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西郷隆盛と刀
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西郷隆盛と刀 西郷隆盛と刀
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2018年(平成30年)にNHK大河ドラマ「西郷どん」が放送され、再び脚光を浴びることになった西郷隆盛。日本人であれば、一度は西郷隆盛の名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。
東京都の上野公園や鹿児島市の鹿児島市立美術館、鹿児島県霧島市の西郷公園など、いろいろな場所に西郷隆盛の銅像が建てられており、西郷隆盛は、誰もが認める偉人である一方、「西郷さん」などと親しみを持って呼ばれています。
そんな西郷隆盛の詳しい生涯や人物像、それにまつわるエピソードについて、まとめました。
また、少年時代に喧嘩の仲裁に入った際に、右腕に負った傷の影響で刀剣をうまく握れなくなってしまったにもかかわらず、趣味としていた刀剣収集についてもご紹介します。

西郷隆盛の生涯

西郷隆盛のイラスト

西郷隆盛

西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の家に生まれるも、藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)に見出され、国事のために奔走。

そして、坂本龍馬らの仲介によって薩長同盟を結び、徳川幕府を追い込みました。

その後の戊辰戦争では、旧幕府軍に勝利。勝海舟との会談によって実現した「江戸城無血開城」は、世界史上でも稀にみる平和的な出来事として評価されています。

さらに明治新政府では、様々な近代化政策を打ち出すなど、まさに明治維新の立役者と言える人物です。

しかし、政府内の勢力争いが原因で帰郷した西郷隆盛は、西南戦争で大将に担ぎ上げられ、逆賊として死んでいきました。

そんな西郷隆盛の、誕生から西南戦争で自決するまでの49年間をご紹介します。

西郷隆盛誕生

西郷隆盛は1827年(文政10年)12月7日、薩摩国鹿児島城下の下加治屋(したかじや)町で誕生しました。幼名は「小吉」と言います。薩摩藩に仕える父・吉兵衛は「勘定方小頭」(かんじょうがたこがしら)という、現代で言うところの経理・会計係を務めていた人物でした。

西郷家は、「御小姓与」(おこしょうぐみ)という、城下士(城下に住む武士)の中では下から2番目の家柄。つまり知行(ちぎょう:大名から家臣に与えられる土地の支配権)の少ない下級武士でした。さらにその少ない知行さえも、借金のために売り払っていたのです。

しかし、吉兵衛の子どもは長男の隆盛(小吉)をはじめ全部で7人。妻と吉兵衛の両親も健在だったので、西郷家は11人という大家族でした。使用人なども含めると、16人もの大所帯。そのため西郷家の人びとは、極貧生活を強いられていたのです。

貧しい家庭に育ったとはいえ、隆盛は幼い頃からしっかりとした教育を受けていました。5歳の頃には儒学を学び始め、7歳になると「郷中」(ごじゅう)に入ったと言われています。

郷中というのは、武士階級の子弟教育システム「郷中教育」が行なわれる単位のこと。薩摩には、居住区で分けられた郷中ごとに、年長者が年少者を指導・教育する自治組織が存在していました。

少年時代の西郷隆盛は下加治屋町郷中に所属し、「大久保利通」(おおくぼとしみち)らと共に学んでいたと言われています。また、19歳の頃には「二才頭」(にせがしら)と言うグループのまとめ役に選ばれ、「西郷従道」(さいごうじゅうどう:隆盛の弟)らの指導も行ないました。

この郷中教育の中では、相撲などで他の郷中と競う機会も多く、自然と郷中同士はライバル意識を持つように。その結果、郷中同士でいさかいが起こることもありました。大きな出来事としては、隆盛が11歳の頃、他の郷中の少年と喧嘩になった事件があります。

喧嘩にて、西郷隆盛は運悪く右腕を斬られてしまいました。三日三晩、高熱にうなされた西郷隆盛でしたが、一命は取り留めることに成功。しかし、右手の神経を傷め、刀剣をうまく握れなくなってしまったのです。

この出来事がきっかけで、西郷隆盛は武士の命とも言える剣術を諦めることに。その代わり学問によって身を立てようと、読書や習字などに励むようになったのでした。

島津斉彬に仕える

青年となった西郷隆盛は、1844年(弘化元年)、「郡方書役助」(こおりかたかきやくたすけ)という役職に就きます。郡方書役助とは、農政全般を担当する役職で、主な仕事は農村の徴税役。年俸は4石という薄給にして、出世の見込みはありません。西郷隆盛はこの仕事を、10年間続けました。

ただし、良かったこともあります。それは西郷隆盛の上司であった、迫田利済(さこだとしなり)の存在でした。

当時、薩摩藩の農政は問題だらけ。役人が百姓から賄賂をもらって年貢の量を加減することもあれば、年貢を割り増して徴収し、自分達の懐に入れることも許されるという有様でした。さらに藩は、たとえ凶作であったとしても、百姓達に非常に厳しい年貢を課すというやり方だったのです。

そのような状況に立ち向かったのが、迫田でした。郡奉行であった彼は、不正を行なった村役人を罰し、ついには藩のやり方に憤って辞職。多感な青年期にこの姿勢を学んだ西郷隆盛は、自身も農政に関する意見書を度々藩に提出するようになったのです。

西郷隆盛から提出された意見書は、とある人物の目に留まることになります。その人物とは、聡明との誉高い薩摩藩第11代藩主・島津斉彬でした。

斉彬は第10代藩主・斉興(なりおき)の長男であり、曾祖父は学問好きの蘭癖(らんぺき:オランダ流)としても有名な第8代藩主・重豪(しげひで)。そんな重豪に溺愛され育った斉彬も、やはり開明的な人物だったと言われています。

