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ローレン・バコール、恋と仕事に生きたハリウッド黄金期の女優の生涯。

1950年代、ハリウッド黄金期に活躍した大女優のローレン・バコールが、8月12日にニューヨークの自宅で亡くなった。享年89歳。モデルからハリウッドスターへと華麗な転身を遂げたシンデレラストーリー、名優ハンフリー・ボガードとの年の差婚、死別後の恋や再婚……。最晩年まで現役で輝き続けた彼女の、波瀾万丈な生涯を振り返る。
Photos: AFLO

ニューヨークの移民家庭からモデルへ。
監督に大抜擢され、一躍ハリウッド・スターに。
ハンフリー・ボガートとの出会い、結婚。
フランク・シナトラとの婚約、そして破局。
俳優ジェイソン・ロバーズとの再婚。
85歳でアカデミー賞名誉賞を受賞。最晩年まで、現役の女優として活躍。

ニューヨークの移民家庭からモデルへ。

10歳のローレン。整った顔だちにあどけなさも残る笑顔が印象的。 Photo:Everett Collection/AFLO

ローレンは1924年9月16日、ニューヨークのブロンクスで、ヨーロッパから移民してきたユダヤ系の両親のもとに生まれた。本名はベティ・ジョーン・パースク。6歳のときに両親が離婚し母親に引き取られ、8歳から母の旧姓「バコール」を名乗るようになった。母娘2人の生活は決して楽ではなかったが、親戚の援助を受けながら学校に通い、幼い頃から女優に憧れていた彼女はバレエのレッスンにも通う。マンハッタンの高校に通いながら、ときどき授業を抜け出して、憧れの大女優ベティ・デイヴィスの追っかけをしていたこともあるんとか。

17歳から演劇学校「アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツ」で演技を学び始める。デビューは1942年、ブロードウェイの舞台「Johnny2×4」に通行人役として出演と極めて地味なものだったが、173センチの長身にブロンド、ブルーグリーンの瞳の美貌が、伝説のファッション・エディター、ダイアナ・ヴリーランドの目に留まり、モデルとしても活躍を始める。その後、『VOGUE』をはじめとする数々のファッション誌の表紙を飾ることになる。

監督に大抜擢され、一躍ハリウッド・スターに。

撮影時はまだ19歳! 10代とは思えない妖艶さ。 Photo:Everett Collection/AFLO

女優だけでは生活が苦しく、劇場案内係のバイトと並行して続けていたモデルの仕事がスターへの道を切り開く。ハリウッドの名匠、ハワード・ホークス夫人のナンシーが雑誌の表紙を飾っていたローレンに目を留めて、夫の新作『脱出』(1944)のヒロイン候補に推薦したのだ。ちなみにホークス監督は、秘書に調査を頼んだところ、秘書は早とちりをしてローレンにハリウッド行きのチケットを送ってしまったことから、スクリーン・テストへの参加が実現した。

幸運な偶然が重なってハリウッドへやって来たローレンは、ホークス監督に気に入られ7年間の契約を結ぶ。そしてその監督が、その後一躍有名になる芸名“ローレン・バコール”の名づけ親となった。印象的な低音のハスキーボイスも監督の指導によって生まれた。ハリウッドのソーシャライトだったホークス夫人も、スタイリングやエレガントな身のこなしなどを徹底的に教え込み、当時19歳とは信じられないほどに大人びたクール・ビューティのイメージを作り上げたのだ。

ハンフリー・ボガートとの出会い、結婚。

オハイオ州のボギーの友人宅で挙式。20歳のローレンは弾けんばかりの笑顔。 Photo: Everett Collection/AFLO

1944年、ローレンはホークス監督の『脱出』のヒロインに抜擢され、25歳上のスター、ハンフリー・ボガート(ボギー)と共演すること。初めての大役で緊張のあまり、ガタガタ震えていた彼女はそれを隠すためにあごを思いきり引いて、上目遣いでボギーを見つめた。それが“ザ・ルック”と名づけられてローレンのトレードマークとなった強い眼差しの原点だ。
撮影が進むにつれて、ローレンとボギーは次第に惹かれ合い、やがて恋に落ちる。ホークスもローレンを気に入っていたので横やりを入れてきたが、スクリーン・カップルとしての相性の良さから、続く『三つ数えろ』(1946)でも2人を起用した。ボギーは当時結婚していた妻と翌45年2月に離婚、3カ月後の5月21日にローレンと再婚した。ボギーは45歳、ローレンは20歳だった。

