後白河法皇は『鎌倉殿の13人』が描くような「日本一の大天狗」だったのか

スクラップは会員限定です

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

怒りは近臣に向けられた?

九条兼実(『肖像集』国立国会図書館蔵)
九条兼実(『肖像集』国立国会図書館蔵)

 頼朝の罵倒の言葉は、ほぼそのまま返書として京に届けられた。ドラマで田中直樹さんが演じた右大臣、九条兼実(1149~1207)の日記『 玉葉(ぎょくよう) 』(文治元年11月26日条)にもほぼ同様の記述があるから、頼朝が「大天狗」と言ったのは事実だろう。だが、返書をよく読むと、頼朝は大天狗は「法皇だ」とは言っていない。「なぜよく院の意向を確認せず院宣を出したのか」という言葉もある。素直に読むと、頼朝の怒りは法皇ではなく、泰経ら院の近臣に向けられている。

 しかも、頼朝を怒らせた弁明書は法皇の了解なく泰経が出した私信で、返書の宛名も泰経だ。歴史学者の遠城悦子さんら少なからぬ歴史学者は、頼朝が「大天狗」と呼んだのは法皇ではなく、泰経だとみている。

 これに対して立命館大学教授の 美川圭(みかわけい) さんは著書『院政』のなかで「おもに法皇と鎌倉の頼朝との連絡役をつとめている院近臣ごときを、頼朝が『大天狗』などと呼ぶはずがない」と、「大天狗=法皇」の従来説を支持している。返書が法皇宛てでなくても、これだけ怒りを示せば泰経は震えあがって法皇に見せる――頼朝はそう読んで、法皇を 恫喝(どうかつ)牽制(けんせい) したというわけだ。実際に返書は院の御所に持参され、兼実は返書を見せられて、法皇から対応策を考えよと命じられている。

強硬手段とるつもりなかった

 もし、通説通り頼朝が法皇を「大天狗」と呼んだなら、頼朝は法皇を「専制君主として権謀術数を (ろう) するマキャベリスト」として警戒し、「私は法皇の手のひらで踊りませんよ」と先制攻撃したことになる。ドラマでは坂東彌十郎さんが演じる北条時政(1138~1215)が上洛し、法皇に脅しをきかせて「義経の探索のため」という名目で全国に地頭を置くなどの権限を認めさせている(文治の勅許)。

 だが、頼朝の罵倒はあくまで駆け引きの一環で、頼朝は院政の停止などの強硬手段をとる気はなかった。上洛前から盛大に贈り物を献上し、建久元年(1190年)の上洛時に頼朝は法皇と8度もひざを突き合わせて会談している。娘の大姫(1178~97)を後鳥羽天皇(1180~1239)の (きさき)入内(じゅだい) させようとしたのも、頼朝との連携強化策にほかならない。

1

2

3

スクラップは会員限定です

使い方
「Webコラム」の最新記事一覧
記事に関する報告
3065614 0 今につながる日本史 2022/06/08 15:00:00 2022/12/15 12:18:38 https://www.yomiuri.co.jp/media/2022/06/20220606-OYT8I50050-T.jpg?type=thumbnail

主要ニュース

セレクション

読売新聞購読申し込みキャンペーン

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)