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「平清盛」(たいらのきよもり)は、平安時代末期の貴族社会の中、伊勢平氏の家系に生まれます。当時、武士の身分は政治を司る貴族よりもずっと低く、何をするにも不利なことばかりでした。それでも平清盛は身を立てようと懸命に働き「保元の乱」や「平治の乱」では勝利を収め、武士としては初めての太政大臣に昇格するなど、目覚ましい活躍を見せます。そして興味を持っていた宋との貿易「日宋貿易」で日本国内の経済基盤を整えました。ここでは、平清盛の生涯とかかわってきた出来事についてご紹介します。

平清盛の生い立ち(たいらのきよもり)

武士として育てられ将来は平氏を率いる棟梁へと成長する平清盛ですが、実は母親が誰なのか分かってはいません。また武家というのは当時の貴族社会ではまだ認められておらず、若い頃は父と共に苦労を重ねていました。

平清盛を生んだ母親

平清盛

平清盛

平清盛は、1118年(永久6年)1月18日に、「桓武天皇」(かんむてんのう)に連なる伊勢平氏の棟梁「平忠盛」(たいらのただもり)の子として誕生しました。

生年月日については、鎌倉時代の公家「九条道家」(くじょうみちいえ)の日記「玉蘂」(ぎょくずい)に書かれていることから判明しています。けれど、母親の正体だけは判然としないのです。

鎌倉時代に著された軍記物語「平家物語」には、平清盛の母は「白河上皇」(しらかわじょうこう)に仕える「祇園女御」(ぎおんのにょうご:女御は後宮の位)だとする説があります。

平忠盛が白河法皇を害した僧侶を捕まえた褒美にと、祇園女御は平忠盛の妻として与えられたとあるのです。このときすでに祇園女御のお腹には子供がおり、それがのちの平清盛だとされています。そのため平清盛は、白河法皇のご落胤説もあるのです。

または、「胡宮神社」(滋賀県犬上郡)所有の文書では祇園女御の妹だとする説もあります。妹は平清盛を生むとすぐに亡くなってしまい、それを引き取って育てていたのが祇園女御だと言うのです。祇園女御の子か、その妹の子か、どちらにしても確実な根拠に欠けるため、確かなことは分かっていません。

父・平忠盛の昇殿が認められる

平忠盛

平忠盛

当時の武士は、摂関家摂政関白に任ぜられる家柄。藤原氏、近衛家など)はもちろん、他の公家よりも当然身分が低く、扱いはあまりよくありませんでした。

それが1132年(長承元年)に父・平忠盛は、「鳥羽上皇」への忠節や働きなどが認められると、京都の内裏にある清涼殿(天皇の住居)へ行くことを許され貴族となります。

これを「昇殿する」と言い、清涼殿へ上がることができる人のことを「殿上人」と言いました。武士が殿上人になることは、当時としては稀なことで、多くの貴族の反感を買うことになってしまいます。

しかしこの父・平忠盛の昇進が、平清盛が昇進するための足がかりにもなるのです。1129年(大治4年)に、「洵子内親王」(じゅんしないしんのう)の後押しで昇進が叶い、平清盛も武士ながら父と同じく貴族に昇格することができました。

その後は、1137年(保延3年)に「熊野神社」(和歌山県田辺市)の本宮造進を行うと、こうしたことを評価され、父子ともども昇進。このとき平清盛は、肥後守に任じられ受領の地位を得ています。

祇園闘乱事件によって危機に瀕する

平清盛は、父・平忠盛と共に院近臣(いんのきんしん:上皇に仕える臣下)として順調に歩みを進めていました。1147年(久安3年)に行われた「八坂神社」(京都市東山区)の祇園臨時祭にて平清盛は、田楽を奉納することになり楽人達を送り込みます。

その護衛に平氏の配下を付かせたのですが、祇園社側に武装解除を求められたもののこれを拒否したことで小競り合いに発展。平氏側の放った矢が神殿に当たり、その他にも神官を負傷させるなどしてしまいました。

