなく極く少数に限定すべきだとした。その少数
第三部一第五章サッダンマ(正法)とは何か

者とはバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャの三カーストであり、しかもその男子に限られていた。

全ての女性I︿ラモン、クシャトリてヴァイシ錆の三ヵ︲ストに属していようといまいとl、

シュードラカーストの男女全員は知識の修得はおろか文字を習うことも禁じられていた。

ブッダはこの非道なバラモン教義に反旗をひるがえした。彼は知識は男であろうと女であろうと全

ての人間に開かれているべきであると説いた。 多くのバラモンがその意見に反駁を試承たが、バラモン、ローヒッチャとの論争がブッダの考えを
最も良く表わしている。

釈尊が多勢の弟子と共にコーサラ国を旅していた時、沙羅樹に取り囲まれたサーラヴァティカーと

いう村に泊ったことがある。ローヒッチャは樹倉の多い穀物の実り豊かなサーラヴァティカー村で、

王から授けられた支配権を握り恰も君主の如く振る舞っていた。ブッダが村に泊まっているのを知り、

床屋のベーシカを使いに出し、釈尊の御気嫌をうかがわせ、翌日食事に招待した。翌朝早く釈尊を迎

7 9 7

えにきたベーシカは道為ローヒッチャは、沙門やバラモンは女やシュードラに知識を授けるべきでな

いと考えているといった。そうか、そうか、と釈尊は領き、ローヒッチャの家に着いた、ローヒッチ

1 9 8

ャはブッダを筆頭に彼の弟子たちに自ら硬軟の食事を給仕した。食事を終えるとローヒッチャはブッ
ダの脇に座した。

﹁あなたは、沙門やバラモンは女やシュードラに知識を授けるべきでないという意見をお持ちだそ
うだが本当ですか、ローヒッチャさん?﹂ブッダは尋ねた。 ﹁その通りです、ガウタマさん﹂ローヒッチャは答えた。

﹁ではローヒッチャさん、人がこういったとしましょう。バラモンのローヒッチャはサーラヴァテ

ィヵーに土地を持っている。彼だけに税と村の収穫を一人占めさせてやろう、と。こういうことをい
﹁そうです、そういう男は危険人物です、ガウタマさん﹂
﹁いいえ、考えているとは思いません﹂

う人はあなたに頼って生活している人びとを動揺させる危険人物ということになりませんか?﹂

﹁そういう危険なことをいう人は、人びとの幸せを考えていると思いますか?﹂

﹁人びとの幸せを考えていないとすれば、その人は人びとを本当に愛しているのでしょうか、それ とも敵意を抱いているのでしょうか?﹂
﹁敵意を持っています、ガウタマさん﹂
﹁不健全な教義だと思います﹂

﹁心に敵意を抱いているとすれば、その教義は健全といえるでしょうか?﹂

﹁よろしい。ではこれをどう思いますかローヒッチャさん。コーサラ国の.ハセーナディ王はカーシ

とコーサラを領有していますね。もしある人が、国王にカーシとコーサラの税と収穫物を一人占めさ
険人物になりませんか?﹂

せてやろうといったとします。その人は、王に頼って生きているあなたや他の人びとを動揺させる危

﹁なりますともガウタマさん﹂

﹁そういう人は、人のためを思っておらず、人に敵意を抱いているが故に、その人の教義も健全で
はないことをあなたは認めますか?﹂
﹁はい、認めます﹂

﹁よろしい。では、サーラヴァティカーを占有しているあなたは、全ての税と収穫を独占すべきだ、

また王についても同じことをいう人は、あなたに頼って生きている人びと、あるいは王に頼って生き
ツダンマ(正法)とは何か

ているあなた方にとって危険人物だということを認めるのですね?他人に危険を及ぼすそのような

人は同情心に欠け敵意を持つ人に違いありません。そういう人の考えは不健全な教えです。ならばロ

ーヒッチャさん、沙門やバラモンは自分の知識や学識を女やシュードラには授けるなという人は、人

びとの生きる障害となり、他人の幸せに共感を抱いていない人ということにはなりませんか?他人 の幸せに共感を持てない人は敵意に満ちた心の持主でしょう。そういう他人への敵意に満ちた人の教
えは実に不健全な思想だとは思いませんか?﹂

。学識だけでは十分でなく、それだけでは街学者に陥入るということを教えるダンマがサヅダンマである

第三部一第五章

ブッダがコーサンピーという国の〃美しい声″と呼ばれる僧園で説法をしていた時、聴衆の中にた

またま一人の雷ハラモン学者がいた。彼は教典についての学識は並ぶ者なく議論して敵う者はいないと

己惚れ、出歩く時はいつも手に明りを持っていた。理由を問われ〃この世は余りに暗く、人は余りに

惑わされ易い。だからできるだけ照らしてやろうとこの明りを持って歩いているのだ〃と附いた。

7 9 9

ブッダもその学者を見、どうして明りを持っているのか尋ねた。人は全て無知と暗闇に包まれてい

る。だから人びとを照らしてやろうとこの明りを持っているのだと学者は答えた。

200

﹁ではあなたは四つの教説︵ヴィディャーⅡ最高の知識︶、〃文芸Iシャブダヴィデイヤー″に関する

教説、〃清らかな身体とその道″に関する教説、〃政治″と〃兵法″に関する教説を身につけている
程に学識がありますか?﹂とブッダは尋ねた。

これを聞き、学者は知らないと告白せざるをえず、手にした明りをほうり捨てた。

﹁いかなる人間でも、どれほどの学識があろうとなかろうと自分が余程偉いと己惚れ他人を軽蔑す
るのと同じです﹂と論した。
白大切なのは智慧だということを教えるダンマがサヅダンマである

る者は、その人自身手に明りを持った盲いのようなものです。自分が盲いなのに他人を照らそうとす

バラモンにとって〃知識、学識″自体が価値であり、その人間の徳性に関係なく、学識者は尊敬の
は学識者は王より偉いといいたいのだ。

的であった。彼らはこういった。王は自分の国で敬われるが学識者は世界中で敬われる。ということ

ブッダは知識と智慧とに区別を立てた。バラモンも同じことをしているというかもしれない。多分
そうだろう。しかし両者の間には大きな違いがある。

アングッタラ。ニカーヤ︵増支部︶に出てくる説話の中でブッダはこの違いを明らかにしている。
マつ

ラージャグリハの竹林園にいた時、マガダ国の大臣ヴァッサカーラが訪ねてきて、ブッダにこうい

﹁尊師ガウタマよ、我々バラモンは四つの資質を有する者を、智慧ある偉大な人といいます。その

四つの資質とは、先ず学問があることです。話されたことの意味を直ちに理解します。また彼は良い

記憶力を持っています。昔の事柄、話されたことを良く暗記し思い出すことができます。彼はまた家

事全般に長け、勤勉であります。それ故彼は資力があり、物事を正しく運び上手く処理する能力があ

ります。もしこのような資質を持っていれば私共はその人を智慧ある偉い男だと認めます。ガウタマ

様は私を賞めるべきか非難さるべきか、どちらの方だとお考えですか?﹂

﹁なる程。しかし私はあなたを賞めもしなければけなしもしません。私が智慧ある者と認めるのは、

あなたが今いったものとは全く異った四つの資質を持っている人です。その人は先ず多くの人びとの

幸せのためにあり、人びとは彼によって正しい道を選び、素晴らしい功徳ある性質とは何かを知りま
201第三部一第五章サッダンマ(正法)とは何か

す。彼は己れが恵念したいと思う考えにはそれが何であろうと没頭し、そうしたくないものには振り

向きもしません。彼は自分の心を完全に統御しているからです。また彼は、この世においても祝福さ

れた境地であるより高い考え、四つの膜想に易灸と達しています。煩悩の何たるかを完全に理解しそ

れを減することによって心を解放し、智慧による解放の境地に安住します。私はあなたを賞めもけな
と申します﹂

しもしないけれど、今いった四つの資質を身につけている人こそ大いなる智慧者、大いなる人である

﹁素晴らしい、実に見事です。そして尊師ガウタマこそ今話されたことの全てを所有されているお
方だと信じます﹂大臣は感動をこめていった。

2 0 2

第三節サッダンマたるべきダンマは慈愛を深めねばならない

B単なる智慧だけでは十分でなく戒行が伴わなければサヅダンマではない

智慧は欠かせないが戒行のない智慧は危険であり、戒行はより大切である。智慧は正しく考えるこ
とであり、戒行は正しく行うことである。 ブッダは戒行に関して五つの基本的原則を述べている。

殺すなかれ、盗むなかれ、嘘をつくなかれ、性的放縦に走るなかれ、飲酒に耽るなかれ・

ブッダが知識より戒行をより重視した理由は明らかである。知識の活用は人の戒行に左右される。

戒行のない知識は無価値だ、とブッダはいった。また、戒行は何ものにも比すことはできない。戒行
態だ。それ故自らの戒を清く保てといった。

は初まりであり拠り所である。戒行は全ての善の生家の親であり、全ての良き状態の中でも最高の状

二、智慧と戒行以外にカルナー︵同情。憐慨︶が伴ってはじめてサヅダンマとなる

ブッダのダンマの基礎について色為と異説がある。智慧だけがその宗教の基礎なのか、慈悪だけが

そうなのか?この点を巡ってブッダの弟子たちは二派に分れ、一派は智慧のみをその宗教の基礎と

主張し、他の一派は慈悠説を支持した。この二派は今もなお分れたままである。しかし、ブッダの言

葉に照らして承れば両派とも間違っている。智慧がブッダの宗教の二本柱の一つだという点に異論は

ない。慈悪もその柱の一つかどうかに論議があったのだが、柱の一つであるのは論ずるまでもない。 ブッダ自身の言葉がそれを裏付けている。

昔ガンダーラにひどい業病に躍った年老いた托鉢僧がいた。彼のいる所は全てが積れるというので

誰も近づきたがらず、助けてやろうとする者もなかった。これを聞いたブッダは五百人の弟子と共に

赴き乞食僧を手厚く介護しブッダ自ら体を洗ってやった。王はじめ大臣たちや天上の神々もそれを見
えていった。
第三部一第五章サッダンマ(正法)とは何か

に集まり感嘆し、どうしてブッダほどの人がそこまでしなくてはならないのかと尋ねた。ブッダは答

﹁完き人がこの世に現れる目的は、それが沙門であれどのような信仰を持つものであろうと、貧し

い人、助ける人も守ってくれる人もない人びとの味方となり、貧窮に苦し承、天涯孤独な孤児、年老

いた無力な人びとを励まし、他の人にもそうするよう説くことなのだ﹂

㈲同情・憐澗よりマイトリー︵慈愛︶がもっと大切だということを教えるのがサヅダンマである

ブッダは同情の大切を説くに止まらず、慈愛の重要さを教えた。悲。同情は人間への愛であるが、 慈愛は全ての生命あるものへの愛である。

シュラーヴァスティーに滞在していた時、ブッダは慈悲についてこう弟子たちに語っている。 ガンジス河に放火できるだろうか?﹂
ンジス河がどうして燃えましょうか﹂

﹁人が地面に穴を掘ったとて地面が怒るだろうか?空中に絵を描こうとして描けるだろうか?

﹁いいえ、それは無理です。空中に画布もないのにどうして色が塗れましょうか。燃えない水のガ

2 0 3

﹁それと同じように悪しき情念の痕跡を残す画布を心に抱いてはならない。大地が傷つけられたと

2 0 4

思わず、ガンジス河が火にいささかも煩わされることのないように、そなたたちに振りかかる全ての
侮蔑と不正に耐え、敵に対しても慈愛を抱きつづけねばならない﹂

﹁慈愛は永遠に流れつづけねばならない。己れの心を大地の如くどっしりと支え、空気の如く清く

ガンジス河の如く深く保つことを己れの聖なる務めとせよ。そうするなら汝らの慈愛は容易くゆらぐ

ことはなく、敵対するものもやがて倦むであろう。汝の慈愛を果しない世界の如く広げ、いかなる憎
るだけでは十分でなく、慈愛を実践せねばならない﹂。 次の説法も大事である。

し承も思い浮かぶことのないほど汝の思いを深遠にせよ。私のダンマにおいては、悲・同情を実践す

﹁昔シュラーヴァスティーにヴィデーシカーという温和しく柔和な女がいた。彼女の召使のダルキ

エは賢い働き者であった。ある時ダルキエは思った。〃奥さんは評判がとても良く、腹を立てたこと

がないけれど、あれは上面だけなのか、それとも本当にそうなのだろうか。私が良く働くのでかんし

ゃくを起さないでいるだけなのかしら。ひとつ試して承てやろう″そこでダルキエは翌朝遅く起きた。

女主人は大声で彼女を呼び、どうしてそんなに遅く起きたのかと問うた。召使はどうということはあ

りません、と答えた。女主人はなんていい方をする娘だろうと不愉快に思ったが、それ以上は砦めな

かった。ダルキエは思った。奥さんは感情は持っているけれど、それを表に現わさなかった。もう一

度試して承よう。翌朝も遅く起きてきた召使と同じ問答を繰り返した女主人は、〃なんていい方をす

る娘だいお前は″と今度は口に出していったがそれ以上かんしゃくは示さなかった。ダルキエはもう

一度試そう、とその翌朝も遅く起きた。どうしてこんなに遅く起きたのかと問われ、なんでもありま

せんと答えると、遂に女主人はかんしゃく玉を破裂させ、棒切れで彼女の頭を殴ってしまった。頭か

ら血を流し隣家へ駆けこんだ召使はこういって叫んだ。〃あの温和しい人が、こんなことをした!

あの優しい人がこんなことをした!私が一寸遅く起きたからといって私の頭をこんなにひどくぶっ
た!″以来ヴィデーシカーは乱暴者ということになってしまった。

これと同じように僧たちも自分に対して悪口をいわれない限り親切で温和しく柔和でいるだろうが、

悪くいわれた時にも相手に慈悲の心を抱けるかどうかが問題なのだ。布施を受けた時だけ慈悲深くな
悲の人という。

るような僧は真の慈悲の人とはいえない。その教理の深奥から湧いてくる慈悲を持つ者の承を真の慈

宗教的功徳を得んがための手段は、心が自由で、そのような手段を全て呑承こ承、光り輝く慈悲の
貿麺:章サッダンマ(正法)とは何か

十六分の一の値打もない。月が満天の星をその輝きで覆い、雨期の後、姿を見せる太陽が全ての暗黒

を追い払い、暁の明星が光り輝くように慈悲は何よりもまして輝き渡る﹂

第四節サッダンマたるべきダンマは一切の社会的差別を取り払わねばならない

㈲サヅダンマたるべきダンマは人と人との垣根を取り壊さねばならない

理想的社会とは何か?バラモンによればヴェーダが規定した社会がそれでありヴェーダは不可謬

205第三制

であるが故に人びとが受け入れうる唯一の理想社会である。そのような理想社会とは即ち四種姓制度

である。その社会は寺ハラモン、クシャトリャ、ヴァイシャ、シュードラの四階級から成っている。こ

の階級の相互関係は不平等な序列原理によって統制されている。別のいい方でいえば、これら階級は

社会的地位、権利、特権のどれにおいても不平等であり、一つの階級の上にもう一つが重なってある

206

社会なのだ。バラモンを最上位にその下にクシャトリャ、その下がヴァイシャ、最下位がシュードラ

である。また各階級は世襲的職業に従事する。バラモンの職業は学問と教授、司祭である。クシャト

リャは武器を持って戦うこと。ヴァイシャは商売や事業。シュードラは上位三階級に一切の肉体労働

をもって奉仕すること、である。いかなる階級もそれぞれの職業領域を冒してはならない。この理想

社会原理がバラモンによって唱えられ人びとに教えこまれてきたのである。この原理の核心はいうま

でもなく〃不平等″である。ブッダはこれに徹底的に反対した。ブッダはカースト制度の最強の反対

者であり、平等の最も早い最も強固な主唱者であった。彼はカーストと不平等について事毎に反対し

た。このことに関し多くのバラモンたちがブッダに挑戦したが、ことごとく沈黙させられた。
る。アッサラーヤナはいった。

アッサラーャナ。スッタに、ブッダに論争を挑んだアッサラーャナというバラモンの話が載ってい

﹁ガウタマさん、バラモンはバラモンの承が卓越した階級であり他の三カーストは劣っていると考

えます。バラモンの承が白く、他のカーストは職れています。清浄さはバラモンの象に宿り、バラモ
ウタマさんはこれについてどうお思いでしょうか?﹂ ブッダは一言の下にこの言葉を粉砕した。

ンだけがブラフマ︵徒︶の正嫡です。彼の口から生れ、子であり、被造物でありその世継ぎです。ガ

﹁アッサラーャナさん、バラモンの奥さんは月のものがあり、妊娠し、子を産むでしょう?誰し
アッサラーヤナは一言もなかった。ブッダは更にいった。

も同じようにして生れるのにどうしてバラモンだけがあなたのいうように特製なのです?﹂

﹃アッサラーャナさん、もし貴族の青年がバラモンの娘を要り、その間に出来た子は一体何だと思

いますか?人間ですかそれとも獣ですか?﹂

アッサラーヤナはこれにも答えられなかった。 のカースト民にはできないのですか?﹂
﹁いいえ、全ての階級のものにも可能です﹂

﹁徳を養うことにおいて、バラモンカーストだけが僧しゑや悪意を持たぬ愛を養うことができ、他

﹁あなたはヨーナやカンポージャその他の国々には主人と奴隷の二つの階級しかなく、主人は奴隷
﹁はい、聞いています﹂アッサラーヤナは答えた。
第五章サッダンマ(正法)とは何力

にもなるし、その反対もありうるということを聞いたことはありませんか?﹂

﹁四種姓制度が理想社会ならもっと普遍的になっていていいのではありませんか?﹂
ダの弟子になってしまった。

アッサラーャナはどの点についてもカーストと不平等性を擁護することはできず、結局、彼はブッ

ヴァーセッタというバラモンはブッダの思想を受け入れ、その事で他のバラモンたちから非難され

ていた。ある時ヴァーセッタはブッダのとこへ行きバラモンが彼のことを何といっているか話した。

﹁尊師よ、バラモンたちはこういっています。バラモンだけが最高の社会的地位にある。他のもの

は低い。バラモンだけが肌が白く他のカーストは浅黒い。バラモンだけが素姓が正しく他のものは違

う。バラモンだけがブラフマーの嫡子で、彼の口から生れ、その子孫であり、被造物であり相続人で

ある。しかるにお前はその最高の地位を捨て頭を剃った世捨人、寅欲な金持、浅黒い肌の、足から生

207第三部

じた低階級の下へ走った。そういって彼らは私を散☆悪しざまに罵ります﹂

﹁ヴァーセッタよ、バラモンたちはそういう時古の伝承を忘れているのだ。バラモンの妻たちも他

のカーストの女たち同様子を苧み、生象育てる。しかもその女の子供であるバラモンがブラフマーの

口から生れただの、嫡子だ、子孫だ相続人だなどといっているにすぎない。そういうことで彼らは逆

2 0 8

にブラフマーを愚弄しているのだ﹂ 業の固定的分業制についてであった。

またある時バラモンのエースカリーという者がブッダに三つの点について論争を挑んだ。最初は職

﹁ガウタマさん、バラモンは最上位にあるから誰にも奉仕しないでいい。他のものはバラモンに奉

仕するために生れてくるのだといっています。それぞれのカーストに準じて奉仕を受け、農民だけが

農民同士で奉仕することに定められています。これについてあなたはどう思いますか?﹂

﹁この世は等ハラモンのいう通りに四つの職業区分に分けられているのでしょうか?私は一切の奉

仕を実行せよとも拒否せよともいいません。もし奉仕がその人間に悪く働き駄目にするなら奉仕すべ

きではありません。奉仕がその人のためになりその人を良くするのなら奉仕されていいでしょう。要
いうものに対する私の判断基準です﹂
ねた。

はどのカーストであろうとその奉仕によって立派になるか駄目になるかなのであって、それが奉仕と

次にエースカリーは、先祖や家柄といったものが何故その人間の地位を決めてはならないのかと尋

﹁先祖を誇りにするとはいっても、たまたまその人間が生れてきた境遇で貴族とかバラモンとかに

決められるにすぎない。火も火がつけられて初めてその火の材料の名で、これは薪の火、木っ端の火、

干草の火、牛糞の火と呼ばれるように、生れはその人間の階級的名称を定めるにすぎず、わが教えこ

そが全ての人間への真の宝の源なのだ。家柄もその人間の善悪、美醜、富とは関係がない。貴族出身
れ″が良き人間を作るのではないのだ﹂

の人殺し、泥棒、嘘つき、その他様々の悪徳を身につけた者は珍しくあるまい。それ故高貴の〃生

三番目は、各カーストに与えられた暮らしの方便の道についてであった。エースカリーはこう問う

た。

﹁バラモンは各カーストに次の収入の道を定めています。即ちバラモンは供物から。貴族は弓矢に

よって。中間階級は農耕と牧畜。農民は肉体労働の承によって生活の糧をえよと。もし誰であっても
ます。このことをガウタマさんはどう考えられますか?﹂

決められた職業を捨て他のことに従事すれば、預かった財産を横領する後見人のようなものといわれ

﹁この世は全てこのバラモンの区分に従っているのですか?﹂とブッダは尋ねた。
第五章サッダンマ(正法)とは何か

﹁いいえ、そんなことはありません﹂とエースカリーは答えるしかなかった。 ブッダはヴァーセッタにこうもいっている。

﹁大切なのは高い理想であり高貴な生れなどではない。カーストも不平等も、優越性も劣等性も無
であれば人もそうである、と﹂

い。全ては平等なのだ。他者と自分を一体視せよ。人がそうであれば自分もそうであり、自分もそう

ロサヅダンマたるべきダンマは人を量るのは生れではなくその価値であると教えねばならない

、ハラモンの説く四種姓は生れを基盤にしている。ブッダの教えはこれと正反対である。

釈尊がアナータピンデイカの僧園にいた時のことである。昼になるとブッダは鉢を手にシュラーヴ

ァスティーの町へ出掛けた。折から等ハラモソのアッギカの家で供犠の火がたかれていた。各戸を廻り

209第三部

ながら釈尊がアッギカの家に近づくとその・ハラモンは腹を立て罵った。

﹁こっちへ寄るな、乞食坊主奴!この職らしい不可触民奴が!﹂
これを聞いて釈尊は穏かに話しかけた。

﹁、ハラモンさん、不可触民とは誰であるか、何が人を不可触民にさせるのかあなたは知っています

2 1 0

かつI・﹂

﹁そんなことは知らない﹂とバラモンはにべもなくいった。それを知って損はないでしょう、とい
うブッダの言葉に、そんなら説明して承ると男は高飛車にいった。

﹁苛立ち、僧し承を抱き、悪意を持ち、他人を誹誇し邪道に走り、人を偽る者が不可触民です。人

を傷つけ人に慈悲を持たぬ者が不可触民です。他人のものを盗承、借りを返さず返済を求められると

借りた覚えがないという者も不可触民です。つまらぬことのために人を殺め、自分のため、他人のた

め、金銭のために虚偽の証言をなす者も不可触民です。他人の妻を力づくで、あるいは合意の上で関

係を結ぶ者も不可触民です。余裕がありながら年老いた両親を養おうとしない者も不可触民です。何
れで不可触民たることはなく、バラモンたることもありえません﹂ アッギカはこの言葉を聴き非常に恥じ入った。
㈲サッダンマたるべきダンマは人間間の平等を弘めてゆかねばならない

が善であるか何が間違っているかを問われて、こっそりと教える者も不可触民です。いかなる者も生

人は生れながらにして不平等である。あるものは壮健であるものは病弱である。あるものはより知

能に恵まれあるものは劣っている。あるものはより能力があり、あるものは乏しい。あるものは裕福

で、あるものは貧しい。全てのものはいうところの生存競争に加わらざるをえない。生存競争におい
して認められていいのだろうか。

てもし不平等が競争原理であれば弱者は常に追いつめられる。このような不平等原理が人生の法則と

ある者は適者生存説を基にそれを主張する。だが、適者が社会的観点から視て善なのだろうか?

これについて恐らく誰も積極的な答えはできないだろう。この疑問の故に宗教は平等を説くのである。

何故なら、善なるものが適者でなくとも生存できるようにするのが平等性だからである。社会が真に

必要とするのは善なるものであって適者ではないのだ。宗教が平等を唱えるのは正にこのためである。

これがブッダの考えであり、その故にブッダは平等を説かない宗教は宗教たるに値しないといったの

である。人を悲しませることで己れの幸せをえたり、自らを、あるいは、自他双方を嘆かせることで

他人に幸せを与えたりする行為を奨励する宗教を信じられるだろうか。自らの幸せをも願いつつ他の

幸せを図り、抑圧を許すまいとする宗教の方が優れているとは思わないだろうか。こ のことをブッダ さが
第五章サッダンマ(正法)とは何か
2〃鮒三部

は平等に反対する零ハラモンたちに厳しく問いつづけた。ブッダの宗教は人間の良き性から湧き出た全
き義なのだ。

第四部

第一章宗教とダンマ

B宗教とは何か

〃宗教″という語は定まった意味を持たない暖味な言葉である。この語には様為の意味がある。そ

れは宗教が幾つもの段階を経てきたからであり、各段階で宗教は、それぞれ異った概念を与えられ、
第一章宗教とダソマ

ある段階での概念はそれ以前またそれ以降の段階の概念と同じとはいえないからである。宗教の概念
は一定ではなく時代から時代へと変化する。

稲妻、雨、洪水といった自然現象のほとんどは原始人には説明できなかったし、その現象を統御す

るために行われる奇妙な振舞いは呪術といわれ、この時代の宗教と呪術は同一視されていた。次の段

階で宗教は信仰、儀式、祭礼、祈祷、供犠と同一視された。しかしこの概念は二次的なものにすぎな

い。宗教の中核的概念は、原始人が説明できず、理解することもできなかった現象を引き起す何か特

215第四部

別な〃力″の存在への信仰と共に現れてくる。この〃力″は悪しきものと初めは考えられていたが時

と共に良きものとも考えられるようになった。信仰、儀式、祭礼、供犠は、良き〃力″を慰さめ怒れ

る〃力″を宥めるために欠かせないものとなった。この〃力″が後に〃神″とか〃創造主″と呼ばれ

ることになった。第三の段階でこの世界と人間を造ったのは〃神″ということになった。これにつづ

216

いて人間には霊魂があり、霊魂は永遠であり、神は人のすることは何でも知っていることになる。一

口でいえばこれが宗教的概念の変遷であり、宗教の由来であり、神への信仰、霊魂信仰、神への礼拝、

病める魂の救済、祈祷、祭礼、供犠などによる神の鎮撫を意味するようになる。
○ダンマは宗教とどう違うか

ブッダがダンマと呼ぶものは宗教とは根本的に異っている。彼のダンマはヨーロッ。︿神学者が宗教

と呼ぶものと似てはいるが、類似性よりむしろ相違性の方が遥かに大きい。このためブッダのダンマ

を宗教と認めないヨーロッ・︿神学者もかなりいる。が、このことで悔むことは何もない。悔むのは彼

らの方でありブッダのダンマにはいささかの暇もつかない。むしろそれは何が宗教に欠けているかを
にした方が賢明であろう。

示しているといえる。この論議に深入りするよりダンマとは何か、それは宗教とどう違うかを明らか

宗教は個人的なものであり、自分一人のものとして秘めておくもので、公けに開陳するものではな

いといわれる。それに反しダンマは社会的である。根本的、本質的にそうなのだ。ダンマは義であり、

あらゆる生活分野における正しい人間関係を意味する。一人の人間が一人だけで満足するのならダン

マは要らない。しかし互いに関係を有する二人の人間がいたら、好むと好まざるとに拘らずダンマを

求めざるをえないし、それから逃れることもできない。つまり、ダンマなくして社会は成立たないの

社会は次の三つの選択の中からどれか一つを選ばなくてはならない。統治手段としてのダンマを持

たない社会は必然的にアナーキイに陥入る。第二に統治手段として警察I専制主義に頼るとすればア

ナーキイ同様自由は失われる。第三にダンマと司法機関を設けることによっての承自由は生き残る。

それ故自由を欲する者はダンマを持たねばならない。
カルナー

ではダンマとは何か?何故それは必要なのか?ブッダによればダンマは智︵プラジュニャー︶と

慈・悲︵同情心︶から成立つ。。フラジュニャーとは何か?何故.フラジュニャーなのか?プラジュ

ニャーは英知であり、ブッダは迷信を根絶したいが故にプラジュニャーを彼のダンマの礎石の一つと

した。慈。悲とは何か?慈。悲とは愛である。これなくして社会は生きることも発展することもで

きないが故に、ブッダはダンマの第二の礎石としたのである。これがブッダのダンマの定義である。

宗教のそれといかに異ったものであるかは明らかであろう。このダンマの定義は古くかつ新しい。極
合体こそブッダのダンマなのだ。

めて原初的でかつ独創的である。借り物ではなく正に真理である。英知と慈・悲のこのユニークな結

白宗教とダンマの目的
217第四部一第一章宗教とダンマ

両者の目的は同じものなのか、それとも異ったものなのか。その答えはブッダとスナッヵッタ及び
バラモンのポッタ・ハダとの問答に見られる。

釈尊がかつてマッラ族の町アヌピィャーにいた時のことである。朝早くブッダは衣を着、鉢を持っ

て托鉢に出掛けた。だが途中で托鉢にはまだ時間が早過ぎるのに気付き、遍歴行者バッガヴァの住ん

でいる園に足を向け彼をおとなった。釈尊の姿を見るや今ハッガヴァは直ちに立ち上がり﹁さあどうぞ
坐し、やおらこう話しかけた。

お坐り下さい。お席はこちらに設けてあります﹂と誘い、釈尊が坐るのを待って自らも腰の低い台に

﹁尊師よ、大分以前のことですが、リッチャヴィ人のスナッカッタなる者が私のところへ来てこう

申しました。〃零ハッガヴァさん、私は釈尊を見限ったよ。もう教師とは思わない〃と。彼のいつたこ

2 1 8

とは本当でしょうか?﹂

﹁ええ、その通りですよ、バッガヴァ。しかしその時私は彼にこういった。〃スナッカッタよ、私

はそなたに、さあ来なさい。私の弟子となりなさい、といったことがあるかね?″〃いいえ、そうは

おっしゃいませんでした″と彼はいった。で私は重ねていった。〃そなたは、喜んで師の下で弟子と

して暮らし暮す、といったことがあるかね?″〃いいえ、そんなことは申しません″と彼はいった。

で、私はこう尋ねた。〃私もいわず、そなたもいわないとしたら、私を見限るというそなたと私は一

体何なのか、とね。そなたのいっていることがどれ程間違っているか分っているのかね、この愚か者

が″そうしたらあれはこういったのですよ。〃左様ですか先生。でも釈尊は、常人の力の及ばない奇

蹟を見せて下さいませんでした″〃しかしスナッカッタ央私はそなたに一度でも、さあ奇蹟を見せ

て上げるから弟子になりなさいといったことがあるかね?またそなたの方でも、奇蹟を見せて下さ

るでしょうから弟子になりますといったことがあるかね?″〃いいえ、そんなことはありません〃と

あれはいった。〃互いにそんなことをいいもしないのに見限るというのは、一体どういうことなのか、

愚か者.超人的奇蹟を示して見せるとか見せ蕨いとかが私の教える獄ン言の目的l全ての悪の根絶 lなのかね?”綱奇蹟を働か憧為かどうかが釈尊の教えるうマの目的です〃”そうか.では義ナ ッヵッタよ、そんなことは私のダンマの目的と何のかかわりもないとすれば、奇蹟を示してもそなた

には何にもならないではないか。そなたの誤りがどんなものか分るかね、愚か者″〃でも釈尊は事の

初まりというものを明らかにして下さいませんでした″〃だがスナッカッタよ、さあ私の弟子になり

なさい。そうしたら事の初まりを明らかにしてやろうとそなたに一度でもいったことがあるかね?

またそなたもそうしてくれるなら弟子になりますといったことがあるかね?″〃いいえ、そんなこと

はありません″〃もしお互いにそういうことをいいもしないのに、そんなことで見限るという、そな

たと私とは一体何なのかね、スナッヵッタょ。事の初まりを明らかにするかしないかが私のダンマの

目的なのだろうか?″〃明らかにするかどうかが釈尊のダンマの目的だと思います″〃そういうこと
そなたには何の役にも立たぬではないか、スナッカッタよ〃﹂

を明らかにするかどうかが私のダンマの目的と何のかかわりもないとすれば、それを明らかにしても

宗教は事物の初まりを明らかにすることとかかわりがあり、ブッダのダンマにはないことがここに
はっきりと描かれている。

宗教とダンマとの相違は、釈尊とポッタ・ハダとの問答にも表れている。

釈尊がシュラーヴァスティーのジェータ林にあるアナータピンデイカの園にいた時、たまたま遍歴
219第四部一第一章宗教とダソマ

行者ポッタ・ハダという者が、王妃マッリカーの園に学問所として建てられた公会堂に住んでいた。ポ

ッタ・ハダには三百人の弟子がいた。そこで釈尊とポッタパダの間で次のような討論が行われた。
かな?﹂

﹁ところで尊師よ、世界は永遠でしょうか?これの象が真実であり他のことは誤っていましょう

﹁ポッタパダさん、私はそれについては意見をはいたことがありません﹂釈尊は答えた。ついでポ

ッタパダは以下の質問を次点と浴びせた。〃世界は永遠ではないのか?″〃世界に限りはあるのか?Ⅲ

〃世界に限りはないのか?″〃霊魂と肉体は同じものか?″〃霊魂と肉体は別箇のものか?″〃真理

を体得した者は死後も再び生きるか?あるいは再び生きることはないか?″〃死後再び生きること もあり、生きないこともあるのか?″〃死後二度と生きることはないのか、あるいは生きないという

こともないのか?″これら全ての質問に対し釈尊は最初と同じ答えを返しただけであった。

2 2 0

﹁しかし釈尊はどうしてこれらのことについて意見をおはきにならないのかな?﹂ポッタ。︿ダはい
一つ

が立たず、欲望から遠去かり、清浄であることにも、静寂や心の安らかさ真の英知、内観、浬梁に到
﹁では釈尊が結論されたことは何なのですか?﹂

達するためにも何の益はないからです。だから私はそのようなことについて意見を述べないのです﹂

しました。私は苦しふの止滅をいうことを明らかにし、止滅に到る道というものを明らかにしまし

真の英知、高い内観、浬梁に到達するために役立つから意見を述べたのです﹂

ここには宗教の主題が何であり、ダンマは何を主題としていないかがはっきりと語られている。宗

教の目的は世界の初まりを説くことであり、ダンマのそれは世界の改革である。

囚道徳と宗教

宗教の中で道徳はどういう役割を果しているのか?本当のところ道徳は宗教に何の位置も占めて

いないのである。宗教の内容は、神、霊魂、祈祷、礼拝、儀式、祭礼、供犠などであり、道徳は人対

人の関係が生じたところにの象生まれる。道徳は平和と秩序を維持するための付属的役割を宗教の中

で占めているにすぎない。宗教は三角関係である。汝らは共に神の子であるが故に汝の隣人に善をな

﹁そのような質問は何の益もないからです。それはダンマと何らかかわりはなく、正しい行いに役

﹁私は苦し承とは何かということを明らかにしました。苦し承の原因は何かということを明らかに

﹁では何故釈尊はそのことについて考えを述べられたのですか?﹂

﹁その質問は有益であり、ダンマとかかわりがあり、欲望から遠去かり清くし、静寂と心の安らぎ、

せ、というのが宗教的論旨だ。全ての宗教は道徳を説くが、道徳は宗教の根本ではない。道徳は宗教

にくっついた馬車のようなもので、その都度くっついたり離されたりする。宗教的実践における道徳

の働きは一時的、時宜的なのであり、そのような形の道徳は真に有効なものとはいえない。

㈲ダンマと道徳

ダンマにおける道徳の位置とはどのようなものであろうか。簡単にいえば、道徳がダンマであり、

ダンマが道徳である。別のいい方をすれば、ダンマに神という存在はないがダンマにおいて道徳は神

の位置を占める、ということである。ダンマには祈祷も巡礼も、儀式、祭礼、供犠もない。道徳がダ

ンマの本質であり、それなくしてダンマはありえない。ダンマの道徳は人間の人間への愛という直線

的不可欠さから生れる。それは神の承認を必要としない。人間が道徳的であらねばならぬということ
第一章宗教とダンマ

は神を喜ばすためではない。人が人を愛するということは自らのためである。

尚単なる道徳は不十分であり、神聖かつ普遍的なものであらねばならない

どのように、何故ある事柄が神聖となるのか?未開、文明を問わずあらゆる人間社会には神聖視

される、不浄視される幾つかの事柄、信条というものがある。ある事柄、信条が神聖と見倣される時、

それは犯すべからざる、触れるべからざるもの、即ちタブーとなる。その反対に、聖域外の不浄視さ

221第四部

れる事柄、信条は犯されることになる。人は何の催れ、良心の珂責なしにそれに反した行動を取りう

る。神聖なものを犯すことは即ち冒涜となる。では何故ある事柄は神聖となるのか?この問題をも
素が働いているように思われる。

っと分り易くするために、道徳は何故神聖視されねばならぬのかを考えてみよう。そこには三つの要

222

第一は、最良のものを擁護しようとする社会的要求である。この裏には生存競争、適者生存といわ

れるものが潜んでいる。これは進化論から生れた理論であり、文明の初期の段階では食糧の供給手段

が極めて制限されていたため生存競争を通して進化が行われてきたという周知の思想である。この戦

いは厳しく自然は残酷であり、適者の象が生き残る。これが社会の原始的状態である。この段階が進

むにつれ〃最適者︵最強きが最良なのか?〃という疑問が生じてこなかったただろうか?もし護

ってやれば最も弱いものこそが社会的諸目的を進めてゆく上で究極的に最良のものとなるのではない

のか?で、そこから社会全体がそれに対する肯定的解答を引き出してきたように思える。ではどう

やって弱者を護ればいいのか?と人は問い、最適者に何らかの制約を課す他ない、ということを発

見した。このことの中に正に道徳の起源と不可欠さが潜んでいるのである。この道徳性は、それが原

理的に最適、最強者に課されたものであるが故に神聖であらねばならなかった。これは極めて深刻な

影響を与えた。先ず、道徳は社会的になることで反社会的にならないだろうか?

犯罪者の間に道徳が全くないわけではない。事業家間にも道徳がある。カースト仲間の間にも道徳

はある。だがこの道徳性は孤立的、排他的である。〃集団的利益″を擁護する道徳であるにすぎない。

それ故そのような道徳は反社会的なものとなる。その反社会性を際立たせるのはこの種の道徳的孤立

と排他性なのだ。ある集団が自分たちの利益を守らんがために道徳を遵守するのもその裏返しにすぎ

ない。このような社会的集団組織のもたらす影響は大きい。社会がこのような反社会的集団から成立

しつづければ社会は混乱した派閥社会でしかなくなるだろう。このような社会の危険性はそれが多く

の異った規範や基準を作り出すことである。共通の規範や基準を欠けば社会は調和した全体でありえ

なくなる。このように異った規範や基準だらけの社会では人は精神的一貫性を持ちえない。一つの集

団が他の集団の合理的で釣り合いのとれた要求におかまいなく君臨する社会は必然的に対立に導かれ

る。この対立をなくす唯一の方法は全てにとって神聖犯すべからざる普遍的道徳律を確立することで

ある。道徳を神聖にして普遍的なものたらしめねばならぬ第三の要素は、個人の発展の擁護である。

生存競争あるいは集団支配の下では個人の利益は不安である。集団的支配機構の下では、社会が共通

の理想、規範を有していてはじめて可能となる一人一人の精神的一貫性を持ちえなくさせる。各自の

考えは混乱し、各自の描く統一は強制されねじ曲げられたものとなる。第二に集団支配は差別と、正

義の否定を生梁、階級社会を生承出す。支配者は支配者、奴隷は奴隷でありつづけ、オーナーはいつ

までもオ︲ナ︲、労働者ば労働者特権者は特権者でありつづけるだろう.つまりある者l少数着 ’にしか自由はなく、他の過半数にはない.平等もまた黙りということである.解決法ば何か?

唯一の方法は友愛を普遍的に効力あるものとすることである。友愛とは何か?それは、同胞愛即ち
ッダが説いたのは、正にこの故である。

道徳以外何ものでもない。ダンマは道徳であり、ダンマが神聖である如く道徳もまた神聖なのだとブ
223第四部一第一章宗教とダンマ

2 2 4

第二章術語的類似性がいかに根本的相違を陰蔽したか

第一節再生
日前置き

死後どうなるのかという疑問は実に屡々持ち出される。ブッダの同時代人は二派に分れていた。一

つは永遠論者、もう一つは消滅論者と呼ばれた。永遠派は霊魂は不死でありそれ故生命は永遠であり
り″を意味する説に要約される。つまり死後は何も残らない。

再生によって更新されると唱えた。梢減派の考え憾卿断滅lウッチ雲︲銭“即ち柵死臓一切の終

ブッダは永遠派ではなかった。その考えは、彼が反対する独立した不死の霊魂信仰を内容とするか

らであった。ではブッダは消滅派だったのだろうか?霊魂の非存在論者である彼が消滅派ととられ
取られていることに不満を表明しこういっている。

ても無理はない。しかし〃蛇職経″︵アラガッドゥー・ハマⅡスッタ︶の中で彼は自分がそのように受け

﹁これは私が肯定し説いていることだが、ある人びとは、私が消滅論者であり、人間は崩壊し、消

滅すると説いているといって、事実を無視して私を間違って攻撃している。私を消滅論者に仕立て上

げようとするこの良き人達による私への間違った攻撃は、私が正にそうではなく、肯定もしていない

ことなのだ﹂

もしこの言葉が本物であり、仏教にバラモン思想を忍び込ませようと企んだ者が書き入れたもので
225第四部一第二章術語的頂似性がいかに根本的相違を陰蔽したか

なければ、深刻な矛盾を生むことになる。霊魂の存在を信じずかつ消滅論者でないとどうしていえる のか。ブッダは再生を信じていたのだろうか?
口何が再生するのか?

ブッダは再生を信じていたか?答えは〃イエス〃である。だがこの質問は二つに分けた方がいい。
一、何が再生し、二、誰が再生するのか?

先ず第一の何が再生するのかについて考えて承よう。この疑問はほとんど常に無視されている。混

乱が甚しいのはこの二つの質問を混同していることから生じているのだ。ブッダによれば肉体を構成

するのは四つの要素である。即ち地、水、火、風である。人が死んだ時この四要素はどうなるのか?