藩主となった斉彬は、藩政改革を実行。富国強兵に尽力し、優秀な人材を積極的に登用しました。そして、7年半という短い間に、薩摩藩を軍事大国へと押し上げることに成功。この優秀な斉彬なくして、西郷隆盛は歴史に名を刻むほどの大人物にはなれなかったと言われています。

1854年(安政元年)、西郷隆盛は「中御小姓」(なかおこしょう)という、藩主の雑用を行なう役職に就きました。そして、定御供(じょうおとも)江戸詰を命じられ、斉彬の参勤交代の行列に加わることになったのです。

さらに江戸に到着して間もなく、藩主の秘書兼ボディーガードを務める庭方役(にわかたやく)を拝命。こうして西郷隆盛は、藩主・斉彬のそばに仕えるようになったのでした。

西郷隆盛は斉彬からの命によって、各方面へと派遣されます。西郷隆盛の人格や思想に多大な影響を与えたという、水戸藩士で学者の「藤田東湖」(ふじたとうこ)や、越前藩士の「橋本左内」(はしもとさない)らと交流したのもこの頃でした。

また、斉彬の養女「篤姫」(天璋院)と13代将軍「徳川家定」の縁組にも尽力。こうして西郷隆盛は斉彬のもとで人脈を広げるなどし、政治家として成長していったのです。

さて、病弱な将軍家定は跡継ぎが望めないという状況にありました。そこで勃発したのが、将軍継嗣問題です。島津斉彬ら(=一橋派)は、水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の子である「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)を次期将軍に擁立しようとしていました。

これに対抗したのは、紀伊徳川家の徳川慶福(よしとみ)を擁立しようとする「南紀派」と呼ばれるグループです。

この問題は1858年(安政5年)、南紀派であった彦根藩主「井伊直弼」(いいなおすけ)の大老就任によって決着が付きました。井伊は強引に、次期将軍を慶福と決定してしまったからです。

そんな中、斉彬は突然亡くなりました。死因はコレラ・赤痢であったことが有力視されていますが、あまりにも突然の出来事であったため、当時は毒殺説が囁かれたと言われています。

斉彬の突然の死は、西郷隆盛を絶望の淵へと追い込みました。そこから救ってくれたのは、篤姫の輿入れで奔走していた頃に知り合った、「月照」(げっしょう)という僧。一度は殉死するとまで決めた西郷隆盛でしたが、月照の説得によって、斉彬の意志を継いで国事に身を捧げることを決意したのです。

奄美大島、沖永良部島へ島流し

安政の大獄

安政の大獄

江戸幕府の大老井伊直弼による「安政の大獄」(開国反対勢力への弾圧)が始まると、一橋慶喜の擁立を手助けしていた月照にも追手が迫りました。そこで西郷隆盛は、月照を薩摩に匿うことに。

しかし、いざ薩摩へ戻ってみると、指名手配されていた月照の受け入れは拒否されます。そして、月照は日向への追放が決定。日向に追放するということは単なる追放ではなく、国境で斬り捨てることを意味します。その役を命じられたのも、西郷隆盛でした。

1858年(安政5年)11月15日の真夜中、西郷隆盛は月照のいる旅籠へ。そして船に乗り、錦江湾(鹿児島湾)へと出ます。藩の決定に憤りを感じると共に、自らの責任を痛感していた西郷隆盛は、月照と固く抱き合い、海に身を投じたのでした。

同乗者によって2人は引き上げられましたが、月照はすでに絶命。西郷隆盛も虫の息でした。ですがその後、西郷隆盛は奇跡的に蘇生します。

この入水事件を受け、薩摩藩は西郷隆盛が幕府に捕まらないよう、月照と共に死んだことにします。そして、西郷隆盛は奄美大島(あまみおおしま:鹿児島県南西にある島)へと流されることに。さらに名前も「菊池源吾」と改名したのです。

とはいえ罪人として流される訳ではなく、扶持米(ふちまい:給与として支給された米)も支給されることになりました。

しかし、奄美大島の暮らしにはそう簡単に溶け込むことができず、政治にもかかわることができないという苛立ちから、西郷隆盛は精神的に追い詰められるように。

そして、島民達からの、まるで流罪人を見るような目を向けられることも西郷隆盛を苦しめましたが、島の子ども達への教育や理不尽な役人への抗議などを通して、次第に島民からの信頼を獲得していきました。

やがて現地の女性・愛加那(あいかな)と結婚(島妻[あんご]:島にいる間だけめとる妻)。一男一女をもうけています。

奄美大島に流されてから3年、島で穏やかな暮らしをしていた西郷隆盛のもとに、藩からの召還状が届きます。これには当時、藩政をリードするようになっていた大久保利通が大きくかかわっていました。西郷隆盛が奄美大島にいる間、時代は大きく動き出していたのです。

桜田門外の変」で井伊直弼は殺され、尊王攘夷派の活動は活発化。

さらに、薩摩藩では藩主の父「島津久光」(しまずひさみつ:斉彬の異母弟)が実権を握り、公武合体(幕府と朝廷が連携することによって、政局を安定させること)へと乗り出した頃でした。

そこで大久保は、久光の率兵上京計画を立てます。これは一橋慶喜を将軍の後見職に、そして「松平春嶽」(まつだいらしゅんがく:福井藩主、一橋派。のちの政治総裁職)を大老にするよう、朝廷から幕府に命令させようというものでした。

その実現のためには、諸大名や公卿との人脈を持つ西郷隆盛の力が不可欠。さらに西郷隆盛の見識や経験は、国事周旋の力になるはず。そう考えた大久保は久光に対し、西郷隆盛の召還を訴えたのでした。

1862年(文久2年)2月、鹿児島城下へと戻った西郷隆盛は、久光の上京計画の話を聞かされます。しかし、人脈も経験もない久光には無理であるとし、計画に反対。久光と対立してしまいます。