この乱暴な行いに祇園社側と、その本山である「延暦寺」(滋賀県大津市)側が怒り、平清盛と父・平忠盛の配流を要求。加えて武装した僧兵を京都に送り込む強訴(ごうそ:寺社勢力による訴え)を起こしました。鳥羽上皇は、摂政「藤原忠通」(ふじわらのただみち)や、内大臣「藤原頼長」(ふじわらのよりなが)らを集めて御所で緊急会議を行います。

寺社勢力のなかでも延暦寺は僧兵3,000人という大規模な兵力を持っていたため、なるべくなら衝突を避けたかったのです。藤原頼長は平清盛と父・平忠盛を配流に処すよう強く要求しましたが、藤原忠通は2人を擁護。鳥羽上皇は藤原忠通の意見を取り、罰金銅30斤(約18kg)という寛大な処置に終わります。

平清盛と異母弟との関係

配流を回避した平清盛でしたが、祇園社乱闘事件のイメージは拭いにくく、異母弟「平家盛」(たいらのいえもり)は役職を上げ平清盛に迫る勢いを見せます。平清盛の地位を超えるようなことになれば、棟梁の座は弟・平家盛に転がり込む可能性もありました。

それが祇園社乱闘事件から2年後の1149年(久安5年)に、平家盛は鳥羽上皇の熊野参詣に随行しますが、その帰り道に急逝。平清盛にとっては心中複雑なことですが、弟の死去によって平清盛の立場は嫡子として盤石なものになりました。

皇室の争いに武士が介入した戦い「保元の乱」

1153年(仁平3年)に父・平忠盛は亡くなり、その跡継ぎとして平清盛は棟梁の座につき重職である安芸守に任じられていました。その後1156年(保元元年)に、鳥羽上皇の子である兄「崇徳上皇」(すとくじょうこう)と弟「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の対立をきっかけとした戦い「保元の乱」が起きます。

原因は親子間の諍い

1155年(久寿2年)に「近衛天皇」(このえてんのう)が崩御したことで後白河天皇が即位。その後、鳥羽上皇は出家して法皇となり、父として院政(天皇が譲位後に政治を行うこと)を敷くようになります。しかしここで面白くないのが近衛天皇の前の天皇だった崇徳上皇でした。

崇徳上皇には子「重仁親王」(しげひとしんのう)がおり、近衛天皇のあとに即位するなら後白河天皇ではなく、重仁親王が順当だと考えていたのです。この崇徳上皇の父は鳥羽法皇とされていますが、鎌倉時代に書かれた説話集「古事談」によれば崇徳上皇の本当の父親は鳥羽法皇ではなく祖父・白河法皇だと書かれています。

崇徳上皇は、白河法皇と母「待賢門院」との密通による子供だと噂され、崇徳上皇と鳥羽上皇の関係を表して「叔父子」などと書かれているのです。

当然ながら鳥羽上皇は崇徳上皇を疎んじて、崇徳上皇が院政をしくことを阻止してしまいます。さらに、鳥羽法皇の計画では崇徳上皇の弟・後白河天皇も早くに譲位させ、自身の寵姫「美福門院」(びふくもんいん)の子「守仁親王」(もりひとしんのう)を皇位に就けようとしていたのです。こうして鳥羽法皇は自身の院政が長く続くようにしていました。しかし後白河天皇は、守仁親王の中継ぎという立場に甘んじることなく、のちに大きな活躍をみせるようになるのです。

継母「池禅尼」の決断

1156年(保元元年)に病弱だった鳥羽法皇が崩御。崇徳上皇を抑えて政治の実権を握っていた鳥羽法皇が亡くなったことで朝廷の体制が大きく揺らぎます。

このとき、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」(崇徳上皇と藤原頼長が軍を率いて反乱を起こそうとしている)といった噂が流れ始めます。

この噂を耳にした後白河天皇は、藤原頼長が兵を集めることができないよう、領地や財産を没収します。実はこの噂は、後白河天皇の院近臣「信西」(しんぜい:信西は出家名で、俗名は[藤原通憲])が流したと考えられているのです。

  • 信西
    信西
  • 源義朝
    源義朝

そしてこの噂によって追い詰められた崇徳上皇と、謀反人となった藤原頼長は、挙兵するしかない状態になります。そして、平清盛ら武士も崇徳上皇か後白河天皇どちらかの派閥に付くかを迫られることになりました。