死体と共に消滅するのか?ある人びとはそうだというがブッダは否定する。それらは空間を浮遊す

る同一要素の集合体と合体する。この浮遊する集合体から四要素が合体する時新しい再生が行われる。

これがブッダのいう再生である。これらの要素は必ずしも死者と同一身体のものである必要はない。
ているという点が重要なのだ。

それらは別の死体のそれと合体することもありうる。身体は滅びるがそれを構成する要素は常に生き

このことについてサーリプッタはマハーコッティタとの対話で明らかにしている。

釈尊がシュラーヴァティーのアナータピンデイカのジェータ園にいた時、マハーコッティタは夕方

膜想から立ち上がりサーリプッタの下に赴き、彼を悩ましていた幾つかの疑問を質した。

﹁最初の法悦で幾つの要素が離れ、幾つが留まるのですか?﹂マ︿Iコッティタは尋ねた。

2 2 6

|︲情欲、悪意、無気力、不安そして疑いの五つである。観察、反省、熱心さ、満足そして集中した
心が留まる﹂

﹁視覚、聴覚、喚覚、味覚、触覚の各感覚はそれぞれ独自の機能範囲、領域を持ち相互に識別して
﹁〃ところ″である﹂サーリプッタは答えた。

いますが、それらの基礎となり、五種の領域を統一するものは何なのでしょうか?﹂
﹁この五感の働きは何によるのですか?﹂
﹁生命力である﹂

﹁生命力は何に依存するのでしょうか?﹂
﹁熱である﹂

﹁熱は何に依存するのですか?﹂
﹁生命力である﹂

﹁生命力は熱に、熱は生命力に依存するといわれますが、もっと分るようにいって下さい﹂マハー
コッティタはいった。

﹁たとえを挙げて承よう。灯火の場合、明りは炎を明らさまにし炎は明りを明らかにする。それと 同じように生命力は熱に依存する﹂
﹁生命力、熱、意識である﹂

﹁では肉体が無感覚な丸太のように片付けられる前、何と何が肉体を離れてゆくのですか?﹂

﹁生命のない屍体と、知覚と感情が静止した法悦状態にある修行者との違いは何でしょう?﹂

﹁屍体においては、身体、言葉、こころの形成力が停止するだけでなく生命力は消滅し熱は冷え感

覚の働きは終ってしまう。しかるに修行者においては、呼吸、観察、知覚は静止しているけれども、

生命力、熱は保たれ感覚機能は明瞭である﹂

これは死または消滅というものについて最も完壁な説明といえるだろう。だが惜しむらくは、マハ
227第四譜 − 館 二 章 術 語 的 類 似 性 が い か に 根 本 的 相 違 を 陰 蔽 し た か

ーコッティタは一つだけ質問するのを忘れていた。熱とは何か?サーリプッタの答えは容易に想像

はつくが、熱とはエネルギーのことに他ならない。そこでこういい足すこともできるだろう。肉体が

死ぬとどうなるのか?肉体はエネルギーを生産しなくなる、と。だがこれで全てを答えているわけ

ではない。死とは肉体から離れたエネルギーが宇宙に遊尤しているエネルギーの綜合体と合流するこ
の停止。もう一つは浮遊するエネルギー総体への参加である。

とを意味しているからである。それ故消滅には二つの側面があることになる。一つはエネルギー生産

ブッダが自分は絶対的消滅論者ではないといったのは、消滅のこの両側而性の故であろう。霊魂に

関する限り彼は消滅論者であり、物質に関する限りそうではなかった。霊魂の再生は信じなかったが

物質の再生は信じていた。このように考えれば、ブッダの思想はエネルギー不滅の科学的真理とも一
ないということになるからである。

致する。死後何ものも残らないという消滅論は科学にも矛盾する。エネルギーは総体として不変では

白誰が再生するのか

これは最も難しい質問だ。同一の死者が新しく再生するのか?ブッダはこのことを信じていたの

だろうか。先ずほとんどありえないことだ。答えは死者の諸要素が再び寄り索まり新しい肉体を形成

するかどうかであり、もしそれが起りうれば同一存在の再生も可能となる。もし新しい肉体が死んだ

別の人間の諸要素で形成されるとすれば、再生はありうるがそれは同一人物の再生ではない。

この点についてビクーーのケーマーが・ハセーナディ王に上手く説明している。

2 2 8

かつて釈尊がアナータピンデイカのジェータ園にいた時、ケーマー尼はシュラーヴァスティーとサ

ーヶータの間にあるトーラナヴァットゥに滞在したことがあった。コーサラ国王。ハセーナディはたま

たま旅の途中同じ場所に泊まった。王は供の者に誰か然るべき隠者かバラモンを見つけてくるよう命

じた。命を受けた家臣はトーラナヴァットゥ中を探したがそれらしき人物を見出すことができなかっ

た代りに、ケーマー尼がいるのを知った。家臣は一戻って王にいった。﹁王のお会いしたいと思われる

ような隠者もバラモンも見当りませんでしたが、釈尊の女弟子でケーマーというビクニがおりました。 おられる人物に相応しいかと存じます﹂
﹁タターガタ︵如来︶は死後も存在するでしょうかなビクニ殿?﹂

彼女の評判は高く、聖者で完成され賢く学識もあり話上手で機智に富んでいるそうです。王の望んで

そこで王はケーマーの下に出掛けた。挨拶を終え彼女の脇に坐した王は尋ねた。
﹁そのようなことは釈尊は明らかになさいませんでした﹂

﹁他のことについてもそなたは、釈尊は何もはっきりとは示されませんでしたをくり返すばかりで

あるが、一体どうしてなのか?釈尊は何故それについて明確なことをいわないのか?﹂ ﹁では私の方からお尋ね致しましょう。御自分で正しいと思われたらその通りお答え下さい。ガン
ジス河の砂を量れる計算家を王様はお持ちですか?﹂
﹁とんでもない﹂

﹁では大海の水を量れる計算家をお持ちですか?﹂
﹁とんでもない、ピクーー殿﹂

﹁どうしてでございますか﹂

﹁大洋は巨きく深く、量り知れないほど広いからだ﹂

﹁左様でございましょうとも大王様。如来を身体的形で量ろうとすれば如来の身体的形は失われ、

根元から切られた椋桐の切株のように、そうでない何か別のもの、未来に再び唾ってこない性質のも
229第四部一第二章術語的類似性がいかに根本的相違を陰蔽したか

のとなってしまうでしょう。如来は大海の如く深く、果しなく量り知れないものであり、一筒の肉体

として考えられることはありません。つまり如来は死後存在するとかしないとか、死後存在もし存在

もしない、あるいは死後存在もしないし存在しないこともないとかいった疑問には当てはまらないの

です。感情によって如来を量ることも、知覚、行動、意識のいずれによって規定することも同じ結果
・ハセーナディ王はこの言葉に深く喜び、ケーマー尼の下を辞した。

に終ります。つまりそのような質問は如来には当てはまらないのです﹂

/ー、

第二節
カルマ

Bブヅダのカルマ論はバラモン教義のそれと同じなのか

ブッダのダンマの中でこのカルマ論ほど混乱を呼んだものはない。

無知なヒンズーたちは訳も分らずに言葉が同じだからといって仏教とブラーミニズム、ヒンズーィ

ズムは同じだといい、学識あるバラモン達は仏教のカルマ説が尋ハラモンのカルマ説と全く異っている

のを百も承知でヒンズーイズム、ブラーミニズムと仏教は同じだといい続け、無知な大衆を誤まらし
を十分吟味する必要がある。

てきた。用語的同一性が彼らの間違った中傷的宣伝の具とされてきたのである。それ故そこのところ

、一〆

230

先ず、ヒンズーのカルマ論は霊魂を基にしているが仏教には霊魂は存在しない。ブラーミニズムの

カルマ論は生れによる世襲である。カルマは霊魂の転生により世代から世代へ移ってゆく。ヒンズー

ヵルマ論は、肉体と区別される魂の存在に基づき、肉体が滅びても魂は死なずどこかへ飛び去ってゆ

く。ヒンズーヵルマ論によれば、人のカルマ︵行為︶は二重の結果を生む。一つは行為者、もう一つ

はその人間の霊魂に記憶される。人間の一つ一つの行為はその魂に記憶され、人が死に魂が離れる時

その魂には生前の行為が全て刻承こまれている。そして次の来世の誕生と地位を決定するのはこの記

憶なのだ。非霊魂説の仏教とこのヒンズー理論が矛盾しているのは当然であり、同一である訳がない。 だから両者のカルマ論を同一視するのはいかにも馬鹿気たことだ。
○ブッダは前世のカルマが来世に影響すると信じていただろうか

カルマ法則はブッダによって唱えられた。〃蒔いた種子は刈れ″といったのは彼が最初である。彼

はカルマ法則を極めて強調し、カルマ法則の厳しい適用のないところには道徳秩序はありえないと主

張した。ブッダのカルマ法則はカルマと現世への影響にのゑ適用された。しかしカルマの拡張解釈が

あり、それによればカルマは前世のカルマも含むという。もし人が貧乏に生れればそれは前世の悪し

きカルマの所為であり、金持に生れれば前生の良きカルマの所為だとする。人が先天的欠陥を持って

生れればそれも前世の悪業の報いだという。これは実に有害な教説であり、人間の努力を容れる余地

がない。全ては前世のカルマによって予め決められているのだ。この拡張解釈による教説まで屡々ブ

ッダの責に帰せられている。ブッダはこんな教説を信じていたのだろうか?この教説をきちんと検

討するには日頃用いられている言葉を変えて承るのがいいだろう。前世のカルマが転生されたという

代りに、前世のカルマが遺伝したといい直して柔るがいい。このいい直してその教義と本来の意味

を歪めることなく検証しうることになろう。これによってカルマ論にまつわる暖昧な面をはっきりさ

せる二つの質問が可能となる。第一はいかにして前世のカルマは遺伝され、そのプロセスはどのよう
231鋪四部一第二章術語的順似性がいかに根本的相違を陰蔽したか

なものなのか?第二の質問は、遺伝という言葉における前世のカルマの性格は何なのか。それは遺
伝的あるいは後天的性格なのか?

われわれは親から何を遺伝として受けるのか?科学的には、新しい個体は精子と卵子の結合から
から発する。

出発する。各人の原点は、一箇の精子によって受精した一箇の卵子という二つの微小な生命体の結合

人間の誕生は発生学的なものだと、ブッダはそのことについて論じにきたヤシカに語っている。

ラージャグリハに近い〃インドラの峰″と呼ばれる山にいた時、ヤシカが訪れ次のように尋ねた。

﹁釈尊は生きた魂は物質的形をもっていないといわれますが、では魂はどのようにして肉体を所有
はどのように需まっているのでしょう﹂

するのでありましょうか。また骨や内臓はどのように魂のものとなるのでしょうか。母親の胎内で魂

﹁先ず卵黄が生れ次に細胞そして肉片を形成しやがて堅い肉に育つ。堅い肉に髪、そして爪が生え

てくる。母親の摂る飲食物によって胎内の赤ん坊は生き成長する﹂釈尊はこう答えた。
やってきて身体に移植される。

だがヒンズー教義は違う。肉体は発生学的だが霊魂は異る。源は特定できないがどこか外から魂は

前世のカルマの性格は何かという第二の質問に対するには、それが遺伝的なものか後天的なものか

がはっきりされていなくてはならない。そうでなければ遺伝学的に検証しようがない。答えが一応あ

ると仮定しても、それがまともな説かどうか科学的に確かめられるだろうか。科学的には子供は両親

の性格を遺伝する。ヒンズーカルマでは子供にはその肉体以外何ものも両親から遺伝しない。ヒンズ

2 3 2

−の前世カルマ説は子供による子供自らの受継ぎである。両親は何ものも寄与しない。子供が一切を

もたらす。こんな不条理な教義があるだろうか。ブッダはそんな不条理を決して信じなかった。
﹁例を上げて教えよ﹂

﹁もし再生しないのであれば、然り。再生するのであれば、否である﹂

﹁たとえば王よ、人が他人のマンゴーを盗めば盗人の罪で罰されるであろうか?﹂
﹁罰されるであろう﹂

﹁しかしその者は、他人が地面に植えたマンゴーを盗承はしなかった。だのに何故罰されねばなら
ぬのだろうか﹂

﹁何故ならその者が盗んだものは、地中に植えられたマンゴーから実ったものだからである﹂

﹁それと同じように王よ、この名と形は、浄、不浄いずれの行為をも働く。そのカルマにより別の

名と形が再生する。それ故その悪しき行いからそれは免かれてはいないではないか?﹂
なるであろうか、ナーガセーナ?﹂ ﹁それらの行為を、あれこれ指摘し区別できるであろうか?﹂
﹁否である﹂

﹁宜しい。非常に宜しいナーガセーナよ・ある名と形により行為がなされたなら、その行為はどう

﹁決して離れることのない影のようにその行為はつきまとうであろう、王よ﹂

﹁例を上げて説明せよ﹂

﹁まだ樹に実が成っていないのにあれこれ実を指摘できるだろうか?﹂
﹁もちろん、できはしない﹂

﹁それと同じように、人生が持続しているのに行為のあれこれを指摘できはしない﹂

﹁素晴らしい、非常に素晴らしい、ナーガセーナよ﹂

白その結論
233第四部一第二章術語的類似性がいかに根本的相違を陰蔽したか

ブッダの前世カルマ論は科学的である。彼は前世カルマの遺伝性など信じなかった。誕生は発生学
て信じられよう。

的であり、子供の受ける遺伝は全てその両親から受け継ぐと考えていたブッダにそんなことがどうし

ブッダとジャイナ教徒たちとの問答を記しているチューラドゥッカカンダ。スッタという経典にこ
れについてもっとはっきりした証拠が述べられている。

﹁ニガソタ︵束縛を離れた人︶たちよ、あなた方は前世に悪をなし、それをそのような苦行によって

根絶しようとする。身体、言葉、こころに対する現在のあらゆる抑制は前世の悪業を減らす。苦行に

より前世の一切の悪業を滅ぼし新たな悪事を働かなければ来世は清められる。来世が清められれば前

世はきれいになる。前世がきれいになれば悪はもはやない。悪がなくなれば〃苦″もなくなる。苦が

なければ一切の悪は消える。この教えこそわれらが賞めたたえ喜ぶものである、という。では尊師た
﹁いいえ、尊師よ﹂

ちよ、この人生の前にあなたは存在したことがあったかなかったか知っているのですか?﹂

﹁前世において、あなたは罪人であったか悪事を働いていなかったか知っているのですか?﹂
﹁いいえ﹂

第二に、ブッダは人の状態は遺伝より環境により影響されると強調した。デーヴァダ︿・スッタ
でブッダはこういっている。

﹁個人的経験はそれが楽しかろうと楽しくなかろうとそのどちらでなかろうとも全ては前世の行い

2 3 4

からもたらされるものだと断言する隠者、バラモンたちがいる。そこで前世の過ちを贈い清め、新た

な過ちを犯さなければ来世には何事も起らず悪業は消え去る。悪業が消えれば悪もなくなる。悪がな

くなれば感情も消え、感情が消えれば一切の悪は消え去る。これがニガンタ達が信じていることであ
の所為でなくとも彼らは非難されてよい﹂

り、人が喜びや苦痛を経験するのは生れた環境の所為であればニガンタは責められるべきだが、環境

ブッダのこの言説は非常に適切である。もしブッダが前世のカルマを信じていたらどうしてそれに
して強調しただろう。

疑いを持つだろうか。もし彼がそれが前世の所為だと思っていたら、喜びや苦が環境の所為だとどう

前世カルマ説は全くもってバラモン教義そのものである。現世に影響をおよぼす前世のカルマはバ

ラモンの霊魂説と全く合致するがブッダの非霊魂説とは全然一致しない。これは仏教をヒンズー教と

同じものにしようと考えた何者かか、仏教とはいかなるものかを丸で知らない者によって持ちこまれ

たものである。これはブッダがこのような教義を教えるはずがないという理由の一つであるが、他に

もまだ理由は幾つもある。前世カルマが来世を支配するというヒンズー教義は正に邪悪なものである。

このような教義を作り上げた目的は何であったのか。考えられる唯一の目的は、国あるいは社会が貧

しく身分の低い人びとの悲惨な状態に対し責任逃れするためである。さもなければこのような非人間
な教義を擁護したなど想像することすらできない。

的で馬鹿気た教義が考え出されるはずがない。大慈悲の人として世に遍く知られるブッダがこのよう

第三節
アヒンサ
︵不殺生︶ 術語的類似性がいかに根本的相違を陰蔽したか

寓目アヒンサーのさまざまの解釈と実践

錘アヒンサーI不殺生はブッダの教膿えの極めて重要な部分である。それは慈悲と密接なつながりがあ

軸る。しかしブッダのいうアヒンサーは絶対的義務なのか相対的なものなのか。それは単に原則的なも 班のかあるいは規則なのか。

功ブッダの教えを信奉する者にはアヒンサーを絶対的義務として受け入れるのは難しい、アヒンサー

蝉のそのような定義は善を悪の犠牲に、徳を悪徳の犠牲にすると人びとはいう。この問題ははっきりさ ”せる必要がある。アヒソサーほど混乱を呼んだ主題は他にない。仏教国の人びとはアヒンサーをどの

識ように理解し実践しているのだろうか。これは考慮すべき大事な質問だ。セイロン︵現スリランカ︶の 術僧侶たちは外敵に抗し人民に侵略者と戦えと求めた。一方、ビルマの僧たちは外敵と戦うことを拒否

章し人民にも戦うなと説いた。最近ドイツ仏教徒協会はアヒンサー︵不殺生︶を除く五戒を受け入れる 第決議を採択した。これがアヒンサー教義の置かれている状況である。

唖○アヒンサーの真の意味

3 2

5アヒンサーとはどういう意味か?ブッダはアヒンサーのいかなる定義も与えていない。実際彼は

1全くでばないにしろ.極珍て稀にしか特にこの主題に言及していないのである。だからわれわれ

2 3 6

は間接的証拠から彼の意図するものを明確にしなくてはならない。

その第一は、ブッダは布施として与えられたものなら肉を食べることに反対しなかったという点で

ある。僧侶は自から手を下さない限り与えられた肉を食べることを許される。ブッダは、僧侶は布施

として出された肉を食べるべきではないと主張したデーヴァダッタの反対を退けた。

第二にブッダは、動物の供犠について反対しただけだ、という点である。彼はいっている。不殺生

を絶対的ダルマとするのは極端すぎる。それはジャイナ教義であり、仏教教義ではない、と。第三に、

アヒンサーの定義に等しい一層直接的証拠としてブッダはこういっている。﹁何ものも殺そうと欲す

ることのないよう全てを愛せ﹂これはアヒンサーの原理を積極的な形で語っている。このことから明

らかにアヒンサー教義は〃殺すな″といっているのではなく〃全てを愛せ〃といっていることが判る。

つまりブッダは殺そうとする意志と、殺す必要とをはっきり区別している。彼は殺す必要があるのに

殺すことを禁じてはいない。彼が禁じているのは殺そうとする意志以外何ものもない〃殺し″である。

このように理解すればブッダのアヒンサー教義に混乱はなくなるだろう。それは誰しもが守れる健全

な、道徳的教義であろう。殺す必要の是非の決定は各自に委ねられている。それ以外の誰にそれを委

ねることができるだろう。人は叡智を持っており、それを生かさねばならない。有徳者は正しい一線
の教義に決して殺さないという意志を有している。 ブッダのアヒンサーは正に彼のいう中道と見事に一致している。

を引くことを任されているのだ。・ハラモン教はその教義に殺そうとする意志を有し、ジャイナ教はそ

ブッダはまた別のいい方をするために原則と規則に一線を画した。彼はアヒンサーを規則とはせず、

原則的な事項あるいは生活の方途として説いた。これは何と賢明なやり方ではないだろうか。原則は

行動の自由を与え規則は与えない。規則は人を、人は規則をいずれも破るものである。

第四節転生
第四部一第二章術語的類似性がいかに根本的相違を陰蔽したか 表現されている。

釈尊は再生を説いたが、転生というものはないとも説いた。転生がないのにどうして再生がありう

るのかという批判に事欠かなかったが、ナーガセーナのミリンダ王への答えにブッダの思想が見事に
ギリシア人のミリンダ王は尋ねた。

﹁ブッダは再生を信じたのか?﹂ナーガセーナは然りと答えた。 ﹁それは矛盾していないか?﹂否、とナーガセーナはいった。
﹁魂がなくても再生があるのか?﹂
﹁もちろんです﹂

﹁どうしてありうるのか?﹂

﹁たとえば王よ、灯火から灯火に火を移せば転生というでしょうか?﹂
﹁そんなことはもちろんいわない﹂ ﹁霊魂のない再生とはそういうものです﹂ ﹁もっとよく説明せよ、ナーガセーナよ﹂

﹁子供の頃教師から習った詩句を記憶していますか、王よ﹂
﹁記憶しているとも﹂

2 3 7

﹁その詩句は教師から転生したものですか?﹂

2 3 8

﹁もちろんそうではない﹂

﹁転生のない再生とはそのようなものです、王よ﹂

﹁魂というようなものはあるのだろうか、ナーガセーナよ﹂ ﹁究極においてそのようなものは存在しません、王よ﹂
﹁見事である、ナーガセーナ﹂

第五節誤解の原因

当時ブッダの聴衆は主にビクであり、ビクを通じて民衆はブッダの考えを知った。筆記の技術が進

んでいなかった時代だから、ビクは暗記に頓らざるをえず、バーナカ︵詞出者︶という暗記のプロも

できた。教典類は膨大でそれら全てを暗記するのは並大抵ではなかった。

ブッダの語ったことは性々にして誤まって伝えられることがあり、ブッダの存命中も多くの誤りが

本人の耳に聞えていた。そのようなケースは蛇喰経、大業分別経、大愛尽滅経、ジーヴァカ経などの

諸教典にも見られる。誤伝のケースは他にもっと沢山あったであろう。このような場合どうしたらい

いかビクたちがブッダに尋ねているのを見ても容易に想像できる。カルマと再生に関する誤伝は普通

であった。この教義はバラモン教にもあったからバーナカたちがバラモン教理を仏教に織り込んでし
取るには余程の注意を必要とする。 そのため次のことを目安とするのがいい。

まうのは簡単であった。だから膨大な仏教説話集の中で語られていることをブッダの言葉として受け

ブッダは何よりも合理的かつ論理的であった。それ故他の条件が同じなら、合理的かつ論理的なも

のはブッダの言葉として受けとめることができる。第二にブッダは人の幸せにならぬようなことで論
239第四部一第二章術語的類似性がいかに根本的相違を陰蔽したか

議することは決してなかった。それ故人の幸せに無関係なことでブッダに帰せられていることはブッ

ダの言葉としては受け入れ難い。第三にブッダは、全ての事柄を二種に分けた。彼が確かだと思うこ

ととそうでないことである。前者に入る事柄についてブッダは明確に述べているが、後者の場合は暫

定的意見として述べている。ブッダの見解を正しく知る上でこのことを銘記しておく必要がある。

2 4 0

第三章仏教徒の生き方

B善、悪、罪

善を行い、悪に加わらず、罪を犯すな、これが仏教徒の生き方である。良い事を行うべきなら何度

でも行い、心をそのように向けさせよ。善行の積承重ね、それが幸せというものである。〃それは私

に訪れないだろう″といって善を軽んずるな.一滴一滴の水が水がめを満たす。少しずつ善を積むこ

とによって福徳は生れる。善い行為は悔を残さず、それによって生れた報いは喜びと満足をもって迎

えられる。善をなすならくり返し行え。そしてそこに喜びを見出せ。善の積承重ねこそ喜びである。

善行が実らぬ間は善い人ですら落ち込むものだ。しかし実りの秋には幸せの数点を見る。白檀、香、

蓮華、ジャスミンの薫りよりも徳の香は匂う。香や白檀の薫りは微かだが、徳の薫りは最高に匂う。

悔を残すようなことをなすのは良くない。その報いは涙と悲しゑで迎えられる。悪口をいい悪事をな

すものは、苦しゑが牛車を曳く牛の脚に従いて回る轍のようにつきまとう。悪しき事に従わず、怠惰

に陥入らず、悪しき考えをめぐらせるな。善に向って急げ、悪しき考えを追い抜け。善い行いに愚図

なものは心で悪を楽しんでいる。悪しき行いをなすものですら悪事の報いがなければ幸せだと思い、

報いが訪れれば痛い目に会う。情欲から嘆きと恐れが生じる。情欲から解放されている人には嘆きも

恐れもない。飢えは最悪の病いであり、存在︵わが身︶は最大の心痛である。この道理をあるがまま

に知るならニルヴァーナが無上の幸せとなる。自ら為し、自ら招き自ら培った悪はダイヤモンドが他

の宝石をも壊すようにその行為者を砕く。余りに邪悪さが甚しい者は、敵がそうなればいいと望んだ
易く、有益で幸せとなることを行うのは難い。

状態に堕してしまう。蔦が巻きついた木を枯らすように。われわれ自身にとって有害な悪事は行うに

。渇望と欲情
渇望と欲情に囚われるな。これが仏教徒の生き方である。

豊かさに取り巻かれても欲望は満たされることがない。欲望とは満足せず寅埜なものであることを

賢人は良く知っている。彼は天界の楽し承にも喜ばない。その喜びは渇望の終罵である。彼は至高の
第三章仏教徒の生き方

覚醒者ブッダの弟子だから。渇望から嘆きと恐れが生れ、それから解放されているものには嘆きも恐

れもない。虚栄に溺れ人生の真の目的を忘れ快楽にしが象つくものは早晩膜想に励む人を羨むように

なる。何ものにも執着するな。失うことは苦痛だ。愛憎をもたぬものは束縛されない。快楽は嘆きと

恐れを生承、それから解放されたものには嘆きも恐れもない。執着、情欲、負欲から嘆きと恐れが生

じ、それから解放されたものには嘆きも恐れもない。徳と明知を有し、正しく、真実を語り己れのな

すべき仕事に励む人を世間は大切にする。長旅から無事に戻ってきた人を親族、友人、愛する人びと

が温かく迎えるように、その人の為した善き行いは温かくその人を包む。 白傷つけることと悪意

241第四部

人を傷つけるな。悪意を抱くな。これが仏教徒の生き方である。鞭を当てる必要がない元気一杯の

馬のように、何の非難の口実も与えない人がこの世にいるだろうか。信頼、徳、精励、膜想、真理探

242

求、知と行いの完成、安らぎによってこの大きな苦悩を捨て去るがよい。最上の苦行は苦を耐え忍ぶ

ことであり、〃ニルヴァーナこそ最高である〃。ブッダはそういっている。他人を傷つけるものは苦

行者ではない。他を悲しませるものはわが弟子ではない。悪口をいわず人を傷つけず、教えに従って

自制せよ、これがブッダの助言である。殺すな、殺させるな。幸せを希う人を苦しめず、殺さず、可

れ自身の幸せを求める人は、幸福をつかむだろう。壊われた鐘が鳴らぬように、煩悩に動揺すること

がなければ汝はニルヴァーナに達している。汝はもはや怒ることがない。罪のない、害意注抱かぬ人

びとを傷つけるものは直き後悔するだろう。静諦の衣に身を包承、静まり、感情を抑制し、清らかで

他人の欠点を答めなくなった人は、真の修行者︵沙門︶、僧侶である。気高い馬に鞭が要らないように、

どんな非難も受けないでいれるほどに恥によって自分を縛っている人がこの世にいるだろうか。害の
かるだろう。

ない罪のない清純な人を傷つけるなら、挨が風に舞い上がるように、悪事がその馬鹿者の上に降りか

四怒りと敵意
ひど

怒りを抱かず敵意を忘れよ。愛によって汝の敵に打ち克て。これが仏教徒の生き方である。

怒りの火は鎮めねばならない。〃彼は私を罵った、私を虐く扱った、私を打ち負かした、私から盗

灸だ″というような思いを抱く人は、怒りが納まることがない。敵は敵に悪をなす。憎象合っている

ものも同じだ。しかしその悪は誰のものなのか。愛によって怒りを克服し、善によって悪に打ち克ち、

寛大さによって寅欲を、真実により虚偽を克服せよ。真実を語り怒りに負けず、僅かなものを求めら

れれば借し承なく与えよ。怒り、高慢を捨て全ての束縛を克服せよ。名と形に執着せず、何ものも所

有しないものに苦し承は訪れない。走る車撒押さえるように燃え上がる怒りを押し止めるものが誠の

御者である。他の人びとは手綱を持っているにすぎない。征服は敵意を生む。征服されたものは窮境

に端ぐ。勝利も敗北も求めない、安らぎの人は幸いである。情欲に勝る火はなく、僧しふに勝る不幸

はない。存在の構成要素︵わが身︶ほど惨めなものはなく、一一ルヴァーナに勝る幸せはない。僧し承

は僧し承によって止まることがない。僧し承を終らせるのは愛である。これは永遠の真理である。 国人、こころ、穂れ

人は己れの心が造り上げる。善を追い求める心を培うことが、正しい道の第一歩だ。これは仏教徒

の根本的教えである。全てにおいて心が根源的要素であり、優位を占める。悪しきことを語り、行う

なら苦し承は、牛車の轍が牛の後を追うようにその人につきまとう。正しく語り行う人には、決して
第三章仏教徒の生き方
243第四部

離れない影のように幸せがついてくる。賢い人は職人が真直ぐに矢を直すように、気まぐれで不安定

な守り難く導き難い心を直ぐする。陸に投げ捨てられた魚が震え端ぐょうに、悪魔から逃れようと心

は震え瑞ぐ。快楽を求める心は制御し難く不安定である。良く制御された心は幸せをもたらす。全て

から離れ精進せよ。微れが消え去り罪から解き放たれれば、選ばれた人の無上の境地に入ることがで

きるであろう。鍛冶屋が銀の城れを除くように、贋い人は少しずつ時間をかけて己れの微れを取り除

く。鉄から生じた錆が、錆を生じた鉄を腐蝕させるように、犯した罪は人を悪しき道へ導く。どのよ

うな減れよりも大きな微れがある。無明こそ最大の減れである。修行僧たちよ、その職れを捨て稜れ

なきものとなれ。恥を知らず、人を中傷し、侮辱し、図々しく堕落したものは生き易い。しかし謙虚

で、清らかなものを常に求め、執着を離れ、穏やかで職れなく、明知を有する人は生き難い。生きも

のを殺め、虚言を吐き、自分に与えられていないものを奪い、他人の妻にいい寄り、酒に溺れるもの

は、この世においてすら自ら墓穴を掘っている。人よ、このように知れ。慎しみがないのは悪しき状

2 4 4

態であり、貧りと邪悪が汝を長く苦しめることがないよう注意せよ。人はその信ずるところ、喜びと

なすところに従って与える。だから他人のくれた食物や飲物に不平をいうものは昼も夜も心の安らぎ

がない。人がこのような感情︵不満︶を根元から取り払うなら昼も夜も心の安らぎをうる。情欲にひ

としい火は存在せず、貧りにひとしい奔流はない。他人の過ちは見つけ易いが、自分のそれは見つけ

難い。人は他人の過ちを籾殻のように吹き散らすが、自分の過ちは隠したがる。賭博師が悪い饗の目

さい

を相手から隠すように。他人の過ちを探し求め常に腹を立てたがる人は、煩悩が増し、煩悩の消滅か らほど遠い。一切の悪を慎し承、善を培い、諸為の思いを清めよ。これがブッダの教えである。 ㈲自己と自己抑制

人が自己を持つならば、自己抑制を学べ。これが仏教徒の生き方である。自己こそ自分の主である。

他の何人が主でありえようか?己れを良く抑制したならばえ難い主を得る。

貴い阿羅漢、聖者たちの教えを侮り、誤った教えに従う愚か者は、カッタカという葦が実をつける

と枯れるように、己れを滅ぼす実をつける。自ら悪をなすなら自ら苦しむ。自ら悪をなさないなら自

ら浄められる。浄まるのも浄まらないも自ら行うことであり、誰も他人を浄められない。快楽の承を
倒されるように自らの放縦さに打ち負かされるに違いない。 くともしないように何ものにも打ち負かされないであろう。 もし人が自己を愛しいものと思うなら自分を良く見守れ。

追い求めたがり、諸感覚が無統制で食事に節度がなく、怠惰で意志が弱い人は、ひ弱な木が風に打ち

快楽を追い求めず、諸感覚が良く統御され食事を節制し、信仰深く意志が強い人は、岩山が風にび

先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。賢い人は他人につけ入らさせないものだ。

自己は制し難いといわれる。他人に教える通り自ら行う人は、良く制御され他人も制御できるだろ

自分の犯した罪を自ら償う人は、自らを浄める。自らの善や悪は何度も浄められるが、誰も他人を
浄めることはできない。
士である。

人は戦いで何万という人間を打ち負かすことができるだろうが、自己に打ち克つものこそ最強の戦

誠に自己自身がn分の保護者である。他の誰が保護者たりえようか。自ら守るものこそ最も得難い
保護者を得る。

㈲智慧、正義、良き友
245第四部一第三章仏教徒の生き方

賢く、正しくあれ、そして良き友を選べ。これが仏教徒の生き方である。

もし、何を避けたらいいかを教え、批判してくれる賢い人に出会ったならその賢い人に従え、隠さ
いことはない。

れた財宝の在りかを告げてくれる人に従うように。そのような人に従うものには善いことがあり、悪

諭しなさい。教えてやりなさい。良くないことは止めさせなさい。そうすれば善い人たちからは愛
され、悪人からは疎まれよう。

悪人を友とするな。卑しい人間を友とするな。徳のある人を友とし、最上の人を友とせよ。

ダンマに耽ける人は澄んだ心によって幸せに生きる。賢者は聖者の説くダンマを常に喜ぶ。
を形作る。

井戸造りは何処へでも好むところへ水を導き、矢職人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自ら

2 4 6

岩が風に揺がぬように、賢者は非難にも賞讃にも動じない。

賢者はダンマを聴いて、深く、滑らかで静かな湖のように澄んだ心になる。

徳のある人びとはいかなる状況にあっても心して歩く。徳のある人びとは快楽を欲してしゃべらな

い。楽しい目に、悲しい目に会っても賢者ははしゃぎもせずふさぎこゑもしない。

悪がすっかり熟さぬ間、愚か者は蜜のように甘いと思い、悪が熟するとその報いに嘆く。
によって焼かれる。

愚か者は自分がいつ悪をなしたか知らぬが、邪しまな人間はあたかも火傷をするように自らの行い

起きているものに夜は長く、疲れたものに一里は遠い。真のダンマを知らぬ愚か者に人生は長い。 よ。愚か者を道連れとしてはいけない。

もし旅に出て自分より優れた人またはひとしい人に出会わなければ、孤りでしっかりと歩きつづけ

この息子たちは私のものだ。この財宝は私のものだ。といって愚か者は悩む。自分自身が自分のも のでないのに、どうして息子や宝がそうだといえるだろう。
思っている愚か者こそ本当の馬鹿者だ。
になる。

自分を愚かだと知っている愚か者は少なくともまだその点賢いところがある。しかし自分を賢いと

愚かな者でも生涯賢者と交わっていればスープをひと匙ずつ味わうように少しずつ真理が分るよう

総明な人は束の間賢者と交わっても、舌がスープの味を見分けるように直ちに真理を知る。

浅はかな愚か者は自分を仇敵のように扱う。何故なら苦い実のなる悪事を働くからである。

なした行為を後悔せず、嘆き悲しんでその報いを受けるような行いは善くない行為だ。

なした行為を後悔せず、心から喜んで報いを受けるような行いは善い行為だ。

愚か者は見当違いな声望を得ようとする。修行僧の間で上位を得、僧房では権勢を、世間では崇拝
の的となろうと欲する。 れるのがおちだ。

頭が白くなったからといって長老とはいえない。年をとっただけでは〃おいぼれてぼけた〃といわ

真理を知り、徳と憐象、抑制と慎し承があり、稜れのない賢い人、そういう人が〃長老″と呼ばれ

妬象深く物惜しゑし、不正直な人は、多弁だから、肌が美しいからというだけでは尊敬されない。

この全てが根元からなくなり、憎し承を消した賢者こそが尊敬に値する。

暴力によって事を運ぶ人は正義の人ではない。事の是非を弁え、学問があり、暴力によらずダンマ
第三章仏教徒の生き方

によって他人を導く人が、ダンマの保護者で総明な正義の人である。

多弁だからというだけで学問があるとはいえない。忍耐強く僧し承と恐れのない人が学問の人とい
え︶わC

多弁なるが故にダンマの信奉者ではない。学問がなくとも体でダンマを体得している人、ダンマを
決して疎かにしない人はダンマの信奉者である。
ち、楽しく心してその人と歩め。 のように、森の中の象のように孤り歩め。
中の象のように。

もし思慮深く賢く、真面目な生活をしている人を道連れとして見出したなら、全ての危険に打ち克

247第四部

もし思慮深く、賢く真面目な生活をしている人を道連れとして見出せなかったら、国を捨てた国王

愚か者を道連れにするより孤りで行け。孤りで歩め。悪いことをするな。求めること少なく、森の

2 4 8

もし事が起った時友がいるのは楽しい。その原因がなんであろうと善いことは楽しい。死の時にお
いて善いことは楽しい。あらゆる嘆きを断つことは楽しい。

世に母を敬うことは楽しい。父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。
しないことは楽しい。

年老いるまで変らぬ徳は楽しい。確固とした信仰は楽しい。明知を獲得することは楽しい。悪事を

愚か者を道連れとすれば長く苦しむ。愚か者を道連れにするのは敵と一緒にいるようなもので常に
苦痛だ。賢人を道連れにするのは楽しい。家族と再会するように。 ある。月が星辰に従うように、立派な賢者に従うべきである。

それ故人は賢く総明で、良く学んだ、充分な忍耐力のある、義務に忠実な選ばれた人に従うべきで

慢心、愛欲の歓びに耽けるな。己れを制し精進するものには大きな歓びがある。

良く学んだ人が精進によって慢心をなくし賢者が智慧の高承に昇りつめた時、その人は愚か者を見
ように。

下ろし、嘆きから解き放たれ嘆き悲しむ人びとを見下ろす。高い山から地上にいる人びとを見下ろす

無思慮な人びとの中にあって精進し、眠っている人びとの中にあって目覚めている賢者は駿馬が駄
馬を抜き去るように前進してゆく. ㈹思慮深さと注意深さ

あらゆることに思慮深く、注意深くあれ。全てにおいて熱心で大胆であれ。これが仏教徒の生き方
で極ある。

われわれが今あるところのものは、全てわれわれの思念の結果である。それはわれわれの思念に基

づいている。思念によって形作られる。悪しき思いをもって語り行うなら、苦痛が訪れる。清らかな

思いで語り行うなら喜びが訪れる。それ故清らかな思いは大切なのだ。
った象のようにもがき回るだろう。

無思慮であってはならない。汝の思いを見張れ!悪から身を遠ざけよ。さもなければ泥沼にはま

賢者は己れの思いを監視する。思いは察知し難く実に巧みで、欲するがままに素早く動く。良く監
視された思いは幸せをもたらす。

屋根が雑に葺いてある家に雨が洩るように、情欲は無思慮な心に侵入する。

屋根がきちんと葺いてある家に雨が洩らないように、思慮深い心に情欲は侵入しない。

この心は以前は好むがままに、欲するがままに、快よいままにさまよっていた。しかし今私はそれ
249第四部一第三章仏教徒の生き方

を徹底的に抑制しよう。釣を持った老練な象使いが荒れ狂う象を抑えつけるように。

遠くに行く心に馬具を付ける︵抑制する︶人は誘惑の束縛から逃れるであろう。
して完成されないであろう。

もしその信仰が不安定で、真のダンマを知らず、心の平安が脅かされていれば、その人の知識は決

憎承合う者同士が、敵対し合う者同士がどのようなことをしようと、邪しまなことを目指している
心が自分に対してなすほどひどい災いはもたらさない。

母も父も、他の親族たちも正しく向けられた心が自分にしてくれるほどのことはしてくれない。
伽良く目覚めていること、精進し大胆であること

賢者は良く目覚め怠慢をなくし、智慧の高承に達し憂いから放たれ、嘆き悲しむ人びとを見下ろす。

怠慢な人の中で目覚め、眠っている人の中で起きている賢者は、駿馬が駄馬を抜き去るように前進

2 5 0

する。

怠慢に堕すな。肉欲に耽けるな。怠りなく倶想に励め。精進は不死へ導き、怠慢は死へ到る。精進

しつづけるものは不死を得、怠慢なものはすでに死んだも同然である。

いかに相手が偉かろうと他人のために自分の目的を放棄するな。ひとたび目標を見出したらしっか
って怠惰の毒矢を体から引き抜け。

りとそれをつかんで離すな。怠惰は不名誉だ。いつも怠けているのは恥じだ。奮励努力し明察力をも

精進の人が奮起し、怠たらず、行いが正しく、思慮深く行動し、良く自制しダンマに従って生活す
るなら、更に大きな賞賛を得るだろう。
a悲しみと幸い、施しと情け深さ

貧困は悲し承を生む.しかし貧困を取り除くことが必ずしも幸せを生むとは限らない.
飢えは最悪の病である。

高い生活水準ではなく高い文化水準が幸せを与えるのだ。これが仏教徒の生き方である。

健康は最高の贈物、満ち足りた心は一番の財産、信頼が最高の関係、ニルヴァーナが最高の幸せ。 われわれは、自分を憎む人を憎まず幸せに生きることを学ばねばならない。

病む人の中にあって病にかからず幸せに生きることを学ばねばならない。

貧欲な人の中にあって貧欲に陥入らず幸せに生きることを学ばねばならない。

人は愛欲によって破滅する、畑が雑草で損われるように。それ故愛欲を離れた人に施しをするなら

大きな果報を受ける。人は慢心によって損われる.畑が雑草によって損われるように。それ故慢心を 離れた人に施しをするなら大きな果報を受ける。

ダンマを説いて与えることは全ての贈物に優る。ダンマの妙味は全ての味に優り、ダンマに浸る喜
びは全ての喜びに優る。

勝利は憎しみを生む。敗者は不幸だからだ。勝利も敗北も共に捨て、満ち足りた人は幸せである。
がしたこととしなかったことを見よ。
て人生は常に生き難い。
が返ってくる。
第四部一第三章仏教徒の生き方

他人の悪い言葉、悪い行為を見るな。他人がしたことしなかったことを見るな。それより自分自身

慎し承深く、清らかさを求め執着せず孤独で、清らかな生活を営承、物事を見極めている人にとっ

乱暴な口のきき方をするな。同じやり方で相手から返っている。怒りの言葉は苦痛である。お返し

自由親切需意無私lこれらは馬章に対する市軸ピンのようにこの微の要であ為.
口偽善者

いかなるものにも偽りをいわすな。いかなるものにも他人に偽りをいわさせるな。偽りをいうもの

の言動を承認するな。いかなる種類の嘘言、偽りの言葉をも汝らの間から取り除け。
その人は完成された人と呼ばれる。 これが仏教徒の生き方である。

完成された人が語るようにその人は行動し、完成された人が行動するようにその人は語る。それ故

2 5 1

2 5 2

白正しい道を歩む
正しい道を選びそれから外れるな。

幾つもの多くの道があり、そのどれもが正しい道へ導くとは限らない。 正しい道は少数の人のためでなく全ての人の幸せのためにある。 正しい道を歩むことが仏教徒の生き方である。 いることである。最も優れた人は見る眼のある人︵ブッダ︶である。

それは初まりにおいて善く、中程で善く、終りでも善いものであらねばならない。

最上の道は八正道である。最高の真理は四つの真理︵四諦︶である。最も優れた徳は情欲を離れて

これが清らかな明知に到る唯一の道である。この道を進むがよい。
たが故にこの道を説いたのである。

この道を歩むならば汝らは苦しふから離れられるだろう。私は肉に刺った疎を取り除くことを悟っ

汝らは自ら努力しなくてはならない。如来は教師であるにすぎない。

﹁一切の形成されたものは無常である﹂、このことを知り、視た人は苦し承から遠ざかる。

﹁一切の形あるものは非実在である﹂、このことを知り、視た人は苦し承から遠ざかる。 している人は知慧による道を見出すことができない。
らば賢者の説いた道に到るであろう。

起きるべき時に起きないで、若くて力あるのに怠け放題で、意志も思考も薄弱で、怠惰でのらくら

言葉に心せよ。心を良く抑制し、身体に悪をなしてはならない。この三つの行いの道を清く保つな

真の知識によって得、真の知識の欠除によって失う。この得ることと失うことを知る人には真の知

識が生れる。

自己への愛執を断ち切れ、池の水の上に出てきた秋の蓮を汝の手で断ち切るように。安らぎの道を

大切に青く鐘.〃スガ髪l幸福な人”ブッダ睦一ルヴァ︲ナを説いた.