とはいえ、久光の上京は既定路線。仕方なく先発隊として下関に向かった西郷隆盛に対し、久光は「下関で待て」という命令を出していました。

下関に着いた西郷隆盛は、「尊攘派の志士達が京・大坂に結集しており、久光が上洛すれば暴発するかもしれない」という情報を耳にします。幕府と薩摩が戦争になるかもしれない、と焦った西郷隆盛は急遽、久光を待つことなく大坂へ向かうことに。

一方の久光はそんなことは知らず、下関に到着しました。自分の命令が無視されたことを知り、さらに「西郷隆盛は尊攘派を煽動しようとしている」という悪いうわさ話などもあって、久光の怒りは爆発。

西郷隆盛は捕らえられ、奄美大島の南西にある徳之島(とくのしま)への遠島処分となります。奄美大島より召還されてから、わずか5ヵ月後のことでした。

奄美大島のときとは違い、罪人として島流しになった西郷隆盛。そのため、代官の監視を受けての生活を余儀なくされましたが、島の役人の子に読み書きを教えたり、狩りや魚釣りなどをしたりして、楽しく過ごしていたと言われています。

さらに、奄美大島に置いてこなくてはならなかった愛加那が、徳之島まで子ども達を連れて来たこともありました。

しかし、徳之島に流されてからおよそ2ヵ月、さらに南西にある沖永良部島(おきのえらぶじま)への遠島という追加処分が決まります。当時、沖永良部島に流されるということは、死刑に次ぐ重罪を意味していました。

沖永良部島で西郷隆盛を待っていたのは、海辺に作られた2坪ほどの広さの牢。壁ではなく目の粗い格子で囲まれ、雨風が吹けば牢の中に容赦なく吹き込んでくるような、粗末な造りです。

このような劣悪な環境と粗末な食事により、西郷隆盛は次第に衰弱していきましたが、極限状態にありながらも、西郷隆盛は牢の中で黙座していたと伝わっています。

そんな西郷隆盛の姿に心を打たれた現地の役人「土持政照」(つちもちまさてる)は、新たな座敷牢を作るよう代官に願い出ます。すると代官もこれを承知し、今度は家の中に牢が作られることに。

そして、この頃「川口雪蓬」(かわぐちせっぽう)という流人の学者とも出会い、漢詩や書の手ほどきを受けました。彼の影響から、西郷隆盛は1,300冊以上の書物を読んだと言われています。さらに座敷牢では塾を開き、島の青少年達を指導するようにもなりました。

生麦事件

生麦事件

こうして西郷隆盛が流人生活を送る間、「生麦事件」(久光一行の行列を横切ったとして、薩摩藩士がイギリス商人を殺傷した事件)や「薩英戦争」(生麦事件の報復とする、イギリスと薩摩との交戦)、「八月十八日の政変」(薩摩藩らによって長州藩など急進的な尊攘派勢力が京都から追放された事件)といった歴史的事件が次々と起こっていました。

やがて参予会議(朝廷の命を受けた、有力大名達による合議制会議)が組織されるも、わずか3ヵ月で空中分解。こうして久光が目指してきた公武合体は、完全に行き詰ってしまいます。

そんな頃、またもや薩摩藩内から西郷隆盛を呼び戻す声が出てきたのです。久光もしぶしぶこれを承諾し、西郷隆盛は赦免されることに。沖永良部島に流されてから、およそ1年半後のことでした。

京で久光に謁見した西郷隆盛は、軍賦役兼諸藩応接係(軍の最高司令官・外交の責任者)を拝命。紆余曲折ありながらも、西郷隆盛は藩の有力者となったのです。

長州征伐での西郷隆盛

勝海舟

勝海舟

そして、時代は一気に倒幕へと進んでいきます。「池田屋事件」(新撰組が過激攘夷派を襲撃した事件)をきっかけとして、長州軍が入京。これを阻止するため、薩摩藩にも出兵命令が出ました。

当初はその命を拒んだ西郷隆盛でしたが、薩摩も戦闘に参加して大勝を収めます。そして、長州は敗走。これが「禁門の変」(蛤御門の変)です。八月十八日の政変から薩摩を恨んでいた長州でしたが、薩摩との確執はこのとき決定的になりました。

この禁門の変を機に、幕府は長州征討の勅許を得ます。西郷隆盛も、朝敵となった長州の征伐に、はじめは積極的でした。その早期実現のため、西郷隆盛は勝海舟と面会します。すると幕府の重臣である勝海舟は幕府を批判。

一方、その頃の薩摩では幕府に対する不信感もあり、雄藩連合を目指すことが決まりました。長州征討についても、それまでの強硬路線を改めることになったのです。

西郷隆盛は実質的な最高司令官である、征長軍参謀に命じられました。すると、長州への寛大な処分を行なうことを主張。征長総督であった徳川慶勝も、これを受け入れます。

そこで西郷隆盛は、幕府に従う姿勢を取るよう長州を説得。自ら敵地に赴きます。その働きは実を結び、長州に迫っていた征討軍に対して解兵の命が出ました(第一次長州征伐)。

このように穏便に済んだ長州征伐でしたが、再び幕府の中に長州を討とうとする意見が出始めたのです。そして、2度目の長州征伐が発令されることに。またもや長州は追い詰められます。

一方、薩摩藩も「天狗党の乱」(水戸藩の尊攘派・天狗党が挙兵した事件)における降伏人の対応などを巡り、幕府との対立を深めている頃でした。そんな状況の中で結ばれたのが薩長同盟です。

海外からの武器調達を幕府に禁止されていたため、武器のない長州藩。一方、兵糧米不足に頭を悩ませていた薩摩藩。

お互いに足りない物を交換し、さらに武器弾薬の購入・物資の運搬は亀山社中(坂本龍馬らが結成した貿易結社)が引き受けるという、三者が得をする条件が提示されました。それまでは犬猿の仲であった両者でしたが、坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介によって和解が成立します。