崇徳上皇派には、藤原頼長、「源為義」(みなもとためよし)と子「源為朝」(みなもとのためとも)、平清盛の叔父「平忠正」(たいらのただまさ)が付きます。そして後白河天皇派には、関白・藤原忠通と信西、源為義の長男「源義朝」(みなもとのよしとも)です。

平清盛も本来なら叔父一族・平忠正にならって崇徳上皇派に付く予定でしたが、継母「池禅尼」(いけのぜんに)の決断によって平清盛は一門揃って後白河天皇派に付くことになります。家督を継いだのは平清盛ですが、一門の長として池禅尼の決断は重要視されていました。

叔父一族と対立する形になってしまいましたが、池禅尼は臣下の身分で天皇と対立すれば朝敵となってしまうと考え、後白河天皇側に付くと決めたとされています。

後白河天皇を勝利に導く

1156年(保元元年)の7月10日、崇徳上皇の御所「白河北殿」(現在の京都市左京区)に藤原頼長や、崇徳上皇に味方する武士らが集結しました。そして源義朝の案である夜襲作戦を取り入れた信西が采配を振るい、翌日の7月11日未明に決行。

平清盛は300騎で二条通りから、源義朝は200騎で大炊御門通りから向かい、両軍が対峙することになる戦い、保元の乱が開始します。午前8時頃に白河北殿に隣接する屋敷に火がかけられ、その火は白河北殿に燃え移ると崇徳上皇側は総崩れ。崇徳上皇と藤原頼長は脱出するものの、逃走中に捕らえられます。

藤原頼長は戦による傷が原因で亡くなり、崇徳上皇は讃岐国(現在の香川県)に配流となりました。そして投降した源為義や平忠正は謀反人として処刑が決定。その処刑は、平清盛や源義朝など親族に任されることになります。

こうして保元の乱では、朝廷での内部抗争を解決するために、平清盛や源義朝といった武士の力を借りて戦いました。そのため、この乱以降、朝廷内で武士の立場は大きく増していくことになります。

朝廷内での2度目の対立「平治の乱」

保元の乱に勝利した後白河天皇は「治天の君」(ちてんのきみ)として、朝廷の実権を握ることになりました。

ところが後白河天皇の院近臣である、信西と「藤原信頼」(ふじわらののぶより)が対立。その2人の対立によって起きた政変が1159年(保元4年/平治元年)の「平治の乱」です。

後白河天皇に認められるようになる

保元の乱においての平清盛は、叔父一族を処刑するといった犠牲を払いましたが、戦いでの立ち位置はあくまで脇役に過ぎませんでした。けれどその反面で得た成果は大きなものだったのです。まずは平清盛が播磨守に、弟ら平経盛(たいらのつねもり)は常陸介、「平教盛」(たいらののりもり)は淡路守、「平頼盛」(たいらのよりもり)は安芸守に任じられます。

播磨守は父・平忠盛も任じられたことのある最高位の受領であり、ようやく平清盛は父と並ぶところまで到達することができたのです。このように平氏一門の政治的な地位は大きく上昇し、また保元の乱にて戦った経験から、平氏一族や家人との結束も深まっていました。

やがて平清盛は、1163年(応保3年/長寛元年)に任期の途中でしたが播磨守を、娘の婚約者となる信西の息子「藤原成範」(ふじわらのしげのり)に譲ります。そして平清盛自身は、「太宰大弐」(だざいのだいに)に就任。

太宰大弐は太宰府(現在の福岡県に置かれた朝廷の機関)の次官でしたが、大弐が任じられる場合は長官に誰も就かないことが約束となっているため、平清盛は実質、太宰府長官に就いたことになるのです。太宰府は、宋との貿易の中心でした。

父・平忠盛も肥前国の領地を任されていたときに、太宰府を通すことなく私貿易で財を成していたこともあり、平清盛自身も宋との貿易に興味を持っていたと考えられます。

新たに内部分裂をする朝廷

朝廷は、保元の乱のあった保元元年(1156年)の9月に後白河天皇が「保元新制」と呼ばれる新制を発令しました。この新たな国政改革を立案・推進したのは後白河天皇の院近臣で側近の信西。後白河天皇に信頼された信西と、その一族の台頭は目覚ましいものでしたが、同時にかつて後白河天皇に重宝された院近臣達からは反発を買い恨まれるようになります。