以前無思慮であって後思慮深くなった人は、雲から顔を出した月のようにこの世を照らす。

常に見張り夜も昼も勤しみ励柔、一一ルヴァーナを求める人は、情欲から離れるであろう。 とも非難される″非の打ち所のないものはこの世にはいない。 たし、いないであろうし、今もいない。


253第四部一第三章仏教徒の生き方

昔からこういう諺がある。〃黙っていても非難され、多く喋っても非難される。また余り喋らなく

常に非難されてばかりいる人も、常に賞められてばかりいる人も、そのような人はかつていなかっ

舌の怒りに留意し、舌を慎しめ。この心の罪を遠ざけ、徳を磨け。
自真のダンマを偽りのダンマと混同するな

偽りを真実と取り違え、真実を偽りと取違える人には歪んだ心が住承つく。そのような人は真理に
到達できない。
う。

真実を真実と知り、偽りを偽りと知る人には正しい心が宿る。そのような人は真理に到達するだろ

2 5 4

第四章ブッダの教え

第一節家長への教訓
S幸せな家長

ある時アナータピンデイカが釈尊を訪い、敬意を表した後傍らに坐した。アナータピンデイカは家
長の幸せが何処にあるのかを知りたくてやってきたのである。

そこで彼は、その秘密は何処にあるのか釈尊の考えを聞かせて欲しいと願った。

先ず第一は所有という幸せである、と釈尊はいった。大いなる勤勉によって正当に得た財産、額に
ことが家長の幸せである。

汗し労働によって蓄えた富を持つことである。〃正直に働いて得た財産を私は持っている〃と考える

第二は享受する幸せである。そのようにして得た富を享受し功徳な行いを施すことである。〃正直

に得た財産で立派なことをしている〃という思いがその人を幸せにする。

第三は負債を負っていない幸せである。大きくとも小さくともどんな負債も背負っていない家長が

幸せである。〃私は誰からも負債を負っていない″という思いが幸せにする。

第四は非難されていない幸せである。その行い、言葉、考えによって非難をうけていない家長は幸

せである。

実にアナータピンデイカよ、もしこれらを得ようと懸命に努力するなら、この四つの幸せはいつも
その人のものとなろう﹂ ○娘は息子より一層望ましい

釈尊がかつてシュラーヴァスティーにいた時、コーサラ国王。ハセーナディが釈尊を訪れ、話しこん

でいた。そこに城から使いがきて、妃のマッリカーに娘が産れたと耳打ちした。王がひどく悲しげに
釈尊はこう語った。

落胆した様子を示したので釈尊は理由を尋ねた。娘が産れたのでがっかりしているという王の返事に

﹁王よ、女の子は男の子より望ましいことがあります。彼女が賢い徳のある女性に育ち、結婚して
255第 L I 部 一 第 四 章 ブ ッ ダ の 教 え

から義母は立派な嫁だと尊敬するでしょう。産んだ息子は立派な行いをし王国を見事に治めるでしょ

う。そのように優れた妻の息子は国の指導者たるに相応しく育つでしょう﹂

白夫婦

ある時、釈尊がマドゥラーとネーランジャラ−の間にある街道に入ったところ、同じ道を往く多勢
傍らに坐し、夫婦の正しい関係とは何かと尋ねた。 き男と卑しい女、尊敬すべき男女の組合せである。

の家長とその妻たちの一行と出会った。道脇の木陰で休んでいる釈尊を見て人びとは丁重に挨拶し、

﹁共に暮らす夫婦には四つの道がある。卑しい男と。卑しい女、卑しい男と尊敬すべき女、尊敬すべ

家長たちよ、夫が殺しをなし、盗承、汚れた行いをし、嘘をつき、酔っぱらい、邪しまで罪深く、

負欲に取りつかれ、敬度な人びとを罵るような生活を送り、妻もまたそのような生活を送る。これが 卑しい男と卑しい女が暮らすことである。

2 5 6

次に夫はそのような邪しまな生活を送っていても、妻は殺さず、盗まず、不品行に走らず、嘘をつ

かず酔っぱらいもしない。彼女は品性高く、負欲の汚点に蝕まれてもいない。敬虐な人びとを罵りも

しない。実に家長たちよ、これが卑しい男と尊敬すべき女が暮らすことである。

更に、その逆の関係が尊敬すべき男と卑しい女とが暮らすことであり、四つ目が、このように殺さ

ず、盗まず、不品行に走らず、嘘をつかず、酔っぱらわず、品性高く、負欲に取りつかれず、敬虐な
これが家長たちよ、夫婦の四つの組合せである﹂
釈尊はかく語った。

人びとを罵らない生活を送る夫婦が、尊敬すべき男女が暮らすことである。

第二節品性を保つことの大切さ

B人間の堕落は何によって起るか

釈尊がシュラーヴァスティー近郊のジェータ林にあるアナータピンデイカの僧房に住んでいた時、

夜更けになってある神霊が現れ、釈尊に敬意を表し立ったままこう尋ねた。
釈尊は承諾し、こう語った。

﹁ガゥタマょ、私は堕落する人間についてあなたの意見をききにきました﹂

﹁向上する人は直ぐ判別できる。堕落する人も直ぐ判る。ダンマを愛する人は向上し、憎む人は堕
が堕落の第二の原因である。

ちてゆく。邪しまなものに親し承、品性あるものに何の喜びも見ない。彼は誤った教えを好む。これ

ぼんやりとし、つきあいを好み、怠け者で怒りを露わにする。これが第三の原因である。

裕福でありながら、年老いた両親を養わないもの、これが第四の堕落の原因である。

嘘、偽りによって、ハラモンあるいは他の修行者を編すもの、これが第五の原因である。

金銀、食糧など財産を沢山持ちながら一人占めするもの、これが第六の原因である。

生れ、富、家系を鼻にかけ、親族を軽蔑するもの、これが第七の原因である。

放蕩者で、酔っぱらい、賭博好きで浪費家、これが第八の原因である。

自分の妻に満足せず、売笑婦や他人の妻に近づくもの、これが第九の原因である。
第四章ブッダの教え

ひどい浪費屋の女や男に権勢を振わせるもの、これが第十の原因である。戦士の生れで小つぼけな

力しかないのに途方もない野心を抱き権力者に成ろうとするもの、これが第十一の原因である。

気高い神霊よ、これらの堕落の諸原因を知り、それに打ち克つなら人は救われます﹂

○邪Lまな人間

旅の途時、いつものように釈尊は供のビクたちに次のようを説教をした。
な人間の特徴をこう語った。

257第四部

﹁邪しまな人間をどのように見分けるか知っているか?﹂ビクたちはいいえと答え、釈尊は邪しま

﹁聞かれればもちろん、聞かれもしないのに他人のあらをあげつらうもの。本当に聞かれ色為と質

問された時、控え目に抑えていうのでなく微に入り細にわたって他人の悪口をいうもの、このような人

2 5 8

が邪しまな人である。

聞かれなければもちろん、聞かれても他人の長所を上げようとしない人。本当に聞かれ色食と質問
された時他人を賞める人。

聞かれなければもちろん、聞かれても自分の欠点を明らかにしない。本当に間かれ色々と質問され

た時自分の欠点を上げるが、全てではなく控え目に隠そうとする人、このような人は邪しまである。

聞かれればもちろん、間かれもしないのに自分の長所を吹聴する。本当に間かれ色灸と質問された
な人である﹂

時、控え目に隠すのでなく何でもかんでも洗いざらいに自分の長所を喋る人、このような人は邪しま

㈲最良の人

釈尊は旅の途時、いつものように供のビクたちに次のような説教をした。
﹁この世には四つのタイプの人がいる。

自分のためにも他人のためにも奮闘しない人。人のために奮闘するが自分のためにはしない人。自

分のためには奮闘するが他人のためにはしない人。自分のためにも他人のためにも奮闘する人、であ

自分のため、他人のためにも奮闘しない人は、両端に火がついた火葬の薪のようなものである。真
してもそうである。

中が汚れで湿り、村でも森でも燃料として使えない。そのような人は世に対し無益であり、自分に対
自分を犠牲にして他人のために尽す人は立派で優れている。

自分のためにも他人のためにも奮闘する人は四者中最良で、最高にして至高の人である﹂

口さとった人

釈尊がウッカッタとセータッバヤ間の街道脇で休んでいたところ、、ハラモンのドーナというものが

たまたま通りかかり、その力強く平静、自若たる釈尊の姿に打たれた。彼は釈尊に近づき恭しく問う

﹁貴い方よ、あなたはデーヴァ︵神︶ではありませんか?﹂ ﹁いや、私はデーヴァではありません﹂
﹁ではガンダルヴァ︵天上の楽人︶ではありませんか?﹂
﹁いいえ、ガンダルヴァでは、ありません﹂ ﹁ではヤクシャ︵夜叉︶では塾ありませんか?﹂
259第四部一第四章ブッダの教え

﹁いいえ、ヤクシャでは霜ありません﹂

﹁では貴い方よ、あなたは人なのですか?﹂
﹁いいえ、私は人ではありません﹂

﹁では一体あなたは何者なのです、貴い方よ?﹂

﹁簿ハモランよ、諸灸の誘惑から浄められないでいた時、私はデーヴァでもあり、ガンダルヴァ、ヤ

クシャでもあったが、今私は根元から切られ一一度と芽をふくことのない祁子の木のようにそれらの迷

いを断ち切った。水から生れ、水で育ち、水の上に出、いささかも汚れていない水蓮のように、この
私をさとった人と思うがよい﹂

世に生れ、育ち、この世に打ち克ち、いささかもこの世に汚されずに私はいる。それ故バラモンよ、

2 6 0

⑥正しい人と善い人 弟子たちに話しかけ、釈尊はこういった。

﹁もし善い人と正しい人を確かめたければ、四つのタイプの人を見分ることを学ばねばならない。

兄弟たちよ、自分のために努力するが他人のためにはしない人がいる。 と努めるが、他人をそのようには仕向けない人がいる。

己れの情欲を無くそうと努めるが他人をそのようには仕向けない人がいる。己れの悪意を無くそう

己れの無知を無くそうと努めるが、他人をそのように仕向けない人がいる。

弟 た ち よ 、 実に に兄 兄 弟 た ち よ 、このような人は自分の幸せを追い求めるが他人の幸せは求めない人である。

ち よ 、 他 Ⅲ 兄弟 弟た た ち よ 、 他 人の幸せのために努めるが自分のためにはしない人がいる。 生懸命な人がいる。

兄弟 ち よ 、 己 江 兄 弟た た ち よ 、 己 れの情欲、悪意、無知を無くそうとは努めないが、他人のそれを無くさせようと一

実に兄弟たちよ、このような人は他人の幸せのために努めるが、己れのためには努めない人である。

兄弟たちよ、己れの幸せも他人のそれも共に追い求めないタイ。フの人がいる。

兄弟たちよ、己れの情欲、悪意、無知も他人のそれをも無くさせようと努めない人がいる。

このような人は己れのためにも他人のためにも努めない人である。

兄弟たちよ、己れの幸せ、他人の幸せのために共に努めるタイプの人がいる。

兄弟たちよ、己れの情欲、悪意、無知も他人のそれも共に無くさせようと努める人がいる。 この最後の人こそ正しく善い人だと考えなさい﹂

このような人は己れの幸せ、他人の幸せのために共に努める人である。

倫善いことを行う大切さ ある時、釈尊は兄弟たちにこのように語った。

﹁兄弟たちよ、善い行いを恐れるな。それは幸せの別名であり、求められ、愛され、貴く、喜びで

あるからこそ〃善い行い〃といわれるのだ。私自身、求められ、愛され、貴く喜びである善い行いの 功徳を、長年実に沢山得てきたことを証言できる。

私は屡々尋ねる。この実りはどのような行いによるものなのか。私が今こうして幸せで満ち足りて
と自己克服そして自己制御という行いである。

いるのはどのような行いによってなのか、と。それは三つの行いによって得られたものである。施し

幸せで楽しく、祝福された夜明けよ。受けるに値する人に施しがなされる時それが晴れやかな、歓
261第四部一第四章ブッダの教え

びの日である。諸々の善い行い、言葉、思い、正しい願いがそれを実践する人びとに幸せな実りをも
たらす時、それが歓びの時である。

このような実りを得、そのような世界で栄える人びとこそ幸せである。あなた方もまた健康でその
ように栄え、家族と共に幸せであれ﹂
個善い決心をすることの大切さ

シュラーヴァスティーのジェータ林にいた時、釈尊は兄弟たちにこういった。

C

﹁兄弟たちよ、善い決心をし、清らかで幸せな生活のためにその決心を遵ることは非常に大切であ
その決心とはどのようなものであるべきかを話して上げよう。

2 6 2

わが生涯を通じ両親を養おう。わが家系の長を敬おう。物柔かな話し方をしよう。いかなる人の悪

口もいうまい。利己主義の稜れから心を清くしよう。寛大な汚れのない手をし、執着しないことを喜

びつつ家に暮そう。恵承を求めるに価する、他人と恵象を分け合うことを喜ぶような人となろう。生

涯を通じ怒りの無い人となり、もし怒りが生じても直ぐそれを抑える人となろう。
れるだろう﹂

兄弟たちよ、このような七つの決心をし実践することによって、あなた方は幸せで清らかな姿にな

第三節正しさについての教え

日正しさとは何か

釈尊が多勢の托鉢者と共にコーサラを旅していた時、サーラーというバラモンの村を訪れたことが
挨拶を交わした後、正しさについて話して欲しいと願った。 耳を澄まして聞き入るバラモンたちに釈尊は次のように語った。
ある。

ある。そのことは直ちに村の長の耳に入り、村人は揃って釈尊に敬意を表しに来た。人びとは釈尊と

﹁身体に対する三つの不正と悪があり、言葉に対しては四つの、考えに対しては三つの不正と悪が

身体に対する不正とは、血塗られた手をした狩人のように生命を奪い、殺裁にふけり生き物に無慈

悲な人。村や森にある他人の持物を盗人のようなやり方で手に入れる、自分のものでないものを取る

うとする人。両親、兄姉親戚の監督下にある娘、いいなずけのいる、特に婚約の印である花飾りをつ けている娘と関係をもつ不義密通者がそれである。

言葉に対する不正とは、嘘をつく人である。即ち、集会、村会、家族会議、王家、その人の所属す

るギルドなどで証言を求められた時、知らないのに知っているといい、知っているのに知らないとい

い、見なかったのに見た、見たのに見なかったといい、己れのあるいは他人の、またはつまらぬ利益

のために故意に嘘をつくことである。次は中傷する人である。ある人びとにもんちゃくを起させるた

めにあちこちで色々のことを噂する人は、協調を乱し争いをかき立てる。不和は彼を焼舌にし、不和

は彼の喜び、楽し承である。第三は、ひどい言葉を吐く人である。その人の言葉は疎暴で荒っぽく、

他人を傷つけ、怒りをかき立て、心をかき乱す。第四は時を選ばぬおしゃべり屋である。事実を無視
口をたたく。

に な ︽ し、 、益 益 に な らぬことばかり喋り、教義や戒律に無関心で、つまらぬ何の目的もない時宜を失した無駄
第四章ブッダの教え

誤まった考えについていえば、先ず他人の持物をむや桑に欲しがる人である。次は自分の周りの生

き物を殺したがる心のねじれた悪意に満ちた人である。第三は、布施、供犠、喜捨、善い、あるいは

悪い行為の報いなどといういうものは存在しないとか、この世界や別の世界、親や親戚などいないと
やバラモンなどはいないという誤った考えを抱く人である。

か、正しい道を歩承、この世界また別の世界について正しい理解をし、そのことを他人にも示す行者

263第四部

この反対に、身体に対する三つの正しさ、言葉に対する四つの、考えに対する三つの正しさがある。

身体に対する正しさとは、先ず、一切の殺しを止め、いかなるものをも殺すことを慎し承、梶棒、

剣を片付け、稜れない情け深い、生きとし生きるものへの同情と憐承に満ちた人生を歩む人である。

第二は、盗承を働かず、与えられたもの以外他人のものを取ろうとせず正直な人生を歩む人である。

“一

2 6 4

第三は、姦通をなさず、親、兄姉、親戚の監督下にある、特に婚約の印である花飾をつけている、い
いなずけのある娘と関係をもたぬ人である。

言葉に対する正しさとは、先ず、嘘をつかぬ人である。集会、村会、家族会議、王家、その人の所

属するギルドなどで証言を求められた時、知らないことは知らないといい、知っていることは知って

いるといい、見なかったことは見なかったといい、見たことは見たといい、己れのあるいは他人のた

めに、またはつまらぬ利益のために決して故意に嘘をつかぬ人である。第二は、一切の中傷をしない

人である。ある人びとにもんちゃくを起させるためにあちこちで色為のことを噂せず、協調を促進し、

協調を楽し承とし喜びとする。第三は、ひどい言葉を吐かぬ人である。その人の言葉には疎がなく、

楽しく友好的で温かく礼義正しく、誰にでも喜んで受け入れられる。第四は、おしゃべり屋でない人
心をもち、啓蒙的で良く整理された話し方をする。

である。お喋りを慎し承、時宜を選んで話し、事実に基づき、常に益のある、教義と戒律について関

考えに対する正しさとは、むや承に欲しがらぬ人である。なんでも自分のものであるかのようにむ

や承に他人の持物を欲しがらないことである。第二は、悪意と邪しまな考えをもたぬ人である。身の

周りの生物が平和で楽しく、全ての敵、虐げから無事に生きられるようにと希うことである。第三は、

正しい見解、考えをもつ人である。以上が私の正しさと不正についての考えである﹂

。正しさの必要
釈尊は。ハータリガーマの在家信者たちにこう語った。

﹁邪しまで非道徳な人間には諸々の損失がついてまわる。怠惰のせいで大きな財産の損失をもたら

す。そしてその人にまつわる悪い評判が広まり世の信用を失わせる。そのような人は、貴族、・ハラモ

ン、家長、行者、どのような人びとの仲間になろうと肩身が狭くぴくぴくしている。これが第三の損
非道徳な人についてまわる損失である。

失である。彼は心が安まらず死に際にも心配でならない。これが第四の損失である。これが邪しまで

一方、清廉な生活を送る正しい人には功徳がついてまわる。そのような人は勤勉のおかげで大きな

財をなす。そしていい評判が広まりどこでも尊敬される。どのような人びとの仲間になろうと堂交と

自信をもっていられる。心は安らかで、死に際しても安んじていられる。
てしまう。

悪をなす愚か者は己れの愚かさが分らず、火が焼き尽すように、その人間の行為は愚か者を滅ぼし

善良な罪のない人びとを傷つける人はやがて大きな災厄をまねき、心が乱れ、人びとから見離され
富を失うことになる﹂
265第四部一第四章ブッダの教え

白正しさと俗事の道

かつて釈尊がラージャグリハの竹林にある栗鼠飼育所にいた時、サーリプッタは南の山間部を多勢
の托鉢僧を連れて旅していたことがあった。

サーリプッタは途中で雨期になるとラージャグリハにきて過す托鉢僧に出会った。彼は釈尊やサン
えていった。

ガの僧たちの安否を尋ね、ついでにバラモンのダーナンジャー一一も元気がどうか問うた。托鉢者は答

﹁どうしてダーナンジャー一一さんに教えへの情熱があるといえるでしょう。あの人は王様を利用し

て零ハラモンから巻き上げ、バラモンを利用して王様から巻き上げることしか考えていません。それに

信心深い家の出で、敬謙な奥さんが亡くなられてから不信心な家の出で非敬謙な女を妻にしています﹂

2 6 6

﹁それは悪い知らせだ。ダーナンジャー一一が宗教的情熱を失ったというのは実に実に悪い知らせだ。

いつかどこかで彼と会って話し合って承たいものだ﹂サーリプッタは嘆いた。

南の山間部にいたいだけいた後ラーシャグリ︿に戻ったサーリプッタは竹林に留った。早朝サーリ

プッタはラージャグリハに托鉢に行ったがその時間ダーナンジャー一一は牛の乳しぼりを見届けに出掛

け町にいなかった。そこでサーリプッタは托鉢と食事を終えてからダーナンジャー一一を探しに出掛け

た。サーリプッタの姿を見たダーナンジャー一一は近寄り、食事の前にミルクを飲もうと誘った。しか

しサーリプッタは、いや私は食事を済ませたところだ。それより日盛りを避け木陰で一緒に休もうと

いった。ダーナンジャー一一は承知し、食事を済ませるとサーリプッタと並んで坐った。
サーリプッタはいった。

﹁ダーナンジャー一一さん、あなたの熱意と精進と廉潔さは変りなく保たれているのでしょうね?﹂

﹁どうしてそんな風に生きてゆかれましょう、サーリプッタさん。私には養わねばならない両親、

妻子、奴隷や召使い、親族、友人知人、客が沢山いるし、死んだり旅に出たりする係累の面倒も承な
からね﹂

くてはなりません。神様や王様にも供物を捧げねばなりませんし私自身も食べてゆかねばなりません

﹁しかしダーナンジャー一一さん、もしある人が、両親のために廉潔さと公正さを失い捕えられ、そ
でしょうか?﹂

れは両親のためにしたことで捕えられる理由はないと訴えたら、その申し開きは受け入れてもらえる
﹁いいえ、どんなに訴えても役人は牢にほうり込むでしょうね﹂ ﹃それが妻子、春族のためだといったらどうでしょう?﹂
﹁いや、駄目でしょう﹂

﹁では、奴隷たちのためだといったら?﹂
﹁全然取り上げてもらえますまい﹂ ﹁友人、知人だったらどうですか?﹂
﹁矢張り駄目でしょうよ﹂

﹁身内の死や旅立ち、神様や王家のためだといったら?﹂ ﹁いいえ、それでも許してはもらえますまい﹂
らどうでしょうか?﹂

﹁自分のために、あるいは誰か他の人がその人自身が食べてゆくためだったのだと弁護してくれた
﹁いや、それでも受け入れてはもらえますまい﹂

﹁ではどちらが正しい人なのでしょう、ダーナソジャー一一さん。両親のために廉潔さと公正さを失
267第四部一第四章ブッダの教え

うのと、どんなことがあってもそれを守り切るのと、どちらが正しいと思いますか?﹂
﹁後者です﹂ダーナンジャー一一は答えた。

﹁ですがもっと別の道があると思いませんか、ダーナンジャー一一さん。両親を養いながら悪に走ら
か?﹂

ないで正しく生きる道があるはずです。そして妻子その他全てにそれは当てはまると思いません
﹁その通りです、サーリプッタさん﹂

ダーナンジャー一一はその言葉に感動しサーリプッタに厚く礼を述べて立ち去った。
画正しい行いによっていかに完成に達することができるか

釈尊がシュラーヴァスティーのジェータ林にいた時、五百人の在家信者たちが訪れた。その中の

一碑評

268

人にダンミカがいた。ダンミカは釈尊に尋ねた。

﹁正しい行いによって信者が完成に達するにはどんな規範によるのでしょうか。私が貴方様にこの

ようなことをお尋ねするのは、貴方様が人の幸せについて比類ないお考えをお持ちの方であるからで

す。修行を積んだジャイナ教徒、行者、バラモンたちも貴方様を打ち負かすことができず、逆に貴方

様の救いの真理を受け入れてしまいました。貴方様のその真理は実に微妙ですが人びとの渇仰するも
えを貴方様自ら我らに語って下さい﹂ 釈尊は信者たちに深い憐象を感じ、いった。


のを誠に見事に説かれております。何卒釈尊様、我らにお答えをお与え下さい。貴方様の汚れなき教

﹁宜しい。では良くお聴きなさい。正しい行為の規範を教えて上げよう。注意して聴き、実行しな

殺すなかれ、殺させるなかれ、殺すことを認めるなかれ。強きも弱きも生きとし生けるいかなるも
のにも暴力を振うなかれ。
を出すなかれ。

いかなる在家信者も盗むなかれ、盗ませるなかれ、いかなる盗承も認めるなかれ。他人のものに手

燃え上がった火の如き情欲を避け、人妻を誘惑するなかれ。 ↑会議や法廷で嘘をつくなかれ、嘘をつくようにそそのかし、嘘を認めるなかれ。真実ならざること
を放棄させよ。

飲酒に耽けるなかれ、耽けさせるなかれ、飲酒はいかに狂気に導くかに留意せよ。

飲酒によって愚か者は罪を犯し、だらしない兄弟を罪に誘う。この狂気の悪癖、愚か者の祝福から
逃れよ。

殺すなかれ、盗むなかれ、飲酒に耽けるなかれ、色欲に耽けるなかれ、夜誤まった時に食事を摂る
なかれ・

香、花飾りなどを着けるなかれ、地上に敷いた床に臥せ。 敬虐な心をもってこの八つの斎戒を守れ。

朝、これらの戒を守り、清らかな喜びの心をもって修行者たちに食物と飲物を与えよ。

、0
−V

汝の両親を十分に養い、正しい商いに励め。かくして節操ある在家信者は光の王国に達するである

⑤正しい道を歩むのに連れを待つ必要はない

戦場の象が射られた矢の痛承を耐え忍ぶように、この世の悪に対し私は人の誇りを忍ばねばならな
269第四部一第四章ブッダの教え

馴らされた象は戦場にも連れてゆき、王の乗りものとなる。自己をよく制したものは、世の誇りを
忍び、この世の最上の人である。 を制したものこそ最上である。

馴らされたロバは良い。血統正しいシンド地方の駿馬も良い。力強い巨象も誠に良い。しかし自己

何故ならこれらの動物に乗って私たちはニルヴァーナに達することはできない。そこへは自己を良
く制したものにしか到達できないからである。
を悪の道から救い出せ。

精進に喜びを見出し、心を良く見張り、倦まず進まねばならない。泥沼から象を救い出すように汝

正しく、確固として聡明な人を伴侶として見出したなら、一切の心配事をおいて喜んでその人と共

一一

2 7 0

にひたすら歩むがよい。 に孤りで歩むがよい。

もしそのような伴侶が見つからなければ、国を捨てた王のように、敵に追われた森の中の象のよう

愚か者を道連れにするより孤りで歩いた方が良い。孤りで歩め。悪をなすな。僅かなものだけをも
って孤り歩め、森の中の孤独な巨象が歩むように。
悪しぎ思いを捨てよ。

ここにそれを捨て去る道がある。

他人が害をなすとも自分は害をなすまい。 他人は殺しても、自分は決して殺すまい。 他人は盗承を働こうとも自分は盗むまい。 他人は清らかな生活を歩まなくとも自分は清らかな道を歩もう。 他人はやたらにものを欲しがろうとも自分は欲しがるまい。 他人は悪意を抱いても自分は善意をもっていよう。

他人は嘘をつき、中傷し、非難し、下らないお喋りをしようとも自分はしまい。

おも

他人は間違った考え、目的、悪しき一一一一口葉、行動、誤った暮らし方、間違った努力、間違った念い、
おも

膜想にふけろうとも、自分は正しい見方、正しい目的、正しい言葉、正しい行い、正しい暮らし方、

正しい努力、正しい念い、正しい膜想という八つの正しい道を歩もう。他人は間違った真理、間違っ
他人は怠惰で無気力であっても自分はそうはなるまい。 他人は己惚れようとも自分蝉謙虚であろう。

た救済思想を抱いていても、自分は正しい真理、救済思想を抱こう。

他人は疑心暗鬼でいても自分は確固としていよう。

他 人 は 怒 り 、 悪 意 、 妬 承 、 羨 望 、 物 惜 し 承 、 負 欲 、 偽 善 、 欺 疏 、 無 感 動 、 倣 慢 、 出しゃばり、無思 よって悪い考えを取り除くことができるのである。

慮、無教養、不活発、混乱、愚かさを抱こうとも、自分は全てその反対でいよう。 このような決意に

第四節一一ルヴァーナの教え

Bニルヴァーナとは何か?
271第四部一第四章ブッダの教え

かつて釈尊がシュラーヴァスティーのアナータピンデイカの園にいた時、サーリプッタもそこで暮
していた。

ある時、釈尊は、
ねが

﹁修行僧たちよ、この世の幸いを分ち合わず私の教えを分ち合う人となって欲しい。私はそれを心
から念わずにはおれない﹂といいその場を去った。
ッタは答えていった。

修行僧たちは後に残ったサーリプッタに一一ルヴァーナとは何かを説いて欲しいと頼んだ。サーリプ

﹁兄弟たちよ、あなた方は負欲は悪であり怒りは悪であることを知っています。この負欲と怒りを
ルヴァーナヘ導いてくれます﹂

取り去るために中道の道があり、それは我々に見る眼を与え、知らしめ、平安と内観、覚醒そしてニ

2 7 2

﹁中道の道とは何であるか。それは正しい見方、正しい目的、正しい言葉、正しい行い、正しい暮
おも

らし方、正しい努力、正しい念い、正しい膜想という八つの正しい道以外何ものでもありません。修
行者たちよ、これが中道です。

怒りは悪であり、悪意も羨承も妬承も悪であり、物惜し承寅欲も悪であり、偽善、欺職、倣慢、慢
以外何ものでもありません﹂

心、怠惰も悪であります。慢心、怠惰を取り除くために中道があり、一一ルヴァーナは八つの正しい道 修行僧たちはサーリプッタの言葉に心から喜んだ。 目ニルヴァーナの基礎

ある時尊者ラーダが釈尊を訪れた。挨拶を終え釈尊の傍に坐したラーダは尋ねた。
﹁師よ、ニルヴァーナとは何でしょうか?﹂
﹁一一ルヴァーナとは煩悩からの解放である﹂と釈尊は答えた。

﹁しかし師よ、ニルヴァーナの目的は何なのでしょうか?﹂ り、ニルヴァーナがその究極点なのです﹂

﹁ニルヴァーナに根ざし正しい生活を送ることです。ラーダよ・ニルヴァーナそれ自身が目的であ

釈尊がシュラーヴァスティーのアナータピンデイカ園に住んでいた時、こう兄弟たちに語った。
かつ︲・﹂

﹁兄弟たちよ、あなた方は私の説いた、低劣な世界に人を縛りつける五つの足伽を覚えています

﹁師よ、私はその五つの足柳を心に留めています﹂尊者マールンキャプツタはいった。

﹁ではどのように留めているのですか、マールンキヤプツタ﹂ が人を低劣な世界に縛りつける五つの足棚と心に留めています﹂

﹁師の説かれた身体についての見解、不安、儀式。祭礼に依存する道徳的汚点、情欲の歓び、悪意

﹁しかしマールンキャブッダよ、違った考えの行者たちは、乳呑児のたとえ話を持ち出しそなたを

非難しないだろうか? 分別もなくただ仰向けに寝ているだけの乳呑児に身体というまとまった意識はないはずだ。だのに

どうして身体についての見解が生じるのか、と。だがそれについての萌芽はすでに隠されているので

ある。精神状態の不安についてもそうだ。乳呑児の中にもその不安の芽は潜んでいる。道徳的行為に
ても同様である﹂
273第四部一第四章ブッダの教え

ついてもそうである。情欲の歓びについても然り。その芽は乳呑児の中にひそんでいる。悪意につい

第五節ダンマの教え

B正しい見方が何故最初に位置するか

八つの正しい道の中で、正しい見方が最も貴い。正しい考えはより清らかで正しい生活における全

ての端緒であり鍵である。無知こそが一切の悪の根元である。正しい見方を養い、人はこの世の全て
法則を認識するということである。

の現象は変化してゆくものであることを知らねばならない。正しい見方を持つということは、因果の

2 7 4

邪しまな考え、邪しまな目的、邪しまな言動、生活、邪しまな努力、注意は、膜想に走るいかなる

人間の認識、救済も歪んだものとなす。というのは彼の全ての行為、言葉、考えはこのように邪しま

な見方によって生れ実現されるからである。全ての意志的行為、願望、決意、一切の活動は結局不快な、

厭悪すべき、益のない苦痛となって返ってくる。何故なのか?その人の考えが邪しまだからである。

しかし、正しい、というだけでは十分ではない。赤ん坊は正しいかもしれないが、彼は正しさを認

識しているわけではない。正しくあるためには人は何が正しいかを認識していなければならない。

﹁それは、何が理性的に可能で何が不可能かを熟知しているものである。アーナンダミ修行者の 名に価するものはどのようなものだろうか?﹂と釈尊はいった。
目死後の世界を何故気に病むのか

ある時、大尊者カッサ。︿と尊者サーリプッタは、バラナシに近いイシパタナの鹿の園に住んでい
た ねた。

夕方サーリプッタは膜想から立ち上がり大尊者カッサ。︿の下に赴き脇に坐した。

﹁ところで友よ、タターガタ︵完き人・如来︶は死後も存在するのでしょうか?﹂サーリプッタは尋

﹁友、サーリプッタょ、釈尊はそれについて何も明らかにされなかった﹂カッサ。︿はいった。

﹁では、タターガタは死後存在もするし存在もしないのですか?﹂

﹁それについても釈尊は何も明らかにされなかった﹂カッサ。ハはいった。

﹁では友よ、タターガタは死後存在しないわけでもないのですか?これについても釈尊は何も明

らかにされなかったのですか?どうして師はそのことをはっきりとさせなかったのでしょう?﹂

﹁そのような質問は人間にとって何の益もなければ、清らかな生活の第一義的諸原理と何の係わり
について何も明らかにされなかったのですよ、友よ﹂
白神への祈り、祈願は無意味である

もないからです。それは完全な智慧にもニルヴァーナにも導かないからです。だから釈尊はこのこと

ある時、釈尊はヴァーセッタにこう話した。

﹁もしこのアチラヴァティー河が増水して氾濫している時、ある人が向う岸に用があり河を渡りた

いとしよう。その人は岸に立って〃おーい向う岸よ、こっちへ来てくれ″と岸に祈るだろうか。その

人の祈祷、祈り、願いによって向う岸はこちらに来ると思うかね、ヴァーセッタょ。それは同じよう

に、三種のヴェーダに精通したバラモンが、真の.ハラモンたる修行を積まず、いかにインドラ、ブラ
275館四部一第四章ブッダの教え

フマー、イーシュヴァラの神々を喚起しようと、その祈りや願いによって死後ブラフマと合一するだ

ろうか。そのような条件は決してありえないのだょ、ヴァーセッタ﹂
画人を清らかにするのは何を食し、何を食さないかではない

あるバラモンが尊師に、品性に対する食物の影響について尋ねた。彼はこういった。

﹁ヒエ、アワ類、ヤシの実、穀類、球根類、野生の芽を食することは善い生活を促すが、いけない

のは屍肉を食べることだ。屍肉は食べないで新鮮な烏肉で調理した選ばれたものを食べよといわれま

すが、屍肉とは一体どういう意味なのでしょうか﹂ ﹁人を殺すこと、不具にすること、鞭打つこと、束縛すること、盗むこと、嘘をつくこと、欺すこ

と、不義密通すること。それが悪い屍肉ということであり、肉類のことではありません。

快楽を追い求め、大酒を飲承、汚れた生活をし、ぶしつけな異議を唱えることが屍肉ということで あり、肉類のことではありません。
とではありません。 とではありません。

276

陰口をたたき、残酷で、裏切りをし、無慈悲で、高慢、卑劣な罵言、これらが屍肉であり肉類のこ

怒り、己惚れ、反感、悪質な欺備、羨望、大言壮語、低俗な友達、これらが屍肉であり、肉類のこ

卑しい生活、中傷、ごまかし、詐欺、破廉恥行為、これらが屍肉であり、肉類のことではありませ

殺意をもって怒り、盗み、これらは破滅に至る道であり、屍肉なのです。

断食も、裸の行も、結髪も、生皮をまとうことも、火の供犠も、来世の幸せをうるための厳しい禁 欲も、旗ぎも、疑いの念を抱く人を浄めることはできません。

己の感覚を制御し、力を抑制し、真実を守り、慈悲を持つことです。全ての束縛を離れ全ての悪を

克服している聖者は、己れの見聞きするものによっていささかも汚されることはありません﹂

〃屍肉″を非難し、気高く、人を救いに導く真理に打たれた今ハラモンは、柔順に膝まずき釈尊の弟 子として受け入れて欲しいと釈尊の許しを請うた。
因問題なのは食物でなく悪い行いである
、、、、、、

アーマガンダ︵生臭いものを食べなかったのでこの名で呼ばれた︶という今ハラモンは、弟子たちとヒマ

ラヤ山中に住する苦行者であった。かれらは魚も肉も食べず、毎年塩や新鮮な野菜を求めて山から下 りてきた。麓の村人は彼らを敬い温かくもてなした。

ある時、釈尊がその村を訪れ、その教えに触れた村人は釈尊に帰依してしまった。その年もアーマ

ガンダたちは例年の通り村へやってきたが、村人は以前ほど熱心に彼らを迎えなかった。アーマガン
シュラーヴァスティーのジェータ林に釈尊を訪ねた。

ダは釈尊が魚も肉も食べることを禁じなかったことを聞き失望した。自ら真偽のほどを確かめようと、

﹁ヒエ、アワ、豆、食べられる葉、根、つる草の果実、これらを食する善き人は快楽のために嘘言
、、、

を吐くことはありません。あなたは他人から施与された食物は、それが正しく調理されきちんとよそ

われ、清浄であれば何でも食べます。米から作った食事を楽しむものをアーマガンダといいます。

ところがあなたは鳥肉と一緒に調理した食事をしても、〃アーマガンダの非難は自分には当らない〃
尋ねた。釈尊は答えていった。
277第四部一第四章ブッダの教え

といわれます。尊師のいわれるアーマガンダとはどういう意味なのでしょうか?﹂とアーマガンダは

﹁生命を奪い、打榔し、傷つけ、束縛し、盗承、嘘をつき、欺き、編し、無意味な知識を得意がり、

不義密通することがアーマガンダであり、肉を食べることではありません。

性的放縦に走り、甘いものを貧り、不純な行為に加わり、虚無的な考え、歪んだ、従いてゆけない

ような思想を持つ人がアーマガンダであり、肉を食べることではありません。

無礼で、粗野、陰口をたたき、不誠実で、思いやりがなく、極端に利己的で、寛大さに欠け、何も

人に与えようとしないけちがアーマガンダであり、肉を食べることではありません。

怒り、高慢、頑固、敵意p羨望、自慢、これらがアーマガンダであり、肉を食べることではありま
せん。

悪しき道徳観をふりまき負債を払わず、中傷し、商いでごまかし、不正を隠すための見せかけをす
る人がアーマガンダであり、肉を食べることではありません。

278

欲や敵意に駆られて生き物を襲い、常に悪に傾く人は死後地獄に堕ちます。これがアーマガンダで
あり、肉を食べることではありません。

魚や肉を食せず、裸の行をし、頭を剃り、あるいは蓬髪を装い、灰を身体に塗り、粗い鹿皮をまと

い、火の供犠を行い、不死のためにこれら全ての禁欲を行い、呪文を唱え、献供をし、供犠、季節毎

の行事を重ねようと、心の疑いを取り除けぬ人は自らを浄くすることはできません。

己れの感官を統御し、煩悩を克服し、ダンマを確かりと守り、正しく柔和に生きることを歓び、執

着を断ち、全ての悲しゑに打ち勝った賢者は、己れの見、聞いたことにこだわりません。

アーマガンダとなるのは悪しき行為であり、魚や肉を食べることではありません﹂
㈲外見をきれいにするだけでは不十分である

釈尊がシュラーヴァスティーにいた時、サンガーラヴァという寺ハラモンがいた。彼は汰浴行に徹し、
日夜泳浴に固執しつづけていた。

尊者アーナンダは朝早く外出衣をまとい鉢を持って托鉢に出掛けた。シュラーヴァスティーの町か
ら帰り食事を終えると、釈尊の許に行き傍に坐し、こういった。

﹁師よ、シュラーヴァスティーの町に、サンガーラヴァというバラモンがいますが、彼は日夜泳浴

ばかりして過しています。彼を憐れとお思いなら一度その人を訪ねて上げてはどうでしょう﹂
寧な挨拶を交わした後、釈尊はやおら口を開いた。
﹁その通りです尊師ガウタマ様﹂

釈尊は沈黙によって承知した。翌朝釈尊は托鉢に出、サンガーラヴァの家に立ち寄った。互いに丁

﹁バラモンさん、あなたは泳浴行者で日夜水浴びばかりしているそうですが本当ですか?﹂

﹁そういうことをして何かうるところでもあるのですか?﹂釈尊は重ねて尋ねた。

﹁日中何か間違ったことをすれば夕方汰浴してその罪を浄め、夜間違いを犯せば翌朝汰浴して罪を

浄めるのです。それが汰浴行によって私がえようとしているものです﹂
岸に達するのです﹂

﹁規範こそが池であり、清く汚れなきものです。賢者はその池に来て派浴し隅々まで浄められ、彼
釈尊の言葉に目が覚めたサンガーラヴァはいった。

﹁見事です尊師ガウタマ様。今日より生命のある限り、貴方に帰依する信者として受け入れて下さ
い﹂

㈲清らかな生活とは何か
279第四部一第四章ブッダの教え

旅の途中、いつものように釈尊は弟子たちに次のような教えを説いた。

﹁兄弟よ、清らかな生活は、人を欺き、他人の恩恵を求めるために、何らかの利益を、名声をえん

がために、面倒なことから脱がれんがため、人によって然るべく認められんがために実践されるので
させるために行われるのである﹂

はない。実に兄弟よ、この清らかな生活は、身体と言葉を制御し、汚れをなくし、煩悩から離れ消滅

280

第六節社会、政治問題についての教え

日王侯の恩恵に頼るな

釈尊がラージャグリハの竹林にある栗鼠飼育所に住んでいた頃、アジャータサットゥ王子は釈尊の
り届けデーヴァダッタたちを養っていた。 弟子たちがこのことを釈尊に訴えると釈尊はこういった。

敵となったデーヴァダッタを庇護していた。彼はしじゅうデーヴァダッタの許にふんだんに食物を送

﹁王侯の寵愛や贈物、お追従を望んではならない。アジャータサットゥ王子がそのようにしじゅう

沢山の食物をデーヴァダッタに与えている限り、デーヴァダッタはいつか身を滅ぼすであろう。飢え

た犬の鼻先きに御馳走をぶら下げれば、犬は益を狂うばかりである。それと同じように、王子がその

ようにデーヴァダッタを支えてやればやるほどデーヴァダッタは破滅の道を辿ることになろう。確か な安らぎの道にはそれらは障害でしかない。

私たちは何のために修行するのだろう、兄弟たちよ。そのような寵愛、贈物、お追従が授けられた

ら、私たちはそれを拒否し、それに心を奪われぬようにしなくてはならない﹂
。王が義の人であれば臣下もそれに従うであろう

|︲支配者が義の人でなければ、大臣や役人たちも悪人となるだろう。かれらが正しくなければ、.︿

ラモンも家長たちも悪者になり、ひいては市民も村人も悪に染まるだろう。反対に王が義の人であれ

ば、大臣や役人も正しい人となり、・ハラモンや家長も、ひいては市民や村人も正しい人になるだろう。

牛の群が歩いている時、リーダー役の年とった雄牛が道を外れたら他の牛もそれに従いてゆく典ぅ
れば臣下全てが苦しむことになる﹂
白政治や軍事力を支えるのはその社会組織である

に、長たるものが道を過てば他のものもそれに習う。それと同じに、王たるものが間違ったことをす

ある時、釈尊はラージャグリハの〃鷲の峯″というところにいた。その頃、ヴィデーハ国王の娘の

子であるマガダ国王アジャータサットゥはヴァッジ国を征服しようと思った。〃ヴァッジ族は強大で
める奇ハラモンのヴァッサカーラを呼んでこう告げた。

勢力があるけれども、かれらを根こそぎにし徹底的に滅ぼしてやろう″彼はそう心に思い、首相を務
281第四部一第四章ブッダの教え

﹁さあ、バラモンよ、釈尊の所へ行ってくれ。私のために尊師の足に額づき、健勝であり、障りな

く、平穏と快適、活力に溢れる健康を楽しんでおられるかを尋ねてくれ。そしてアジャータサットゥ

が、ヴァッジ族がいかに強大であろうと彼らを滅ぼしたがっていると告げてくれ。釈尊が予見された

ことを詳さに記憶し私に話すのだ。ブッダは嘘言を語らないからである﹂ ヴァッサカーラは〃かしこまりました〃と答え、沢山の華麗な乗物を用意し〃鷲の峯″へ向った。 釈尊は後に立っていたアーナンダにこう聞いた。


たか?﹂

釈尊に会い、挨拶を交わしたヴァッサカーラは、王の言葉を全くそのまま伝えた。

﹁アーナンダ黒そなたはヴァッジ族は人がよく集まる会議をしばしば開くということを聞きまし

2 8 2

﹁師よ、そのように聞いています﹂アーナンダは答えた。

﹁ヴァッジ族が人がよく集まる会議をしばしば開いている間は滅びることはなく、繁栄が期待され
﹄生寓ノ﹂

﹁ヴァッジ族が一致して集合し、一致して立ち上がり、一致して任務を遂行し、まだ定められてい

ないことを定めず、すでに定められたことを廃棄せず、昔に定められた一族の旧来の法に従って行動

し、一族の古老を敬い、尊び、崇め、支え、その言葉に耳を傾けることを尊重し、一族の婦女子を暴

力でかどわかしたりせず、彼らの宗教を敬い遵守している限り、ヴァッジ族は滅びることはなく繁栄 が期待されよう﹂釈尊はこのように語った。

つまり釈尊は、ヴァッジ族が民主主義を信じ、それを実践する限り国は滅びないと断言したのであ
ついで釈尊はヴァッサカーラに向っていった。
えたのです﹂

﹁かつて私がヴァッジ族の首都ヴァィシャーリ−にいた時、今いったような繁栄に必要な条件を教

﹁分りましたガゥタマ様、彼らがその条件を守っている間は、繁栄が期待され滅びることはなく、

マガダ国王によって征服されることもない、ということでございますね﹂ ヴァッサカーラは城に帰って聞いたままを王に伝えた。

画戦争は悪である

マガダ国王アジャータサットゥは騎兵、歩兵の大軍を集めコーサラ国王・︿セーナディの領土カーシ

に侵入した。・ハセーナディ王も同様の大軍を率い迎え撃ったが、破れて首都のシュラーヴァスティー

に退却した。

シュラーヴァスティーにいた修行僧たちは托鉢から一戻ると釈尊に戦の模様を話した。

﹁修行僧たちよ、マガダ国王アジャータサットゥは常に悪に親しみ、・ハセーナディ王は善に親しむ

人である。・ハセーナディ王は目下敗者として惨めな夜を過すであろう。

征服は憎し承を生む。征服されたものは惨めである。しかし、安らぎをえ煩悩を断った人は幸せに
生きる。その人には征服も敗北も無縁である﹂

両王は再度戦いを交え、二度目はコーサラ国王。ハセーナディが勝利し、アジャータサットゥを生け

捕りにした。・ハセーナディ王はこう思った。﹁この王は、彼を傷つけもしない私を傷つけたが、私の
実行した。
283第四部一第四章ブッダの教え

甥 あ る 。 甥で で あ る 。彼の全軍隊、象、馬、戦車を没収した上で命だけは助けてやろう﹂王はその通りのことを

修行僧からこのことを聞いた釈尊はこう語った。

﹁自分の目的に利するからといって人を傷つける人は、他人にいつか傷つけられえたものを奪われ﹃

再び人を傷つけるだろう。悪の報いが訪れる前は、悪はいかにも魅力的に誘うものだ。しかし時到れ

ば必ず報いを受ける。人を殺せば、己れがいつか殺されよう。征服者は己れの征服者にいつか倒され
傷つけられる﹂

よう。人を中傷するものは己れが中傷されよう。行いの報いによって、傷つけるものはいつか己れが

国平和をかちとった勝者の義務

平和を勝ちとった勝者は、被征服民を隷属化させないまでも屈辱を与える権利があると主張する。

しかしブッダは全く違った考えを持っていた。平和に意味があるとすれば、勝者が打ち負かした相手

2 8 4

の向上のためにその勝利を利用することにある。ピクたちにこう語った。

﹁平和がもたらされた暁には、戦争の熟練者たちは有能で正しい人間として、丁寧な言葉、思いや

りある態度、謙虚で打ちとけた、感じのいい客人として振舞い、出しゃばらず感官を制御し、賢く、

い い

人を脅かしたりしない人であらねばならない。厳しい制裁をもって卑屈な態度で膝まずかせてはなら

全てのものが幸せと平和に暮らし、強者も弱者も、身分の高いものも低いものも、遠くに住むもの
でなければならない。

も近くにいるものも、生れたもの、これから生れてくるであろうものも、全てが平和に暮らせるよう

誰も仲間にへつらったり軽蔑したりせず、怒りや僧し承で他人を傷つけようとさせたりしてはなら

母親が我が子を命がけで庇おうとするように、生けるもの全てを我が子と思う心を抱き、全世界へ

の愛、内に僧しゑをもたぬ汚れなき、敵意を起こさせない愛を抱かさしめよ。 を考えよ。〃これが清らかな状態である〃﹂

このように、汝らは立つ時も歩く時も、坐ったり横になったりする時も常に全力をもってこのこと

第五部サンガ

第一章サンガ

目サンガと第一次結集

釈尊の信徒はピクと、ウ・ハーサカという在家信者に分けられていた。
ビクはサンガ︵僧の集い︶に入り、ウ・ハーサカは外に留まった。
さすら

ビクはもともと遍歴行者であり、この集団形態は仏教徒サソガより更に古いものであった。
第一章サソガ

古い遍歴行者は、家、家族を捨てた流離い人の遊行集団にすぎなかった。かれらは行く先をで出会

う教師や哲学者から教えを聴き、倫理、思想、自然、霊的事柄などについて意見をたたかわし真理を

つかもうと放浪した。ある者は次の師が見つかるまで一人の師につき、ある者は師もなく一人で暮ら

した。これら遍歴行者の中には女の行者もおり、ある者は男の行者と暮らし、ある者は一人で、ある

者は女同士で暮らした。彼らの間にはサンガはなく、戒律やそれに向って進む理想もなかった。

287第五部

自分の信徒をサンガに組織し、規律を与え、目指すべき理想を置いたのは釈尊が最初であった。 ロサンガヘの入団許可
1、サンガは全てに開かれている。

8765432

2 8 8

カーストの垣根はない。 性的差別はない。

社会的身分の区別はない。 サンガにカースト秩序はない。
サンガに身分制はない。

サンガにおいて全ては平等である。

サンガにおける序列はその人の価値であり生れによらない。

サンガは釈尊がいったように、ピクという川が注ぎこむ海のようなものであった。川はそれぞれの

名と生れを持っているが、一度海に注ぎ入ればその名も生れも失せ、一つになる。サンガもそれと同
も身分もない、と釈尊はいった。

じで、ビクが一度サソガに入れば、海の水のように他の者と一つになってしまう。ビクにはカースト

サンガ内における唯一の区別は性別であり、ビクとビクーーに分れていた。

サンガの入団者はシユラーマネーラ︵沙弥︶とビクに区分された。二十歳以下の男子は三帰依と十

戒を宣誓すれば誰でも沙弥になれた。三帰依とは、〃私はブッダに帰依します。私はダンマに帰依し
嘘をつかず、飲酒に耽けらず、定められ時以外食事を摂らず、
818凸■0恥。夕■■日日■■日田■■00■■■■■■10日−509日100■09・F1I

ます。私はサンガに帰依します″という誓いである。十戒は、私は殺さず、盗まず、行いを清くし、

Ⅱ11 1
らず、ぜいたくをせず、金鋤劉一詞詞卿卿側牽.︾1という誓いである。
ではなかった。

︲I︲︲訴割﹃部詞﹄計器剖劃蒋州国雫謂弔雪封回軍皿岬斜制叫鋼洞吋︺村山割罫州型詞﹃釧却﹃封︷“到釧

着飾

沙弥はまたいつでもサンガを離れ還俗できた。沙弥はビクにつき、ビクに仕えたが、完全な出家者

ビクの地位に達するためには二段階をふまねばならなかった。第一段階は岬謝謝第一一ば割詞郷である。 戒を受けた後ビクとなる。

ピクになろうと思って出家するものは、ウ。ハーディャーャ︵親教師︶の資格をもつビクを求めねば

ならない。ウ・ハーディャーャになるには少なくとも十年間ビクとして過さねばならない。ゥ。ハーディ

ャーャに受け入れられたものは.︿リヴラージャカ︵出家者︶となり、ウ・︿1ディャーャに仕え後見し

てもらわねばならない。後見期間が終り、ウ。ハーディャーャがサンガに弟子を受戒者の候補として推

し、弟子はサンガに〃受戒″式を求めねばならない。そして彼がピクに相応しい人間であることをサ

ソガに認めてもらわねばならない。このために一連の質問が候補者になされる。サンガの承認があっ

てはじめて彼は〃戒″を授かりビクとなる。ビクーーの場合も大体ビクと似たようなものである。.