長州と同盟を結んだ薩摩は、「第二次長州征討」への参戦を見送ります。とはいえ、長州勢の3,500に対し、幕府軍は10万という圧倒的な兵力差。しかし、戦いは長州が有利に進みました。

長州には薩摩から調達した最新鋭の武器があり、さらに藩の存亡がかかっている長州側の士気は、幕府軍とは比べようもないほど高かったからです。

そんな中、将軍家茂が急死。第二次長州征討は、まさかの幕府軍敗退に終りました。

鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争開戦

徳川慶喜

徳川慶喜

家茂の死後、将軍職に就いたのは第15代将軍「徳川慶喜」でした。雄藩連合による政権奪取を狙う薩摩は、慶喜を追い詰める策を四候会議(慶喜らの諮詢機関で島津久光ら4名からなる合議制)にかけます。

しかし、結局四候会議も足並みが揃わず、空中分解するという結果に。そこで薩摩は、武力倒幕へと路線変更するに至ったのです。

他方で、それに待ったをかける勢力もありました。土佐藩を中心とした、大政奉還を目指すグループです。

と言っても、薩摩藩士全員が武力倒幕派だった訳ではなく、同様に土佐藩士も全員が大政奉還派だった訳ではありません。それぞれの立場にいる者同士が、駆け引きを行なっていたのです。

そんな中、幕府を倒す大義名分の欲しい大久保利通は、「倒幕の密勅」を得るために奔走していました。そして、朝廷からその命が下されたものの、慶喜は先手を打って1867年(慶応3年)10月14日「大政奉還」を上奏。これにより、せっかく手に入れた倒幕の大義名分は奪われてしまいます。

しかし、幕府が朝廷に政権を返すことが決まったとはいえ、それを引き継げるほどの政治能力を当時の朝廷は持っていませんでした。さらに当時、朝廷内で主導権を握っていたのは、慶喜寄りの公家達。そのため大政奉還後も、慶喜は実権を握り続けることになったのです。

そこで西郷隆盛や公家「岩倉具視」(いわくらともみ)が企てたのが、王政復古のクーデターでした。この結果、慶喜寄りの公家達を排除することに成功。王政復古の大号令が発せられ、「総裁」、「議定」、「参与」を中心とする新たな政府が発足しました。

さらにその夜に行なわれた小御所会議では、慶喜の辞官納地(官位の返還と所領の返上)が決定します。

しかし、「松平春嶽」(まつだいらしゅんがく)らは、慶喜を新政府の一員として迎えようと考えていました。これが認められるとなると、倒幕を目指してきた薩摩としては元も子もありません。辞官納地も骨抜きになるかと危ぶまれていた頃、旧幕府軍による江戸薩摩邸焼き討ちという事態が起こります。

戊辰戦争

戊辰戦争

その後、旧幕府軍は西へと進軍し、慶喜や旧幕臣達のいる大坂城に入りました。すると慶喜は倒薩を命じ、旧幕府軍は京へと進軍。それを食い止めるため、新政府軍は鳥羽・伏見でこれを迎え撃ちます。

そして、1868年(慶応4年)1月3日、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。ここに新政府軍と旧幕府軍の「戊辰戦争」が始まりました。

江戸無血開城

錦の御旗

錦の御旗

翌日の4日には新政府側に「錦の御旗」が上がり、朝敵となった旧幕府軍の士気は大いに下がります。6日には慶喜が新政府軍との徹底抗戦を宣言するも、その晩には慶喜自身が大坂城を脱出。軍艦に乗り、江戸へと帰ってしまいました。

その翌日、朝廷からは慶喜追討令が発せられます。こうして鳥羽・伏見の戦いは新政府側の勝利に終わり、戦場は江戸へと移りました。

新政府側は東征大総督府を置き、東征軍は3つに分かれて江戸へと進軍。東征大総督府下参謀に任命された西郷隆盛は東海道を下り、徳川氏ゆかりの「駿府城」へと入りました。そして、3月15日に江戸総攻撃を行なうことが決まったのです。

一方、その頃の旧幕府側には徹底抗戦を主張する意見もありましたが、慶喜は朝廷に恭順の意を示すことに。勝海舟に全権を委ねると、慶喜は上野寛永寺で謹慎生活に入りました。

3月9日、幕臣「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)が単身で駿府城に乗り込んできます。慶喜恭順の意を伝える、勝海舟からの手紙を渡すためでした。このとき西郷隆盛は、鉄舟の君主への忠誠心に心を打たれたと伝わっています。3月13、14日に西郷隆盛は江戸で勝海舟との会談に臨みました。

この会談の中で、慶喜を水戸で謹慎させることや、旧幕府側が江戸城を明け渡すことなどが決定。こうして江戸総攻撃は中止され、4月11日の江戸無血開城に至りました。

とはいえ、新政府にいまだ恭順しない者も多く、東京・上野では「彰義隊」(しょうぎたい)の徹底抗戦で知られる「上野戦争」が勃発しています。また、長岡藩と会津藩などは、頑強なまでに新政府に抵抗(北越戦争・会津戦争)。

さらに、東北諸藩の結んだ「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)という存在もあり、北陸・東北地方では激しい戦いが繰り広げられました。西郷隆盛も実弟・吉二郎を越後で亡くしています。

そして北の大地では、旧幕臣の榎本武揚らと新政府軍が激突(箱館戦争)しましたが、1869年(明治2年)5月に降伏。ここに戊辰戦争が終結しました。

一方の西郷隆盛はというと、庄内藩の鎮圧が終わった折、突如地元・鹿児島へと帰ります。湯治や狩りを行なったり、詩を作ったりするなど、悠々たる生活を送っていました。その後は藩主「島津忠義」(しまずただよし)の要請により、藩政に参画。薩摩藩の兵制改革など、諸改革を行なっています。