また後白河天皇は、守仁親王の中継ぎとして即位していたため1158年(保元3年)に「二条天皇」に譲位し、後白河上皇となりました。なんとこの譲位の手助けをしたのが信西だったのです。もともと信西は、守仁親王の擁立を図っていた美福門院との関係が強かったため信西は逆らうことができませんでした。

この出来事から後白河上皇は信西を遠ざけ、代わりに「藤原信頼」(ふじわらののぶより)を重用するようになります。平清盛は、娘を信西の息子に嫁がせる約束をしていましたが、藤原信頼とも親交を結んでおり各有力者と一定の距離で交流していたことから政治的には中立を保っていました。

しかしながら保元の乱以降、多くの平氏が朝廷に出仕するようになったので、平氏もひとつの派閥として注目されていました。こうして朝廷内部は、信西派、二条天皇派、藤原信頼の後白河上皇派、平氏一門というような派閥が形成されることになったのです。

なかでも二条天皇派と後白河上皇派は激しく対立していましたが、権力を持ち過ぎた信西を追い落とすという点では意見が一致していました。

平清盛の留守を狙って後白河上皇の御所を襲撃

1159年(平治元年)の12月9日未明、後白河上皇の御所「三条殿」が藤原信頼と、その命令に従っていた源義朝によって襲撃されます。そして後白河上皇の身柄を確保し内裏に軟禁。信西派を一掃するためのクーデターでしたが、事前に察知していた信西はすでに大和国(現在の奈良県)へ逃亡を図ったあとでした。

12月10日には信西の息子や、親族を捕縛。逃走した信西本人も12月14日に発見され、その場で首をはねられています。このとき平清盛は、息子・平重盛ら親族を連れて熊野参詣に向かっている途中で、京都を留守にしていました。平清盛は中立的な立場でしたが、反信西派は平清盛が相手勢力に味方しないようにと、この隙をついてクーデターを起こしたと言います。

藤原信頼は、内裏に二条天皇と後白河上皇を軟禁して政権を掌握。臨時の除目(じもく:官位を任命すること)を行い、功績を挙げた源義朝を播磨守に任命し、その子「源頼朝」(みなもとのよりとも)を右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に任命しました。熊野参詣の途上、紀伊国(現在の和歌山県)でクーデターの急報を受けた平清盛は、源義朝からの襲撃をおそれて九州や四国に落ち延びることを思い立ちます。

しかし腹心らに諭され、また紀伊国の豪族の協力などを受け、京都へ戻ることを決意。平清盛にとっては、1147年(久安3年)に起きた延暦寺の強訴以来の窮地でしたが、打倒信西による蜂起だったためどの勢力にも阻まれることなく帰京をします。そして信西を倒すという目標を達成した二条天皇派と後白河上皇派は、再び対立を始めていたところでした。

平清盛は、密かに二条天皇派と連携し、内裏の御所から二条天皇を脱出させ六波羅(現在の京都市東山区鴨川沿い)にある平清盛邸に匿います。このことを知らされた後白河上皇も、院近臣らを残して御所を脱出し「仁和寺」(現在の京都市右京区)へ逃れました。

このとき源義朝は藤原信頼の失態を口汚く罵ったとされています。それもそのはずで、これによって藤原信頼や源義朝は、二条天皇と後白河上皇を失うことになり自分達の行いを正当化する根拠も失ってしまうからです。それどころか二条天皇によって平清盛には追討命令が下され、藤原信頼達は朝敵となってしまいます。

その後、藤原信頼側からは賊軍となることをおそれ離反者が続出。逆転を賭けて平清盛邸に向かった源義朝の軍勢はなんとたったの数十騎という有様、当然ながら平清盛に惨敗します。藤原信頼は捕縛され三条殿襲撃の首謀者として処刑され、源義朝も逃走中の尾張国(現在の愛知県西部)で配下に裏切られ殺害されます。

