薪(まき)を背負い、本を読みながら歩く少年の像は小学校の校庭ではおなじみの光景です。この少年こそ、江戸時代に関東地域にて農村改革をリードした「二宮尊徳」(にのみやそんとく)。一般的には「二宮金次郎」(にのみやきんじろう)の名が有名で、のちに武士となって改名しました。勤勉な姿勢は子どもの手本としてよく知られますが、成人後の実績はあまり知られていません。二宮尊徳は、経済と道徳の両立を目指す「報徳思想」(ほうとくしそう)を提唱。武家層からも絶大な信頼を獲得し、農民でありながら領地の再興を任されたり、身分にかかわらず自分の意見を述べたりすることができました。二宮尊徳は、今で言う有能な経営コンサルタントでもあったのです。
二宮尊徳は生家を再興するため、懸命に働きました。その一方で寝る間も惜しんで勉強。しかし、伯父は「農民に学問はいらない、灯りに使う油がもったいない」などと反対します。
そこで二宮尊徳は自分で菜種(なたね:油が取れる作物)を育て、菜種と引き換えに油屋で灯明油をもらって、夜の読書を継続。昼間は山で切った薪を背負い、歩きながら書物を読みました。
さらに二宮尊徳は荒れ地を開梱して作物を作り、売ることで得たお金を少しずつ貯金。20歳の頃には生家へ戻って家屋を修理し、やがて田畑も買い戻します。
24歳のときには1町4反(約1.4ha)あまりの田畑を所有するまでになり、自分の田畑を持たない小作農の人達に耕作を任せて、収穫を分け合いました。また作物を売ったお金で次々と田畑を買い足し、村で有数の地主となったのです。
やがて二宮尊徳の働きぶりは、小田原藩(おだわらはん:現在の神奈川県小田原市)の武家の間でも評判になりました。
「親を亡くしてから16歳で身を起こし、村で指折りの地主になった。しかも働き者で学問があり、経済にも明るい」。この噂を耳にした家老(かろう:藩の重臣)の「服部十郎兵衛」(はっとりじゅうろうべえ)は、25歳の二宮尊徳を息子達の教育係に雇い入れます。二宮尊徳は服部十郎兵衛の息子達とともに、藩校・漢学塾へお供しながら、自らも講義を聴いて学問を深めます。
その頃、服部家をはじめ武家の多くは天明の大飢饉以来、財政難に苦しんでいました。しかし、それにもかかわらず武家達は贅沢な暮らしを改めなかったため、多額の借金を抱えていたのです。これにより、武家で働く使用人の給料も十分に支払うことはできない状況でした。
二宮尊徳が29歳で服部家の奉公を辞して栢山村へ戻ったとき、所有する田畑は3町8反(約3.8ha)に増えていました。しかし村に落ち着いたのも束の間、服部家から赤字続きの家計を立て直してほしいと依頼されます。
二宮尊徳は服部家の人々に対して、木綿の着物を着る・食事はご飯と汁物だけ・お酒は控えるなど、生活をとことん切り詰めるよう指導します。その上で、服部家にお金を貸している商人達には、返済計画を説明して回りました。厳しい緊縮策の結果、服部家の財政立て直しに成功。
その功績もあって二宮尊徳は、小田原7代藩主「大久保忠真」(おおくぼただざね)に取り立てられ、武士の身分を得たのです。
才能を認められた二宮尊徳は、大久保家の分家である宇津家(うづけ)の領地で、天明の大飢饉以来、荒廃していた下野国桜町(しもつけのくにさくらまち:現在の栃木県真岡市)の復興を任されます。
二宮尊徳は土地の開墾・堤防の改修などを進め、真面目に働いた農民には褒美を与えて勤労意欲を引き出しました。こうして10年がかりで桜町は復興し、以前よりずっと多い米が収穫できるようになったのです。この評判が広がると、二宮尊徳は関東各地の他藩からも招かれ、生涯で600もの農村を立て直します。
67歳のときには、「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう:栃木県日光市)の領地復興を任されますが、完全復興を見る前に72歳で病没。最後まで自分の分をわきまえ、「立派な墓はいらない。土まんじゅうの側に木を1本植えてくれれば十分」と言い残していたと伝えられます。
二宮尊徳は万物に徳があり、その徳に報いるべきであるという「報徳思想」(ほうとくしそう)を提唱。その実現のために、次の4つを実行しようと人々に説きました。
この思想は「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)など、のちの実業家達にも大きな影響を与えます。
二宮尊徳は、最初に仕えた服部家の財政を立て直すなかで、使用人同士が互いに助け合う金融制度「五常講」(ごじょうこう)を作ります。
これは互いにお金を出し合い、困っている人に貸与するという互助組織。借りた人は必ず返すために努力し、利息を付けて約束通り返済。これを守れる人だけが五常講に参加できました。
これはのちに小田原藩の出資により、武家も対象とする制度に発展して、世界初の協同組合・信用組合と言われています。
二宮尊徳は、村人達が話し合い・投票で物事を決定する制度「芋こじ」を導入。村長を投票で決めたり、よく働く人を投票で選んで表彰したり、地域の問題をみんなで話し合って決めていくという仕組みを築きました。
これにより人々が村の問題を自分の問題としてとらえ、自然に勤労意欲が芽生えたのです。また二宮尊徳は、男女平等の信念から、女性にも投票権を認めていました。
当時は年貢米を計量する枡(ます)のサイズが決まっておらず、役人が大きな枡で量って余分に徴収した分を横領するという行為が目立ちました。
そこで二宮尊徳は、一辺の長さ・深さ・米粒の数まで正確に量れる枡を発明。農民達を困らせた不正がなくなり、年貢米も平等に徴収されるようになりました。さらに、二宮尊徳は飢饉の際には、年貢を払わなくて良い制度も提案しています。
二宮尊徳が下野国桜町の立て直しを図っていた頃、夏なのに雨が多く肌寒い日が続きました。ある日ナスを食べると、種の部分が多く、秋ナスに近い味だったため、その年は凶作になると予測。さらに昔の資料を調べて統計を取ってみたところ、およそ50年おきに大飢饉が来ていたことが判明しました。
二宮尊徳の予測通り、1833年(天保4年)に「天保の大飢饉」(てんぽうのだいききん)に見舞われますが、二宮尊徳は先回りして冷害に強いヒエ・豆・芋類などを余分に作らせていたため、下野国桜町で飢え死にする者は1人も出なかったと伝えられます。