白ビクと誓い

彼 ら の 義 務 はそれに従うことである。ピクは、戒律を 在家信者と沙弥は戒律を守らねばならない。彼 ら の 義 務 泡
第一章サソガ

な ら な い 。 もし破れば罰せられる。即ち、独身を守る 守るだけでなく、それを破らぬ誓いを立てねばな ら な い 。 〃

劃 Ⅷ ︾ 鋼 剃 劃 河 執 引 馴 引 叫 引 印 樹 剖 制 割 引 劃 。 調 生 を せ 叫 副 叫 可 戒律が認めたもの以外のものを所有せぬ

l11

クは貧の誓も立て

2 8 9 第 五 音 ’

位者は誰も超越的知慧や赦罪の特権を有していない。彼は自らに依って立ち、自ら蹟く。彼は思想の

自由を有していなければならないからだ。前記の誓いを破ったピクは、サンガからの追放という制裁

上自は

2 9 0

を受ける。

四ビクと聖職者としての罪
﹃一IⅡⅡ11.■■■■■

ビクが誓いを破ることは、

科がある。それらは僧残罪といわれ、律蔵の中に十三箇条示されている。

㈲ビクと制約

罪を犯さないだけでなく、ピクは一定の制約を守らねばならなかった。その− つに〃 捨 堕 罪 ″″ 、とい 〃 拾 堕 罪 111ljIIII I ︲ ︲ 伽 判 、 ロの 叩鳴 の贈 物 や 、金、 うのがある。それにはビクの守るべき一一六の制約があり、寛衣、毛の敷物、鉢、 医薬品


も九二の制約がある。

!I

ある。この罪以外に彼が服さねばならない幾つかの

銀を受け取ることを禁画、 商いへの従事、サンガの財産の横領なども含まれている。 ま た こ れ 以 外 に

局ビクと衆学法

ビクは人の模範とならねばならない。このために釈尊は一連の善行規定を設けた。それらは七十二
箇条からなり、衆学法といわれる。

㈲ビクと罪状の裁定

これら罰則の実施と除外は単に形式的なものではなかった。明確な告発、裁断、罰を含む内容的に
合法なものであった。

いかなるビクも正式に構成された法廷による裁きを受けずに罰せられることはなかった。法廷は、

罪科が発生した場所に住むビクたちによって構成され、裁判は、法廷に必要な人数のビクによって必

ず行われた。明確な告発のない裁判は合法と見なされない。被告の面前で行われない裁判は合法でな

い。被告人に十分な自己弁護の機会の与えられない裁判は合法的でない。

有罪と認められたビクには以下の罰が与えられる。警告と放逐。狂気宣告。サンガ追放。ボイコッ
をアシ、ハーナ。カルマ︵抜罪溺磨l復帰の儀式︶と呼ぶ。
八、ビクと告白

ト。僧園追放。僧園追放は、その後の行いがサンガによって認められれば解かれることがある。これ

サソガに関して釈尊が設けた最もユニークでオリジナルな規約はウポーサタと呼ばれる哨司臼の掲回、
で蝋あった。

釈尊は彼の設定した規約を罪科として適用することができると十分知っていたが、罪科に問われな

い規約も幾つか設けた。規約は人格の養成と確立と切っても切れない関係があり、それらが忠実に履

されているということも同じように大切なのだといっている。しかし規約を実行させる効果的方法 お 行行 さ れ て い る と い う こ と も 同 じ よ う に 夫 見 つ か ら な い の で 、 ビ ク の 良 心を を培 培い い、道を過った時の見張り役として役立たせようと、公げに告 サ がが 見 つ か ら な い の で 、 ビ ク の 良 心

副到 対周 濁淫 謬考えついたのである。舎 告白は規約違反に限られていた。この告白のために、一定地域 毒帥訓 副謝 剥剖 副到

第のビ ク の 集 会 が 行 わ れ 、 一 一 週週 間間 にに 一三 一度 一度 の ビ ク の 集 会 が 行 わ れ 、 二 ︵︵ 半月の第十五日第十四日と第八日︶そのような集会が開かれた。

↑そ の 日 ビ ク た ち は 断 食 し た の で 、 ウ ポ ー け タ ︵ 斎 戒 ︶ に 冊 陪 隣 修 悼 は 腸 に な っ に 集 隆 陣 脂 l セ レ 肋 隆 い い
2 9 1

を 一 つ 一 つ 読 承 上 げ 、 そ の 都 度 〃皆さんが黙っているのは、誰方も規約を破っていないからだ 錘がが 規規 約約 を 一 つ 一 つ 読 承 上 げ 、 そ の 都 度 ” 封筒叫剥詞州と三度くり返し、次の規約に移る。ビクニサンガでも同様の告白集会を開いた。告白が

あれば、つづいて告発と裁きが行われる。罪を犯しても告白しない者がいれば、それを知っているビ

2 9 2

クが一証言を行い、違反者への告発と裁きがなされる。

第二章ブッダの語ったピクの概念

Sビクはどうあるべきか
第五部一第二章ブッダの語ったビクの概念

ブッダはピクたちにビクはどうあるべきかをこう語った。

﹁己の罪を浄めず、自制と真理を無視するものはたとえ黄色い衣を着ようと、その衣に価しない。

罪を浄め、全ての徳を十分に備え、自制と真理を把握するものこそ黄色い衣に価する。

托鉢をするからとてビクではない。全ての法を歩むからビクなのだ。

悪を超え、汚れがなく注意深くこの世を渡る人こそが真のビクと称ばれる。

戒律や誓いだけでなく、博識だけでもなく、倶想に徹するだけでも、一人で臥すだけでもなく私は
ある。

俗人の知りえない解脱の喜びを味わっている。ピクたちよ、煩悩を消し去ったものが確信をうるので

己れの口を慎し承、思慮深く冷静に話し、法の意味を説くピクの言葉は快よい。

法に安住し、法に歓びを感じ、法を碩想し法を思惟するピクは真の法から逸脱することはない。

2 9 3

施与されたものを軽蔑せず、他人を羨むな。他人を羨むものは心の安らぎをうることがない。

与えられたものが僅かであっても受けたものを軽蔑せず、その生活が清らかで怠惰でないビクは、

2 9 4

神々ですら賞賛するであろう。
称ばれる。

名称と形態を己れと同一視することなく、何ものもないということを嘆かないものこそ真のビクと

慈し黙をもって行い、ブッダの教えに喜びを見出すもの瞳ニルヴァ︲ナー現象の流れを断ち切っ
たところから生じる幸せlに達するであろう.
やかにニルヴァーナに向うであろう。 脱したものは、〃激流を渡った者″と称ばれる。

おお、ピクよ、この舟︵個人存在の意︶を軽くせよ。空になった舟は、情欲と憎し承を断ち切り、速

五つの束縛を断て、五つの束縛を捨てよ。五つの束縛を超えよ。これらの五つの束縛︵煩悩︶から
膜想せよ、怠るな、ピクよ・汝の思いを快楽の対象に向けるな。
つけた人はニルヴァーナの近くにいる。
ものを感得する。

智慧なくして心の安定統一はなく、心の安定統一なくして智慧はない。智慧と心の安定統一を身に

人のいない空家︵煩悩のない︶に入り、心を静め、ダンマを明らかに観るものは、人間的喜び以上の

これは智慧ある賢いビクにとってのはじまりである。感官に留意し、満足し、ダンマに従って自制
し、怠ることなく浄らかに生きる善き友を持て。

慈しふをもって生き、己れの義務を完全に果せ。そうすれば喜びに満ち、苦悩を減するであろう。

自らを励まし、自らを良く反省せよ。自分を護り、注意深くあれば幸せに暮らせるであろう、ビク
あるじ

自分こそ自分の主であり、自分こそ自分の依疏ソ処である。それ故、商人が良い馬を調教するよう

に己れを抑制せよ。

真剣さを喜び、思慮のなさを恐れるピクは焔のように動き回り、あらゆる己れの束縛を焼き尽す。
の近くにいる。

反省を喜び、思慮のなさを恐れるビクは、完全な状態から逸脱することがない。彼は一一ルヴァーナ

ガウタマ︵ブッダ︶の弟子は常によく目覚めていて、その心は日夜ブッダと、サンガそしてダンマ
に向けられている。

ガウタマの弟子は常によく目覚めていて、その心は常に己れの身体に向けられている。
第二章ブッダの語ったピクの概念

ガウタマの弟子は常によく目覚めていて、その心は日夜深い思いやりに喜びを感じている。

ガウタマの弟子は常によく目覚めていて、その心は日夜禅定に喜びを感じている。

この世を捨てることは難しい。この世を楽しむことは難しい。僧院で暮らすことは難しく、俗界は

苦痛だ。全てを平等に分かち合うのは苦痛で、遍歴行者は苦痛につきまとわれる。

徳と栄光をえた、信仰ある人は、どのような場所を選ぼうと人から尊敬される。

。ビクと苦行者

ビクは苦行者だろうか?答えは否定的である。この否定的答えは、遍歴行者ニグローダとの論争
に示されている。

第五部

釈尊がラージャグリハに近い鷲の峯にいた折、遍歴行者一一グローダも多勢の行者と共に、行者のた

めに与えられた王妃ウドゥン簿ハリカの園に住んでいた。釈尊は鷲の峯から河辺りの孔雀飼育所に下り
に声をかけた。

295

てきて付近を散策していた。釈尊の姿を見かけた一一グローダは行者たちに静かにするよう命じ、釈尊

296

﹁尊師よ、どうかこちらにおいで下さい。そしてここにお坐りになって下さい﹂

釈尊は設けられた席につき、一一グローダは一段低いところに坐した。

﹁道の人ガウタマがせっかく私共の集まりにおいで下さったのだから、お尋ねしたいことがありま

す。尊師よ、尊師が弟子を訓育し、それによって安らぎをえんとする弟子たちが、正しさの最大の支

えとし、最も根本的な原理と認める尊師の宗教とはどのようなものなのでしょうか?﹂

﹁しかし一一グローダ師、その前にあなたの教義、凡帳面な禁欲生活についてお尋ねしたい。あなた

のその苦行が達成され、あるいは達成されないというのはどのような点にあるのですか?﹂
かの本質だと信じているのです﹂

﹁尊師よ、私たちは苦行を信奉し、あくまでそれに執着します。それが何が達成され達成されない

﹁では考えて見て下さい。一一グローダ師。苦行者は裸で暮らし、締まりのない習慣に従い、自分の

手をなめ、人に近寄らず、立ち止まらず、特別にもってきたもの特別にととのえられたものを受けと

らず、招待を受けません。彼は料理なべの口から取り出したものを受けとらず、戸口の内に置かれた

もの、乳ばちの中のもの、挽臼の中のものを受けとらず、一緒に食べている二人から、妊婦から、子

に乳を飲ませている母親、男と性的交渉を持っている女から何も受けとらず、早勉時に収穫された食

物、犬がいる場所の食物、蝿が群がっている場所の食物、魚や肉、強い、酔う飲物、薄いかゆを受け

とりません。彼は一回の托鉢、二回あるいは七回の托鉢で暮らし形一日一回、二日に一度、七日に一

度しか食事をしないかもしれません。そして遂には定め通りの食事の摂り方に固執し半月に一度しか

食事をしなくなるでしょう。彼は薬草や自生の米、むいた皮、米ぬか、炊いた米の上かす、油種子の

粉、野草、牛糞、木になった、あるいは落ちた木の実や根っ子などを糧とします。彼は粗い麻衣、捨

てられた死人の衣、ぼろ布、木の皮、かもしかの皮、皮ひもを編んだ布、人間の毛髪で作った布、馬

の毛の布、臭の羽根の衣を着ます。彼は自分の髪と髭をむしることに夢中になり、立ちつづけ、鱒承
の片側だけを向けて寝、糞雑衣をまとい、汚物を食します。
師?﹂

つづけ、鱒んだまま進むことに夢中になります。疎や鉄針を敷いた寝床に臥し、板や地面に臥し、体

こういうことを行なうことが苦行を実践したということになるのではありませんか、一一グローダ

﹁その通りです、尊師よ。それが苦行を実践したということです﹂
﹁どうしてそうおっしゃるのです、尊師?﹂

﹁ではニグローダ師、そのように実践された苦行は幾つかの汚れを生むと私は確信します﹂
第五部一第二章ブッダの語ったビクの概念

﹁このような苦行を行った時、自己満足が生れ、高ぶり、他人を軽蔑するという汚れが生じます。

そのような苦行を行った時、満足の余り有頂天になり、のぼせ上がり、何もかえり見なくなります。
汚れとなります。

それも汚れとなります。更に、贈物や世人の注目、名声が与えられ、自己満足に陥入ります。これも

贈物、注目、名声をうることでのぼせ上がり他人を軽蔑するようになり、それも汚れになります。

また苦行を行うことで、〃これは自分に向いている。これは向いていない〃と与えられた食物を区

別することになり、人の親切を仇にし、益を物や評判をえようと貧欲になり、そこに潜む危険を見な

くなり、かえってそれらに歓びを抱くようになります。これも苦行者としての汚れです。

贈物、注目、名声をあこがれるが故に、王は私に関心を払ってくれる、臣下もそうだろう。かれら

がそうなら貴族、バラモン、勢力家、教祖たちもそうだろうと期待します。それも汚れとなります。

2 9 7

〃あの苦行者は何でも食べる。芋類でも、木の芽でも、木毎、汚物でも種子類でもぱりぱり食べて

しまう″と、他の行者を妬むようになります。それも汚れとなります。

2 9 8

またある隠者あるいは尋ハラモンが世の注目を浴び、尊敬され名誉を与えられ、人びとから贈物を次

次ともらうのを見ると、〃世間は安楽に暮しているあんな男に注目し、敬い、名誉を与え、贈物をや

っている。しかるに苦行者としてこんなに厳しい禁欲と苦行の道を歩んでいる自分に誰も注目せず、

名誉も贈物も授けてくれない〃と妬承や恨承を抱くようになります。これも汚れとなります。 識的に嘘をつくようになります。これも汚れとなります。

苦行者は何かしら神秘的な格好をして承せ、あれこれきかれると、思ってもいないことをいい、意

苦行者は怒りっぽくなり敵を作り勝ちです。これも汚れとなります。

苦行者は苦行の結果、偽善的に、人を欺きがちになるとともに嫉妬深く恨承がちになります。

苦行者はずる賢く、薄情で己惚が強くなり、悪意を抱きそれに誘惑され易くなります。彼は偏見を
向ってしまいます。これも汚れとなります。

持ち超経験的教義に懸かれ、自分の経験を取り違え、負欲になり欲望の放棄とは全く正反対の方向に

どうですニグローダ師よ、これら全ては苦行者の汚れではありませんか?﹂
のは本当です﹂ニグローダはいった。

﹁誠に釈尊のおっしゃる通りです。苦行者の一人ならず多くのものがそのような汚れを抱いている 真のピクはこのような汚れから遠ざかっているものである。 白ピケとバラモン

ビクはやハラモンと同じだろうか。答えは同じように否定的である。これについての議論は一箇所に

まとまらずばらばらになされているが、区別の要点は簡単に要約できる。

・ハラモンは司祭であり、その主な役割は誕生、結婚、死に関する儀式を司どることである。これら

の儀式は浄められねばならない原罪論、神、霊魂信仰の故に必要とされる。そのために司祭が必要な

のである。ビクは原罪も神も霊魂も信じないが故にそのための儀式は行われず従って司祭ではない。

・ハラモンはバラモンとして生れてくるが、ビクは成るものである。バラモンはカーストを有し、ビ

クにはない。一度バラモンであればどこまでもやハラモソであり、いかなる罪、犯罪もバラモンたるこ

とを止めさせはしない。しかしビクは一度ピクであったからといって常にビクであるというわけでは

ない。彼は成るものであり、己れの行いにより自分がビクに価しないと思えばビクたることを止める

ことができる。・ハラモンたるためにいかなる精神的、道徳的修養が必要とされるわけではない。彼が
299群壷部一第二章ブッダの語ったピクの概念

求められるのは宗教的知識を身につけているということだけである。ピクの場合はそれと全く異なり、

精神的、道徳的修養が彼の生命である。、ハラモンはいくらでも無制限に富を獲得できるがビクには許

されない。この相違は決して小さくはない。財産は、思想と行動の両面で精神的、道徳的自律性に最

大の制約となる。それは両者の対立を生む。だからこそ尋ハラモンは変化に反対し現状維持に固執して

きたのだ。変化は権力と富の喪失を意味する。これに対し、財産というものを持たぬビクは精神的、

道徳的に自由である。彼の廉直と高潔さを妨げる個人的利害は何もないからである。

かれらはやハラモンカースト員であるが、各のバラモンは自分にとって一個人である。彼はいかなる
通の利害によって結ばれている。

宗教組織にも従属しない。、ハラモンであることが即ち自身にとっての法である。かれらは物質的な共

一方ビクは常にサンガの一員である。そうでないビクは考えられない。ピクは自身にとって法では
ない。彼はサソガに従属し、サンガは精神的組織である。

3 0 0

四ビクとウパーサカ︵在家信者︶

ビクとウ。ハーサカの規範にははっきりとした区別がある。ビクは独身でいなくてはならないがゥ。ハ

ーサカは妻帯できる。ピクは家が持てず従って家族もない。ウ・ハーサカは家も家族も持つことができ ーサカはそうではない。彼は許されている。

る。ピクは財産を持てないがウ。ハーサカは持てる。ピクは生命を奪うことを禁じられているが、ウ・ハ

五戒は両者に共通のものだが、ビクにとってそれは誓言であり、破戒には処罰が伴う。ウ。ハーサカ
従えばよい。

にとってそれは従うべき戒めである。五戒の遵守はビクにとって義務であるがウパーサヵは自発的に

釈尊は何故このような区別を設けたのだろうか?そこには何かはっきりした理由があるに違いな

い。何故なら、釈尊は納得のゆく理由なしに何事も行わなかったからだ。
の理由は知っておく必要がある。

釈尊はこれについて何もはっきりとしたことはいっていない。推論によるしかないが、それでもそ

疑いもなく釈尊は、彼のダンマによってこの世に義の王国の基礎を築きたいと欲した。だからこそ

釈尊はそのダソマを全てのものに、ビクにも普通人にも説いたのである。しかし釈尊は一般人にただ

ダンマを説くだけでは義に基づいた理想的社会を創り出せないことも知っていた。理想というものは

実践的で、実践可能であることを実証されねばならない。その場で人びとがそれを求めて奮起し実現

を目指すものでなくてはならない。この奮励努力を生み出すためには、その理想に基づいて生きる社
であることを一般人に証さなくてはならない。

会の具体像を実現する必要があり、それによってその理想が非実践的なものではなく実現可能なもの

サンガこそが、釈尊の説いたダンマを具現する社会のモデルであった。これがビクとウ・ハーサカに
にぴったりとついてゆく人びとなのだ。

区別を設けた理由である。ビクは、釈尊の理想社会の先頭に立つ指導者であり、ゥパーサヵはその後

もう一つの疑問がある。ビクの役割は一体何なのか?ビクは自己錬磨に専念すべきなのか、それ

とも人びとに奉仕し導くべきなのか。彼はその両方を遂行すべきである。自己錬磨なくして人を導く
めに彼は自分を錬磨するのだ。
301第五部一第二章ブッダの語ったビクの概念

ことはできない。それ故彼は完成された、最上の、正しい、目覚めた人であらねばならない。そのた

ピクはわが家を捨てる。しかしこの世から身を退くわけではない。彼は、家庭にあり、しかもその
自由と機会を持とうとして家を捨てるのだ。
から外れていい道理はない。

生が悲し象や苦痛、惨苦に満ち、不幸でありながらどうすることもできないでいる人びとに尽すため、

ダンマの中核ともいうべき慈悲は、全ての人を愛し、人の役に立てと求めている。ビクとてもそれ

人間の痛苦に冷淡なビクは、いかに修養を完成していようともはやビクとはいえない。何か別の然
るべき人かもしれないが、ビクではない。

3 0 2

第三章ピクの義務

目改宗の務め

ヤサと四人の友人がブッダの教えに帰依したという噂は遠くまで伝わった。その結果、上流階級の

人びとも次灸とブッダとその教えに帰依するようになった。多くの人が教えを請いに彼の許を訪れ、

一人一人に教えることが次第に困難になった。更に出家者の数も日に日に増し、ブッダはサンガと彼
成員として義務づけた。

が呼んだ組織にまとめる必要を感じた。そこで彼は出家者たちをサンガに入れ、戒律を設けてサンガ

後に釈尊は、弟子たちがビクになる前に通らなければならない二つの修行期を設けた。第一期は、

弟子は出家となり、ビクに仕え、その下で一定年数出家として過す。次にこの修行期間が終り、審査

委員会の承認をえ、〃戒″︲を授けられる。そこで初めて彼はビクとなり、サンガの一員となることが ピクとして扱い、彼の教えの宣布に彼らを全土に派遣した。 派遣する前に釈尊は彼らにこう語った。

できるのである。初期の段階ではこのような配慮をする余裕がなかった。そのため釈尊は弟子たちを

﹁ビクたちよ、私は全ての束縛、人間、神々からも解放された。そのような人としてビクたちよ、

慈し承によってあなた方も多くの人びとを獲得し、人びとの幸せのため、世のために旅して回るがよ
, 、

同じ場所に二人で行ってはなりません。その初めにおいて善く、中間においても善く、終りにおい
を明示しなさい。

て善く、精神と言葉においても勝れたこの教義を説きなさい。そして完全にして浄らかな気高い人生

あらゆる所へ赴き、帰依していない人びとを帰依させ、悲しふに打ちひしがれているこの世を隈な
く渡り、正しい教えの届いていない人びとに教えを説きなさい。
を与えています。

大仙人、気高い仙人、・ハラモン仙人のいる所へも行きなさい。その人びとの教えが多くの人に影響

慈悲の心を持って、各人が孤りで旅しなさい。さあ行って人びとを救い、受け入れなさい﹂
釈尊はまたこうも語った。
第五部一第三章ピクの義務

﹁ダンマの贈物は全ての贈物に優り、ダンマの楽し承は全ての楽し承に優り、ダンマの喜びは全て
の喜びに優る。

田畑は雑草で荒れ果て、人の心は激情で荒れ果てている。それ故ダンマの贈物は大きな果報をもた
らす。

田畑は雑草で荒れ果て、人の心は僧し柔で荒れ果てている。それ故ダンマの贈物は大きな果報をも
たらす。

田畑は雑草で荒れ果て、人の心はおごり高ぶりで荒れ果てている。それ故ダンマの贈物は大きな果

舶報である。 3 田畑は雑草で荒れ果て、人の心は情欲で荒れ果てている。それ故ダンマの贈物は大きな果報であ

3 0 4

る。

そして六○人のビクはダンマの教えを弘めるべく各地へ散っていった。

目奇蹟によらぬ改宗
釈尊は改宗について更にこう教えている。

釈尊がマッラ国のアヌピャーというところにいた時、バッガヴァという遍歴行者と話したことがあ

る。ある朝、釈尊は外衣をまとい、鉢を手に町へ托鉢に出掛けた。しかし途中でこう思った。〃この
人を訪ねて承よう﹂

まま托鉢をして町を過ぎてしまうには時間が早過ぎる。遍歴行者のバッガヴァ師のいる園に行きあの
そこで釈尊はバッガヴァのいる園に出向いた。 釈尊の姿を見、バッガヴァは大変喜びこういって釈尊を迎えた。

﹁よくいらっしゃいました釈尊様!随分とお久し振りでございますね。さあどうぞお掛け下さい﹂

釈尊は示された椅子に坐し、バッガヴァは一段低い丸椅子に腰かけこう話しかけた。

﹁尊師よ、先日リッチャヴィ族のスナッカッタともうすものが、〃私は釈尊を見限った。もうあの

人を師としてその許には止まらない〃と申しておりましたが、誠でしょうか?﹂

﹁スナッカッタのいった通りですよ、バッガヴァさん。そこで私はこういいました。〃だがスナッ

カッタよ、私はそなたに弟子として私の許で過せといいましたか?″すると彼は、〃いいえ、そのよ

うなことはおっしゃいませんでした″といいました。〃ではへそなたは、私を師としてその許で喜ん

で過すといいましたか?″というと、彼は〃いいえそのようなことは申し堂せん〃といいました。

〃ではスナッカッタよ、私がそういわず、そなたもそういうことをいわなかったとしたら、そなた

が見限るという我々の間柄は一体何なのかね?″と尋ねますと、彼はこういったのです。〃ですが尊

師、あなたは超能力を私に見せて下さらなかったではありませんか?″そこで私はこういいました。

〃どうしてだれスナッカッタ、私は一度でもそなたに、さあきなさい。私を師として仰ぐなら、超能

力を見せて上げようといいましたか?″〃いいえそんなことはおっしゃいませんでした〃と彼はいい

ました。〃またそなたは私に向って、超能力を見せて下さるでしょうからあなたを師として仰ぎその
いいました。

許で喜んで過しますといいましたか?″というと、彼は矢張り〃そんなことは申しませんでした〃と

〃ではスナッカッタ典お互いにそういうことをいわなかったとしたら、見限るという我為の間柄

は一体何なのかね?愚か者のスナッカッタよ・超能力を示すか、示さないかなどが、ダンマを説く

私の目的ではない。それは悪の根絶のためにあるのだよ〃 すると彼は更にこういうのです。〃しかし釈尊は物事の初まりを明らかにして下さいませんでした〃
第三章ピクの義務

〃どうしてかね、スナッカッタ冬私はそなたに、来なさいスナッヵッタ、弟子になれば物事の初

まりを教えて上げようと一度でもいいましたか?″というと、彼は〃いいえそんなことはおっしゃい

ませんでした″といいました。〃ではそなたは私に、物事の初まりを教えて下さるのなら弟子になり

ますといいましたか?″ときくと、〃いいえそんなことは申しませんでした〃といったのです。

〃しかし私もそなたもそういうことはいわなかったのに、そのために見限りますというのはどうし

第 五 音 1

てだね。愚か者のスナッカッタよ・物事の初まりを明らかにするかどうかが私の教えの目的だろう

か?悪事を働く人びとのために、悪の根絶を目指すものではないのかね?〃
ナッカッタはいうのです。

3 0 5

〃ですが尊師、それが明らかにされるかどうかが尊師の説かれるダンマの目的だと思います″とス

308

〃しかしダンマの目的が物事の初まりを明らかにするかしないかなどということに関わりがないと

したら、そのようなことを明らかにしてもらってもそなたに一体どんな役に立つのだろうね?スナ

ッヵッタょ、そなたにいっておくが、そなたについて人びとはこういうだろう﹃リッチヴィ族のスナ
ものに心を向けてしまった﹄と″ 教えから離れていったのです﹂

ッヵッタは、ガゥタマの許で清らかな生活が送れず、教えに従うことができずそれを捨て次元の低い

そういうわけで、バッガヴァさん、あのスナッヵッタは、破滅すべき運命にあるものとして、私の

やがてスナッヵッタは、ブッダの高尚な智慧や洞察力には何ら超人間的なものはないといいふらし

はじめた。スナッヵッタばうツタを中傷したけれど、彼のいったことも本当であった。ブッダは教義 を弘めるために超人間的奇蹟になど頼らなかったのだから。 白力によらぬ改宗

ある時、釈尊は五百人に上る多勢の兄弟を伴れてラージャグリハとナーランダ間の街道を旅してい

た。たまたまそれと前後してスッピャという遊行僧が若い弟子のブラフマダッタを連れて同じ道を歩

いていた。道を二人はしきりにブッダについて議論していた。スッピャはブッダとその教義、教団を

非難し、弟子のブラフマダッタは賞めそやし議論は止むことがなかった。

釈尊一行はアン・ハラティッヵー園の宿泊所にその夜泊まり、後の一一人も同じところに足を休めた。

そこでも二人の議論はつづけられた。暁方、釈尊の弟子たちは広間に集まり二人の議論について話し

はじめた。釈尊も弟子たちが話し合っている内容を知り、広間に現れ、何を話しているのか尋ねた。

弟子たちが旅の途中のつづきから全て一部始終を話すと、釈尊はこう語った。

﹁ 兄 弟 た ち よ 、 州訓刺刈がち洞剰利判1利馴執調、教団のことで非難しても、

矧州制矧割辺口刊副州Ⅷ例制州矧列剣郷噸印司ヨ劉胴酬刺鯛幽回し恥僻脹峰隅r湘国耐昌言葉の暴酢ぽい判脈ざきなく

剥却判﹄もし人びとが私や私の教え、教団を非難したら、その誤解を解いてやりなさい。これこれの理

由で、それは事実に反し、そうではなく、私たちの間でそのようなことはない、といった風に。 てだろうと思いますか? その人はこういって賞め愚でしょう。

だが兄弟たちよ、もし外部の人が私や、私の教え、教団を賞めたなら、それはどういう事柄につい

〃世捨人ガウタマは、生物を殺すことを止め、生命を滅ぼすことから遠去っている。彼は武器を捨

て、粗暴を恥じとし、慈悲に満たされ、生命ある全てのものに温かい心で接している″まだ帰依して

いない人は私についてこのようにいうでしょう。 あるいはこうもいうでしょう。世捨人ガウタマは、自分に与えられていないものを取らず、自分の
307第五部一第三章ピクの義務

ものでないものを奪おうとはしない。供養を待ち、与えられたものだけを取る。彼は正直に清らかな
心で生きている。

あるいはこういうでしょう。
れている〃

〃世捨人ガウタマはふしだらを避け、純潔を保っている。彼はゑだらなこと、性的行為から遠く雛

あるいはこういうでしょう。

〃世捨人ガウタマは嘘をつかず、虚偽とは遠い。彼は真実を語り、真実から決して離れない。彼は 誠実で信頼ができ、自分のいったことを違えることはない〃
あるいはこういうでしょう。

308

〃世捨人ガゥタマは中傷せず、誹誌することがない。彼は人びとの間にいさかいを起さそうとして

こちらで聞いたことをあちらで噂するということをしない。彼は仲違いしたものを結びつけ、友人で
あるいはこういうでしょう。

あるものを励まし、平安を愛し、平和に情熱をもち、平和のための代弁者である〃

〃世捨人ガウタマは無礼な言葉を吐かず、乱暴な言葉とは無縁だ。彼が語るどのような言葉も、非
される″

難されることがなく、耳に快よく、心に温かく届く。その言葉は優雅で人びとに楽しく、人びとに愛
あるいはこういうでしょう。

〃世捨人ガゥタマはつまらぬお喋りはせず、無意味な会話から遠去っている。事実に基づいて正し
るに足る、適切な例ではっきりと核心をついた言葉で語る〃
承︸るいはこういうでしょう。

い時に発言し、宗教について、教団の規律について十分意味のある言葉で語る。彼は適宜に心に留め

〃世捨人ガゥタマは種子や植物に害になるようなことはしない。彼は一日一食。夜は食べず、昼以

降一切食物を取らない。劇や催物、歌舞音楽などを見物しない。彼は着飾らず、花飾り、香、塗り薬

などをつけない。彼は大きな高い寝台を用いず、金銀、調理されない穀物、婦女子、奴隷の男女、山

羊、羊、鶏、豚、象、牛、馬、雌馬、田畑、原野などを受け取らず、仲介者、伝言者として振舞わず、

売り買いをせず、量りでごまかさず、買収やごまかしを行わず、人を傷つけず、殺さず、束縛せず、 強盗、暴行をしない〃

まだ帰依していない人がタターガタ︵如来︶を賞賛していう言葉はこういうものでしょう た ノ、 、兄 兄弟 弟た しかしあなた方はそうだからといって喜びに夢中になったりお罫﹂ っ て は な り 封 封 遇 応 。 もしそうい

うことになれば、自己克服の修行の妨げとなるでしょう。もし外部の人が私や私の教え、教団を賞め
たちの間ではそうです、といいなさい﹂
ロビクは徳︵ダンマ︶を弘めるために闘え

ているのを聞いたら、何が事実として正しいかを知り、これこれの理由でそれは本当のことであり私

るものとも争わない﹂

→l︲I

﹁私が世の中と争っているのではなく、世の中の方で私と争っているのだ。 真 理 の 師 は 世 の い か な

我々自身をどうして戦士と呼ぶのかという問いに釈尊はこう答えた。
﹁我有は戦いを挑むから戦士なのだ﹂ ﹁何のために戦いを挑むのですか尊師よ?﹂
309謀妬E部一第三章ビクの義務

めに戦吋劃挑む洞縦阿戦士である﹂

徳が危機に瀕した時、戦いを避けようとするな。口舌の徒となってはならない。

ある時、釈尊はビクたちにこう呼びかけた。

3 1 0

第四章ピクと在家信者

B布施のきずな

サンガはその成員が限定されている組織であった。出家者になるだけではサソガ員の資格をうるこ

とはできなかった。出家者は戒を授かってはじめてサンガの一員となることができた。サンガは独立

した集団で、その創設者からも独立していた。サソガはまた自治的で、組織が認めた者は誰でもその
施であった。在家信者は組織化されていない。

一員になれたし、戒律に従って除名することもできた。ビクと在家信者を結びつける唯一のものは布

サソガ帰依の儀式は同時にダンマ帰依の儀式を含んでいたが、ダンマには帰依するが、出家をして

サンガ員にはなりたくないというものへの別箇のダンマ帰依式というものはなかった。これは大きな

手抜かりで、後に仏教がインドで衰退してゆく原因のひとつとなった。というのは、この帰依式が欠
からである。

けていたために在家信者は自由に別の宗教に移り、最悪の場合ふたまたをかけるということになった

目相互作用

しかしながら、布施のきずなはビクをして在家信者の過ちを匡すのに十分であった。この点に関し

てアングッタラ・ニカーャ︵増支部︶に述べられている戒律は注目に価する。この規定に加えて、在

家信者はあるビクについて他のビクに不満を訴えることが許されていた。訴えがブッダに届くとブッ

ダはそれを確かめ、サンガを傷つけるようなことが二度とないよう関連規定を修正した。
係であった。

その意味で律蔵は在家信者の不平を除くため以外の何ものでもない。これがピクと在家信者との関

白ビクのダンマとウパーサカのダンマ

仏教は宗教にあらずという批判がある。このような批判は取るに足らぬものであるが、もしそれに
第五部一第四章ピクと在家信者

答えるとすれば、仏教こそが唯一の真の宗教であり、それを受け入れられない人は宗教の定義そのも
のを変えるべきであろう。

また、仏教はビクにの承関わる宗教であり、一般人には関係がない、仏教はその範嶋から一般人を
除外しているという批判がある。 っきりしておいた方がいいだろう。

ブッダの対話に屡有出てくるビクに対する言及がその根拠となっている。それ故この点については

ダンマは両者に共通なものだったのか?あるいはビクにの率関わり在家信者には関わりのないダ

ソマの部分があるのだろうか?説教がビクの集まりでなされているからというだけでそれらがビク

にの承適用されるものと考えるべきではない。説かれた事柄は両者に適用されたのである。

3 1 1

ブッダは説教の際、在家信者を念頭においていたということは、五戒、八正道、。ハーラミター︵一一

ルヴァーナに到るための修行徳目︶の性格からして明らかであり議論の余地はない。家を離れず実生活

372

に従事している人びとにとって、五戒、八正道、・ハーラミターは必要なものであった。これらから逸

脱しやすいのは在家信者であり、出家したビクはそう容易く踏象外す心配はなかった。 だが推論にの承頼る必要はない。その直接的例証がある。 信徒と共に釈尊を訪れ、次のように話しかけた。 居並ぶ托鉢僧に救済の真理をお説き下さい﹂


せた。

ブッダが教宣活動を開始した時、その対象は主として一般人のためであった。

釈尊がシュラーヴァスティーのアナータピンデイカ園にいた時、在家信者のダンミカが五○○人の

﹁尊師よ、どのような行いが、ビクと信者の両方を完成に導くのでしょうか?これら信者と共に

﹁よく聴きなさい托鉢僧たちよ。そして定められた戒律を守りなさい﹂こういって釈尊は説ききか

一︲尽一になってから托鉢してはならない。朝の内に早く托鉢をすませなさい。時ならぬ訪問は思わぬ

誘惑に遇うことがある。食事をうる前に、諸交の形、声、香り、味、幸運を喜ぶ心を戒め清らかにし

なさい。食事をえたならひとりで戻り離れて坐り、沈思し、心を外に放ってはならない。敬虐な人と

語る時は教えについて話しなさい。托鉢でえた食物、庵、寝具、すすぎと水にこだわらず超然として
次に在家信者の果すべき行いについて話そう。

いなさい。そうすれば、それは蓮の葉に宿る水滴のように托鉢僧を汚すことはない。

生きものを害してはならない。他人をして殺させてはならない。他の人が殺すのを容認してはなら

ない。強いもの弱いもの全て生あるものに暴力を用いず、生あるものを慈し承なさい。

また信者たるものは、知っていて盗んだり盗みを命じたりしてはならない。他人が与えるもののみ

を取りなさい。火の燃えさかる坑を避けるように邪淫を慎しみ、自制が難しくとも他人の妻を犯して

はならない。

会議や集会において嘘をつき、他人に嘘をつかせ、嘘を容認してはならず、虚偽を捨てさせなさい。
るか気をつけなさい。

飲酒を止めよ。酒を他人に飲ませるな。酒を飲むのを容認するな。飲酒がいかに人を狂気に追いや

諸点の愚か者は酒によって罪を犯し、怠惰な兄弟を罪に押しやる。故にこの狂気の悪癖から遠去か
りなさい。これを喜ぶのは愚か者である。

殺してはいけない。盗んではいけない。嘘をついてはいけない。強い酒と淫行を慎しゑなさい。
らなるウポーサタを行いなさい。
第五部一第四章ピクと在家信者

そして半月の第十四日、第十五日、第八日にウポーサタ︵斎戒︶を修し、澄んだ心で八つの部分か

朝 、 こ れ 朝、 こ れ ﹄らのウポーサタを修し、清く感謝の念をもって自らの財によって托鉢僧に食物と飲物を供
養しなさい。

両親を養い、正直に商いなさい。

そのように忠実に勤め励んでいる在家信者は、︿光りを放つ﹀国に到達するでしょう﹂

これらによってダンマは両者のためのものであることが分るだろう。しかしそこで命じられている
がある。

ことは同じではない。ビクは戒律を誓わねばならず、在家者はそれらを自主的に尊重するという違い
更に次の二つの相違もある。

3 1 3

一つは、ビクは私有財産を持つことはできないが、在家信者はできる。ビクは正覚者たりうるが、 在家者にとってはニルヴァーナで十分である、という点だ。

3 1 4

これらがビクと在家信者との共通点であり相違点である。そしてダンマは両者にとって共通であ
る。

第五章在家信者の戒め

S富者の戒め

釈尊は、貧困を祝福された生活といって持ち上げたりしなかった。また貧しき者は幸いなり、この
第五部一第五章在家信者の戒め

世を継ぐものなればなりともいわなかった。反対に富めることは喜ばしいことだといっている。彼が
ある時、アナータピンデイカが釈尊を訪れ、こう尋ねた。
ものでしょうか?﹂