初陣したばかりの少年だった源義朝の子・源頼朝は捕縛後に、平清盛の継母・池禅尼から憐れまれ処刑を免れると、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)へ配流の刑となりました。武士の社会では仇討ちなどの報復を防ぐためにも、少年とは言え処刑するのが一般的でしたが、池禅尼の願いを聞き入れたばかりに、この20数年後に平氏にとって大きな禍根を残すことになります。

日宋貿易で日本の経済基盤を整える

平清盛は、平治の乱の功労により昇格し続け武士としては初めての太政大臣への就任。そして「日宋貿易」を開始し、これにより通貨財政の基礎を築きました。

太政大臣の役職に就任する平清盛

平治の乱による戦いで、朝廷の権力者だった藤原信頼と源義朝、信西が亡くなりましたが、乱収束後も後白河上皇によって次々と有力貴族達は命を落とす、あるいは配流されるなどの憂き目にあいます。

一方の平清盛は、平治の乱と同年1159年(平治元年)の6月20日に二条天皇を邸宅に招き、その恩賞として正三位(しょうさんみ)となり、貴族の中でもより身分の高い公卿(くぎょう)の座に列するようになりました。その後、数ヵ月のうちに参議(さんぎ)、右衛門督(うえもんのかみ)と異例の昇進を続け、平治の乱に参戦した平氏一門らも多くが昇進します。

さらに1166年(仁安元年)の11月11日に、平清盛は内大臣に昇進し、翌年の1167年(仁安2年)2月11日に平清盛は太政大臣の役職に就任しました。かつて院近臣や武士身分の者が大臣の役職に就いたことはないため、これらが空前の人事だったことが分かります。

1167年(仁安2年)の5月10日に、平清盛の長男・平重盛に東海道、東山道、山陽道、南海道への盗賊追補(治安警察)の権限が与えられていますが、これは平清盛がもともと持っていた軍事権限を譲った形となるため、ここに平清盛の後継体制も整ったことになるのです。そして同年1167年(仁安2年)5月17日に平清盛は、太政大臣を辞して家督を平重盛に譲ると、政治の一線から退くようになります。

念願だった宋との貿易を開始する

翌年の1168年(仁安3年)、平清盛は病にかかりました。病の原因は「寸白」(すばく:寄生虫の一種)だったとされていますが、同年の後半頃には回復。そんな平清盛は、病の最中に出家し「清蓮」と名乗るようになると、以降は「太政大臣を辞して出家した人」として「入道前大相国」(にゅうどうさきのだいしょうこく:大相国は太政大臣の中国風の呼び名)あるいは「入道大相国」などと称されるようになります。

自由な隠居の身となったことで、念願だった貿易に着手しようと京都から福原(現在の神戸市兵庫区と中央区)へと拠点を移しました。

福原は平清盛の荘園のひとつで、近辺には古代からある港「大輪田泊」(おおわだのとまり:現在の神戸市兵庫区)がありました。平清盛は1171年から1174年の承安年間に、港の修復に取り組み、瀬戸内海を利用した日宋貿易を開始します。

宋は10世紀頃に中国を統一した王朝であり大規模な海外貿易を推進し、日本との貿易もさかんに行われていました。さらに宋からは典籍・織物・香料・銭などがもたらされ、日本も刀剣・漆器・砂金などを輸出。平清盛によって日宋貿易はさらに発展を遂げることとなります。

平清盛が目指した日宋貿易

今まで貿易船との対応と言うと、博多で太宰府の役人が行うのが通例であり、瀬戸内海に入ることは禁じられていました。外国人に国内の海を渡らせるのはとても危険な行為のため、それを大輪田泊という京都から近い港に来着を許すのは、従来の慣行を破る行いだったのです。

大輪田泊の改修も、「延慶本平家物語」には1173年(承安3年)に平清盛の父祖の代から仕えている阿波国の武士「田口成良」(たぐちのしげよし)に命じたと記載があります。田口成良は水軍を率いた人物で、海上交通や港湾整備に精通していました。

