Bravo! オペラ & クラシック音楽

オペラとクラシック音楽に関する肩の凝らない芸術的な鑑賞の記録

10/2(火)東京フィル/レクチャー&コンサート/荒井英治&須田祥子によるリゲティの講習会

2012年10月04日 23時31分39秒 | クラシックコンサート
東京フィルハーモニー交響楽団レクチャー&コンサートシリーズ
「コンサートマスターと主席ヴィオラ奏者が語り弾くリゲティの芸術」


2012年10月2日(火)19:00~ 朝日カルチャーセンター74教室 受講料 3,990円
講 師: 荒井英治(東京フィルハーモニー交響楽団ソロ・コンサートマスター)
ゲスト: 須田祥子(東京フィルハーモニー交響楽団主席ヴィオラ奏者)
【演奏曲目】
リゲティ: 2つのヴァイオリンのための2つの楽章(荒井・須田)
リゲティ: 無伴奏ヴィオラ・ソナタ から 第1楽章・第6楽章(須田)

 今日は全く違う世界、いわゆるカルチャーセンターの教養講座に、少し勉強をしようと思って出かけた。とはいっても内容はもちろん音楽に関すること。要するに、どこかのコンサート会場でチラシをもらったのがきっかけである。
 様々な分野のカルチャー講座を幅広く開催している朝日カルチャーセンターが、東京フィルハーモニー交響楽団と提携して、3回の「レクチャー&コンサート」シリーズを行う。つまり、この秋、東京フィルが行う定期シリーズの中から、3つのコンサートに関しての事前の勉強会、といった位置づけの内容になっている。今日はその第2日目で、半月後の2012年10月18日に東京オペラシティコンサートホールで開催される「東京フィル/オペラシティ定期シリーズ」(オール・リゲティ・プログラム)の予習を兼ねて、ハンガリー出身の現代音楽の大作曲家、ジェルジュ・リゲティ(Ligeti György Sándor、1923~2006)に関する理解を深めようとする主旨である。

 講師の荒井英治さんはご存じの通り東京フィルのソロ・コンサートマスター。オペラシティ定期シリーズでは、2列目の席の私の目の前でいつも演奏されている。また、ゲストの須田祥子さんは東京フィルのヴィオラの主席奏者。従って大抵のコンサートでは荒井さんの真向かいで演奏されているので、私の席からもいつもよく見える。上半身を大きく動かしてパートの奏者たちを牽引していく姿が印象的で存在感抜群。ソロの時の豊潤な音色も素敵だ。


ヴィオラの須田祥子さんと東京フィル・コンサートマスターの荒井英治さん

 荒井さんによる講習会が始まる。以下は講習内容のおさらいである。
 まず、シューベルトの交響曲「未完成」の冒頭の部分を流し、主題部に含まれる悲しさや屈折した深層心理の表出が見られることを指摘。美しい音楽に内在している、この人間心理の「暗闇」が、リゲティの音楽につながるものがあるという。リゲティは知性と感性が非常に豊かな作曲家であり、現代音楽とはいっても、音の現象面だけに留まらない、人間の深層心理を描き出していて、「怖い音楽」に感じるという。

 リゲティは、厳密にはトランシルヴァニアの生まれ。ハンガリーとルーマニアの国境付近であり、歴史的には両国の領土を巡る争いが絶えず国境が定まらない地域であり、20世紀に入っても、第二次世界大戦まではナチス・ドイツの支配下となり、戦後はソ連・東欧圏に組み込まれて、つねに自由と独立を奪われ続けてきた。リゲティ自身もユダヤ系ということでの迫害を受け、父と弟をナチスに殺されている。戦後はソ連の支配下におけるブダペストで音楽を学び、バルトークやコダーイの影響を受けていく。芸術活動においてもスターリン主義による迫害を受け、ハンガリー動乱(1956)の直後にウィーンに亡命、後にケルンに移り、シュトックハウゼンたちとの交流により現代音楽に傾倒していくのである。

 リゲティの音楽の根幹部分に、幼少期に親しんだトランシルヴァニア地方の民族音楽やカルパティア山脈の山中で聴いたアルペン・ホルンなどがある。アルペン・ホルンは、現代のようにバルブのあるホルンとは違う完全なナチュラル・ホルンであり、音程が現代の平均律(十二平均律)とはかなり違っている。第5・7・11倍音が低くなるのだそうだ。現代の感覚でふつうに聴くと、調子が外れているように聞こえるという。民族に伝わる音階で表現される音楽、あるいは平均律ではない音楽が、リゲティのひとつの特徴になっていく。作品としては、「ハンブルグ協奏曲(ホルン協奏曲)」「ホルン三重奏」などがある。

