公開日:2022年1月23日

これが白井晟一建築の決定版。渋谷区立松濤美術館「白井晟一 入門」レポート

美術史学的なアプローチで、白井晟一の再解釈を試みた意欲的な展示

渋谷区立松濤美術館 写真:楠瀬友将

開館40周年を記念して、建築家・白井晟一の回顧展が渋谷区立松濤美術館で開催されている。本展示の日本語のタイトルは控えめに「白井晟一 入門」とされているが、英語のタイトルは「This is Shirai Seiichi」。美術史学的なアプローチで、白井晟一の再解釈を試みた意欲的な展示だ。

現在開催中の後期展示「Back to 1981 建物公開」(2022年1月4日〜1月30日)は、白井自身が「私の全力をだし切ったはじめての作品」(*1)という会心作の、「松濤美術館」を丸ごと見せる企画。前期展示「白井晟一クロニクル」(2021年10月23日〜12月12日)は白井晟一の人生と全国に残る現存作品を中心に紹介。学芸員の眼を通して、白井建築の断片が披露された。

本展のため担当学芸員の平泉千枝と木原天彦は、ポーラ美術振興財団から研究助成を得て、秋田から長崎まで全国の白井建築を可能な限り行脚(*2)。また、建築図面に描かれる「線」に着目し、「線」の書き手の違いから、白井建築を実現させた立役者、広瀬鎌二(1922-2011)や大村健策(生没年不明)に光を当てた。さらに白井の義理の兄である画家の近藤浩一路(1884〜1962)との関係性もこれまで以上に踏み込んだ(*3) 。

渋谷区立松濤美術館外観 写真:楠瀬友将

じつは、東京都初の区立美術館として構想された松濤美術館(*4)。興味深いことに、都内屈指の歴史ある美術館ながら、開館時、美術品の収集を行わないという方針を持った。美術館は地下2階、地上2階、塔屋1階の鉄筋コンクリート造の4層を楕円柱の中庭がくり抜く構成で、展示室は地下1階と地上2階の2室のみ。地下2階はまるまる教育普及や市民活動の場として設計された。

本展では、通常立ち入り禁止しているエリア、ブリッジや茶室などを含め全館を一般公開している。なかでも、地下1階の展示室空間は白眉。展覧会予算の約4分の1をかけて、展示空間に漏れる中庭からの自然光を遮るためのパネルが40年ぶりに撤去された(*5)。これにより、40年ぶりに設計者によって意図された空間が露わになった。

こうした経緯から、本記事では展覧会レビューとして「渋谷区立松濤美術館」(1978〜80)を観察してみようと思う。

渋谷区立松濤美術館の正面外観 写真:楠瀬友将

渋谷駅から徒歩10分、日本有数の高級住宅街・松濤に建つ美術館。敷地面積は1,034㎡で、もと元は渋谷区の土木事務所の跡地。手前の小屋は「インフォメーション」として設計されたが、居住性や動線の問題で一度も使用されたことがない(*7)。

正面外観の正面は湾曲し、手前に広場を持つ。屋根は、神社・仏閣などでも見られる銅板葺き。外壁の仕上げは白井が「紅雲石(こううんせき)」と命名した韓国産の花崗岩を使用。割肌野積層で、層によって石の幅が異なり、水平ラインが際立つ。ブロンズ製のグリルや化粧垂木が施されたエントランスは、全体面積のわりに小さい。住宅密集地にという制約から高さや開口に制約があったとはいえ、デザインによって一段と頑なに外に対して閉じているように感じる。

渋谷区立松濤美術館の正面入口にある蛇口 写真:楠瀬友将

正面入口、「PVRO DE FONTE(滑らかな泉)」とラテン語で刻まれたブロンズの蛇口。白井が設計を手がけた前橋の本屋「煥乎堂(かんこどう)」(1953〜54)にも用いられた。本展会期中の金・土・日曜日だけ、水を流している。

1階エントランス 写真:楠瀬友将

1階、エントランス。オニキスの光天井で、天高は2.6m。アーチの先にブリッジと回廊が見え、明快な軸線が正面のエントランスから背面のスリット(第一展示室の窓)まで、全体を貫いている。

エントランスと展示室ギャラリーをつなぐブリッジ 写真:楠瀬友将

エントランスと展示室ギャラリーをつなぐブリッジ。通常、ブリッジは封鎖されている。

地下1階第一展示室(主陳列室)と1階回廊 写真:楠瀬友将

地下1階第一展示室(主陳列室)と1階回廊。噴水側の窓を覆う地下1階のパネルが撤去され、中庭から展示室に自然光が注がれる。噴水が描く放物線が、回廊の底と展示室の天井に映り込む。何もないはずの吹き抜けが中心となって、何かあるべきはずの展示室が背景となる瞬間。虚と実が反転するような錯覚を覚えた。