平清盛の祖父、父は海賊討伐を任されることもあったため、その制圧の際に水軍とも関係を深めたと考えられています。大輪田泊の改修によって航行経路を安全にすることで、大陸からの物流を良くし、宋銭を流入させるなどして、朝廷経済を活性化させました。

厳島神社の保護と改修

厳島神社

厳島神社

瀬戸内海水運の発展に力を入れていた平清盛は、「厳島神社」(広島県廿日市市)を手厚く保護していたと言います。

厳島神社は安芸国に鎮座し一宮(地域の中で最も格式の高い神社に与えられる称号)の格を与えられた神社であり、古くから海上交通を司る神を祀っていました。

平清盛は安芸国の有力武士で、平氏の家人となっていた厳島神社の神主「佐伯景弘」(さえきかげひろ)とつながりを得て、社殿改修を援助しています。

1164年(長寛2年)には、平氏一門の繁栄を願って華麗な装飾がなされた経巻「平家納経」を奉納。現在は、国宝に指定され厳島神社の宝物館が保管しています。平家納経は平氏の財力の高さや、平安時代末期の工芸技術を結集して作られた最高傑作です。

皇室とつながりを得て結束を強める

高倉天皇

高倉天皇

平清盛が太政大臣を辞してのちの1171年(承安元年)12月、平清盛の長女「徳子」が後白河上皇の第7皇子「高倉天皇」(たかくらてんのう)に入内しました。

そして徳子は、中宮という天皇の后のなかでも最上位の地位を与えられることになります。

武家の娘が天皇の后、それも最上位の位を得るのは異例のことでしたが、すでに表立って平氏に意見することができる人物はいませんでした。そして高倉天皇の母は平清盛の妻「時子」の妹「建春門院」(けんしゅんもんいん)であったので、もとより皇室とのつながりを得ていましたが、その縁はさらに強まることとなります。

平清盛は、奈良時代から天皇と婚姻関係を結んできた藤原氏と同じ摂関政治の道を歩んでいました。しかも天皇家の身内となった平氏一門はより頂点を極め、藤原氏すらも凌駕する勢いだったのです。さらに、平清盛の次女「盛子」は摂関家の「藤原基実」(ふじわらのもとざね)に嫁ぎ、その子「藤原基通」(ふじわらのもとみち)を通して藤原氏の支配権を掌握していました。

栄華を極めた平清盛への反発

平清盛は平治の乱以降、勢いを付け、平清盛の太政大臣の就任、長男・平重盛や三男・平宗盛の要職への就任。その他、平氏一門による官職の独占など、朝廷では他に並ぶ者がいないほどの地位を確立しました。そうなるとやはり生まれるのが、朝廷内の平氏への反発。平氏打倒の密談をし、平清盛を討つためのクーデターなどが計画されるようになったのです。

貴族達の密会「鹿ヶ谷事件」の粛清

1177年(治承元年)の6月1日、後白河上皇の院近臣である「藤原成親」、「西光」、「俊寛」らが東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)にある山荘で平氏一門を打倒する密談をしたと密告がありました。その内容は平家物語によれば、平氏に対する悪態をつきながら酒宴を行っていたというもの。密告者は、その場に居合わせた摂津源氏の「多田行綱」(ただのゆきつな)です。

平清盛はこの関係者を厳しく処罰し、藤原成親は備前国(現在の岡山県東南部)に配流したのちに殺害、西光は斬首、俊寛は鬼界ヶ島(現在の喜界島)に配流となりました。鹿ヶ谷事件の収め方については、かつては何事にも冷静沈着な判断を下してきた平清盛とは思えない感情的な行動です。こうした出来事が、横暴とも言える振る舞いだけが切り取られ後世の「悪役」として定着していくこととなるのです。

平清盛の起こした「治承三年の政変」

陰謀が本当にあったかどうかは別として、自身の側近に過酷な処分を下された後白河上皇は平清盛に対して怒りを隠せません。鹿ヶ谷事件によって平清盛と後白河上皇との対立は決定的なものとなってしまいました。

後白河上皇は、報復として1179年(治承3年)に亡くなった長男・平重盛の領地である越前国(現在の福井県北東部)を没収。同じく亡くなっていた次女・盛子に変わり平清盛が統治していた摂関家の領地を、後白河上皇は剥奪してしまいます。こうした振る舞いを平清盛も見過ごすことはありませんでした。