2人は結婚後も『キー・ラーゴ』(1946)、『潜行者』(1947)で共演。1949年には長男・スティーヴンが、52年には長女・レスリーが誕生し、円満な家庭生活を送っていた。やがて久々に夫婦共演作の話が持ち上がり、準備を進めていたところ、ボギーが食道がんに倒れてしまう。ローレンは献身的に看病したが、1957年1月14日、ボギーは死去。57歳だった。

フランク・シナトラとの婚約、そして破局。

シナトラとドレスアップして外出。 Photo: Everett Collection/AFLO

夫の死からほどなくして、ローレンが恋愛関係になったのは20世紀アメリカを代表するエンターテイナー、フランク・シナトラ。シナトラはボギーと親友で、病床の彼をひんぱんに見舞っていた。夫が亡くなると同時に、それまで友人だと思っていた人々が去っていくなか、シナトラは彼女のもとに残った1人。32歳で最愛の夫を亡くし、悲嘆にくれるローレンの気持ちは9歳上の彼に傾いていった。実はシナトラも大女優のエヴァ・ガードナーと離婚したばかり、もともと家にいるよりも外出するのが好きだったローレンとシナトラのデートはすぐに人目につくようになり、大物カップル誕生はハリウッドで大きな話題となった。

1958年、ローレンとシナトラは婚約するが、わずか数日間で婚約は解消、破局を迎える。シナトラのプロポーズの詳細が、ローレンの友人を介してゴシップコラムニストのルーエラ・パーソンに筒抜けになったのが理由。釈明の電話をかけたローレンに、シナトラはその場で別れを言い渡した。1カ月後にとあるディナー・パーティですぐそばの席に座ることになったが、彼はまるでローレンがそこに居ないかのように振る舞った。その後の20年間、偶然すれ違う機会があってもシナトラは彼女を無視し続けたという。

俳優ジェイソン・ロバーズとの再婚。

1961年、結婚直前にジェイソンが映画を撮影中のウィーンにて。 Photo: AFLO

60年代に入ると、ローレンはニューヨークに戻り、ブロードウェイの舞台に活躍の場を移した。そして1961年、ジェイソン・ロバーズと再婚する。友人のオードリー・ヘプバーンは、ローレンがまだジェイソンと出会う前に「きっと彼のことを好きになるわよ」と言っていたそうだが、共演をきっかけに2人はデートするようになる。ジェイソンが2歳上で同世代だが、既婚者で子供もいる相手だった。ローレンは後年、「誰かに愛してもらいたくて、誰かに頼りたくてたまらなかった」と当時を振り返っている。

同年10月にジェイソンの妻が離婚を申請し、ローレンとジェイソンはすぐに再婚。12月にローレンはジェイソンとの息子・サムを出産するが、1969年に離婚した。ローレンは離婚の原因について、ジェイソンのアルコール依存症だと自伝に記している。サムは10代で両親と同じく俳優の道へ進み、オフ・ブロードウェイの舞台を経て映画にも出演、1993年にはロバート・アルトマン監督の『プレタポルテ』でローレンと母子共演した。

85歳でアカデミー賞名誉賞を受賞。最晩年まで、現役の女優として活躍。

2009年、85歳でアカデミー賞名誉賞を受賞。凛とした視線は往年のまま。 Photo: ロイター/AFLO

舞台女優としてブロードウェイでは1970年の「アプローズ」と1981年の「Woman of the Year」(原題)でトニー賞ミュージカル部門最優秀主演女優賞を2度受賞している。
往年の名女優は、歳を重ねると自ら神秘のベールに包んで公の場に出なくなることも多いが、ローレンはありのままの姿で女優として活躍し続け、1996年『マンハッタン・ラプソディ』でアカデミー助演女優賞候補になった。惜しくも受賞は逃したが、2009年にはアカデミー賞名誉賞を受賞。ステージ上でトロフィーを受け取るや、「イェイ!」と叫んで高くかかげたお茶目な姿が本当の彼女なのだ。2000年代も『ドッグヴィル』など先鋭的な作品やナタリー・ポートマンが監督した短編『Eve』(原題)、荒地の魔女の声を担当した『ハウルの動く城』英語版など幅広い作品に出演し、最晩年まで現役を貫いたが、90歳の誕生日まであと1カ月強という8月12日(現地時間)、ニューヨークの自宅で脳卒中のため亡くなった。

クールな悪女というのはスクリーン上で作り上げられたイメージで、特に恋愛に関して、素顔のローレンは無防備すぎるほど自分に正直に生きてきた。そんな自身について率直に綴った自伝は「私一人」(79)、「いまの私」(95)、「私一人」に新たなエピソードを加えた「By Myself and Then Some」(原題)の3冊がある。細部までしっかりと記憶し、美化せず赤裸々に語り尽くす姿勢は簡単には真似できないが、女性として見習いたい潔さだ。

Yuki Tominaga