第一展示室 写真:楠瀬友将

第一展示室。展示室の天井高は6.4mで、面積は203㎡。1階玄関ホールと同様に、床はゴムタイル貼り。バルセロナチェアも白井によるセレクト。

第一展示室の窓 写真:楠瀬友将

第一展示室の窓。エントランスとブリッジの軸線上に配置。楕円の壁面は展示に不向きなため、通常は仮設の展示パネルが設置されている。

回廊から第一展示室を見下ろす 写真:楠瀬友将

回廊から第一展示室を見下ろす。美術館としての主機能は展示室でありながらも、機能を持たない楕円形の池が空間構成の核心にあると言えるだろう。

回廊の金網に付けられたエンブレム 写真:楠瀬友将

回廊の金網に付けられたエンブレム。白井が買い求めたアンティーク家具の装飾をイメージソースとしており、楽器がモチーフ。長崎・佐世保にある「懐霄館(かいしょうかん)」(親和銀行本店第三期電算事務センター、1973〜75)で用いられたものと同じ。

階段室 写真:楠瀬友将

階段室を見る。刷毛引きの左官仕上げ。

地下2階エレベーターホール 写真:楠瀬友将

地下2階エレベーターホールから吹き抜けの噴水と池を見る。

地下2階からブリッジを見上げる 写真:楠瀬友将

地下2階からブリッジを見上げる。14本の柱が楕円形の吹き抜けを巡る。アルミ押出材合成樹脂塗装はフルーティングが施され、垂直性が強調される。

地下2階廊下 写真:楠瀬友将

地下2階廊下、柱近景。中庭の自然光がフルーティングに陰影を施し、彫塑的な印象を与える。

茶室 写真:楠瀬友将

茶室。入口正面に水屋があり炉は切ってあるが、客人の入口は見受けられない。全集では「職員休憩室」と呼ばれている。実際、美術館では控え室として使用し、茶室として使用したことがない。白井も度々ここで休憩を取ったそうだ(*6)。床の間には白井の書《危座》が展示されている。

2階エレベーターホール 写真:楠瀬友将

2階エレベーターホール。開口付近にはなぜか、鏡が配されている。「美の館」である美術館で自分の身なり、立ち振る舞いも意識せよ、という勧告か。

館長室 撮影:上野則宏
館長室のドアの詳細 写真:楠瀬友将

扉の詳細。ドアノブも白井の収集品。ブラジリアン・ローズウッドの左右対称な木目。

渋谷区立松濤美術館の2階特別展示室 写真:楠瀬友将

2階特別展示室から展示室(サロンミューゼ)を見る。天井高2.8m、30㎡。特別展示室の壁面は館長室と同じ、ヴェネチアンベルベット貼り。白井の書が展示中。 

2階展示室(サロンミューゼ) 写真:楠瀬友将

2階展示室(サロンミューゼ)。148㎡。壁はヴェネチアンベルベット貼りで、壁の一部と天井の廻り縁はブラジリアン・ローズウッドを使用。黒いソファーとガラステーブルのセットは、長崎・佐世保、親和銀行の「懐霄館(かいしょうかん)」10階のホールでも使用された。

 この2階展示室は、竣工当時、「お茶を飲みながら、美術品と建物がつくり出す芸術的空間を体験することを目的」(*8)としていた。クロックムッシュが人気メニューだったそうで、2009年までカフェとして営業されていた(*9)。その名残は、展示室の入口脇のカウンター窓に残っているが、こうして改めて見ると、キッチン、インフォメーション、ブリッジ、回廊、茶室など使用されていない部分が目立つ。

 現代では一般的に、美術館では水や飲食、自然光はご法度。白井の生きた時代は機能と形態を結びつけるモダニズムが流行していたし、白井の書いたエッセイ「豆腐」や「めし」では明らかに「用」が主題である(*10)。しかし、この建築を見る限り、楕円形の池が全体の空間構成を決めており、機能が優先されて形態が決定しているようには思われない。白井はむしろ、今日の建築家のように、ビルディングタイプを超えようとしていたようにも思えないか。白井の言う「用」はいわゆる機能や用途とは別の意味も持ち、世阿弥が能楽論集の『至花道』のなかで語る「体は花、用は匂ひのごとし」と言うときの「用(ゆう)」を前提として考えた方が良いかもしれない(*11)。

