「業物」(わざもの)とは、江戸時代後期の書物「懐宝剣尺」(かいほうけんしゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)において、「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)や「大業物」(おおわざもの)、「良業物」(よきわざもの)に次ぐ切れ味だと評価された93刀工のことです。
30~50歳前後の男子の胴で、平時に荒事をしていて骨組の堅い者の乳割(ちちわり:両乳首より少し上の部分を指す試し斬り用語)以上に堅い部分を切りつけ、10回中3~4回両断もしくは両断寸前まで切り込めた作例が、業物と認定されました。業物では、業物に選ばれた作例の傾向や特徴などについてご紹介していきます。
「懐宝剣尺」と「古今鍛冶備考」において、刀工が最上大業物、大業物、良業物、業物と格付けされていることからも分かるように、刀鍛冶が精魂込めて鍛えた日本刀であっても、切れ味には差異が生じてしまいます。切れ味が鋭い最強の日本刀を決めるのは、大きく分けると斬手(きりて:試し斬りを実施する人)の技量とその日本刀を作刀した刀工の技量です。
まずは、斬手の技量について。業物の選定において斬手を務めた「山田浅右衛門吉睦」(やまだあさえもんよしむつ)は、「釣り胴」(つりどう)ができるほどの技量を持っていました。
釣り胴とは、切れ味が鋭い最強の日本刀を試す「試刀術」(しとうじゅつ)における死体切断法。傾斜させた丸太の先端に刑死した罪人の死体を吊るし、胴を横に払って両断する切り方を指します。死体を地面に固定して行なう通常の試し斬りと異なり、非常に難しい技術でした。抜刀して斬りつけるまで、素早く行なわなければ、吊るした死体が動いてしまい、両断できなくなるためです。
また、刃筋が死体に対して直角に立っていないと、切断途中で湾曲が生じてしまい、やはり両断することができなくなります。山田家では9人の歴代当主がいますが、釣り胴で一刀両断できたのは、2代「山田浅右衛門吉時」(やまだあさえもんよしとき)と5代山田浅右衛門吉睦だけでした。山田浅右衛門吉睦は、作例の切れ味を引き出すには申し分のない使い手だったのです。
ちなみに2代山田浅右衛門吉時は、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の命によって、初めて「御様御用」(おためしごよう)を務めた人物であり、将軍の目の前で「越前康継」(えちぜんやつすぐ)の脇差を振るって見事に死者の胴を両断しています。
このような斬手の技量は、切れ味が鋭い最強の日本刀を決める大きな要素だったのです。
次に、刀工の技量について。切れ味が鋭い最強の日本刀を良くするためには、懐宝剣尺では「火加減の過不及によって業の甲乙あり」(鍛造を行なう際の熱処理が切れ味を左右する)と説かれているほど、熱処理の加減が重要です。日本刀の鍛造では「焼き入れ」と呼ばれる工程があり、火で熱して鍛え上げた刀身を長方形の容器に満たした水で冷却します。
この熱して一気に冷却する工程により鉄が適度に硬くなり、かつ反ることによって切れ味の良い刀となるのです。この際、使用する水の温度が非常に大切であり、低すぎても高すぎても仕上がりの切れ味が鈍ってしまうため、非常に繊細な熱処理技術が必要とされました。
しかし昔の日本刀鍛造において、工程のすべては経験則に基づいており、この適切な水の温度を知る確かな術はありませんでした。師匠の仕事を目で見て盗むしかなかったのです。
このように非常に繊細な「職人技」によって鍛えられた日本刀こそが抜群の切れ味を持ったため、刀工の技量は斬手の技量と同じく切れ味が鋭い最強の日本刀の要(かなめ)となっていました。
業物刀工中にも著名な人物がおり、その代表格とも言える人物が「井上真改」(いのうえしんかい)です。江戸時代前期に大坂で作刀した刀鍛冶であり、同じ業物に列せられている「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)とともに、大坂新刀の双璧と呼ばれています。