強調したのは、富は戒律に従って正しくえられねばならないということである。

﹁尊師よ、家長にとってうるに難く、しかし喜ばしく、楽しく満足するに足るものとはどのような

﹁先ず第一は、正しい手段で財をなすことです。第二は、親類縁者も正しい手段で財をなすことで

す。第三は、健やかに長寿を全うすることです。家長たるに価する人にとってこの三つは喜ばしく楽
び、有徳の喜び、自由の喜び、智慧の喜びがそれです。

しいことだが三つとも手にするのは難しい。そしてそれらに先立つ四つの条件があります。信仰の喜

3 1 5

この信仰の喜びと信仰は、〃これがその人である。これが釈尊、神聖な人、至上の悟りをえた人、

知と行いの完全な、幸福で、全ての世界を知り、神々と人間の師、である″ということを教えるダダ

3 1 6

1ガタ︵完き人︶の比類ない知慧に依るものです。

有徳の喜びは、生命を奪わず、盗まず、邪淫に走らず、嘘をつかず、強い酒を飲まないことにあり、

自由の喜びは、負欲に蝕まれない心をもち、寛大で物惜し染せず、人に与えることを喜び、求められ

れば喜んで与え、布施に熱心である家長のものです。智慧の喜びとは、貧欲、悪意、怠惰、不活発、
うということを知ることです。

心の不安定、悪事への加担、義務の無視などによって打ち負かされた心に住む家長は幸福と名誉を失

このように正しい方法で富をえ、大いなる勤勉と、力一杯の勤労と汗によってえられた富は大きな
せに楽しくさせることができます﹂

喜びです。そのような家長は己れも幸せになり、両親、妻子、召使い、使用人、友人、仲間も全て幸

○家長の戒め

︷ぃ芳篭擢零嬢壷︶

これに対するブッダの考えはシガラヘの教えに示されている。

釈尊がラージャグリハの竹林園にある栗鼠飼育所にいた時のことだが、富裕な市民の息子でシガー

ラという若者が朝早く起き、水浴をし、天地、東西南北の方角を一生懸命礼拝していた。そこに托鉢

にきた釈尊が来合わせ、シガーラに何故四方を拝んでいるのか尋ねた。

﹁父の遺言で天地の四方を拝んでいるのです﹂とシガーラは答えた。

﹁しかし、それが本当の宗教たりうるだろうか?﹂釈尊は重ねて問うた。
ん﹂若者はいった。

﹁この他に宗教なんてあるのでしょうか。もし教えて下さればこんなに素晴らしいことはありませ

﹁よろしい、ではよく聴きなさい若者よ﹂と釈尊はいいこう語った。

﹁人の宗教たるべき宗 教 は 、 悪 い 行 い を し な い よ う 教 え ね ば な ら な い 。 ︽ 教 は 、 悪 い 行 い を し な い よ う 教 え ね ば な ら な い 。趨尉閉悶咽割伺卿脚陶面倒い
れていない
IilI1

いいかね、シガーうよ、悪い行いというものは、不公正さ、敵意、愚かさそして恐怖から生じるも
のなのだ。もしこれらに動かされなければ悪を行うこともない。

また、宗教は財産を費消させてはいけないと教えねばならない。これは酒に溺れ、時ならぬ時間に

巷を俳個し、催物を好み、賭博に耽けり、悪い仲間とつき合い、怠け癖をつけることから生じるのだ。 柄の良さを失い、みっともない姿を晒し、知力が減退する。

飲酒に溺れると六つの危険がつきまとう。財産を失い、いさかいが増え、病気に躍り易くなり、人

時ならぬ時に巷を俳個すれば六つの危険がつきまとう。自らの身辺が手薄となり妻子も財産も同じ
第五部一第五章在家信者の戒め

状態に置かれる。更に何かの犯人と疑われ、誤った噂がふりまかれ、諸々の面倒に出会うことになる。 が鳴っているだろうかとそのことばかり考えるようになる。 博打に夢中になると六つの危険がつきまとう。

催物を好むと六つの危険がつきまとう。どこで踊りや、歌や音楽、吟唱が行われ、シン寺ハルやどら

勝てば憎しみをかい、負ければ失った財産を思って嘆く。実際に財産が費やされる。法廷でその人
として迎えてくれない。

の言葉は重じられず、友人や役人に軽蔑され、博打好きは身持ちが悪く女房を養えないからと誰も婿

悪い仲間とつぎ合うと六つの危険がつきまとう。博打うち、放蕩者、飲んだくれ、詐欺師、ぺてん
師、暴力的人間が彼の周りに寄ってくる。

3 1 7

怠け癖をつけると六つの危険がつきまとう。寒過ぎるから働かぬ、暑過ぎるから働かない、早過ぎ

るから、遅過ぎるから働かないといい、腹が減っているから、腹が一杯だからといって働かない。な

︵みだらで.浄嘘をつくこと︾この四つの悪徳を人は避けねばならない。

3 1 8

すべきことはなされぬままにほうり出され、新しい儲けはなんにもなく、持っているものまでだんだ
ん減ってゆく。

本当の宗教は誰が真実な友であるかを教えねばならない。
費仲間である。

友の姿をした敵は四人いる、即ち、貧欲な人間、口先だけの行動の伴わぬ人間、へつらう人間、浪

先ず初めの友の姿をした敵は、貧欲であり、与えるものは僅かで求あるものは大きい。恐れから義
務をなし、己れの利益の承を追い求める。 いざ助けを求められると何もできないといって逃げをはる。

第二の口先だけの人間は、過去や未来について友達を装い、口約束だけで好意をえようとするが、

第三のへつらい者は、悪いことにも同意し、良いことに異を唱え、面前では賞め、陰では悪口をいう。
抜かす相棒である。
れる友である。

第四の浪費仲間は、時ならぬ時に共に巷を俳個し、足繁く催物に通う仲間であり、博打にうつつを

誠実な友は四人いる。助力者、楽しい時も困った時も変らず、常に良き助言者であり、同情してく

助力者は、人が油断している時にも気を配ってくれ、財産を守ってくれる。不安に襲われた時には

頼りになり、仕事が大変な時には必要とするものを倍にして与えてくれる。 見捨てず、時には相手のために生命まで投げうってくれる。

楽しい時困った時も変らぬ友は、己れの秘密を明かし、こちらの秘密を守ってくれる。困った時に

なすべきことをはっきりといってくれる良き助言者は誠実な友である。彼はあなたに悪いことを控

えさせ、善いことをなせとはっきりと告げる。以前に聴かなかった事柄について話してくれ、天国へ

の道を示してくれる。

同情してくれる友は誠実な友である。彼は友の不幸を喜ばず、幸運を喜び、他人が友の悪口をいう
のを制し、賞めてくれる人を喜ぶ﹂

臼子供たちの戒め

こういって子は親の世話をすべきである。﹁私は親に育ててもらったのだから、今度は私が世話を

する番だ。血筋を絶やさず、家の伝統を守ろう。私は親から受け継いだものに相応しくなろう。親は
時宜良く遺産を譲ってくれたのだから﹂
第五部一第五章在家信者の戒め

子を愛し、悪から守り、善を教え、職業を身につけさせてくれた。相応しい配偶者を見つけてくれ、

画生徒の戒め

生徒は教師に立って挨拶し、熱心に学び、身の回りの世話をし、集中して教えを聞いて教師に仕え

るべきである。何故なら、教師は生徒を愛し、生徒を十分に訓育し、しっかりと一人立ちさせ、多く

の技能を隈なく授け、彼の友人、仲間には賞めてやり、彼の安全に十分気を配ってくれるからである。

国夫婦の戒め

夫は妻に尊敬と礼儀、誠意をもって対し、権威を与え、装飾品を与えることによって尽すべきであ

る。何故なら妻は夫を愛し、双方の身内に温かく接し、誠意をもって当り、財産を守り、自分の仕事

3 1 9

をうまく勤勉に遂行することによって義務を立派に果しているからである。

一門の長は友人、仲間に寛大さと礼儀、情愛をもって対し、自分と同じように一族を遇し、約束を

3 2 0

必ず守ることによって尽すべきである。何故なら、彼の一族、友人は彼を愛し、彼が気をゆるしてい
てくれるからである。

る時には彼を守り、財産を守り、危機に面した時は頼りになり、困った時は見捨てず家族の面倒を見

㈲主人と召使の戒め

主人は召使と使用人にそれぞれの能力に応じて仕事を与え、食物と給料を与え、病気の際には労わ

り、細心の心遣いで接し、時々の休暇を与えることによって尽すべきである。何故なら召使や使用人
果し、彼を称え名を高めてくれるからである。

は彼を愛し、彼よりも早く起き、彼よりも遅く床につき、与えられたもので満足し、仕事をきちんと

一門の長は信仰上の師に、誠実な愛情をもって接し、快よく迎え、必要なものを提供することによ

って尽すべきである。何故なら信仰の師は彼を悪から守り、善を説き、思いやりのある心で愛し、彼

が耳にしなかったことを教え、彼の耳にしたことを匡し純化してくれるからである。

㈲その結論
釈尊がこれらのことを語り終るとシガーラはこういって称えた。

﹁素晴らしいことです。尊師よ、素晴らしい!あたかも倒れたものが再び立ち上がり、隠されて

いたものが明らかにされ、道に迷ったものに正しい道が示され、暗闇に明りが点されたようです。眼

ある者は視るでしょう。釈尊によって真理は数多くの形で明らかにされました。 し奉るものとしてどうか私を受け入れて下さい﹂

私は釈尊をわが拠り所とし、その真理と教団に帰依します。今日よりわが命尽きるまで釈尊に帰依

㈹娘たちの戒め

釈尊がバッディャ市近くのジャティャ林にいた時、メーンダヵの孫ウッガハに招待され、彼の家を
訪れたことがあった。

立派な朝食で釈尊をもてなしたウッガハはこう釈尊にいった。
てやって下さいませんでしょうか﹂

﹁尊師よ、私の娘たちはやがて嫁に参ります。それに際して娘たちにこれからのための忠告を与え
そこで釈尊は娘たちにこう話してきかせた。

﹁それでは娘たちよ、このように自分をしつけなさい。私たちの幸せを願って父母が選んでくれた
第五部一第五章在家信者の戒め

夫に対しては、慈しゑの念によって早く起き遅く寝ましょう。喜んで精を出し、何事も優しくいい、
穏かな声で話しましょう。

夫の親族は全て敬い、重んじ、その人たちが家へお見えになれば席をすすめ水を差上げましょう。

夫の家の手工芸はそれが毛糸、木綿を扱う仕事であろうと手際良く覚えうまくやれるよう努めまし
下︷﹄h/o

職人のやった仕事を良く理解し、いい加減な仕事も見分けるようになりましょう。病人の具合も理
解できるようになりましょう。硬軟の食事を作り分けましょう。
駄遣いされないようにしましょう。

夫が持ってくる金銀、穀類、お金は安全に仕舞い、よく見張り、泥棒に入られたり、馬鹿騒ぎや無
このように自分をしつけなさい、娘たちよ﹂ ウッガハの娘たちは釈尊の忠告を心から喜び深く感謝した。

3 2 1

第六部

釈尊とその同時代人

第一章保護者

日ビンビサーラ王の寄進

ピンピサーラ王は釈尊の弟子であっただけでなく、非常に熱心な帰依者でありダンマの支持者であ
写っ

在家信者になった後、王は釈尊と弟子たちを宮廷に招待した。王は自ら釈尊たちに給仕した後、思 った。〃村からさほど遠くもなく近すぎもせず、往き来するのに丁度良く、釈尊に会いたいと思う人
第一章保護者

たちが簡単に近づくことができ、昼間余り人出がなく、夜は静かで隠棲生活にぴったりの人里離れた
場所を釈尊に見つけて上げられないだろうか〃

そして王はふと自分の園である竹林園を思いついた。〃あそこなら町から遠すぎもせず近すぎもし

ない。往き来するにも丁度いい。あそこを釈尊たちに提供したらどうだろう″
尊は王に教えを説き立ち去った。

325第六部

王は黄金の壷に入った水を釈尊の手に潅ぎながらそのことを申し出、釈尊はそれを受け入れた。釈

3 2 6

ロアナータピンディカの寄進

帰依した後アナータピンデイカは釈尊のところに赴き、釈尊の右側に坐しこういった。

﹁尊師もご存知のように私はシュラーヴァスティーに住しております。そこは肥沃で平和な土地で
受け入れて下さいますでしょうか?﹂ 釈尊は例の如く沈黙によって承認を表示した。

あり、。ハセーナディ王は大変偉い方です。ところで釈尊のために僧房を建てたいと思っておりますが、

貧しい人、孤児の味方であるアナータピンデイカは帰ってから、ジュータ王子の所有する園が豊か

な森と美しい何本もの小川に囲まれ、最適な地であるのを知り王子に譲って欲しいと願い出た。

しかし、園が大層気に入っている王子は売る気がなく、その申し出を断ったが、アナータピンデイ

カが余りしつこく頼むので、〃では園を黄金で敷きつめたら売ってやろう″とついいってしまった。

流石のアナータピンデイカもそれで引き退がるだろうという王子の思惑は外れ、アナータピンデイカ

は喜んで黄金を園へ運びはじめた。驚いた王子は、いややっぱり売らないといい詞アナータピンデイ

カは男の約束だと突っぱね、二人の争いは遂に裁判にまで持ちこまれた。この尋常でない争い事は町

中の評判になり、王子もやがてアナータピンデイカの真意が釈尊たちの僧房の用地買収であることを

知った。王子は僧房の建設に参加したいと思い、黄金は半分でいい、土地はそちら、木は私のもの。

そしてその木は私から釈尊への贈物ということにしようではないか、といい出した。

やがて釈尊の指示によって案配された堂々たる堂が建立され、壁には素晴しい彫刻が施された。
ーに居を移した。

完成された僧房憾ジェータ僧園l祇園精舎lと呼ばれ釈尊雌招きに応じシュラーヴァスティ

その日、アナータピンデイカは花を敷き香を懐いて釈尊を迎えた。寄進の印に黄金の竜の水差しか

ら釈尊の手に水を濯ぎ〃この僧園を世界中の兄弟のために捧げます″と誓った。釈尊は〃全ての悪が
ますように″と答えた。

滅び、これによって義の王国が栄え永遠の祝福が人びとのために、なかんずくその寄進者に与えられ

アナータピンデイカは〃大いなる布施者″の称号を有する八○人の主な弟子の一人に数えられた。

白ジーヴァカの寄進

医師ジーヴァカは釈尊がラージャグリハにいる時にはいつも日に二度釈尊を訪れた。ビンビサーラ

王の寄進した竹林園が遠すぎるのを見、自分のところにずっと近いアンやハヴァナ園に全ての設備を整
は沈黙をもって承諾の意を表わした。
第一章保誰者

えた僧房を建て園ごと釈尊に寄進しようと思った。そしてそのむねを釈尊に伝え許しを請うた。釈尊

四アンバパーリーの寄進

さてナーディカに滞在していた釈尊はそこから出ようと思いアーナンダに向っていった。
﹁さあアーナンダよ、ヴァイシャーリーに行こうではないか﹂
﹁そう致しましょう﹂アーナンダも賛成した。

第六部

多数の兄弟を引き連れた釈尊は、ヴェーサーリに行き、アンバ・ハーリーの林に泊った。

釈尊が自分のマンゴー園に泊まっていることを知った娼婦のアン・︿・ハーリーは正装した馬車を何台

3 2 7

も連らねマンゴー園に向かった。車で行けるところまで行きそこからは徒歩で進んだ。アンバパーリ

ーは釈尊の前に出ると丁重に挨拶し、釈尊の脇に坐し、法話を拝聴した。法話を聴き終えるとアン・︿

3 2 8

●︿−リーは、明日弟子たちと食事にきて戴きたいと申し出、受け入れられた。

一方、ヴェーサーリのリチャヴィ族たちも釈尊がマンゴー園にいることを知り、釈尊を食事に招待

しようと正装した馬車に打ち乗りマンゴー園に出掛けた。両者は途中で出遇い危く衝突しかけた。

﹁どうしたんだね、アン今︿・ハーリーもう少しでぶつかるところではないか﹂リチャヴィたちはいつ

﹁殿方、私はたった今、釈尊とお弟子たちを明日の食事にご招待してきたばかりですのよ﹂アンや︿
・ハーリーは誇らし気に答えた。

﹁アンバ・ハーリーょ、その招待を買おうではないか、何十万でも金は出すよ﹂先を越されたリチャ ヴィの貴族たちはいった。

﹁いいえそれだけはお譲りできません。.たとえ殿方の領地を全て下さるといってもお断り致しま

す﹂彼女は断乎としてその申し出をはねつけ、リチャヴィたちは、あのマンゴー娘にしてやられたと
ろにきてくれるだろうと期待した。

口麦に叫びながら、先きを急いだ。釈尊に会って直接頼めば、考え直して一番初めに自分たちのとこ

近づいてくるリチャヴィたちを見、釈尊は弟子たちにいった。﹁よく見てごらんあのリチャヴィた ちを、あの人たちは来世で神になるだろうよ﹂
﹁何卒明日食事を召上がって戴く栄誉を私共にお与え下さい﹂

車を降り歩いてきたリチャヴィたちは釈尊の傍に恭しく坐りいった。

﹁私はアンバ・ハーリーにすでに約束してしまいました、リチャヴィ族の皆さん﹂釈尊はいった。

矢張り試承が失敗に終ったのを悟ったリチャヴィたちは事の止むをえないことを認め、釈尊に厚く
お礼を述べ敬礼し右肩を釈尊に向けて退出した。

その夜遅くまでかかってアン等︿・︿1リーは釈尊たちのための食事を準備し、甘い米の料理とお菓子
とを作って待った。

翌朝早く、釈尊は衣を着、鉢を手に弟子と共に出発した。アン・︿・ハーリーの邸に着くと用意された

席に案内され、彼女自ら人びとに給仕し心ゆくまで御馳走をふるまった。
こういった。

釈尊が食事を終え鉢と手を洗ったところで彼女は一段と低い腰掛けを持ってきて釈尊の傍に坐り、

﹁尊師様、私の園を皆様にご寄進したいと存じます﹂釈尊は沈黙をもって受け入れ、法話を聴かせ
た後帰途についた。

⑤ヴィサーカーの寄進

ヴィサーカーはシュラーヴァスティーの裕福な女で多勢の子供と孫たちがいた。釈尊がシュラーヴ
章保護者

ァスティーにいた時、釈尊を自分の家に食事に招いた。夜から降りはじめた激しい雨は翌朝までつづ

き、釈尊たちは衣が濡れないよう衣を脱ぎ小脇に抱え上半身裸のままヴィサーヵーの邸へ出掛けた。

釈尊が食事を終えると、ヴィサーカーは脇に侍し、八つの願いをきいてくれと請うた。釈尊はそれ

に対し、願い事が何か分らなければきいて上げるわけにはゆかないと答えた。
はこういった。

329第六部一第

﹁ごく普通の当り障りのないものでございます、尊師様﹂そして願い事の許しをえたヴィサーヵー

﹁尊師様、私は生涯ずうっと雨期用の衣をサンガに差し上げたいと思います。また町へ入ってこら

れる、また出てゆかれるビクの方々に、病気のビク、寝ずに病人を看護されるビクの方々へもずうっ

と食事を差し上げたいと存じます。さらに病人へは薬を、サンガに乳がゆを、ビクニの方為には水浴

3 3 0

用の衣を差し上げたいと思います﹂

﹁でもどうしてこの八つの願い事を思いついたのですかヴィサーカーさん﹂釈尊は尋ねた。

﹁実は今朝、食事の用意ができたことをお知らせに女中を僧房にやらせました。女中が向うに着き

ますとピクの方有は上半身裸で雨に打たれておりました。それを見て女中はてっきりビクではなく苦
う再び僧房へ行かせました。

行者と思ってしまったのです。彼女が帰ってそういうものですから、私はもう一度よく確めてくるよ

裸はどうにも見た目に厭なもので、不浄ではございませんか、尊師様。それで雨期用の特別の衣を
生涯サンガの方友に差し上げようと考えた次第でございます。

二つ目の願い事はこういう訳でございます。町へ入ってこられるビクの方々の中には道が分らず、

どこで食事がえられるのかも分らない方がおられ、托鉢でへとへとになってしまうのです。

外へ出られる方食も同様、供物をどこで戴いていいか分らず、そのうち取り残され、お腹を減らせ
いと思ったのです。

疲れ果てたまま出掛けてしまわれるのです。それでその方々にも生涯食事を差し上げることに致した

四番目の願い事といいますのは、病気に確られたピクが適当な食事を召し上がられなければもっと
悪くなり死んでしまわれるかもしれません。

五番目は、病人を寝ずに看護されているビクは托鉢に行く時間がなくなってしまうからでございま

六番目は、病気のビクに適当な薬が手に入らなければもっと悪くなって死んでしまうかもしれない
からでございます。

七番目は、釈尊様が、乳がゆは気を引き締め、飢えと渇きを癒してくれる。健康のためには理想的

な栄養物で病人には薬としていいと大層賞めておられたとお聞きしました。それで思いついたのでご
ざいます。

おしまいの願事はこういう次第です。ビクニの方向はアチラヴァティー河の堤で、娼婦たちと一緒
おとめ

のところで水浴をされています。娼婦たちはそのピクニ様たちをこういってからかうのです。〃そん

な若い身空で処女のままかい?年取っても処女のままで一体どんなお利益があるんだい?″女の人
ったのでございます﹂

が裸だなんて考えてもぞっと致します、ご尊師様。それでピクニ様方に水浴用の衣を差上げたいと思

﹁だけれどもヴィサーカーさん、その八つの願い事を私にかなえてもらったとして、あなたは何を
えようと思うのですか?﹂

﹁色々な場所で雨期を過したビクたちが釈尊にお会いしにシュラーヴァスティーに参られるでしょ

う。そしてこれこれのビクが亡くなりましたが、その人はどうなったのかご尊師様に尋ねるでしょう。
第六部一第一章保護者 しよう。

するとご尊師様は、信仰のお陰でそのピクは一一ルヴァーナに達し阿羅漢になられたとお答えになるで

また 、、私自らビクの方々の所へ伺い、シュラーヴァスティーにかつておられたピクの方々のことを ま た

尋ね、こう思うでしょう。間違いなくあの方も雨期用の衣を喜ばれ、往来の際の食事、病気の際、看

護の時の食事を喜ばれ、薬や乳がゆを喜ばれた。すると私の中に喜びが湧き上がり、その喜びによっ
れが私の徳行の力となり七つの智慧の働きとなりましょう。

て心が安まるでございましょう。心の安らぎは満足の念を生桑、その幸せで心が静まりましょう。そ

3 3 1

それが私自身が八つの願い事でえたいと思っていることでございます﹂

﹁けっこうなことです。誠にけっこうなことですヴィサーカーさん。それを受けるに価する人に与

3 3 2

えられる恵承は、豊かな実りを生む肥えた土に播かれた種子のようなものです。しかし煩悩のくびき
てしまうからです﹂

に叩吟する人に与えられる供養は、痩せた土地に播かれた種子と同じです。煩悩は美徳の芽を枯らし
釈尊は次のような詩に托してヴィサーカーに感謝した。

﹁正しく生きる婦人、釈尊の弟子が差し出す贈物は汚れなく、悲しゑを消し、幸せを生む。彼女は

堕落と汚れなき道を歩承幸せをうる。善を求め彼女は幸せになり恵象の行いに喜びを見る﹂

ヴィサーカーは東方の園をサンガに寄進し、最初の在家女性信者の長となった。

第二章ブッダの敵対者

S魔法で帰依させるという非難

釈尊がヴァイシャーリ1の大林にある切妻屋根の公会堂に住んでいた時、リチャヴィ族のバッディ
ヤというものが、きてこういった。
第六部一第二章ブッダの敵対者

﹁尊師よ、隠者ガウタマは魔法使いで、その魔法で他宗派のものをたぶらかしているという噂が立
か﹂

っています。私共はそのような噂は信じませんが、釈尊ご自身はこれについてどうお考えでしょう

﹁令ハッディャよ、噂や口承に基づいて信じてはいけない。書物にのっているからとか、単なる論理、

推測、外見だけから、あるいは自分と同意見だからとか、それは正しいはずだと自分が思うからとか、
けない。

あるいは行者は尊敬しなくてはならないと考えて、ただの尊敬心などから物事を信じてしまってはい

しかし零ハッディャよ、なしたことが罪があり間違っていることが事実に基づいて検証でき、賢者が

3 3 3

戒め、結果が有害であるということが分っているなら、そのようなことは避けなさい。

ところでそなたの質問だが、私が魔法で人を帰依させていると非難する人たちは野心家ではないか

3 3 4

な?﹂

﹁その通りです、尊師﹂

﹁野心家というものは、野心に負け、何も見えなくなった心で嘘をつき、野望を遂げようと罪を犯
さないだろうか?﹂

﹁その通りです、尊師﹂バッディャは答えた。

﹁そのような人間の心に悪意や復讐心が生れれば、人をそそのかせて自分の野心の妨げになるよう な人を非難させないだろうか?﹂
﹁その通りです、尊師﹂

﹁そなたたちにいいたいのは、貧りの心をしっかりと抑えつづけよということだ。そうしている限
て私を非難する行者やバラモンこそ嘘つきである﹂

り負欲による罪は犯さないだろう。だから、〃ガウタマは魔法で人を惑わし帰依させている″といっ

﹁尊師よ、この魔法は誠に有難いものです。この魔法により我ら一族は釈尊の教えに魅かれ、幸せ

とご利益をえました。バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ全てのカーストがこの魔法

に魅かれれば、皆ご利益と幸せをうることができますでしょうに﹂

﹁その通りだ寺ハッディャょ。全ての階層の人びとがこの魔法の術に魅せられ悪から遠ざかるなら、

私の魔法はこの世に大きな利益と幸せをもたらすのだがね﹂と釈尊はいった。

目寄生虫呼ばわり

釈尊を自分で働かないで他人に依拠する寄生虫だと非難するものがあった。その非難と釈尊の返答
を次に記そう。

ある時、釈尊はマガダ国ダッギナギリ地方のエーカナーラーというバラモン村に滞在していた。・ハ

ラモンの農夫簿ハーラドヴァージャなるものは種子を播く時、五百挺の鋤を牛にくくりつけた。

ある朝早く、釈尊は托鉢に相応しく服装を整え鉢を手に季ハーラドヴァージャが食事を配っていると

ころへ近づき一方に立って待った。釈尊が立っているのを見たやハラモンはこういった。

﹁隠者よ、私は食べる前に耕し種子を播く。あなたも食べる前に耕し種子を播いたらどうですか﹂

﹁私は食べる前に耕し種子を播いています、、ハラモンよ﹂釈尊は答えた。

﹁しかし私はガウタマさんの範も鋤も鋤刃も、突き棒も牛も見ない。それなのにガウタマさんは

〃私も食べる前に耕し種子を播く″といわれる。あなたは耕作者だといわれるけれど、あなたの土地
ましよう﹂
第二章ブッダの敵対者

を見たことがありません。どうやって畑を耕すのかひとつ解るように話して下さい、喜んでおききし

﹁わが信仰は種子、わが禁欲は雨、わが智慧は鋤と恥、過ちへの恐れは鋤棒、わが念いは範をしば
る紐、わが注意深さは鋤刃と突き棒です﹂釈尊は答えた。

﹁言葉と行いに気をつけ、食事を摂制し、明察をわが収穫とし、最後の祝福が刈られるまで休むこ

となく耕す。わが努力は遥しい雄牛。それは境界で引き返さず、もはや苦悩のない最後の境地である
るでしょう﹂

平安へ私を運んでくれる。かくて私は不死の収穫をえる。その如く耕す人は諸々の悩承から解放され

3 3 5 第六部

これを聞いたバラモンは大きな青銅の鉢に乳がゆを盛って釈尊に捧げた。
しかし釈尊はこういった。

﹁召し上れガウタマさん、あなたは誠の耕作者です。不死を穫る人です﹂

﹁私は詩を唱えて礼は受けとらない。正しく見る人はそのようなことを認めない。この習わしは守

3 3 6

られねばなりません。気高く、安らかで完成され、汚れのない有徳の聖者には別の方法で礼をしなさ
い。功徳をうる種子を蒔きなさい﹂

バラモンはこの言葉を聞き釈尊の足に額づきいった。

﹁素晴らしいことです、ガウタマ様!あたかも倒れた者を起すように、隠されたものを明らかに

するように、道に迷った者に道を示すように、見る眼ある人は見るであろうといって暗闇で明りを点

すように、尊師ガウタマは色々の方法で教えを明らかにされました。
じます﹂

私は尊師ガウタマと教えと僧団に帰依致します。私は尊師ガウタマの手で出家し戒律を受けたく存

かくて農夫バラモン・バーラドヴァージャは托鉢僧として認められ戒を受けた。
白幸福な家庭の破壊者としての誇り

マガダの多勢の秀れた貴公子が釈尊に帰依するのを見、人びとは心配し怒ってこう噂した。〃沙門

ガウタマは妻たちをやもめにし、家の後継ぎをなくしてしまう。ガウタマは千人のジャティラ︵髪を

ほら貝結びにしている行者︶を受戒させ、百五十人のサンジャャの弟子である遊行者を受戒させた。し

かも秀でたマガダの貴公子たちまでガウタマの下で禁欲生活を送っている。次は一体どうなるのだろ

更に人びとはビクたちを見ると、こういって非難した。〃大沙門がラージャグリハにやってきてサ
ビクたちがそのことを釈尊に報告すると釈尊はこういった。

ンジャャの弟子を皆連れていってしまった。次に引っ張っていかれるのは誰だろう?″

﹁そのような騒ぎは長つづきはしまい。七日も経てば消えてしまうだろう。

もし人に非難されたらこう答えるがよい。大いなる英雄、完き人タターガタは法によって正しく導 いている。人を正しい道に導く賢者を何故恨承そのように噂するのか。ダンマは強制ではなく、家を
捨てるも残るもその人の自由である﹂ よってであることを理解し、やがて噂は消えてしまった。

ピクたちが釈尊にいわれた通り、非難者に答えると人びとは沙門ガウタマが人を導くのはダンマに

画人殺しの濡衣

異教の修行者たちは、ブッダの出現によって人びとのかれらへの敬意が薄れ、かれらの存在すら忘 れられるのではないかと心配した。そこで外道の者たちは誰かの手をかりてブッダの名声を堕そうと
企んだ。かれらの選んだのはスンダリーという美しい女であった。
館二章ブッダの敵対者

彼女は、毎日夕方になると花飾りをつけ、樟脳、香などの匂をぷんぷんさせ釈尊のいるジェータ園

の方へ出掛けた。途中帰宅する町の人にどこへ行くのかと問われると〃ガウタマ様のおられる香室

よ〃と答えた。夜は外道の者の園に泊めてもらい、朝になると町へ一戻った。道で人に何処に泊まった

のかきかれると、きまって〃ガウタマ様とご一緒よ〃と答えた。数日後、外道たちは殺し屋を雇いスン

ダリーを殺し、釈尊の庵の近くのご承溜に屍体を捨てさせた。外道たちは役人のところにゆき、ジェ

ータ園に始終出入りしていたスンダリーという女が行方不明になったと密告した。彼らは役人たちと

337第六部

彼女を探しにゆき、予定通りご承溜に屍体を発見した。外道たちは早速教祖の恥を隠すためにスンダ

リーを殺したのだろうとブッダの弟子たちを攻撃しはじめた。ところが殺し屋たちはスンダリー殺し

の報酬のことで酒場で喧嘩を始め、役人に逮捕され、スンダリー殺しの件も白状してしまった。殺人

事件には外道の者たちが係わっていたことが明らになり、かれらの評判は全く地に落ちてしまった。

3 3 8

因不道徳の誇り

日の出とともに姿を消す土蛍のように、外道の者たちの立場は惨たんたるものとなり、誰一人かれ
らに敬意を表するものも喜捨するものもいなくなってしまった。

かれらは街頭に立ち訴えた。〃沙門ガウタマがブッダ︵悟った者︶なら、われらもそうだ。ブッダ
も喜捨をせよ″

に山のような喜捨をして福徳をうるのならわれらに喜捨しても同じものをえられる。さあ、われらに

だが市民は一顧だにしようとしなかった。そこで外道たちは陰謀を企暴ブッダとサンガの評判を一

気に引き落すスキャンダルを狸造しようとした。丁度その頃シュラーヴァスティーにチンチャーとい

うバラモン出の女遍歴行者がいた。彼女は類いまれな美貌と肉体的魅力の持主であった。このチンチ

ャーを利用してガウタマの名を汚そうということに衆議一決し一味は機会を待った。ある日のこと、

チンチャーが一味の庵を訪れ挨拶を交そうとしたが、誰も彼女に口をきかなかった。 はありませんか﹂彼女は驚いていった。
あっているんだよ﹂

﹁私が何か悪いことでもしたのですか?三度も挨拶したのに誰も一言も口をきいて下さらないで

﹁い や 、 そ う いい 淀 う訳ではない、チンチャ−よ。実は例の沙門ガウタマのお陰でわしらはひどい目に ﹁ い や 、 そ う

﹁それは存じませんでした。何か私にお助けできることがありましょうか?﹂
ね﹂

﹁もし何かしてくれるというのなら、ひとつあんたの力であのガウタマの評判を落してくれないか

﹁よろしゅうございますとも、ご安心なさいませ﹂チンチャーは自信あり気にいって去っていった。

彼女は男註しにかけてはその道の名人であった。

たら

釈尊に敬意を表しに行ったシュラーヴァスティーの住民がジェータ園から一戻る頃になると、チンチ

ャーは赤い衣をまとい香水の匂いをふりまき手に花飾をつけジェータ園の方へ向った。〃どこへ行く

のですチンチャーさん?″と誰かが尋ねると、〃ほっといて下さいな″と彼女は答えた。夜はジェー

タ園に近い外道の者の庵に泊まり、朝、人びとが釈尊を訪れる時刻になると町へ帰った。途中人に会

って〃昨晩はどこへ泊まられましたか?″と尋ねられると、〃どこだっていいでしょう。私はね、ジ

ェータ園の香室でガウタマ様と一夜を過したんですよ〃と答えた。こういうことが何回もくり返され

る内に、二人の関係を疑うものも出てきた。そして数ヵ月後、彼女は腹に布を巻きつけお腹を大きく

見せかけ、ガウタマの児が出来たといい触らした。中にはそれを信じる者もいた。
339第六部一第二章ブッダの敵対者

九カ月が過ぎると彼女は円い木板を腹にくくりつけ、虫に刺されて膨れ上がった腕をむき出しいか
にもやつれ切った様子で、説教をしている釈尊の前に現れいった。

﹁大先生、あなたはこんなに多くの人にお説教をされ、あなたの声は甘く、言葉はお優しい。です

が私のお腹にはあなたの児がいて、もう直き生れるのですよ。なのにあなたは何も面倒を見ようとは

して下さらない。ご自分で出来ないのなら、弟子の誰か、コーサラ国王でも、アナータピンデイカで

もヴィサーカーさんでもいいから私の面倒を見てくれる人を見つけて下さい。あなたは女を証かすの

はお上手なようですけど、赤ん坊のことは少しも考えて下さらないのですね﹂

この言葉に満座は静まり返った。釈尊は説教を中断し、落着いてこう答えた。

﹁そなたのいったことが正しいかどうかは私たち二人だけが知っていることだね?﹂

チンチャーは大きく咳こ承ながら﹁そうですとも大先生、私たちしか知らないことですよ﹂といっ

た。しかし咳をしたはず承に衣服の下にくくりつけていた木板の紐が外れ彼女の足下に落ちてしまつ

340

た。彼女がえたものは人びとの噸笑だけであった。
㈹従兄弟デーヴァダッタの敵意

デーヴァダッタはブッダの年下のいとこであったが、当初からブッダを妬承、嫌っていた。ブッダ

が出家すると後に残された妃のヤショーダラーに懸想し、自分のものにしようとした。

ある時、デーヴァダッタはヤショーダラーの部屋にビクの姿をして忍びこんだ。﹁何をしにいらした

のです?夫から何か便りでもことづかってこられたのですか?﹂ヤショーダラーは語しんで尋ねた。 ﹁御主人はあなたのことなど忘れ、あなたを見捨ててしまいました﹂

﹁でもあの方は人のためにそうなさったのです﹂ヤショーダラーはいった。
かした。

﹁そんなことより、あの人の残酷な仕打ちに復讐してやりなさい、妃よ﹂デーヴァダッタはそその
﹁お止めなさい、そんないい方や考えは稔らわしいことです﹂

﹁私が分らないのですか、ヤショーダラー。あなたを恋い焦れているデーヴァダッタですよ﹂ ましいことまでするとは思ってもいませんでした﹂
ーヴァダッタは哀願した。

﹁デーヴァダッタょ、あなたが邪しまで不道徳な人だということは知っていました。でもこんな浅

﹁ヤショーダラー、あなたが恋しくて仕方がないのです。どうか私の想いを遂げさせて下さい﹂デ

﹁あなたの夫はあなたに軽蔑以外何も与えなかったではないですか。ただむごい仕打をしただけで
大粒の涙を流した。

す。さあ私を愛して仕返しをしてやりましょう﹂この言葉に流石のヤショーダラーも怒りで頬を染め、

﹁むごいのはデーヴァダッタ、あなたの方です。たとえあなたの愛がまことであっても、その愛は

私を侮るものです。私を愛しているなどというのは嘘にきまっています。さあ今直ぐここから出て行

って下さい﹂ヤショーダラーは厳しく命じ、デーヴァダッタはすごすごと立ち去った。

デーヴァダッタはブッダが彼をサンガの長老にせず、サーリプッタとモッガッラーナをその地位に

置いたことでブッダをひどく恨んでいた。彼は三度ブッダの命を狙いその都度失敗した。
シダの足を傷つけたに止まった。
これも失敗に終った。
341第六部一第二章ブッダの敵対者

一度は、霊鷲山の麓を散歩するブッダの頭上から岩を転がし殺そうとしたが、岩は逸れ、破片がプ・

二度目にアジャータサットゥ王子に頼んで刺客を放ったが、その刺客はブッダを殺すことを拒否し、

三度目にデーヴァダッタは、ナーラーギリという狂暴なことで知られた人殺し象を使ってブッダを

亡きものにしようと図った。しかしこれも失敗に帰し、かえってアジャータサットゥの寵愛も失い、

それまで彼から受けていた一切の扶助も打ち切られ乞食同然の身の上になってしまった。デーヴァダ

ッタはコーサラ国王。ハセーナディを頼ったが、王はにべもなく彼を追い払った。

㈲バラモンとブッダ

釈尊が多勢の弟子と共にコーサラ国を旅していた時、たまたまトゥーナという尋ハラモン村を通りか

かった。トゥーナ村のバラモンたちはブッダの教えを信じず負欲なものばかりであった。ブッダが村

の近くまできているのを知りあわてふためき、なんとかブッダを村に入れまいとした。ブッダが村に

きて二、三日でも逗留したら村人が改宗してしまうのを恐れたのである。

トゥーナ村に入るには川を渡らねばならず、バラモンたちは橋を壊し舟を全部隠してしまった。そ

342

れの承か、一つを残して井戸という井戸を草で覆い、憩い場や水のあるところまで見えなくした。

釈尊はそんなバラモンたちを憐れに思い、弟子たちと共に川を渡り村に向った。一行が村の道路脇

の木陰で休んでいると、水がめを頭にのせた村の女たちが通りかかった。村にはすでに触れが回って

おり、ブッダたちが村にきても出迎えもしなければ食物、飲物一切ブッダ一行には出さないことにし

ていた。ところが女たちの中に一人の奴蝉の娘がいて、釈尊たちが疲労しのどを渇かしているのを見、

気の毒に思った。そして心にこう咳いた。〃たとえ村人がガウタマ様たちに何も差し上げず、歓迎さ

れないと決めたとしても、このように気高い福徳のあるお方を前にして、水も上げなかったらこれか

ら先きどこに私の救いがあるだろう。旦那様に怒られてもいい。たとえ村人によってたかって殴られ
尊に水を捧げた。釈尊は手と足を洗い、ゆっくりと水を飲んだ。
と娘を滅多打ちにし殺してしまった。

てもこのお方には水を差し上げよう″そう決心すると、他の女たちの制止を無視し、水がめを下し釈

このことを知った主人のバラモンは烈火の如く怒り、〃村の淀を破り、わしに恥をかかせた不時者“

さて、ある時、ドーナというバラモンが釈尊を訪れこういった。

﹁噂によれば尊師ガゥタマは、年老いた尊敬すべきバラモンに挨拶せず、立って迎えもせず席もす
かがお考えですか尊師ガウタマ?﹂

すめないということですが、まことでしょうか。もしそうであれば正しいこととは思えませんが、い

﹁ところであなたは真正なバラモンではないのですか、ドーナさん?﹂

﹁尊師ガウタマよ、真のバラモンというのは、父方も母方も七代遡って正しい家柄であり、何の汚

点も、非難さるべき点もなく、学問を好象、マントラ︵経文︶を諸じ、三種のヴェーダに通暁し、詩

句、文法、音声学、伝承に通じ、賢人の言葉を良く理解し宇宙について深遠な考察を行うものであり、
私もそのような正しい善くラモンであります﹂

﹁ではドーナさん、そのような全てのマントラに通じ、古の学問に精通しているバラモンたちは、

プラフマーのような、デーヴァ︵神霊︶のような、束縛された、束縛を破った、卑賎なバラモンにつ

いて語っていますが、あなたはそのバラモンの中のどれなのですか?﹂

﹁私どもはそのような五種のバラモンについては何も知りません。しかし私どもはバラモンである
尊師ガウタマよ﹂

のは確かです。もしあなたのダンマを説いて下さりその五種のバラモンを教えて戴ければ大変幸です、
﹁宜しい、では良くお聴きなさいバラモンよ﹂

﹁先ずバラモンはいかにしてブラフマーのようになるか?﹂
343第六部一第二章ブッダの敵対者

﹁父方も母方も七代まで遡って非の打ち所のない由緒正しいバラモンが四八年清らかな生活を送り、

法に則った教えに対し謝礼を払い、いかなる職業、農夫、商人、牧夫、戦士、王の臣下にもならず、

托鉢を軽蔑せず布施だけで生き、剃髪し、黄色の衣を着、出家の生活を送り、僧し承も悪意もなく世
る時、バラモンはブラフマーのような存在となるのです。

界に遍ねく広大無辺な慈愛と憐承と慈悲と安らぎを弘め、死後においてブラフマーの世界に生じきた

次にデーヴァのようなバラモンとはいかなるものか?先程のバラモンと同じく由緒正しく、布施

によって生き、法に則った教えに対し謝礼し、法に則って妻をめとることです。それは売買によらぬ、

世に見捨られた者の娘ではなく、猟師、竹細工師、牛車職人、原住民の娘ではなく正しく浄められた

娘をめとることであり、子持ちの女、乳呑児を持つ女、まだ時期に達していない娘と関係を持たず、

バラモンの娘とだけ結ばれることです。そしてその妻とだけ夫婦生活を持ち子をもうけたら、頭を剃

り遍歴に出ます。性的快楽から遠ざかり膜想三昧に入り、死後肉体が消滅し天国に生じる時、デーヴ
3 型 4

ァのような存在となります。

束縛されたバラモンとは、前二者と同じ状態で結婚し、子をもうけ、子を愛し家庭生活を営象、家
のです。

を捨てず放浪しないで、バラモンの徒に従って生きることであり、それ故束縛されたバラモンという

束縛を破ったバラモンとは、法に則っても、則らなくとも、売買によっても妻をめとり、バラモン

の女、子持ち、乳呑児のある女、未成熟な娘、高カースト低カーストの女、奴隷の娘と関係を持ち、 破るが故に徒の束縛を破ったバラモンといわれるのです。

妻は欲情と快楽の対象でもあり子をもうける手段でもあります。また彼は古からの淀を守らずそれを

卑賎なバラモンとはいかなるものか。同じ由緒正しい家系に生れ、四八年清らかな生活を送り、教

えたことに謝礼を求め、どのような職業にもつき、托鉢もします。どのような女とも通じ、女は情欲

の対象でもあり子をもうける手段でもあります。彼はこのようなことを全て平気でやってのけます。

他のバラモンたちが〃貴い家の出のバラモンがどうしてそんな生活が送れるのだ?″といえば彼はこ

ういいます。〃火は浄いものも不浄なものも焼くが、火は汚れない。それと同じようにバラモンは何
さて、ドーナさん、あなたはこの中のどれに当るのですか?﹂

をやっても職れることはない〃それ故そのようなバラモンが卑賎なバラモンというのです。

﹁もしそういうことであるとしても、尊師ガウタマよ、私たちは少なくとも五番目のバラモンでは
なたの弟子として受け入れて下さい﹂ ドーナ・バラモンは感嘆していった。

ありません。しかし尊師ガウタマ、あなたのお話は実に素晴らしい。これより以後生涯にわたってあ

第三章教義への批判

㈲サンガ開放に対する批判

単なる信者である俗人もサンガに入れるというので、ブッダはサンガを誰でも入れる寺にしている

第三章教義への批判
第六淵

と批判するものがあった。彼らは、このような組織では、せっかくサンガに入っても途中で止めてし まえば元の木阿弥になってしまう。沙門ガウタマの宗教は無意味だ、といって批判した。しかし、こ

の批判は釈尊の意図を十分に汲承取っているとはいえない。釈尊はこう答えている。自分の宗教を打

ち立てるにあたって、私は救いという清らかな水に満たされた水浴場、即ち正しい法の汰浴場を設け

たのだ、と。罪に汚れたものは誰でもその中で派浴し、汚れを洗い落せる、というのが釈尊の願いで

あった。その正しい法の泳浴場に行き、そこで汚れを落さず以前の汚れた姿に戻るものがいても、そ

の責は当人にあるのであって、私の教えのせいではない。このように人びとがその罪を洗い浄めるこ

とができる汰浴場を設けたからには、何人も汚れた体のまま浴場に浸ることは許されず、先ず挨と垢

を洗い落し、清く汚れのない体になったものの承が身を浸すべきである、といっている。
いたということを忘れている。

3 4 5

このような批判は、釈尊がサンガを少数者に限定せず、全ての人の拠りどころとなるように願って

3 4 6

目誓いへの批判

五戒だけでは足りず何故誓いが必要とされるのか?この疑問は屡々取り上げられた。もし病が薬

なしで癒るなら、吐剤や下剤その他の薬で体を弱らせることに何の益があるのか?つまり、在家

信者が家にいて色左と生活をエンジョイしながら五戒を守ることによって安らぎの境地、至上の善、 ニルヴァーナに到達しうるのなら、ビクは何のために誓いを立てるのか、というのである。

釈尊は、誓いというものに本来備わっている効力に鑑ゑて誓いを定めたのである。

誓いを守る生活は確かに善を養い、堕落への歯止めとなる。誓いを守りそれを拠りどころとするも

のは諸々の束縛から解き放たれる。誓いを守ることは欲望、邪心、思い上がりを制し、邪しまな考え

を断ち切る。誓いを守るものは誠によく護られており、その態度、心は全く清らかである。だが五戒

を単に受け入れるだけではそうはいかない。五戒を受け入れるだけでは誓いを守っている場合のよう

な道徳的堕落への楯がない。誓いの生活は実に難しく、五戒を受け入れる生活は左程ではない。この
誓いと戒の両方を定めたのである。 白アヒンサー︵不殺生︶教義への批判

ように至難な誓いの生活を営む人がいることは人類にとって欠かせないことなのだ。それ故、釈尊は

アヒンサーの教義は悪への屈伏、無抵抗を意味すると反対するものがいた。 会に関する規定がその最初の表明といえる。

これは全くの思い違いである。釈尊は色煮の機会に自分の立場を明確にしている。兵士のサンガ入

ある時、マガダ国の国境地帯が騒がしくなり、ビンピサーラ王は早速、司令官に命じ、騒動を起す

ものたちを処罰させようとした。司令官の命を受けた将校たちはジレンマに立たされた。〃釈尊は戦
え、殺せと命じた。一体どうしたものだろう″

さを好むものは悪を好むものであり大きな罪を犯すと教えている。しかるに王は騒乱を起すものを捕

王の命を受けた将校たちは思い悩んだ末、サンガに入ってそのジレンマから逃れようとした。彼ら

はピクたちの所にゆき、サンガ入会のための受戒式を行って欲しいと願った。ビクたちはその願い通

り彼らを出家させた。一方、司令官は将校たちの姿が見えないのに気づき、兵士たちに尋ねると、

〃あの人たちは出家してしまいました″という意外な答えが返ってきた。司令官は困惑しひどく腹を

立てた。〃一体何の権利があってビクたちは王の兵にそんなことを許したのだ〃彼は王にそのことを

告げ、王は法官に、配下の兵に勝手な真似をしたものはどう始末したらよいか問いただした。〃王よ、

そのようなウ・ハーディヤーヤ︵親教師︶は即刻首をはねておしまいなさい。また経文を唱えるものは
第三章教義への批判

舌を引き抜き、教団員の骨をたたき折っておやりなさるがよろしい〃法官は答えた。 王は釈尊の所へ行き事の次第を話した。

﹁尊師はダンマに反対する王が方々にいることを良くご存知のはずです。そのような王たちは些細

なことでピクたちを苦しめてやろうと待ち構えています。もしピクたちが王の兵士を唆かし、軍隊を
惨事が起ることのないようご配慮下さい﹂

捨てサンガに入会させていると知ったら、どんなひどい目に遇わすか知れません。尊師よ、こういう

第六制

﹁王よ、私は王の座下にあるものを、アヒンサーの名によって王への、あるいは国に対する義務を
答えた。

放棄してよいなどといった覚えはありませんし、そのようなことを許したこともありません﹂釈尊は

3 4 7

このことがあってから釈尊は、王の磨下にあるものを王の許可なしにサンガに入会させることを禁

3 4 8

ずる規定を設け、それを犯したものは破戒の罪に問われると宣言した。
シンハは釈尊にこういった。

二度目は、マハーヴィーラの信者である将軍シンハとのアヒンサー論争である。

﹁釈尊の教えに一つだけ釈然としないところがございます。私にもダンマが良く分りますようその

疑問を明らかにして下さいませんでしょうか﹂釈尊の同意をえたシンハは次のように尋ねた。

﹁釈尊よ、私は軍人であり、王より任命され法の施行と戦いを遂行する任務を負っています。全て

の苦しむ人間への限りない慈悲を説かれる完き人は、犯罪人の処罰をお認めになるのでしょうか?