新政府に復帰し、廃藩置県を実施

新政府は、再び西郷隆盛を招き入れようと考えていました。というのも、当時の新政府は逆境に立たされていたからです。政府の役職者の腐敗や士族の反乱事件などにより、新政府の権威は失墜。

さらに財政難にもあえいでいるという状況だったため、廃藩置県(藩を解体して、全国を新政府の直轄地とすること)の断行という打開策が必要になったのです。

廃藩置県を行なうということは、旧藩主(知藩事)達から特権や経済基盤を奪うことを意味していました。当然激しい抵抗が予想されるため、卓越した人望を有する西郷隆盛の復帰が望まれたのです。

そこで、大久保利通は西郷隆盛の弟・従道に対して、西郷隆盛を説得するように依頼。その後、岩倉具視と共に鹿児島を訪れ、西郷隆盛に中央政界への復帰を正式に依頼したのです。

西郷隆盛もこれを受け入れます。西郷隆盛は、「御親兵」という新政府の直属軍を組織し、その軍事力でもって廃藩置県を行なおうとしました。そして1871年(明治4年)7月、廃藩置県は無事、断行されたのです。

同年11月、岩倉具視を特命全権大使とする「岩倉使節団」が横浜を出発。副使として、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らも参加していました。徳川幕府が幕末に欧米諸国と結んだ、不平等条約改正の準備交渉を行なうために派遣されたのです(結局、成果は上げられませんでした)。

一方、西郷隆盛や板垣退助らは、その留守を預かる立場に。西郷隆盛は、実質的な政府の最高責任者となりました。とはいえ、留守政府が勝手なことをしないよう、外遊組との間に誓約書が作られます。にもかかわらず、留守政府は地租改正や徴兵制の公布など、近代化政策を次々と打ち出していきました。

鹿児島で私学校を設立した西郷隆盛

明治新政府はいくつかの外交問題を抱えていました。そのうちのひとつが朝鮮問題です。当時の朝鮮は鎖国状態にあり、日本と友好的な関係を築こうとはしていませんでした。

そこで新政府内で持ち上がったのが「征韓論」(朝鮮に軍隊を派遣して開国させようと言う主張)です。この問題に対し、西郷隆盛は使節を派遣して平和的に事を進めようと考えていました。

他方で、欧米から帰国したばかりの大久保や岩倉らは「内地優先」を唱え、西郷隆盛の意見に反対します。一時は西郷隆盛を朝鮮に派遣することが閣議で決定したものの、岩倉がそれを延期するよう、天皇に上奏しようとしました。すると西郷隆盛は激怒し、辞表を提出してしまったのです。

そして、これに続くように政府首脳・軍人・官僚ら約600名も辞職(明治6年の政変)。この背景には、政府内における主導権争いがあったとみられています。

またも鹿児島に帰郷した西郷隆盛。農作業や湯治・狩猟など、悠々自適に過ごします。しかし、鹿児島には、西郷隆盛を追って辞職した者達も帰って来ており、政府に不満を抱える彼らの存在は、そのままにしておけば治安を悪化させる恐れが。

そんなとき、西郷隆盛に私学校設立の話が舞い込みました。血気盛んな青年達の暴発を防ぎ、そのエネルギーを有益な方向に向けるため、西郷隆盛は設立を決めます。

こうして設立された私学校では、軍事訓練や漢文・洋学などの教育が行なわれ、生徒を海外へ留学させることもありました。鹿児島も県を挙げて、これを支援。その結果、県の要職に就く私学校出身者が増え、次第に県政を取り仕切るほどまでになっていったのです。

西南戦争で自決

鹿児島でのそんな動きを、明治政府は警戒していました。当時は「神風連の乱」(熊本県)や「秋月の乱」(福岡県)など、各地で不平士族の反乱が続いているという状況。

そして、全国の不平士族達は、西郷隆盛の決起を心待ちにしていました。もし西郷隆盛が私学校の生徒らを率いて挙兵でもしようものなら、政府は大ダメージを受けることが目に見えていたのです。

そこで政府は、鹿児島に大量の武器弾薬があることを問題視。これらを接収しようとしたところ、反発した私学校の生徒達が草牟田(そうむた)にある弾薬庫を襲撃し、武器弾薬を強奪するという事件が起こります。

さらに政府はこの事件と前後して、鹿児島に密偵団を送り込んでいました。しかし、私学校側はこの動きを察知し、密偵は捕まります。すると密偵は、西郷隆盛の暗殺計画があることを自供しました(でっち上げという説も)。

これを受け、薩摩の士族達の間に出兵論が高まることに。そして、もうこれ以上士族達の不満を抑えることができないと判断した西郷隆盛は、挙兵を決断したのです。

熊本城

熊本城

1877年(明治10年)2月15日、1万を超える薩軍(西郷隆盛率いる旧薩摩藩士を中心とする勢力)は60年ぶりの大雪の中、進軍を開始。目指すは政府軍が駐屯する熊本城でした。西郷隆盛挙兵の知らせを受けた政府は、すぐに征討令を発します。

そして22日、薩軍は熊本城への攻撃を開始。これにより、日本史上最大の内乱「西南戦争」の火蓋が切られました。

しかし、熊本城と言えば戦国武将・加藤清正の築いた堅固な城。簡単に攻め落とすことなどできません。さらに政府軍は最新鋭の武器弾薬を有しており、薩軍の熊本城攻略はことごとく失敗しました。そこで軍を分けて北上し、各地で激戦を繰り広げることなります。