1658年(万治元年)前後、朝廷に作例を献上したところ激賞され、菊の御紋を茎に刻むことを許されました。見た目の美しさはもちろん、切れ味の鋭さも素晴らしい出来映えだったことがうかがえます。また、「鬼神丸国重」(きじんまるくにしげ)も有名です。摂津国(現在の大阪府北中部・兵庫県南東部)の池田(現在の大阪府池田市)で作刀をした刀工であり、作例には新選組三番隊組長を務めた「斎藤一」(さいとうはじめ)の佩刀が挙げられます。
この他、聴覚障害者であったがゆえに「聾長綱」(つんぼながつな)と呼ばれた「北村一右衛門」(きたむらいちえもん)や、鳥取藩池田家のお抱え刀鍛冶であった「信濃大掾忠国」(しなのだいじょうただくに)なども注目すべき刀工です。
業物 93刀工一覧 | ||
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会津兼友 | 会津国貞 | 伊賀守金道 |
和泉守金道(初代) | 和泉守金道(二代) | 出雲守貞重 |
出雲大掾吉武 | 出雲守吉武 | 伊勢守国輝 |
井上真改 | 埋忠重義 | 越前守助広 |
越前重高 | 越中守包国 | 越中守正俊 |
越後守包貞 | 近江大掾忠吉 | 近江守継平 |
近江守久道 | 長船春光 | 鬼塚吉国 |
加州勝家(初代) | 加州勝家(二代) | 兼植(江戸) |
勝兵衛清光 | 河内守国助(初代) | 河内守国助(二代) |
河内守国助(三代) | 河内守康長 | 河内大掾正広 |
加賀守貞則 | 金房政次 | 鬼神丸国重 |
国武(郡山) | 国維(大坂) | 国光(摂州) |
国義(小浜) | 上野国吉国 | 上野介吉正 |
五郎左衛門清光 | 作州兼景 | 相模守国綱 |
信濃大掾忠国 | 下坂継広 | 下坂宗次 |
下坂宗道 | 下原照重 | 助高(大坂) |
助信(大坂) | 関友常 | 千手院盛国 |
仙台安倫 | 高田貞行 | 高田重行 |
高田統行 | 高田行平(同位) | 高柳貞広 |
対馬守一法 | 筒井紀充 | 聾長綱 |
手柄山氏重 | 出羽大掾行広 | 出羽大掾国路 |
東連守久 | 土井真了 | 二王清実 |
信国重包 | 信国重貞 | 信吉(京) |
八幡山清平 | 花房備前守祐国 | 播磨大掾清光 |
播磨大掾忠国 | 播磨守輝広 | 広政(大坂・摂津) |
常陸守宗重 | 左陸奥守包保 | 備中大掾正永 |
伯耆守信高(初代) | 伯耆守信高(二代) | 伯耆守汎隆 |
法城寺正弘 | 堀川国幸 | 松葉本行 |
右陸奥守包保 | 武蔵守兼中 | 陸奥守歳長 |
山城守国清(初代) | 山城守国清(二代) | 山城守歳長 |
山城守秀辰 | 大和守吉道(初代) | 大和守吉道(二代) |
業物に選出された刀工の多くは、1596年(慶長元年)〜1780年(安永9年)の新刀期に活躍しています。それ以前の古刀期の刀工は、「長船春光」(おさふねはるみつ)や「金房政次」(かなぼうまさつぐ)、「二王清実」(におうきよざね)ら数名です。
ただし、最上大業物や大業物、良業物の方が古刀期の比率が高いのも事実。これは、古刀期の作例は戦乱の世を経ているため、結果として切れ味の良い作例ばかりが後世に残ったとも考えられています。
実際、切れ味の悪い鈍刀(どんとう:なまくらの刀)が可能なのは、手足への斬りつけや刺突のみ。当てる場所を間違えると折れるか、曲がってしまいます。その曲がりかたは、鍋鉉(なべづる)のような形状で、アルファベットの「U」の字を逆さにしたような具合でした。
これは江戸時代前期に成立した「雑兵物語」の中にも記載されています。
なお戦国時代では、雑兵は自前の刀を持たず「お貸し刀」と呼ばれる鈍刀を借りて合戦に参加していました。彼らは支給される飯で腹を満たすことや死体から鎧をはぎ取ることなどを主な目的として合戦に参加していた上、身に危険が及べば真っ先に逃亡。
刀の切れ味などはどうでも良かったのです。
一方、知行(ちぎょう:職務・国務を執り行なうこと)を有していた武士は刀工が手がけた日本刀を所持するのが通例。大将はもちろん、末端の兵に至るまで切れ味鋭い日本刀を用い、業物なども多数含まれていました。特に「首取り」(くびとり:敵の首を斬り取るときに用いる短刀)は手柄の証拠となるため、首を斬り落とせるだけの切れ味を必要としていたのです。
切れ味が鋭い最強の日本刀が区別した正規武士と雑兵の差も、知られざる日本刀剣史の一面と言えます。