前年の1178年(治承2年)に高倉天皇と長女・徳子との間に皇子(のちの[安徳天皇])が生まれ、天皇の外戚という地位を確保していたこともあり、後白河上皇の権力に固執する必要がなくなっていたのです。

後白河上皇に対して遠慮する理由がなくなったので、報復を受けた平清盛は1179年(治承3年)11月14日に数千騎の武士を率いて福原から上洛。後白河上皇の身柄を幽閉し、院政を停止させると、さらに院近臣の貴族達を罷免しました。そして一連の処分が完了したのを見届けると、同年11月20日に福原へ帰還しています。これが、治承三年の政変と呼ばれる出来事です。

このクーデターの結果、表向きは高倉天皇による治世となりましたが、裏ではもちろん平清盛がしっかりと手綱を握っていました。そして非常に歪な形ながら、これが日本初の平氏による武家政権の誕生でもあります。

平氏打倒の呼びかけ「以仁王の令旨」

平清盛が後白河上皇への行いなどの事態の推移を見て、「以仁王」(もちひとおう)が立ち上がりました。平氏打倒を掲げた「以仁王の令旨」を出して、全国の源氏に挙兵を促したのです。

不遇の皇子が抱いた夢

以仁王

以仁王

以仁王は、後白河上皇の第3皇子ではありますが母親の身分が低かったため親王宣下(皇族の子女に親王及び内親王の地位を与えること)を受けることができず、皇子として生まれたものの肩身の狭い生活を強いられていました。後白河上皇の妹「暲子内親王」(しょうしないしんのう)の庇護を受けながら、皇位継承権を望み続けていたのです。

高倉天皇は異母兄となり、当時から兄弟間での皇位移動はよくあることでした。ただそれは高倉天皇が皇位にある間だけの話で、1180年(治承4年)2月にその子・安徳天皇が即位したことで、以仁王即位の道は完全になくなります。

自身の即位を考えた以仁王の取った行動が、平清盛を倒して政治支配そのものを排除しようという方法でした。1180年(治承4年)5月に、諸国の源氏や寺社勢力などに「後白河上皇を幽閉し院政を無理やり停止させ、多くの近臣の役職を奪った平清盛は謀反人だ」と断じて発されたのが、以仁王の令旨です。

武装蜂起したものの呼びかけに応える勢力は少なく、その数日後に京都周辺の加幡河原で平氏の追討軍に討たれ以仁王は戦死。このときは大規模な戦いになることなく反乱は鎮火されますが、以仁王の令旨はのちに源平合戦である「治承・寿永の乱」の導火線となります。

福原遷都と源頼朝の挙兵

以仁王の挙兵は鎮圧できましたが、京都周辺で反平氏が武装蜂起したことに衝撃を受けた平清盛は、福原に都を移そうと思い立ちました。そして1180年(治承4年)6月に後白河上皇、高倉上皇、安徳天皇を福原に行幸させています。

このことを一般的に「福原遷都」と言いますが、その実態はただ上皇と天皇、そのお付きとなる貴族らが居住を変えただけで行政機関すら移動していません。そのため厳密に言えば、遷都と称するのは誤りだと考えられています。

そして1180年(治承4年)8月に、以仁王の令旨に応えた源頼朝が伊豆国で挙兵。以仁王の令旨が発されてから数ヵ月を要したのは慎重派の源頼朝ならではですが、平治の乱で命を落とした父・源義朝の敵を討つためという動機が背中を押したことは確実です。

その後、孫「平維盛」(たいらのこれもり)が「富士川の戦い」で源頼朝軍に大敗して福原に帰還すると、平清盛は源氏を本格的に討つために拠点を福原から京都へと戻すことにしました。

平清盛の「南都焼き討ち」

その後も平氏打倒の動きを見せた「興福寺」(奈良市登大路町)勢力が近江国(現在の滋賀県)の源氏と連携したという情報を得ると、平清盛は家人「妹尾兼康」(せのおかねやす)に様子を見に行かせます。