またわれわれの家庭、妻子、財産を守るために戦うことは間違っているといわれるのでしょうか?

更に完全なる自己放棄を説かれる完き人は、悪人が好きなように振舞うのに耐え、人のものを力ずく

で奪い取ろうとするのを黙って見ていなくてはならないとおっしゃるのでしょうか?また正当な理
釈尊は答えていった。

由のために行う戦さも含め一切の争いを禁じておられるのでしょうか?﹂

﹁完き人はこういっています。罰に値するものは罰されねばならず、恩恵に値するものはその栄を

受けるべきである。しかも同時に完き人はこうもいっています。生命あるものを傷つけるな。愛と思

いやりをもって対せよ、と。この戒めは決して矛盾ではありません。己れの犯した罪によって罰をう

けるものは、だれであろうと、裁くものの悪意ではなく、自らの行為の故に苦しむのです。自ら蒔い

た種子は自ら刈らねばなりません。裁判官が人を罰する時、心に僧しゑを抱かせてはなりません。人

殺しも死刑に処せられる時、それが己れの悪の報いであることに思い当らなくてはならないのです。
れを享受するでしょう﹂

罰が己れの魂を浄化してくれるのだということを悟ったなら、己れの運命を嘆くことなく、むしろそ

この引例を正しく理解するものには、釈尊の説くアヒンサーは原則であり、絶対でないことが分る

はずだ。釈尊は悪は善をもって匡せと教えたが、悪が善を滅ぼしていいなどと一言もいっていない。

釈尊は不殺生を支持し、殺生を非難した。しかし殺生が善を悪から救う最後の手段でありうる可能性
はその教えの深い意味と洞察の深さを解しえていないのである。

をも否定したわけではない。だから釈尊の教義は危険だという批判は当っていない。そのような批判

349第六部一第三章教義への批判

350

第四章徳の唱道と悲観論への批判

日悲観の原因としての苦

〃苦″の元々の内容はカピラが与えたもので、不安、動揺を意味する形而上的なものである。後に

苦痛、悲嘆の意を有するようになった。両義は密着しており、不安は悲嘆と苦痛をもたらす。やがて

それは社会的、経済的要因による苦痛と悲嘆の意をもつようになった。

ブッダはこの言葉をどのような意味で用いたのであろうか。ブッダの説教に、彼が貧困が悲嘆の原
その中で彼はこういっている。

因であることを極めて強く意識していたことをはっきり示す記録がある。

﹁僧侶たちよ、俗人にとって貧困は苦痛であろうか?﹂﹁もちろんです、尊師﹂﹁人が貧しく、困窮

し、借財を抱えていれば苦痛だろうか?﹂﹁もちろんです、尊師﹂﹁支払の期日がき、督促されても払

えない人は苦しむだろうか?督促され、支払うことができず、責め立てられたら苦痛だろうか?

責め立てられても支払うことができず、役人に引き立てられたら苦痛だろうか?﹂﹁もちろんです、
びとの苦痛である。貧困と借財はこの世の苦し承なのだ﹂

尊師﹂﹁だからして僧侶たちよ、貧しさ、借財、督促、責め立てられ、引き立てられることは全て人

つまりブッダの苦の概念は極めて具象的であることがこれによって理解できる。
目悲観の原因としての無常観

形成された一切のものは無常であるという教義に対する批判がある。一切は無常であるということ

は万人が認めるところだ。それが真実であれば、いかにその真実が苦くとも明らかにされねばならぬ

ように、その教義も説き明されねばならない。しかし何故そこから厭世的結論が引き出されるのだろ

うか。人生が束の間であればそれはその通りなのであり、それを嘆く必要はない。それは考え方の問
351第六部一第四章徳の唱道と悲観論への批判

題にすぎない。たとえばビルマ人の考え方はまるで違う。ビルマ人は家族の死をあたかも慶びごとと

して祝う。人が死ぬと、家族はおおっぴらに祝い、踊りながら亡骸を墓地へ運ぶ。死は必然なのだか

ら誰も死にこだわらないのだ.無常が厭世的だというの健永久的なものが真実lそれ憾誤ってい るのだがlだと考えているからにすぎない.それ故ブッダの教えは悲観主義だという非難確当って


白仏教は厭世的であるか?

ブッダのダソマは厭世観を生むと非難されてきた。その非難の根拠は、この世は苦であると説いた

最初の説法にある。しかしその苦に対する考察がそのような批判を呼ぶというのはいささか意外であ

る。カール。マルクスは、この世界には搾取が存在し、富めるものは益点富承、貧しいものは益☆貧

しくなるといっている。だが誰もマルクスの思想は厭世的だとはいっていない。だのに何故ブッダの

思想には異った態度をとるのか。恐らく最初の説法の中で、〃生まれることは苦であり、老いも死も

苦である〃と語ったと記録されていることから、教義の厭世色が殊更強調されたのであろう。

3 5 2

しかし、レトリックというものを解するものには、それが巧承な誇張的表現であり、それによって

表現的効果を上げていることが分るはずだ。生れることは苦だというのは、ブッダの誇張だというこ

とは、一方で、人間として生をうけるということは極めて貴いことだと別のところで語っていること

からも明らかである。もしブッダが苦をそのようにいったのならその非難は正しいだろう。しかしブ

ッダは第二の説法で、この苦は取り除かれねばならぬと強調している。苦の除去を力説するために苦

の存在に言及したのである。苦の除去こそブッダが極めて重視したものである。何故ならカピラは苦
ムを去ったのもその不満の故であった。 うして非難できるのだろうか。

があるといっただけでそれ以上何も語らなかったし、ブッダがアーラーラ・カーラーマのアーシュラ

このようなダンマがどうして厭世的といえよう。苦の克服に熱心であった教師が厭世家だなどとど

四霊魂と再生理論批判

釈尊は霊魂は存在しないと説いたが、再生はあると確信した。そしてこれは自家撞着だと批判する

ものにも事欠かなかった。つまり、霊魂がないのにどうして再生がありうるのか、というのである。

これはいささかも矛盾していない。霊魂がなくても再生はありうるのだ。

マンゴーの種子がある。その種子はマンゴーの樹を生じ、樹はマンゴーの実を生む。それがマンゴ

ーの再生である。が、そこには霊魂はない。つまり霊魂がなくとも再生は立派に存在する。
四霊魂消滅論者としての非難

釈尊がシュラーヴァスティーのジェータ林に滞在していた時、アリッタという僧が、釈尊の見解で

はないものを釈尊の考えだといっていると、釈尊に知らせるものがあった。アリッタの誤りのひとつ
うに沈黙したきりであった。そこで釈尊はこういった。

は、釈尊は霊魂消滅論者だというものであった。釈尊に呼ばれたアリッタは、釈尊の質問に不機嫌そ

﹁ある行者やバラモンたちが、事実に反して私を間違って非難している。つまり私が霊魂絶滅論者

であり、存在する一切のものは分解し消滅するといっているという。私は正にそのような見解の持主
ることは、悪の存在とそれの消滅なのだ﹂
353第六部一第四章徳の唱道と悲観論への批判

ではないし、そのようなことを主張してもいない。過去においても現在においても常に私が説いてい

3 5 4

第五章友人と崇拝者

Bバラモンの妻ダナンジャーニIの信仰心

釈尊の沢山の友人、崇拝者の中にダナンジャー一一1というバラモンの妻がいた。夫はバーラドヴァ

ージャといった。夫は釈尊を憎んでいたが、彼女は釈尊の信者であり、その献身性は特筆に値する。

釈尊が、栗鼠の飼育所として知られるラージャグリハの竹林園にいた時のことである。

ダナンジャーニーはいつも三宝︵仏・法。サンガ︶を唱え、夫はその都度耳を押さえそれを聴くまい

とした。、ハラモン仲間を多勢招んで盛大な宴会を催そうという日、夫は何をしてもいいから、客の前

でブッダを賞賛するのだけは止めてくれと妻に頼んだ。しかし彼女はそんな約束はできませんと断わ

り、怒った夫健ハナナのように切り刻んでやると脅かした。彼女はいつでも覚悟はできておりますと
できなかった。

自若として答え、五百もの詩を滑々と吟じてみせた。結局奇ハーラドヴァージャは妻をどうすることも

その夜、客の前に黄金の器が並べられ人びとは食事をはじめた。給仕をしていたダナンジャーーーー

はどう仕様もない衝動に駆られ、竹林園の方角を向いて三宝を唱えはじめた。・ハラモンたちは恐慌を

きたし、口にしていたものを吐き出してしまった。激昂した夫は彼女を叱鳴りつけた。しかし彼女は

平気で夫に給仕しながら三宝を詞しつづけた。﹁完きお方、至高の人ブッダに栄あれ、ブッダの法に

栄あれ、サンガに栄あれ﹂堪りかねた夫は叫んだ。﹁この恥知らず奴が、どうして時もかまわずいつ
やる!﹂

もいつも人前であの坊主をほめそやすのだ。もう我慢できない。お前の師匠の所へ行って直談判して

﹁私はね、バラモンさん、あのお方、釈尊ほどに人を良く導いて下さる方は、他にどんな神様、マ

ーラ神だろうと、ブラフマー︵莞天︶だろうと、仙人だろうと、どんな人間、神様にも見当らないと

思ってますよ。でも行ってらっしやいましな。行ってくれば私のいっていることがお分りになるでし

ょうよ﹂ダナンジャーニーはきっぱりといった。 そういわれて静ハーラドヴァージャは益々いら立ち不愉快になり、早速釈尊の所へ出掛けた。

釈尊の前に出るとバーラドヴァージャは流石に礼儀正しく挨拶を交わし、神妙に傍に坐った。
館六部−2i猛畠章友人と崇拝者

﹁尊師よ、もし倖せに生きたいと思うなら何を滅ぼすべきでしょうか。もし一一度と嘆き悲しむまい
しようか?﹂

と 思え え ば 、 何を滅ぼすべきでしょうか。尊師ガウタマよ、貴方が最も推賞するその断滅は何でありま と思 ば 、 高

釈尊はそれについて次のように答えた。 ﹁もし倖せに生きたいなら、怒りを滅ぼしなさい。毒の根であり、極度の興奮、甘味を損うもので
はないのです﹂

ある怒りを滅ぼしなさい。それが私の勧める断滅です。それを真に滅ぼすならもはや嘆き悲しむこと

釈尊の返答の素晴らしさに気づいたバーラドヴァージャはいった。

3 5 5

﹁最高に素晴らしいことです、釈尊。あたかも倒れたものを立ち上がらせ、隠されたものを明らか

にし、道に迷ったものに正しい道を示し、眼あるものが外界を見られるように暗闇に光りを点す如く、

3 5 6

尊師ガゥタマは、幾つもの形で私にその教えを示して下さいました。師よ、何卒私めも釈尊の下で、 その法とサンガに帰依させて下さい﹂

かくてダナンジャーーーーは自分だけでなく、夫をもブッダの信者にさせたのであった。

○ヴィサーカーの不動の信仰

ヴィサーヵーはアンガ国の尋ハッディャの町に生れた。父の名はダナンジャヤ、母はスマナーといつ

ある時、釈尊は毒ハラモン。セーラの招きで多勢の供を率いてバッディャを訪れた。ヴィサーカーは

その時七歳であった。ヴィサーヵーは祖父のメーンダカに請うてブッダに会いに行った。祖父は彼女

のために五百人の供と五百人の奴隷、五百の乗物を用意してやった。ヴィサーカーは遠く離れた所で

車を下り、歩いてブッダの許へ向った。ブッダの教えを受け彼女は在家信者となった。メーンダカは

それからの二週間ブッダと弟子たちを毎日食事に招んで馳走した。後。ハセーナディ王の要請で、ビン

ピサーラ王はダナンジャャをコーサラ国へ送り、ヴィサーカーも両親と共にサーケータで暮した。

さて、シュラーヴァスティーの長者ミガーラは息子のプンナヴァッダナに良い嫁はいないか物色中

であった。ミガーラの意をうけ町へやってきた嫁探しの一行は、たまたま湖に汰浴に行くヴィサーカ

ーを見かけた。その時俄かに大雨となり謡ヴィサーカーの連れは我先きに走って雨宿りをした。しか

しヴィサーヵーだけは普段の足取りを変えず、悠々と一行が侍んでいる場所までやってきた。年頃の

娘なのにと、一行は語かし象、どうして雨宿りに走らないのか、着物が濡れてしまうではないかと尋

ねた。すると彼女は自分は沢山着物は持っているし、それに走って転んだりして取り返しのつかない

ことになったら大変です。嫁入り前の娘は大切な商品みたいなもので、壊わしたら大変ですからね、

とにっこり笑って答えた。彼女の美しさにすでに十分魅かれていた人びとは、その機転のきいた言葉

にすっかり惚れこんでしまった。嫁探しの一行はヴィサーヵーに花束を贈り、プソナヴァッダナとの

結婚を申し出た。彼女に従いて家へ赴いた一行は父親のダナンジャャに正式にプンナヴァッダナとの

結婚を申し入れた。申し込承は受け入れられ手紙も交換され一一人の婚姻は正式に決まった。

。︿セーナディ王はこのことを聞き、婚礼にはプンナヴァッダナと同行しようと申し出てくれた。ダ
行を心からもてなした。

ナソジャャはこの名誉にことの他威激し、王をはじめ、王のお供、ミガーラ、。フンナヴァッダナの一

花嫁の装身具造りに五百人の金細工師が掛り切り、持参金として五百台の牛車分の金銭、五百の容

器一杯の黄金、数多の牛などが贈られた。 父のダナソジャャが賎の言葉として娘に十の戒を授けているのをミガーラは隣の部屋でついつい立
357第六部一第五章友人と崇拝者

ち聴きしてしまった。その十戒とは次のようなものであった。

家の中の火を外にやってはならぬ。外から火をもらってはならぬ。返してくれる人にだけ与えよ。

返してくれない人に与えてはならぬ。与える人に与え、与えない人には与えるな。楽しく坐り、食べ

よ。火を守り、一家の神々を敬え。翌日ダナンジャャは八人の家長を娘の後見人とし、彼女に対する

非難があれば気をつけて調べるように頼んだ。 ミガーラは花嫁をシュラーヴァスティーの町の人びとに見せびらかし、沿道の市民は乗物に立って

いるヴィサーカーに贈物の雨を降らせた。しかしヴィサーカーはそれら全てを人びとに分ち与えた。

ところで、ミガーラはほら貝結び行者一一ガンタの信者だったので、家にニガンタ行者たちを招待し、

ヴィサーカーに招待するよう命じた。しかし彼女は裸形の彼らを厭いそのいいつけを断った。行者ら

はそんな生意気な嫁はつっ返してしまえと口々にいったが、ミガーラは時機を待つことにし、その場

3 5 8

は一応我慢した。

ある日、ヴィサーカーが食事をしている義父を団扇で扇いでいたところ、托鉢僧が家の外に侍んで

いるのが目に入った。彼女は父親にもその姿が見えるように体をずらした。しかしミガーラは見向き

もせず食事をつづけた。それを見てヴィサーカーはわざと大きな声で僧侶に声をかけた。﹁どうぞ他

へ回って下さいな◎おとう様の召上がっておられるものはとても不味くてお口に合わないと思います

これを聞いたミガーラは堪忍袋の緒を切らし、里に送り帰してやると彼女を脅した。しかしヴィサ

ーヵーの願いで彼女の後見人の意見もきくことにした。後見人たちは幾つかの彼女に対する非難を調

べたがことごとく彼女には非がないと判断した。そこでヴィサーカーは実家へ帰る用意をはじめた。
してくれたらという条件で妥協した。

困惑したミガーラ夫婦は逆に彼女に詫び、思い止まってくれと頼んだ。彼女はブッダたちを家に招待

ブッダとその弟子たちを食事に招んだ日、一一ガンタの影響を強くうけているミガーラはヴィサーカ

ーだけを接待役に出し、自分はカーテンの陰にかくれてブッダの説教を聴いた。だが、ブッダの教え

に眼を開かれたミガーラは即座にブッダに帰依することを誓った。ミガーラのヴィサーカーヘの感謝
と呼び敬った。

の念は限りなく、実の母に対すると同様の敬意を彼女に捧げ、以来人びとは彼女を〃ミガーラの母〃

白マッリカーの信仰

尊師がジェータ林にいた時、ある家の一人息子が死に、悲しゑの余り父親は仕事は疎か食事も徐に
とらぬ有様になった。

そのような父親がある日、釈尊を訪ねてきた。釈尊の前に坐っても心ここにあらぬといった様子で、

自分が何をしにきたかも分らぬ風であった。その哀れな姿を見、釈尊はいった。 ﹁最愛の一人息子を失ってどうして心が狂わずにおれましょう﹂

﹁あなたは今あなた自身ではありません。心があらぬ方へいっています﹂

﹁その通りです、御主人。愛しいものは、悲し承、苦痛、悩承、試練をもたらします﹂

﹁どうしてそういうことをおっしゃるのです﹂男はむっとしていった。

﹁愛しいものこそ喜びと倖せの元ではありませんか﹂そういうと男は憤然として席を立ち帰ってい

った。帰り道で男はサイコロ賭博に耽っている男たちに出会った。彼らに近づき、さっきあったこと
男もいささか心が慰さめられたように思った。
第六部一第五章友人と崇拝者

を話すと、男共は、それはあんたのいう通りだ、可愛いものこそ人生の喜びであり倖の源だ、といい、

この話はいつしか・ハセーナディ王の耳にも入り、王は妃のマッリヵーに、お前の崇拝する隠者ガゥ

タマは、愛しいものほど悲嘆や苦悩を運んでくるといったそうだ、と告げた。

﹁そうですか、あの方がそういわれたのなら、そうでございましょう﹂ ﹁それではまるで教師のいうことを何でも、はい、先生その通りです、とくり返す生徒と同じでは ここから出てゆけ﹂王は向っ腹を立てて妃を叱った。


よう申しつけた。

ないか、マッリカー。お前のその〃尊師がそういえばそうでしょう″はもう二度と聞きたくもない。

妃マッリカーは臣下の.︿ラモソを呼び、釈尊の下に行き本当にそういったのかどうかを確めてくる

3 5 9

﹁いいですか、ひとつ注意して欲しいのは、尊師のおっしゃったままを、一宇一句その通り私に伝
えて下さいよ﹂と彼女は付け加えた。

バラモンの言葉をきいた釈尊はこう答えた。
3 5 0

﹁その通りです、バラモンよ。我らの愛するものは、悲嘆と苦悩と苦しい試練とをもたらします。
ここにその例がある。

ある時、シュラーヴァスティーで一人の母親が死に、娘は狂ったように街中を歩き回り、会う人毎

に〃私の母を見ませんでしたか〃と尋ねた。またある女は、父、兄、姉、息子、娘、夫を亡くし、狂

乱して街を歩き回り、愛する人びとの所在を尋ねつづけた。またある男は、母、父、兄姉、息子、娘、

妻を失い、これも狂って彼らの行方を探し回った。またこういう例があります。ある女が里に帰った

ところ、家族は女を夫から引き離し彼女の好きでない別の男に嫁がそうとした。夫の所へ戻りそのこ

とを夫に話すと嫉妬に目がくらんだのか、夫はやにわに女を真っ二つに切り裂き自分も自殺してしま った。つまり二人共同時に死んでしまったのです﹂
﹁王様、あなたは一人娘のヴァジラー王女を愛していますか?﹂
﹁もちろん、愛しておる﹂王は答えた。

バラモンは帰って一部始終を妃に報告した。妃は王のところへ行きこう尋ねた。

﹁ヴァジラーにもしものことがあれば、あなたは悲しまれますか?﹂
﹁では王様、私を愛して下さっていますか?﹂

﹁あれにもしものことがあれば、私の人生はすっかり変ってしまうだろうよ﹂

もちろんと王は答え、自分にもしものことがあったらという問に、さっきと同様、そんなことが起
れば自分の人生はすっかり変ってしまう、と王は答えた。

﹁では王様、あなたはカーシやコーサラの人びとを愛していますか?﹂妃は尋ね、王は同じように

答えた。﹁他にどのような態度がとれるというのかね、マッリカーよ﹂

﹁釈尊のおっしゃったことは、今申し上げたこととどこか違っていましたでしょうか?﹂
って咳いた。

﹁いや、違ってはいないよ、マッリカー﹂前に妃を叱ったことをすっかり反省した王は、小さくな

四子を宿した母親の熱い願い

釈尊が今ハッガ国のスンスマーラギラ市にいた時、ポーディ王子が新しく宮殿を建てた。しかしまだ 立て、ブッダとサソガの僧たちを食事に招待した。

出来たばかりで尊い隠者、・ハラモンは誰も泊まっていなかった。そこで王子は若いバラモンを使者に

その夜、宮殿は美しく飾られ、宮殿に上る階段の下には純白の敷物が敷かれた。釈尊は階段の下に

くると立ち止まった。﹁どうぞ敷物を踏んで下さい。私の末永い幸せと繁栄のために、その上を歩い
第六部一第五章友人と崇拝者

て戴きたいのです﹂王子が何度いっても釈尊は動こうとしない。三度目に釈尊はアーナソダの方を見

た。アーナンダはそれと察し、王子に、釈尊は後から従うもののことを考え、この敷物の上は歩かれ

ないのです。それ故、敷物はしまってくれと頼んだ。敷物が取り去られ、席が階上にしつらえられる

と、釈尊は再び歩を移し僧侶たちと共に座についた。王子は手ずから釈尊たちに素晴らしい食事を給

仕した。食事が終ると王子は一段と低い席につき釈尊に話しかけた。
かがでしょう?﹂

﹁私が思いますに、真の幸せは楽し承によってでなくつらい目をして求められねばなりません。い

﹁かつて悟りをうる前は私もそう考えていました。まだ若い頃、それこそ髪は房々とし若さに溢れ

3 6 1

ていた時、両親の嘆きにも拘らず髪を切り、黄の衣をまとい、戸口から戸口へと托鉢の生活に入りま

した。それは善を求め、完き平安への道を探す坊裡の旅でした。しかし私は今その頃とは違った考え

3 6 2

をもっています。もし私の教義を解するなら、人は一切の悪が減するのを知るでしょう﹂

﹁何と素晴らしい教義でしょう。何と分り易い教義の説明でしょう、尊師よ﹂王子は釈尊にいった。
到っていない、と王子に述べた。

若い寺ハラモンは、自分もそのように思うが未だ釈尊とその教義に帰依したいというところまでには

﹁いやそういってはいけない、若い友よ。これは母上から直接聞いたことであるが、尊師がコーサ

ンピーのゴーシタ園におられた時、私を身篭っておられた母上は、尊師のところにゆかれこういわれ

た。〃お腹にいる子供が男であろうと女であろうと、その子は尊師とその教義、サンガに帰依するで

ありましょう。何卒今日より生命ある限り尊師に帰依するものとして受け入れてやって下さい〃また

他の時に、釈尊がこの鹿の園におられた時、乳母が私を尊師の前へ連れてゆき、〃これなるポーディ

王子は尊師とその教義とサンガに帰依いたしております″と申し上げた。今、三度目にして私自ら、
子は語った。

尊師に帰依し奉り、生涯変ることなく仕えるものとして受け入れて下さるようお願いするのだ﹂と王

第七部
最後の旅

第一章親しい人びととの出会い

日布教の中心地
365第七部一第一章親しい人びととの出会い

釈尊は、教団設立後一カ所に止まっていたわけではなく、自ら布教活動に従事していた。布教活動

の主な中心地は幾つかあったが、中でもシュラーヴァスティーとラージャグリハが主要地であった。 ヴァイシャーリー各六回、カマッサダンマ四回となっている。

ラージャグリハには二五回、シュラーヴァスティーには七五回も訪れている。他に力ピラヴァストゥ、

。訪れた場所

これら大小の中心地以外に多くの地を釈尊は訪れている。ウッカタ、ナーディヵ、サーラーァッサ

プラ、ゴーシターラーマ、ナーラソダー、アシ・ハナ、エーッマ、オー。ハサーダ、イッチャーナシガラ、

チャンダルクッ・︿、クシナーラー、デーヴァダハ、・ハーヴァー、アンバサンダ、セータヴィヤー、ア

ヌピヤー、ウグンマなどである。これを見るとブッダは北インド全土を歩いているのが分る。訪れた

場所は僅かなようだが、距離に直すと大変なものだ。ルンビニーからラージャグリハまででも約四○

○キロある。これを見てもその生涯に歩いた距離が想像できるだろう。しかも釈尊は牛車すら用いず

3 6 6

徒歩で歩き通した。信者たちが僧園や休息所を建ててくれるまで旅の途中泊まるところはなかった。
大抵は道端の木陰で野宿したのである。

ブッダは次左と場所を変え移り歩いた。その間に彼の教えを喜んで受け入れる人びとの疑問や悩承

事を解いてやり、反対者と議論もし、教えを請いにくるものに福音を説いてやったのである。釈尊は
た。彼は兄弟たちに三種類の聴衆がいると忠告した。

彼の説教を聞きにくるもの全てが賢いわけでもなく、心を開いてきたのでもないのを十分承知してい

頭が空っぽで愚かだが実に屡食教えを聞きに足を運ぶ。しかし結局何も把握できない。智慧に欠け

ているのだ。次に少しましなのは散漫だが、屡為足を運び話を終りまで聞き、その場で内容も理解す

るが、立ち上がると忘れてしまう、集中力に欠けているのだ。それより優れているのは智慧のあるも

のだ。熱心に足を運び話を最後まで良く聞き、内容を理解しそれを心に留める。そしてしっかりとし
むことなく布教しつづけたのである。

た心で教えを忠実に実行するものである、と。そしてこのような様交の種類の人びとに対し釈尊は倦

ピクとして釈尊は三枚以上の衣を持たず、一日一食、それも毎朝自ら托鉢でえた。釈尊の使命はい

かなる人間にとっても最も至難な業であったが、釈尊はそれを喜んで遂行した。 白母と妻との最後の別れ

マ︿1プラジャーパティーとヤショーダラーは死ぬ前に釈尊に会った。恐らく最後の会見であった
だろう。

マハープラジャー。ハティーは釈尊を拝し、正しい教えを授けてくれたこと、彼を通して精神的に生

れ変ったこと、彼女の中で育くまれた彼の教え、ダンマの乳を飲み、彼から心の糧をえたこと、彼を

通し大きく変るという難行の海を乗り越えたこと、ブッダの母としての名を残せることの大きな光栄
を感謝した。そして、最後にこの体から離れて死にたいと訴えた。

ヤショーダラーは釈尊に向い、自分は七八歳になりますといい、釈尊は私は八○歳だ、と答えた。

そして彼女はこの夜死ぬだろうと告げた。彼女の口調はマハープラジャー・︿ティーよりもつと自若と

しており、彼を後に残して死ぬことの許しを求めず、釈尊に帰依したいともいわなかった。反対に彼

女は〃私は私自身に帰依します″と告げた。彼女は自分の人生の全ての弱点を克服したのである。彼

女は彼こそが歩むべき道を示し、力を与えてくれたことを感謝した。
第一章親しい人びととの出会い

画父と子の最後の別れ

尊師がラージャグリハの竹林園にいた時、ラーフラはアンバラッティカー園にいた。夕方釈尊は膜

想から立ち上がりラーフラのところへ行った。釈尊のくるのを見たラーフラは席を設け、釈尊の足に

水を注いで浄めた。釈尊もまたラーフラの足に水を注いでやった。そしてラーフラに向いこう語った。

﹁たくらんだ嘘をつくものは、悪しきことから解き放たれてはいない。それ故そなたはふざけた嘘

であっても嘘をつくことがないよう努めなければならない。それと同じように、何事をなし、何事を

話し何事を考えようと、その行い、言葉、考えを良く顧承なくてはならない。もし何かをしたい時、

それが自分あるいは他人に害を与えないかどうか良く顧承なくてはならない。誤った行為は多くの苦

367第七部

しぷを生み、苦しぷを深くする。もし反省しそれが不自然なものだと知れば、中止すべきである。だ

が反省して、害はなく良いことだと分れば実行するがよい。慈愛の心を深めよ。それが悪意を消滅さ

せる。慈悲の心を深めよ、それが悩象を消滅させる。他人の幸せを喜ぶ心を深めよ。それが反感を消

滅させる。平衡のとれた落着いた心を深めよ。それが嫌悪を消滅させる。肉体的堕落に深く思いをい

3 6 8

たせ。それが情欲を消滅させる。事物の移るい易さを深く認識せよ、それが己惚れをなくさせる﹂
㈲サーリプヅタとの最後の別れ

釈尊がシュラーヴァスティーのジェータ園にいた時、サーリプッタが五百人の兄弟たちを連れて訪
欲しいと願った。それに対し釈尊は浬盤の地を定めたかと問うた。
た﹂サーリプッタは答えた。 ﹁親愛なサーリプッタょ、好きなようになさい﹂ サーリプッタは釈尊の足にひれ伏し、

れた。サーリプッタは死期の近づいたことを釈尊に告げ、寿命の糸が尽きたと観念することを許して

﹁私はマガダのナラ力村で生れました。生家がまだ残っております故、そこを混薬の場と定めまし

﹁私はただ一つの願い、尊師の足にひれ伏したいという願いをもって千劫の間波羅密多を実践して

参りました。それが叶えられ今、これ以上の幸せはありません。私共は再生を信じません。それ故お
した一

目に掛るのはこれが最後となりましょう。私の数為の過ちをお許し下さい。私のお別れの日が参りま

﹁サーリブッダよ、許すことなど何もありません﹂尊師はいった。

サーリプッタが立ち上がると、釈尊も彼に敬意を表し共に立ち上り、僧院のベランダまで見送った。

﹁貴方に初めてお会いした時も私は幸せでございました。今こうしてお会いできるのも幸せです。

これが最後の貴方との会見です。もはや二度とお会いすることはございますまい﹂

サーリプッタは両掌を合わせ、釈尊に背を見せることなく立ち去った。釈尊は集まった兄弟たちに

長老を見送るよう命じ、サンガの兄弟たちは初めて釈尊の許を離れ、サーリプッタの後に従って出立

した。

サーリプッタは故郷の村に着き、彼が生れた正にその部屋で亡くなった。茶毘にふされた遺骨は釈
尊の許に届けられた。

遣灰を受け取った釈尊は兄弟たちにこう語った。

﹁サーリプッタは誰よりも智慧があり、所有欲が全くなかった。勤勉で精力的で罪を憎んだ。だが

サーリプッタはこうして灰になった。彼は誰よりも人を許し、決して怒りに身を任せなかった。いか

なる欲望にも負けず、全ての情欲を制し、憐承と友情と愛に満ちた人であった﹂
369第七部一第一章親しい人びととの出会い

丁度その頃、ラージャグリハ近郊の人里離れた孤庵に暮らしていた、サーリ。フックの兄弟弟子マハ

1モッガッラーナがブッダを憎む敵の差向けた刺客によって殺されてしまった。

悲報は間もなく釈尊に届いた。サーリプッタとマハーモッガッラーナは釈尊の両腕ともいうべき存
この一一人に頼ってきたのである。

在であり、二人はダルマ・セーナー・ハティ、信仰の守護者と呼ばれていた。釈尊は布教活動をずっと

二人の死に釈尊は深く心を動かされ、もはやシュラーヴァスティーには留まるまいと心を決め、旅
に出た。

370

第二章ヴァイシャーリーを去る

B美しいヴァイシャーリーの街

最後の旅に出る前、釈尊はラージャグリハの鷲の峯にいた。暫く滞在した後、〃さあアーナンダ、

アン零ハラッティカーへ行こう″といった。〃そう致しましょう″アーナンダは応じ、多勢の兄弟と共

にアソバラッティカーへ向った。アン・ハラッティカーに留まった後、釈尊はナーランダーヘ向い、そ

こから。︿−タリ村へ、。ハータリからコーティ村、コーティからナーディカ村へと旅をつづけた。それ

ぞれの場所に数日間滞在し人びとに教えを説いて聴かせた。ナーディカ村からヴァイシャーリーに向
尊は人びとを帰依させることに成功した。

った。ヴァイシャーリ−はマ︿−ヴィーラの生地であり当然彼の信者が沢山いた。しかしここでも釈

この頃、ヴァイシャーリー地方は早魅がひどくそのため多勢の人が餓死したといわれた。町の主だ

った市民は集会を開き色々協議した結果、釈尊を呼ぶことにし、ピンビサーラ王の友人でリチャヴィ

族のマハーリと宮廷僧の息子が使いに出された。釈尊はその招きを受け出発した。ヴァッジ族の領地

に入った途端、雷が鳴り大雨となって飢謹も解消した。ヴァイシャーリ−の住民が釈尊を歓迎したの

はこのせいでもあった。またその頃、雨安居︵雨季の定住︶の季節がやってき、釈尊はヴェールヴァ村

に、弟子たちの多くもヴァイシャーリー近辺に雨安居を求め散らばった。

雨安居の季節が過ぎると釈尊はヴァイシャーリー市から去る積りで町へやってきた。早朝、衣をつ

け鉢を手にヴァイシャーリーの街へ入った釈尊は、托鉢を終え町から出、食を喫した。そして恰も象
の見納めだな″とアーナンダに話しかけた。 ャヴィ族に自分の手にした鉢を記念に贈った。
第二章ヴァイシャーリーを去る

を眺めるようにヴァイシャーリーの街を望み〃これがタターガタ︵完き人︶のヴァイシャーリ1の街

釈尊はヴァイシャーリーの人びとに別れを告げ、昔の市の北の境まで釈尊を見送ってくれたリッチ

目パーヴァー村

釈尊はヴァイシャーリ1からパンダ村へと進んだ。そしてパンダからハッティ村、ポーガ市、。ハー

ヴァー村へと向った。・ハーヴァーでは釈尊は鍛冶工チュンダのマンゴー林に留まった。釈尊が自分の ダはそれを喜び、翌日釈尊一行を自分の家に食事に招いた。

マンゴー林にいるのを耳にしたチュンダは、釈尊の下に赴き近くに坐した。釈尊は教を説き、チュン

チュンダは甘い米の料理と菓子類の他に〃スーカラ。マッダヴァ〃︵柔い豚肉あるいはキノコの一種

とも解されている︶という食物を用意した。食事の後、釈尊は再びチュンダに教えを説き、立ち去った。

ほどなくその食事に当ったと見え、釈尊は赤い血が送り出、激しい痛承が生じる命にかかわるほどの
だ。

371第七部

重い病に握った。しかし釈尊は心を落着け泰然として一言も不満を洩すことなくその苦痛を耐え忍ん

マンゴー林に戻り、容態が回復すると釈尊はアーナソダに〃さあ、クシナーラヘ行こう″といい、
●ハーヴァーを去った。

3 7 2

白クシナーラ

クシナーラに向って歩いてゆく内に間もなく釈尊は休息の必要を感じた。木陰に退いた釈尊は

〃アーナンダょ、衣を敷いて呉れないか。私は疲れた。少し休ゑたいのだ″といった。〃かしこまり

ました″アーナンダは答え、衣を四つ折りにして広げた。その上に坐った釈尊はつづいてアーナンダ

にいった。〃アーナンダよ、水を持ってきて呉れないか。のどが渇いているのだ″〃カクッタ河がも

う直ぐです。そこの水は澄んで気持ちがいいでしょう。その水に入るのは簡単ですしきっと気分も良

くなるに違いありません。その河で水を飲承手足を冷やされるといいと思います。ここの流れは汚れ

て濁っています″アーナンダはいった。しかし釈尊は弱り切り歩く力がなかった。アーナンダは仕方

なくその流れの水を持ってきて釈尊に与えた。暫く休んだ後、少し力の回復した釈尊は再び歩きはじ

め、カクッタ河に辿りついた。河で泳浴し、水を飲承向う岸へ着くとマンゴー林に行き、再びアーナ

ンダに衣を地面に広げるよう求めた。〃私は疲れた。横になろう″そういうと釈尊は広げた衣の上に

横たわった。暫く休息すると釈尊は起き上がり、アーナンダに告げた。〃ヒランニャヴァティー河の 向うにある、クシナーラ郊外のマッラ族のサーラ︵沙羅樹︶林へ行こう″

サーラ林にやっと辿り着いた釈尊は、二本のサーラ樹の間に再び衣を敷き横になった。

第三章入滅

B後継者問題

釈尊は一時、シャカ族と共に彼らのマンゴー林で過した。丁度その頃、ニガンタ派の指導者ナータ

プッタなるものが・ハーヴァーで亡くなり、ニガンタ派は二つに分れ主導権争いが起った。・ハーヴァー

の町で雨季を過していた新参のチュンダがアーナンダを訪ねてきて、ニガンタ派の指導者争いの事を

減話した。 ﹁友よ、それは尊師にお知らせするに値する事柄です。早速行ってお話ししましょう﹂
第三章入

二人は釈尊の下へ行き、一一ガンタ派の跡目争いについて話し、後継者を指定する必要のあることを
訴えた。

﹁だが、チュンダよ・教師、阿羅漢、正覚者はすでにこの世に現れ、教義は十分に説き明かされ、

373第七部

指導と平和に貢献している。だが、その師が死んだ時、弟子たちが未だ修行を完成しておらず、救済

ダソマ

されるに到っていないとすれば、弟子にとって大きな悩承となり、法も危機に直面するであろう。

しかしチュンダよ・正覚者である師が世に現れ、教えは十分に説かれ、指導と平和に貢献し、弟子

たちが修行を完成し、清らかな生活への見通しが明らかとなっているなら、その教師の死は、弟子た

3 7 4

ちにとって少しも悩象の種となることはないであろう。だのに何故後継者が必要なのか﹂
アーナンダに対しても釈尊は別の時こう語った。
というのかね?﹂

﹁アーナンダょ、そなたは私の教えたことについてたった二人の僧の間ですらもう意見が喰い違う

﹁いいえ、そういう訳ではありませんが、尊師亡き後、尊師の近くにいたものたちが、戒律や規律

に関して僧団内でいい争いを起し、そのような争いが広い不安を与えるかもしれません﹂

11111

よって決められないのであれば後継者に何ができるというのか。論争は友愛によって結着をつけねば

ならない。結び合った全てのものが集い、合意するまで徹底的に討議し、その合意に基づき一致して

事を決めるべきである。多数による合意が論議をまとめる方法であり、後継者の指名に頼ってはなら
ない﹂

○最後の帰依者

その頃、スバッダという遍歴行者がクシナーラに住んでいた。遍歴行者スバッダは、〃今夜最後の
刻に、道の人ガウタマが亡くなるであろう″という噂を聞いた。

遍歴行者スバッダはこのように思った。〃かつて私は年老いた長老、師や弟子でもある遍歴行者た

ちが、真人、正しくさとりを開いた人である完成された人びとが世に現れるであろうといっているの

を聞いた。ところで今夜、最後の刻に道の人ガウタマが亡くなるだろうという。今疑いが私の内に起

った。だが私は道の人ガウタマを信じてる。道の人はこの疑いを捨てることができるように私に教え

1 1

りうる争いである。道についての議論は一人の独断によって決められるものではない。そして独断に

﹁アーナンダミ戒律や規律の細かなことは気にかけないでよい。問題は道についての僧団内で起

を説くことができる〃
ことを語り、いった。

そこで遍歴行者スバッダは、マッラ族のサーラ樹林に赴きアーナンダのいる所に行き、彼の考えた

﹁アーナンダさんよ、どうか道の人ガウタマに一目会わして下さい﹂
これを聞いてアーナンダはいった。

﹁おやめなさい、スバッダさん。師を悩ましてはなりません。師は疲れておられるのです﹂ スバッダは三度懇願し、三度同じ答えが返ってきた。 釈尊は二人のこのやりとりを耳にし、アーナンダに告げた。

