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アラサーからの学び直し【古文への情熱】

ときどき私に起こる発作の一つ、「やっぱりちゃんと古文を読めるようになりたい」という気持ちの湧き起こりが、この頃とても強いです。

というわけで、実は最近ちょっと勉強頑張ってますねん(だからnoteの更新が落ちてますねん)、という話をば。

発作の原因は私の学生時代にあります。
当時、私は江戸時代を対象に研究していました。が、その実あまり古文が得意ではありません。とはいえ、卒論はともかく修論を書くにあたっては、一次文献(現代語訳ではなく、本人が書いたままの文章)を読まないという選択肢はありません。古文が苦手なりになんとかなったのは、先行研究のおかげです。現代の賢き先人たちの残した書物によって、大意を把握できましたから…!

まあ私はその程度の読解力なんですね。でもなんだかそれが悔しくて。この頃は以前より余裕もできてきたので、古文の学び直しを思うにとどまらず、実際に行動に移すことにしました。

たまたまネットで、「この本やったら実力ついた」という旨の投稿を見かけて調べてみたら、筆者がちゃんとした人だったので購入してみました。Amazonでポチった時は、高校とかで解いた薄くてコンパクトなテキストを想像していたのですが……

その本の版元は「ちくま学芸文庫」なので、薄いテキストなわけがないのです。じゃあせいぜい300ページくらいの文庫本なのかな?と思った方もいるかもしれません。でも……

届いたその本、なんと約800ページ。想定外の厚さをした本でした_:(´ཀ`」 ∠):_ …

文庫本でこれは分厚いって…!


演習問題が大量に載っているので、何年ぶりかにキャンパスノートを引っ張り出して、チマチマ解いています。まだ43/160問ですが、着実に進んでいると言って良いのでは?!

ところで、現代語訳の演習のたびに「自分センスないんだよなぁ」の思いが浮かんできます。回答例のこなれた日本語に、舌を巻くことばかり。もしかして機械的に直訳してしまっているのがいけないのかしら?それならばと意訳にトライしても、見当違いであることも多々。

ときに「そんなのわかるかー!」と文句を垂れながら、だけど古文の日本語の響きは好きなんだよなぁと思い直して、少しずつ取り組んでいます。

ちなみに買ったのはこの本です↓



ところで、古文を勉強し直して何を読むの?って話ですが、とりあえずは、なじみのある江戸時代の著作物を中心に読みたいと思っています。それともうひとつ、克服できたら嬉しいな〜と思っているものがあるんです。

━━それは、王朝文学

私が尊敬する人物のひとり・本居宣長は、『源氏物語』を愛した人でした。彼は「もののあはれ」を重視していて、「もののあはれを知る心」を磨くには、和歌を読んだり物語を読んだりすることが大事なんだと言っています。それにもってこいの物語こそ、『源氏物語』でありました。(※註を一番最後につけています。)

じゃあ読んでみるしかないね!と思ったは良いのですが、古文が苦手な私は、平安時代の古文が本当に読めなくてですね。まずは現代語訳からはじめようということで、国文学専門の友人に、現代語訳の良本はないものかと尋ねて購入したのが、谷崎潤一郎訳のもの。全11冊をオトナ買い。なんと挿絵と題字が安田靫彦ゆきひこという贅沢本です。

ところがそのボリュームにひるんでしまい、やっぱりその前にマンガで予習しようと『あさきゆめみし』をこれまたオトナ買いして読みました。

BOX版を買いました。オトナ買いしたときのやったった感っていいですよね。


その結果、気づいてしまいました。自分は王朝文学向きではないかも、と……

本当に野暮なことだと自分でもわかっているんですが、同時代の一般庶民なんて餓えや病で生きるか死ぬかの日々だったはずなのに、その一方で貴族様はずっと良い暮らしをしておきながら、恋焦がれて苦しくて死んでしまいそうだ…!なんて言っているけれど、ほとんど自分でまいた種やないかい!貴族のみなさんよ、軽々しく恋わずらいで死にそうだなんて言ったらアカンよ?庶民に失礼よ?という雑念が邪魔をしてしまうのです。

『源氏物語』に庶民の生活なんて引き合いに出すものでないことは重々承知なのに、なぜかイライラしてしまうんですね。さては私、前世は飢饉か疫病の流行で野垂れ死んだ平安庶民だったんでしょうか?(笑)

というわけで、谷崎源氏は見事に積読になっております。いつか…きっと読むはず…たぶん……

こちら積読の谷崎源氏。一巻以外は袋から出してすらいない……

その後私は、江戸の滑稽本の方が向いているのではないかと思い、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に浮気。これは註がたくさんついていたので、それを頼りに原文で読み切りました。やっぱり私は江戸時代が向いているのかも。そう思って調子に乗って手を出した『五輪書』で見事に挫折するんですけどね!
…とまぁ、ここまでが3年くらい前までの話です。しばらく仕事が忙しくて古文を読む余裕もなく、脳がさびついてしまいました。

先ほどの古文の学び直しで取り組んでいるテキストは、基本的に平安〜鎌倉の文章が多いので、題材にもウンウン唸っているところです。でもこれで王朝文学アレルギーが治ったら、一石二鳥ですよね!


学習の経過を綴れる日が来るのかは未知数ですが、ゆったりがんばります。



副題は、シュリーマン(41才から考古学を猛勉強した末にトロイア遺跡等の発掘に成功した人物で、語学も15か国語を操るほど堪能だったとされる)の『古代への情熱』をオマージュしたものです。まだまだ彼の足元にも及んでいませんが、目指せシュリーマン!ということでこんな副題にしてみました。

(註)
本居宣長の「もののあはれ」論は、『源氏物語玉の小櫛』および『石上私淑言いそのかみのささめごと』の二著に詳しく述べられています。そのうち、前者が『源氏物語』について書かれたもの。(『石上私淑言』は和歌論)
以下は『源氏物語玉の小櫛』の元となった『紫文要領』という著作ですが、引用にあるとおり、「此の物語五十四帖(=『源氏物語』)」は「物の哀れをしるという一言につき」ると宣長は論じています。

大よそ此の物語五十四帖は、物の哀れをしるといふ一言につきぬべし。その物の哀れといふ事の味は、右にも段々いふごとく也。猶くはしくいはゞ、世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるゝにつけて、其のよろづの事を心にあぢはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへ知る、是れ事の心を知る也、物の心を知る也、物の哀れを知るなり。

本居宣長著、子安宣邦校注『紫文要領』岩波書店、2010年、95-96頁


◆参考サイト
https://www.y-history.net/appendix/wh0102-007.html

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