そうして起こったのが、有名な「田原坂の戦い」(たばるざかのたたかい)でした。鉄砲隊と抜刀隊を巧みに使う薩軍に、政府軍は怯えることに。

開始から17日、ようやく政府軍は田原坂を攻略することに成功しますが、両軍ともに多くの犠牲者を出しました。田原坂の戦いに敗れた薩軍はその後、人吉や都城など南九州各地を転々とします。

同年8月16日、西郷隆盛は全軍に解散命令を出します。そして、幹部や精鋭部隊を引き連れ、鹿児島へと帰還する決断に至りました。西郷隆盛と生き残った372名が鹿児島の城山へと入ると、政府軍はこれを包囲。そして、9月24日の早朝、政府軍による総攻撃が開始されました。

西郷隆盛は腰と太ももに被弾。そばにいた「別府晋介」(べっぷしんすけ)に「もうここらでよか」と言い、首を刎ねさせました。享年49歳。西郷隆盛は明治維新の立役者でありながら、逆賊となってその生涯を閉じたのです。

西郷隆盛が収集した愛刀

刀剣収集が趣味だった西郷隆盛が収集した愛刀をご紹介します。

信国(のぶくに)

西郷隆盛の人生の最期を飾った西南戦争。その際、西郷隆盛が持っていたのが「信国」でした。これは三代目信国の作で、もとは長かった物を短く切ったと言われています。鞘も明治に入ってから、サーベル拵に作り替えられました。

西郷隆盛が自刃した城山には、軍服姿の西郷隆盛像が建っていますが、信国はこの像が握っている刀のモデルになったことでも知られています。

手掻包永(てがいかねなが)
西南戦争後、弟の従道によって明治天皇に献上されたという「手掻包永」。こちらも西郷隆盛の愛刀のひとつとして知られる、手掻包永作の太刀です。現在は東京国立博物館に所蔵されています(2018年10月現在)。
来国行(らいくにゆき)
「来国行」は、1873年(明治6年)の政変で西郷隆盛が下野した際、旧薩摩藩士・得能(とくのう)良介という人物に贈った愛刀です。西郷隆盛には他にも、親交の深い人物に日本刀を贈ったというエピソードがいくつか残されています。
長篠一文字(ながしのいちもんじ)
備前福岡一文字派の作で、国宝の「長篠一文字」。もとは織田信長の所有物でした。しかし、「長篠の戦い」において、武田軍から長篠城を守り抜いた奥平貞昌に与えられます。その後は奥平家の子孫にあたる武蔵忍藩松平家に伝わりますが、明治時代に西郷隆盛がこれを購入。その後は、山縣有朋の手にも渡りました。
志津(しず)
西郷隆盛が、とある藩主から譲り受けたという「志津」。濃州志津三郎兼氏の作で、外装は西郷隆盛自身が作らせた物です。のちに辺見十郎太(勇猛として知られた薩摩藩士)がもらい受け、西南戦争の折にも差していたと言われています。
小烏丸(こがらすまる)小烏造りの刀
三条実美(明治維新後は太政大臣などを務めた公家)から贈られたという、小烏造りの刀。「西郷隆盛所持刀」と朱銘が入っています。
雲次(うんじ)
備前鵜飼庄の刀工・雲次作の「雲次」。1868年(明治元年)1月7日、西郷隆盛が最後の薩摩藩主・島津忠義から拝領したと伝わる日本刀です。現在は大阪歴史博物館が所蔵(2018年10月現在)しており、大阪府指定文化財にもなっています。

西郷隆盛ゆかりの刀剣

於田秋光と西郷滋子の婚礼写真

於田秋光と西郷滋子の婚礼写真

明治維新後、陸軍大将も務めた西郷隆盛。彼の甥にあたる豊彦(弟・従道の次男もしくは三男)も、陸軍において様々な要職を歴任しています。そんな豊彦が娘・滋子を嫁がせたのは、陸軍内でもエリート街道を歩んでいた於田秋光(おだあきみつ)という人物でした。

陸軍大学校で優秀な成績を修めた於田は、卒業時に天皇から恩賜刀を下賜されています。名家・著名人の日本刀(刀剣ワールドの所蔵刀)「於田秋光と恩賜刀 大阪住月山貞勝」というコンテンツでは、その際に賜った「大阪住月山貞勝謹作 昭和七年十月吉日」(おおさかじゅうがっさんさだかつきんさく しょうわななねんじゅうがつきちじつ)について、ご紹介しています。

刀 銘 大阪住月山貞勝謹作 昭和七年十月吉日
刀 銘 大阪住月山貞勝謹作 昭和七年十月吉日
大阪住
月山貞勝謹作
昭和七年
十月吉日
鑑定区分
未鑑定
刃長
68.2
所蔵・伝来
於田秋光大佐所持
(西郷隆盛又姪の夫)
昭和天皇御下賜刀→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

西郷隆盛の人物像

ここでは、西郷隆盛の人柄が分かる様々なエピソードをご紹介します。

上野と鹿児島に建つ西郷隆盛の銅像

西郷隆盛の銅像

西郷隆盛の銅像

西南戦争で大将に担ぎ上げられてしまった西郷隆盛は、死後官位をはく奪されました。しかし、1889年(明治22年)、大日本帝国憲法の発布を機に復権。正三位が追贈されます。

翌年には、親友だった吉井友実(よしいともざね)を中心として、銅像の建設案が持ち上がりました。その建設のために全国2万5千もの人々が寄付を行ない、さらに明治天皇も宮内庁を通じて建設費用を出しています。

そして、1898年(明治31年)12月18日、東京・上野公園にて西郷隆盛像の除幕式が行なわれました。すると糸子夫人(西郷隆盛は生涯で3回結婚しており、糸子は3人目の妻)は銅像を見るなり、「うちの人はこんな人ではなかった」と怒ったという有名なエピソードがあります。