﹁やめなさい、アーナンダよ・スバッダを拒絶してはいけない。私に会わしてやりなさい。スやハッ

ダが私に尋ねようとすることは全て、知りたいと願うことを尋ねるのであり、私を悩ますために尋ね

るのではないであろう。そして私が答えたことは何であろうと、彼は速かに理解するであろう﹂

そこでアーナンダはスバッダにいった。﹁おゆきなさい、ス零ハッダさん。尊師は許しを与えられま
した﹂

第三章入

ス・ハッダは釈尊のところへゆき、喜んで挨拶をし、互いに温かく言葉を交わし、一方に坐した。そ
してこう語りかけた。

﹁尊師ガウタマ、あれら全ての修行者やバラモンたち、多くの信者、供連れを持ち、供連れの教師

375第七部

であり、世に知られ、名声があり宗派の開祖として多くの人に尊敬されている人びと、たとえば、プ

ーラナ。カッサ・︿、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリソ、・ハクダ。カッチャーヤナ、

サンジャャ・ベーラッティプツタ、ニガンタ・ナータプッタといった人びとは、全て、あの人たちが

自分でいっているように、自分の智慧で真理を見出したのでしょうか?あるいは一人残らず見出さ

3 7 6

なかったのか、あるいはその幾人かは見出し、幾人かは見出さなかったのでしょうか?﹂

﹁スバッダよ、そのような、一人残らずとか、その中の何人かはとかいったことはほうっておきな

さい。それよりそなたに理法を説いて上げよう。注意して聴きなさい﹂

﹁かしこまりました﹂スバッダは答え、居住いを正して傾聴した。

﹁スバッダよ、いかなる教え戒律においても、八正道が認められないところには道の人もまた認め

られない。しかしいかなる教え戒律においても、八正道が認められるところには道の人もまた認めら

れる。私の教えと戒律においては八正道が認められる。そこには第一から第四の道の人もまた認めら

れる。他の諸女の論議においてはこの道の人を欠いている。スバッダよ、もし兄弟たちがこの道にあ

って正しく生きる潅らば、世界臆阿羅漢︲︲真人l塗欠くこと侭ないであろう.
域をの承歩んできた﹂

私は二九歳で善なるものを求めて出家した。それから五十年有余が過ぎたが、私は正しい理法の領

釈尊がこのように語った時、遍歴行者スバッダはいった。 ﹁何と素晴らしいお言葉でしょう。あたかも投げ出されたものを起し、隠れたものを明らかにし、

迷ったものに正しい道を示すように、眼ある人びとが見られるよう暗闇に灯火をかかげるように尊師

は私に真理を明らかにして下さいました。私は尊師に帰依し、真理と教団に帰依します﹂
を経なくてはならない﹂

﹁スバッダよ、かつて異教を奉じていたものがこの教団に入ろうとするならば、四カ月の修行期間

﹁もしそれが決まりであればそれに従いましょう﹂スバッダはいった。しかし釈尊は、﹁人によっ

て相違のあることを認めよう﹂といい、アーナソダを呼び、﹁さあ、スバッダを教団に受け入れてや

りなさい﹂と告げた。﹁かしこまりました﹂とアーナンダは答え、スバッダはアーナンダにいった。

﹁友、アーナンダよ・あなたは大きな益をえています。あなたの幸いは実に大きい。あなた方全て
かんじよう

尊 師 自らの手で弟子たることを認める潅頂の式︵剃髪後、頭に水をふりまく︶をしていただいたの 健尊 師 占
ですから﹂

﹁それはあなたにもいえることです、ろハッダさん﹂アーナンダは答えた。 かくてスバッダは釈尊の手によって戒を授かり教団に受け入れられた。彼が釈尊自ら帰依させた最
後の弟子であった。

白臨終の言葉
そこで釈尊はアーナソダにこう告げた。

﹁恐らくそなたたちは〃師の言葉はもう聞けない。師はもうおられないのだ/・″というかもしれな

い。しかしそのように承なしてはならない。アーナンダよ・私はそなたたちに理法と戒律を与え、私
第三章 入 滅

はそれを喜んでいるのだ。私の亡き後それがそなたたちの師となるのだ。 アーナンダよ◎今そなたたちは互いに〃友よ〃と呼び合っているが、私の亡き後はその習慣は止め

なくてはならない。年長者である修行僧は新参の修行僧を、その名、姓、あるいは〃友よ〃と呼ぶべ

きであり、新参の修行僧は年長の修行僧を〃尊師″とか〃尊い方よ″とか呼ぶべきである。

また私亡き後、もし欲するなら墳細な、小さな戒律箇条は廃止してもよい。 気持を欠いている。私亡ぎ後、あれには清浄な罰を加えなさい﹂ ﹁尊師よ、清浄な罰とはどういうものなのでしょうか?﹂

377第七制

そなたも知っているように修行僧チャンナのことだが、あれは誠に頑固で、ひねくれ、規律を守る

﹁チャソナは何をいってもかまわないが、他の修行僧は誰も彼に話しかけず、忠告もせず、教え論

3 7 8

してもならない。彼を一人にしておきなさい。それが彼を立ち直らせるだろう﹂ そこで釈尊は他の修行僧たちに向ってこう話しかけた。

﹁誰か一人の修行僧の心に、ブッダについて、法についてあるいはサンガ、あるいは道と実践につ

いて疑い、疑問が生じるかもしれない。もしそういうことがあれば、今尋ねなさい。後になって〃師

の目の前にいながら、師に面と向って尋ねることをしなかった〃と後悔することがないように﹂
沈黙したままであった。
そこで釈尊はいった。
なさい﹂

この一一一一口葉に修行僧たちは黙っていた。釈尊は同じことを三度くり返したが、修行僧たちは三度目も

﹁多分私への尊敬の念から尋ねないのであろう。かまわないから友達が友達に対するように質間し

それでも修行僧たちは黙っていた。そこでアーナンダは釈尊に向って叫ぶようにいった。

﹁尊師ょ、不思議なことです。驚くべきことです。私はこの修行僧の集いをこのように信じていま
問を持っていません﹂

す。ブッダについて、法について、集いに、道に、実践について一人の修行僧もただ一つの疑い、疑

﹁アーナンダょ、そなたはそのような確信から語る。しかし完き人、タターガタはこのように認識

している。つまり、今いったような事について一人の修行僧も一点の疑い、疑問をもっていない。そ

してこの五百人の修行僧の内で最も遅れたものすら聖者の流れに入り、堕落から身を守り、至高の智 慧に到達する、ということを﹂釈尊はかく語り、いった。
なさい﹂

﹁さあ、皆にもう一度思い出させよう。一切の事象は衰滅してゆくものである。心して修行に励み

これが釈尊の最後の言葉であった。

四アーナンダの嘆き

年を取るにつれ釈尊は身の回りの世話をする付人を置くようになった。最初はナンダ、次は亡くな
に変らぬ最も身近なお相手であった。

るまで釈尊の傍に仕えたアーナンダである。アーナンダは釈尊の単なる付人であっただけでなく、常

クシナーラに着き、サーラ樹の問で憩をとった時、釈尊は死期の間近かに迫ったのを知り、今がア
ーナンダに確信を与えるべき時だと感じた。 そこで釈尊はアーナソダを呼んでいった。
は遂に還らぬ人となろう﹂
入 滅

﹁アーナソダよ、クシナーラの郊外の林のサーラ樹の間で、この夜の最後の刻に完き人タターガタ
これを聞いたアーナンダは釈尊に懇願した。

﹁尊師よ、何卒劫の尽きるまでは、衆生の幸せのために、この世への憐承のために、神々と人びと

第三章

のために生きて下さい﹂アーナソダは三度この願いをくり返した。 ﹁もうよい、アーナンダよ・完き人タターガタに懇願するのは止めよ。そのような時は過ぎたのだ。

私は年老い、わが旅は終ろうとしている。八○の齢を越え寿命は尽きんとしている。古くなった牛

379第七部

車がいつかは崩れ去るように、完き人タターガタの然も同じ運命を辿ろうとしているのだ﹂

アーナンダはこれを聞き、悲し承の余りその場を立ち去ってしまった。
﹁アーナンダは外で泣いております﹂僧は答えた。

アーナンダの姿がないのに気づいた釈尊は他の僧を呼んでアーナンダは何処にいるかと尋ねた。

3 8 0

﹁では行って、私が呼んでいると伝えなさい﹂﹁かしこまりました﹂僧は答えアーナンダを迎えに
行った。アーナンダは戻り釈尊の傍に坐した。

﹁もうよい。アーナンダよ・泣くのは止めなさい。かつて何度も説いたではないか。我均に最も親

しく近いものからも私たちは別れ、離れ、切り離される。それが諸物の本性である、と。

そなたは長い間、親切に優しく、愛をもって私の側にいてくれた。本当に良くして呉れた。これか
た人となることができよう﹂

らも精進を怠らぬよう。そうすればそなたも、情欲や私欲の全てを離れ、幻想や無知から解き放たれ
そういった後、修行僧らに向いこう語った。

﹁兄弟たちよ、アーナンダは賢い。アーナンダは人が何時タターガタを訪れ、会うのは何時がいい を何時訪れたら良いかその正しい時機を心得ていた。

かを良く心得ていた。ビクやビクニたち、在家信者、王や大臣、諸点の教師、弟子たちがタターガタ

アーナンダには四つの美点がある。一つは、アーナンダと会うのが楽しいことだ。そして彼を見る
人びとは落着かない気分になる﹂

と人びとの心は喜びに溢れる。アーナンダが話しているのを聞いていると楽しい。彼が黙っていると

アーナンダは再び釈尊入滅のことに話題を戻し、尊師に向っていった。

﹁このような森の中の、むさくるしい小屋で尊師を死なせたくありません。尊師に相応しい立派な

街が沢山あります。たとえばチャン・ハー、ラージャグリハ、シュラーヴァスティー、サーヶータ、﹃−

1サンピー、、ハナーラシーなどです。この中のどこかでお亡くなりになって戴きたいのです﹂

﹁そういうことをいってはいけない、アーナンダよ◎そういうことをいうものではない。このクシ

ナーラは、クサーヴァティーの名で呼ばれるマハースダッサナ王の首都であった﹂

それから釈尊はアーナンダに二つのことをいいつけた。一つは、釈尊の死はチュンダの供した食事 が元だという噂が立たないよう注意することであった。釈尊はそのことでチュンダの心が傷つくのを
たことを知らせるようにいった。

心配したのである。釈尊は次にクシナーラのマッラ族に釈尊がクシナーラに着かれそこで亡くなられ

﹁それはそなたが後で恨まれないためにも必要なことだ、アーナンダよ・タターガタが我禽のとこ
うだろうからだ﹂

ろで亡くなられたのに我々はそれを知らず、最期の時にお目に掛れなかったとマッラ族の人びとはい

その夜、アヌルッダとアーナンダは法に関する教えについて語り合って過した。やがて、夜の最後
の刻がくると、予言された通り釈尊は息を引きとった。
た。そして叫んだ。

修行僧、アーナンダたちは両腕を突き出し泣いた。あるものは頭から地面に倒れ、のたうち転がっ

﹁尊師は余りにも早くお亡くなりになった。幸いな方は余りにも早くお亡くなりになった。この世 の光りは余りにも早く行ってしまわれた﹂

第三章入

釈尊入滅の時は、紀元前四八三年、ヴァイシャ−カ月︵インド暦四月’五月︶の満月の日であった。
、ハーリ教典はい承じくもいっている。

381第七計

﹁太陽は日中にの桑輝き、夜は月が照らす 戦士は鎧を着た時に輝き、バラモンは膜想している時に輝く。

されどブッダは、夜も昼も己が栄光によって輝く
彼こそ真にこの世の光りである﹂

3 8 2

国マヅラ族の嘆き

釈尊の望んだ通り、アーナンダはマッラ族にその死を告げた。これを聞いたマッラ族の男、その妻、
叫んだ。

息子 、 挫娘たちは心から嘆き悲しんだ。あるものは髪をふり乱し、両腕を差しのべ地に平れ伏して泣き 子 、

マッラ族たちは、その妻、息子、娘たちと共に釈尊と最後の別れを告げるために郊外のサーラ樹林
に出掛けた。

アヌルッダは人びとを見、こう思った。一人一人尊師の御遺体に別れを告げていては時間が掛りす

ぎる。そこで彼はマッラ族の人びとを家族毎にまとめ、各家族は釈尊の足に額づき、帰って行った。


丁度その頃、マハーカッサ・︿が多勢の修行僧と共に.ハーヴァーからクシナーラヘ向う街道を旅して

そこに一人の裸形の苦行者が反対側からやってきた。カッサ。︿はその苦行者に〃われらが師を知り
行者はいった。

ませんか?″と尋ねた。〃知っていますとも。沙門ガウタマは七日前にお亡くなりになりました〃苦

これを聞き修行僧たちは悲し承に暮れ泣き出した。ところが一行の中で、年老いてサンガに加わっ
たスバッダという修行僧が、仲間に向っていった。

﹁おやめなさい。泣くのも、嘆くのも止めるのです。私たちは偉大な沙門ガウタマからうまく解放

されたのです。今までこれはお前には相応しいとか、相応しくないとかいって色交と悩まされてきた

けれど、今からは、やりたいことは何でもできるし、やりたくないことはやらないですむではありま

せんか!あの人が死んで助かったのではないのですか。だのにどうして泣いたり悲しんだりするの

です。むしろ喜んだらいいでしょう﹂

釈尊は実にしつけの厳しい人であったのだ。

㈲葬儀
マッラ族の人びとはアーナンダに問うた。 ﹁タターガタの遺体はどうしましょう?﹂ ﹁王の中の王を葬るように、タターガタを葬って下さい﹂

﹁王の中の王を葬るようにとはどのように致せばいいのでしょうか?﹂

﹁新しい布で遺体を包承、次に打ってほどされた綿で包承ます。そして新しい布で再び包むのです。

このようにして五百重に遺体を包ふます。それから遺体を鉄の油槽に入れもう一つの鉄の油槽でぴっ

たりと密封します。ついであらゆる香料を含む薪の山を積むのです。これが王の中の王を葬るやり方
﹁毎

減です﹂ ﹁では、そう致しましょう﹂マッラ族はいったが、その日中に火葬に付すには遅すぎたので翌日茶
入−.Jと筆

毘に付すことにした。そしてマッラ族は使用人にいいつけ、香料、花輪、音楽師たちを集めた。

383第七部一第三章

ところが、釈尊の遺体に敬意を表するために、踊り、歌い、音楽を奏で、花輪や香料を捧げ、自分

たちの衣服で天蓋を作り、花飾りを作っている内に二日がすぎ、三日、四日、五日、六日とすぎてし
取り行おう″

まった。七日目になってやっとマッラ族はこう思った。〃さあご遺体を運んでゆこう。そして火葬を

そこで八人の首領が頭を洗い新しい衣に着替え、棺の運び役となった。遺体は町の東にあるマクタ

バンダナというマッラ族の寺に運ばれ、火葬に付された。やがて釈尊の肉体は灰となった。

3 8 4

㈲遺骨分配を巡る争い

茶毘が終るとマッラ族は釈尊の遺骨と灰を槍と弓の垣で囲った公会堂に安置し、盗まれないよう厳
重に警護した。

マッラ族は七日の間、踊りや歌、音楽、花輪や香料で遺骨と灰に敬意を表した。

さて一方、マガダ国王アジャータサットゥは、釈尊がクシナーラで亡くなったことを聞き、マッラ

族に使いを送り、遺骨と灰の一部を分けて欲しいと頼んだ。同じように、ヴァィシャーリーのリッチ

ャヴィ族、力ピラヴァストゥのシャカ族、アッラカッ。ハのブリ族、ラーマガーマのコーリヤ族、・ハー

ヴァーのマッラ族などからも次灸と使いがきた。遺骨を要望するものの中には、ヴェータディー。︿の
今ハラモソもいた。

この要求にクシナーラのマッラ族はいった。﹁釈尊は我点の村で亡くなり、我有が葬ったのだ。遺
骨も灰も誰にも渡すまい。皆我々のものだ﹂
﹁皆さん諺ひとつ私のいうことも聞いて下さい。 つけ合おうとまでしています。

事態が険悪になったのを見たドーナというバラモンが仲裁に入った。

釈尊は耐え忍ぶことを説く方でした。だのに私たちはそのお方の遺骨の分配のことで口論が起り傷

ここは皆さんが一致団結して、八つにご遺骨を分けることに致しましょう。そして釈尊が世界中で
クシナーラのマッラ族はその提案に賛成した。
﹁けっこうだ。ではあなたが公平に八等分しなさい﹂

敬われるよう、あらゆる所にストゥー。︿を建てようではありませんか﹂

﹁よろしゅうございますとも﹂ドーナは同意し、釈尊の遺骨を八等分してから人びとにいった。 す﹂人びとは同意し、遺骨を入れる瓶をドーナに与えた。 かくて釈尊の遺骨は無事分配され、争いも平和裡に収まった。

﹁皆さん、この瓶を戴いてよろしいでしょうか。この瓶の上にストゥー。︿を建てたいと思いま

385第七部

第三章入

第八部

シヅダールタ。ガウタマという人間

第一章その人となり

B釈尊の容姿
感じのいい貌であった。
389第八部一一第一章その人となり

釈尊はどう見ても美男子であったようだ。黄金色に輝く山の頂のような容姿。丈高く立派な体躯で、

長い腕、堂々とした歩き方、雄牛のような大きな眼、輝くような美しさ、広い胸は全ての人を魅し

眉、額、口、眼、手足、歩き方、そのどれをとっても人びとの眼を捉らえて離さなかった。

釈尊を見たものは誰しもがその比類ない威厳、力強さ、見事な美しさに打たれた。釈尊に出会った
いたものは立ち上がった。

ものは、足を止め、立っていたものは思わず後に従い、ゆっくり歩いていたものは走り出し、坐って

釈尊と会ったものは両掌を合わせて敬意を表し、あるいは頭を低く下げて敬礼し、親し承深く声を

掛けた。敬意を表さず行きすぎるものは一人もいなかった。彼は人びとに愛され、敬われた。

男も女も喜んでその言葉を聴いた。その声は実に魅力的で、ドラムのように深い響きがあり、説得

力に溢れていた。その話をきいていると何処か別の世界の音楽を耳にしているようであった。声その

3 9 0

ものが聴くものを鼓舞し確信させ、その顔付だけで畏敬の念を抱かせた。

釈尊の人格だけで人の師たるに相応しく、信者にとっては神の如き存在であった。 動かし、その声を耳にする人びとを虜にしてしまった。 葉の中に、囚われたものを解き放つ真理を見出した。


カー妃と和解させえたであろう。

彼が話し出せば忽ち聴衆が集まった。彼が何を話しているかは問題でなく、人びとの心を直接ゆり

彼は聴衆の心に、教えの真実さだけでなく、救いへの希望を抱かせることができた。聴衆はその言

釈尊以外の誰があの凶悪な盗賊アソグリマーラを帰依させ、・ハセーナディ王をたった一言でマッリ

一度その魅力に取りつかれたものは生涯離れられなかった。釈尊の人格はそれほど魅力的であった。

○同時代人の証言

今述べたような伝承的見方は釈尊と直かに会った同時代人によって裏書きされている。たとえばバ

ラモンのサーニがその一人だ。釈尊と面と向って話した後、次のように賞賛の言葉を吐いている.

釈尊の前に坐したサーラは、釈尊に偉人の持つ三二の瑞相が備わっているのを認め、しばし見詰め

た。それは紛うかたなく三二相の表れであったが、釈尊が本当にさとっているのかどうかサーラには

その時はまだ分っていなかった。だがサーラは昔から賢人のいい伝えによって、阿羅漢、さとりを開
た。それで彼は、思い切って次のように釈尊を賛め称えた。

いた全ての人は、その人たちへの賞賛の詩が唱われると、己れを明らかにするということを知ってい

﹁尊師よ、尊師は完壁な体を有しています。堂々とし、好ましく、輝きに満ち、力が体に溢れてい

ます。その体の完全さは、仏であることを示す吉兆の数々が証しています。

その明畔、美貌、真直な高い背丈、群星中の太陽の如き輝き、かくも快よく、かくも光りに満ちた

お方が、何故世捨人の隠者の如くその比類なき美しさを無駄になさるのでしょうか。

世界の王者として国を治め、海から海を跨ぐ覇者として君臨し、誇り高き王族たちは皆あなたの村

の長にしかすぎず、王の中の王としてあなたは人類を支配されましょう﹂

アーナンダは釈尊の体は異常なまでに清らかで輝きに満ち、黄金の布すら釈尊の前では色槌せてし
らぬことである。

まうと述べている。釈尊に反対するものたちまでが、釈尊を〃グラマーポーイ〃と呼んだのは無理か

白秀れた統率力
391第八部一第一章その人となり

サンガには組織の長というものはいなかった。釈尊もサソガに権限を振るっていたわけではない。

サソガは自治的集団であった。ではサンガとその成員に対し、釈尊はどのような立場であったのか。

ここに、釈尊と同時代でサクルーダーイとウターイという二人の人物の証言がある。

釈尊がラージャグリハの竹林園に住んでいた時、ある朝、托鉢には早過ぎると思った釈尊は、遍歴

行者の園にいるサクルーダーイのところに寄って桑ようと思い立った。サクルーダーイの周りでは多

勢の遍歴行者たちが、存在と非存在について喧々章倉の論議を交わしている最中であった。釈尊が近

寄ってくるのを見たサクルーダーイは、〃静かに皆さん。隠者ガウタマがこちらにこられます。あの

方は静寂を好まれるのです″といった。一同はしんと静まり、そこへ釈尊が悠然と現れた。

﹁尊師にも仲間に入ってもらいましょう。ここへ参られてからずい分になります。さあ尊師に席を

設けて下さい﹂サクルーダーイはいい、釈尊を人びとは待ち受けた。

392

釈尊はしつらえられた席に坐し、にこやかに、私が現れるまで一体何を皆で賑かに話し合っていた
のか、とサクルーダーイに尋ねた。
いった。

﹁いえ、そのことは構わずにおきましょう。いずれ後でお分りになるでしょう﹂サクルーダーイは

また、雨期になり、ラージャグリハにはプーラナ。カッサ・︿、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケ

ーサカンバリン、・ハクダ。カッチャーヤナ、サンジャ・ベーラッティプツタ、ニガンタ。ナータプッ

タといった鐸々たる当時の各流派の総帥や教師として尊敬された人びとが寄り集まった。その中には
ろうか。

釈尊もいた。ところで、これらの尊者たちはその弟子たちにどのように敬われ、評価されていたのだ

あるものはいった。﹁プーラナ・カッサ・︿は、弟子から少しも評価も尊敬も受けていない。弟子た

ちは何も特別の尊敬や評価をもって一緒にいるわけではない﹂丁度その折、カッサ。︿が何百人もの信

徒に向って彼の教義を説いている最中だった。突然一人の弟子が割って入り、〃カッサ・︿に質問なぞ

しなさるな。この人は何も分ってはいない。この私に質問すれば何でも説明して進ぜよう″といった。
騒がないで下さい﹂

プーラナ・カッサ。︿は両腕を差し延べ、涙ながらに抗議して叫んだ。﹁静かにして下さい、皆さん、

第二章その人間性

㈲マハーカルナー。限りない同情心

釈尊がシュラーヴァスティーにいた時、修行僧たちがきて、神霊がしょっちゅう現れ膜想を邪魔し
て困ると訴えた。話を聞き終えた釈尊はこういって論した。
第二章その人間性

趨避晦家●旗、︺“に執着しないこと制到机

11﹄

﹁徳を積承、安らかな状態に到達したいと願うものはこのように振舞いなさい。 できうる限り正しく気品のある話し方をし、 園U制調蝋燭則到副こと司制報

質素な生活をし、情欲を制し、思慮深く、軽率さ

︲11111;I

人の誇りをまねくようなつ﹃まらぬことを追い求めず、常にこう願いなさい。

当ての人が謂趨司蚕。

心 し て い ら れ ま す よ う に 。 人びとの心が健やかでありますように〃
・・I。‘’1日ⅡⅡ皿‘‘寺‘・‘︲.‘︲■宮0日IrIトー1111︲■Ⅱ■■■■■Rn日岡”Ⅱu閥例圃Ⅲ画Ⅲ■冒巴

3 9 3 第 八 音 I

坐対いもの卿洲Ⅷ測酬聯、丸酬司Ⅷもの、頑丈なもの、中位、丈の低いもの、小さなもの、大きな

もの皆全てが洩れなく幸せでありますように〃 iI︲11鋼11州iIIl︲︲illIl︲︲︲︲i︲l︲︲I︲11. 〃知っている人、知らない人、遠い人、近い人、生れた人、生れてくる人、皆全てが幸せでありま


すように〃

394

愛を育く糸なさい。

9111111

高 き も 低 き も な く 、 何 も の に も 邪 魔 さ れ る こ と な く 、 敵意を持たず限り制阿判蕊認鼎辰弘げなさい。

○噸画冒画酢Ⅱ睦鮒■冊凹■皿j■,11︲FIh鵬

立っていても、
即、■■”■nN四屯匁阜厚耶“■Ⅲ”。.180、

割剥釧酬掛劇罰則副削罰割酎繍

静曙可叫引舗葡削舗蓉馴司Ⅷ域

こ れ こ そ 最 も気高い生き方です。 さい。こ れ こ そ 最 ︲
I11IIl1iiL

幻想に陥入らず、 刷行正uⅧ1

いことです﹂

即ち、釈尊は〃汝の敵をも愛せ〃と修行僧たちにいっているのである。

○不幸を癒す力

ヴィシャーヵーは在家信者であった。彼女はいつもビクたちに布施を行っていた。

ある時、孫娘のスダッターが病にかかり死んでしまった。悲しふに耐え切れず、ヴィシャーカーは

釈尊を訪れ、前に坐してただ泣くばかりであった。それを見て釈尊は尋ねた.

﹁どうしたのですヴィシャーカー?どうしてそうやって泣いてばかりいるのです?﹂
ん、といった。

ヴィシャーヵーは孫娘の死んだことを話し、あの娘は本当に忠実な娘で、あの娘ほどの娘はいませ

﹁シュラーヴァスティーには若い娘はどれ位住んでいるのです、ヴィシャーカ−よ?﹂釈尊は尋ね

﹁多勢います﹂

﹁その娘たちがそなたの孫娘のような娘だったら論その娘たちを愛してやれるのではないですか?﹂


’ 1 1 1 1 を傷つけようと望まず、 己が命を了剥もってわが子を庇 おうとす る 母 親1 のよ う に


8J・二日。■

誰にも人を欺かせることなく、

雷遇領べj怨例剰錨封圃洲ら他人

..‘.■︲■q︲■■.T・・99”pf弱国

己Ⅳ月ⅢH0q席閉間留日日#はUnHH訂11判Ⅱ刑Ⅶ鋤

﹁その通りでございますね、尊師様﹂ヴィシャーカーは答えた。
﹁沢山いるでございましょう、尊師様﹂
﹁本当でございますね、尊師様﹂ ﹁良く分りました、尊師様﹂

﹁そして、シュラーヴァスティーでは毎日どれ位娘が死んでいるのです?﹂

﹁ではそなたの悲し承は休まる時がないではありませんか、ヴィシャーヵーよ﹂

﹁だったらそなたはこれから朝から晩までそうやって泣いて暮すのですか?﹂

﹁宜しい。さあ、もう嘆き悲しむのは止めなさい﹂釈尊は穏かにいった。

キサー・ゴータミーはシュラーヴァスティーの商人の許に嫁いだ。間もなく息子が生れたが、蛇に
咳まれて死んでしまった。
395第八部一第二章その人間性

人の死をこの眼で見たことがなかったゴータミーは息子が死んだとなかなか信じられなかった。蛇

に咳まれた、小さな紅い点が元で息子が死んだとはどうしても思えなかったのだ。

彼女は息子を腕に抱き戸口から戸口を夢遊病者のように坊樫い歩き、人びとは気が触れたと思った。

不偶に思った老人が、ガウタマのところへ行って見るがいいと忠告した。彼女は釈尊を訪れ、息子

に何か薬を呉れと頼んだ。彼女の話と悲し承に耳を傾けていた釈尊は、こういった。

﹁では、もう一度町へ戻って承なさい。そして亡くなった人のいない家を探し出し、その家からカ

ラシの種子を一粒もらっておいで。それでそなたの子供を生き返らせて上げよう﹂

キサー・ゴータミーはそれを聞いて、それなら易しいことだと思い、息子を抱え町へ戻った。とこ

ろがどの家を尋ねても、家族の誰かを失っていない家はないのに気付いた。その中のあるものはいつ

3 9 6

﹁お前さん、生きているものより死んだものの方が多いのだよ﹂ 彼女はがっかりし空手で釈尊の下へ戻ってきた。
嘆く積りなのか、と。

そこで釈尊は尋ねた。死は全てに共通した定めであり、彼女だけが特別な不幸に見舞われたとまだ
彼女は家に帰り、息子を葬り、咳いた。
﹁全ては無常なのですね。それが世の定めなのです﹂

ある時、一人の修行僧が赤痢に確り、糞便にま承れて横たわっていた。たまたまアーナンダを連れ
づいていった。

て修行僧たちの庵を訪ねて回っていた釈尊は、その修行僧の庵にきて糞便の中に寝ている僧を見、近
﹁どこが悪いのかね、兄弟よ?﹂

﹁赤痢に雁ったらしいのです、尊師よ﹂僧は弱々しい声でいった。
﹁で、誰か面倒を見てくれる人はいるのかね?﹂
﹁いいえ、尊師﹂

﹁どういう訳なのです、誰もそなたの世話をしてくれる兄弟がいないというのは﹂ ﹁私は無能なため、誰も面倒を見てくれないのです、尊師﹂

それを聞くと釈尊は直ちにアーナンダに水を持って来るよういいつけた。アーナンダが水を持って
ンダは足をもって兄弟を寝床へ横たえてやった。

くると、釈尊は自ら僧の体に水を注ぎ、アーナンダと共に洗ってやった。そして釈尊は頭を、アーナ

釈尊は僧院に戻ると修行僧たちを呼び集め、病気の僧のことを尋ねた。修行僧たちは、その僧が病
いった。

気であること、無能なため誰も面倒を見てやらない、ということを釈尊に告げた。それを聞き釈尊は

﹁兄弟たちよ、そなたたちには面倒を承てくれる父母がいない。もし困った時互いに世話をし合わ
ないか。

なければ一体誰が世話をしてくれるというのか。私が行かなければ、あの兄弟は病に躍ったままでは

もし師がいれば、師がいって病が癒るまで世話をしてやるべきだ。もし先輩や同房の仲間、弟子が
を犯していることになる﹂

いれば、その人たちが癒るまで面倒を見て上げなさい。もし誰も世話をしてやらないなら、それは罪

釈尊がラージャグリハの栗鼠飼育所の森にいた時、壷作りの小屋に住んでいた修行僧ヴァッカリが、
397第八部一第二章その人間性

ひどい病に苦しんでいた。

彼は付添のものを呼んでこう頼んだ。〃釈尊のところへ行き、こうお願いしてくれないか。修行僧

ヴァッカリは重い病で苦しんでいます。憐れと思し召してお出で下さらないでしょうか〃 ァッカリは何とか起き上がって迎えようと床の上でもがき回った。
へ坐ろう﹂釈尊はヴァッカリの前に坐った。 ゆく兆候がありますか?﹂

釈尊は無言で承知し、托鉢の鉢と衣を持ちヴァッヵリの小屋に赴いた。釈尊の姿を遠くから見たヴ

﹁止しなさい、ヴァッヵリ、そんなに動き回ってはいけない。席は用意してある。さあ、私はここ

﹁ヴァッヵリょ、苦し承を耐えているのだろうね。苦痛は和らいでいますか?少しずつ鎮まって

3 9 8

﹁いいえ、尊師よ。私は我慢できません。恐ろしい痛承が襲ってくるのです。苦痛は一向に収まら ず、もっとひどくなってきます﹂ ﹁いいえ、何もそのようなものは抱いておりません、尊師よ﹂ ﹁いいえ、そのような疾しいものはありません、尊師よ﹂


とがあるのですか?﹂

﹁ヴァッヵリょ、そなたは何か疑いを抱いていますか?何か自責の念を抱いているのですか?﹂

﹁何も自らを顕りふて疾しいところはないのですか?ヴァッカリよ﹂

﹁宜しい、もしそうなら、そなたは何か心にかかることがあるに違いありません。何か心残りなこ

﹁尊師よ、私はこの長い間尊師をこの眼で拝したいと念じつづけてきました。しかるに私には尊師 の許に赴きお姿を拝する力がもはや残されておりません﹂

﹁止めなさい、ヴァッヵリ。私のこのつまらぬ鉢を見たとて何になるのです。理法を見るものは私

を見ているのです。真に理法を見るものは私を見、私を見るものは理法を見ているのです﹂

このように私は聞いている。釈尊が、鹿の園のベーサヵラ林にある鰐の生息地にいる録ハッギ族の間

に住んでいた時、ナクラピターという老人が訪ねてきて釈尊にこういった。

﹁尊師ょ、私はすっかり年を取り、寿命も尽んとし、その上病気勝ちです。尊師や修行僧の方々に

お目に掛るのも容易ではございません。何卒私を励まし慰さめて下さいませ﹂

﹁誠にそなたの体は弱り、重荷になっています。束の間の健康をのゑ望むのは全く愚かなことです。

では何のために修行をするのでしょう、ナクラピターさん。それは、〃自分の体は病んでいるが、 癖病気嘱擢副識吋唖と願って〃修行する″のです﹂

老人のナクラピターはその言葉に喜び、恭しく挨拶して立ち去った。

かつて釈尊は力ピラヴァストゥのいちじく園にシャカ族と共に住んでいた。

多勢の修行僧たちは釈尊の衣作りに余念がなかった。僧たちが三カ月すれば衣も出来上がる、そう
のが、釈尊のところへ行きこういった。

すれば尊師は遊行に出掛けられる、と話し合っているのを聞いた、シャカ族のマハーナーマというも

﹁兄弟たちは、三カ月後釈尊の衣が完成すれば、釈尊は旅立たれると話しております。ところで、
ら伺っておりません﹂

尊師よ。私共は、病に苦しむ在家信者を同じ在家信者がどのように励ましたらよいか、尊師のお口か

﹁マハ︲ナ︲マょ.病に苦しむ在家信著確四諦l苦諦・この世は苦である。集諦・茜の原因臓世
399第八部一第二章その人間性

の無常と人間の執着にある。滅諦。無常の世を乗りこえ、執着を絶つことが苦滅のさとりの世界であ

る。道諦。滅諦にいたるためには八正道の正しい修行方法によるべきだということを意味する、四つ
れなき、不動の理法による徳に慰めを求めなさい。

の真理lによって励ましてやりなさい。そして理法とサンガに慰塗を見出し、心を安らかにする汚

もし病気の兄弟が両親に会いたがっていたら、〃兄弟よ、あなたは死なねばならないのです。両親

に会いたがっていても、いなくてもあなたは死に到るのです。両親への思慕を棄てることが大事なの

です″といって上げなさい。もし病人が、両親への思慕を捨てたといったら、兄弟よ、あなたはまだ

子供を思い焦れている。その想いを捨ることが大事です、といって上げなさい。また五感の悦びにつ

いても話して上げなさい。もし病人が感覚的悦びに固執しているなら、精神的喜びの方が感覚的悦び

よりもずっと素晴らしく、そのような快楽から己が心を断ち切り、四つの真理の法悦に浸りなさい、

4 0 0

と説いて上げなさい。

またもし病人が〃私の心は落着いている″といったら、〃ブラフマーの世界に心を据えなさい〃と

いい、病人がそうなったなら、〃兄弟よ、ブラフマーの世界も無常であり、永続せず、個体に左右さ

れます。それ故、ブラフマーの世界からも脱げ出し、個の止滅に思いを集中させなさい〃といいなさ

そしてもしその病人が、それをなしたというならば、私はこういおう、マハーナーマよ・このよう

に断言できる在家信者と、煩悩から解き放たれたわが弟子との間にはいささかの差異はない。即ち、

救いに関する限りにおいてばl﹂釈尊ばかく語った。

白寛容

ある時、釈尊はアーラヴィー国のアーラヴァカ夜叉の領地に住んでいた。アーラヴァヵ夜叉は釈尊
に近づき、〃僧よ、出て行け!″といった。
﹁よろしい、友よ﹂といって釈尊は出て行った。
﹁入れ、僧よ﹂夜叉はいった。

﹁よろしい、友よ﹂釈尊はそういって入った。再び夜叉はいった。
﹁僧よ、出て行け﹂

﹁よろしい、友よ﹂と釈尊はまたいって出て行った。﹁入れ、僧よ﹂夜叉は再びいい、﹁よろしい、

友よ﹂釈尊はいい、入った。四度目に、﹁出て行け、僧よ﹂と夜叉がいった時、釈尊は﹁私はもう出
て行かない。好きなようにするがよい﹂といった。

﹁では、僧よ、汝に質問をしよう。もしその質問に答えられなければ、汝の心を狂わせるか、心臓

を引き裂いてくれる。あるいは、汝の足をとって河の向側へほうり投げてくれよう﹂怒った夜叉はい
ザコ

プ t 二

﹁私をそのような目に遇わせうるような人に私はまだ出会ったことがない。何でも好きなことを問
うがいい﹂

﹁では聞こう。この世で人間の最高の富は何か?清らかな行いがもたらす幸せは何か?全ての

味の中で最も甘美なものは何か?どのような生き方が最上であるのか?﹂ ﹁信仰がこの世で人間の最高の富である。ダソマを守ることが幸せをもたらす。真実こそが全ての

味で最も甘美である。智慧によって生きるのが最上の生き方である﹂
えるのか?﹂
401第八部一第二章その人間性

﹁ で は ﹁で は 、、 ! 人はいかにして激流︵再生︶を渡り、いかにして海︵存在︶を渡り、いかにして苦しみを越

1.iIII11111

戴局岬輝よって激流を渡り、洞岬叫か目覚めによって海を渡り、精進努力によって苦し承を越え、智
慧によって清らかとなる﹂

﹁ひとはいかにして智慧をえ、いかにして富をうるのか?いかにして名声をえ、いかにして友を

うるのか?この世からあの世に到る時いかにして後悔をしないですむのか?﹂ ﹁阿羅漢l真人を信じ、ニルヴァ︲ナに到る理法を信じ、従順で勤勉にして心をそこに集中する
ものが智慧をうる。

適宜な事をなし、堅固な意志と常に目覚めた心を持つものが富をうる。人に与えるものが友をもつ。

真 実 で 、 正しく、忍耐強く、寛大さのある誠実な在家の生活を営む人は死後のことを悔まない。 真実 で 、 〒
がよい!﹂

真 実 、 自制、施与、忍耐より勝れたものがあれば、さあ、他の諸々の修行者、、ハラモンたちに問う 真実 、 吟

4 0 2

﹁さてさて、どうして今更他の修行者、、ハラモンに問うことがありましょうや。私は今日、来世の
利に適う幸運を知ったのです。

誠にブッダは、私のためにこのアーラヴィーに住まわれにこられたのです。与えられれば誰にその

果報が報われるかを今日私は知りました。今日より、完きさとりをえられた方とその完き教えに敬意 を表しつつ、村から村、町から町を巡り歩きます﹂
夜叉はかく語った。

四平等の精神

釈尊がサソガ成員に対して設けたいかなる淀も、釈尊にも適用されるものであることを自ら進んで
受け入れた。

釈尊が僧団の真正な指導者であり、釈尊への限りない崇敬と愛からサンガはどんな特権でも釈尊に
一日一食という徒も他のピクたち同様、釈尊は受け入れた。 私物は持たないという淀も同様に遵った。

与えただろうということを理由に、釈尊はいかなる例外、特例をも自分に求めることはしなかった。

三つ以上の衣服︵大衣、上衣、下衣︶を持たないという淀も然りであった。

カピラヴァストゥの等ハニャンの林に住んでいた時、釈尊の義母マハープラジャー。ハティー。ゴータ

ミーが、自ら紡いだ新しい二枚の布を持ってきて、どうか受けとって下さいと願った。しかし釈尊は、 傍で見かねたアーナンダが釈尊にいった。

それはサンガに寄付して下さいと断った。再三ゴータミーは懇願したが答えは同じであった。

﹁どうか受け取って上げて下さい、尊師よ。ゴータミー様は、尊師をお育てになったかけ替えのな

い貴い方ではありませんか﹂しかし釈尊は譲らなかった。
を防ぐために設けられたものであった。

もともと、サンガ員の衣はぼろ布から作るきまりであり、その淀は、資産家階級がサンガに入るの

ある時、ジーヴァカが釈尊を説得して新しい衣を受けとらせたことがあった。それ以来、釈尊は碇
を和らげ他のビクにもその特例を許すようになった。

403館八部一第二策その人間│化

4 0 4

第三章好んだもの、嫌ったもの

目貧困への嫌悪

釈尊 が 、 釈 尊 が 、アナータピンデイカ園にあるジェータ林に住んでいた時、アナータピンデイカが訪れ、こ

う尋ねた。

﹁人は何故財をうべきなのでしょう?﹂ ﹁あなたが尋ねるのなら答えましょう。

勤勉と努力と、骨身を削る労働と汗で財をなした人は、正しい方法でそれを獲ちえ、自らを幸せに

し、両親、妻子、奴隷、労働者をも幸せにします。これが財をうるということの第一の理由です。次

に、人は友人、仲間を幸せにします。これが第二の理由です。更に財をなしたら、火災、洪水、王や

盗賊、害敵、相続人などから被害を蒙らないよう用心し、財産を安全に保護します。これが第三の理
これが第四の理由です。

由です。それから人は四つの義務、即ち、親族、客、祖霊、王と神々への義務を果さねばなりません。

そして更に、人は施与をなさねばなりません。それは、高慢と怠惰を避け、全てを忍耐強く謙虚に

耐え忍び、己れを克服し、己れを静め完成へと導く全ての道の人のための、気高い、至上の幸せに導

いてくれる行いです。これが第五の理由です﹂ どと賞めたりしていないことを十分に理解した。

アナータピンデイカは、釈尊が貧者をその貧窮を賞賛して慰めたり、貧困こそ人生の幸せであるな

Q所有欲への嫌悪
ある時、釈尊はクル国のカンマッサダンマの町に住んでいた。
アーナンダがきて釈尊にこういった。
405第八部一第三章好んだもの、嫌ったもの

﹁釈尊の説かれた因果律は実に見事です。それは誠に深く、明瞭なものに思えます﹂

﹁そういってはいけない、アーナンダよ・この因果の法則は実に深いのだ。その根元はからまった
めなのだ。

糸玉のように錯綜し、苦を越え難いということを理解するには、単にこの教義を理解するだけではだ

渇望することが欲望の元だと私はいったはずだ。何ものをも、いかなるものをも渇望しないところ
には、欲望もまた生じないであろう﹂
﹁その通りです尊師﹂

﹁渇望が利欲を追い求めさせ、利欲が欲望と情欲をかき立てる。欲望と情欲が固執を生み、固執が

所有欲を生糸、所有欲が負欲と一層の所有欲を生む。諸々の所有欲は常に所有することに心を向けさ

せる。人が傷つけ合い、争い、悪口をいい、嘘をつくといった諸為の醜い事柄の多くは、この所有欲

の虜となった心から生れるのだ。これこそが因果の鎖である。もし渇望がなければ、利欲もなく、利
なければもっと所有したいという寅欲も起らないであろう?﹂

欲がなければ情欲も起らず、情欲がなければ固執もなく、固執がなければ私有欲も生じず、私有欲が

4 0 6

﹁その通りです尊師よ﹂

﹁私はこの地上は地上として認める。しかしそれを渇望したりしない。それ故、私がさとりをえた
い渓え︾①。

のは蝿 、“ 全ての渇望を断ち、それらを追い求めず、それらを消し去り、捨て去ることによってであると

兄弟たちよ、俗世的財の共有者ではなく、私の理法の共有者となろうとしなさい。渇望は執着を生
じ、執着は心を虜にする﹂

このように釈尊は所有欲の有害さを説いた。 日美しいものへの喜び

ブッダは美しいものをこよなく愛で、ブッダの別名を〃美の人″といってもいい位であった。

ブッダはピクたちに〃美しいものと交わりなさい〃といい、このように語った。

﹁修行僧たちよ。私は、美しいものとの交わりほどに、それだけで未だ現れていない善き姿をひき

出し、すでに現れてしまった悪しき姿を弱める力を有しているものを知らない。

美しいものと親しい友情を交わす人には、未だ現れていない善き姿が現れ、すでに現れてしまった

悪しき姿を弱める。悪しぎ姿、悪しきものへの情熱は弱められ、善き姿への無関心は去り、善き姿、

善きものへの情熱が生れてくる。そして悪しき姿への無関心が強まる。

修行僧たちよ。私は、無秩序な想念ほどにそれだけで未だ現れていない智慧の芽を摘み取り、もし

現れていたらそれを育くんで完成に到らせることを妨げる力のあるものを知らない。 現れている芽も、それを育んで完成に到らせることができない。

修行僧たちよ、無秩序な想念に耽けるものには、未だ現れていない智慧の芽は摘象取られ、すでに

それ故修行僧たちよ。身内の死を取り立てて嘆くには及ばない。もっと不幸なことは智慧を失うこ
とだ。

身内が増えたことなど取るに足りないことだ。智慧が深まり増すことの方が何よりもまして大切な
のだ。

そのために私はいおう、修行僧たちよ。〃さあ智慧を深めよう″と自らを励まし、修行に専念しな
さい、と。智慧をうるために修行を積まなくてはならない。
さあ、そのために修行に励承なさい。
407第八部一第三章好んだもの、嫌ったもの

修行僧たちよ。富を増やすことなどつまらぬことなのだ。智慧を深めることが何よりも大事なのだ。

修行僧たちよ。評判などどうでもいいのだ。不幸なのは智慧を失うことだ﹂ 四美しいものへの愛

ある時、釈尊は、シャカ族の町サッカラに住んでいた。アーナンダがきてこういった。

﹁尊師よ、美しいものと交わり、親密になることは、半分位は立派な生き方といえます﹂

﹁そうではない、アーナンダよ・それは半分などではなく、立派な生き方の全てなのだよ。美しい
ろう。

ものの友であり、親しく交わる修行僧に私たちはこう期待する。彼は八正道を培い、八正道を敬うだ

そして、アーナンダよ、このような修行僧は八正道をどのように培い尊重するだろうか?