すると興福寺側によって、妹尾兼康の配下60数人の首がはねられ晒されたと知らせを受けた平清盛は激怒し、本格的な攻撃を開始。戦いとなる以上は被害が出るのは仕方のないことですが、これにより興福寺だけではなく「東大寺」(奈良市雑司町)の大部分が焼失してしまいました。平清盛はさらに「南都焼き討ち」という後世に残る悪行を重ねることになります。

後白河上皇と平清盛の最期

1181年(治承5年)の1月8日に、平清盛の三男で棟梁を継いだ「平宗盛」(たいらのむねもり)が畿内惣官職(きないそうかんしき)に任じられました。畿内惣官職は京都周辺の軍政を行う臨時の役職であり、ついに東国の源氏との戦いに備えた体制がしかれるようになったのです。

そんな折に平清盛は1181年(治承5年)に病に襲われ、その熱に苦しみながらも平清盛は後白河上皇に三男・平宗盛と協力し安徳天皇を擁しながら政治をするように求めていました。

しかし後白河上皇はその問いかけの答えをはぐらかしたとあるので、両者の関係は最後まで修復することなく終わったと言えます。そして同年の2月4日、平清盛は64年の波乱に満ちた人生を終わらせます。死因については、当時の貴族達の間では「興福寺や東大寺を焼いた仏罰に違いない」などと噂されました。

ただ現実はそんなわけもなく、急な発熱による病状、そして短期間で命を落としていることなどからマラリア、あるいは季節的にインフルエンザや肺炎などが死因の可能性として挙げられます。平清盛亡きあとは、三男・平宗盛が平氏一門の指揮を執り、「源義仲」(みなもとのよしなか:[木曽義仲])や、源頼朝率いる「源義経」(みなもとのよしつね)など源氏の武将と戦いを繰り広げ、1185年(文治元年)に「壇ノ浦の戦い」で完敗。平氏は滅び去り、源氏による武家政権が樹立します。

平清盛は本当に悪逆非道だったのか

平清盛は、長く日本史において代表的な「悪役」として描かれてきた回数の多い人物でした。平家物語を筆頭に、「栄えていたが、おごり高ぶったせいで滅んだのだ」というように書かれています。事実、当時の庶民や貴族を恐怖に震撼させる非道なことをしていました。

1177年(治承元年)の鹿ヶ谷事件では、後白河上皇の院近臣、藤原成親、西光、俊寛に苛烈な処分を下し、南都焼き討ちでは興福寺と東大寺を燃やし多くの僧侶を犠牲にしています。ただこれらは政治闘争の出来事で一方的な残虐行為ではありません。

どの時代の偉人達も反対勢力に対しては容赦のない行いをしてきているので、平清盛だけが悪だというのは筋が通らないことです。この平清盛の「奢る独裁者」や「悪逆非道な人物」といった意識は、鎌倉時代に書かれた平家物語に多い描写となります。書かれた当時、源頼朝が開いた鎌倉幕府の全盛期であり、あえて平清盛や平氏を悪とすることで、勝利した源氏がいかに正義であるかを説いてもいるのです。

本当に悪い人物なら、鳥羽上皇や後白河上皇からそもそも信頼されませんし、多くの昇進を重ねることは難しかったのではないでしょうか。平清盛の行動について鎌倉時代初期の史論書「愚管抄」には「よくよく慎みて、いみじく図らいて、彼方此方しける」(慎重に考え、あちこちに気を配って行動する者)というようにやや皮肉めいた評価ですが、いかに気遣い屋であったかが伝わります。

また鎌倉時代中期の説話集「十訓抄」には、平家物語とはまったく異なる平清盛像が語られているのです。十訓抄は「人が学ぶべき10の教訓」を説いた本であり、その7巻27話で、「若い頃の平清盛がどのように立派だったかと言うと、どんな嫌なことも笑って受け止める度量があり、他人の失敗も怒鳴り散らすことのない穏やかな人物である」というように書かれています。

十訓抄が平家物語の書かれた同時代の成立であるのに、若い頃の平清盛に触れて好意的に評していることも注目ですが、何よりも優しく穏やかな面があったことも語り継いでいる内容となっているのです。

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