【演奏】「2つのヴァイオリンのための2つの楽章」(1951)
 題名の通り2つのヴァイオリン用に書かれている曲を、今日はヴァイオリンとヴィオラで演奏された。従って一部ヴィオラ用に編曲している。別名「バラードとダンス」。前半がバラードで怪しい音程で2台のヴァイオリンが不協和な音を奏で、後半のダンスは民族的な舞曲風でとてもノリの良い曲だ。荒井さんと須田さんの息はピッタリ(?)で、かなりややこしい音楽を見事に演奏していたのは、お二人のトップクラスの技巧のなせる技だろう。実はこの曲、1度聴いたことがある。2010年7月、新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で、ゲスト・ソリストのパトリツィア・コパチンスカヤさんがリゲティのヴァイオリン協奏曲を演奏した後のアンコールで、コンサートマスターの西江辰郎さんとの共演であった
 この曲が後にオーケストラ用に4楽章構成に編曲されたものが「ルーマニア協奏曲」であり、10月18日の東京フィルのコンサートで演奏される予定。これは楽しみだ。


 「ルーマニア協奏曲」はある意味習作であり、スターリン主義下の限られた条件の中で、新しい試みも含まれているが、リゲティ自身はもっと進歩的な音楽を作りたかった。そしてウィーン辺りから伝わってくる少ない情報を捉えながら現代音楽への傾倒の中で、新しい実験的な音楽を生み出すようになる。
 ここで紹介されたのは「ムジカ・リチェルカータ」(1953)。荒井さんがサワリの部分をピアノで弾いてくれた。これは11曲からなるピアノの組曲で、第1曲は「ラ」の音のみで構成されていて、最後の1音だけが違う音階の音が出てくる。第2曲は2つの音階のみで出来ていて、最後に3つ目の音階の音が出てくる…という調子で、第11曲で12音階が出揃うことになる。妙に理論的な構造の音楽なのだが、意外にも豊かな表現がなされた面白い曲だ。

 ハンガリー動乱(1956)がソ連によって鎮圧されたことを契機に、リゲティはウィーンに亡命、西側の世界で、自由な作曲活動に入る。ケルンでのシュトックハウゼンとの出逢いから、電子音楽にも取り組む。東京フィルのコンサートでも演奏される「アトモスフェール」(1961)は、CDなどで聴くと、オーケストラとは思えないほど異質な音楽。電子音楽をオーケストラ用に編曲したような感じで、えもいわれぬ不思議な「雰囲気」を持った曲である。これをナマ演奏で聴けるというのもワクワクするほど楽しみだ。他にも無伴奏合唱曲「永遠の光(ルクス・エテルナ)」と声楽(ソプラノ、メゾ・ソプラノ)と合唱を伴う「レクイエム」(1965)が演奏される予定だ。

 ここから、話はスタンリー・キューブリックの名作映画「2001年宇宙の旅」(1968)に移る。荒井さんはキューブリック作品が大好きで全部DVDを持っているとおっしゃっていたが、私はといえば、いかに傑作とはいえ、この映画は昔観ただけなので詳細な記憶は曖昧である。要は、この映画の音楽に、リゲティの「アトモスフェール」「永遠の光」「レクイエム」の3曲が使われているのである。「2001年宇宙の旅」の映画音楽と言えば、R.シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭部分があまりにも有名だが、現代音楽のリゲティは、ある意味では効果音的な使われ方もしている。その一部がスクリーンに映し出された映像と共に紹介された。異次元空間へ突入していくシーンでの「アトモスフェール」のきしみ音のような不協和音が面白い効果を出している。二人の天才が生み出した映像と音楽の融合による芸術表現だといえる。これを機会に、10月18日のコンサートまでの間に、「2001年宇宙の旅」をもう一度観ておこうと思った。
 映像と音楽による芸術表現のもう一つの事例として紹介されたのは、美大生の荒井桃子さん(荒井さんのお嬢さん)の制作による映像作品「目 対 点」。リゲティの「弦楽四重奏曲第2番」(1968)が使用されている。内容は、台所にゴキブリがいて……(以下、省略)。リゲティの音楽は、確かに他分野の芸術にも影響を及ぼす(ヒラメキを引き出すような)不思議な力を持っているようだ。

 リゲティはその後も様々な実験的な音楽を創造していくことになる。有名なところではヴァイオリン協奏曲(1992)などがある。難解で超絶技巧的な独奏ヴァイオリンだけでなく、オーケストラも各パートが複雑怪奇に、しかも極めて論理的に構成されていている。ヴァイオリンやヴィオラにはスコルダトゥーラ(変則的な調弦)の奏者が含まれてていて、不思議な響きを生み出している。