ここにおいて彼は、執着を離れ、情欲を消し、煩悩の消滅、己れを捨て去るという正しい見解を培
して己れを捨て去るに到る正しい目的を培う。

う。彼は、正しい言葉、正しい行い、正しい生き方、正しい努力、正しい自覚と正しい集中膜想、そ

4 0 8

アーナンダょ、これこそが、美しいものとの交わり、親密さからなる立派な生き方の全てを理解す
る道なのだ。

朽ち易く、死に到り、嘆き、悲し承、絶望に陥入り易い存在は、美しいものとの交わりによってこ
のように解き放たれるのである﹂

結語

日ブッダの偉大さ

ブッダは二五○○年前に生れた。その彼について現代の思想家、科学者たちはどのように語ってい
るか、少しく例を上げて承るのも有意義であろう。
SoS。ラガヴァーチヤール教授。

﹁ブッダの時代の直前の時代は、インドの長い歴史の中でも最悪の暗黒期であった。知的にも遅れ

ていた。その時代の思想的特徴は、経典の権威への絶対服従によく表われている。倫理的にも暗黒時

代であった。道徳とはヒンズー信徒にとって、ヴェーダ聖典に定められた通りの宗教的儀式、祭儀を

取り行うことを意味した。真に倫理的な意味での献身性とか、目的の純粋さとかは、その時代意識に
おいては正当な位置を与えられていなかった﹂
R・TJ・ジャクソン氏

409結

﹁ブッダの教義の特質は、インド宗教思想史を総いて承れば明らかである。

リグ・ヴェーダ賛歌には、自己を離れ、外の、即ち神倉の世界に向った人間の思想が見られる。仏

4 1 0

教は、自己の中に潜む潜在性に人間の探求心を向けさせた。ヴェーダにあるのは、呪文、賛歌、祈祷
で聖ある﹂

だけだが、仏教において初めて、我々は心を正しく働かせるための心の修行というものを見出したの
ウインウッド・リード氏はこういっている。

﹁我々が自然史諺血と汗にま承れた数百万年の変化の歴史、生活を支配する法則、変化発展の法則

を締く時、そこに我々が見るものは、〃神は愛なり″という言葉の空々しさでしかない。あらゆるも

のに邪悪な乱脈さと無益な浪費が見られ、生き残る生物は極めて僅かな率にすぎないことが分る。食

べる、食べられる、が自然の法則であり、殺すことは生長することなのだ﹂リード氏の﹁人類の殉
ランジャン・ローイ博士はこういっている。

教﹂という本の中の言葉である。ブッダのダンマといかに異っていることだろう。

.九世紀の前半は物質、物量、エネルギー保存の法則にすっかり振り回された。誰もこの原理に

異を唱えるものはなく、不滅の思想を大切にする理想主義者の切り札となった。一九世紀の科学者は、

それらの原理が創造の支配的要素であり、宇宙の根元的体系を構成すると公言した。彼らは宇宙は不

滅の原子で出来ていると信じた。ところが一九世紀末になると、J・J・トン・フソンとその弟子たち

が原子をたたき潰しはじめ、驚いたことにその原子はばらばらに崩壊してしまったのである。そして

その崩壊物は同一の、負の電荷を帯びた電子と呼ばれる物質となった。

マックスゥェルによって、宇宙の不滅の基本物質として歓迎された原子は粉々に粉砕されてしまっ

たのである。それらは、正、負の電荷を帯びた陽子、電子に分解されてしまった。一定不変の質量と
広く信じられている。

いう概念は永久に捨て去られてしまったのである。今世紀においては、物質は刻一刻消滅していると

ブッダの〃無常″が確認されたのである。

科学は、宇宙の生成過程は、集合、分解、再集合であることを証明している。現代科学の流れは、
いる少︸いえる︲一

究極的本質、エゴの統一と多様性に向っている。現代科学は、仏教の〃無常″〃無我″を反映させて

EoG・テイラー氏は﹁仏教と現代思想﹄という本の中でこういっている。

﹁人間は長い間、外在的権威に支配されてきた。もし人間が本当の意味で文明化されねばならぬと

したら、自分自身の原理によって自分を統御することを学ばねばならない。仏教は、人は、己れは己

れ自身によって制せられねばならぬということを命じた最初の倫理体系である。だからこそ、より進 んだ世界は、この般高の教えを仏教に求める必要があるのだ﹂
ている。

ユニ 乱タ リ ア ン ︵ 三 位 一 体 説 を 排 し 、 各 教 会 の 自 律 を 主 張 す る 一 神 論 者 ︶ の レ ス リ ィ 。 ポ ー ル ト ン 氏 は い つ ユ ニ

﹁私は仏教の精神心理学に最も力強い援軍を見出している。ユニタリアン教徒は仏教徒と同様、教
ドワイト。ゴダード教授はいう、

会の教典、信条といった外在的権威に反対し、導きの灯火を人間自身の中に見出そうとしている﹂

﹁世界の宗教的指導者の中で、ブッダのみが外部からの援助を借りず、人間は本来授っている偉大
垂函

な内在的能力によって自らを救済することができることを証明した唯一の、栄ある存在である。もし、

真に偉大な人間の価値というものが、全ての人間の価値を高めることにあるとすれば、ブッダ以上に
えって智慧と愛の最高の高みにブッダを押し上げるだけである﹂
﹃仏教﹄の著者EoJ・ミル氏はいう、

4血結

偉大と呼べるものが他にあるだろうか?誰かをブッダの上に置いて彼を鹿めようとするものは、か

おとし

4 1 2

﹁仏教ほど〃智慧″の大切さ、無知、無明の怖さを強調した宗教は他にない。〃覚めている″こと
にない﹂

をこれほど強調した宗教は他にない。精神的領域、文化にこれほど深い考察と体系を築いた宗教は他
W・T・スティス教授はいう、

﹁仏教の道徳的理想像〃阿羅漢″は道徳的、知的にも偉大である。それは思想家であると同時に善

の実践家であらねばならない。仏教において智慧は救済に対してなくてはならぬものとして常に強調

され、無知。無明は救いを妨げる二大障害︵もう一つの障害は渇望あるいは執着︶の一つとして強調され

ている。それに反し、キリスト教では、智慧はキリスト教的理想像の一部であったことは一度もない。
り離されてしまったのである。

キリスト教的思想体系の創始者の非哲学的性格によって、人間の道徳的側面がその知的側面から切

世界の不幸は邪悪によるよりも無知・無明、盲目的信仰によってはるかにひき起されている。ブッ
てして十分であろう。

ダはそれを許そうとしなかったのだ。ブッダとその理法・ダンマの偉大さを示すにはこの一事をもっ
ブッダこそ我々の師でなくて誰が師たりうるだろうか?﹂ ロダンマを弘める誓い

数限りない生きとし生けるものがいる。私たちは到るところでそれらに教えを伝えると誓おう。 永遠の真理がある。私たちはそれを完全に把握すると誓おう。

私たちには限りない悪がある。それら全てを滅ぼすことを誓おう。

比類なきブッダの道がある。私たちはそれを完成すると誓おう。︵宗教、倫理百科辞典、第一○巻、

六八頁︶

国浄土祈願

おお、釈尊よ。私は、世界に遍く、遮ぎるものもなく光りを照らすタターガタに心より帰依し、貴
方の浄土に生れんことを心より願い上げます。
空の如きものです。 るものであります。

浄土の姿をこの眼ではっきりと見ます。それは三界を越え、果しもない広大な空間が一切を包む天

正しい道に従った貴方の慈悲と憐承は、︵貴方が積んだ︶功徳の結果であり、この世の一切の善に勝 貴方の光りは太陽と月を照り返す鏡の如く遍く世を照らします。
ま熟

浄土に生れしもの全てはブッダ自身の如く真実を明らかにせんことを。
ます。︵宗教。倫理百科辞典、第一○巻、一六九頁︶

ここに私はこの詩を罰し、ブッダに見えんことを、我が同朋と共に浄土に生れんことを祈願し奉り

413結

アンベードカルと﹃ブッダとそのダンマ﹄

山崎元

アンベードカルと『ブッダとそのダンマロI

﹃ブッダとそのダンこは、現代インドが生んだ偉大な社会改革家、政治家、教育者として知られ

るアソベードカルが最晩年に著わした仏教入門書であり、また彼の説いた仏教を奉ずる数百万のイン

ド人が命ハイブルとして尊ぶ宗教文献である。アンベードヵルについては、近年わが国においても伝記

が出版されるようになったが、まだ知名度が低いため、まず彼の生涯を簡単に紹介しておきたい。 ビームⅡラーオⅡアンベードカルは、一八九一年四月一四日に、マハールⅡカーストに属する一家

族の第一四子として生まれた。カースト制度のもとで、インド人は生涯自分の生まれたカーストから

離れることはできない。アンベードヵルが属したマハールⅡカーストは、村の雑役を世襲職業とする

デカソ地方中部。西部の大カーストであるが、社会的ランクは低く、いわゆる不可触民カーストの一

つとされていた。すなわち、カーストⅡヒンドゥー︵一般ヒンドゥー教徒︶に稜れを与える存在とみら

4 1 5

れ、カーストⅡヒンドゥーの利用する公共施設︵井戸、宿舎など︶を利用できず、またヒンドゥー寺院

への立入りを禁じられるなど、さまざまな差別を受けてきたのである。

4 1 6

アンベードヵルは、イギリスⅡインド軍の兵士︵いわゆるセポイ︶としてかなり出世した父親に励ま

され、級友や教師からの差別に耐えつつ学業を続け、一九一二年にボンベイの名門校エルフィンスト

ーンⅡカレジを卒業した。これより先の一九○七年、一六歳のアンベードカルは、当時なお残存して
マハールⅡカーストに属していた。

いた幼児婚の慣習に従い、ラーミーという名の九歳の少女と結婚している。もちろん、彼女の両親も

一九一三年にアンベードヵルは、奨学金を得てアメリカのコロンビア大学に留学した。そして三年

後に経済学の博士論文を提出するとただちにイギリスに渡り、ロンドンで経済学と法律学の勉学に励

んだ。しかし、学資が底をついたため学業を中断し、一九一七年に帰国した。帰国後のアンベードカ

ルは、ボンベイのカレジで経済学を講義する傍ら、社会改革運動に身を投じ、機関紙の発行や不可触

民︵公的には被抑圧階級と呼ばれた︶の組織化に努めた。一方、学業継続の意志も固く、一九二○年に

再びイギリスに渡り、不眠不休の努力のすえ、ロンドン大学に経済学の博士論文を提出し、さらに弁

護士の資格を取得している。こうして、不可触民出身者としては未曽有の肩書きと実力で武装したア

ンベードヵルは、一九二三年に帰国すると直ちに、不可触民解放のための闘いを再開する。彼の運動

の拠点となったのは、一九二四年に設立した被抑圧者救済会であった。

一九二六年、アンベードヵルは、推薦されてボンベイ州議会の議員となった。その翌年の三月と一

二月に、彼は不可触民解放運動としては画期的な、マハッド市における公共貯水池利用権獲得のため

の大衆闘争を指導している。このうち第二回の闘争に際し、アンベードカルはヒンドゥー教の聖典

﹃マヌ法典﹄を、不可触民差別の元凶として大衆の面前で焼き捨てた。このニュースは全インドに報

道され、不可触民差別を慣行として受け入れていたカーストⅡヒンドゥーたちに大きな衝撃を与えた。

アンベードヵルはまた三年後の一九三○年に、ヒンドゥー教の聖地ナーシクにおいて寺院立入り権獲

得のための大衆運動を指導し、これまた全インド人の注目を集めた。 イギリスの植民地となっていたインドでは、一九二○年代の末から、統治法改正の問題をめぐって

民族運動が急激な高まりをみせた。一九三○年には、ガンディーが国民会議派を率いて非暴力不服従

運動を開始している。これに対しイギリスは、指導者の逮捕や投獄など強硬な手段をとる一方、懐柔

策として各界を代表するインド人をロンドンに集め、円卓会議を開催した。アンベードヵルは不可触

民の代表としてこの会議に参加している。前後三回にわたって開かれた円卓会議のうちでも、ガンデ

ィーが不服従運動を中断して参加した第二回の会議︵一九三一年︶が特に重要である。この会議の席

上でアンベードカルは、選挙制度をめぐってガンディーと真向から対立した。アンベードヵルが、不
417アンベードカルと『ブッダとそのダンマ』

可触民の地位向上のためには議会に彼らの特別な保留議席が必要であると訴えたのに対し、ガンディ

ーは、そのような制度はヒンドゥー教を分断しイギリスの分割統治政策を益するとして強く反対した

からである。この問題の解決は円卓会議中断後の一九三二年九月までもち越され、結局、両者の中間

をとったプーナ協定の成立を染た。しかし、不可触民解放の方法をめぐるアンベードヵルとガンディ ーの対立は、これ以後も長く続いた。ガンディーが不可触民制はヒンドゥー教そのものとは関係なく、

その廃絶はカーストⅡヒンドゥーの繊悔。改心を通じてもたらされると主張したのに対し、アンベー
自身の自覚と向上によって得られると唱えたからである。

ドカルは、不可触民制の廃絶はカースト制度とヒンドゥー教を打倒することによって、また不可触民

一九三五年にアンベードカルは公立法科大学の学長に就任したが、本書との関係でいっそう重要な

出来事は、この年の一○月に彼が発表したヒンドゥー教放棄の宣言である。アンベードヵルはそれま

で、ヒンドゥー教という枠の中で不可触民の地位を向上させようと努めてきた。寺院立入りのための

闘争はその一環である。しかし、いずれの運動もカーストⅡヒンドゥーの厚い壁に阻まれて、所期の

4 7 8

目的を達成することができなかった。ヒンドゥー教そのものが不可触民差別の根底にあるのではなか

ろうかという素朴な疑問は、しだいに確信へと変わり、ついに改宗先の宗教を決めぬままヒンドゥー

教放棄を宣言するに至ったのである。マハールⅡカーストの成員は彼らの指導者に従って放棄宣言を

したが、マ︿1ル以外の不可触民諸カーストは、この宣言に批判的であった。当時のインドでは、宗

教別の選挙制度のもとで、宗教上の勢力分布はそのまま政治上の勢力分布を意味していた。アンベー

ドヵルの宣言にカーストⅡヒンドゥーは不安を抱いたが、イスラム教徒、シク教徒、キリスト教徒は
への接近を試ゑている。

これを歓迎し、人口の約一五・ハーセントを占める不可触民を自陣に引き入れようと、アンベードカル

しかしアンベードヵルには、宗教問題にこれ以上深入りする余裕がなかった。一九三五年に制定さ

れた新インド統治法のもとで、総選挙が迫っていたからである。彼は一九三六年に独立労働党を組織
では、ボンベイ州において自己の当選を含む一応の勝利を得た。

し、不可触民︵指定カーストという公称に変わった︶の保留議席を国民会議派と争い、翌年の州議会選挙

選挙の二年後に第二次世界大戦が勃発し、イギリスの参戦と同時にインドも戦争に巻き込まれるこ

とになった。国民会議派はこの機をとらえ、イギリスに独立の付与を強く迫ったが、官憲による大弾

圧を受け、党は非合法化され指導者の多くが投獄された。この大戦期にアンベードカルは、中央︵ニ

ューデリー︶の政界で活躍することになる。すなわち、一九四一年に総督を補佐する国防諮問委員会

の委員となり、翌年には中央政府の労働大臣に就任した。また同じ一九四二年には、彼の指導のもと

に不可触民の全国的政党﹁全インド指定カースト連合﹂が結成されている。

大戦後の一九四六年の選挙で、指定カースト連合は国民会議派の前に大敗したが、アンベードカル

はベンガル州議会から選ばれ制憲議会の議員となった。やがて独立するインドの最高機関として憲法

制定にあたる議会である。

一九四七年八月一五日、政治的混乱の中でインド連邦と.ハキスタソ自治領が誕生した。翌年の一月

には、分離独立に反対しイスラム教徒との協調を唱えていたガンディーが、過激派のヒンドゥー教徒

に暗殺されている。独立した両国のうち、インドでは、国民会議派を主体とする内閣が組織された。

アンベードカルは、この国家の緊急時にあたりネルー首相に招かれ法務大臣として入閣し、また制憲

議会において憲法起草委員会の委員長に選出された。アンベードヵルを中心に起草された憲法は、一

九四九年一一月に議会で採択され、翌年一月二六日に施行された。インド共和国の誕生である。この

憲法の第一七条には、不可触民制の廃止が調われている。その後もアンベードヵルは、国民会議派と
4J9アンベードヵルと『ブッダとそのダンマ、

一定の距離を置きつつ、閣僚として独立インドの基礎固めに努めた。しかし、一九五一年にヒンドゥ

ー家族法の民主化案が保守派の反対で廃案になると、これに抗議して法相を辞任した。これ以後は、

野党の指定カースト連合を率い、国民会議派と対決することになる︵一九五一一年からは上院議員︶。

アソベードカルは一九一一一五年にヒンドゥー教放棄を宣言したが、その直後から政治の激流に巻き込

まれ、宗教問題に専念する余裕をもてなかった。しかしこの間に仏教への関心を徐々に深めたようで

あり、一九四六年には自ら奔走して設立した大学にシッダールタⅡカレジ︵シッダールタはブッダの本

名︶という名を与えている。また一九五○年にセイロンのキャンディで開かれた世界仏教徒大会に出

席し、翌年オーラソガー善ハードに設立した大学をミリンダⅡカレジ︵ミリンダは仏教を信奉したギリシ

ア人の王︶と名づけている。一九五六年、ブッダ生誕二五○○年祭が、南方仏教を奉ずる諸国で祝わ

れた。この年、アソベードカルは、一一○年来の懸案を一挙に解決する決意を固め、一○月一四日にデ

カソ中部の大都市ナーグ・プールにおいて仏教への改宗儀式を挙行した。式場に集まった三○万人とも

五○万人ともいわれる大衆里としてマハールⅢカーストの成員︶も、アンベードヵルに従って仏教帰依

420

を誓った。当時インド共和国に住む仏教徒の数は二○万人弱であった。この一日だけで、この国の仏

教徒数は約三倍の増加をみたことになる。アンベードカルは、まず自分のカーストの成員を仏教に改

宗させ、つづいてその他の不可触民カーストの成員を、さらにカーストⅡヒンドゥー全体を改宗させ
であった。

るという遠大な計画を立てていたが、その活動に着手した直後の一二月六日に急逝した。享年六五歳

アンベードヵルの死後も、仏教徒の数はマハールⅡカーストの居住するマハーラーシュトラ州を中

心に増加し、一九七一年の統計では三八一万人︵総人口の○・七・︿−セント、州人口の六・五。ハーセント︶

に上っている。しかしカーストの壁は厚く、一部の地方を除き、マハールⅡカースト以外からの改宗

者の数はまだ限られている。またアンベードカル亡きあと仏教徒の組織は統一を欠き、アンベードカ

ルを菩薩として崇拝することによって団結を維持しているのが現状である。インドにおける仏教の再
高まりつつある。

興はこのようにやや足踏承の状態にあるが、社会改革者としてのアンベードカルの評価は近年さらに

アンベードヵルはすでに一六歳のときマラーティー語で書かれたブッダの伝記を読んでいるが、仏

教に特別の関心をもつことはなかったようである。ヒンドゥー教を棄てる決心をした一九三五年前後

から、彼の発言の中にブッダが﹁ヒンドゥー教の聖典の権威とカースト制度に反対した偉人﹂として

しばしば登場するようになる。しかし、仏教への改宗の決意を固めるまでには至っていない。第二次

世界大戦からインドの独立に至る激動期にも、アンベードカルはしばしばブッダや仏教について語っ

ており、その内容から、彼が仏教理解を深めつつあったことがわかる。法務大臣在任中の一九五○年

モラリテ”イ

五月に行なった仏誕祭記念講演の中で、アンベー︲ドヵルは、ブッダの教えが人間の道徳性に基礎を置

き平等の原則に立つものであることを高く評価し、また同じ月に発表した﹁ブッダと彼の宗教の将

来﹂と題する論説の中で、仏教がやがて下層大衆の間に広まり、インドにおける仏教の復活が見られ

るであろうことを予言している。法相辞任以後、アンベードカルの仏教への傾斜はさらに強まった。

仏教入門書の必要を痛感し自らその著述に着手したのは、このころらしい。その後、一九五四年の世

界仏教徒大会︵ラングーン︶における演説で仏教復興に立ち上がる決意を披漉し、翌年、仏教布教の

中心組織となるべきインド仏教徒協会を設立している。一九五六年一○月、ナーグプールで歴史的な

集団改宗を挙行したあと、アンベードヵルはネ。ハールのカトマンドゥで開かれた世界仏教徒大会に出
421アンベードカルと『ブッダとそのダンマ』

席し、帰国後の一二月六日の未明、ニューデリーの自宅で﹃ブッダとそのダンマ﹄の最終稿に目を通
しつつ世を去った。

アンベードヵルの改宗は、直接には不可触民の地位向上を目的としている。すなわち彼は、仏教が

自由・平等・友愛に基づく宗教であり、不可触民差別を産承出したヒンドゥー教やカースト制度と闘

ってきた宗教であることを強調する。仏教への改宗は不可触民に自尊心と向上心を、そして不可触民

解放を自らの手で勝ち取る力を与えると承たのである。同時にアンベードカルは、インド民族全体の

改宗を最終目標として掲げている。ヒンドゥー教は迷信と不合理に満ちており、現代科学からの批判

の前に風前の灯の状態にある。インドの国家と宗教を救うことのできるのは、それらの批判に耐え得

る合理性をもった仏教以外にはない、というのが彼の主張である。また仏教が世界宗教であり、仏教

への改宗によって国際的な連帯が得られることも、彼の演説の中でしばしば強調されている。

﹃ブッダとそのダンマ﹄が書かれるまでの経緯は以上のようなものである。アンベードカルがイン

ドに再生する〃新しい仏教″の入門書として著わしたこの作品は、死の翌年の一九五七年にボンベイ

422

で刊行された。オリジナルは英語で書かれたが、その後、ヒンディー語訳やマラーティー語訳なども

出されている。英語版で全四三○ページという大著は、八部から成り、最初の二部と第七部でブッダ

の生涯︵第八部は人物評︶を語り、中間の四部でブッダの教えを語るという構成になっている。アンベ

ードヵルが主として依拠したのは。︿−リ語の仏典︵その英訳︶である。著述の方法としては、老大な

仏典を渉猟し、重要と思われる文章を拾い出し、それを分類。整理したあと解説を付する、という手

順が踏まれている。本書の特色の一つはこの解説部分にあり、ここでアンベードヵルは、仏典の記事

に独自の解釈を与えつつ〃真の仏教″の内容を明らかにしようと試承ている。公私にわたり極めて多

忙な日々を送っていたアンベードヵルは、どのようにして仏教研究と本書執筆のための時間を得てい

たのであろうか。おそらく病躯に鞭打ち睡眠時間を切り詰めての努力が続けられたものと思われる。

アソベードヵルは、仏教研究者による煩雑な教理研究にはほとんど関心を払っていない。ときには 、、、、、、、、、、、、、、、、 真の仏教はいかなるものでなければならないかという立場から、仏典の語ると津﹂ろを離れた自由な解

釈を加えている。そうした自由な解釈の例としては、まず冒頭のブッダの出家をめぐる話を挙げるこ

とができよう。周知のように、仏典ではシッダールタの出家の直接の動機を四門出遊︵外出の折に四

つの市門で老人、病人、死者、修行者に出会ったこと︶という形で象徴的に説明している。アンベードカ

ルは、出家の決意という重大事をこうした非現実的な話で説明するわけにはいかないと考え、コーリ

ャ国との開戦をめぐるシャカ族の内紛という話を創作した。シッダールタの出家を政治的事情から半

ば強いられたものとするアンベードカルの〃文学的″説明にとまどいを感ずる読者も多いと思われる

が、政治の荒波にもまれ続けたアンベードカルならではの発想として受け止めるべきであろう。

アンベードカルは、仏教が神と霊魂の存在を否定する宗教であることを強調する。これら両者の存

在を認めることは宿命論を認めることであり、それは人間社会の不平等を肯定し、社会改革への意欲

を喪失させる。ブッダは合理性を尊び、全能の神や霊魂の輪廻転生のような不合理を否定し、自分を

神格化することなく、一人間として教えを説いたというのである。アンベードヵルのこうした合理性

重視の立場は、﹁再生﹂﹁業﹂﹁果報﹂などの解釈にも承られる。すなわち、ブッダの説く﹁再生﹂は

元素の離合集散という物質的。科学的なものであったと説明され、また﹁業﹂とその﹁果報﹂は、霊
伝学との関係において説明されている。

魂や前世・来世に関係するものとしてではなく、現実世界における行為とその結果として、さらに遺

アンベ︲ドカルによれば仏教の本質︵ダンマ︶砿、人と人との間の正しい関係の確立l慈悲の

心を基礎とする道徳の確立Iにあるという.仏教で健他の宗教において神が占塗る位置麓道徳性
ドカルと『ブッダとそのダンマ』

︵ダン己が占めていると説くのである。彼は仏教で最高の境地とされる﹁浬渠︵ニルヴァーナ︶﹂を、
態﹂の意味にとらえている。

正しい知識をもち、妄執に起因する﹁苦﹂を克服し、ダンマを実践する人に具わる﹁静寂な心理状

アンベ︲ドカルによれば、ブッ獄雌階級対立や貧悶などの社会問題を重視し、その解決l平等社

会の実現lを目指したという.仏教はあくまでも実践重視の宗教であり、ブッ澱はその実践の方法
サソガ

を八正道、四諦、五戒などの形で具体的に示したと承るのである。アソベードヵルのこうした仏教理

解は、ビクと教団に一一一一口及した部分に明確に示されている。ブッダは地上に正義の王国を建設する目的

をもってサンガを組織した。サンガこそ理想社会のモデルであり、ビクば理想社会建設の先達l社

423アンペ

会奉仕着lと旗ら海ぱならぬ、というのが彼の強く主張するところである。

以上のように刺激的な内容をもつ本書は、当然のことながら既成の仏教教団から厳しい評価を受け

ることになる。南方仏教徒の一雑誌はアンペードヵルが独断的に﹁ダンマに非ざるものをダンマと説

いた﹂と記し、本書は﹃アンベードカルと彼のダンマ﹄と名づけられるべきものだと評した。また彼

4 2 4

の仏教をアンベー︲ドヵルⅡヤーナ︵大乗・小乗をもじったもの︶と皮肉を込めて呼ぶ者も出た。確か

マハIヤーナヒーナヤーナ

に本書でアンベードヵルは、ブッダの言葉に託して自己の思想を伝えようとしている。しかし、仏教

はブッダの死後、時代の要求を取り入れつつ変化。発展してきている。西暦紀元の前後に生まれた大

乗仏教はそうした変容の結果であり、その大乗仏教も伝播した各地でさまざまに変形し、今日に伝え

られている。わが国の仏教諸派の奉ずる仏法の多様性も、そうした展開の結果である。そして、いず

れの地のいずれの宗派も、自派の教理をブッダの根本精神を伝えるものと主張している。アンベード

ヵルは、現存する仏典のなかでも最古の形を伝える.ハーリ語の経典を渉猟し、自らがブッダの真の言

葉と信ずるものを拾い上げ、自らが真の仏教と信ずるものを提示した。彼は仏教の本質を鋭く捉え、

現代における仏教の使命を明らかにしている。アンベードヵルが本書で説く仏教は、時代と社会の求 めに応じて生まれた〃仏教の新しい展開″と承るべきものであろう。

本書の訳業にあたられた山際素男氏は、ジャーナリストであり、御本人によれば、数年前までは仏

教に余り関心はなかったそうである。しかしアンベードヵル伝の翻訳や、インドの仏教徒との交際を

通じて仏教への関心を深め、本書の和訳を敢行された。仏教学者ではない山際氏にとって、この仕事

は難行苦行の連続であったと思われるが、原稿を一読させていただいたところ、氏はこの困難な作業

を見事にやってのけておられる。アンベードカル自身仏教学者ではなく、本書の一部には不正確。不

統一の点も見出され為が、本書の価値輝、仏典に依拠して腿開されるアンベ︲ドヵルの仏教理解l

人間フシ獄と普遍的ダンマの擁示lにある.こうした内容をもった仏教入門書の翻訳に際してわれ

われが期待するのは、著書の精神を正確かつ平易な表現で伝える技術である。ジャーナリストとして、

また翻訳者として経験の豊かな山際氏は、われわれのこうした期待に十分応えてくれている。

アンベードカルの伝記

山崎元一﹃インド社会と新仏教lアンベードヵルの人と思想﹄刀水書房、一九七九年.

ダナンジャイ。キール箸/山際素男訳﹃不可触民の父・アンベードカルの生涯﹄一一二書房、一九八三年。

アナント。。ハイ編/村越末男訳﹃アンベードカル物語﹄解放出版社、一九八五年。

425アソベードカルと『ブッダとそのダンマ』

訳者ノート

バラナシから北東に約三○○キロ、ネパールと目と鼻と所に、カピラヴァストゥ城の遺跡がある。

遺跡のある所は、ピプラーワー村と呼ばれている。発掘された遣跡は、ブッダの父スッドーダナ王が、

ブッダのために建てたといわれる三つの宮殿の内二つと、少し離れたスッー。︿と僧院群だ。

スッー・︿からは、アショカ王の記銘がある遺物や宝石類と真舎利、更にその下から、ブッダの舎利

︵遺骨︶が発見されている。アショカ王はその舎利の一部を取り出し上部に移したわけだ。その一部

は日本では八王子の高尾山と名古屋の日泰寺に保存されている。もともとの真舎利は現在、デリー博

物館に陳列されている。ネパール側にも力ピラヴァストゥ遺跡があるが、直接的証拠となる品物は一
ることは間違いないようである。

つも発見されていない。地形、場所が三蔵法師の記録とも合致しており、ここがかつての宮殿跡であ

訳者ノ

私は、ナーグプールの佐為井秀嶺師と、師の弟子ムラット。シソグ氏と三人でバラナシから車で訪

れたのだが、現地で案内に立ってくれたのは、・ハスティ県のディスッリクト。マジストレイト︵県の

4 2 7

行政長官。日本では県知事に相当する地位だろう︶と、遺跡のある郡の郡長さん達だった。宮殿といって

も、小国の王子の別邸だからこじんまりしたもので、メインの建物はせいぜい二○メートル四方ぐら

いのものだ。そこはハーレムと覚しく、四囲は小部屋で取り巻かれており、正面中央にだけ煉瓦造り のl建て物すべて侭煉瓦造りだがI腰掛けがあった.郡長縦考古学者で亀あり、ここに若き日の

428

ブッダが美姫に博かれて座っていたに違いないといった。県知事と郡長と三人でその部屋で写真を撮

ってもらった。ブッダの座ったところに一緒に座りましょうというと、いや、もったいないと座ろう

としない。後で知ったのだが、県知事も郡長も指定カースト︵不可触民︶出身だった。後刻訪れた県

知事の家の応接間には、正面壁にアンベードカル博士の立派な銀製の肖像と、向い側にはブッダの像
れた。

が掛かっていた。そして県知事、郡長とも熱心なアンベードカルの信奉者であることを自ら語ってく

遺跡の周囲は平らな畑地で、宮殿跡だけがやや高くなっている。深閑とした広為とした土地を指さ

し、この辺一帯︵九平方キロメートル︶を仏跡として保存する計画があることを、詳細な地図さえ出し

て説明してくれた。地図には、一九八五年’二○○一年とあった。二一世紀にかけての計画である.

サルナート、サンチーなど極く僅かの仏跡を除いて重要な仏跡はほとんど放置されるか、未発掘のも

のが多い。ここも放っておいたら荒廃に任される。仏教も仏教徒もこの国では今でも異端であり、ア

ゥトヵーストなのだ。だからわれわれの手で守らなければならない、と県知事は真剣だった。サンチ
ているのを感じずにはおれなかった。

ーの丘の静けさを想わせる、静説そのものの遺跡の周りにも、大きな時代の波がひたひたと押し寄せ

ところで、外国人であるわれわれ’といっても佐蕊井師に対する敬意なのだがlのために、県

知事自らその日の仕事を放ったらかして案内役をかつてくれたのは、ムラット。シングという人物の

お陰である。彼はかつて名の知れたダコイット︵群盗︶の首領であり、改心してから熱心なアンベー

ドヵルの信奉者となり、佐々井師の忠実無比な弟子として仕えている。

彼はこれまでに佐為井師たちと共にウシタルプラデシュ州を中心に何千人という指定カースト、低

カースト民を仏教徒に改宗させてきており、小さいながらも小学校を三つも建てている。﹁俺承たい
旅の途中その学校を指さして苦笑いした。

なダコイットあがりが、学校を作らなければならない。でもそれがインドの本当の姿なんだよ﹂彼は

ムラット・シングはまた、サルナートの近くに広大な土地を求め、そこを彼らの仏教興隆の活動の

中心地にするのだともいった。サルナートの遺跡を歩いていて驚いたのは、遺跡の係員や周囲の住民

のほとんどと泥懇で、一寸立止まると誰かしら寄ってきて彼を取り巻く。彼の前身は全ての人が知っ

ており、そして親愛の念と敬意をもってすら接しているのが、側にいて自然に感じられる。彼は前述

のバスティ県知事をはじめ、たくさんの政府の高官たちの信頼と支持を受けて、活動資金も各方面か

ら集まっているという。拙著﹃インド大地の歌声﹄に紹介したプーラソ。デビィという名高い女ダ

コイットは彼の生地の隣村だ。もし無事でてきたらビクニにしよう、と今から楽し承にしていた。

佐々井師は、十二月六日のアンベードカル没後三○周年式典をほとんど一人で指揮し、何十万とい

う仏教徒その他の民衆を式典に参加させた。その日の報道記事は、どの新聞も師の写真が中心であっ トさだった。
429訳者ノ

た。式典の数日前は準備のために陣頭指揮に立ち、早朝から夜遅くまで食事を摂る閑もない程の忙し

また、十二月七日、ラクノーというウシタルプラデシュ州の州都で開かれたカンシ。ラム氏︵拙著

﹃不可触民の道﹄参照︶の率いる新政党バフジャン。サマジ党のウシタルプラデシュ州の集会には、数

万の活動家、支持者たちが州の各地から二○○台のバスを連ねて参集し、盛大なアジテーションを展

開していた。ここにも新しい時代の波が大きく脈打っているのを強く感じた。

4 3 0

今、インドは明らかに下勉上の時代に入っている。はっきりとそう明言してもよいと私は思う。そ

れば地面がもくもく動きはじ塗たような、指定ヵ︲スト、低ヵ︲スト民の不穏なlと︽イカ︲〆ト

階層に砿感じられるl大地の揺らぎの如き前兆ばかりでなく、︽ンジャブ州のシ︲少教徒の反逆

北東部の辺境州、ミゾラム、アッサムその他マイノリティコミュニティの執勘な中央政府、ヒンズー

支配層に対する反逆には、単なる政治的取引き上の内争とはいい切れないものが感じられる。

ヒンズー支配階層、国民会議派政府、その側に立つさまざまのマスメディア、学者、文化人といっ

た知識階級は極力その動きを過小評価しようとしている。外国人に対しては特にそうである。インド

の統一という錦の御旗を、国民会議派支配と同一化しようとしてきたインデラ。ガンジーたちの政策
いう形で現われたにすぎない。

は明らかに行きづまり、破たんを来たしている。その最も特徴的現象がインデラ。ガンジーの暗殺と
ムラット。シング氏は面白いことをいった。

﹁おれたち指定ヵ︲スト民はもうとっくに三○ベーセントを越してるよ.どんどん子供を作ってl

息子一人じゃいつ殺されるかわからないからさlいるの健おれわれなんだ.︽イカ︲スト。ヒンズ

ーは一人か二人しか作っていないのに、この何十年の間におれたちは五人、六人も作りつづけている

んだから。でも回教徒の方がもっと人口が増えている。増加率のトップが回教徒で、次が指定カース

トだ。この二つのコミュニティだけで、全人口の五○パーセントになっているよ﹂

真偽の程はともかく、人口の五・ハーセントに満たないブラーミン階層、二、三・ハーセントのクシャ
は当然であろう。

トリャ階層が強大な政治権力を握りながら、その故にこそ、時代の危機感を深刻に感じとっているの

更に他の諸点の少数コミーーティは劣悪な経済環境、劣等な社会的地位を挽回するために努力に努力

を重ねている。多数派の上に、インドはヒンズー文化の国だという大平楽な夢の上に、またこれら少

数コミュニティの犠牲の上にあぐらをかきつづけてきたハイカースト。ヒンズーコミュニティは、新

たな危機を迎えつつある。佐倉井師が国籍取得を申請し、大統領︵シーク教徒︶まで出席してそれを

祝ってやろうといってくれたのに、土壇場でひっくり返されたのも、ナーグプール市を中心とするイ
ン勢力が恐れたからに他ならない。 ってきたのは決して偶然ではあるまい。

ンド仏教徒数十万を意の如く動かす力を有する佐壷井師の存在を、マハーラーシュトラ州のブラーミ

新たな激動期を迎えたlいやすでに入っているこの国で、アンベ︲ドカルの存在が大きく浮び上

私はアソベードヵルは新しいタイプの極めて現代的タイプの人間ではないかと思う。つまりマルチ

型の現代タイプなのだ。政治、経済、社会、法律、教育、宗教と、驚くべき多才をもってその全ての

分野に、一人の人間が一生かけてもやれないようなことをやってのけたケタ外れの天才であるのは事

実だが、それ故、各分野の専門家からは総じて軽視されている風がある。従来の専門家は、自分の分

野以外のことに手を出す人間は大概軽蔑するものだからである。周りが圧倒的無知蒙味の大衆社会で

あった時代において、ひたすら学問、知識の殿堂に立てこもり、﹁専門家﹂として認められ、自他共
た真の﹁学問﹂の道から外れていると感じられたに違いない。

にそれに満足する時代に培われてきた﹁知識﹂人の世界は、アンベードヵルにとって余りに狭く、ま

431訳者ノ

一つの﹁専門家の領域意識﹂の閉ざされた小さな世界からでは、現代はもはや捉え切れない。

アンベードカルはそのことを時代に先駆けて実践し、実証しようとした人ではないだろうか。その

ことは、彼があくまでも科学的合理性を重んじ、それに耐えうる唯一の宗教として〃ブッダ〃の〃仏

教″を選んだことに、何よりもよく彼の特性が表われているように思う。彼は時代の最も秀れた科学

的世界の、そしてその世界から最も大切なことを学んだ科学者の〃眼″をもってインドを、宗教を見 詰め、ブッダその人を見出した.そして、生得的にlインド人は皆そうなのだ!l宗教的な風土

4 3 2

と家庭の中で育てられ、強烈な宗教的直感力と感受性lがンジ︲に優湯とも劣らぬlの持主の隈 から、科学的合理〃主義″の弱点も見詰め、見抜いた人物なのではないか。その点においてまさに彼
はガンジーより一歩も二歩も先んじているのだ。

彼のような特大級の存課をl神の如く崇塗て臓愚属の引き倒しだが’一つの狭騰な﹃専門家﹂

lそれが社会学、経済学、宗教となんであれI意識の世界から眺めたのでば、彼への批判の矢憾 中途でポトリと落ちてしまうだろう。人は時代と共に生き、時代によって育てられる。彼がどのよう

な時代に生き、その時代とどのように闘い、人為を励まし、明りを点し、今日更にその明りが輝きつ

つあるかは、インドの最も虐げられた民衆が必ず証するだろう。インドのこの大地に〃ブッダ〃は地

の底からむくむくと起き上り、アンベードカルはその姿を人々に差し示した、その瞬間死んでしまっ

た。しかしこのような仕事をやってのけた人物が宗教的でないというなら、宗教家、宗教的人間とは

一体どのような人間なのだろう。その時代に最も必要とされるものをその時代の時代精神を最も先端

的表現形態において表出するという稀有のことをやってのける人間はざらにいるものではない。そし
は、常に・ハリサイ人であり〃専門知識人″の群である。

て間違いなく大抵は誤解され、無理解の塵の山に埋められてしまうものだ。そしてその先頭に立つの

仏教を学びはじめてから未だ日の浅い私のような人間が、このような本を訳すのは、もともと借越

至極旗のだが、秀れた良き”専門家側lインド古代史lである国学院大学の山崎元一教授ジャ

イナ教と原始仏教の卓越した研究者として貴重な存在である渡辺研二氏の懇切な御教示と御協力のお

陰でなんとか形にすることができた。御両人に改めて厚くお礼を申し上げたい。また年若き畏友中沢
新一氏にも登場願えて幸いである。

終始小生の仕事を励まして下さっている三一書房編集部の増田政巳氏には今回も御苦労をおかけし
げる。

た。 墨 た 。 心から感謝の念を表したい。また今回も装丁を手掛けて戴いた渡辺千尋氏にも厚くお礼を申し上

本書は原典の完訳であるが、あまりにも煩墳と思われる地名。人名を省略したところもあることを
お断りしておきたい。

本書の原典は、︽自函両国ロロロ国少少zロ国嗣口国罷冒冒援与国”・少冨園両ロ嗣跨”︾︾初版一九五

七年、二版一九七四年。弓両○屯伊匂の両ロdo隆昌○zの○○局目居︾少z少z口画国少ぐ少zp缶口匪国国崖

z○弓”○冒屈g︾国○]富国跨叫合g圏から出版されている。本書の翻訳、出版を快諾して下さった

〃人民教育協会″並びにSoS・ポーレ委員長に心よりお礼を申し上げる。

九八六年十二月

雨のバラナシにて

山際素男

433訳者ノ

〔 訳 者 紹 介 〕
や叢ぎわもとお

山際素男
1929年三重県に生れる。 法政大学国文科卒。インド国立パトナ大学, ビスババラティ大学留学。 現在作家 著書『不可触民−もうひとつのインド』 『不可触民の道一インド民衆のなかへ』 『インド大地の歌声』 『脳承そカレー味』(以上いずれも,三一書房刊) 訳書『不可触民の父アンベードカルの生涯』
『不可触民パクハの一日』

『消掃夫の息子』(以上いずれも,三一番房刊)
現住所東京都新宿区中落合吟12-14

ブッダとそのダンマ

定価2,800円

1987年3月15日第1版第1刷発行PrintedinJapan

訳 者 山 際 素 男
◎ 1 9 8 7 年

発 行 者 荒 木 和 夫
印刷所文栄印刷株式会社

製本所東京美術紙工

発行所株式会社三一書房
東京都文京区本郷2−11−3 電話03(812)3131∼5:番 振替東京9−84160番
郵便番号113

落丁・乱丁本はおとりかえいたします
0 0 1 5 8 7 2 0 0 6 2 7 2 6

魚心

空濡11密教への道

中島尚志/顕教に満されなかった空海の求道は 密教に至った。大師は何を見たのか1800円

臼蓮論行動者の思想

中島尚志/日蓮は何に生涯を賭けたか。この実 践的求道者の宗教的境地の推移。1800円

親驚悪人の浄土
親禦と浄土

中島尚志/しなやかな論理、逆説的なことば。

悪人表現にみる親輔の長い道程。1800円

星野元豊/浄土とはいかなる世界か。親繍は浄 土をどう信じ解したか。碩学の論集1300円

仏教とキリスト教
イエスという男唾霊錨恋抗者

八木誠一・阿部正雄編/秋月龍眠・本田正昭が 加わり、その対立点などを共同討議2300円

田川建三/織密な資料批判の上に歴史的人間と して捉え、現代人の︿実践﹀を問う2000円

聖書のイエスと現代の人間 宗教を問う

滝沢克己/聖書の﹁神の福音﹂は幻聴か。それと

も現代の人間にとって現実なのかや1500円

滝沢克己/仏教とキリスト教との根底をバルト 神学・西田哲学を媒介に追求する。1800円

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