と言うのも、上野公園にある西郷隆盛像は浴衣姿で足元は草履。しかも犬まで連れています。明治維新に功績のあった人物の銅像にしては、かなりラフな出で立ちです。

しかし、これにはちゃんとした理由があり、この西郷隆盛像は彫刻家・高村光雲が、6年の歳月を費やして造った物。彼の造った原型では、陸軍大将の正装姿だったと言います。

しかし、時の重臣から、賊軍の大将が陸軍大将の制服を着ているのはいかがなものか?という意見が出たため、案を練り直すことに。そこで、趣味だったウサギ狩りをしている姿にしてはどうかということになり、弟の西郷従道も太鼓判を押したと言われています。

そういった経緯で、あんなにラフな姿になってしまった西郷隆盛像。それを見た夫人は、あんな恥ずかしい格好で外出するような人ではなかった、と言いたかったとされていますが、そこからこの夫人の発言は、銅像の顔が西郷隆盛本人に似ていなかったのではないか、という噂を呼びました。

なお、上野の西郷隆盛像が連れている犬は、高村光雲が造った物ではありません。後藤貞行という動物彫刻家が制作した物なのですが、彼はとんでもない間違いをしていました。犬のモチーフとなったのは、西郷隆盛の愛犬・ツン。実際はメスの薩摩犬だったにもかかわらず、銅像ではオスに。これは、銅像の制作当時にはすでにツンは死んでおり、別のオスの薩摩犬をモデルとしたことが原因とされています。

西郷隆盛って本当はどんな顔?

明治維新で活躍した人物の多くは、写真が残っているのをご存じかと思います。例えば、ブーツを履いた坂本龍馬の写真。大久保利通に至っては、何枚も写真を残しています。にもかかわらず、西郷隆盛は1枚も自身の写真を残しませんでした。

西郷隆盛は無類の写真嫌いだったというのが定説です。その原因としては、西洋文明が嫌いだったからとか、そもそも写真を撮る時間すらなかったなど、色々な説が唱えられてきました。その中でもよく言われているのが、西郷隆盛は暗殺を恐れていたというものです。

月照との入水事件をきっかけに、西郷隆盛は幕府から追われる身となりました。明治に入っても、西郷隆盛は廃藩置県などを断行したことにより、実は周りには多くの敵が。もし顔が分かれば暗殺されるリスクが高まることから、西郷隆盛は写真を残さなかったと言います。

それは、たとえ明治天皇から写真を所望されても、決して献上しないという徹底ぶり。そこで上述した吉井(当時は宮内官)が、西郷隆盛の寝顔を撮影するという計画を立てます。

しかし、さすがにそんな写真を天皇に献上するのは恐れ多いとして、計画は中止になりました。と言うことで、私達が西郷隆盛の正確な顔を知る術はありません。

西郷隆盛の死から6年、イタリア出身の銅板画家・キヨッソーネによって肖像画が描かれることに。残念ながら、キヨッソーネには生前の西郷隆盛との面識はありません。そこで、顔の上半分は西郷隆盛の実弟・従道、そして、下半分は従弟の大山巌をモデルとして肖像画を描くことになりました。

この作品こそが最も良く知られている、西郷隆盛の肖像画です。西郷隆盛を知らずに描いたとはいえ、本人の特徴をよく捉えていると言われています。なお、上野の西郷隆盛像の顔も、キヨッソーネの肖像画を参考にして造られました。

一方、西郷隆盛と面識のあった人物達によって描かれた肖像画も多数存在しています。例えば、薩摩藩士で画家の「床次正精」(とこなみまさよし)も西郷隆盛の肖像画を描きました。こちらも本人によく似ていると言われています。

また板垣退助は、「光永眠雷」(みつながみんらい)という画家に対して、西郷隆盛の肖像画についてのアドバイスを与えました。完成した肖像画でもって上野の像を造りなおそう、とも発言していますが、いずれもキヨッソーネの描いた肖像画と大きく離れてはいません。

西郷隆盛はメタボで治療していた

西郷隆盛と言えば、一般的には体格の良いイメージを持つ人が多いはず。残っている軍服のサイズから、西郷隆盛の身長は178cm、体重は108kgくらいであったと推測できます。今で言うところの、典型的な「メタボ」だった西郷隆盛。

しかし、意外なことに、若い頃はすらりと痩せていたのです。

分かりやすいのは、沖永良部島の和泊(わどまり)にある西郷隆盛像。吹きさらしの牢の中、ろくに食べ物も与えられずに過ごした時代を現しているため、やせ細っていることで知られています。

転機となったのはその後、沖永良部島で座敷牢に入れられたときでした。運動不足となってしまった西郷隆盛は、この頃から太り始めたとされています。また、明治政府の高官となると、運動不足にも拍車がかかりました。

さらに西郷隆盛の大好物は、地元鹿児島名産の黒豚やウナギ。加えて甘党であったこともあり、次第に他人も心配するほどの肥満体型になっていきました。

暑がりの西郷隆盛は、自宅では裾の短い単衣で過ごしていたと言います。

それに加えて、西郷隆盛は深刻な体調不良に悩んでいました。征韓論で下野する際に提出した辞職願には、胸痛のために任務を遂行できないと書いています。

その後、1873年(明治6年)に下野する直前、明治天皇の勧めにより、当時来日していたドイツ人医師・ホフマンから肥満治療を受けることになりました。

そのひとつが散歩で、犬好きの西郷隆盛は、散歩のお供に犬を連れて行ったのです。当時、犬を散歩させるという習慣はもちろんなかったので、大変珍しい光景として、言い伝えられました。