【演奏】「無伴奏ヴィオラ・ソナタ」から 第1楽章・第6楽章
 もちろん須田さんのソロでの演奏。第1楽章「Hora Lunga」はゆったりしたテンポの曲で、調べてみたらルーマニアのフォークソングというような意味らしい。曲が始まるとすぐに居心地が悪くなってくる。これが平均律からはずれた民族的な音階によるもの。かなり音程が悪く聞こえ、知らない人が聴くと下手くそに聞こえるのだ。後で楽譜を見せていただいたら、ところどころの音符の横に下向きの3種類の矢印が印刷されていて、それぞれ四分音、六分音、八分音のフラット系の微分音を表している。つまり平均律の音階よりも1/4から1/8程度低い音階が混ざっているので、平均律に慣れてしまっている私たちが聴くと、音程がかなり不安定に聞こえてしまうのである。第6楽章「Chaconne chromatique」は半音階のシャコンヌという意味で、半音階の下降旋律が様々なヴァリエーションとなって登場する。やはり通常は使われないような論理的な構造の音楽になっている。豊潤で美しい須田さんのヴィオラの音が、今日はかなり調子がはずれて聞こえるのが妙に艶めかしく、夢幻的な浮遊感が漂っていて、不思議な感覚であった。


 リゲティの生きてきたハンガリー時代は、22歳までがナチス・ドイツの支配による迫害にあい、その後の約10年がソ連の支配、スターリン主義の圧政により自由な活動を奪われていた。自由と新しい音楽を求めて西側に亡命してからは、電子音楽を初めとする実験的な音楽から、民族的な音階を理論的に再構築することなどを含めて、現代音楽の巨人となっていく。荒井さんによれば、リゲティは「戦う作曲家」だという。自由を得てからは新しい音楽への挑戦を続けたという意味も含まれているのだろう。そして多くの曲が、終わり方に特徴があり、どこか「完結しない」で、課題を残すようなエンディングであるという。確かに、今日聴かせていただいた2曲もそんな感じであるし、ヴァイオリン協奏曲も、そんな要素がある。完結しない=次への挑戦、ということは、生き方そのものだったのかもしれない。

 知ってはいてもなかなか聴く機会の持てない大作曲家リゲティ。今日の講座でかなり身近になったような気がする。東京フィルのオペラシティ定期シリーズの年間プログラムが発表されたときから、10月18日のオール・リゲティ・プログラムに注目していた。だからこそ今日の講座を知った時に迷わず参加することを決めたくらいだ。現代音楽だけのプログラムにどっぷり浸かるのはどんな気分になるのだろうか、眠くなるのか、眠れなくなるのか、未体験ゾーンなだけに、ワクワクする。この講座を聴いて、期待値が一段と高まったようだ。現代音楽に苦手意識を持っている方も、この滅多にない機会に、ぜひともコンサートでリゲティのナマ演奏を聴くことをお勧めしたい。

 初めて参加した朝日カルチャーセンターの「レクチャー&コンサートシリーズ」であったが、とても有意義な90分であった。演奏自体は少なかったが、これはいわば講座内での実演というべき位置づけだから、仕方のないことだ。荒井さんによる作曲家リゲティと楽曲の解説は、それでも時間が全然足らないくらいだ。もっと沢山聴きたかったし、事例なども聴きながら勉強したかった。時々コンサート前にプレ・トークと称して聴き所や楽曲の解説などを行うことがあるが、せいぜい15分くらいだし、突っ込んだ内容にはならないことが多い。ところが今日は、1回のコンサートのために90分に及ぶ事前勉強会ということだったので、とても充実した内容であった。
 私たち素人音楽ファンは、音楽理論を学んだり、プロの高度な演奏技術について学ぶこともなく、自分の勝手な好みを振り回して、今日の演奏は良かっただのダメだったのと、図々しく喚いているだけ。せいぜい勉強するといっても音楽自体に深入りすることは難しいから、作曲家の生い立ちや作品が出来上がる頃の時代背景などを文字情報として学習して、自慢げに蘊蓄を語っているくらいである。しかし今日の講座のように、歴史的な背景を学ぶだけではなく、第一線で活躍中の演奏家による実演を伴ったアナリーゼは、純粋に音楽そのものの深みを知ることにつながる。自分の好みで、好きだ嫌いだというのではなくて、なぜ好きなのかなぜ嫌いなのかを考えることによって、理解が深まっていくのである。今日は、そんな音楽の深みの一端を垣間見ることができたと思う。とても素晴らしい一夜であった。
 講座修了後、散会していく間に、あこがれの須田さんとお話しすることもでき、とても嬉しかった。音楽家の皆さんは、音楽の話をしている時、目がキラキラと輝き、知性と情熱が溢れている。そんな須田さんと荒井さんにBravi!!

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