白井がタイポロジーの掟を破ったのは、美術館だけでなく、住宅、オフィスでも同様だ(*12)。オフィス兼自邸「滴々居(てきてききょ)」(1951〜)には手洗場がなく、おまるで用をたし、排泄物を自ら外へ運び出す必要があったし、親和銀行のデータセンター兼オフィス「懐霄館(かいしょうかん)」(1973〜75)では、10階の室内に噴水を、11階に佐世保湾を臨む展望室を設ける異端ぶりだ。

こうして、美術館の細部に目をやると、白井の数々の作品との共通点も浮かび上がる。松濤美術館とほぼ同時期に設計された静岡市立芹沢銈介美術館(「石水館」1979〜81)でも池を持ち、紅雲石を多用している。噴水のある四角い池をコの字で囲む構成で、展示室にアーチ窓から自然光や水面の揺らぎを積極的に取り込み、ゆったりと展示を楽しむことを意図した。また、初めて池を導入した「原爆堂計画」(1954〜55)においても、軸線や構成において松濤美術館の類似点も多く感じ、白井のやりたかったことがこの美術館に凝固しているようにも思える。これまで、松濤美術館は、白井の業績のなかでも「呉羽の舎」(1963〜65)や親和銀行三部作、「ノア・ビル」(1972〜74)に比べ、特段評価されている作品ではなかったが、今回のように、改めて作品が現代の眼にさらされたとき、作品も違って見えてくる。ぜひこの機会に、白井建築に自らの身体を委ね、建築としての美術館を味わい考察してみてほしい。

 参考

「渋谷区立松濤美術館」1階平面図(青焼き) 1979年頃 渋谷区立松濤美術館蔵
「渋谷区立松濤美術館」1階平面図(青焼き) 1978年10月頃 渋谷区立松濤美術館蔵

設計段階では、ブリッジを渡り、螺旋階段で展示室に降りる構成が考えられていた。最終的には動線をコーナーにまとめることが決まり、展示室に直接降りる階段が設計されなかった。

「渋谷区立松濤美術館」1階平面図(青焼き) 1978年4月頃 渋谷区立松濤美術館蔵

*1:朝日新聞夕刊(1978年7月17日)。
*2:インタビューにて。2022年1月7日、松濤美術館で担当学芸員の平泉千枝さんと木原天彦さんにお話を伺った。
*3:前期の展示内容と研究成果については、カタログ『白井晟一 入門』(渋谷区立松濤美術館編著、青幻舎、2021)にまとめられている。上述の内容については、木原天彦「秋田の建築群に関わった人々」(pp.56〜59)平泉千枝「白井晟一と近藤浩一路」(pp.214〜219)を参照。
*4: 松濤美術館は、1973年に建設の構想が始まり、1979〜80年に建設された。実際には板橋区立美術館に次ぐ、2番目の区立美術館として1981年に開館した。基本構想の有識者会議では設計者の白井のほか、日本で最初の公立近代美術館として1951年に誕生した神奈川県立近代美術館の館長、土方定一や、1964年東京オリンピックのポスターなどを手がけたグラフィックデザイナー亀倉雄策などが招集された。
*5〜7:インタビューにて。
*8:「渋谷区立 松濤美術館 白井晟一研究所」『新建築』(1981年1月号、p.242)。
*9:インタビューにて。
*10:白井晟一「豆腐・めし」『白井晟一研究 Ⅰ』(白井晟一企画編集室編、南洋堂出版、1984)。
*11:水原徳言は「豆腐とめし(文章論)」の中で、白井の文章は「晦渋である」とし、白井の「用」を説明する際に世阿弥を引用している。詳しくは別の機会で調べたい。水原徳言「豆腐とめし(文章論)」『白井晟一研究 Ⅰ』(白井晟一企画編集室編、南洋堂出版、1984、pp.40〜42)。
*12:  岡崎乾二郎「美術館とはいかなる建物だったのか(鯨に呑み込まれたヨナのように考えてみる)」『白井晟一 入門』(渋谷区立松濤美術館編著、青幻舎、2021、pp.17〜21)。






服部真吏

はっとり・まり

服部真吏

はっとり・まり

慶應義塾大学文学研究科美学美術史学修士課程修了。同大学院博士課程単位取得退学。新建築社にて、月刊誌『a+u』や『新建築』の編集を担当。現在、フリーのエディター、ライター。