このとき、胸の痛みは肥満が原因で心臓に負担がかかっているからだと診察された西郷隆盛。このままだと命にかかわると告げられます。そこで、ひまし油(植物油の一種)を下剤として飲んだり、甘い物は控えて、食事には少量の麦飯と脂身の少ない鶏肉を取り入れたりと、努力を始めました。

さらに上記で紹介した、西郷隆盛の趣味であったウサギ狩り。こちらもはじめは、運動療法として取り入れられた物でした。上野にある西郷隆盛像は、実はダイエット中の姿とも言えるのです。

このように、日本で初めて西洋式のダイエットに取り組んだ西郷隆盛。地道な努力の末、西郷隆盛は見事3年でマイナス30kgの減量に成功したと言われています。

西郷隆盛の弟「西郷従道」 

西郷隆盛には3人の弟がいました。次男:西郷吉二郎(さいごうきちじろう)、三男:西郷従道(さいごうじゅうどう)、四男:西郷小兵衛(さいごうこへい)です。このうち、西郷吉二郎は戊辰戦争で、西郷小兵衛は西南戦争で若くして戦死してしまいます。

生き残ったのは西郷従道だけですが、彼は西郷隆盛の影で目立つことはありませんでした。しかし、最後には侯爵の称号を与えられるまで出世します。西郷隆盛とは15歳も年が離れていたので、弟というより息子のような存在だったのかもしれません。

幼い頃の西郷従道は、藩主・島津斉彬の茶坊主として仕えていました。18歳の時に尊皇攘夷運動(尊王攘夷運動)に加わり、鳥羽・伏見の戦いで銃弾を受けるも、兄弟達のように戦死することはありませんでした。

西郷従道はその後、明治政府で陸軍少佐を任命されます。兄、西郷隆盛が征韓論で対立し、明治政府を下野したときも、西郷従道は東京に残り、兄とはそれが最期の別れとなります。

西郷従道は、歴史上は偉大な兄の影となっていますが、西郷隆盛、大久保利通が亡くなったあとは、薩摩閥として多くの功績を残し、日露戦争での勝利に貢献するなど、軍事においてもその手腕を発揮します。器も大きく、物事に動じない性質は、兄・西郷隆盛とも通ずるものがあったのかもしれません。

幼馴染だった西郷隆盛と大久保利通

大久保利通

大久保利通

西郷隆盛を語る上で、対のように出てくるのが大久保利通です。2人は同じ町内で育った幼馴染であり、西郷隆盛が大久保利通より3つ上の先輩にあたります。

西郷隆盛は、薩摩藩主・島津斉彬によって能力を見出され、薩摩藩の仕事をしていました。大久保利通もその後、藩職につきます。

島津斉彬没後は、2人は江戸で討幕派として新しい政府を目指し、その活動の中心を担いました。

明治時代に入り、明治政府の要職についてからは、それぞれの能力を活かし、新しい国づくり、改革へと突き進んでいきます。その後、大久保利通は岩倉具視使節団のメンバーとなり、欧米の制度・調査へ、一方の西郷隆盛は、内政において、廃藩置県や学位制度などに力を発揮しました。

しかし、国交が断絶した朝鮮に出兵し、武力で抑えようとした「征韓論(せいかんろん)」で対立した2人は、西郷隆盛が政府職を辞職という形で決裂。これを機に大久保利通と西郷隆盛は、新政府と反対勢力という立場になりました。

日本最後の内戦「西南戦争」で敵対し、盟友だった2人はそれぞれ悲惨な最期を遂げることになります。

西郷隆盛の残した名言

西郷隆盛が座右の銘とした「敬天愛人」(けいてんあいじん)。これは、「天を敬い、人をいつくしみ愛すること」という意味で、天は「真理」や「宇宙」「森羅万象」といった自然界の万物を指し、すべての人に、自分を愛し、平等に人を愛することを諭しました。

この教えは、旧庄内藩の人々が、生前の西郷隆盛の言葉をまとめた「南洲遺訓」(なんしゅうおういくん)という書に遺されています。

身分の違いもなく、老若男女にわけ隔てなく接した、誰からも好かれた西郷隆盛の人柄を表す一言でもありました。現在でも多くの経営者やリーダーに好まれて使われる言葉となっており、鹿児島では家訓としてこの言葉を掲げている人も多いと言います。

自殺未遂や二度の島流しといった波乱万丈な運命を受け入れ、自分の使命を全うした西郷隆盛ならではの名言と言えるのではないでしょうか。

西郷隆盛は大の犬好きだった

鹿児島

鹿児島

西郷隆盛の大らかで優しい人柄を伝えるエピソードには、よく犬の話が出てきます。愛犬家として知られる西郷隆盛ですが、多いときには20頭近くの犬を飼っていたそうです。

征韓論で対立し、明治政府の要職を降りた彼は、鹿児島に戻りました。指宿(いぶすき)の鰻温泉に長らく滞在した際にも13頭の犬を連れて湯治に行ったと伝えられています。

鰻が大好物の西郷隆盛は、鰻丼を注文しても自分は食べずに愛犬に与えたり、食料事情が悪くなっても、自分の食べ物を愛犬に分け与えたりするなど、愛犬のことを大切にしていました。

当時は、犬は狩猟や番犬として飼われており、今のようにペットとして飼うという発想はありません。犬を連れて散歩をするというのも大変珍しく、犬を連れている男の人を見れば、すぐに西郷隆盛だと分かったと言います。

壮絶な最期を遂げた西南戦争でも、戦地に愛犬を連れて行き、いよいよ追い詰められ、軍を解散するときには愛犬を戦場から逃がしたそうです。愛犬は、辛いことの多い人生だった西郷隆盛を癒してくれる存在だったと言えるのかもしれません。

これらの逸話が、上野に建てられた犬を連れる西郷隆盛像になっている所以です。

西郷隆盛
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。
戊辰戦争

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